《乃愛視点》
六時限目の体育館。
何百人もの生徒が学年ごとに整列して座るなか、スピーカーから校長先生の低い声が響いている。
あの放課後、茶トラを見に行ってから数日が経っていた。
その間も、羽瀬くんと交わした約束がずっと胸に残っている。
──眠くなったら、私から「ぐる、ぐる」。
送れるわけがない、と思っていた。
自分から、それも男の子に合図を送るなんて、私には勇気が必要すぎる。
だけど今日、その約束は思いがけずやってきた。
背の順に並ぶ全校集会では、小柄な私は女子の列の少し前。背の高い羽瀬くんは、右隣の男子の列の後ろのほうにいる。
校長先生の話が始まってしばらくした頃、私は誰にも気づかれないように、そっと右斜め後ろへ視線を向けた。
(あ……やっぱり、眠そう……)
男子たちの隙間から見えた羽瀬くんは、眠気と必死に戦っていた。
瞼がゆっくり閉じては、ハッと頭を上げる。
そしてついに、カクンと大きく首が落ちた。
(羽瀬くん……)
その瞬間、あの日の言葉が蘇る。
──白石さんからの「ぐる、ぐる」なら、一発で目が覚める。
今、私が送ったら、本当に気づいてくれるのかな。
でも、こんなに人がいるのに。
誰かに見られたら――。
膝を抱える腕に、ぎゅっと力が入った。
怖い。
それでも、彼の力になりたい。
あの「内緒の約束」を、ただの冗談で終わらせたくない。
私は小さく息を吸い、もう一度だけ羽瀬くんを振り返った。
周りの生徒たちの影に隠れるように、右手をそっと身体の横へ下ろす。
そして、手首を二回。
──ぐる、ぐる。
小さく、ゆっくりと回した。
(……やっぱり、届かないよね)
距離もある。
恥ずかしさに耐えられなくなって手を戻そうとした、そのとき。
羽瀬くんの肩が、ぴくっと動いた。
「……っ」
顔が上がる。
男子たちの隙間から、まっすぐに視線が重なった。
(──気づいてくれたの……?)
羽瀬くんは一瞬驚いた顔をしたあと、本当に嬉しそうに笑った。
何百人もの生徒がいる体育館のなかで。
今、彼だけが私を見つめて笑っている。
それだけで胸がいっぱいになった。
すると羽瀬くんは、周りから見えないように右手をそっとお腹の前へ下ろした。
そして。
──ぐる、ぐる。
私と同じように、手首を二回回してくれた。
(返して……くれた)
顔が一気に熱くなる。
私は慌てて前を向くと、そのまま抱えていた膝へ顔を伏せた。
(できた……)
心臓が、痛いくらいに鳴っている。
(私、羽瀬くんに、自分から合図を送れたんだ……)
何百人もいる体育館のなかで、二人にしか意味の分からない「ぐる、ぐる」が、確かに届いた。
ほんの小さな合図なのに。
今の私には、それがとても大きな一歩に思えた――。
*―*―*
《琉生視点》
(……やばい。寝る)
校長先生の声を聞きながら、俺は何度目か分からないくらい落ちそうになる頭を持ち上げた。
昨日の居残り練習の疲れもあって、さっきから眠気が限界まで来ている。
もう一度瞼が閉じかけた、そのとき。
右斜め前で、何かが小さく動いた。
(……ん?)
重い瞼を開け、男子たちの隙間から目を凝らす。
そこにいたのは、白石さんだった。
そして、その身体の横で。
小さな右手が、そっと二回動く。
──ぐる、ぐる。
「――っ」
一瞬で目が覚めた。
(……マジで、やってくれた)
あの日、二人で決めた約束。
眠そうにしていたら、白石さんから俺に「ぐる、ぐる」。
冗談みたいに交わした約束を、あんなに恥ずかしがり屋の白石さんが、本当に送ってくれた。
しかも、こんなに大勢の生徒がいる場所で。
俺のために、勇気を出して。
そう思ったら、嬉しくて仕方なかった。
目が合った白石さんに、思わず笑ってしまう。
(……ほんとに一発で目ぇ覚めたわ)
ちゃんと届いたと伝えたくて、俺も周りから見えない位置へ右手を下ろした。
そして、白石さんにだけ見えるように。
──ぐる、ぐる。
手首を二回、回し返す。
遠くで白石さんの肩がびくっと跳ねた。
次の瞬間には慌てて前を向き、抱えていた膝へ顔を隠してしまう。
「……っ、く」
思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
きっと今頃、顔も耳も真っ赤なんだろう。
そんな姿まで簡単に想像できるようになった自分に気づいて、胸の奥がまた熱くなる。
最初は、大人しくて可愛い子だと思っていただけだった。
でも、今は違う。
俺の前で一生懸命に言葉を返してくれるところも。
すぐ真っ赤になるところも。
今日みたいに、勇気を出して合図を送ってくれるところも。
(……あー、だめだ。これ)
もう、「ただの隣の席の女の子」なんて思えない。
あの真っ赤な顔も、一生懸命な「ぐる、ぐる」も。
できるなら、俺だけが知っていたい。
そんなことを考えている自分がおかしくて、俺は小さく息を吐いた。
眠気なんて、もうどこにも残っていない。
前を向き直っても、胸の奥にはまだ、さっきの小さな「ぐる、ぐる」が残っていた――。
