グラウンドの喧騒から遠く離れた、静かな校舎。
その廊下に、激しい足音だけが響いていた。
琉生は泥と汗に濡れた体操服のまま、肩で息をしながら走る。
頭に浮かぶのは、乃愛のことだけだった。
春、隣の席で交わした言葉。二人だけの秘密になった、ぐるぐるの合図。
放課後の茶トラも、本に挟まれた桜色の付箋も、雨の日も、図書室も。
初めて繋いだ手の温かさも――すべて、鮮明に蘇ってくる。
そして今朝――。
『がんばってきた羽瀬くんなら、絶対大丈夫って信じてます。乃愛』
首元で揺れる赤いハチマキに残された、その言葉。
どの記憶の中にも、乃愛がいた。
笑った顔も。
真っ赤になって俯いた顔も。
小さく勇気を出して、自分へ気持ちを返してくれた瞬間も。
乃愛はずっと、自分のことをちゃんと見ていてくれた。
そして琉生もまた、そんな乃愛をずっと見てきた。
だから――。
今、一人で泣いている乃愛を見過ごすことなんてできなかった。
(邪魔なわけねぇだろ……!)
琉生はさらに強く床を蹴った。
廊下の先に、図書室の扉が見える。
勢いを殺しきれないまま、その前へたどり着くと、琉生は迷わず扉を開けた。
「――はぁ、はぁ……白石さん……!」
本棚の奥、いつもの窓際。
ひまりに肩をさすられながら、小さく俯いている乃愛を見つけた。
その手には、外した赤いハチマキが握りしめられている。
琉生は真っ直ぐ乃愛のもとへ向かった。
「羽瀬くん」
ひまりが立ち上がる。
「乃愛をよろしくね。……私、結衣たちのところに戻るから」
「ああ。ありがとう、松永」
すれ違いざま、ひまりは琉生の肩をぽんと叩いた。
それだけで、十分だった。
乃愛を琉生に託し、ひまりは図書室を出ていく。
扉が静かに閉まると、琉生は乃愛の前に膝をついた。
「……白石さん」
「……羽瀬くん、ダメだよ。戻って……っ」
乃愛は顔を上げない。
「だって……私のせいで、サッカーに集中できなくなったら嫌だもん。みんなが言ってたの。私が一緒にいたら、羽瀬くんの邪魔になるって……」
震える声が、だんだん小さくなっていく。
「だから……私なんか、いない方が……っ」
「――乃愛!」
「……っ」
乃愛の肩が、大きく揺れた。
LINEの文字では、呼ばれたことのある名前。
けれど――。
琉生の声で直接「乃愛」と呼ばれたのは、これが初めてだった。
琉生自身も、呼んでから気づいたように一瞬息を止める。
けれど、もう「白石さん」には戻らなかった。
「邪魔なんかじゃねぇよ」
真っ直ぐな瞳が、涙で濡れた乃愛を捉える。
「そんなこと、一度だって思ったことない」
琉生は、自分の首に巻いた赤いハチマキに触れた。
そこには、乃愛の文字が残っている。
『がんばってきた羽瀬くんなら、絶対大丈夫って信じてます。乃愛』
「俺、エースだから勝てって言われること多いからさ。でも乃愛は、俺が頑張ってきたところをちゃんと見ててくれて、その上で『大丈夫』って言ってくれただろ?」
「……羽瀬くん」
「この言葉が、俺のお守りなんだよ。乃愛がいてくれるから、頑張れる」
琉生は、乃愛が握りしめているもう一本のハチマキへ視線を落とした。
「……それ、もう一回つけてもいい?」
乃愛は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……うん」
琉生は赤いハチマキを受け取る。
そして朝と同じように、乃愛の右手首へ、今度はゆっくりと結び直した。
『一番カッコいいところ、見てて。琉生』
外されていた二人の約束が、もう一度、乃愛の手首に戻ってくる。
「だから、もう自分からいなくなるなんて言うなよ」
「……うん」
乃愛が、結び直されたハチマキをそっと撫でた。
すると琉生は、体操服のポケットへ手を入れた。
「あと……これ」
取り出したのは、小さく折りたたまれた一枚の紙。
「本当は今日の夜、LINEでちゃんと教えるつもりだった」
「……え?」
「でも、今言う」
紙を開き、乃愛の前へ差し出す。
そこに書かれていたのは――。
【特別な人】
乃愛の瞳が大きくなる。
「これ……借り物競争の……」
「ああ」
琉生の耳が、少しずつ赤くなっていく。
「紙見た瞬間、乃愛しか浮かばなかった」
「……っ」
「だから迷わず迎えに行った。俺の隣は乃愛じゃなきゃだめだって、本気で思ったから」
あのとき、たくさんの声が飛び交う中で。
琉生は真っ直ぐ、自分のところへ走ってきた。
その理由が今、ようやく乃愛の胸の中で一つに繋がった。
「……ごめんなさい」
涙を拭い、乃愛は初めて、その名前を声にする。
「……琉生くん」
