五人で出かけた日から、数日後。
蝉の声が朝から響き渡る、真夏の午後。
今日は、二年生の三者面談の日だった。
乃愛は母親と並んで、見慣れた校舎の廊下を歩いていた。
窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。
――琉生くんも、今頃部活かな。
ふとグラウンドへ目を向けてから、乃愛は母親と一緒に面談を行う教室へ向かった。
「こんにちは、白石さん。今日は暑いね」
「こんにちは……」
担任の先生に挨拶をして、母親と並んで席につく。
一学期の成績や学校生活について一通り話したあと、先生が手元の資料をめくった。
「じゃあ、次は少し進路の話をしようか」
「……進路」
その言葉に、乃愛の指先がぴくっと動いた。
「白石さんは、卒業したあとにやりたいことって、何か考えてる?」
「……」
すぐには答えられなかった。
大学、仕事、将来。
高校二年生の乃愛にとって、どれもまだ遠いもののように感じていた。
「……まだ、はっきりとは決まっていません」
正直に答えると、先生は優しく頷いた。
「うん。今すぐ決まってなくても大丈夫だよ。これからいろんな選択肢を知っていけばいいから」
「……はい」
「じゃあ、進路じゃなくてもいい。白石さんが好きなこととか、これからも続けてみたいことって何かある?」
「好きなこと……」
乃愛は少し考える。
そして、頭に浮かんだものをそのまま口にした。
「……ピアノ、かな」
考えるより先に、言葉がこぼれていた。
「小さい頃から、ずっと習っていて……今も好きです」
「そっか。じゃあ、音楽を専門的に学べる大学があるのは知ってる?」
「……音楽を?」
乃愛が顔を上げる。
「そう。ピアノを専門的に勉強できる大学もあるよ。演奏だけじゃなくて、音楽そのものについて学ぶ道もある」
「……そうなんですね」
知らなかった。
ピアノは、ずっと好きだった。
けれど、それを自分の未来と結びつけて考えたことは、一度もなかった。
「もちろん、今ここで決める必要はないよ。興味があるなら大学について調べたり、ピアノの先生やご家族と相談したりしながら考えていけばいい」
「……はい」
乃愛は先生から渡された資料に視線を落とした。
――音楽を、勉強する。
そんな未来も、あるんだ。
その言葉を心の中で繰り返したとき、幼い頃の記憶がふっと蘇った。
悲しいことがあった日。
ピアノの先生の隣に座り、鍵盤から流れてくる音を聴いていた。
優しい旋律に包まれていると、不思議と胸の奥にあった悲しさが少しずつ薄れていった。
あの時間が、乃愛は好きだった。
自分にとって当たり前にそばにあったピアノ。
それが将来へ続く道になるかもしれないなんて、今まで考えたこともなかった。
「白石さん?」
「……あ、ごめんなさい」
先生の声に、乃愛は顔を上げる。
それから、もう一度手元の資料を見た。
「……少し、考えてみます」
「うん。それでいいよ」
先生が笑顔で頷いた。
面談を終え、乃愛は母親と教室を出た。
廊下を歩きながら、母親が優しく尋ねる。
「音楽のこと、どう思った?」
「……まだ、よく分からない」
乃愛は少し考えてから続けた。
「でも……ピアノのこと、もう少しちゃんと考えてみたいな」
母親は穏やかに微笑んだ。
「そうね。焦らなくていいから、ゆっくり考えてみよう」
「……うん」
昇降口を出ると、真夏の陽射しが降り注いだ。
乃愛は眩しそうに目を細め、青空を見上げる。
まだ、自分が何になりたいのかは分からない。
音楽の道へ進むのかも、まだ分からない。
それでも今日初めて、自分の未来には、知らなかった選択肢があることを知った。
ふと、肩にかけたスクールバッグが揺れる。
そこには、イエローの小さなニコちゃんマーク。
二学期まで待ちきれず、乃愛はさっそくスクールバッグにつけていた。
同じ形の色違いを、結衣たち四人も持っている。
乃愛は足を止め、夏の光を受けて揺れる小さな笑顔に、そっと指先で触れた。
五人で笑いながら選んだ、小さな思い出。
その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥に、ほんの少しだけ勇気が湧いてくる。
まだ何も決まっていなくてもいい。
すぐに答えを出せなくてもいい。
――私も、少しずつ頑張ってみよう。
「私も……ちゃんと考えてみよう」
誰かの未来ではなく、自分の未来を。
まだ答えはない。
けれど、知らなかったその先を、少しだけ見てみたいと思えた。
夏の陽射しの下。
まだ名前もつかない小さな夢が、乃愛の胸の中に、そっと芽を出し始めていた――。
