「高城、これでどうだ? 痛むか?」
先生がテーピングを巻き終え、颯人の顔を覗き込んだ。
「……あー、はい。大丈夫っす。これなら、たぶん走れます」
「そうか。無理はするなよ。少しでも痛かったら――」
これ以上は、さすがに引き延ばせない。
颯人がそう思った、まさにその瞬間だった。
「――わりぃ! 待たせた、颯人っ‼」
聞き慣れた声に、颯人たちが一斉に振り返る。
校舎の入り口から、大きな足音を響かせながら琉生が駆けてきた。
額には汗が滲み、肩で大きく息をしている。
そして、その隣には――乃愛がいた。
琉生の左手と乃愛の右手は、指を絡めるようにしっかりと繋がれている。
頬には、まだ泣いた跡が残っていた。
けれど、図書室で小さく縮こまっていたときとは違う。
涙の名残が残る瞳には、琉生と一緒に戻ってこられた安堵と、彼の隣を歩く小さな勇気が宿っていた。
そして右手首には、図書室で琉生がもう一度結んでくれた、真っ赤なハチマキ。
「……っ、乃愛……!」
その姿を見た瞬間、結衣の瞳から今度は嬉し涙が溢れた。
「よかった……っ。本当に、よかったぁ……! 乃愛が……ちゃんと戻ってきてくれた……」
「……結衣」
乃愛が少しだけ目を丸くする。
その隣では、ひまりも胸元にそっと手を添え、ほっとしたように微笑んでいた。
「うん。乃愛、よかったね」
「……ひまりも、ありがとう」
二人の顔を見た乃愛にも、ようやく柔らかな笑顔が戻る。
そんな三人を見て、颯人はすべてを察したように口元を緩めた。
「遅ぇよ、バカ。……でも、最高の状態で戻ってきたじゃん」
「……颯人」
琉生は一瞬だけ言葉を詰まらせたあと、真っ直ぐ親友を見る。
「……ありがとな」
「今さら何言ってんだよ。お前が行くって決めたんだろ?」
颯人はそう言って、琉生の肩を軽く小突いた。
「自分の場所に戻ってこい。俺が時間作ったんだから、無駄にすんなよ」
「……ああ」
「ほら、行け。バトン、絶対トップで持ってってやるからな」
そして、ニヤリと笑う。
「行ってこい、アンカー」
「――ああ。頼む」
琉生が差し出した拳に、颯人も自分の拳を軽くぶつけた。
颯人がリレーの仲間たちのもとへ向かうと、結衣とひまりも乃愛のそばへ駆け寄る。
「乃愛、私たちも応援席に戻ろ!」
三人は揃って救護テントをあとにし、リレーがよく見える一般生徒席の最前列へと急いだ。
リレーも、サッカーも、琉生にとって大切なものだった。
それでもあのとき、一人で泣いている乃愛を放っておくことはできなかった。
その間、颯人たちが自分の戻る場所を守ってくれていた。
(……ありがとな)
託した時間は、無駄にはしない。
琉生は前髪に滲む汗を体操服の袖で拭うと、アンカーとして出番を待つ仲間たちのもとへ戻ろうとした。
その途中――。
一般生徒席の最前列にいる乃愛と目が合った。
乃愛は右手首の赤いハチマキを胸元で握り、真っ直ぐ琉生を見つめている。
周囲には、リレーの開始を待つ生徒たちの声が響いていた。
この中で何かを言ったところで、きっと声は届かない。
琉生は乃愛の前で一瞬だけ足を止めた。
そして、周りには聞こえないよう、声を出さずにゆっくりと口を動かす。
――『乃愛……、ちゃんと見てろよ』
「……っ」
声は聞こえなくても、乃愛にはすぐに分かった。
授業中、何度も視線や筆談で気持ちを交わしてきた二人だから。
図書室では、二人きりの中で初めて声にしてくれた名前。
今度は、たくさんの生徒がいるグラウンドで、声には出さずとも、琉生は迷わず「乃愛」と呼んでくれた。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
乃愛は右手首の赤いハチマキをぎゅっと握り、強く頷いた。
(うん……ちゃんと見てるよ、琉生くん)
その返事が伝わったのか、琉生の顔にいつもの太陽みたいな笑顔が広がる。
そして今度こそ、仲間たちのもとへ駆けていった。
その背中を、乃愛は真っ直ぐに見つめる。
朝、赤いハチマキに込めた想い。
『がんばってきた羽瀬くんなら、絶対大丈夫って、信じてます。乃愛』
あのとき伝えた気持ちは、今も変わっていない。
むしろ、前よりずっと強くなっていた。
男子が苦手で、いつも人の輪から一歩引いていた乃愛。
けれど今は、大好きな人が走る姿を、誰より近くで見届けたいと思える。
「……がんばって」
大歓声に消えてしまいそうな、小さな声。
それでも、もう不安はなかった。
ちゃんと見ている。
そしてきっと、琉生も分かってくれている。
やがて、第一走者たちがスタートラインへ並んだ。
それまでグラウンドを包んでいた歓声が、ほんの一瞬だけ静まる。
琉生はこれからバトンを繋いでくる仲間たちへ、真っ直ぐ視線を向けた。
自分が走るのは、まだ先だ。
それでも、その表情にもう迷いはない。
乃愛も赤いハチマキを握ったまま、そんな琉生を見つめていた。
声にしなくても、二人には分かっている。
ちゃんと見ている。
その約束だけで、十分だった。
そして――。
パァンッ――‼
青空の下、スタートの合図が鳴り響く。
仲間から仲間へ。
そして最後に、琉生へ。
想いを乗せたバトンが、今、走り出した――。
