百瀬のほくろを俺だけに見せて



 久我のフェチズムへの情熱は、健在である。

 晴れの日は、格技棟の裏の階段。雨の日は、格技棟の下駄箱の前。
 久我は決まってその場所で、うずうずと待ちきれないように目を輝かせて、俺を見つめてくる。

「百瀬」
「や、わかったから、近いって……!」

 気まぐれに久我に連れ出され、ほくろを見せろとせがまれるこの日々は若干怖いけど……人のフェチズムはいろいろだろうから、まあしかたない。気づけばあの目に見られているよりは全然マシだし、カラオケの借りだってある。

「……ん!」

 ネクタイをゆるめてシャツのボタンを外すと、俺は潔く久我に鎖骨を差し出した。

 あれから自分のほくろをよくよく観察してみたけれど、どれだけ念入りに見ても、べつにごく普通の黒い点だ。
 ちょっとハートっぽいとか、色が濃いとか薄いとか、そういう特徴は特にない。

「ありがと、百瀬」

 なのに久我は、この黒い点に、見たこともないような熱い視線を注ぐんだ。

「やっぱなんかおかしくね……?」
「百瀬が言ったんじゃん。いくらでも見せるって」
「そりゃそうだけど……」
「ネクタイ、結び直すね」

 慣れた手つきで、久我は俺のネクタイを解く。

 ほくろを差し出したあとは、まるでそのお礼とでも言うように、久我は俺の不格好なネクタイを整えてくれる。それが、俺たちのお決まりの流れになっていた。

 最近は、どうせ久我がやり直してくれるし――なんて気持ちで、ネクタイをかばんに突っ込んで登校することも、なくはない。

「久我は中学もネクタイだったの?」
「おー。百瀬んとこは違うの? 学ラン?」
「いや俺んとこは、あれ、ワンタッチって言うの? もう出来上がってるやつあるじゃん」
「へえ。便利そう」

 たしかに便利だったけど、こうしていまだにうまく結べないのだから、中学から鍛えてもらっておいたほうがよかった気もする。社会人になってもこれじゃかっこつかないし。

「でもおかげでこの有様だから……コツ教えてよ」

 そう頼むと、きゅ、とネクタイを締め上げた久我の手が止まる。

「……百瀬は一生ネクタイ結べなくていいよ」
「え、やだよ! 毎朝ちょっと早起きしなきゃいけないの嫌だし」
「ははっ。寝ててもいいけど」
「………ん?」

 え、どゆこと?

「俺がずっとやってあげる」

 ぎょっとして顔を上げると、久我は俺の目をうっとりと見つめていた。

「……いや、真顔こわぁ……」
「ふはは! 冗談。でもコツはまだ教えない」
「ケチだなぁ」
「まあね」

 あーびっくりした。よかった、冗談で。冗談に決まってるよな、そんなの。一生とかそんなの…………冗談、だよな?

 その後の意味深な視線からは目を逸らして、俺は急いで自分の弁当箱の蓋を開けた。


 二人で過ごす昼休みは、まずこうしてほくろを見せると、そのあと久我は、購買のパンを片手に、本を読み始める。

 久我が読書家だということは、二人で昼休みを過ごすようになるまで知らなかったことだ。
 だから図書委員にも立候補したのかぁ、と納得したけど、久我はその話をすると、なんだか歯切れが悪くなる。
 もしかしたら本好きだということは、あまり周りに知られたくないのかもしれない。

 俺は特に本が好きってわけじゃないけど、なんとなく隣に人がいたら集中できない気もして、用が済んだなら俺は戻ろうか、と聞いたこともあるけど。
 『いい』と一言、本の世界に帰ってしまって、それっきりだ。
 
 まあ邪魔じゃないならべつにいいか、とそれ以来、本を読む久我の隣でのんびり弁当を完食するのが、俺の昼の過ごし方になっている。

 ごくん、と最後の卵焼きを飲み込んだら、静かに手を合わせる。今日もおいしかった。ごちそうさま。

 ――お、あれトラっぽい!

 食べ終わったら、晴れの日も曇りの日も、だいたいぼけーっと空を見上げて、流れていく雲を眺める。今日の雲は、勇ましく吠えるトラのように見えなくもないな。

「ごめん、百瀬つまんないよな」

 気づけばまどろみに落ちかけていたときだ。久我の声が耳に届いて、ぱっと顔を向ける。

「……へ? なんで? つまんなくないよ」

 もちろん、みんなでわいわいやるのも好きだけど。こうして春の風を感じながら外で弁当を食うのも好きだし、久我が本のページをめくる指先を隣で見るのも、結構好きだ。デジタルデトックスにもちょうどいい。

「なんでそう思うの?」
「いや……なんか付き合わせてるなって思った」
「いまさらぁ?」

 そんなふうに軽口を叩いても、案外久我は怒らない。

 みんなで過ごすときには、物言いがシンプルすぎるし、自分をはっきり持っているから、たまにきつく感じることもあったけれど。
 二人でいるときの久我は、ひどく穏やかで、それこそ……ちょっと眠たくなるような。