「――っ」
今度は琉生が固まった。
LINEの画面では、もう見たことのある呼び方。
けれど乃愛の声で「琉生くん」と呼ばれたのは、これが初めてだった。
文字の中でしか交わせなかった二人の名前が、初めて同じ場所で声になった。
「……あー、もう」
琉生が真っ赤な顔で髪に触れる。
「乃愛、それはずるい」
泣いていた乃愛の口元に、ほんの少し笑みが戻った。
その顔を見て、琉生もようやく笑う。
「あ、それとさ。橘から聞いた」
「……?」
「俺があげた付箋、全部残してるって」
「――っ!」
今度は乃愛の顔が一気に赤くなる。
「結衣……っ」
「怒んなって。俺、めちゃくちゃ嬉しかったから」
琉生は照れくさそうに笑った。
「……俺も同じだし」
「え……?」
「乃愛がくれた桜色の付箋。一枚も捨ててない。全部、宝物にしてる」
乃愛が目を見開く。
自分だけじゃなかった。
二人とも知らないところで、相手からもらった言葉を大切に残していた。
琉生は一度息を吸うと、乃愛を真っ直ぐ見つめた。
もう逃げない。
今度こそ、ちゃんと言葉にする。
「学校でも、学校の外でも……俺にとって特別なのは、乃愛だから」
「……琉生くん」
「俺、乃愛のことが好きだ」
その言葉に、乃愛の瞳からまた涙が溢れる。
「……俺の彼女になってほしい」
乃愛は何度も頷いた。
「……うんっ」
涙の中で、それでも今度は笑う。
「私も……琉生くんのこと、ずっと大好き……っ」
ずっと胸の奥にしまっていた想いが、ようやく届いた。
嬉しさを抑えきれず、乃愛は目の前の琉生へぎゅっと抱きつく。
「――っ」
驚いた琉生も、すぐに乃愛を優しく抱きしめ返した。
しばらくして、二人はゆっくりと離れる。
「……っ」
もう一度、今度は優しく名前を呼ばれて、乃愛が顔を上げた。
二人とも頬を赤くしたまま、ほんの少しだけ距離が近づいて――。
琉生は乃愛に、そっと初めてのキスをした。
ほんの一瞬。
唇が離れても、二人はすぐには目を逸らせなかった。
初めて触れた想いを確かめるように見つめ合い、やがてどちらからともなく、照れたように微笑む。
琉生は照れたように笑うと、そっと乃愛のおでこへ自分のおでこを、こつんと重ねた。
「……っ」
驚いた乃愛も、今度は逃げなかった。
近すぎる距離で見つめ合って、また二人で笑う。
言葉にしなくても、今はそれだけで十分だった。
好きだった人が、自分を好きだと言ってくれた。
ずっと隣にいたかった人と、本当に恋人になれた。
その幸せを確かめるように、二人はほんの少しの間、おでこを寄せ合ったままでいた。
「……やば。俺、今めちゃくちゃ幸せかも」
「……私も」
小さく返ってきた声に、琉生はまた嬉しそうに笑った。
「じゃあ、戻ろうぜ。みんな待ってる」
立ち上がった琉生が、左手を差し出す。
乃愛はその手を見つめた。
借り物競争では、琉生の左手が赤いハチマキの上から自分の右手首を掴んだ。
けれど、今は違う。
乃愛は自分から右手を伸ばした。
重なった手のひら。
そして今度は、どちらからともなく指を絡める。
「……学校の中だけど、もう離さねぇから」
「……うん」
乃愛は繋いだ手に、きゅっと力を込める。
「行くぞ、乃愛」
「うん、琉生くん」
二人は顔を見合わせて笑うと、手を繋いだまま図書室を出た。
ずっと、憧れていた。
大好きな人の隣を歩くこと。
男子が苦手で、いつも一歩を踏み出すことが怖かった乃愛。
それでも今は、自分からその手を握って歩いていける。
右手首には、結び直された赤いハチマキ。
そのすぐ下には、大好きな人の手のひら。
二人はもう一度グラウンドへ向かって、並んで走り出した――。
その廊下に、激しい足音だけが響いていた。
琉生は泥と汗に濡れた体操服のまま、肩で息をしながら走る。
頭に浮かぶのは、乃愛のことだけだった。
春、隣の席で交わした言葉。二人だけの秘密になった、ぐるぐるの合図。
放課後の茶トラも、本に挟まれた桜色の付箋も、雨の日も、図書室も。
初めて繋いだ手の温かさも――すべて、鮮明に蘇ってくる。
そして今朝――。
『がんばってきた羽瀬くんなら、絶対大丈夫って信じてます。乃愛』
首元で揺れる赤いハチマキに残された、その言葉。
どの記憶の中にも、乃愛がいた。
笑った顔も。
真っ赤になって俯いた顔も。
小さく勇気を出して、自分へ気持ちを返してくれた瞬間も。
乃愛はずっと、自分のことをちゃんと見ていてくれた。
そして琉生もまた、そんな乃愛をずっと見てきた。
だから――。
今、一人で泣いている乃愛を見過ごすことなんてできなかった。
(邪魔なわけねぇだろ……!)
