放課後の図書室。
大きな窓から差し込む陽の光が、静かな室内を柔らかく照らしていた。
乃愛はいつもの窓際の席で本を開きながら、一冊の文庫本を胸に抱えていた。
五時間目の国語の授業で交わした約束。
『オッケー。じゃあ俺も行く。部活終わったら図書室行くから、待ってて』
あれから、もう三十分ほど経っている。
窓の外を見下ろせば、グラウンドではまだサッカー部の生徒たちが走り回っていた。
(……本当に、来てくれるのかな)
もちろん、部活が長引けば来られないかもしれない。
それでも「待ってて」と書いてくれた文字を思い出すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
乃愛は腕の中の文庫本を、そっと抱き直した。
これは、自分が何度も読み返してきた大好きな一冊。
もし羽瀬くんが来てくれたら、自分から渡そうと決めていた。
そのとき――。
静かな廊下から、慌ただしい足音が近づいてきた。
図書室の扉が開く。
「――っ、は……」
乃愛は思わず顔を上げた。
汗で前髪を濡らした羽瀬くんが、肩を小さく上下させながら立っている。
「……羽瀬くん」
(本当に……来てくれた)
羽瀬くんは図書室の中を見回すと、窓際に座る乃愛を見つけた。
目が合う。
その瞬間、彼はほっとしたように笑った。
まるで――見つけた、と言っているみたいに。
トクン、と胸が鳴る。
お昼休みの青空の下で交わした、大きな「ぐるぐる」が一瞬だけ蘇った。
羽瀬くんは図書室の静けさを気にしているのか、今度は足音を立てないように乃愛のところまでやって来ると、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「……待たせて、ごめん。マジで急いで来た」
声を潜めながら、まだ少し息を弾ませている。
「ううん。全然……。でも、部活、本当に大丈夫なの?」
「おう。颯人にちょっと早く抜けさせてもらった。あいつには明日、ジュース奢らねぇとな」
「ふふっ……」
思わず笑うと、羽瀬くんも嬉しそうに笑った。
私に会うために、本当に部活を早く抜けて、ここまで走ってきてくれたんだ。
そう思うと、冷房の効いた図書室にいるはずなのに、頬がじんわりと熱くなる。
「あ、そうだ」
羽瀬くんが鞄を開けた。
「実はさ、白石さんに読んでほしくて持ってきた」
取り出したのは、一冊の少し厚めの小説だった。
「これ、最近めちゃくちゃハマってるやつ。白石さんにも読んでほしくて」
そう言って、乃愛の前へ差し出す。
「……いいの?」
「もちろん。読み終わったら感想聞かせて」
「ありがとう。大切に読むね」
嬉しくて、乃愛は両手でその本を受け取った。
羽瀬くんが好きな本。
それを自分にも読んでほしいと思ってくれた。
ただそれだけなのに、彼の大切なものを少し分けてもらえたような気がした。
そっと表紙を開く。
そのとき。
「……あ」
表紙の裏から、小さな付箋が覗いていた。
乃愛の指が止まる。
そこには、羽瀬くんの少し癖のある、見慣れてきた文字が並んでいた。
『最後まで読んだら、感想教えてな。
隠れ家で茶トラと一緒に聞くから』
「……っ」
胸の奥が、きゅっと甘く締めつけられる。
あの隠れ家も。
茶トラと一緒に過ごした時間も。
羽瀬くんにとっても、ちゃんと覚えていたい時間だったんだ。
それが嬉しくて、乃愛は付箋を指先でそっと撫でた。
紙一枚なのに。
そこに書かれた短い言葉が、声で言われるよりも近くに感じる。
自分だけに残してくれた、羽瀬くんの言葉。
「……ずるい、です」
「え?」
羽瀬くんが目を丸くした。
「何が?」
「だって……」
乃愛は付箋から目を離せないまま、小さく続ける。
「こんなの、嬉しくなっちゃうから……」
言ってしまった途端、恥ずかしさが込み上げた。
けれど羽瀬くんはからかわなかった。
ただ少し照れたように、それでも嬉しそうに笑っている。
その顔を見たら、もう一つだけ勇気を出してみたくなった。
「……実は私も」
「ん?」
乃愛はずっと胸に抱えていた文庫本へ視線を落とした。
「羽瀬くんに、本……持ってきてたの」
「え、俺に?」
驚いたように目を丸くする。
その反応に胸が高鳴った。
羽瀬くんが自分の好きな本を教えてくれたから。
私も、自分の好きなものを知ってほしい。
乃愛は文庫本を両手で持つと、少し緊張しながら彼の前へ差し出した。
「これ……開けてみて、ください」
「開ける?」
「……うん」
羽瀬くんの手が、そっと本を受け取る。
大切にしてきた一冊が、初めて彼の手の中へ渡っていく。
それだけで、自分の心の一部まで渡しているような気がして、乃愛の胸はまた大きく鳴った。
「私の……一番大好きな本なんです」
