羽瀬くんは、乃愛から差し出された文庫本を両手で受け取った。
「白石さんの、一番好きな本か……」
少し緊張したように呟きながら、ぱらぱらとページをめくっていく。
その指が、あるページでぴたりと止まった。
そこには、ほんのり甘い桜色の付箋。
乃愛が羽瀬くんを待ちながら、何度も書いては消して、ようやく残した言葉だった。
『グラウンドから見つけてくれて、ありがとうございました。
びっくりして、まだ心臓がドキドキしています。
国語の時間、いつものお返しが少しだけできて、よかったです』
「……」
羽瀬くんが動かなくなった。
お昼休みの大合図も、国語の時間の「助けて」も。
そのとき言えなかった気持ちを、乃愛は小さな桜色の付箋に込めた。
けれど、何も言ってくれないと急に不安になる。
「……羽瀬くん?」
そっと顔を覗き込もうとした、その瞬間。
羽瀬くんが顔を上げた。
「……っ、だめだ、これ。破壊力ヤバすぎ」
「え……?」
耳まで赤くして、片手で顔を覆ってしまう。
その隙間から漏れたのは、困ったような、それでも嬉しさを隠しきれない笑い声だった。
「白石さん、こういうの反則。俺、今すぐグラウンド戻って何周でも走れそうなんだけど」
いつもは自分ばかりがドキドキさせられているのに。
今は、小さな付箋一枚で羽瀬くんのほうが真っ赤になっている。
それが少しだけ嬉しくて、乃愛の中にいたずら心が芽を出した。
「ふふ……羽瀬くんのセンサー、ちゃんと反応してくれましたか?」
「……え」
今度は羽瀬くんが目を丸くする。
数秒遅れて意味が分かったのか、さらに顔を赤くした。
「反応しまくり。……っていうか白石さん、たまに不意打ち強すぎ」
「ふふっ」
羽瀬くんは照れたように笑いながら、桜色の付箋を指先でそっとなぞった。
「これ、大事にする」
その一言に、今度は乃愛の胸が大きく鳴る。
自分が勇気を出して書いた言葉を、羽瀬くんが大切にしてくれる。
それだけで、書いてよかったと思えた。
「ねぇ、白石さん」
「うん?」
「また面白い本見つけたら、こうやって貸すから。……そのとき、また感想聞かせてよ」
「……うん。私も、楽しみに待ってます」
また、本を交換できる。
また、羽瀬くんの好きなものを教えてもらえる。
その「また」が、乃愛には小さな約束のように思えた。
「じゃあ俺、そろそろ部活戻るわ。颯人にこれ以上待たせたら、何言われるか分かんねぇし」
「うん。頑張ってね」
羽瀬くんは文庫本を大切そうに鞄へしまい、席を立った。
図書室の扉まで行ったところで、一度だけ振り返る。
そして、周りから見えないように体の陰へ手を隠して――。
手首を二回。
――ぐる、ぐる。
(……またね、ってことかな)
乃愛も胸元で小さく二回返す。
――ぐる、ぐる。
羽瀬くんは満足そうに笑うと、静かに扉の向こうへ消えていった。
「……ふふ」
一人になった窓際の席で、乃愛は羽瀬くんから借りた本を胸に抱いた。
表紙の裏には、あの淡いブルーの付箋。
(……これ、剥がしたくないな)
指先でそっと触れてから、これから読む物語が気になってページをぱらぱらとめくる。
そのときだった。
「……え?」
本の真ん中あたり。
ページの端に、もう一枚の淡いブルーが覗いている。
表紙を開いただけでは見つからない場所。
乃愛は吸い寄せられるように、そのページを開いた。
そこには、羽瀬くんの見慣れた文字があった。
『このページのセリフ、白石さんが好きそうな場面だなと思って。
気にいるといいな。』
「……っ」
一気に頬が熱くなった。
(……私のこと、考えながら読んでくれたんだ)
羽瀬くんがこの本を読んでいたとき。
この場面で立ち止まって、自分のことを思い浮かべてくれた。
その事実が、一枚目の付箋よりもずっと不意打ちだった。
「……ずるいよ、羽瀬くん」
さっき本人に言った言葉を、今度は誰もいない図書室で小さく繰り返す。
乃愛は付箋の文字を、指先でそっとなぞった。
(……これも、持って帰ろう)
家のコルクボードに貼って、大切に残しておきたい。
羽瀬くんからもらった言葉を、ひとつずつ。
そうすれば、離れているときでも、少しだけ近くに感じられる気がする。
窓から差し込む夕暮れの光の中。
淡いブルーと、桜色。
二人だけの新しい約束が、小さな付箋から静かに始まった――。