琉生はさらに強く床を蹴った。
廊下の先に、図書室の扉が見える。
勢いを殺しきれないまま、その前へたどり着くと、琉生は迷わず扉を開けた。
「――はぁ、はぁ……白石さん……!」
本棚の奥、いつもの窓際。
ひまりに肩をさすられながら、小さく俯いている乃愛を見つけた。
その手には、外した赤いハチマキが握りしめられている。
琉生は真っ直ぐ乃愛のもとへ向かった。
「羽瀬くん」
ひまりが立ち上がる。
「乃愛をよろしくね。……私、結衣たちのところに戻るから」
「ああ。ありがとう、松永」
すれ違いざま、ひまりは琉生の肩をぽんと叩いた。
それだけで、十分だった。
乃愛を琉生に託し、ひまりは図書室を出ていく。
扉が静かに閉まると、琉生は乃愛の前に膝をついた。
「……白石さん」
「……羽瀬くん、ダメだよ。戻って……っ」
乃愛は顔を上げない。
「だって……私のせいで、サッカーに集中できなくなったら嫌だもん。みんなが言ってたの。私が一緒にいたら、羽瀬くんの邪魔になるって……」
震える声が、だんだん小さくなっていく。
「だから……私なんか、いない方が……っ」
「――乃愛!」
「……っ」
乃愛の肩が、大きく揺れた。
LINEの文字では、呼ばれたことのある名前。
けれど――。
琉生の声で直接「乃愛」と呼ばれたのは、これが初めてだった。
琉生自身も、呼んでから気づいたように一瞬息を止める。
けれど、もう「白石さん」には戻らなかった。
「邪魔なんかじゃねぇよ」
真っ直ぐな瞳が、涙で濡れた乃愛を捉える。
「そんなこと、一度だって思ったことない」
琉生は、自分の首に巻いた赤いハチマキに触れた。
そこには、乃愛の文字が残っている。
『がんばってきた羽瀬くんなら、絶対大丈夫って信じてます。乃愛』
「俺、エースだから勝てって言われること多いからさ。でも乃愛は、俺が頑張ってきたところをちゃんと見ててくれて、その上で『大丈夫』って言ってくれただろ?」
「……羽瀬くん」
「この言葉が、俺のお守りなんだよ。乃愛がいてくれるから、頑張れる」
琉生は、乃愛が握りしめているもう一本のハチマキへ視線を落とした。
「……それ、もう一回つけてもいい?」
乃愛は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……うん」
琉生は赤いハチマキを受け取る。
そして朝と同じように、乃愛の右手首へ、今度はゆっくりと結び直した。
『一番カッコいいところ、見てて。琉生』
外されていた二人の約束が、もう一度、乃愛の手首に戻ってくる。
「だから、もう自分からいなくなるなんて言うなよ」
「……うん」
乃愛が、結び直されたハチマキをそっと撫でた。
すると琉生は、体操服のポケットへ手を入れた。
「あと……これ」
取り出したのは、小さく折りたたまれた一枚の紙。
「本当は今日の夜、LINEでちゃんと教えるつもりだった」
「……え?」
「でも、今言う」
紙を開き、乃愛の前へ差し出す。
そこに書かれていたのは――。
【特別な人】
乃愛の瞳が大きくなる。
「これ……借り物競争の……」
「ああ」
琉生の耳が、少しずつ赤くなっていく。
「紙見た瞬間、乃愛しか浮かばなかった」
「……っ」
「だから迷わず迎えに行った。俺の隣は乃愛じゃなきゃだめだって、本気で思ったから」
あのとき、たくさんの声が飛び交う中で。
琉生は真っ直ぐ、自分のところへ走ってきた。
その理由が今、ようやく乃愛の胸の中で一つに繋がった。
「……ごめんなさい」
涙を拭い、乃愛は初めて、その名前を声にする。
「……琉生くん」
「――っ」
今度は琉生が固まった。
