隣の席のキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~

午後のまばゆい光が降り注ぐグラウンド。

二年男子リレーが始まり、クラスメイトからクラスメイトへ、次々とバトンが繋がれていく。

一般生徒席の最前列では、乃愛が結衣とひまりに挟まれながら、その行方を見守っていた。

右手首には、図書室で琉生がもう一度結んでくれた赤いハチマキ。

初夏の風を受け、リボンの端が小さく揺れている。

そして、リレーはいよいよ終盤へ差しかかった。

バトンが颯人の手に渡った、その瞬間――。

「――颯人、いけぇぇぇーーーっ!!」

結衣の声が、グラウンドいっぱいに響いた。

「――っ」

走り出した颯人の胸が、大きく跳ねる。

(……今、颯人って呼んだ?)

いつもなら「高城くん」と呼ぶくせに。

振り返る余裕なんてない。

それでも、顔を真っ赤にして必死に声を張り上げる結衣の姿が、簡単に想像できた。

(……そんな呼び方されたら、遅ぇ走りなんかできねぇだろ)

必要以上にきつく巻かれたテーピングの窮屈さも、今は気にならない。

颯人はさらに強く地面を蹴った。

前を走る一人を捉え、そのまま一気に追い抜く。

順位を一つ上げ、トップとの差を縮めながら、最後のバトンゾーンへ飛び込んだ。

その先で待っているのは――琉生。

「琉生――っ!!」

「――任せろ!」

伸ばされた手のひらへ、赤いバトンが力強く渡る。

次の瞬間、琉生が地面を蹴った。

長い手脚を大きく動かし、一気に加速していく。

まだ前には二人。

けれど、その差は颯人たちが繋いできたバトンによって、十分に追いつけるところまで縮まっていた。

他クラスの女子たちから、

「羽瀬くん、頑張れー!」

と大きな声援が飛ぶ。

それでも直線へ入った瞬間、琉生の視線が向かった先は一つだけだった。

最前列で赤いハチマキを握りしめている乃愛。

大歓声の中でも、かつて颯人にからかわれた『白石さん専用センサー』は、今日も迷わず乃愛を捉えた。

視線が重なる。

「……っ」

いつも人の輪から一歩引いていた乃愛。

けれど今日は、もう逃げたくなかった。

今度は自分の声で、琉生の背中を押したい。

乃愛は右手首の赤いハチマキを胸元で握り、反対の手を口元へ添えた。

そして、大きく息を吸う。

「――琉生くん!! がんばってーーーーっ!!!!」

自分でも驚くほど大きな声だった。

その声は周囲の歓声に重なりながらも、真っ直ぐグラウンドへ飛んでいく。

「――っ!」

琉生の瞳が大きく見開かれた。

さっきまで泣いていた乃愛が、今は大勢の前で自分の名前を呼んでいる。

(……ほんと、自覚ねぇな)

口元に笑みが浮かぶ。

それだけで、もう十分だった。

琉生はさらに強く地面を蹴る。

一人。

そして、もう一人。

前を走る選手との差を、一歩ずつ確実に縮めていく。

「羽瀬、速っ!」

「いけぇぇぇ――っ!」

グラウンドの歓声が、一段と大きくなる。

ゴール直前。

ついにトップの背中を捉えた。

琉生は歯を食いしばり、最後の力を振り絞る。

並ぶ。

そして――抜いた。

そのまま真っ白なゴールテープへ、勢いよく胸から飛び込んだ。

「二年二組、一位――っ!」

わぁぁぁぁぁ――っ!!

割れんばかりの歓声と拍手が、グラウンドを包み込む。

クラスメイトたちが一斉に琉生へ駆け寄った。

「琉生、やったな!」

「お前、速すぎだろ!」

揉みくちゃにされながら、琉生も満面の笑みを浮かべる。

その輪の中で颯人と目が合った。

どちらからともなく拳を差し出し、力強くぶつけ合う。

繋いだバトンは、ちゃんと最後まで届いた。

やがて颯人は仲間たちの輪から抜けると、息を整えながら応援席へ向かった。

「――だから言ったろ。あいつ、今めちゃくちゃ速いって」

少しぶっきらぼうに言いながら、結衣を見る。

「……っ、うん! 羽瀬くんもすごかったけど……高城くんも、めちゃくちゃ速かったんだからっ!」

結衣は顔を赤くしたまま、満面の笑顔で右手を差し出した。

「あー、まじでうるさかったわ、お前の声」

「なっ……! 応援してあげたのに!」

そう言いながらも、颯人は差し出された手に自分の手を重ねる。

パチンッ、と乾いた音が響いた。

離れた手のひらには、走ったばかりの熱が残っている。

なぜか二人とも、少しだけ目を逸らした。

その隣で乃愛は、右手首の赤いハチマキを握りながら、グラウンドの中央を見つめていた。

――そのときだった。

クラスメイトたちに囲まれていた琉生が、ふっと顔を上げる。

人の隙間を縫うように、真っ直ぐ乃愛を見つけた。

そして――。

青空を掴むように、右手を高く掲げる。

開いた手のひらを拳に変え、そのまま大きく二回。

ぐる、ぐる。

「――っ!」

何度も交わしてきた、二人だけの秘密の合図。

けれど、こんなに広い空の下で交わすのは初めてだった。

――ちゃんと届いた。ありがとな、乃愛。

声なんて聞こえない。

それでも乃愛には、そう言われた気がした。

「……うんっ」

涙が滲む。

それでも今度は俯かず、乃愛は一歩前へ出た。

琉生からちゃんと見えるように、赤いハチマキが結ばれた右手を胸の前からそっと伸ばす。

そして、大きく二回。

ぐる、ぐる。

今度は乃愛が、ゆっくりと口を動かした。

――『琉生くん、かっこよかったよ。大好き』

「――っ」

意味を読み取った瞬間、琉生の頬が赤くなる。

それをごまかすように少しだけ顔を逸らしたあと、もう一度乃愛を見る。

そして、くしゃっと嬉しそうに笑った。

声には出さない。

それでも、ちゃんと届いている。

学校では、まだ今まで通り「白石さん」。

恋人になったからといって、急にみんなの前で何もかも変えなくていい。

琉生は、乃愛が人の視線を苦手としていることも、自分の気持ちより周りを優先してしまうことも知っている。

だから、急がない。

乃愛が自分から一歩を踏み出せる、そのときまで。

今はまだ、二人だけに分かる呼び方も、付箋も、秘密の合図も、全部が大切な宝物だった。

初夏の風が、グラウンドを吹き抜ける。

乃愛は右手首で揺れる赤いハチマキを見つめ、もう一度顔を上げた。

青空の下には、まだ琉生の笑顔がある。

その姿をちゃんと見つめながら、乃愛も幸せそうに笑った。

胸の奥では、さっきからずっと、温かな鼓動が鳴り続けていた――。