百瀬のほくろを俺だけに見せて



 ジャズの音色と踊るように、ぷかぷかと浮かぶ煙を、ただ眺めている。
 手には、今日読み終わったはずの文庫本。

 ――あ、これ、夢だ。

 一瞬でわかった。こういうの、明晰夢っていうんだっけ。
 夢だとわかっていても動けない、不思議な感覚。

『久我ぁ!』

 カラン、と入口の鈴を鳴らして飛び込んできたのは、百瀬だった。
 まぶしい笑顔で向かいの席に座った百瀬は、どこからか出てきたコーヒーカップに口をつけ、やわらかく微笑む。

 ――おいしい?

 そう聞きたいのに、声は出ない。夢の中の俺は、ただじっと本に視線を落としている。
 俺が本を読んでいる間、百瀬は楽しそうに、漂う煙を目で追ったり、またカップに口をつけて、ほっこり嬉しそうな顔を浮かべたり。いつまでも見ていたくなった。
 百瀬はいつでもかわいいけど、笑った顔が一番かわいいから。

 そのとき、カラン、と鈴の音がもう一度鳴る。
 すると百瀬は、俺の背後の誰かに向かって、満面の笑みを浮かべた。

 ――え……誰?

 顔は、逆光でよく見えない。ただ、やけに背の高い男。

『紹介するね、俺の大切な人なんだ』
「え……⁉」

 待って、百瀬。まだ早い。まだダメ。ていうか男ってなんで――。

『じゃあ、またね。久我も元気でね』
「待って! 百瀬待って! 行かないで――!」

 カラン、ともう一度鈴が鳴ったとき。
 視界に広がるのは、自分の部屋の天井だった。

「……はっ……はぁ……?」

 天井に向かって伸ばしていた腕を、ぶらん、と勢いよく下げる。
 この手で、百瀬を引き留めることはできなかった。その虚しさがずっと、いつまでも、胸に留まり続けていた。



 文化祭まであと一週間。
 意外にもクラスは平和で、これといってトラブルもなかった。それもこれもきっと、百瀬があちこちに顔を出して手伝ったおかげだろうな、なんて俺は思っている。

「うわー、久我って頭も小さいんだねぇ」
「……そう?」

 俺の頭囲を測りながら、衣装担当のクラスメイトはなぜか感心していた。

「でも肩幅はちゃんとある、と」

 スマホにメモを残す一生懸命な彼女を手伝うつもりで、メジャーを取り上げたときだ。視界の端に百瀬が見えた。

 ――あ。やっぱり。

 百瀬はリスの耳カチューシャを頭につけられていて、俺は内心転げまわっていた。なんだあれ。あんなの観客に見せて大丈夫か? 攫われんじゃねえの?

「ちょっと久我ぁ! 動かないで、まだ終わってなーい!」
「あ、わり。はい、どーぞ」

 くるりとウエストにメジャーを巻いて、端っこを彼女に渡す。
 するとなぜか「あの、これは久我に言うわけじゃないんだけどね?」と謎の前置きをしたあと、彼女はやけにデカい声で「あーあ! 早くカレシに会いたぁーいっ」と叫びながら、淡々とスマホに数字を打ち込んでいく。

「……急にどうした?」
「視線が痛いの! 痛くて痛くてたまらないの!」

 自分で自分の肩を抱き、まるで女優のような訴えっぷりだ。この子、衣装係より演者のほうがよかったんじゃないか?

「でも久我だって彼女いるのに、大変だよね~。彼女も気が気じゃないんじゃない?」
「あー……」

 そっか。まだこの噂、生きてんだ。

 ちらりと横目に、かわいいかわいい、リス百瀬を見やる。

「……いや、全然。気にもしてねーと思う」
「あっはは! そっか、そりゃ久我の彼女だもんね~。気にしてたらキリないか」

 百瀬は、和田と一緒になって、きゃっきゃとなんだか楽しそう。
 いつだってそうだっただろ。百瀬は、いつでも、どこでも、誰とでも、百パーセント楽しそうな情緒の安定したやつだ。
 俺が女子と絡んでいたって、気にするわけないし。
 頭にでかい段ボールのハットを被せられていたって、見ちゃいない。
 百瀬は俺の恋人じゃないんだから。

 ――『紹介するね、俺の大切な人なんだ』

 ……夢って、なんて厄介なんだろう。
 まさか和田なわけない。それはさすがにない。……ないって、わかってるのに。
 どうしてもあの夢と現実がリンクしそうになって、俺はもう一度、百瀬のほうに目を向ける。

