ジリジリと太陽が照りつける、夏休みの午後。
蝉の声が遠く響く校舎の図書室で、乃愛と琉生は並んで宿題のワークを開いていた。
ほかにいるのは、数人の生徒だけ。
久しぶりに会えた琉生は、一学期の終業式の日よりもずっと日焼けしていた。
毎日の練習に、遠征。
夏休みに入ってから、二人が交わせるのは短いLINEばかりだった。
それでも、終業式の日に琉生が見せた「あとで連絡する」のサインから始まったやり取りの中で、結衣やひまり、颯人も一緒に花火大会へ行く約束ができた。
楽しみな予定はできたけれど、その日まではまだ少し遠い。
だから乃愛は、ほんの少しでも琉生に会いたかった。
琉生も「俺も会いたい」と言ってくれて、ようやく今日の時間を作ることができた。
けれど――。
「……琉生くん?」
隣を見ると、琉生の手からシャーペンが止まっている。
カクン、と首が揺れた次の瞬間、琉生は数学のワークに突っ伏した。
すぐに聞こえてきたのは、規則正しい寝息。
「……寝ちゃった」
思わず小さく笑いかけて、乃愛の表情が曇る。
制服のシャツから覗く首筋も、机の上に置かれた腕も、真っ黒に日焼けしている。
こんなに疲れていたのに、来てくれたんだ。
そう思った途端、嬉しかったはずの気持ちに申し訳なさが混じった。
会いたいと言ったのは、自分だった。
琉生も会いたいと言ってくれた。
それでも、自分が言わなければ、今日はゆっくり休めたのではないだろうか。
やがて時計の針が、帰らなければならない時間を指した。
乃愛は少しためらってから、琉生の肩をそっと揺らす。
「……琉生くん。琉生くん」
「……ん」
琉生がハッと顔を上げた。
寝ぼけたままワークを見ると、ページの端に小さな跡がついている。
(……最悪。寝てた)
せっかく久しぶりに会えたのに。
格好悪いところを見せた恥ずかしさと、疲れの残る頭のせいで、口から出た声は思ったよりぶっきらぼうになった。
「あー……わり。寝てた。もうそんな時間?」
「う、うん……」
乃愛は膝の上で指を重ねた。
言おうか迷って、それでも小さく口を開く。
「……あのね、琉生くん。無理して来なくても、よかったんだよ……?」
「え?」
「すごく疲れてるから……」
その言葉に、琉生の胸が小さくざわついた。
無理なんてしていない。
疲れていても、乃愛に会いたかった。
だから来た。
けれど、その気持ちをうまく言葉にするより先に、焦った声が出てしまう。
「無理なんかしてねーよ。ただちょっと部活がきついだけ。……白石さんこそ、そんな顔すんなよ。せっかく会えたのにさ」
「……っ」
――白石さん。
図書室にいるほかの生徒を気にして、琉生が咄嗟に口にした呼び方。
分かっている。
学校では、まだ今まで通り。
琉生が怒っているわけでもない。
それでも今の乃愛には、その呼び方がいつもより少しだけ遠く感じられた。
(無理してないって言ってくれた。……でも、本当に?)
自分が会いたいと言ったから、こんなに疲れているのに来てくれたのではないだろうか。
そう考えるほど、胸の奥にあった寂しさまで膨らんでいく。
「……白石さん?」
俯いた乃愛に気づき、琉生は困ったように眉を下げた。
どうすれば安心させられるのか。
少し迷ってから、机の下へ右手を滑らせる。
二人にしか見えない場所で――。
ぐる、ぐる。
優しく二回、手首を回した。
いつもの、二人だけの秘密の合図。
「……っ」
いつもなら、それだけで嬉しかった。
言葉がなくても、琉生の気持ちが伝わってくるような気がした。
けれど――今だけは違った。
会いたかった。
声が聞きたかった。
琉生も自分と同じように会いたかったのだと、ちゃんと言葉で聞きたかった。
今の乃愛には、いつもの合図だけでは足りなかった。
気づけば乃愛は机の下へ両手を伸ばし、琉生の右手首をぎゅっと掴んでいた。
ぐるぐると回っていた手が止まる。
「……え?」
琉生が驚いて乃愛を見る。
乃愛は俯いたまま、震える声を絞り出した。
「……今は、そんなのいらない」
「白石さん……?」
「私が会いたいって言ったから、こんなに疲れてるのに来てくれたんでしょ……?」
「違う、俺は――」
「それなのに……いつもの合図だけで大丈夫って言われても、今は分からないよ……」
堪えていた涙が、頬を伝った。
琉生の表情が変わる。
「乃愛……っ」
周囲の視線を気にする余裕もなく、名前がこぼれた。
けれど、乃愛の胸に溜まっていた言葉はもう止められなかった。
「私が会いたいって言わなければ、琉生くん、今日は休めたのに……」
「違うって。俺だって――」
「……でも、こんなに無理させちゃうなら……私、もう会いたいなんて言えないよ……っ!」
「乃愛!」
乃愛は琉生の手首から手を離すと、椅子から立ち上がった。
周囲の生徒が驚いて振り返る。
それでも乃愛は涙を拭い、逃げるように図書室を飛び出していった。