先生がテーピングを巻き終え、颯人の顔を覗き込んだ。
「……あー、はい。大丈夫っす。これなら、たぶん走れます」
「そうか。無理はするなよ。少しでも痛かったら――」
これ以上は、さすがに引き延ばせない。
颯人がそう思った、まさにその瞬間だった。
「――わりぃ! 待たせた、颯人っ‼」
聞き慣れた声に、颯人たちが一斉に振り返る。
校舎の入り口から、大きな足音を響かせながら琉生が駆けてきた。
額には汗が滲み、肩で大きく息をしている。
そして、その隣には――乃愛がいた。
琉生の左手と乃愛の右手は、指を絡めるようにしっかりと繋がれている。
頬には、まだ泣いた跡が残っていた。
けれど、図書室で小さく縮こまっていたときとは違う。
涙の名残が残る瞳には、琉生と一緒に戻ってこられた安堵と、彼の隣を歩く小さな勇気が宿っていた。
そして右手首には、図書室で琉生がもう一度結んでくれた、真っ赤なハチマキ。
「……っ、乃愛……!」
その姿を見た瞬間、結衣の瞳から今度は嬉し涙が溢れた。
「よかった……っ。本当に、よかったぁ……! 乃愛が……ちゃんと戻ってきてくれた……」
「……結衣」
乃愛が少しだけ目を丸くする。
その隣では、ひまりも胸元にそっと手を添え、ほっとしたように微笑んでいた。
「うん。乃愛、よかったね」
「……ひまりも、ありがとう」
二人の顔を見た乃愛にも、ようやく柔らかな笑顔が戻る。
そんな三人を見て、颯人はすべてを察したように口元を緩めた。
「遅ぇよ、バカ。……でも、最高の状態で戻ってきたじゃん」
「……颯人」
琉生は一瞬だけ言葉を詰まらせたあと、真っ直ぐ親友を見る。
「……ありがとな」
「今さら何言ってんだよ。お前が行くって決めたんだろ?」
颯人はそう言って、琉生の肩を軽く小突いた。
「自分の場所に戻ってこい。俺が時間作ったんだから、無駄にすんなよ」
「……ああ」
「ほら、行け。バトン、絶対トップで持ってってやるからな」
そして、ニヤリと笑う。
「行ってこい、アンカー」
「――ああ。頼む」
琉生が差し出した拳に、颯人も自分の拳を軽くぶつけた。
颯人がリレーの仲間たちのもとへ向かうと、結衣とひまりも乃愛のそばへ駆け寄る。
「乃愛、私たちも応援席に戻ろ!」
三人は揃って救護テントをあとにし、リレーがよく見える一般生徒席の最前列へと急いだ。
リレーも、サッカーも、琉生にとって大切なものだった。
それでもあのとき、一人で泣いている乃愛を放っておくことはできなかった。
その間、颯人たちが自分の戻る場所を守ってくれていた。
(……ありがとな)
託した時間は、無駄にはしない。
琉生は前髪に滲む汗を体操服の袖で拭うと、アンカーとして出番を待つ仲間たちのもとへ戻ろうとした。
その途中――。
一般生徒席の最前列にいる乃愛と目が合った。
乃愛は右手首の赤いハチマキを胸元で握り、真っ直ぐ琉生を見つめている。
周囲には、リレーの開始を待つ生徒たちの声が響いていた。
この中で何かを言ったところで、きっと声は届かない。
琉生は乃愛の前で一瞬だけ足を止めた。
そして、周りには聞こえないよう、声を出さずにゆっくりと口を動かす。
――『乃愛……、ちゃんと見てろよ』
「……っ」
声は聞こえなくても、乃愛にはすぐに分かった。
授業中、何度も視線や筆談で気持ちを交わしてきた二人だから。
図書室では、二人きりの中で初めて声にしてくれた名前。
今度は、たくさんの生徒がいるグラウンドで、声には出さずとも、琉生は迷わず「乃愛」と呼んでくれた。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
乃愛は右手首の赤いハチマキをぎゅっと握り、強く頷いた。
(うん……ちゃんと見てるよ、琉生くん)
その返事が伝わったのか、琉生の顔にいつもの太陽みたいな笑顔が広がる。
そして今度こそ、仲間たちのもとへ駆けていった。
その背中を、乃愛は真っ直ぐに見つめる。
朝、赤いハチマキに込めた想い。
『がんばってきた羽瀬くんなら、絶対大丈夫って、信じてます。乃愛』
あのとき伝えた気持ちは、今も変わっていない。
むしろ、前よりずっと強くなっていた。
男子が苦手で、いつも人の輪から一歩引いていた乃愛。
けれど今は、大好きな人が走る姿を、誰より近くで見届けたいと思える。
「……がんばって」
大歓声に消えてしまいそうな、小さな声。
それでも、もう不安はなかった。
ちゃんと見ている。
そしてきっと、琉生も分かってくれている。
やがて、第一走者たちがスタートラインへ並んだ。
それまでグラウンドを包んでいた歓声が、ほんの一瞬だけ静まる。
琉生はこれからバトンを繋いでくる仲間たちへ、真っ直ぐ視線を向けた。
自分が走るのは、まだ先だ。
それでも、その表情にもう迷いはない。
乃愛も赤いハチマキを握ったまま、そんな琉生を見つめていた。
声にしなくても、二人には分かっている。
ちゃんと見ている。
その約束だけで、十分だった。
そして――。
パァンッ――‼
青空の下、スタートの合図が鳴り響く。
仲間から仲間へ。
そして最後に、琉生へ。
想いを乗せたバトンが、今、走り出した――。


