おれは生まれつき体が弱かった。
「ようちゃん」
おれよりも大きくて、小さい手が目の前に差し出される。
「めいくん」
めいくんは、いつでもおれのヒーローで、同級生の中で一番背が高くて、運動ができて、文字もたくさん書けて、かっこよかった。おれはめいくんが大好きで、いつも後ろをついてまわっていた。
それが変わったのは小学四年生の頃だった。
「ようちゃんのくせに」
おれがめいくんの好きな子と付き合っちゃったから、めいくんはおれをいじめてくるようになった。それまではまあよかった。よかったのに
「伊勢島ってさあ、四年生の中で一番足が速くてカッケェよな!」
めいくんがおれ以外のやつに夢中になった。
「伊勢島がさ」
「伊勢島って」
「伊勢島は」
「伊勢島と」
誰だよ。そいつ。
どうにかしてめいくんを振り向かせたかった。おれがその伊勢島ってやつより足が速くなればいいのか?面白くなればいい?みんなの人気者になればいい?
どう考えても、めいくんよりもすごいやつにはなれなかった。おれにとってはめいくんが世界で一番だ。そのめいくんが尊敬するやつになんてなれっこない。
…じゃあどうする?
漫画を読んだ。ハンターを目指すやつ。試験会場で、古株が新入りに下剤ジュースを渡すシーンがあった。これだと思った。
「今日は体調が悪いから」といっておれの家まで迎えに来てくれためいくんに告げた。めいくんは真顔で「オッケー」とだけ言って去ろうとした。
「あっ! めいくん待って!」
「? 何?」
「あのさ…これ」
俺はコップに入れたジュースを渡した。不審がるめいくんに
「母さんがさ、入れてくれたんだけど、おれ実は、野菜ジュース飲めなくて。捨てるのも勿体無いから、飲んじゃってよ!」
と精一杯説明した。めいくんは「それなら」とコップを受け取り、縁に口をつけた。めいくんの喉が音を立てる。コップが返ってきた時、中のジュースはからっぽで、おれは心の底から安堵した。
可哀想なめいくん。トイレに篭って、ウンコマンとか呼ばれるんだ。そうしたらおれも呼んであげよう。また「ようちゃんのくせに」って言って、見てくれるかな。おれにウンコマンって呼ばれるのが惨めで泣いちゃうかな?かわいいな、めいくん。
その日の夜、母さん伝手にめいくんが教室で漏らしてしまったと聞いた。母さんは
「めいくんきっとすごく傷ついてるから、陽太は優しくしてあげるんだよ」
と言っていた。
可哀想なめいくん。漏らしちゃったんだ。教室で。みんなが見てる前で。見たかったな。ジュース飲ませた後、「やっぱ体調良くなった」って言って行けばよかったかな。今から慰めに行ってあげようかな。泣いちゃってるかな。かわいいな。
週明けにめいくんを迎えに行き、学校へ行った。騒動が起こってから初めての学校だ。案の定、めいくんは「ウンコマン」と呼ばれていた。ウンコマンと呼ばれた時のめいくんの顔は青ざめ、引き攣っていた。いじめの対象になるのを恐れている顔だ。
「おい! 陽太、聞くな!」
めいくんの手が伸びてくる。しかしおれに触れることは叶わず、伊勢島に全てを暴露されてしまう。めいくんがおれを見て、震えている。まるでおれに恐怖しているかのように。
かわいいな。この顔、ずっと見ていたいな。ずっとおれの憧れのめいくんが、教室の中では底辺になっちゃうんだ。
「よろしくね、ウンコマン」
めいくんは絶望した表情で、麦茶をポタポタと垂らしながらおれを見た。
かわいいな。その顔。
トイレに駆け込むめいくんを見た後、伊勢島に
「…あのさぁ、染谷、やりすぎじゃない? さっきのめいの顔、思い出したらなんか、申し訳なくなってきた。てか俺もウンコ投げ返したし。…やっぱ謝ってくる」
