夜のレクリエーションが終わると、俺たちはそれぞれの部屋へと大人しく戻ることになった。
阿久津はみんなで一部屋に集まって、なにかいろいろしたいことがあったらしいけど。暑さにやられた奴が多く、即時解散の流れとなって、助かったような、まだ百瀬と話したかったような。微妙な気持ち。
「百瀬大変だぜ~。阿久津の相手一人でしなきゃなんなくて」
鏡の前で乳液を塗りたくる和田の言い分に、俺も同意だ。はけ口は同部屋の百瀬一人に向かうに決まっている。
「俺が行ってこようかな」
阿久津の話は基本一方的だから、うんうんと適当に相槌を打っておけばそのうち終わる。けど百瀬はいい奴だから、それで?どうしたの? なんて話を広げる予感しかしなかった。
百瀬には、どうかすこやかでいて欲しい。
そのためにも、睡眠時間は削らせたくない。
「……マジでさぁ……過保護?」
「だって百瀬ってなんか危うくね?」
「まあ、わからんでもないけど~。とりあえず消灯までは大人しくしとけよ。一緒に怒られるの勘弁だから」
和田はこういうときは、案外冷静だ。阿久津とは真逆だけど、それが案外、相性がいいってことなのかもしれない。
「こんなことなら、和田が阿久津と同じ部屋になるようにするんだった」
「おまえ、そうやってなんでも思い通りにしようとするなよ! このわがままキングがよぉ」
反論の余地がない。自分でも傲慢なところは自覚している。けど、変に遠慮して百瀬と同部屋に立候補しなかった自分を、今悔いているところなのだ。愚痴を吐くくらい許して欲しい。
「……一応聞くけど。阿久津が言ってる『百瀬みたいな女の子がいい』って……大丈夫だよな?」
「は? なにが大丈夫なの?」
「なにがって、ひとつしかねーだろ」
本当に百瀬みたいな『女の子』なんだよな?って意味だ。
まさか寝込みを襲われたりしないよな、って心配以外ないだろーが。
ヘアバンドを外した和田は、ふるふると頭を振って髪を整えると、やっと鏡の前から部屋へ戻ってきた。
そして、じっと俺の顔を見やって「へえ」と一言。
「まあ、行ってくりゃいいじゃん。たぶん寝てるよ、アイツ」
「たしかに、百瀬って寝るの早そうだよな」
「ちがくて。阿久津が寝てるって話」
「……はぁ?」
ついさっきまで、ぎゃあぎゃあ騒いで粘って、あちこちに迷惑がられていたアイツが? 寝てるわけなくね?
俺はそう思いながらも、急いで隣の部屋へと向かった。
「え……寝た?」
「そうなんだよ。ふて寝だぁ!ってベッドにダイブして、本当にそのまま寝ちゃった」
なんだ、和田の言う通りじゃん。さすが幼なじみだな。
「今日誰よりもはしゃいでたからね」
百瀬は普段よりもゆっくりと目を瞬かせ、部屋の奥に顔を向ける。
「そっか。ごめんな、起こしちゃって。じゃあ、また明日――」
「え」
「え?」
自分の部屋へ戻ろうと、一歩後ろへ下がったときだった。
俺のジャージの袖口を、きゅ、っと百瀬が引っ張る。
「あ、えと……帰っちゃう?」
……反則。レッドカード、一発退場だぞ、百瀬。
上目遣いにそんなのダメだろ。まるで帰らないでって言われてるみたいで、勘違いするぞ、こっちは。
言葉が出てこなくて、代わりに口だけがエサを求める鯉のようにぱくぱく動く。なんて間抜けなんだろう、今の俺。
「あのさ、ちょっと話し相手になってくれないかなぁって……」
すると百瀬は、気まずそうに部屋の奥を指差した。
なんだろうと足を踏み入れると、突然「南無!」という阿久津のでかい寝言が耳をつんざく。
「び、びびびっくりするんだよ、これぇ……!」
「あっははは! 百瀬びびりすぎじゃね?」
「だって、こんなの寝言の声量じゃないだろ……さっきからこれで何回も起こされてんだもん、さっきはね『その箸、俺の!』だったよ」
「どんな夢見てんだ」
けど、これのおかげで百瀬がびびって俺を引き留めてくれたのなら、ひょっとして阿久津に感謝しなきゃいけないのか?
