四時限目のチャイムが鳴り、先生が黒板の前に立つ。
けれど私の心臓は、さっきのグラウンドでの出来事を思い出して、まだ落ち着いてくれなかった。
(やっぱり、あのとき目が合ったの、偶然じゃないよね……?)
隣には、体育から戻ってきた羽瀬くんがいる。
顔を見たら、あの笑顔を思い出してしまいそうで、私は逃げるようにノートを開いた。
そのとき。
コトッ、と小さな音がする。
見ると、羽瀬くんの現国の教科書が、二人の間にある十五センチの境界線を越えて私の机へ滑ってきていた。
ページの端には、シャープペンシルで書かれた文字。
『白石さん、さっきのサッカー、三階から見ててくれた?』
「っ……」
心臓が跳ねる。
──やっぱり、偶然じゃなかった。
私はこっそりシャープペンシルを握り、その下へ小さく返事を書いた。
『うん。約束だったから……。すごく、格好いいシュートでした』
教科書を右へ押し戻す。
羽瀬くんはそれを読むと、片手で口元を隠しながら、嬉しそうに笑った。
すぐに教科書が戻ってくる。
『よかった(笑)。あいつらに「今日の俺は誰にも止めらんねーよ」って大口叩いたの、白石さんが見ててくれたからだし。絶対決めてやろうと思ってさ』
──私が、見ていたから。
グラウンドの真ん中で輝いていた羽瀬くんが、三階の窓にいた私のことを思ってくれていた。
それだけで、胸の奥がいっぱいになる。
少し迷ってから、私はもう一度シャープペンシルを走らせた。
『……これからも、羽瀬くんがサッカーがんばってるところ、ずっと見ててもいいですか?』
教科書を受け取った羽瀬くんの手が止まった。
文字をじっと見つめ、それからゆっくりと私を振り向く。
今度はグラウンドと三階の窓じゃない。
たった十五センチの距離で、二人の視線が重なった。
羽瀬くんは驚いたように私を見つめたあと、ふっと優しく目を細める。
そして声を出さず、口の形だけで伝えた。
『──うん。ずっと見てて』
「……っ」
声なんて聞こえていない。
なのに、その言葉だけは不思議なくらい、はっきり届いた。
私は熱くなった頬を隠すように前を向く。
黒板へ視線を戻しても、先生の声は全然頭に入ってこない。
──ずっと見てて。
頭の中で何度も繰り返していると、また教科書が十五センチの境界線を越えてきた。
『でも、白石さんが窓の陰にサッと隠れたの、ちょっとショックだったんだけど(笑)。俺、そんなに怖い顔してた?』
「っ……!」
(違うの……!)
私は慌てて返事を書く。
『怖くないです! 全然怖くないです。ただ……羽瀬くんの笑顔が、その、すごく眩しくて……びっくりして隠れちゃいました。ごめんなさい』
教科書を押し戻す。
羽瀬くんは文字を読んだ途端、ぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、片手で自分の顔を覆う。
袖口の向こうから見える耳が、みるみる赤くなっていった。
(……羽瀬くん、照れてる?)
いつもみんなの真ん中で笑っている羽瀬くんが、私の言葉で照れている。
それがなんだか嬉しくて、私の口元もそっと緩んだ。
しばらくすると、羽瀬くんは前を向いたまま、先生にもクラスのみんなにも見えない机の下で、右手を小さく握ってみせた。
まるで「完敗」とでも言うみたいに。
そして私をちらりと見て、悪戯っぽく笑う。
(……ふふっ)
授業中。
たった十五センチの境界線を行ったり来たりする、一冊の教科書。
その端に残った小さな文字は、誰にも知られない二人だけの秘密になっていく。
私は教科書の端に並んだ、二人の文字をそっと見つめた。
すると、さっき声もなく届いた言葉が、もう一度胸の奥に蘇る。
──うん。ずっと見てて。
遠くから見つめているだけだった人が、少しずつ近くなっていく。
その距離を確かめるように、私は教科書を十五センチ先の彼へ、そっと押し戻した──。
けれど私の心臓は、さっきのグラウンドでの出来事を思い出して、まだ落ち着いてくれなかった。
(やっぱり、あのとき目が合ったの、偶然じゃないよね……?)
