「――本当に、いいのかな」
放課後の昇降口でスニーカーに履き替えながら、私は何度目か分からないくらい胸の中で呟いた。
今日の羽瀬くんの部活は、ミーティングだけで早く終わる。
『放課後、あの場所な。内緒で茶トラに会いに行こ』
昼休みの終わり、すれ違いざまにそう言われてから、ずっと心臓が落ち着かない。
男子と二人きりでどこかへ行くなんて、初めてだった。
昇降口を出ると、私は数歩先を歩く羽瀬くんの背中を追いかけた。
「白石さん、足元気をつけて。ここ、ちょっと歩きにくいから」
振り返った羽瀬くんに案内され、体育館の手前にある古い備品倉庫へ向かう。
倉庫と生垣の間を抜けると、そこには西日の差し込む小さな空間があった。
「あ、いた……っ」
古いパレットの隙間から、ぽてっとした茶トラが顔を出す。
いつも三階の窓から眺めていたその子が、今日はすぐ目の前にいる。
「な? 言った通り、ここなら近くで見られるだろ」
羽瀬くんが嬉しそうにしゃがみ、私もその隣へ腰を落とした。
「……可愛い。窓から見てるより、ずっとちっちゃいんだね」
「だろ? 白石さん、手出してみ」
「え……触っても、怒らないかな……?」
「大丈夫。俺、こいつとマブダチだから」
「マブダチ……?」
思わず笑った、そのとき。
羽瀬くんが私の右手首をそっと包み、そのまま茶トラの頭へ導いた。
「……っ」
直接触れた手のひらの熱に、心臓が跳ねる。
そっと指先で触れると、茶トラの毛はぽかぽかと温かく、柔らかかった。
「にゃー」
「あ……鳴いた」
「白石さんのこと、気に入ったみたいだな」
羽瀬くんの手が離れても、触れられていた手首にはまだ熱が残っているような気がした。
茶トラは気持ちよさそうに私の指へ頭を擦りつけると、前足で顔を洗い始める。
「あ、それ……」
「ん? ああ、これな」
羽瀬くんも茶トラに合わせるように、お腹の前で手首を小さく二回回した。
──ぐる、ぐる。
「授業中に決めた、招き猫の手。やっぱ似てるだろ?」
「……ふふっ。本当に真似してる」
「だろ?」
得意そうに笑う羽瀬くんを見て、私まで嬉しくなる。
学校ではいつもみんなの中心にいる人が、今は私の隣で茶トラの真似をして笑っている。
そんな時間が、なんだかとても不思議だった。
「でも、びっくりしちゃった。羽瀬くん、本当にこの子のことよく見てるんだね」
そう言うと、茶トラを撫でていた羽瀬くんが、ふっと私へ顔を向けた。
「俺が見てたのは、茶トラだけじゃないよ」
「え……?」
「白石さんがさ、いつも窓の外をすっごく優しい顔で見てるから。だから俺も、気になってそっち見るようになったんだ」
心臓が、大きく跳ねた。
私が羽瀬くんを見ていたように。
羽瀬くんも、私を見ていた――?
「わ、私……変な顔して見てた、かな。猫、可愛いなぁって思って、ついぼーっと……」
恥ずかしくなって俯くと、羽瀬くんが笑った。
「変な顔なわけないじゃん。むしろ、なんかいいなぁって思ってた。あ、白石さんってこういう顔で笑うんだって。教室にいるとき、いつも緊張した顔してるからさ」
「それは……男子と話すの、あんまり慣れてないから……」
「知ってる。俺が席替えのとき『よろしく』って言っただけで、ロボットみたいにガチガチになってたもんな」
「そ、そんなに……?」
「なってたなってた」
からかわれているのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、そんなところまで覚えていてくれたことが嬉しかった。
羽瀬くんは茶トラの背中を優しく撫でながら、少しだけ声を落とした。
「俺さ、みんなでワイワイ騒ぐのも好きだけど……」
一度言葉を止めて、私を見る。
「こうやって、白石さんと二人で静かに過ごす時間、すげー落ち着く。……っていうか、誰にも邪魔されたくない、なんてね」
「……え?」
誰にも、邪魔されたくない。
その言葉が胸の奥へ落ちた途端、心臓が痛いくらいに鳴った。
嬉しい。
でも、嬉しいと思えば思うほど、怖くなる。
こんなふうに特別な言葉をもらうたび、ただの「隣の席の女の子」ではいられなくなってしまいそうで。
それでも胸の奥には、もっと素直で、少しだけわがままな気持ちが生まれていた。
(……私だって、邪魔されたくない)
羽瀬くんの笑顔も、優しい声も。
もう少しだけ、この場所では私だけに向けていてほしい。
そんなことを願ってしまう自分に戸惑いながら、私はカバンの紐をぎゅっと握った。
それでも、今度は胸の中だけにしまいたくなかった。
「……私も。羽瀬くんといるの、最初はすごく緊張したけど」
一度息を吸って、顔を上げる。
「今は、その……すごく、楽しいんです」
羽瀬くんが一瞬、驚いたように目を見開いた。
夕日に照らされた狭い隠れ家に、短い沈黙が落ちる。
「……そっか」
やがて羽瀬くんは照れくさそうに眉を下げた。
「俺も楽しい」
今度は「なんてね」と、はぐらかさなかった。
その笑顔を見た瞬間、私の心臓はまた大きく跳ねる。
すぐそばでは、そんな二人を知ってか知らずか、茶トラが気持ちよさそうに目を細めていた――。