蝉の声が朝から響き渡る、真夏の午後。
今日は、二年生の三者面談の日だった。
乃愛は母親と並んで、見慣れた校舎の廊下を歩いていた。
窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。
――琉生くんも、今頃部活かな。
ふとグラウンドへ目を向けてから、乃愛は母親と一緒に面談を行う教室へ向かった。
「こんにちは、白石さん。今日は暑いね」
「こんにちは……」
担任の先生に挨拶をして、母親と並んで席につく。
一学期の成績や学校生活について一通り話したあと、先生が手元の資料をめくった。
「じゃあ、次は少し進路の話をしようか」
「……進路」
その言葉に、乃愛の指先がぴくっと動いた。
「白石さんは、卒業したあとにやりたいことって、何か考えてる?」
「……」
すぐには答えられなかった。
大学、仕事、将来。
高校二年生の乃愛にとって、どれもまだ遠いもののように感じていた。
「……まだ、はっきりとは決まっていません」
正直に答えると、先生は優しく頷いた。
「うん。今すぐ決まってなくても大丈夫だよ。これからいろんな選択肢を知っていけばいいから」
「……はい」
「じゃあ、進路じゃなくてもいい。白石さんが好きなこととか、これからも続けてみたいことって何かある?」
「好きなこと……」
乃愛は少し考える。
そして、頭に浮かんだものをそのまま口にした。
「……ピアノ、かな」
考えるより先に、言葉がこぼれていた。
「小さい頃から、ずっと習っていて……今も好きです」
「そっか。じゃあ、音楽を専門的に学べる大学があるのは知ってる?」
「……音楽を?」
乃愛が顔を上げる。
「そう。ピアノを専門的に勉強できる大学もあるよ。演奏だけじゃなくて、音楽そのものについて学ぶ道もある」
「……そうなんですね」
知らなかった。
ピアノは、ずっと好きだった。
けれど、それを自分の未来と結びつけて考えたことは、一度もなかった。
「もちろん、今ここで決める必要はないよ。興味があるなら大学について調べたり、ピアノの先生やご家族と相談したりしながら考えていけばいい」
「……はい」
乃愛は先生から渡された資料に視線を落とした。
――音楽を、勉強する。
そんな未来も、あるんだ。
その言葉を心の中で繰り返したとき、幼い頃の記憶がふっと蘇った。
悲しいことがあった日。
ピアノの先生の隣に座り、鍵盤から流れてくる音を聴いていた。
優しい旋律に包まれていると、不思議と胸の奥にあった悲しさが少しずつ薄れていった。
あの時間が、乃愛は好きだった。
自分にとって当たり前にそばにあったピアノ。
それが将来へ続く道になるかもしれないなんて、今まで考えたこともなかった。
「白石さん?」
「……あ、ごめんなさい」
先生の声に、乃愛は顔を上げる。
それから、もう一度手元の資料を見た。
「……少し、考えてみます」
「うん。それでいいよ」
先生が笑顔で頷いた。
面談を終え、乃愛は母親と教室を出た。
廊下を歩きながら、母親が優しく尋ねる。
「音楽のこと、どう思った?」
「……まだ、よく分からない」
乃愛は少し考えてから続けた。
「でも……ピアノのこと、もう少しちゃんと考えてみたいな」
母親は穏やかに微笑んだ。
「そうね。焦らなくていいから、ゆっくり考えてみよう」
「……うん」
昇降口を出ると、真夏の陽射しが降り注いだ。
乃愛は眩しそうに目を細め、青空を見上げる。
まだ、自分が何になりたいのかは分からない。
音楽の道へ進むのかも、まだ分からない。
それでも今日初めて、自分の未来には、知らなかった選択肢があることを知った。
ふと、肩にかけたスクールバッグが揺れる。
そこには、イエローの小さなニコちゃんマーク。
二学期まで待ちきれず、乃愛はさっそくスクールバッグにつけていた。
同じ形の色違いを、結衣たち四人も持っている。
乃愛は足を止め、夏の光を受けて揺れる小さな笑顔に、そっと指先で触れた。
五人で笑いながら選んだ、小さな思い出。
その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥に、ほんの少しだけ勇気が湧いてくる。
まだ何も決まっていなくてもいい。
すぐに答えを出せなくてもいい。
――私も、少しずつ頑張ってみよう。
「私も……ちゃんと考えてみよう」
誰かの未来ではなく、自分の未来を。
まだ答えはない。
けれど、知らなかったその先を、少しだけ見てみたいと思えた。
夏の陽射しの下。
まだ名前もつかない小さな夢が、乃愛の胸の中に、そっと芽を出し始めていた――。