LINEの画面では、もう見たことのある呼び方。
けれど乃愛の声で「琉生くん」と呼ばれたのは、これが初めてだった。
文字の中でしか交わせなかった二人の名前が、初めて同じ場所で声になった。
「……あー、もう」
琉生が真っ赤な顔で髪に触れる。
「乃愛、それはずるい」
泣いていた乃愛の口元に、ほんの少し笑みが戻った。
その顔を見て、琉生もようやく笑う。
「あ、それとさ。橘から聞いた」
「……?」
「俺があげた付箋、全部残してるって」
「――っ!」
今度は乃愛の顔が一気に赤くなる。
「結衣……っ」
「怒んなって。俺、めちゃくちゃ嬉しかったから」
琉生は照れくさそうに笑った。
「……俺も同じだし」
「え……?」
「乃愛がくれた桜色の付箋。一枚も捨ててない。全部、宝物にしてる」
乃愛が目を見開く。
自分だけじゃなかった。
二人とも知らないところで、相手からもらった言葉を大切に残していた。
琉生は一度息を吸うと、乃愛を真っ直ぐ見つめた。
もう逃げない。
今度こそ、ちゃんと言葉にする。
「学校でも、学校の外でも……俺にとって特別なのは、乃愛だから」
「……琉生くん」
「俺、乃愛のことが好きだ」
その言葉に、乃愛の瞳からまた涙が溢れる。
「……俺の彼女になってほしい」
乃愛は何度も頷いた。
「……うんっ」
涙の中で、それでも今度は笑う。
「私も……琉生くんのこと、ずっと大好き……っ」
ずっと胸の奥にしまっていた想いが、ようやく届いた。
嬉しさを抑えきれず、乃愛は目の前の琉生へぎゅっと抱きつく。
「――っ」
驚いた琉生も、すぐに乃愛を優しく抱きしめ返した。
しばらくして、二人はゆっくりと離れる。
「……っ」
もう一度、今度は優しく名前を呼ばれて、乃愛が顔を上げた。
二人とも頬を赤くしたまま、ほんの少しだけ距離が近づいて――。
琉生は乃愛に、そっと初めてのキスをした。
ほんの一瞬。
唇が離れても、二人はすぐには目を逸らせなかった。
初めて触れた想いを確かめるように見つめ合い、やがてどちらからともなく、照れたように微笑む。
琉生は照れたように笑うと、そっと乃愛のおでこへ自分のおでこを、こつんと重ねた。
「……っ」
驚いた乃愛も、今度は逃げなかった。
近すぎる距離で見つめ合って、また二人で笑う。
言葉にしなくても、今はそれだけで十分だった。
好きだった人が、自分を好きだと言ってくれた。
ずっと隣にいたかった人と、本当に恋人になれた。
その幸せを確かめるように、二人はほんの少しの間、おでこを寄せ合ったままでいた。
「……やば。俺、今めちゃくちゃ幸せかも」
「……私も」
小さく返ってきた声に、琉生はまた嬉しそうに笑った。
「じゃあ、戻ろうぜ。みんな待ってる」
立ち上がった琉生が、左手を差し出す。
乃愛はその手を見つめた。
借り物競争では、琉生の左手が赤いハチマキの上から自分の右手首を掴んだ。
けれど、今は違う。
乃愛は自分から右手を伸ばした。
重なった手のひら。
そして今度は、どちらからともなく指を絡める。
「……学校の中だけど、もう離さねぇから」
「……うん」
乃愛は繋いだ手に、きゅっと力を込める。
「行くぞ、乃愛」
「うん、琉生くん」
二人は顔を見合わせて笑うと、手を繋いだまま図書室を出た。
ずっと、憧れていた。
大好きな人の隣を歩くこと。
男子が苦手で、いつも一歩を踏み出すことが怖かった乃愛。
それでも今は、自分からその手を握って歩いていける。
右手首には、結び直された赤いハチマキ。
そのすぐ下には、大好きな人の手のひら。
二人はもう一度グラウンドへ向かって、並んで走り出した――。