六時限目の体育館。
何百人もの生徒が学年ごとに整列して座るなか、スピーカーから校長先生の低い声が響いている。
あの放課後、茶トラを見に行ってから数日が経っていた。
その間も、羽瀬くんと交わした約束がずっと胸に残っている。
──眠くなったら、私から「ぐる、ぐる」。
送れるわけがない、と思っていた。
自分から、それも男の子に合図を送るなんて、私には勇気が必要すぎる。
だけど今日、その約束は思いがけずやってきた。
背の順に並ぶ全校集会では、小柄な私は女子の列の少し前。背の高い羽瀬くんは、右隣の男子の列の後ろのほうにいる。
校長先生の話が始まってしばらくした頃、私は誰にも気づかれないように、そっと右斜め後ろへ視線を向けた。
(あ……やっぱり、眠そう……)
男子たちの隙間から見えた羽瀬くんは、眠気と必死に戦っていた。
瞼がゆっくり閉じては、ハッと頭を上げる。
そしてついに、カクンと大きく首が落ちた。
(羽瀬くん……)
その瞬間、あの日の言葉が蘇る。
──白石さんからの「ぐる、ぐる」なら、一発で目が覚める。
今、私が送ったら、本当に気づいてくれるのかな。
でも、こんなに人がいるのに。
誰かに見られたら――。
膝を抱える腕に、ぎゅっと力が入った。
怖い。
それでも、彼の力になりたい。
あの「内緒の約束」を、ただの冗談で終わらせたくない。
私は小さく息を吸い、もう一度だけ羽瀬くんを振り返った。
周りの生徒たちの影に隠れるように、右手をそっと身体の横へ下ろす。
そして、手首を二回。
──ぐる、ぐる。
小さく、ゆっくりと回した。
(……やっぱり、届かないよね)
距離もある。
恥ずかしさに耐えられなくなって手を戻そうとした、そのとき。
羽瀬くんの肩が、ぴくっと動いた。
「……っ」
顔が上がる。
男子たちの隙間から、まっすぐに視線が重なった。
(──気づいてくれたの……?)
羽瀬くんは一瞬驚いた顔をしたあと、本当に嬉しそうに笑った。
何百人もの生徒がいる体育館のなかで。
今、彼だけが私を見つめて笑っている。
それだけで胸がいっぱいになった。
すると羽瀬くんは、周りから見えないように右手をそっとお腹の前へ下ろした。
そして。
──ぐる、ぐる。
私と同じように、手首を二回回してくれた。
(返して……くれた)
顔が一気に熱くなる。
私は慌てて前を向くと、そのまま抱えていた膝へ顔を伏せた。
(できた……)
心臓が、痛いくらいに鳴っている。
(私、羽瀬くんに、自分から合図を送れたんだ……)
何百人もいる体育館のなかで、二人にしか意味の分からない「ぐる、ぐる」が、確かに届いた。
ほんの小さな合図なのに。
今の私には、それがとても大きな一歩に思えた――。
*―*―*
《琉生視点》
(……やばい。寝る)
校長先生の声を聞きながら、俺は何度目か分からないくらい落ちそうになる頭を持ち上げた。
昨日の居残り練習の疲れもあって、さっきから眠気が限界まで来ている。
もう一度瞼が閉じかけた、そのとき。
右斜め前で、何かが小さく動いた。
(……ん?)
重い瞼を開け、男子たちの隙間から目を凝らす。
そこにいたのは、白石さんだった。
そして、その身体の横で。
小さな右手が、そっと二回動く。
──ぐる、ぐる。
「――っ」
一瞬で目が覚めた。
(……マジで、やってくれた)
あの日、二人で決めた約束。
眠そうにしていたら、白石さんから俺に「ぐる、ぐる」。
冗談みたいに交わした約束を、あんなに恥ずかしがり屋の白石さんが、本当に送ってくれた。
しかも、こんなに大勢の生徒がいる場所で。
俺のために、勇気を出して。
そう思ったら、嬉しくて仕方なかった。
目が合った白石さんに、思わず笑ってしまう。
(……ほんとに一発で目ぇ覚めたわ)
ちゃんと届いたと伝えたくて、俺も周りから見えない位置へ右手を下ろした。
そして、白石さんにだけ見えるように。
──ぐる、ぐる。
手首を二回、回し返す。
遠くで白石さんの肩がびくっと跳ねた。
次の瞬間には慌てて前を向き、抱えていた膝へ顔を隠してしまう。
「……っ、く」
思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
きっと今頃、顔も耳も真っ赤なんだろう。
そんな姿まで簡単に想像できるようになった自分に気づいて、胸の奥がまた熱くなる。
最初は、大人しくて可愛い子だと思っていただけだった。
でも、今は違う。
俺の前で一生懸命に言葉を返してくれるところも。
すぐ真っ赤になるところも。
今日みたいに、勇気を出して合図を送ってくれるところも。
(……あー、だめだ。これ)
もう、「ただの隣の席の女の子」なんて思えない。
あの真っ赤な顔も、一生懸命な「ぐる、ぐる」も。
できるなら、俺だけが知っていたい。
そんなことを考えている自分がおかしくて、俺は小さく息を吐いた。
眠気なんて、もうどこにも残っていない。
前を向き直っても、胸の奥にはまだ、さっきの小さな「ぐる、ぐる」が残っていた――。