と、諭された後、伊勢島自身も「やりすぎた」と反省し、トイレへ向かおうとする。それはまずい。
「別によくない? めいくんだって悪いじゃん」
「はぁ? そんなわけないだろ」
伊勢島はおれを睨みつける。
「そんなわけあるよ。だってさ、めいくん、伊勢島君のこと『馬鹿なくせに出しゃばってうざい』って言ってたよ」
「…は? 本当に言ってたのかよ」
「言ってたよ。めいくんに聞いても『嘘に決まってる』としか言わないと思うけど」
「…」
「それにほら、おれもめいくんにいじめられてるし」
「…それは…」
「だからさ、償いだよ。償い」
「…償い…」
ほんとに馬鹿だな。全部嘘に決まってる。
めいくんが憧れた存在は、こんなものなんだ。これなら、おれだって……。
「陽太? ねえ、学校から連絡来たよ? このままだと留年するって」
ドアの向こうから、母さんの声が聞こえる。
「ねえ! なんで学校行かないの? 留年なんて、ありえないんだけど? ねえ、陽太!」
声のボリュームが、上がっていく。
「だから、あんな高校やめようって言ったよね? 結局こうなるんだから! めいくん居ても変わらないんだから、もっとちゃんとした高校行ってほしかったのに! ねえ! 聞いてる!? いつになったら普通ができるの!?」
甲高く、耳を劈くような声だ。
ピンポーン。
チャイムの音が響いた。母さんの足音が遠くなっていく。
今度は足音が二つになって近づいてきた。
「ようちゃん」
めいくんの声だ。
「あの、ようちゃんと、おばさんに、謝りたいことがあって」
「なあに?」
母さんは優しい声で返した。
「あの、俺……今まで、ようちゃんのこと、いじめてました。すみませんでした」
「……え?」
母さんの、戸惑う声が聞こえる。
「きっかけは、俺の好きな女の子が、ようちゃんのこと好きだったっていう、ほんとに、くだらない理由で」
「……めいくん」
「だから、ようちゃんは悪くないんです! ようちゃんはずっと普通に過ごしてただけで! 普通じゃないのは、俺の方で……」
コツン。床に、何か硬いものがぶつかる音がした。
「すみませんでした」
ガチャッ。
部屋のドアを開けると、めいくんが床に頭をつけて土下座していた。
「めいくん? やめてよ!」
おれはめいくんを抱えて起き上がらせる。
「ごめん。陽太。ずっと、ごめん」
違う。めいくんの、そんな姿が見たかったんじゃないんだ。
「ようちゃんのこと、ずっと、馬鹿にしてた。俺、ずっとわかってなかった。陽太にいじめられてるときも、ずっと、ようちゃんのくせに、ってずっと思ってた。でも」
「めいくん」
「でも、本当は、俺が陽太に勝てるとこなんて、一つもないのに」
「違う!」
おれは必死に、めいくんの口を塞ごうとする。
「陽太は! もう―――――――――」
「おれのこと、ちゃんと見ろよ!」
めいくんの肩を掴んで、思い切り叫んだ。
母さんは、驚いたようにこちらを見つめた。そして、うつむいて、その場から立ち去った。
めいくんも驚いたような、案ずるような顔をした。じっとこちらを見つめるその目に、おれはポロポロと涙を零した。
「めいくんはさあ、何も、わかってないよ」
「そんなこと」
うなだれるおれを覗き込む。おれのことを、何も知らない可愛い顔だ。
「だって、めいくんはおれのことを見てないじゃん」
「見てるよ」
おれの両頬に手を当ててじっと見つめてくる。可愛いんだけど、そういうことじゃない。
おれはめいくんの手を握り、言葉を続けた。