放課後の昇降口でスニーカーに履き替えながら、私は何度目か分からないくらい胸の中で呟いた。
今日の羽瀬くんの部活は、ミーティングだけで早く終わる。
『放課後、あの場所な。内緒で茶トラに会いに行こ』
昼休みの終わり、すれ違いざまにそう言われてから、ずっと心臓が落ち着かない。
男子と二人きりでどこかへ行くなんて、初めてだった。
昇降口を出ると、私は数歩先を歩く羽瀬くんの背中を追いかけた。
「白石さん、足元気をつけて。ここ、ちょっと歩きにくいから」
振り返った羽瀬くんに案内され、体育館の手前にある古い備品倉庫へ向かう。
倉庫と生垣の間を抜けると、そこには西日の差し込む小さな空間があった。
「あ、いた……っ」
古いパレットの隙間から、ぽてっとした茶トラが顔を出す。
いつも三階の窓から眺めていたその子が、今日はすぐ目の前にいる。
「な? 言った通り、ここなら近くで見られるだろ」
羽瀬くんが嬉しそうにしゃがみ、私もその隣へ腰を落とした。
「……可愛い。窓から見てるより、ずっとちっちゃいんだね」
「だろ? 白石さん、手出してみ」
「え……触っても、怒らないかな……?」
「大丈夫。俺、こいつとマブダチだから」
「マブダチ……?」
思わず笑った、そのとき。
羽瀬くんが私の右手首をそっと包み、そのまま茶トラの頭へ導いた。
「……っ」
直接触れた手のひらの熱に、心臓が跳ねる。
そっと指先で触れると、茶トラの毛はぽかぽかと温かく、柔らかかった。
「にゃー」
「あ……鳴いた」
「白石さんのこと、気に入ったみたいだな」
羽瀬くんの手が離れても、触れられていた手首にはまだ熱が残っているような気がした。
茶トラは気持ちよさそうに私の指へ頭を擦りつけると、前足で顔を洗い始める。
「あ、それ……」
「ん? ああ、これな」
羽瀬くんも茶トラに合わせるように、お腹の前で手首を小さく二回回した。
──ぐる、ぐる。
「授業中に決めた、招き猫の手。やっぱ似てるだろ?」
「……ふふっ。本当に真似してる」
「だろ?」
得意そうに笑う羽瀬くんを見て、私まで嬉しくなる。
学校ではいつもみんなの中心にいる人が、今は私の隣で茶トラの真似をして笑っている。
そんな時間が、なんだかとても不思議だった。
「でも、びっくりしちゃった。羽瀬くん、本当にこの子のことよく見てるんだね」
そう言うと、茶トラを撫でていた羽瀬くんが、ふっと私へ顔を向けた。
「俺が見てたのは、茶トラだけじゃないよ」
「え……?」
「白石さんがさ、いつも窓の外をすっごく優しい顔で見てるから。だから俺も、気になってそっち見るようになったんだ」
心臓が、大きく跳ねた。
私が羽瀬くんを見ていたように。
羽瀬くんも、私を見ていた――?
「わ、私……変な顔して見てた、かな。猫、可愛いなぁって思って、ついぼーっと……」
恥ずかしくなって俯くと、羽瀬くんが笑った。
「変な顔なわけないじゃん。むしろ、なんかいいなぁって思ってた。あ、白石さんってこういう顔で笑うんだって。教室にいるとき、いつも緊張した顔してるからさ」
「それは……男子と話すの、あんまり慣れてないから……」
「知ってる。俺が席替えのとき『よろしく』って言っただけで、ロボットみたいにガチガチになってたもんな」
「そ、そんなに……?」
「なってたなってた」
からかわれているのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、そんなところまで覚えていてくれたことが嬉しかった。
羽瀬くんは茶トラの背中を優しく撫でながら、少しだけ声を落とした。
「俺さ、みんなでワイワイ騒ぐのも好きだけど……」
一度言葉を止めて、私を見る。
「こうやって、白石さんと二人で静かに過ごす時間、すげー落ち着く。……っていうか、誰にも邪魔されたくない、なんてね」
「……え?」
誰にも、邪魔されたくない。
その言葉が胸の奥へ落ちた途端、心臓が痛いくらいに鳴った。
嬉しい。
でも、嬉しいと思えば思うほど、怖くなる。
こんなふうに特別な言葉をもらうたび、ただの「隣の席の女の子」ではいられなくなってしまいそうで。
それでも胸の奥には、もっと素直で、少しだけわがままな気持ちが生まれていた。
(……私だって、邪魔されたくない)
羽瀬くんの笑顔も、優しい声も。
もう少しだけ、この場所では私だけに向けていてほしい。
そんなことを願ってしまう自分に戸惑いながら、私はカバンの紐をぎゅっと握った。
それでも、今度は胸の中だけにしまいたくなかった。
「……私も。羽瀬くんといるの、最初はすごく緊張したけど」
一度息を吸って、顔を上げる。
「今は、その……すごく、楽しいんです」
羽瀬くんが一瞬、驚いたように目を見開いた。
夕日に照らされた狭い隠れ家に、短い沈黙が落ちる。
「……そっか」
やがて羽瀬くんは照れくさそうに眉を下げた。
「俺も楽しい」
今度は「なんてね」と、はぐらかさなかった。
その笑顔を見た瞬間、私の心臓はまた大きく跳ねる。
すぐそばでは、そんな二人を知ってか知らずか、茶トラが気持ちよさそうに目を細めていた――。


