席替えをしてから、一週間が経った。
休み時間になると、離れた席から結衣とひまりが「乃愛〜!」と遊びに来てくれる。それが、新しい席でも変わらない私の安心できる時間だった。
だけど、その日は二人とも次の授業の準備や日直の仕事で席を外していた。
隣の羽瀬くんを囲んでいた男子たちも、いつの間にか教室を出ていく。
気づけば、窓際には私と羽瀬くんだけ。
まともに二人きりで話すのは、席替えをしてから初めてだった。
何を話せばいいのか分からず、教科書に視線を落としていると──。
「ねえ、白石さん。ちょっとここ来て」
不意に、隣から声が降ってきた。
「あ……羽瀬くん? どうしたの……?」
「いいからいいから。ちょっとこれ見て。三階からじゃないと絶対気づかねぇわ」
羽瀬くんは楽しそうに窓の外を覗き込み、私が見られるように少し場所を空けてくれた。
恐る恐る隣へ近づく。
いつもより近い距離と、制服からほんのり香る洗剤の匂いに、胸がきゅっと縮まった。
「ほら、真下。あの古い備品倉庫の屋根」
「え……? あ、いた……! 可愛い……っ」
トタン屋根の隙間。日だまりの中に、オレンジ色の塊が丸くなっていた。
ふっくらとした茶トラのノラ猫だ。
「な? めっちゃ可愛くね? 俺、部活のときに見かけるんだ。ここにいたのか……あ、動いた」
その声が聞こえたみたいに、茶トラがうっすらと目を開けた。
前足を器用に「ぐる、ぐる」と回しながら、顔を毛繕いしている。
「あいつ、手首ぐるぐるしてんだけど。手招き? 招き猫の練習みたいだな」
「ふふっ。自分の顔を綺麗にしてるんだって、本で読んだよ」
「へえ、白石さん詳しいんだ」
羽瀬くんはもう一度、屋根の上の茶トラへ目を向けた。
「なんかさ、あいつ白石さんっぽくない?」
「え……私?」
「うん。静かなとこでのんびりしてて。おとなしくて優しい感じ。なんか癒される」
「……っ」
真っ直ぐそう言われて、一気に頬が熱くなった。
思わず俯きかけたけれど、もう一度、日だまりの中の茶トラを見る。
「私……人混みが、あんまり得意じゃないから。ああいう静かなところにいるのを見ると、なんだか落ち着く……」
ぽつりとこぼした本音。
クラスの真ん中でいつもみんなに囲まれている羽瀬くんには、分からないかもしれない。
そう思っていたのに。
「それ、なんか分かるわ」
「……え?」
羽瀬くんは笑うことも、不思議そうな顔をすることもなかった。
「俺、いっつもうるさい奴らに囲まれてるだろ? だから、こういう静かなとこって結構好きかも」
窓の外を見ながら、彼が楽しそうに笑う。
「いいな、ここ。俺、気に入った」
「羽瀬くんも……?」
「うん。だからさ、今度の放課後、あの猫近くで見に行ってみようぜ」
そして、私のほうを向いてニカッと笑った。
「俺たちの隠れ家にしよーぜ!」
「え……っ? い、一緒に……ですか?」
「そう。一緒に。約束な!」
胸の奥が、また大きく跳ねる。
──俺たちの隠れ家。
その言葉を心の中で繰り返した瞬間、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
「おい羽瀬、早く着替えろよ!」
「置いてくぞー!」
廊下から男子たちの声が飛んでくる。
「やっべ!」
羽瀬くんは慌てて机から体操着を取り出すと、教室を飛び出しかけて──ふいに振り返った。
「白石さん!」
「え?」
「次、男子はサッカーだからさ。白石さんたちは教室で保健だろ?」
羽瀬くんは窓の向こうを指差し、いつもの太陽みたいな笑顔を浮かべる。
「三階の窓から、俺のことちゃんと見てて。絶対に、すげぇシュート決めてみせるから!」
「え……う、うんっ……!」
「寝ないで応援よろしくな! じゃ、行ってくる!」
最後に悪戯っぽく笑うと、羽瀬くんは男子たちを追って教室を飛び出していった。
「……俺のこと、見てて……」
誰に聞かせるでもなく、小さく繰り返す。
熱くなった頬を押さえながら、私はもう一度窓の外を見下ろした。
トタン屋根の上では、あの茶トラがまだ前足を「ぐる、ぐる」と回している。
その向こうでは、男子たちがグラウンドへ集まり始めていた。
まだ羽瀬くんの姿は見えない。
それなのに私はいつの間にか、窓の向こうに彼の姿を探していた。
ほんの少し前まで、遠くから見ているだけだった人。
その人と初めて交わした小さな約束が、十五センチの距離をまた少しだけ近づけていた──。