「見てないよ。おれは、めいくんより大きくなった。顔つきも変わった。声も、喋り方だって変えたし、クラスの人気者にもなった。運動だって頑張った。……でもめいくん、わかんないでしょ」
「はあ!? そんなの、嫌って程見てきたわ! 自慢かよ!」
めいくんは、語気を強くした。
「違う……」
「はあ? ……何が」
「おれさあ……なんにも、変わってないんだよ」
力なく笑うおれを、めいくんはじっと見つめた。
「おれ、ずっと子どものままなんだ」
めいくんの手を、強く握る。
「おれが、なんでめいくんのこといじめてたか、わかる?」
「俺が……ようちゃんのこと、いじめてたから」
おれは静かに首を振った。
「じゃあ……俺のことが、嫌いだから?」
「違う!」
「あ、違うんだ」
おれはめいくんの目を見つめ返した。
「めいくんに、見てほしかったんだ。ずっと」
めいくんは眉間に皺を寄せて、少し黙った。
「……子どもじゃん」
「うん」
めいくんは笑う。何がおかしいのだろうか。
めいくんは自分の鞄からタオルを出して、おれの顔に当てた。
「顔、拭きなよ」
めいくんの匂いが直接鼻腔を擽り、おれの脳はトリップする。
これでめいくんは自分の体とか拭いたのかな。
おれは自分の顔に押し付けて、涙を拭った。
「そんな強く擦らなくても」
めいくんの、少し引き攣った声が聞こえる。
タオルをずらして目元を開けると、はにかんだ表情のめいくんが現れた。
「仲直り、しよ」
めいくんが手を差し出す。おれはゆっくりとその手に自分の手を重ね、優しく握った。
おれの手よりも一回り小さい、大事な人の手。
「ようちゃんは、俺の大事な幼馴染で、親友だよ」
めいくんが言った。おれはまた、タオルで顔を隠した。
「おれも、めいくんが一番の親友だよ」
「好きな人」とは言えなかった。だって、この感情が好きかどうかは、まだわからないから。
「ふふ」
めいくんが笑いながら、おれの顔に当てていたタオルを取った。
「仲直りの印にさ、お互いの好きなところ言おうよ」
何だ、その恋人みたいな提案は。
めいくんがおれの顔を覗き込む。
「俺はね、ようちゃんの、顔が可愛いところが好き」
めいくんがニカッと笑う。おれは恥ずかしくて、全身から汗が噴き出た。
「明太君おはよー」
神宮寺がめいくんに挨拶をする。おれはめいくんの肩に頭を乗せながら神宮寺を睨む。
「は? 何? 染谷」
神宮寺はメンチを切るが、おれは無視をする。
「おー、めい。はよー」
教室のドアが開き、一人の男子生徒が入ってくる。めいくんの隣の席にカバンを下ろすと、挨拶をした。
「はよー。伊勢島」
伊勢島はブレザーの中に着た赤いパーカーの紐を縛る。
「今日さー、生徒指導の山ゴリに注意されてさー」
「パーカー脱げって?」
「いや、『だらしない』って」
「あー」
「だからさ、紐縛ったわ」
「パーカー脱げってことだろ」
「脱がねーよー。だってさ、これ脱いだらタンクトップ一枚だぜ?」
「あー…まあ、個性的で…」
「ブレ山きんにくんとか言われたらどうすんだよ!」
伊勢島が馬鹿なことで騒いでいる。おれは呆れてため息を吐いた。
「あ! おい染谷! お前まじ馬鹿にすんなよ!」
「実際馬鹿」
「嘘つくな! お前は大嘘つきのクソ野郎だからな! 信じねえぞ」
「信じるか信じないかはあなた次第」
神宮寺がひょこっと出てきて、一言言う。
「ねえおれ霊的なものじゃないんだけど」
おれは眉間に皺を寄せ、神宮寺を睨んだ。神宮寺はベロを出し、運動部の友達の元へ行った。
再びめいくんの肩に頭を乗せ直す。あまりにも心地が良いので眠りに就こうとすると、廊下からバタバタと一際騒がしい足音が近づいてきた。
「なあーーー!!! 今日の昼飯一緒に食おーー!!!」
