百瀬のほくろを俺だけに見せて


 文化祭二日目の朝、重い瞼をどうにか開いて、鏡の前に立った。

「……これが、むくみってやつか……」

 頬をぺちぺち叩きながら、普段以上にむっくりした自分の顔を眺める。

 昨晩は、ほとんど眠れなかった。
 ベッドに潜り込むと、自然と久我の顔が思い浮かぶ。夏休みのあの夜に見た獣みたいに雄々しい久我の表情が、じくじくとほくろを疼かせて、なんだかかきむしりたくなったり。
 夜明けにはとうとう、久我の甘くゆるむ瞳に、べつの理由を探そうとしていて驚いた。人って、寝ないと頭おかしくなるんだな。

 だって、久我には特別な人がいるんだ。
 この目でちゃんと見た。彼女がいるのかと聞かれて、うん、と頷く久我の姿を。

 この恋は、叶わない。だから、隠さなきゃいけない。

 これ以上好きにならないように、久我から離れるって選択肢も考えたけど、きっと無理だなとすぐに思い直した。
 恋愛感情とはべつのところで、俺は久我の隣が居心地いいんだ。離れるのはきっと無理だし、離れるのだけは嫌だとも思った。

「……自分勝手でごめん」

 届けられない謝罪の気持ちを、鏡の中の自分に呟いた。


 学校に着くと、リスの衣装にせっせと着替える。
 主役の久我や、重要な役どころの阿久津なんかの衣装は結構豪華な装飾がされているけれど、リス役の俺は、体操着の上に色付きのゴミ袋を逆さまに被って、耳カチューシャと、くるんと大きな尻尾を腰に挟んだら、もうおしまい。 とっても簡単である。

「百瀬、おはよ。もう着替え終わってんじゃん」
「あ……お、おはよー久我」

 ちょん、と俺のリス耳をつっついてきた久我にドキッとしながら振り返ると、ぎょっとした顔が返ってきた。俺もぎょっとしたよ、朝からそんな顔されて……。

「……それ、なに。どうしたの、それ」
「ん? なに、どれ?」
「これ、これこれこれ」
「ちょっ、ちょっと! 近いって……!」

 ぐいぐいと詰め寄ってくる久我は、じとっとした目で、俺の首元を見つめていた。

「ああ……これ?」

 言いながら俺は、トーンを落として鎖骨を指差す。

 今朝、出掛けに貼った絆創膏のことか。

「……虫刺され、的な?」
「は?」

 ドスの利いた低い声に、一瞬びくっとしてしまったけど。
 久我は目ざといな、やっぱり。
 鎖骨のほくろに貼った絆創膏に、すぐに気づくんだもん。それだけこの場所を見てるってことだよな。

「秋だけど、まだ蚊とか……いるのかもね~」

 俺は必死に笑って誤魔化したけど、久我の目は……全然、笑っていない。

「虫刺されって、なに」
「いや、虫刺されは虫刺され……」
「見せて」

 久我は一歩も引かず、俺に迫ってくる。ロッカーに背が当たって、もうこれ以上逃げ場がなくなってしまった。

「……や、だ」
「なんで」

 久我が怖い。初めてそう思う。でも、俺だって嫌だ。嫌なもんは嫌なんだ。

「……は、貼るの、結構大変だからっ!」
「俺が貼り直すから心配すんな」
「そうじゃなくてぇ……!」

 もう誰か助けて――圧がやばいです、この人。

「ちょっと久我ぁ! なんでまだ制服なの⁉ もうリハやるよ⁉」

 ちょうどそのとき、ノックもなしに更衣室のドアを開け放った監督に、俺は心の底から感謝していた。

「……チッ」

 ――え、いま舌打ちしたぁ……?

「……そんな怒らなくてもいーじゃん……」

 俺がほくろを隠しただけで、久我ってこんなに怒るんだ。今まで絶対俺に舌打ちなんてしなかったのに。俺がどれだけいろんなことを委ねてしまっても、いつも怒ったり呆れたりしなかったのに。

 たったほくろひとつで。

「百瀬に怒ってんじゃねーよ」
「じゃあなに……」

 まさか監督に? さすがにそれはないだろうし。

「……そこ、刺したヤツに」
「え?」

 意味がわからなくて、久我の顔を見上げる。

「……すげえむかつく」

 久我はキッと鋭く俺の鎖骨を睨みつけ、そのあと一瞬、情けなく眉を寄せた。

「くーがー‼ 早くしろって! おまえ来ねーと始めらんない――」
「今やってんだろ、待ってろよ、こっちはそれどころじゃねえんだよ!」
「なっ、なにぃ……⁉ そんなにキレなくてもいーだろうが‼」

 八つ当たりされた阿久津の言う通りだ。いつもどんなに煽られても、久我がそれに応じることはなかったのに。
 さっきの表情といい……ほくろが隠されたら、久我はこんなに荒れるのか。

 今にも泣き出しそうな顔を思い出すと、さすがに罪悪感で胸が痛む。

 少しでいいから、俺を見て欲しい。ほくろじゃなくて、俺自身を。

 そんな傲慢な気持ちから、出掛けにほくろに絆創膏を貼ってしまった自分を、心底悔やんだ。