「じゃ、ちょっとだけ。阿久津が熟睡したら帰るから」
「やった! ありがと!」
満面の笑みがかわいいなぁ、と思った次の瞬間には、百瀬はさっそく自分のかばんから、UNOを取り出していた。
「準備がいいんだな、百瀬……」
にやけそうなのを、必死で堪える。
みんなでやろうとUNOをかばんに仕込んだ昨夜の百瀬を想像したら、なんだかもう、ご飯三杯いけるっていうか。
「絶対やると思ったのにさぁ。みんな結構体力ないよな」
「座禅が地味に効いてるよ、あれ神経すり減ったもん」
「あ! 座禅の夢見てんじゃね、阿久津!」
「いや、南無!なんて言ってなかっただろ」
「たしかにそうか」
へらっと笑った百瀬はUNOを配り終え、目を輝かす。
「俺、強いからね!」
「……小学生か」
かわいいな、百瀬。いつも笑顔で、無邪気で、無垢で、危なっかしい。目が離せない。
宣言通り百瀬は無双して、俺は三敗してしまったけど。その度に得意げに胸を張る姿は、ぜひマスコットにして持ち歩きたいなと思うほどだった。
「ふぁ~、やっぱ俺UNO無双しちゃうんだよね」
「二人で無双もなにもないだろ」
「あれ、もしかして悔しいのかなぁ?」
……やめろってマジで。ベッドの上でそんなに身体を寄せてはいけません。
「ちょっと休憩」
男と肩を並べるだけで妙な気持ちになることなんてない。だけど、百瀬はべつだ。
体操服の襟元からは、チラチラとほくろが見え隠れしているし。いつもよりとろんとした瞼も、甘えるような声色も、いちいちエロ……じゃねえよ、なに考えてんだ俺は……。
百瀬から逃げるようにベッドを降りて、テレビのリモコンのスイッチを押した。ちょうど深夜のバラエティ番組が始まる時間で助かった。
「ちょっと、久我! ダメだよ、阿久津が――」
「起きないだろ。もうさんざん俺たち騒いでるけど、びくともしねーし」
正確には俺たち、じゃなくて、百瀬が、だけど。
「そうかなぁ……」
心配そうに阿久津を見やる百瀬。本当に心が綺麗すぎる。自分の睡眠がこれほど妨害されているっていうのに。
「……百瀬って、次付き合うならどんな子がいいの?」
誰にでも優しくて、誰とでも仲良くできる。
そんな百瀬の特別って、いったいどんな子なんだろう。
「え……えー……? 俺その質問苦手なんだって……」
「フィーリングだっけ?」
前にカラオケで聞いたときも、なんだかはぐらかすような答えだったけど。
本当に困った顔を浮かべる百瀬を見て、割とあれは本気の答えだったのかと、茶化したのが申し訳なくなった。
「うん……なんていうか、これ!みたいなのない……久我でいうところのほくろみたいな」
「いや、だからほくろフェチじゃねーから」
「それはさすがに無理あるって」
けらけら他人事みたいに笑ってるけど、自分のほくろが狙われてるってこと、わかってんのかな。
「ないんだよな、ほんと。気づいたら好き、っていうか……」
「ふーん……元カノもそうだった?」
「たぶん……? もう忘れちゃった、なんで好きになったのか」
力なく微笑んだ百瀬を見て、ふといつだったか昼休みに聞いた話を思い出した。たしか元カノは、百瀬の性格にケチつけて、キレて泣いて、百瀬をフッたんだっけ。
「な? 俺ってみんなが思ってるより薄情だし、優しくないんだよ」
「それはいいだろ、べつに。百瀬が傷ついたんだから」
俺は恋愛に興味がなかったからよくわからないけど、物語の中の主人公たちはいつもそうだ。
傷つけて、傷つけられて、たぶん恋愛ってお互い様だ。百瀬だけが悪いわけでもないし、相手だけが悪いわけでもないんだろう。相性が合わなかった、それだけだ。