おれは驚いて、反動で頭が持ち上がる。教室の廊下側の窓から勢いよく顔を出して叫ぶ男子生徒の胸元には、「FW高尾」と書かれたガムテープが貼ってある。
「お前さぁ、3年になってもう1ヶ月経つけど」
めいくんが呆れた声を出す。
「知ってるよー…。けどさあ、なんか俺馴染めなくってぇ」
高尾は「しくしく」とわざとらしい泣き真似をする。
「じゃあお前そのガムテープやめろよ」
伊勢島が高尾に冷たく言い放つ。高尾は大袈裟に驚いて、「やだー!」と駄々を捏ね始める。
高尾はこの変人さに加えて、オタクなので話が合うやつがいないのだろう。
「…昼休みくらい勝手に来れば」
おれは素っ気なく言った。高尾は満面の笑みを浮かべ「うん!!!」と元気に返事をして去っていった。「騒がしいやつ」と呆れていると、めいくんがこちらを見て驚いた顔をしていた。
「え、何?」
「陽太ってそんなこと言うんだ…」
「は? 言うよ。これくらい」
「はは。そっかそっかー」
めいくんは目を細めて笑う。かわいいな。
「おれだって変わってるんだよ」
そう言っておれは、めいくんの肩に頭を預けた。
「俺さぁ、えみりちゃん好きだなぁ」
夕日が沈みかける頃、ランドセルを背に通学路を歩きながらめいくんはそう言った。
「あ! これ、ようちゃんだけだから、教えたの! 誰にも言うなよ!」
「しーっ」と口に人差し指を当てて笑うめいくんは、夕日のせいか顔が赤く見えた。
「えみりちゃん、だっけ? どうぞ」
おれは廊下に散らばっていたプリントを拾い、笑顔で「えみりちゃん」に渡した。
「ごめんね。おれの足が引っ掛かっちゃったんだよね? 怪我はない?」
大袈裟に心配するふりをする。足を引っ掛けたのはわざとだった。
「あ、うん。こっちこそちゃんと前見てなくて…」
プリントを渡すおれの手と、受け取ろうとするえみりちゃんの手が触れる。プリントを軽く引っ張り、手を握ると、えみりちゃんの顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「…ッ」
「えみりちゃんの手、ちっちゃくてかわいいね」
「…そ…染谷君は、優しくて、かっこいいんだね」
「ようちゃんのくせに!」
おれとえみりちゃんが付き合ったことを知っためいくんが、おれを突き飛ばして叫んだ。
ねえ、めいくん。今誰のこと考えてる?おれのことかな。ずっとこうやって、おれのこと考えてくれればいいな。
おれは咄嗟に口元を手で隠した。
「ようちゃん」
おれよりも大きくて、小さい手が目の前に差し出される。
「めいくん」
めいくんは、いつでもおれのヒーローで、同級生の中で一番背が高くて、運動ができて、文字もたくさん書けて、かっこよかった。おれはめいくんが大好きで、いつも後ろをついてまわっていた。
それが変わったのは小学四年生の頃だった。
「ようちゃんのくせに」
おれがめいくんの好きな子と付き合っちゃったから、めいくんはおれをいじめてくるようになった。それまではまあよかった。よかったのに
「伊勢島ってさあ、四年生の中で一番足が速くてカッケェよな!」
めいくんがおれ以外のやつに夢中になった。
「伊勢島がさ」
「伊勢島って」
「伊勢島は」
「伊勢島と」
誰だよ。そいつ。
どうにかしてめいくんを振り向かせたかった。おれがその伊勢島ってやつより足が速くなればいいのか?面白くなればいい?みんなの人気者になればいい?
どう考えても、めいくんよりもすごいやつにはなれなかった。おれにとってはめいくんが世界で一番だ。そのめいくんが尊敬するやつになんてなれっこない。
…じゃあどうする?