隣には、体育から戻ってきた羽瀬くんがいる。
顔を見たら、あの笑顔を思い出してしまいそうで、私は逃げるようにノートを開いた。
そのとき。
コトッ、と小さな音がする。
見ると、羽瀬くんの現国の教科書が、二人の間にある十五センチの境界線を越えて私の机へ滑ってきていた。
ページの端には、シャープペンシルで書かれた文字。
『白石さん、さっきのサッカー、三階から見ててくれた?』
「っ……」
心臓が跳ねる。
──やっぱり、偶然じゃなかった。
私はこっそりシャープペンシルを握り、その下へ小さく返事を書いた。
『うん。約束だったから……。すごく、格好いいシュートでした』
教科書を右へ押し戻す。
羽瀬くんはそれを読むと、片手で口元を隠しながら、嬉しそうに笑った。
すぐに教科書が戻ってくる。
『よかった(笑)。あいつらに「今日の俺は誰にも止めらんねーよ」って大口叩いたの、白石さんが見ててくれたからだし。絶対決めてやろうと思ってさ』
──私が、見ていたから。
グラウンドの真ん中で輝いていた羽瀬くんが、三階の窓にいた私のことを思ってくれていた。
それだけで、胸の奥がいっぱいになる。
少し迷ってから、私はもう一度シャープペンシルを走らせた。
『……これからも、羽瀬くんがサッカーがんばってるところ、ずっと見ててもいいですか?』
教科書を受け取った羽瀬くんの手が止まった。
文字をじっと見つめ、それからゆっくりと私を振り向く。
今度はグラウンドと三階の窓じゃない。
たった十五センチの距離で、二人の視線が重なった。
羽瀬くんは驚いたように私を見つめたあと、ふっと優しく目を細める。
そして声を出さず、口の形だけで伝えた。
『──うん。ずっと見てて』
「……っ」
声なんて聞こえていない。
なのに、その言葉だけは不思議なくらい、はっきり届いた。
私は熱くなった頬を隠すように前を向く。
黒板へ視線を戻しても、先生の声は全然頭に入ってこない。
──ずっと見てて。
頭の中で何度も繰り返していると、また教科書が十五センチの境界線を越えてきた。
『でも、白石さんが窓の陰にサッと隠れたの、ちょっとショックだったんだけど(笑)。俺、そんなに怖い顔してた?』
「っ……!」
(違うの……!)
私は慌てて返事を書く。
『怖くないです! 全然怖くないです。ただ……羽瀬くんの笑顔が、その、すごく眩しくて……びっくりして隠れちゃいました。ごめんなさい』
教科書を押し戻す。
羽瀬くんは文字を読んだ途端、ぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、片手で自分の顔を覆う。
袖口の向こうから見える耳が、みるみる赤くなっていった。
(……羽瀬くん、照れてる?)
いつもみんなの真ん中で笑っている羽瀬くんが、私の言葉で照れている。
それがなんだか嬉しくて、私の口元もそっと緩んだ。
しばらくすると、羽瀬くんは前を向いたまま、先生にもクラスのみんなにも見えない机の下で、右手を小さく握ってみせた。
まるで「完敗」とでも言うみたいに。
そして私をちらりと見て、悪戯っぽく笑う。
(……ふふっ)
授業中。
たった十五センチの境界線を行ったり来たりする、一冊の教科書。
その端に残った小さな文字は、誰にも知られない二人だけの秘密になっていく。
私は教科書の端に並んだ、二人の文字をそっと見つめた。
すると、さっき声もなく届いた言葉が、もう一度胸の奥に蘇る。
──うん。ずっと見てて。
遠くから見つめているだけだった人が、少しずつ近くなっていく。
その距離を確かめるように、私は教科書を十五センチ先の彼へ、そっと押し戻した──。