自分がひどく傷つけられたのに、傷つけてしまったことをいつまでも覚えているなんて、百瀬がすこやかでいられない。だからやっぱり、忘れていいと思う。
「……久我ってかっこいいよな。いつも自分の気持ちに迷いがないっていうか」
「か……っこいい……?」
「すげえなって思う。俺もそうなれたらいいのに」
なに言ってるんだ、百瀬。絶対ダメだろ、そんなの。
「百瀬は百瀬だからいいんだろーが。全然わかってねえな」
直す必要なんかないし、変わる必要だってないと思う。俺は百瀬のおおらかさに日々救われているし、そういう百瀬だから、今この瞬間も隣にいて欲しいと思うのに。
「ふはっ……そっか。それは全然……うん。わかってなかったかも」
なにかを噛みしめるように頷いて、百瀬はそのままベッドに寝転んだ。
「久我はさー、もしかして彼女できたりした?」
「ないない。俺、人嫌いだし」
「あはは! なんかわかる、薄っすらそう思ってた」
くすくす控えめに笑っているのは、やっぱり隣の阿久津を気にしているのかな。
そういうところがやっぱり百瀬のいいところだ。まさか俺みたいな傍若無人な奴に変わる必要なんて絶対ない。
「じゃあ、好きな子は? いないの?」
「……え?」
――好きな子……?
「……い、ない、けど」
「なに今の間~? 怪しいなぁ」
無防備に寝転がる百瀬を、じっくりと目に映す。
今にも閉じてしまいそうな瞼と、楽しそうにゆるむ口元。俺のすぐ隣で、安心しきった顔で眠りに落ちそうになっている、百瀬。
「なんか……空気清浄機みたいな子がいい」
「え、なにそれ、空気清浄機って!」
ぱっと目に飛び込んできたホテルの空気清浄機と百瀬の姿は、やっぱりとても似ていると思った。
そこにあると安心する、空気が綺麗になる。まさに百瀬だ。
そんな清らかな百瀬の鎖骨のほくろに触れたら――。
こいつはどんな顔をするんだろう。
「………ごめん、そろそろ寝るか」
「あ、そうだよね。引き留めてごめん、付き合ってくれてありがとな」
「こちらこそ」
どくどくと嫌な鳴り方を始めた心臓を必死に隠して、俺は部屋の扉を開けた。
「おやすみ、久我」
振り向きざま、小さく囁いた百瀬を目に焼き付けて、俺は急いだ。
――危なかった……危なかった!
あと五秒あったら、たぶん俺は、無防備に寝転がる百瀬のほくろに手を伸ばしていた。危ない。ミイラ取りがミイラになるところだった。
一目散に自分の部屋に戻ろうとしたけれど、そこではたと気づく。
「……あれ?」
嫌な予感がしながらも、両手をポケットの中に突っ込む。
左のポケットにはスマホ。右のポケットには……なにも入っていない。
それはそうだよな、鍵を持って出た記憶がまるでないんだから……。
コンコン、とドアをノックしてみるけれど、部屋の中から返事はない。和田のスマホにメッセージを送っても既読はつかないし、電話にも出ない。
「あいつ寝てんのかよ……!」
自分の不手際とはいえ、ちょっとくらい夜更かししとけよ、なんて理不尽にイラつきながら、来た道をとぼとぼ戻る。
いくらなんでも、このままここで夜を明かすわけにもいかない。
さっき飛び出したばかりの部屋のドアを、三回ノックする。
出てきて欲しい。それと同じくらい、出てきてくれたらどうしよう。そんな思いが交差する。
「あれ? どうしたの、忘れ物?」
開かれたドアの向こうで、百瀬はきょとんと首を傾げていた。
「悪い……俺、鍵持ってくるの忘れてた……」
「あはっ! 久我でもそんなドジしたりするんだ?」
