隣の席のキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~

カフェを出ると、空はすっかり藍色に染まり、駅へ続く並木道には街灯が灯り始めていた。

涼しい夕風に、乃愛のハーフアップの髪が揺れる。

二人の間には、さっき撮り合った写真の余韻がまだ残っていた。

「……白石さんが撮った俺のやつ、やっぱ恥ずい」

歩きながらスマホを見ていた琉生が、困ったように呟く。

「ふふ。私はお気に入りだよ」

「お気に入りとか言うなって……」

琉生は耳を赤くして、スマホをポケットへしまった。

「俺だって、白石さんの写真、絶対消さないからな」

「えっ……」

「今日の白石さん、ずっと可愛かったし」

「……っ」

あまりにも真っ直ぐ言われて、乃愛は何も返せなくなった。

そんな乃愛を見て、琉生が小さく笑う。

二人はそのまま並んで歩いた。

けれど、やがて駅の明かりが見えてくる。

朝はあんなに緊張しながら待ち合わせた場所。

そこへ戻れば、今日という一日が終わってしまう。

そう思った瞬間、乃愛の胸に寂しさが込み上げた。

「……羽瀬くん」

乃愛が足を止めると、琉生も振り返った。

「ん?」

「あの……今日一日、羽瀬くんといられて、すっごく楽しかったです」

鞄の紐をぎゅっと握りながら、乃愛はそっと琉生を見上げた。

「だから……もう帰らなきゃいけないと思うと、寂しいなって」

「……っ」

琉生の目が大きくなる。

視線が重なった途端、恥ずかしさに耐えきれなくなって、乃愛はすぐに俯いた。

心臓は今にも飛び出しそうだった。

それでも、ここで終わりたくない。

「また一緒にお出かけできたら……嬉しいな、なんて」

消え入りそうな声で言ってから、乃愛はもう一度だけ、そっと顔を上げた。

琉生と目が合う。

今度も長くは見ていられなくて、すぐに視線は揺れてしまった。

それでも――言えた。

恥ずかしくて、まともに目を合わせていられなくても。

自分の気持ちだけは、ちゃんと言葉にできた。

しばらく、琉生は何も言わなかった。

驚いたように乃愛を見つめたまま、唇をきゅっと結ぶ。

それから一度だけ視線を落とし、何かを堪えるように小さく息を吐いた。

「……白石さん、それ、本気で言ってる?」

「え……?」

「俺とまた出かけたいって。……帰るの、寂しいって」

確かめるような声だった。

乃愛は恥ずかしさに視線を揺らしながらも、小さく頷く。

「……うん」

その返事を聞いた瞬間、琉生の表情がくしゃりと崩れた。

嬉しそうなのに、どこか困ったような顔。

「……そっか」

小さく呟いて、琉生はもう一度息を吐いた。

けれど次に顔を上げたときには、何かを決めたように乃愛を真っ直ぐ見ていた。

そして、一歩。

二人の間に残っていた距離を、琉生のほうから縮めた。

そして、乃愛の右手を包み込む。

「あ……羽瀬くん……?」

触れた指先が、そのまま乃愛の指の間へ重なった。

恋人繋ぎ。

手のひらから伝わる熱に、乃愛の心臓が大きく跳ねた。

「……もう無理。俺、格好つけるの諦める」

琉生も顔を真っ赤にしていた。

「俺だって、めちゃくちゃ寂しい。……今日ずっと、手繋ぎたかった」

「……っ」

「だから、駅に着くまで……このまま歩いちゃ、だめ?」

いつもの余裕なんて、どこにもない。

それどころか、繋いだ手からは、かすかな震えまで伝わってきた。

羽瀬くんも、緊張してるんだ。

そう気づいた瞬間、胸いっぱいに広がっていた恥ずかしさが、少しずつ愛おしさへ変わっていく。

「……だめ、じゃない、です」

乃愛は真っ赤になりながら、繋いだ手にそっと力を込めた。

「私も……このまま、歩きたい、です……」

握り返した瞬間、琉生の表情がふっとほころんだ。

「……よかった」

「……うん」

二人はもう一度、並んで歩き始める。

繋いだ手をゆっくり揺らしながら、歩幅を合わせて駅へ向かった。

朝は、隣を歩くだけでも緊張していた道。

今はその同じ道を、手を繋いで歩いている。

駅までの距離が、今日だけはもっと長ければいいのに。

乃愛は本気でそう思った。


*―*―*


駅の大きな時計の下。

朝、待ち合わせをした場所へ二人は戻ってきた。

行き交う人の波の向こうには、もう改札が見えている。

その少し手前で、琉生が名残惜しそうに乃愛の手を離した。

さっきまであった温もりがなくなっただけで、右手が急に寂しく感じる。

「……じゃあ、俺、こっちだから」

「うん。……今日は、本当にありがとうございました」

「俺も、まじで楽しかった」

琉生は少し照れくさそうに笑った。

「……じゃ、また月曜日、学校でな」

「うん……また、月曜日」

「じゃあな」

小さく手を振り、琉生が改札へ向かっていく。

乃愛はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。

今日一日、一緒に勉強して。

手作りのお弁当を食べてもらって。

二人でココアを飲んで、写真を撮って。

最後には、手まで繋いだ。

楽しかった分だけ、離れていく背中が寂しい。

もう一度会えるのは、たった二日後なのに。

それでも乃愛は、琉生の姿が見えなくなるまで見送っていたかった。

そのとき――。

人混みの向こうで、琉生がふと立ち止まった。

そして振り返る。

離れているのに、その瞳は迷うことなく乃愛を見つけた。

――俺の目、白石さん専用センサーついてるから。

あの国語の時間の言葉が浮かんで、乃愛の胸が熱くなる。

琉生は周りから隠すように、お腹の前へ右手を下ろした。

そして、手首を二回。

――ぐる、ぐる。

「……っ」

声は届かない。

それでも、乃愛にはちゃんと分かった。

また、月曜日。

乃愛も小さく右手を下ろし、手首を二回回す。

――ぐる、ぐる。

それを見た琉生が、ぱっと笑った。

乃愛もつられるように笑う。

離れていても、ちゃんと届く。

琉生はもう一度小さく手を振ると、今度こそホームへ続く階段へ向かっていった。

その姿が見えなくなると、乃愛はさっきまで琉生と繋いでいた右手を、左手でそっと包んだ。

その温もりを逃がしたくないように、しばらく大切に包んでから、ゆっくりと右手を開く。

そして、手のひらをそっと見つめた。

もう離れてしまったはずなのに、そこにはまだ、琉生の手の温もりが残っているような気がした。

そして胸の奥には、最後に交わした二人だけの合図が、いつまでも温かく残っていた――。