大きな窓から差し込む陽の光が、静かな室内を柔らかく照らしていた。
乃愛はいつもの窓際の席で本を開きながら、一冊の文庫本を胸に抱えていた。
五時間目の国語の授業で交わした約束。
『オッケー。じゃあ俺も行く。部活終わったら図書室行くから、待ってて』
あれから、もう三十分ほど経っている。
窓の外を見下ろせば、グラウンドではまだサッカー部の生徒たちが走り回っていた。
(……本当に、来てくれるのかな)
もちろん、部活が長引けば来られないかもしれない。
それでも「待ってて」と書いてくれた文字を思い出すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
乃愛は腕の中の文庫本を、そっと抱き直した。
これは、自分が何度も読み返してきた大好きな一冊。
もし羽瀬くんが来てくれたら、自分から渡そうと決めていた。
そのとき――。
静かな廊下から、慌ただしい足音が近づいてきた。
図書室の扉が開く。
「――っ、は……」
乃愛は思わず顔を上げた。
汗で前髪を濡らした羽瀬くんが、肩を小さく上下させながら立っている。
「……羽瀬くん」
(本当に……来てくれた)
羽瀬くんは図書室の中を見回すと、窓際に座る乃愛を見つけた。
目が合う。
その瞬間、彼はほっとしたように笑った。
まるで――見つけた、と言っているみたいに。
トクン、と胸が鳴る。
お昼休みの青空の下で交わした、大きな「ぐるぐる」が一瞬だけ蘇った。
羽瀬くんは図書室の静けさを気にしているのか、今度は足音を立てないように乃愛のところまでやって来ると、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「……待たせて、ごめん。マジで急いで来た」
声を潜めながら、まだ少し息を弾ませている。
「ううん。全然……。でも、部活、本当に大丈夫なの?」
「おう。颯人にちょっと早く抜けさせてもらった。あいつには明日、ジュース奢らねぇとな」
「ふふっ……」
思わず笑うと、羽瀬くんも嬉しそうに笑った。
私に会うために、本当に部活を早く抜けて、ここまで走ってきてくれたんだ。
そう思うと、冷房の効いた図書室にいるはずなのに、頬がじんわりと熱くなる。
「あ、そうだ」
羽瀬くんが鞄を開けた。
「実はさ、白石さんに読んでほしくて持ってきた」
取り出したのは、一冊の少し厚めの小説だった。
「これ、最近めちゃくちゃハマってるやつ。白石さんにも読んでほしくて」
そう言って、乃愛の前へ差し出す。
「……いいの?」
「もちろん。読み終わったら感想聞かせて」
「ありがとう。大切に読むね」
嬉しくて、乃愛は両手でその本を受け取った。
羽瀬くんが好きな本。
それを自分にも読んでほしいと思ってくれた。
ただそれだけなのに、彼の大切なものを少し分けてもらえたような気がした。
そっと表紙を開く。
そのとき。
「……あ」
表紙の裏から、小さな付箋が覗いていた。
乃愛の指が止まる。
そこには、羽瀬くんの少し癖のある、見慣れてきた文字が並んでいた。
『最後まで読んだら、感想教えてな。
隠れ家で茶トラと一緒に聞くから』
「……っ」
胸の奥が、きゅっと甘く締めつけられる。
あの隠れ家も。
茶トラと一緒に過ごした時間も。
羽瀬くんにとっても、ちゃんと覚えていたい時間だったんだ。
それが嬉しくて、乃愛は付箋を指先でそっと撫でた。
紙一枚なのに。
そこに書かれた短い言葉が、声で言われるよりも近くに感じる。
自分だけに残してくれた、羽瀬くんの言葉。
「……ずるい、です」
「え?」
羽瀬くんが目を丸くした。
「何が?」
「だって……」
乃愛は付箋から目を離せないまま、小さく続ける。
「こんなの、嬉しくなっちゃうから……」
言ってしまった途端、恥ずかしさが込み上げた。
けれど羽瀬くんはからかわなかった。
ただ少し照れたように、それでも嬉しそうに笑っている。
その顔を見たら、もう一つだけ勇気を出してみたくなった。
「……実は私も」
「ん?」
乃愛はずっと胸に抱えていた文庫本へ視線を落とした。
「羽瀬くんに、本……持ってきてたの」
「え、俺に?」
驚いたように目を丸くする。
その反応に胸が高鳴った。
羽瀬くんが自分の好きな本を教えてくれたから。
私も、自分の好きなものを知ってほしい。
乃愛は文庫本を両手で持つと、少し緊張しながら彼の前へ差し出した。
「これ……開けてみて、ください」
「開ける?」
「……うん」
羽瀬くんの手が、そっと本を受け取る。
大切にしてきた一冊が、初めて彼の手の中へ渡っていく。
それだけで、自分の心の一部まで渡しているような気がして、乃愛の胸はまた大きく鳴った。
「私の……一番大好きな本なんです」