休み時間になると、離れた席から結衣とひまりが「乃愛〜!」と遊びに来てくれる。それが、新しい席でも変わらない私の安心できる時間だった。
だけど、その日は二人とも次の授業の準備や日直の仕事で席を外していた。
隣の羽瀬くんを囲んでいた男子たちも、いつの間にか教室を出ていく。
気づけば、窓際には私と羽瀬くんだけ。
まともに二人きりで話すのは、席替えをしてから初めてだった。
何を話せばいいのか分からず、教科書に視線を落としていると──。
「ねえ、白石さん。ちょっとここ来て」
不意に、隣から声が降ってきた。
「あ……羽瀬くん? どうしたの……?」
「いいからいいから。ちょっとこれ見て。三階からじゃないと絶対気づかねぇわ」
羽瀬くんは楽しそうに窓の外を覗き込み、私が見られるように少し場所を空けてくれた。
恐る恐る隣へ近づく。
いつもより近い距離と、制服からほんのり香る洗剤の匂いに、胸がきゅっと縮まった。
「ほら、真下。あの古い備品倉庫の屋根」
「え……? あ、いた……! 可愛い……っ」
トタン屋根の隙間。日だまりの中に、オレンジ色の塊が丸くなっていた。
ふっくらとした茶トラのノラ猫だ。
「な? めっちゃ可愛くね? 俺、部活のときに見かけるんだ。ここにいたのか……あ、動いた」
その声が聞こえたみたいに、茶トラがうっすらと目を開けた。
前足を器用に「ぐる、ぐる」と回しながら、顔を毛繕いしている。
「あいつ、手首ぐるぐるしてんだけど。手招き? 招き猫の練習みたいだな」
「ふふっ。自分の顔を綺麗にしてるんだって、本で読んだよ」
「へえ、白石さん詳しいんだ」
羽瀬くんはもう一度、屋根の上の茶トラへ目を向けた。
「なんかさ、あいつ白石さんっぽくない?」
「え……私?」
「うん。静かなとこでのんびりしてて。おとなしくて優しい感じ。なんか癒される」
「……っ」
真っ直ぐそう言われて、一気に頬が熱くなった。
思わず俯きかけたけれど、もう一度、日だまりの中の茶トラを見る。
「私……人混みが、あんまり得意じゃないから。ああいう静かなところにいるのを見ると、なんだか落ち着く……」
ぽつりとこぼした本音。
クラスの真ん中でいつもみんなに囲まれている羽瀬くんには、分からないかもしれない。
そう思っていたのに。
「それ、なんか分かるわ」
「……え?」
羽瀬くんは笑うことも、不思議そうな顔をすることもなかった。
「俺、いっつもうるさい奴らに囲まれてるだろ? だから、こういう静かなとこって結構好きかも」
窓の外を見ながら、彼が楽しそうに笑う。
「いいな、ここ。俺、気に入った」
「羽瀬くんも……?」
「うん。だからさ、今度の放課後、あの猫近くで見に行ってみようぜ」
そして、私のほうを向いてニカッと笑った。
「俺たちの隠れ家にしよーぜ!」
「え……っ? い、一緒に……ですか?」
「そう。一緒に。約束な!」
胸の奥が、また大きく跳ねる。
──俺たちの隠れ家。
その言葉を心の中で繰り返した瞬間、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
「おい羽瀬、早く着替えろよ!」
「置いてくぞー!」
廊下から男子たちの声が飛んでくる。
「やっべ!」
羽瀬くんは慌てて机から体操着を取り出すと、教室を飛び出しかけて──ふいに振り返った。
「白石さん!」
「え?」
「次、男子はサッカーだからさ。白石さんたちは教室で保健だろ?」
羽瀬くんは窓の向こうを指差し、いつもの太陽みたいな笑顔を浮かべる。
「三階の窓から、俺のことちゃんと見てて。絶対に、すげぇシュート決めてみせるから!」
「え……う、うんっ……!」
「寝ないで応援よろしくな! じゃ、行ってくる!」
最後に悪戯っぽく笑うと、羽瀬くんは男子たちを追って教室を飛び出していった。
「……俺のこと、見てて……」
誰に聞かせるでもなく、小さく繰り返す。
熱くなった頬を押さえながら、私はもう一度窓の外を見下ろした。
トタン屋根の上では、あの茶トラがまだ前足を「ぐる、ぐる」と回している。
その向こうでは、男子たちがグラウンドへ集まり始めていた。
まだ羽瀬くんの姿は見えない。
それなのに私はいつの間にか、窓の向こうに彼の姿を探していた。
ほんの少し前まで、遠くから見ているだけだった人。
その人と初めて交わした小さな約束が、十五センチの距離をまた少しだけ近づけていた──。


