百瀬のほくろを俺だけに見せて


 ジャズの音色と、ぷかぷか漂う煙――。

「百瀬?」
「……あ……久我?」

 純喫茶のアンティーク調のテーブルの向かいには、久我が座っている。制服のブレザーでこんなところへ来てもいいのだろうか。なぜかそんな心配をしていた。

「百瀬、コーヒー飲めるんだ?」
「いや……俺は紅茶しか」

 と、カップの中身を覗くと、急に視界がぐわんと回る。

「……へ?」

 気づくと久我は、俺の上に跨っていた。耳元ではぎゅ、とソファーの軋む音がする。

「百瀬、ほくろ見せて」
「え、いやここ、外じゃん――!」

 咎めようとしたけど、あっという間に俺のシャツは脱がされていて、首元に久我の細く美しい指先が、そっと触れる。

「……っ」

 いつも本のページをめくるあの綺麗な指先が、自分の首筋を這っていく。
 ただそれだけで、俺の息はひどく乱れていた。

「百瀬――」

 露わにされた鎖骨に、ゆっくりと久我の薄い唇が近づく。
 さらりとした髪が、肌をかすめたその瞬間――。

「いっ……!」

 鋭い痛みに、かっと目を見開いた。
 視界に映るのは、鼻息荒く俺の顔を舐め回す、毛むくじゃら……。愛犬のモモだ。
 へっへっ、と嬉しそうに俺の上に乗っかり、穴を掘ろうと足を動かす。

「痛い痛い! モモ、もっと下でやって!」

 俺の言い分が気に入らなかったのか、モモはベッドから飛び降り、部屋を出て行ってしまった。自分勝手なやつめ。

「……夢……か」

 そっと自分の首元に触れる。かすめた髪の感触も、首筋をなぞる指先の感覚も、ひどく鮮明に残っている。きっとそれらすべて、モモの仕業だったというのに。

「ないないないない……!」

 頭まで布団をかぶると、俺は声を殺してのたうち回った。
 なんて夢を見てんだ、俺は……!


「おはよう、百瀬」
「……ん、おはよ」

 久我はいつも通りだ。……当たり前だ。あれは夢なんだから。

「なんか顔赤くない? 熱ある? 水飲む? お茶がいい? 保健室行く?」
「いや過保護かぁ……」

 矢継ぎ早に俺の心配をしてくれる久我の顔を、どうしても見れない。横に並ぶのさえ、ちょっと落ち着かない。

「じ、じゃあ、あとで」

 俺は急いで廊下を駆けて、トイレに逃げ込んだ。

 ――い、いやいやいや。ただの夢じゃん、なに意識してんだよ俺……!

 現実には押し倒されてもいないし、あの指先で首筋をなぞられてもいない。
 もちろん鎖骨に噛みつかれてもいないのに。

「普通に……普通に……」

 呪文のように呟きながらトイレから出ると、階段の踊り場には久我の姿があった。例のごとく、女の子たちに囲まれている。
 和田も前にぽつりと言っていたけれど、ちょっと一人にすると、久我はすぐああなる。大変そうだなぁと思う。久我は自分で、人嫌いだとも言っていたし。

「久我ぁ~」

 俺が声を掛けると、久我は、すぐさまその輪を抜けて早足にこちらへ向かってくる。その顔は少しだけ嬉しそうで、ちょっとかわいかった。
 ……ん? かわいかった? 久我はかっこいいだろ。

「百瀬、大丈夫?」
「え? 俺?」
「トイレに駆け込んでたから、体調悪いのかと思って」
「あ、ああ……! いや、違う、全然……いたって元気ではあるから」

 と言ったあとに、どうして久我が一人であそこに立っていたのか、理由がわかってしまった。

「……もしかして、俺のこと待っててくれたの?」
「ん? まあ。百瀬って自分のことに疎いし」

 それは久我も同じじゃないのか。だってああやって人に囲まれるのは、疲れるだろ。モテていいね、なんて話したときには、面倒だと心底嫌そうな顔をしていたことだってあった。
 それなのに――俺を心配して、待っててくれたのか。

「……ありがと」

 ああダメだ。普通にできない。やっぱり全然、顔見れない。

「なんか今日、全然目ぇ合わない」
「え」
「こっち見てよ、百瀬」

 久我は俺の肩を掴むと、強制的に向き合う格好にさせてくる。
 本当にやめてほしい。今の俺、きっと変な顔してる。ぷいっと顔を背けて、どうにか逃げようと足掻いてみるけど、久我はひどい。

「こっち向かないと、今日百回……いや二百回、百瀬のこと見るからな」
「なっ……なんだよそれ、脅しじゃん……!」

 二百回なんて現実的じゃない。だけど、久我ならやりかねない気もする。
 渋々顔を戻すと、久我はにこやかに俺を見つめていた。
 こんなに爽やかに笑えるくせに、校外学習の夜、久我の目は笑っていなかった。

 ――『そのほくろに、なにしたと思う?』

「う、うわぁぁ‼」

 脳内でリピートされる久我の声をかき消すように、俺は大声で叫んでいた。

「な、なに⁉ 大丈夫かよ、百瀬?」

 うずくまった俺を覗き込むように、久我がしゃがみ込む。さらりとした黒髪が揺れるたびに、なんだか心がざわざわして落ち着かない。

「全然……全然大丈夫」
「全然大丈夫そうじゃない、保健室行こ」
「行かない!」

 ダメだ。なんかもう、声聞くだけで変な汗出てくるし。

「ほんとに……なにしたんだよ、久我ぁ……!」

 ほくろなんて、ただそこにあるだけのはずなのに。
 なにした、ってなに? そもそも主語と述語がおかしいだろ。
 なのに俺は、あの校外学習の夜からずっと、久我は俺のほくろになにしたんだろう……なんてバカ正直に気にして、とうとう夢にまで見て。
 マジでやだ。恥ずかしい。消えたい。
 俺、久我が自分のほくろに噛みついたんじゃないか、なんて思ってたんだ。自分の脳内を可視化された気分で、今朝の夢は本当に最悪だった。
 そうやって悶々としてる俺のことを、久我はずっと『大丈夫かこいつ』って顔で心配してるし。

 ――誰のせいだと思ってんだよ~っ……!

 変なこと言うだけ言って、自分はいつも通りなんてずるいだろ。
 俺はむっとした目で久我を睨む。けど返ってきたのは爽やかな「ん?」だったんだから、まったく本当にずるい!