大合図があった日の五時間目、国語の授業。
教室には、先生が黒板にチョークを走らせる音が規則正しく響いていた。
乃愛の胸にはまだ、青空へ大きく描かれた「ぐるぐる」が残っている。
(……まだ、ドキドキしてる)
ノートを取りながら、ちらりと右隣を見る。
羽瀬くんは何事もなかったような顔で黒板を見ている。
ついさっき、あんなに大きな合図を送ってきた人とは思えない。
乃愛が慌てて前を向くと、カサリ、と小さな音がした。
羽瀬くんの国語の教科書が、机の境界線を越えてこちらへ滑ってくる。
開かれたページの余白には、見慣れてきた少し癖のある文字。
『さっき渡り廊下にいたの、すぐ分かった。合図、返してくれてすげー嬉しかった』
「――っ」
やっぱり、気のせいじゃなかった。
乃愛は先生の様子をうかがいながら、シャーペンを握る。
『びっくりしました。あんなに人がいたのに、気づいてくれるなんて思わなくて……。隣に高城くんもいましたけど、からかわれませんでしたか?』
そっと教科書を押し戻す。
羽瀬くんはそれを読むと、声を殺して笑った。
『颯人にはバレてる(笑)でも大丈夫。あいつ、俺らの味方だから』
(……やっぱり、高城くんも知ってるんだ)
少し恥ずかしい。
でも、さっき羽瀬くんのために時間を作ってくれたことを思い出すと、不思議と嫌ではなかった。
すぐに、もう一行が書き加えられる。
『今日、白石さん図書室行く日だっただろ。だから渡り廊下通るかなって見てた』
「……っ」
胸が、また大きく跳ねた。
偶然じゃなかった。
私が図書室へ行く日を覚えていて、探してくれていたんだ。
嬉しさを隠すように、乃愛は急いで返事を書く。
『でも、グラウンドから二階の窓なんて、本当はよく見えないはずです』
教科書を返すと、羽瀬くんは少しだけ考えて――すぐにペンを走らせた。
『俺の目、白石さん専用センサーついてるから(笑)』
(……専用センサーって)
思わず笑いそうになって、乃愛は慌てて口元を押さえた。
そのとき。
「――よし。じゃあ次の段落、羽瀬。読んでみろ」
「っ!」
羽瀬くんの肩が跳ねた。
慌てて教科書を引き戻そうとして、机の端から落としかける。
二人が同時に手を伸ばした。
「あ……」
教科書を押さえた指先が、ほんの一瞬だけ重なる。
熱い。
乃愛が慌てて手を引くのとほとんど同時に、
「ん? どうした羽瀬。早く立て」
先生から声が飛んだ。
「あ、はい!」
羽瀬くんは立ち上がったものの、筆談に夢中だったせいで、どこを読めばいいのか分からないらしい。
視線だけが教科書の上をさまよっている。
そして――。
机の陰で、左手が必死に二回動いた。
――ぐる、ぐる。
(……ふふっ)
いつもの余裕は、どこへ行ってしまったんだろう。
全校集会では眠気を覚ますために。
お昼休みには、遠く離れたグラウンドから。
そして今度は――「助けて」。
同じ「ぐるぐる」なのに、少しずつ二人だけの言葉が増えていく。
乃愛は笑いをこらえながら、自分の教科書の一か所を指先でそっと叩いた。
(ここです)
それに気づいた羽瀬くんが、ほっとしたように息をつく。
「――『その時、空を見上げると……』」
何事もなかったように朗読を始める声に、乃愛はまた小さく笑った。
読み終えて席に座ると、羽瀬くんはすぐに教科書をこちらへ滑らせてくる。
『笑ったな? でも助かった。ありがと』
その下に、少し間を空けてもう一言。
『……そういえば、今日の放課後って図書室行く?』
(え……?)