漫画を読んだ。ハンターを目指すやつ。試験会場で、古株が新入りに下剤ジュースを渡すシーンがあった。これだと思った。
「今日は体調が悪いから」といっておれの家まで迎えに来てくれためいくんに告げた。めいくんは真顔で「オッケー」とだけ言って去ろうとした。
「あっ! めいくん待って!」
「? 何?」
「あのさ…これ」
俺はコップに入れたジュースを渡した。不審がるめいくんに
「母さんがさ、入れてくれたんだけど、おれ実は、野菜ジュース飲めなくて。捨てるのも勿体無いから、飲んじゃってよ!」
と精一杯説明した。めいくんは「それなら」とコップを受け取り、縁に口をつけた。めいくんの喉が音を立てる。コップが返ってきた時、中のジュースはからっぽで、おれは心の底から安堵した。
可哀想なめいくん。トイレに篭って、ウンコマンとか呼ばれるんだ。そうしたらおれも呼んであげよう。また「ようちゃんのくせに」って言って、見てくれるかな。おれにウンコマンって呼ばれるのが惨めで泣いちゃうかな?かわいいな、めいくん。
その日の夜、母さん伝手にめいくんが教室で漏らしてしまったと聞いた。母さんは
「めいくんきっとすごく傷ついてるから、陽太は優しくしてあげるんだよ」
と言っていた。
可哀想なめいくん。漏らしちゃったんだ。教室で。みんなが見てる前で。見たかったな。ジュース飲ませた後、「やっぱ体調良くなった」って言って行けばよかったかな。今から慰めに行ってあげようかな。泣いちゃってるかな。かわいいな。
週明けにめいくんを迎えに行き、学校へ行った。騒動が起こってから初めての学校だ。案の定、めいくんは「ウンコマン」と呼ばれていた。ウンコマンと呼ばれた時のめいくんの顔は青ざめ、引き攣っていた。いじめの対象になるのを恐れている顔だ。
「おい! 陽太、聞くな!」
めいくんの手が伸びてくる。しかしおれに触れることは叶わず、伊勢島に全てを暴露されてしまう。めいくんがおれを見て、震えている。まるでおれに恐怖しているかのように。
かわいいな。この顔、ずっと見ていたいな。ずっとおれの憧れのめいくんが、教室の中では底辺になっちゃうんだ。
「よろしくね、ウンコマン」
めいくんは絶望した表情で、麦茶をポタポタと垂らしながらおれを見た。
かわいいな。その顔。
トイレに駆け込むめいくんを見た後、伊勢島に
「…あのさぁ、染谷、やりすぎじゃない? さっきのめいの顔、思い出したらなんか、申し訳なくなってきた。てか俺もウンコ投げ返したし。…やっぱ謝ってくる」
と、諭された後、伊勢島自身も「やりすぎた」と反省し、トイレへ向かおうとする。それはまずい。
「別によくない? めいくんだって悪いじゃん」
「はぁ? そんなわけないだろ」
伊勢島はおれを睨みつける。
「そんなわけあるよ。だってさ、めいくん、伊勢島君のこと『馬鹿なくせに出しゃばってうざい』って言ってたよ」
「…は? 本当に言ってたのかよ」
「言ってたよ。めいくんに聞いても『嘘に決まってる』としか言わないと思うけど」
「…」
「それにほら、おれもめいくんにいじめられてるし」
「…それは…」
「だからさ、償いだよ。償い」
「…償い…」
ほんとに馬鹿だな。全部嘘に決まってる。
めいくんが憧れた存在は、こんなものなんだ。これなら、おれだって……。
「陽太? ねえ、学校から連絡来たよ? このままだと留年するって」
ドアの向こうから、母さんの声が聞こえる。
「ねえ! なんで学校行かないの? 留年なんて、ありえないんだけど? ねえ、陽太!」
声のボリュームが、上がっていく。
「だから、あんな高校やめようって言ったよね? 結局こうなるんだから! めいくん居ても変わらないんだから、もっとちゃんとした高校行ってほしかったのに! ねえ! 聞いてる!? いつになったら普通ができるの!?」
甲高く、耳を劈くような声だ。
ピンポーン。
チャイムの音が響いた。母さんの足音が遠くなっていく。
今度は足音が二つになって近づいてきた。
「ようちゃん」
めいくんの声だ。
「あの、ようちゃんと、おばさんに、謝りたいことがあって」