「久我とこうしてると、眠くなるだけ。つまんなそうに見えてたならごめん」

 へらっと笑うと、久我は下唇を噛んでから、ため息混じりに呟いた。

「百瀬……よく今日まで無事だったな」
「はぁ?」
「いつもにこにこして、なんでも許してくれるじゃん。心配だわ」
「なんでも……じゃないけど、べつに」

 ――『なんでもいいってそればっかり! たまには想くんがリードしてよ!』 不意に脳裏をよぎる、元カノの甲高い声。

 トラウマというには軽く、気にせずに新しい恋を探しにいけるほど軽くはない。結構厄介な、初彼女との記憶だ。

「……俺ってそんなにお人好しっぽい?」
「ん? お人好しっていうか、ただ優しいだけじゃね」
「……べつに優しくないんだけどなぁ」

 自分勝手なところだってあると思うし、親には頑固だと言われることもある。
 自分のせいで彼女を泣かせたのに、フラれたときだって、正直に言えば、悲しい、寂しい、申し訳ない……それだけじゃなかった。もっと汚い言葉が胸に溢れたこと、俺だけは知っているから。

 やっぱり全然、優しくなんかないと思う。

「ただ、こだわりがないだけだよ」

 俺はみんなと違って、譲れないものがあまりない。だから、人より寛容でいられるだけだ。

「……百瀬っていつも笑ってるけど、本音では無理してたりすんの?」

 久我は本を閉じて、いつの間にか一緒に空を見上げていた。

「無理……? いや、無理はしてないけど」
「わざと大袈裟にテンション上げて笑ってたり?」
「しません」
「本当はほくろを差し出すのに、強いストレスを感じてたり……?」
「あはっ……しませ~ん」
「ならよくね?」

 ごろん、とそのまま後ろに寝転んだ久我は、俺のシャツの背中をつまむ。

「……い、くないんだよ、それが」

 俺はそれに誘われるように、隣に寝転んだ。いつの間にか雲は風に乗って消え、空は一面真っ青になっていた。

「俺さぁ……この性格のせいで、元カノ泣かしたことあって。若干トラウマなの。だからもっとしっかりしなきゃーって思ってんだけどさ」
「……はー……マジ? 彼女いたことあんだ?」
「失礼な……あるよ、一応」

 まるで信じられないって声。そりゃ久我のように立ってるだけでモテるわけではないけど、俺だって好きな子にはアピールするし。告白は……結局向こうにさせてしまったけど。でも、言うつもりがないわけじゃなかった。

「……へー……そっか」

 なんだか、急に声が暗い。久我にまで俺のマイナスが伝播しちゃってないか?
 久我は俺を励まそうとしてくれたのに、悪かったな。

「ごめん、なんかどうしようもない話したな、俺」
「……まあ、なんつうか、別れたヤツのために百瀬のいいとこ変える必要なくね、とは思う」
「……いいとこ?」
「いつでも、どこでも、誰とでも、楽しくやれる。百瀬の才能じゃん」

 やわらかな声のほうに顔を向けると、久我も気づいたのかこちらを向いてくれて、自然と目が合う。

 首元を狙う、あのギラギラした視線とは違う。
 ただただ優しい視線がくすぐったくて、今日は俺が先に目を逸らしてしまった。

「な、なんだよそれぇ……」

 俺は腕で目元を隠して、これ以上だらしない顔を晒さないよう必死だった。

 いつでも、どこでも、誰とでも。
 本当にその通りだから。

 俺の『なんでもいい』は、本当になんでもいいときだけだ。だけど周りには、本音を隠してると思われたり、興味がないんだなと呆れられたり。自分がないよね、と毒づかれることもあったりする。

 けど、久我はわかってくれるんだ。

 自分をわかってもらえるのって……こんなにくすぐったいんだ。

「……ありがと、久我」

 俺が許せない自分を、言葉を尽くしてなぐさめてくれて。……うん。優しいのは俺よりもずっと、久我のほうだと思う。久我はいつだって俺に優しくしてくれるもん。

「俺的には……そのままの百瀬でいられる相手が、おすすめだけどね」
「あはは! それはそう! そんな相手いるかなぁ」

 いたとしてもその相手が自分を好きになってくれる可能性は、かなり低いと思うし。俺には高望みな気もするけど。

「今、無理してる? 百瀬」
「へ? 今? してるわけない――」

 ――……え?

 思わずびくりと肩が跳ねる。

 ふと腕をどかした瞬間に飛び込んできた久我の目つきは、鎖骨のほくろを見つめるときと同じ、熱のこもったそれだった。

「な、なんで⁉ さっき、ほくろ見せたよな……⁉」
「ほくろじゃねーっつうの」
「痛ぁ!」

 怯えた俺を、久我は遠慮なく足蹴にする。ひどい。さっきまであんなに優しかったくせに。

「はー、そろそろ戻るかぁ」

 軽やかに笑いながら先に起き上がった久我は、ごく自然に手を差し伸べてくれる。その手を取ると同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「……あーあ……」

 意図せず漏れ出たその声のまま、俺はあともう少しだけ昼休みが長ければよかったのになぁ、なんて。
 もう一度青い空を見上げて、しみじみと思った。