「白石さんの、一番好きな本か……」
少し緊張したように呟きながら、ぱらぱらとページをめくっていく。
その指が、あるページでぴたりと止まった。
そこには、ほんのり甘い桜色の付箋。
乃愛が羽瀬くんを待ちながら、何度も書いては消して、ようやく残した言葉だった。
『グラウンドから見つけてくれて、ありがとうございました。
びっくりして、まだ心臓がドキドキしています。
国語の時間、いつものお返しが少しだけできて、よかったです』
「……」
羽瀬くんが動かなくなった。
お昼休みの大合図も、国語の時間の「助けて」も。
そのとき言えなかった気持ちを、乃愛は小さな桜色の付箋に込めた。
けれど、何も言ってくれないと急に不安になる。
「……羽瀬くん?」
そっと顔を覗き込もうとした、その瞬間。
羽瀬くんが顔を上げた。
「……っ、だめだ、これ。破壊力ヤバすぎ」
「え……?」
耳まで赤くして、片手で顔を覆ってしまう。
その隙間から漏れたのは、困ったような、それでも嬉しさを隠しきれない笑い声だった。
「白石さん、こういうの反則。俺、今すぐグラウンド戻って何周でも走れそうなんだけど」
いつもは自分ばかりがドキドキさせられているのに。
今は、小さな付箋一枚で羽瀬くんのほうが真っ赤になっている。
それが少しだけ嬉しくて、乃愛の中にいたずら心が芽を出した。
「ふふ……羽瀬くんのセンサー、ちゃんと反応してくれましたか?」
「……え」
今度は羽瀬くんが目を丸くする。
数秒遅れて意味が分かったのか、さらに顔を赤くした。
「反応しまくり。……っていうか白石さん、たまに不意打ち強すぎ」
「ふふっ」
羽瀬くんは照れたように笑いながら、桜色の付箋を指先でそっとなぞった。
「これ、大事にする」
その一言に、今度は乃愛の胸が大きく鳴る。
自分が勇気を出して書いた言葉を、羽瀬くんが大切にしてくれる。
それだけで、書いてよかったと思えた。
「ねぇ、白石さん」
「うん?」
「また面白い本見つけたら、こうやって貸すから。……そのとき、また感想聞かせてよ」
「……うん。私も、楽しみに待ってます」
また、本を交換できる。
また、羽瀬くんの好きなものを教えてもらえる。
その「また」が、乃愛には小さな約束のように思えた。
「じゃあ俺、そろそろ部活戻るわ。颯人にこれ以上待たせたら、何言われるか分かんねぇし」
「うん。頑張ってね」
羽瀬くんは文庫本を大切そうに鞄へしまい、席を立った。
図書室の扉まで行ったところで、一度だけ振り返る。
そして、周りから見えないように体の陰へ手を隠して――。
手首を二回。
――ぐる、ぐる。
(……またね、ってことかな)
乃愛も胸元で小さく二回返す。
――ぐる、ぐる。
羽瀬くんは満足そうに笑うと、静かに扉の向こうへ消えていった。
「……ふふ」
一人になった窓際の席で、乃愛は羽瀬くんから借りた本を胸に抱いた。
表紙の裏には、あの淡いブルーの付箋。
(……これ、剥がしたくないな)
指先でそっと触れてから、これから読む物語が気になってページをぱらぱらとめくる。
そのときだった。
「……え?」
本の真ん中あたり。
ページの端に、もう一枚の淡いブルーが覗いている。
表紙を開いただけでは見つからない場所。
乃愛は吸い寄せられるように、そのページを開いた。
そこには、羽瀬くんの見慣れた文字があった。
『このページのセリフ、白石さんが好きそうな場面だなと思って。
気にいるといいな。』
「……っ」
一気に頬が熱くなった。
(……私のこと、考えながら読んでくれたんだ)
羽瀬くんがこの本を読んでいたとき。
この場面で立ち止まって、自分のことを思い浮かべてくれた。
その事実が、一枚目の付箋よりもずっと不意打ちだった。
「……ずるいよ、羽瀬くん」
さっき本人に言った言葉を、今度は誰もいない図書室で小さく繰り返す。
乃愛は付箋の文字を、指先でそっとなぞった。
(……これも、持って帰ろう)
家のコルクボードに貼って、大切に残しておきたい。
羽瀬くんからもらった言葉を、ひとつずつ。
そうすれば、離れているときでも、少しだけ近くに感じられる気がする。
窓から差し込む夕暮れの光の中。
淡いブルーと、桜色。
二人だけの新しい約束が、小さな付箋から静かに始まった――。