茶目っ気たっぷりにはにかんだ百瀬が、どうしようもなくかわいい。また会えて嬉しい。朝まで一緒にいられるなら、もっと嬉しい。
ドキドキと高鳴る心臓。
この高鳴りはきっと、校外学習の夜だから――それだけじゃない。
小さな背中を目で追っていると、百瀬は自分のベッドに戻り、そのまま「はい」と、布団を持ち上げながら俺を見た。
「……え?」
「ちょっと狭いけど、二人いけるっしょ」
「い、いや……いいよ、俺、阿久津と寝るし」
「阿久津と……? あのベッドにどうやって割り込むの?」
百瀬の言う通り、阿久津はベッドをいっぱいいっぱいに使って、大の字に伸びている。
だけど百瀬と同じベッドに入るよりは、アイツをどうにか折りたたんで、その隙間に入るほうがよっぽどいい。
だって……そんなの絶対、だめだ。
「いいから、はやく~」
焦れるように百瀬は目をこすった。深夜に押しかけたあげく、床じゃなくベッドで寝かせてもらえる。そんな優しさを無下にする資格が自分にないことは、もちろんわかっているけど……。
ゆっくりと百瀬に近づきながら、ベッドの前で足を止める。
生唾を飲み込む音が、自分でもわかった。
「……おじゃま、します」
「はーい」
相変わらず呑気だな、百瀬……。
そっとベッドに上がり込み、隣に寝転ぶ。部屋の天井を一心に見つめていたときだった。
「俺さ~、枕が変わるとなかなか眠れないんだよね」
「そうなんだ」
「うん。だから久我が戻ってきてくれてよかったかも。なんか落ち着く~」
「……は……?」
かろうじて声になったけど、その続きが出てこない。ゆっくりと顔を百瀬のほうへ向けると、ぱちっと目が合った。
「今度こそおやすみね、久我」
そして百瀬は、そっと瞼を閉じる。
――なんかもう、このまま食べちゃいたいな。
「お、やすみ……百瀬」
危険な思考を必死に隠して、俺はなんとか言葉を紡いだ。
呼吸のたびに上下する胸元から視線を辿ればすぐに、あのほくろが目に入る。真っ白な肌に、一粒、まるでチョコチップみたいなほくろ。
俺があれになにをしようとしたか、百瀬は知らない。知らないからこんなふうにしてくれる。
同い年なのに俺よりずっとあどけない寝顔を、食い入るように見つめていたときだった。
「⁉」
ふわりと瞼を開いた百瀬は、ぎょっと目を見開き、一瞬怯えたように俺を見つめた。それからふっと目の力をゆるめると、小さな息を漏らす。
「なぁんか視線感じたんだよ……ん、見る?」
そう言って百瀬は、体操服の襟元を、人差し指でくい、と引き下げる。
……ぷつん、と俺の中のなにかが切れる音がした。
「…………百瀬」
「ん?」
「俺、夢に百瀬が出てきたことがあるんだよ」
「あぁー……たまにあるよな、そういうの」
ねえよ。ないだろ。同性の友達だぞ。なんで簡単に同意してくれるんだよ、百瀬。
「そんとき、俺がなにしたと思う?」
「へ……?」
まどろみと現実の狭間にいる百瀬に、俺は追い打ちをかけた。
「俺がそのほくろに、なにしたと思う?」
うと……と瞼が閉じかけた次の瞬間。百瀬は、はっと目を見開いた。
「……え⁉」
やっと起きたか。
起こしちゃかわいそうだけど、これだけはちゃんと言っておかなきゃいけない。じゃないと、本当に食われるぞ。……俺にも。俺以外の誰かにも。
「……わかったら、あんまり簡単に人に見せんなよ」
じわじわと焦りを滲ます百瀬に、身体中の細胞が反応する。
俺は寝返りを打って百瀬に背を向けると、目を閉じて、今日の座禅体験を必死に思い出していた。
無念無想。無念無想。無念無想。
煩悩を消し去る方法、教えておいてもらって、本当によかった……。