 そのとき、信じられない光景が目に飛び込んできた。

「――百瀬っ」
「わっ、え、なに⁉ 久我⁉」

 俺は気づけば、百瀬を背中から抱え込み、和田から引き離していた。

「あっはは、顔こわぁ」
「……なにしてんだよ、和田」
「なにって、ネクタイ曲がってるよーってやってただけだけど。なぁ百瀬?」

 腕の中で、百瀬は怯えたような目で俺を見上げて、こくりと頷く。

「……なんでやらせんの?」
「え?」

 こんなこと言ったってどうしようもない。
 百瀬は俺の特別だけど、百瀬の特別は俺じゃないんだから。
 こんなクソめんどくさい独占欲、どっかいけって思うのに。

「………百瀬のネクタイ係は俺じゃん」

 百瀬のネクタイを結ぶのは、俺だけの特権であって欲しかった。
 百瀬のほくろだって、俺だけのものであって欲しい。
 どうして和田なんかに触らせようとするんだよ。

「ネクタイ係ってなんだよ! ウケる‼」
「伊織クン、やきもちモチモチでちゅね~!」

 くっそ、最悪だよ。
 和田と、それから騒ぎに気づいた阿久津も飛んできて、一緒になって腹抱えて笑ってやがるけど。
 もう限界だ。全然笑い事じゃない。

「……百瀬、行こ」
「え、行くって……どこに?」

 戸惑う百瀬の腕を引き、俺は図書室に一直線に進む。
 二人になりたい。今すぐ二人になって、誰の目にも留まらない場所に、百瀬を閉じ込めたい。



「どうしたんだよ久我ぁ……」

 文化祭の準備期間中、常時開放されている図書室に、人はまばらにしかいなかった。
 困ったように眉をひそめる百瀬の頭には、リスの耳カチューシャがついたままだ。

「やばいな……誰かに見られる」

 俺はそっと、カチューシャに手を伸ばす。

「っ」

 その一瞬、百瀬はびくっと肩を震わせた。

「……ごめん。嫌だったよな」

 あの夜、俺はそれほどまでに百瀬を怖がらせたんだと実感させられる。
 自分よりデカい男に押し倒されて、きっと怖かったよな。涎を垂らしそうになりながら、獣のように自分の下にいる百瀬を狙っていた自覚だってある。

 あーあ……。本当、どうしてあのとき、堪えきれなかったかなぁ。
 後悔したってもう遅いけど、叶う見込みのない恋を、どうにか友情に変えようと頑張ってきたのに。全部台無しだ。

 百瀬にとって今の俺は、猛獣と同じ。いつ襲い掛かって来るかわからない、気の抜けない相手になってしまったらしい。

「嫌とかじゃなくて! ……教室戻らないと、久我の採寸終わってないだろ?」
「ん……」

 こういうところが、ダメなんだよな。
 せっかく百瀬が頑張って奔走してきたのに、俺の身勝手で、教室の雰囲気は最悪になっているかもしれない。そんなの絶対ダメだ。わかっているのに。

「……百瀬」

 なのに俺の頭には百瀬しかない。目に映るのは、百瀬しかいない。

「百瀬」
 何度も何度も名前を呼びたい。この手を離したくない。誰の目にも百瀬のことを映したくない。カンガルーみたいに、自分の腹のポケットにしまって、一生連れ回したい、とか。
 
 俺、本当にわがままキングでしかないな。

「久我……? やっぱ変じゃね? なんかあった――」
「俺はずっと変だってば」

 ずっと。最初からずっと変だよ。
 この場所で、おまえにほくろを見せてもらったあのときから、ずっと。
 いや、もっと前か。夢で百瀬のほくろに噛みついたあのときから、ずっと変だ。

 困ったように眉をひそめる百瀬を、もっと困らせたい。もっともっと、俺だけにいろんな顔を見せて欲しい。和田にだって、阿久津にだって、あの馴れ馴れしい男にだって見せない顔を、俺だけに見せてって。

 俺は毎日真剣にそんなふうに考えてる、危険で変なヤツなんだぞ。

「百瀬……ほくろ、見せて?」

 やだって言えよ、百瀬。俺は変なヤツだから。ちゃんと拒否ってくれよ。
 じゃなきゃ俺、もう自分じゃどうしようもないんだ。

 なのに百瀬は、ぴ、っと固まって、それから小さく戸惑いの声を漏らした。

「い、いまぁ……?」

 きょろきょろと辺りを見回すと、黙って俺の腕を引き、一番奥の大きな本棚の前まで連れていく。
 そこで振り向くと、百瀬は慣れた手つきで、制服の首元を引き下げた。

「……はい」

 俺から顔を背けるから、なんだかいっそう背徳感が増して、ドキドキする。
 俺ってどこかおかしいんだろうなと、しみじみ実感した。

 真っ白で綺麗な首筋。あの場所を指でなぞったときの百瀬の儚い吐息を思い出すと、何度でも腹の奥が疼く。
 チョコチップみたいだな、白い肌に映えるな、なんか……エロいな。
 正直最初からずっと、そういう邪な目でしか、俺は百瀬のほくろを見たことがない。

 そんな俺の下心に気づきもせず、百瀬はあっけなく、俺にほくろを見せることを許した。頼めばいつでも素直にほくろを差し出して、ちっとも俺を疑わない。

 今この瞬間だって、俺はそのほくろに噛みつきたいって――まるごと全部、俺だけのものにしたいって、そんなふうに百瀬のことを狙っているのに。

「久我、もういい――」

 見つめていた横顔が、痺れを切らしたように俺のほうを向く。

「え」

 ぎょっと目を見開いた百瀬は、すぐに視線を逃がした。
 じわじわと赤くなっていく頬に、性懲りもなく胸が高鳴る。

 俺が最低なのか、恋ってものが最低なのか、そのどちらもなのか、わからないけど。

「な、なんで俺のこと見てんだよ~……!」

 ――好きだからに決まってんだろ。

 百瀬が好きだ。もう本当に、手に負えないくらい、ただそれだけなんだ。
 本当は誰にも渡したくない。誰かに取られるくらいなら、俺が欲しい。だけど……失うのだけは、絶対に嫌だ。

 こんなの、どうしたらいいのか全然わかんねえよ。