隣の席のキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~

事件が起きたのは、週明け月曜日の四時限目だった。

「よし、それじゃあ教科書の二十八ページを開いて……」

先生の声に、私はカバンの中を覗き込んだ。

(……ない。どうしよう、忘れてきちゃった……)

何度探しても、歴史の教科書が見つからない。

授業中に目立つことを想像しただけで、指先が冷たくなっていく。

そのとき、右肩をトントンと優しく叩かれた。

振り向くと、羽瀬くんが私の顔を覗き込んでいる。

私とカバンを見比べると、すぐに察したらしい。

ガタッ、と机を私の隣へ寄せ、自分の教科書を二人の真ん中に広げた。

『ほら、一緒に見よう』

声を出さず、口の形だけでそう伝えてくれる。

「あ……ありがとう、羽瀬くん。ごめんなさい……」

小声で謝ると、羽瀬くんは「いーって」と笑い、教科書の余白にシャープペンシルを走らせた。

『そんなに焦らなくて大丈夫。先生、今日は機嫌いいからさ』

その文字を見ただけで、張りつめていた心が少しずつほどけていく。

『本当にありがとう。すごく助かりました……』

『たまには俺も忘れるし、お互い様!』

先生が黒板へ板書している間、二人の筆談はこっそりと続いた。

やがて、新しい文字が書き加えられる。

『そういえば、休み時間に窓際で友達と話してるとき、よく外見てるよね』

「……っ」

心臓が跳ねた。

まさか、サッカーをしている羽瀬くんを見ていたことまで気づかれていたのだろうか。

私は少し迷ってから、小さく書く。

『うん。外の景色見て、息抜きしたり』

そこで手が止まった。

隣から待っているような視線を感じ、意を決して続きを書く。

『羽瀬くんがサッカーがんばってるの、見えるから……』

羽瀬くんは一瞬目を見開き、それから照れくさそうに耳の後ろをかいた。

やがて、楽しそうにシャープペンシルを走らせる。

『じゃあさ、次から目が合ったら合図でもしない?』

『合図……?』

『そう。周りのみんなには内緒の、自然にできそうなやつ』

そこまで書くと、羽瀬くんはシャープペンシルを持ったまま、ぴたりと手を止めた。

黒板のほうを見ながら、「うーん……」と声を出さずに考えている。

どんな合図なら、周りに気づかれずに二人だけで使えるんだろう。

ピースサインは目立ちそうだし、手を振ったらすぐに誰かに気づかれそう。指で小さく丸を作るとか……?

私までつられて考えていると、羽瀬くんがふいに「あ」と口を開いた。

『こないだ一緒に見た、あの茶トラの猫。あいつが毛繕いしてたときの手の動き、使えそうじゃね?』

(……招き猫の手……!)

羽瀬くんは前を向いたまま、先生にもクラスのみんなにも見えない机の下で、手首を優しく二回回してみせた。

──ぐる、ぐる。

あの日、二人で窓から眺めた茶トラ。

その思い出から、二人だけの合図が生まれようとしている。

『手首二回「ぐる、ぐる」。これなら誰も気づかないっしょ?』

胸が弾むのを感じながら、私は彼の文字の隣に返事を書いた。

『うん。いいよ。「ぐる、ぐる」ね』

それを読んだ羽瀬くんの口元が、嬉しそうに緩んだ。

『これで遠くで目が合っても大丈夫(笑)。白石さんがまた窓に隠れちゃっても、俺がこれしたら「怒ってないよ」って意味な』

(もう……)

少し恥ずかしくなりながら、私はふと席替えの日の約束を思い出した。

『でも、授業中に羽瀬くんが眠くなったときは、どうしたらいいですか?』

羽瀬くんが「あ」という顔をする。

少し考えてから、すぐに返事がきた。

『その時は、白石さんから俺に「ぐる、ぐる」して。そしたら、どんなに眠くても一発で目ぇ覚ますから』

思わず頬が緩んだ。

『わかりました。寝そうになったら、たくさんぐるぐるしますね』

羽瀬くんは肩を小さく震わせ、声を出さずに「よろしく」と笑った。

やがて、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

先生が教科書を閉じた途端、静かだった教室が一気に賑やかになった。

「羽瀬、売店行こーぜ!」

男子たちがこちらへやってくる。

羽瀬くんは教科書を自分の机へ戻すと、筆箱を片づけるふりをして私をちらりと見た。

そして誰にも見えないよう、お腹の前で手首を小さく二回──。

ぐる、ぐる。

「……っ」

さっき決めたばかりの、二人だけの合図。

私は驚いて羽瀬くんを見る。

彼は何事もなかったように立ち上がると、

「おう、売店行く!」

いつもの明るい笑顔で男子たちの輪へ入っていった。

その背中を見送りながら、私は熱くなった頬をそっと押さえる。

ほんの少し前まで、ただ隣の席に座っているだけだった十五センチ。

そこに筆談が生まれ、二人で茶トラを見つけて、今度は言葉がなくても伝わる秘密までできた。

机の下で交わした小さな「ぐる、ぐる」。

それがこれから、どんなときに二人を繋いでくれるのか。

このときの私は、まだ知らなかった──。