午後の体育祭。
グラウンドから実況のアナウンスや応援の声が響く中、校舎の裏手だけは嘘のように静かだった。
少し前、次の競技を待っていた乃愛は、普段ほとんど話したことのないクラスの女子たちから、「ちょっと話があるんだけど」と声をかけられた。
何の話だろうと思いながらついてきた先は、以前、琉生と茶トラに会いに来た校舎裏だった。
グラウンドの賑わいから遠ざかるにつれ、乃愛の胸に小さな不安が広がっていく。
そして今――。
乃愛は、その女子たちに囲まれていた。
右手首には、朝、琉生に結んでもらった赤いハチマキが揺れている。
「ねぇ、白石さん。ちょっと聞きたいんだけど」
腕を組んだ女子の一人が、乃愛をまっすぐ見つめた。
「今日の借り物競争。羽瀬くん、お題の紙を見たあと、白石さんのところに一直線だったよね」
「……っ」
「ダンスのときだって、ずっと白石さんのこと見てたし」
思わず俯くと、別の女子が続ける。
「それだけじゃないから」
その言葉に、乃愛が顔を上げた。
「授業中とか放課後、こっそり手首ぐるぐる回して、二人だけで合図してるでしょ」
「――っ!」
息が止まった。
「うちら、何回も見てるから」
誰にも知られていないと思っていた。
右隣の席の琉生と乃愛だけの、大切な秘密の合図。
それを他の誰かに見られていた。
乃愛は無意識に、右手首のハチマキへ左手を重ねた。
「……やっぱりそうなんだ」
「ち、違……」
否定しようとして、言葉が続かない。
合図を送り合っていたことは、本当だから。
「私たち、一年のときから羽瀬くんのこと見てたんだよ」
女子の一人が、悔しそうに唇を噛んだ。
「二年で同じクラスになれて喜んでたのに……気づいたら、羽瀬くんが見てるの、いつも白石さんじゃん」
その声に、乃愛は何も返せなかった。
「でも、私たちが言いたいの、それだけじゃないから」
さっきまでとは違う声に、乃愛がゆっくり顔を上げる。
「羽瀬くん、今度の公式戦、Jクラブの下部組織のスカウトが見に来るんでしょ?」
「……スカウト?」
初めて聞く言葉だった。
「知らなかったの?」
胸の奥がざわついた。
「羽瀬くんにとって、すごく大事な時期なんだよ。ずっとサッカー頑張ってきたんだから」
それなら、乃愛だって知っている。
放課後のグラウンドで。
渡り廊下から。
何度も見てきた。
誰より真剣にボールを追いかける琉生の姿を。
「なのに、授業中まで合図したり、今日だってあんなふうに一緒に走ったり……」
女子の声が、少しずつ強くなる。
「羽瀬くんは優しいから相手してくれてるのかもしれないけど、そんなことで気を散らして、サッカーの邪魔するのやめてよ」
「――っ」
胸の奥を、鋭いものが貫いた。
――私が、羽瀬くんの邪魔をしてる?
今まで楽しくて仕方なかった、二人だけの合図。
琉生が笑ってくれることが嬉しくて、何度も送り返した。
だけど、それが彼の大切な夢を邪魔しているのだとしたら。
「私……そんなつもりじゃ……」
震える声しか出なかった。
「じゃあ、少しは考えてよ」
言い返せなかった。
スカウトが来ることも。
琉生がどれほどサッカーを大切にしているのかも。
乃愛には、否定できなかった。
視界が滲み、ぽろりと涙が頬を伝う。
そのときだった。
「――ニャアッ!」
鋭い鳴き声とともに、フェンスの隙間から茶トラが飛び出してきた。
「――シャーッ!」
毛を逆立て、乃愛をかばうように女子たちとの間へ立つ。
「な、なにこの猫……!」
「ちょっと……!」
女子たちが驚いて後ずさった。
あんなに臆病だった、小さな茶トラ。
それなのに今は、乃愛の前から逃げようとしない。
「……茶トラ……」
その小さな背中を見た瞬間、堪えていた涙が溢れた。
――これ以上、ここにいちゃだめだ。
羽瀬くんの大切な夢を、邪魔したくない。
朝、琉生くんが結んでくれた赤いハチマキへ視線を落とす。
このまま私がそばにいたら、本当に羽瀬くんの邪魔になってしまうかもしれない。
そう思うと、お守りだったはずのハチマキをつけていることさえ苦しくなった。
乃愛は震える指で、右手首のハチマキをそっとほどいた。
けれど、手放すことはできなかった。
赤い布を両手でぎゅっと握りしめる。
「……ごめんなさい……っ」
それだけを絞り出し、乃愛は女子たちの横をすり抜けた。
涙で前が滲む。
それでも足を止めることはできなかった。
――羽瀬くんの邪魔には、なりたくない。
握りしめた赤いハチマキを胸元へ引き寄せ、乃愛は人気のない校舎へ駆け込んだ。
その後ろ姿を見届けると、茶トラも女子たちから距離を取るようにフェンスの上へ飛び乗った。
そして、遠ざかっていく乃愛を心配そうにじっと見つめていた。
乃愛が向かった先は……。
誰もいない、あの図書室だった――。