「なあに?」
母さんは優しい声で返した。
「あの、俺……今まで、ようちゃんのこと、いじめてました。すみませんでした」
「……え?」
母さんの、戸惑う声が聞こえる。
「きっかけは、俺の好きな女の子が、ようちゃんのこと好きだったっていう、ほんとに、くだらない理由で」
「……めいくん」
「だから、ようちゃんは悪くないんです! ようちゃんはずっと普通に過ごしてただけで! 普通じゃないのは、俺の方で……」
コツン。床に、何か硬いものがぶつかる音がした。
「すみませんでした」
ガチャッ。
部屋のドアを開けると、めいくんが床に頭をつけて土下座していた。
「めいくん? やめてよ!」
おれはめいくんを抱えて起き上がらせる。
「ごめん。陽太。ずっと、ごめん」
違う。めいくんの、そんな姿が見たかったんじゃないんだ。
「ようちゃんのこと、ずっと、馬鹿にしてた。俺、ずっとわかってなかった。陽太にいじめられてるときも、ずっと、ようちゃんのくせに、ってずっと思ってた。でも」
「めいくん」
「でも、本当は、俺が陽太に勝てるとこなんて、一つもないのに」
「違う!」
おれは必死に、めいくんの口を塞ごうとする。
「陽太は! もう―――――――――」
「おれのこと、ちゃんと見ろよ!」
めいくんの肩を掴んで、思い切り叫んだ。
母さんは、驚いたようにこちらを見つめた。そして、うつむいて、その場から立ち去った。
めいくんも驚いたような、案ずるような顔をした。じっとこちらを見つめるその目に、おれはポロポロと涙を零した。
「めいくんはさあ、何も、わかってないよ」
「そんなこと」
うなだれるおれを覗き込む。おれのことを、何も知らない可愛い顔だ。
「だって、めいくんはおれのことを見てないじゃん」
「見てるよ」
おれの両頬に手を当ててじっと見つめてくる。可愛いんだけど、そういうことじゃない。
おれはめいくんの手を握り、言葉を続けた。
「見てないよ。おれは、めいくんより大きくなった。顔つきも変わった。声も、喋り方だって変えたし、クラスの人気者にもなった。運動だって頑張った。……でもめいくん、わかんないでしょ」
「はあ!? そんなの、嫌って程見てきたわ! 自慢かよ!」
めいくんは、語気を強くした。
「違う……」
「はあ? ……何が」
「おれさあ……なんにも、変わってないんだよ」
力なく笑うおれを、めいくんはじっと見つめた。
「おれ、ずっと子どものままなんだ」
めいくんの手を、強く握る。
「おれが、なんでめいくんのこといじめてたか、わかる?」
「俺が……ようちゃんのこと、いじめてたから」
おれは静かに首を振った。
「じゃあ……俺のことが、嫌いだから?」
「違う!」
「あ、違うんだ」
おれはめいくんの目を見つめ返した。
「めいくんに、見てほしかったんだ。ずっと」
めいくんは眉間に皺を寄せて、少し黙った。
「……子どもじゃん」
「うん」
めいくんは笑う。何がおかしいのだろうか。
めいくんは自分の鞄からタオルを出して、おれの顔に当てた。
「顔、拭きなよ」
めいくんの匂いが直接鼻腔を擽り、おれの脳はトリップする。
これでめいくんは自分の体とか拭いたのかな。
おれは自分の顔に押し付けて、涙を拭った。
「そんな強く擦らなくても」
めいくんの、少し引き攣った声が聞こえる。
タオルをずらして目元を開けると、はにかんだ表情のめいくんが現れた。
「仲直り、しよ」
めいくんが手を差し出す。おれはゆっくりとその手に自分の手を重ね、優しく握った。
おれの手よりも一回り小さい、大事な人の手。
「ようちゃんは、俺の大事な幼馴染で、親友だよ」
めいくんが言った。おれはまた、タオルで顔を隠した。
「おれも、めいくんが一番の親友だよ」
「好きな人」とは言えなかった。だって、この感情が好きかどうかは、まだわからないから。
「ふふ」
めいくんが笑いながら、おれの顔に当てていたタオルを取った。
「仲直りの印にさ、お互いの好きなところ言おうよ」
何だ、その恋人みたいな提案は。
めいくんがおれの顔を覗き込む。
「俺はね、ようちゃんの、顔が可愛いところが好き」