乃愛は手元の文庫本へ目を落とした。
お昼休みは大合図に夢中になってしまい、本を返しそびれている。
だから放課後、もう一度図書室へ行くつもりだった。
『はい。返す本があるので行きます。でも、羽瀬くんは部活ですよね?』
教科書を返す。
羽瀬くんはその文字を読むと、嬉しそうに目を細めた。
そして、迷うことなく書き始める。
『オッケー。じゃあ俺も行く。部活終わったら図書室行くから、待ってて』
「……っ」
羽瀬くんが、図書室に来る。
私に会うために。
そう思った瞬間、頬がまた熱くなった。
羽瀬くんは教科書を自分の机へ戻すと、何事もなかったように前を向く。
そのまま机の下で、手首を二回。
――ぐる、ぐる。
乃愛も小さく返した。
――ぐる、ぐる。
(放課後、また羽瀬くんに会える……)
しかも今度は、偶然じゃない。
羽瀬くんが、私に会うために図書室へ来てくれる。
手の中の文庫本が、さっきまでとは少し違うものに思えた。
まるで、放課後へ続く小さな約束の切符みたいに――。
教室には、先生が黒板にチョークを走らせる音が規則正しく響いていた。
乃愛の胸にはまだ、青空へ大きく描かれた「ぐるぐる」が残っている。
(……まだ、ドキドキしてる)
ノートを取りながら、ちらりと右隣を見る。
羽瀬くんは何事もなかったような顔で黒板を見ている。
ついさっき、あんなに大きな合図を送ってきた人とは思えない。
乃愛が慌てて前を向くと、カサリ、と小さな音がした。
羽瀬くんの国語の教科書が、机の境界線を越えてこちらへ滑ってくる。
開かれたページの余白には、見慣れてきた少し癖のある文字。
『さっき渡り廊下にいたの、すぐ分かった。合図、返してくれてすげー嬉しかった』
「――っ」
やっぱり、気のせいじゃなかった。
乃愛は先生の様子をうかがいながら、シャーペンを握る。
『びっくりしました。あんなに人がいたのに、気づいてくれるなんて思わなくて……。隣に高城くんもいましたけど、からかわれませんでしたか?』
そっと教科書を押し戻す。
羽瀬くんはそれを読むと、声を殺して笑った。
『颯人にはバレてる(笑)でも大丈夫。あいつ、俺らの味方だから』
(……やっぱり、高城くんも知ってるんだ)
少し恥ずかしい。
でも、さっき羽瀬くんのために時間を作ってくれたことを思い出すと、不思議と嫌ではなかった。
すぐに、もう一行が書き加えられる。
『今日、白石さん図書室行く日だっただろ。だから渡り廊下通るかなって見てた』
「……っ」
胸が、また大きく跳ねた。
偶然じゃなかった。
私が図書室へ行く日を覚えていて、探してくれていたんだ。
嬉しさを隠すように、乃愛は急いで返事を書く。
『でも、グラウンドから二階の窓なんて、本当はよく見えないはずです』
教科書を返すと、羽瀬くんは少しだけ考えて――すぐにペンを走らせた。
『俺の目、白石さん専用センサーついてるから(笑)』
(……専用センサーって)
思わず笑いそうになって、乃愛は慌てて口元を押さえた。
そのとき。
「――よし。じゃあ次の段落、羽瀬。読んでみろ」
「っ!」
羽瀬くんの肩が跳ねた。
慌てて教科書を引き戻そうとして、机の端から落としかける。
二人が同時に手を伸ばした。
「あ……」
教科書を押さえた指先が、ほんの一瞬だけ重なる。
熱い。
乃愛が慌てて手を引くのとほとんど同時に、
「ん? どうした羽瀬。早く立て」
先生から声が飛んだ。
「あ、はい!」
羽瀬くんは立ち上がったものの、筆談に夢中だったせいで、どこを読めばいいのか分からないらしい。
視線だけが教科書の上をさまよっている。
そして――。
机の陰で、左手が必死に二回動いた。
――ぐる、ぐる。
(……ふふっ)
いつもの余裕は、どこへ行ってしまったんだろう。
全校集会では眠気を覚ますために。
お昼休みには、遠く離れたグラウンドから。
そして今度は――「助けて」。
同じ「ぐるぐる」なのに、少しずつ二人だけの言葉が増えていく。
乃愛は笑いをこらえながら、自分の教科書の一か所を指先でそっと叩いた。
(ここです)
それに気づいた羽瀬くんが、ほっとしたように息をつく。
「――『その時、空を見上げると……』」
何事もなかったように朗読を始める声に、乃愛はまた小さく笑った。
読み終えて席に座ると、羽瀬くんはすぐに教科書をこちらへ滑らせてくる。
『笑ったな? でも助かった。ありがと』
その下に、少し間を空けてもう一言。
『……そういえば、今日の放課後って図書室行く?』
(え……?)
乃愛は手元の文庫本へ目を落とした。
お昼休みは大合図に夢中になってしまい、本を返しそびれている。
だから放課後、もう一度図書室へ行くつもりだった。
『はい。返す本があるので行きます。でも、羽瀬くんは部活ですよね?』
教科書を返す。
羽瀬くんはその文字を読むと、嬉しそうに目を細めた。
そして、迷うことなく書き始める。
『オッケー。じゃあ俺も行く。部活終わったら図書室行くから、待ってて』
「……っ」
羽瀬くんが、図書室に来る。
私に会うために。
そう思った瞬間、頬がまた熱くなった。
羽瀬くんは教科書を自分の机へ戻すと、何事もなかったように前を向く。
そのまま机の下で、手首を二回。
――ぐる、ぐる。
乃愛も小さく返した。
――ぐる、ぐる。
(放課後、また羽瀬くんに会える……)
しかも今度は、偶然じゃない。
羽瀬くんが、私に会うために図書室へ来てくれる。
手の中の文庫本が、さっきまでとは少し違うものに思えた。
まるで、放課後へ続く小さな約束の切符みたいに――。