グラウンドから実況のアナウンスや応援の声が響く中、校舎の裏手だけは嘘のように静かだった。
少し前、次の競技を待っていた乃愛は、普段ほとんど話したことのないクラスの女子たちから、「ちょっと話があるんだけど」と声をかけられた。
何の話だろうと思いながらついてきた先は、以前、琉生と茶トラに会いに来た校舎裏だった。
グラウンドの賑わいから遠ざかるにつれ、乃愛の胸に小さな不安が広がっていく。
そして今――。
乃愛は、その女子たちに囲まれていた。
右手首には、朝、琉生に結んでもらった赤いハチマキが揺れている。
「ねぇ、白石さん。ちょっと聞きたいんだけど」
腕を組んだ女子の一人が、乃愛をまっすぐ見つめた。
「今日の借り物競争。羽瀬くん、お題の紙を見たあと、白石さんのところに一直線だったよね」
「……っ」
「ダンスのときだって、ずっと白石さんのこと見てたし」
思わず俯くと、別の女子が続ける。
「それだけじゃないから」
その言葉に、乃愛が顔を上げた。
「授業中とか放課後、こっそり手首ぐるぐる回して、二人だけで合図してるでしょ」
「――っ!」
息が止まった。
「うちら、何回も見てるから」
誰にも知られていないと思っていた。
右隣の席の琉生と乃愛だけの、大切な秘密の合図。
それを他の誰かに見られていた。
乃愛は無意識に、右手首のハチマキへ左手を重ねた。
「……やっぱりそうなんだ」
「ち、違……」
否定しようとして、言葉が続かない。
合図を送り合っていたことは、本当だから。
「私たち、一年のときから羽瀬くんのこと見てたんだよ」
女子の一人が、悔しそうに唇を噛んだ。
「二年で同じクラスになれて喜んでたのに……気づいたら、羽瀬くんが見てるの、いつも白石さんじゃん」
その声に、乃愛は何も返せなかった。
「でも、私たちが言いたいの、それだけじゃないから」
さっきまでとは違う声に、乃愛がゆっくり顔を上げる。
「羽瀬くん、今度の公式戦、Jクラブの下部組織のスカウトが見に来るんでしょ?」
「……スカウト?」
初めて聞く言葉だった。
「知らなかったの?」
胸の奥がざわついた。
「羽瀬くんにとって、すごく大事な時期なんだよ。ずっとサッカー頑張ってきたんだから」
それなら、乃愛だって知っている。
放課後のグラウンドで。
渡り廊下から。
何度も見てきた。
誰より真剣にボールを追いかける琉生の姿を。
「なのに、授業中まで合図したり、今日だってあんなふうに一緒に走ったり……」
女子の声が、少しずつ強くなる。
「羽瀬くんは優しいから相手してくれてるのかもしれないけど、そんなことで気を散らして、サッカーの邪魔するのやめてよ」
「――っ」
胸の奥を、鋭いものが貫いた。
――私が、羽瀬くんの邪魔をしてる?
今まで楽しくて仕方なかった、二人だけの合図。
琉生が笑ってくれることが嬉しくて、何度も送り返した。
だけど、それが彼の大切な夢を邪魔しているのだとしたら。
「私……そんなつもりじゃ……」
震える声しか出なかった。
「じゃあ、少しは考えてよ」
言い返せなかった。
スカウトが来ることも。
琉生がどれほどサッカーを大切にしているのかも。
乃愛には、否定できなかった。
視界が滲み、ぽろりと涙が頬を伝う。
そのときだった。
「――ニャアッ!」
鋭い鳴き声とともに、フェンスの隙間から茶トラが飛び出してきた。
「――シャーッ!」
毛を逆立て、乃愛をかばうように女子たちとの間へ立つ。
「な、なにこの猫……!」
「ちょっと……!」
女子たちが驚いて後ずさった。
あんなに臆病だった、小さな茶トラ。
それなのに今は、乃愛の前から逃げようとしない。
「……茶トラ……」
その小さな背中を見た瞬間、堪えていた涙が溢れた。
――これ以上、ここにいちゃだめだ。
羽瀬くんの大切な夢を、邪魔したくない。
朝、琉生くんが結んでくれた赤いハチマキへ視線を落とす。
このまま私がそばにいたら、本当に羽瀬くんの邪魔になってしまうかもしれない。
そう思うと、お守りだったはずのハチマキをつけていることさえ苦しくなった。
乃愛は震える指で、右手首のハチマキをそっとほどいた。
けれど、手放すことはできなかった。
赤い布を両手でぎゅっと握りしめる。
「……ごめんなさい……っ」
それだけを絞り出し、乃愛は女子たちの横をすり抜けた。
涙で前が滲む。
それでも足を止めることはできなかった。
――羽瀬くんの邪魔には、なりたくない。
握りしめた赤いハチマキを胸元へ引き寄せ、乃愛は人気のない校舎へ駆け込んだ。
その後ろ姿を見届けると、茶トラも女子たちから距離を取るようにフェンスの上へ飛び乗った。
そして、遠ざかっていく乃愛を心配そうにじっと見つめていた。
乃愛が向かった先は……。
誰もいない、あの図書室だった――。


