隣の席のキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~

五月の月曜日、昼休み。

校舎と体育館を繋ぐ二階の渡り廊下には、大きなガラス窓から眩しい光が差し込んでいた。

全校集会で初めて「ぐるぐる」を送ってから数日。

授業中、羽瀬くんが眠そうにしているときや、ふと目が合ったとき。二人は誰にも見つからないように、机の下で小さな合図を交わすようになっていた。

だけど、それはいつも周囲の背中に隠れた、小さな秘密だった。

いつもたくさんの人に囲まれている羽瀬くんは、日向の人。

クラスの隅にいる私は、日陰の人。

その境界線がなくなることはないのかもしれない――どこかで、そう思っていた。

今日は図書室へ本を返しに行く日だった。乃愛は胸に文庫本を抱え、一人で渡り廊下を歩いていた。

何気なく窓の外へ目を向けた、そのとき。

「……あ」

グラウンドでは、体操服姿の男子たちがサッカーをしていた。

その中心で、誰よりも軽やかにボールを追っている羽瀬くんの姿がある。

「羽瀬、パス!」

声が飛ぶ。

羽瀬くんは相手をかわすと、迷いなく足を振り抜いた。

ボールがゴールネットを揺らす。

「よっしゃ!」

仲間たちとハイタッチを交わし、前髪をくしゃっとかき上げる。

グラウンドの端からは、

「羽瀬くん、格好いい……!」

そんな女子たちの声も聞こえてきた。

胸の奥が、ぎゅっとなる。

(……やっぱり、羽瀬くんは遠い人だ)

みんなの中心にいて、あんなに広い青空の下が似合う男の子。

私との秘密の合図だって、教室の机の下や誰もいない場所だからできるものなのかもしれない。

少し寂しくなって、乃愛が視線を落としかけた。

そのときだった。

グラウンドでは、次の試合に向けて男子たちが動き始めていた。

その中で、一人の男子がほかの部員たちへ何かを告げている。

(……高城くん?)

羽瀬くんといつも一緒にいる、高城颯人。

高城くんはほかの男子たちを先にポジションへ向かわせると、羽瀬くんの肩をぽんと叩いた。

そして、二階の渡り廊下をちらりと見上げる。

(え……?)

次の瞬間。

羽瀬くんが、弾かれたように顔を上げた。

何十枚と並ぶガラス窓。

その中から迷うことなく、まっすぐに。

羽瀬くんの視線が、乃愛を捉えた。

「……えっ」

距離はあるはずなのに、目が合ったとはっきり分かった。

(どうして……?)

試合の途中なのに。

こんなにたくさんの人がいるのに。

(どうして、私を見つけてくれたの……?)

羽瀬くんは一瞬驚いたような顔をして、それから太陽みたいに笑った。

そして――右腕を高く掲げる。

真っ青な空へ届きそうなくらい、大きく。

手首を二回。

――ぐる、ぐる!

「……っ!」

全校集会のときとはまるで違う。

隠す気なんてないみたいに、大きく、力強い「ぐるぐる」。

周りにいた女子たちが、

「キャー! 羽瀬くん、こっち見てる!」

と騒ぎ始める。

だけど。

羽瀬くんの目は、ずっと乃愛を見ていた。

(……私に、送ってくれてる)

胸の奥が、熱くなる。

――白石さん、ここにいるよ。

声なんて聞こえないのに、青空に描かれた大きな合図が、そう呼びかけてくれているような気がした。

乃愛は抱えていた本から片手を離す。

あんなに堂々と合図を送る勇気は、まだない。

それでも。

お腹の前で、小さく手首を二回。

――ぐる、ぐる。

ガラス越しで、こんなに小さな合図。

見えないかもしれない。

けれど次の瞬間、遠くの羽瀬くんが嬉しそうに拳を握った。

「……!」

ちゃんと、届いたんだ。

私を見つけてくれたんだ。

教室の机の下だけじゃない。

誰もいない場所だけでもない。

こんなに眩しい太陽の下でも、たくさんの人に囲まれていても。

二人だけに分かる言葉は、ちゃんと繋がる。

乃愛は文庫本をもう一度胸に抱きしめた。

顔が熱い。心臓もうるさい。

それでも今は、その全部が嬉しかった。

窓の向こうでは、高城くんに肩を小突かれた羽瀬くんが、笑いながら再びグラウンドを駆けていく。

乃愛も小さく笑って、図書室へ向かって歩き出した。

さっきまで遠く感じていた青空が、ほんの少しだけ近くなった気がした。


*―*―*


(……今日、白石さんが図書室に行く日だ)

シュートを決めて仲間たちとハイタッチを交わしながらも、琉生は何度も校舎の二階を気にしていた。

あの渡り廊下を通って、白石さんは図書室へ向かうはず。

「おい琉生。次のポジションどうする? ……って、またあっち見てんのかよ」

隣から呆れた声がした。

颯人だ。

琉生の視線の先を確認すると、すぐに事情を察したらしい。

「悪い、颯人。ちょっと秒で用事済ませるから」

「……しょうがねぇな。早くしろよ」

颯人は小さくため息をつくと、こちらへ来ようとした部員たちを止めた。

「羽瀬、ちょっと足ひねったっぽいから俺が見とく。先にポジションついてて」

「え、羽瀬大丈夫か?」

「大丈夫。次、始めるぞ」

颯人の一言で、部員たちはグラウンドへ散っていく。

(颯人、マジでサンキュー……!)

できたのは、ほんの数十秒。

琉生は眩しい光を遮るように手をかざし、二階の渡り廊下を見上げた。

何十枚ものガラス窓。

その中に、本を胸に抱えて歩く小さな姿が見える。

(――見つけた)

心臓が跳ねた。

白石さんだ。

けれど、彼女はどこか寂しそうな顔でグラウンドを見ていた。

今にも目を伏せてしまいそうで。

その瞬間、迷う理由なんてなくなった。

周りの女子たちが誰を見ているかなんて関係ない。

俺が今、見つけてほしいのは白石さんだけだった。

琉生は青空へ右腕を高く掲げる。

そして、大きく二回。

――ぐる、ぐる!

遠くの乃愛の体が、小さく跳ねた。

驚いたように立ち尽くしたあと、彼女は本からそっと片手を離す。

そして、お腹の前で。

本当に小さく。

――ぐる、ぐる。

「――よしっ」

思わず拳を握った。

あんなに小さな返事なのに、琉生にはちゃんと見えた。

全校集会で初めて乃愛から届いたときと同じように、胸の奥が一気に熱くなる。

「おい琉生、足はもう大丈夫そうか?」

後ろから、颯人がわざとらしく大きな声を出した。

振り返ると、その目は明らかに笑っている。

「おう、ばっちり復活した! 颯人、マジで助かった!」

「はいはい。ほら、行くぞ。白石さん、まだ見てるから格好悪いとこ見せんなよ」

「分かってるって!」

肩を小突かれ、琉生は再びグラウンドへ駆け出した。

さっきまでより、体が軽い。

小さな「ぐるぐる」ひとつで、こんなに嬉しくなるなんて、自分でもどうかしていると思う。

それでも。

(……今日も、図書室行くのかな)

さっき渡り廊下を歩いていたのなら、昼休みに本を返しに行っただけかもしれない。

でも、もし放課後も行くなら――。

(……あとで、聞いてみよ)

もう少し白石さんと話したい。

そんなことを考えただけで、琉生の足はさっきまでより軽く、ボールへ向かって駆け出していった――。