隣の席のキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~

数日後の夜。

地元の夏祭りは、浴衣姿の人たちで賑わっていた。

屋台から漂う甘い匂い。
遠くから聞こえる楽しそうな笑い声。

けれど、乃愛の耳にはどれも遠く感じられた。

あの日から数日。

琉生とは、一通のLINEも交わせないままでいた。

何度もトーク画面を開いては、閉じる。

『ごめんなさい』

たったそれだけの言葉さえ、送れなかった。

本当なら今日は、結衣やひまり、颯人、琉生と五人で夏祭りへ行く約束をしていた。

けれど図書室での出来事以来、琉生と顔を合わせることさえ怖くなっていた乃愛を見て、結衣とひまりは何も聞かず、今日は三人で行こうと言ってくれた。

二人に背中を押され、浴衣に袖を通したものの、心はずっと晴れないままだった。

それでも――。

夏休みに入ってから、琉生と交わしたLINE。

五人で花火大会へ行くことが決まったあと、琉生から届いたメッセージがあった。

『花火始まったら、あの河川敷の一本木のところ行かない?』

二人で花火を見よう。

そんな小さな約束。

(……一緒に、見たかったな)

喧嘩してしまった今でも、その気持ちは消えていなかった。

ぼんやり歩いているうちに、乃愛はいつの間にか結衣たちとはぐれてしまっていた。

二人を探さなければと思うのに、足は人混みから離れていく。

まるで心だけが覚えていたかのように、乃愛は河川敷へ向かっていた。

琉生と約束した、大きな一本木のある場所へ。

空を見上げると、いつの間にか厚い雲が夜空を覆っている。

「私……何やってるんだろう……」

琉生が来るはずなんてない。

連絡すらしていないのに。

それでも、足は止まらなかった。

そのとき――。

ポツン。

頬に冷たいものが落ちた。

「……雨?」

次の瞬間。

大粒の雨が一気に地面を叩き始めた。

「きゃっ……!」

乃愛は慌てて、すぐ近くまで来ていた一本木の下へ駆け込んだ。

けれど激しい雨風は木の葉の隙間を抜け、浴衣を少しずつ濡らしていく。

乃愛は木の幹に背中を預け、その場に小さくしゃがみ込んだ。

冷たい雨に打たれていると、胸の中に押し込めていたものまで溢れてくる。

(大好きなのに……)

困らせたいわけじゃなかった。

無理をさせたいわけでもない。

ただ――会いたかった。

それだけだったのに。

「……琉生くんに、会いたい……」

ようやく声にできた言葉は、激しい雨音に飲み込まれた。

そのときだった。

「――乃愛!」

「……っ」

雨音を突き破るように、自分の名前が聞こえた。

乃愛が顔を上げる。

雨で白く煙る土手の向こうから、ひとりの人影が駆けてくる。

「乃愛……っ!」

「……琉生、くん……?」

息を切らし、雨に濡れながら土手を駆け上がってきたのは、琉生だった。

足元の泥が跳ねても構わず、真っ直ぐ乃愛のところまで走ってくる。

「……よかった」

声にするよりも早く、琉生は乃愛のもとへ滑り込んだ。

そして、その勢いのまま冷えた乃愛の身体を強く抱きしめる。

「……琉生くん……」

「ごめん……!」

雨音に負けないように、琉生は声を張った。

「図書室のとき、俺……ちゃんと言えばよかった」

抱きしめる腕に、少しだけ力がこもる。

「俺も会いたかったんだよ……!」

乃愛の瞳が大きく揺れた。

「……え?」

「疲れてても、眠くても、乃愛に会えるなら会いたかった。図書室に行ったのだって、乃愛が言ったから仕方なくじゃない。俺が会いたかったから行ったんだ」

「……琉生くん」

「なのに俺、それをちゃんと言わなかった。いつもの合図をすれば伝わるって、勝手に思ってた」

琉生が少しだけ身体を離し、乃愛を見る。

「……ごめん」

乃愛は首を横に振った。

「私も……ごめんなさい。琉生くんが疲れてるの見たら、私が会いたいって言ったからだって思って……」

「違う」

琉生は迷わず否定した。

「乃愛が会いたいって言ってくれたの、俺、嬉しかったから」

「……っ」

その一言を、あの日ずっと聞きたかった。

乃愛の目から、また涙がこぼれる。

「私……会いたかった。ずっと、琉生くんに会いたかったよ……」

「うん」

「でも、また無理させるのが怖くて……」

「じゃあ、今度からちゃんと言おう」

「……え?」

「俺も、会いたいときはちゃんと会いたいって言う。だから乃愛も、一人で我慢すんなよ」

「……うん」

「合図だけじゃ足りないときは、ちゃんと言葉にする」

秘密の合図は、これからも二人だけの大切なもの。

言葉がなくても繋がれる、二人だけの魔法。

けれど、それだけでは届かない想いもある。

「……私も、ちゃんと言う」

乃愛が小さく頷くと、琉生もようやくほっとしたように笑った。

しばらくして、乃愛はふと一本木を見上げた。

「でも……どうして、ここが分かったの?」

「ああ……橘から連絡きたんだ」

「結衣から……?」

「乃愛とはぐれたって。雨も降ってきたのに連絡つかないって、めちゃくちゃ焦ってた」

「……っ」

結衣とひまり。

二人が今も自分を探していることに気づき、乃愛の胸がきゅっとなる。

「でも……結衣は、私がここにいるって……」

「ここは聞いてねぇよ」

「え……?」

琉生は二人を雨から守る大きな一本木を見上げた。

「俺が勝手に来た」

そして、もう一度乃愛を見る。

「……約束した場所だったから」

「……っ」

覚えていてくれた。

自分だけではなかった。

喧嘩して、連絡もできなくなって。

それでも琉生も、この場所で交わした約束を忘れていなかった。

乃愛の目から、またひとつ涙が落ちた。

そのとき――。

ズゥゥゥン……!