お昼を終えたあとの、市立図書館。
静かな学習室へ戻った二人は、午後から数学の応用問題に取りかかっていた。
「あー……マジで図形とか意味分かんねぇ。この線、どこから生えてきたんだよ……」
ノートを前に本気で頭を抱える琉生がおかしくて、乃愛は小さく笑った。
「ふふ。羽瀬くん、そこはね、この角とこの角が同じになるから、こっちに線を引くと分かりやすいよ」
乃愛がノートの余白に線を引くと、琉生の表情がぱっと明るくなる。
「あ、本当だ。解けた。白石さん、マジで天才」
「大げさだよ。羽瀬くんがちゃんと公式を覚えてたからだよ」
そんなやり取りをしながら、一つ、また一つと問題を解いていく。
けれど、しばらくすると。
隣で動いていたシャープペンシルの音が止まった。
「……羽瀬くん?」
横を見ると、琉生の頭がゆっくりと揺れている。
毎日の部活に、朝からの勉強。
疲れが出たのか、長い睫毛が何度か上下したあと、琉生はとうとう腕を枕にして机へ突っ伏してしまった。
(ふふ……寝ちゃった)
いつもより無防備な寝顔に、乃愛の頬が緩む。
(ふふ……学校にいるときと同じ)
眠そうな羽瀬くんを見れば、今ではもう迷わない。
乃愛は周囲をそっと確かめると、机の下へ右手を下ろした。
そして、琉生からだけ見えるように――。
――ぐる、ぐる。
手首を二回、ゆっくりと回す。
すると琉生がうっすらと目を開けた。
「……ん……?」
まだ眠そうな瞳が、机の下の乃愛の手を捉える。
一瞬驚いたあと、その顔がふっとほころんだ。
琉生も机の下へ手を下ろし、乃愛にだけ見える位置で手首を二回回す。
――ぐる、ぐる。
ちゃんと届いた。
それだけで、乃愛の胸がくすぐったくなる。
琉生は身体を起こすと、眠そうに目元を擦った。
「……白石さんのぐるぐる、やっぱ一発で目ぇ覚めるわ」
「ふふ。よかったです」
「助かった。ありがと」
「どういたしまして」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
教室で何度も交わしてきた秘密の合図が、今日は休日の図書館でも、いつもと同じように二人を繋いでいる。
それが乃愛には、なんだか少し嬉しかった。
それからもう一度問題集に向かい、気づけば時計は午後五時を回っていた。
「今日はここまでにするか」
「うん。お疲れさまでした」
二人で荷物を片付け、図書館を出る。
外へ出ると、昼間より少し涼しくなった風が、乃愛の髪を優しく揺らした。
「あー、頭使った!」
琉生が大きく伸びをする。
「でも白石さんのおかげで、次のテスト、結構いい点狙えそう」
「羽瀬くん、ずっと集中して頑張ってたもんね」
「途中で寝たけどな」
「ふふっ」
並んで駅へ向かおうとしたところで、琉生がふと足を緩めた。
「……なぁ、白石さん。このあとさ」
「うん?」
「駅の近くに、颯人に教えてもらったココアが美味しいカフェがあるんだけど……ちょっと寄ってかね?」
思いがけない誘いに、乃愛の胸が跳ねる。
けれど、答えはすぐに決まった。
「ココア、美味しそう……。行ってみたいです」
「よかった。じゃあ――」
「あ、あの……」
乃愛は勇気を出して、もう一度琉生を見上げた。
「私も少し疲れちゃったから、甘いもの飲みたいなって思ってて……」
そこまで言って、一度言葉を止める。
本当は、それだけじゃない。
今日の朝なら、きっと胸の中にしまっていた気持ち。
けれど今は、ほんの少しだけ言葉にしてみたかった。
「……ううん。それだけじゃなくて」
「……?」
「もう少し、羽瀬くんとお話ししたいなって、思ってたから……」
「……っ」
琉生の足が止まった。
赤くなった口元を片手で隠し、しばらく何も言わない。
「は、羽瀬くん……?」
「……まだ話し足りないって思ってたの、俺だけじゃなくて安心した」
ようやく手を下ろすと、琉生は照れくさそうに笑った。
「俺も、まだ帰りたくねーなって思ってたからさ」
「……ふふ」
乃愛も嬉しくなって笑う。
朝は、二人で会うだけでもあんなに緊張していた。
それなのに今は、帰る時間が少し延びたことが、こんなにも嬉しい。
「じゃ、行こっか」
「うん」
琉生が歩き出し、乃愛もその隣へ並ぶ。
歩幅は今日一日ずっとそうしてくれていたように、乃愛に合わせてゆっくりだった。
夕日に照らされた二人の影が、並木道の上へ長く伸びていく。
まだ、帰らなくていい。
もう少しだけ羽瀬くんと一緒にいられる。
その喜びを胸に抱きながら、乃愛は彼と並んでカフェへ向かった――。