その拍子に、筆箱の奥へ大切に忍ばせていたひまわり色の付箋が、机の上に残された。
終業式の日には、まだ何も書かれていなかった付箋。
花火大会の日に琉生へ渡して驚かせようと、こっそり言葉を綴っていたものだった。
けれど今の乃愛は、それを置き忘れたことにも気づいていなかった。
「……っ」
残された琉生は、一瞬動けなかった。
違う。
そうじゃない。
自分だって会いたかった。
疲れていても、眠くても、乃愛に会えるなら来たかった。
ただ、それを一言伝えればよかっただけなのに。
「俺……何やってんだよ」
こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
琉生は乃愛を追おうと、勢いよく立ち上がった。
そのとき――。
乃愛が座っていた机の上に、小さな色が残されていることに気づく。
「……これ」
ひまわり色の付箋。
そこには、乃愛の細い文字が綴られていた。
自分に向けて書かれたものだと、名前を見ればすぐに分かった。
何が書かれているのか確かめたい。
けれど、今はそれより――。
「……っ、乃愛!」
琉生は付箋を手に取り、図書室を飛び出した。
廊下を駆け、階段を飛ぶように下り、昇降口を抜ける。
けれど、校門まで辿り着いたとき――。
夏の陽炎の向こうに、乃愛の姿はもうなかった。
「……くそっ」
息を切らしながら、琉生は右手の中にある付箋を見る。
追いつけなかった。
今すぐ伝えたかった言葉も、まだ届けられていない。
琉生はしばらく迷った末、そっと付箋を開いた。
そこに並んだ文字を、一行ずつ目で追っていく。
そして――。
「……乃愛、お前……」
琉生の瞳が、大きく見開かれた。
さっきまであれほど近くにいたのに。
本当に伝えなければならなかった言葉を、自分は何ひとつ伝えられていなかった。
手の中には、花火大会の日に渡されるはずだった、ひまわり色の付箋。
蝉の声だけが、やけに遠く聞こえていた――。
蝉の声が遠く響く校舎の図書室で、乃愛と琉生は並んで宿題のワークを開いていた。
ほかにいるのは、数人の生徒だけ。
久しぶりに会えた琉生は、一学期の終業式の日よりもずっと日焼けしていた。
毎日の練習に、遠征。
夏休みに入ってから、二人が交わせるのは短いLINEばかりだった。
それでも、終業式の日に琉生が見せた「あとで連絡する」のサインから始まったやり取りの中で、結衣やひまり、颯人も一緒に花火大会へ行く約束ができた。
楽しみな予定はできたけれど、その日まではまだ少し遠い。
だから乃愛は、ほんの少しでも琉生に会いたかった。
琉生も「俺も会いたい」と言ってくれて、ようやく今日の時間を作ることができた。
けれど――。
「……琉生くん?」
隣を見ると、琉生の手からシャーペンが止まっている。
カクン、と首が揺れた次の瞬間、琉生は数学のワークに突っ伏した。
すぐに聞こえてきたのは、規則正しい寝息。
「……寝ちゃった」
思わず小さく笑いかけて、乃愛の表情が曇る。
制服のシャツから覗く首筋も、机の上に置かれた腕も、真っ黒に日焼けしている。
こんなに疲れていたのに、来てくれたんだ。
そう思った途端、嬉しかったはずの気持ちに申し訳なさが混じった。
会いたいと言ったのは、自分だった。
琉生も会いたいと言ってくれた。
それでも、自分が言わなければ、今日はゆっくり休めたのではないだろうか。
やがて時計の針が、帰らなければならない時間を指した。
乃愛は少しためらってから、琉生の肩をそっと揺らす。
「……琉生くん。琉生くん」
「……ん」
琉生がハッと顔を上げた。
寝ぼけたままワークを見ると、ページの端に小さな跡がついている。
(……最悪。寝てた)
せっかく久しぶりに会えたのに。
格好悪いところを見せた恥ずかしさと、疲れの残る頭のせいで、口から出た声は思ったよりぶっきらぼうになった。
「あー……わり。寝てた。もうそんな時間?」
「う、うん……」
乃愛は膝の上で指を重ねた。
言おうか迷って、それでも小さく口を開く。
「……あのね、琉生くん。無理して来なくても、よかったんだよ……?」
「え?」
「すごく疲れてるから……」
その言葉に、琉生の胸が小さくざわついた。
無理なんてしていない。
疲れていても、乃愛に会いたかった。
だから来た。
けれど、その気持ちをうまく言葉にするより先に、焦った声が出てしまう。
「無理なんかしてねーよ。ただちょっと部活がきついだけ。……白石さんこそ、そんな顔すんなよ。せっかく会えたのにさ」
「……っ」
――白石さん。
図書室にいるほかの生徒を気にして、琉生が咄嗟に口にした呼び方。
分かっている。
学校では、まだ今まで通り。
琉生が怒っているわけでもない。
それでも今の乃愛には、その呼び方がいつもより少しだけ遠く感じられた。
(無理してないって言ってくれた。……でも、本当に?)