めいくんがニカッと笑う。おれは恥ずかしくて、全身から汗が噴き出た。
「明太君おはよー」
神宮寺がめいくんに挨拶をする。おれはめいくんの肩に頭を乗せながら神宮寺を睨む。
「は? 何? 染谷」
神宮寺はメンチを切るが、おれは無視をする。
「おー、めい。はよー」
教室のドアが開き、一人の男子生徒が入ってくる。めいくんの隣の席にカバンを下ろすと、挨拶をした。
「はよー。伊勢島」
伊勢島はブレザーの中に着た赤いパーカーの紐を縛る。
「今日さー、生徒指導の山ゴリに注意されてさー」
「パーカー脱げって?」
「いや、『だらしない』って」
「あー」
「だからさ、紐縛ったわ」
「パーカー脱げってことだろ」
「脱がねーよー。だってさ、これ脱いだらタンクトップ一枚だぜ?」
「あー…まあ、個性的で…」
「ブレ山きんにくんとか言われたらどうすんだよ!」
伊勢島が馬鹿なことで騒いでいる。おれは呆れてため息を吐いた。
「あ! おい染谷! お前まじ馬鹿にすんなよ!」
「実際馬鹿」
「嘘つくな! お前は大嘘つきのクソ野郎だからな! 信じねえぞ」
「信じるか信じないかはあなた次第」
神宮寺がひょこっと出てきて、一言言う。
「ねえおれ霊的なものじゃないんだけど」
おれは眉間に皺を寄せ、神宮寺を睨んだ。神宮寺はベロを出し、運動部の友達の元へ行った。
再びめいくんの肩に頭を乗せ直す。あまりにも心地が良いので眠りに就こうとすると、廊下からバタバタと一際騒がしい足音が近づいてきた。
「なあーーー!!! 今日の昼飯一緒に食おーー!!!」
おれは驚いて、反動で頭が持ち上がる。教室の廊下側の窓から勢いよく顔を出して叫ぶ男子生徒の胸元には、「FW高尾」と書かれたガムテープが貼ってある。
「お前さぁ、3年になってもう1ヶ月経つけど」
めいくんが呆れた声を出す。
「知ってるよー…。けどさあ、なんか俺馴染めなくってぇ」
高尾は「しくしく」とわざとらしい泣き真似をする。
「じゃあお前そのガムテープやめろよ」
伊勢島が高尾に冷たく言い放つ。高尾は大袈裟に驚いて、「やだー!」と駄々を捏ね始める。
高尾はこの変人さに加えて、オタクなので話が合うやつがいないのだろう。
「…昼休みくらい勝手に来れば」
おれは素っ気なく言った。高尾は満面の笑みを浮かべ「うん!!!」と元気に返事をして去っていった。「騒がしいやつ」と呆れていると、めいくんがこちらを見て驚いた顔をしていた。
「え、何?」
「陽太ってそんなこと言うんだ…」
「は? 言うよ。これくらい」
「はは。そっかそっかー」
めいくんは目を細めて笑う。かわいいな。
「おれだって変わってるんだよ」
そう言っておれは、めいくんの肩に頭を預けた。
「俺さぁ、えみりちゃん好きだなぁ」
夕日が沈みかける頃、ランドセルを背に通学路を歩きながらめいくんはそう言った。
「あ! これ、ようちゃんだけだから、教えたの! 誰にも言うなよ!」
「しーっ」と口に人差し指を当てて笑うめいくんは、夕日のせいか顔が赤く見えた。
「えみりちゃん、だっけ? どうぞ」
おれは廊下に散らばっていたプリントを拾い、笑顔で「えみりちゃん」に渡した。
「ごめんね。おれの足が引っ掛かっちゃったんだよね? 怪我はない?」
大袈裟に心配するふりをする。足を引っ掛けたのはわざとだった。
「あ、うん。こっちこそちゃんと前見てなくて…」
プリントを渡すおれの手と、受け取ろうとするえみりちゃんの手が触れる。プリントを軽く引っ張り、手を握ると、えみりちゃんの顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「…ッ」
「えみりちゃんの手、ちっちゃくてかわいいね」
「…そ…染谷君は、優しくて、かっこいいんだね」
「ようちゃんのくせに!」
おれとえみりちゃんが付き合ったことを知っためいくんが、おれを突き飛ばして叫んだ。
ねえ、めいくん。今誰のこと考えてる?おれのことかな。ずっとこうやって、おれのこと考えてくれればいいな。
おれは咄嗟に口元を手で隠した。