静かな学習室へ戻った二人は、午後から数学の応用問題に取りかかっていた。
「あー……マジで図形とか意味分かんねぇ。この線、どこから生えてきたんだよ……」
ノートを前に本気で頭を抱える琉生がおかしくて、乃愛は小さく笑った。
「ふふ。羽瀬くん、そこはね、この角とこの角が同じになるから、こっちに線を引くと分かりやすいよ」
乃愛がノートの余白に線を引くと、琉生の表情がぱっと明るくなる。
「あ、本当だ。解けた。白石さん、マジで天才」
「大げさだよ。羽瀬くんがちゃんと公式を覚えてたからだよ」
そんなやり取りをしながら、一つ、また一つと問題を解いていく。
けれど、しばらくすると。
隣で動いていたシャープペンシルの音が止まった。
「……羽瀬くん?」
横を見ると、琉生の頭がゆっくりと揺れている。
毎日の部活に、朝からの勉強。
疲れが出たのか、長い睫毛が何度か上下したあと、琉生はとうとう腕を枕にして机へ突っ伏してしまった。
(ふふ……寝ちゃった)
いつもより無防備な寝顔に、乃愛の頬が緩む。
(ふふ……学校にいるときと同じ)
眠そうな羽瀬くんを見れば、今ではもう迷わない。
乃愛は周囲をそっと確かめると、机の下へ右手を下ろした。
そして、琉生からだけ見えるように――。
――ぐる、ぐる。
手首を二回、ゆっくりと回す。
すると琉生がうっすらと目を開けた。
「……ん……?」
まだ眠そうな瞳が、机の下の乃愛の手を捉える。
一瞬驚いたあと、その顔がふっとほころんだ。
琉生も机の下へ手を下ろし、乃愛にだけ見える位置で手首を二回回す。
――ぐる、ぐる。
ちゃんと届いた。
それだけで、乃愛の胸がくすぐったくなる。
琉生は身体を起こすと、眠そうに目元を擦った。
「……白石さんのぐるぐる、やっぱ一発で目ぇ覚めるわ」
「ふふ。よかったです」
「助かった。ありがと」
「どういたしまして」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
教室で何度も交わしてきた秘密の合図が、今日は休日の図書館でも、いつもと同じように二人を繋いでいる。
それが乃愛には、なんだか少し嬉しかった。
それからもう一度問題集に向かい、気づけば時計は午後五時を回っていた。
「今日はここまでにするか」
「うん。お疲れさまでした」
二人で荷物を片付け、図書館を出る。
外へ出ると、昼間より少し涼しくなった風が、乃愛の髪を優しく揺らした。
「あー、頭使った!」
琉生が大きく伸びをする。
「でも白石さんのおかげで、次のテスト、結構いい点狙えそう」
「羽瀬くん、ずっと集中して頑張ってたもんね」
「途中で寝たけどな」
「ふふっ」
並んで駅へ向かおうとしたところで、琉生がふと足を緩めた。
「……なぁ、白石さん。このあとさ」
「うん?」
「駅の近くに、颯人に教えてもらったココアが美味しいカフェがあるんだけど……ちょっと寄ってかね?」
思いがけない誘いに、乃愛の胸が跳ねる。
けれど、答えはすぐに決まった。
「ココア、美味しそう……。行ってみたいです」
「よかった。じゃあ――」
「あ、あの……」
乃愛は勇気を出して、もう一度琉生を見上げた。
「私も少し疲れちゃったから、甘いもの飲みたいなって思ってて……」
そこまで言って、一度言葉を止める。
本当は、それだけじゃない。
今日の朝なら、きっと胸の中にしまっていた気持ち。
けれど今は、ほんの少しだけ言葉にしてみたかった。
「……ううん。それだけじゃなくて」
「……?」
「もう少し、羽瀬くんとお話ししたいなって、思ってたから……」
「……っ」
琉生の足が止まった。
赤くなった口元を片手で隠し、しばらく何も言わない。
「は、羽瀬くん……?」
「……まだ話し足りないって思ってたの、俺だけじゃなくて安心した」
ようやく手を下ろすと、琉生は照れくさそうに笑った。
「俺も、まだ帰りたくねーなって思ってたからさ」
「……ふふ」
乃愛も嬉しくなって笑う。
朝は、二人で会うだけでもあんなに緊張していた。
それなのに今は、帰る時間が少し延びたことが、こんなにも嬉しい。
「じゃ、行こっか」
「うん」
琉生が歩き出し、乃愛もその隣へ並ぶ。
歩幅は今日一日ずっとそうしてくれていたように、乃愛に合わせてゆっくりだった。
夕日に照らされた二人の影が、並木道の上へ長く伸びていく。
まだ、帰らなくていい。
もう少しだけ羽瀬くんと一緒にいられる。
その喜びを胸に抱きながら、乃愛は彼と並んでカフェへ向かった――。