自分が会いたいと言ったから、こんなに疲れているのに来てくれたのではないだろうか。
そう考えるほど、胸の奥にあった寂しさまで膨らんでいく。
「……白石さん?」
俯いた乃愛に気づき、琉生は困ったように眉を下げた。
どうすれば安心させられるのか。
少し迷ってから、机の下へ右手を滑らせる。
二人にしか見えない場所で――。
ぐる、ぐる。
優しく二回、手首を回した。
いつもの、二人だけの秘密の合図。
「……っ」
いつもなら、それだけで嬉しかった。
言葉がなくても、琉生の気持ちが伝わってくるような気がした。
けれど――今だけは違った。
会いたかった。
声が聞きたかった。
琉生も自分と同じように会いたかったのだと、ちゃんと言葉で聞きたかった。
今の乃愛には、いつもの合図だけでは足りなかった。
気づけば乃愛は机の下へ両手を伸ばし、琉生の右手首をぎゅっと掴んでいた。
ぐるぐると回っていた手が止まる。
「……え?」
琉生が驚いて乃愛を見る。
乃愛は俯いたまま、震える声を絞り出した。
「……今は、そんなのいらない」
「白石さん……?」
「私が会いたいって言ったから、こんなに疲れてるのに来てくれたんでしょ……?」
「違う、俺は――」
「それなのに……いつもの合図だけで大丈夫って言われても、今は分からないよ……」
堪えていた涙が、頬を伝った。
琉生の表情が変わる。
「乃愛……っ」
周囲の視線を気にする余裕もなく、名前がこぼれた。
けれど、乃愛の胸に溜まっていた言葉はもう止められなかった。
「私が会いたいって言わなければ、琉生くん、今日は休めたのに……」
「違うって。俺だって――」
「……でも、こんなに無理させちゃうなら……私、もう会いたいなんて言えないよ……っ!」
「乃愛!」
乃愛は琉生の手首から手を離すと、椅子から立ち上がった。
周囲の生徒が驚いて振り返る。
それでも乃愛は涙を拭い、逃げるように図書室を飛び出していった。
その拍子に、筆箱の奥へ大切に忍ばせていたひまわり色の付箋が、机の上に残された。
終業式の日には、まだ何も書かれていなかった付箋。
花火大会の日に琉生へ渡して驚かせようと、こっそり言葉を綴っていたものだった。
けれど今の乃愛は、それを置き忘れたことにも気づいていなかった。
「……っ」
残された琉生は、一瞬動けなかった。
違う。
そうじゃない。
自分だって会いたかった。
疲れていても、眠くても、乃愛に会えるなら来たかった。
ただ、それを一言伝えればよかっただけなのに。
「俺……何やってんだよ」
こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
琉生は乃愛を追おうと、勢いよく立ち上がった。
そのとき――。
乃愛が座っていた机の上に、小さな色が残されていることに気づく。
「……これ」
ひまわり色の付箋。
そこには、乃愛の細い文字が綴られていた。
自分に向けて書かれたものだと、名前を見ればすぐに分かった。
何が書かれているのか確かめたい。
けれど、今はそれより――。
「……っ、乃愛!」
琉生は付箋を手に取り、図書室を飛び出した。
廊下を駆け、階段を飛ぶように下り、昇降口を抜ける。
けれど、校門まで辿り着いたとき――。
夏の陽炎の向こうに、乃愛の姿はもうなかった。
「……くそっ」
息を切らしながら、琉生は右手の中にある付箋を見る。
追いつけなかった。
今すぐ伝えたかった言葉も、まだ届けられていない。
琉生はしばらく迷った末、そっと付箋を開いた。
そこに並んだ文字を、一行ずつ目で追っていく。
そして――。
「……乃愛、お前……」
琉生の瞳が、大きく見開かれた。
さっきまであれほど近くにいたのに。
本当に伝えなければならなかった言葉を、自分は何ひとつ伝えられていなかった。
手の中には、花火大会の日に渡されるはずだった、ひまわり色の付箋。
蝉の声だけが、やけに遠く聞こえていた――。


