自宅から徒歩10分の距離に位置する市民運動場。「第42回 体育祭」とデカデカと書かれた横断幕が、フェンスに括りつけられている。2メートルはありそうな白色のパネルには「赤組 青組 白組」の文字だ。「2-4」と立て看板のあるテントの下へ行くと、すでに女子は全員揃っていて、お互いに髪の毛をアレンジし合っている。
「お、明太君おはよー」
神宮寺が手を振った。来ているクラスTシャツの袖は、限界まで捲られて、ほとんどタンクトップになっている。クラスTシャツは、クラスの女子たちが張り切ってデザイン作成したものだ。派手な蛍光ピンクの生地に、クラス全員の名前と、担任の顔が某ピューロランドのキャラクター風にアレンジされたものが印刷されている。
「よーっす。飯田君。染谷は?」
高尾が猫耳にアレンジされた赤いハチマキを頭につけている。
「チャイム鳴らしたんだけど出なかった。始まるまでに来てとは言ってあるけど」
「ふーん。そっかぁ。……てか飯田君、俺の頭見ながら喋るのやめてくんね?」
「あ、ごめん。自分でやったの?」
「そんなわけあるかよ! って言いたいとこだけど、自分でやった」
「あー……」
「憐れむときだけ顔見るのやめろよ」
脳天に手刀を入れられる。
高尾に付いていき、ハチマキを貰う。自分で片結びをしてつけてみるが、思ったよりハチマキが長いので、首に当たって気になってしまう。
「高尾ー? ハチマキやってー」
高尾の背中を、ハチマキで鞭のように叩く。「それが人にものを頼む態度か」とハチマキを引っ張られて怒られた。しかし高尾は優しいので、
「やってやるからここ座りなよ」
と目の前のブルーシートの敷かれた地面を叩いた。
「猫耳はやめろよ?」
「おっけー。猫耳は、しない」
「それ猫耳以外をやるだろ」
高尾とじゃれながらハチマキが巻かれるのを待っていると、女子たちがいそいそと準備をし始めた。さっきまではしゃぎながら、ヘアアレンジやクラスTシャツのアレンジをしていたのに、今やもう全員が職人の表情をしている。
「あっ!」
高尾の驚いた声がして、ふっと影が掛かった。近くまで来たその影は、ふんわりと馴染みのある柔軟剤の匂いがした。
「ようちゃん?」
陽太は何も言わず、俺の頭にハチマキを巻いた。くるり、と頭の間に布を通すときに陽太の指先が当たる。ぎゅっと首の付け根より少し上に力が掛かり、結び終わったのだと理解する。
「優勝、するんでしょ」
頭に温かい陽太の手が乗せられ、二、三回頭ごと揺すられた。
「あ、あの、染谷君!」
「染谷君、ハチマキ!」
「ミキが、アレンジしてあげるから! こっち来て!」
「染谷君!」
女子たちが一斉に陽太を囲い込んだ。
「えぇー……」
昨日まで、腫れもの扱いだったくせに。
「女子はやっぱ、イベントだとテンション高ぇなー。神宮寺とやり合った日から怖がってたくせに」
高尾が唇を尖らせて、不満を漏らす。他の男子たちもよく思っていないようで、「なんで染谷ばっかり?」と不満を口にしていた。
当の陽太は気にもしていない様子で、女子にやられっぱなしだった。コードレスのコテが、陽太のふわふわな髪に通されて、さらにふわふわにされている。高尾はやはり我慢ならない様子で、陽太の周りにいる女子を蹴散らし、猫耳アレンジしたハチマキを陽太に手渡していた。陽太は「なにこれ」と少し笑った。
ガガッとスピーカーから雑音が鳴る。
『只今より、開会式を行います。生徒の皆様は、トラック中央にお集まりください』
指示通りトラックの中央へ向かい、担任教師の前に列を形成した。並び順に指定はないので、自然と後ろへ並んでしまう。神宮寺はやる気があるので先頭へ走って向かっていた。高尾と肩を組んで。
開会宣言などをボーッと聞いていると、いつの間にか隣に陽太がいた。髪の毛はクルクルとパーマがかかっていて、よりプードルみたいだ。くま耳にアレンジされたハチマキが、可愛らしさを演出している。
じっと見つめすぎたのか、陽太がこちらを一瞥して顔を赤くした。
「あ、ごめん。見過ぎた」
「いや……別にいいよ。見てても」
そっぽを向きながら言うのだから、説得力がない。やっぱり嫌なんじゃないか、と前を向き直した。
開会式が終わり、テントに戻る。プログラムを見ると、二人三脚は中盤なので、あと一時間くらいしたら招集がかかるだろう。テントにいても暇なので、こっそりと運動場の裏側へ行く。
この市民運動場には抜け道があり、フェンスとフェンスの間が人ひとり分ほど空いている場所があるのだ。1年の時も、この抜け道を使い、サボっていた。
例の如く抜け道から出て、目の前の昔からある駄菓子屋へ行く。
ガラガラ。昔ながらの曇りガラスの引き戸を開ける。
「ごめんくださーい」
ドスッドスッと音がして、ここの店主であるお婆さんが顔を出した。
「はいはーい。あら、お友達同士?」
「え?」
後ろを振り向くと、ふわふわ髪の幼馴染がそこにいた。
「ようちゃんもサボりかよ」
「……めいくんはいいの? 優勝目指すとか言ってたくせに」
痛い所を疲れてしまった。
「お、俺は競技で貢献するんだからいいんだよ。応援は神宮寺とかが適役だろ」
「……確かにね」
ソーダ味の棒アイスを2本購入し、ベンチに座る。一本を陽太に渡すと、隣に座って食べ始めた。
「おれこの味微妙」
「あー、知ってる。お前さ、舌肥えすぎだから」
陽太は昔から、アイスは「アイスクリーム」と表記のあるものしか食べない。なんて贅沢なやつなんだ。
2人だと、会話が全く続かない。だって、今までは陽太が勝手に喋ってたから。
投げ出すように伸ばした足に日の光が反射する。白いスニーカーを履いてきてしまったせいで、余計眩しい。
「あのさ……この前の……俺が、ようちゃんのこと、まだいじめられっ子って思ってるかっていう……」
「……うん」
羽化の早い蝉の鳴き声と、隣の運動場から高校生の声援が聞こえる。
「俺さ、わからないんだ」
「……何が?」
「陽太のこと」
「……ようちゃんって呼んでよ」
陽太の声が低くなる。
「俺の中で、学校いるときの陽太はいじめっ子だし。でも、昔みたいに接してくれるようちゃんは、いじめられっ子なのかもしれない」
ソーダのシロップが染み込んだ棒を、ただ見つめた。
「ただ、俺の中では、ようちゃんはずっと、可愛いようちゃんなんだ」
陽太の方へ向くと、陽太はじっと俺の顔を見つめていて、手に持っていたアイスがポタポタと液を垂らしている。
「あ」
垂れる液を下から掬い上げるように顔を近づけ、アイスに唇をつけた。
どうせ陽太は食べないだろう、と陽太の手に自分の手を重ねてアイスを食べた。
「な、何」
「勿体無いから」
陽太は俺がアイスを食べ終えるまで、その手から棒を離さなかった。日陰の下とは言え、蒸しかえるような暑さのせいか、陽太は耳まで赤くなっていた。
「あー! いた!! 明太君どこ行ってたんだよ!」
応援団でもないのに学ランを着た神宮寺が、怒りながら向かってきた。
「ちょっと野暮用で」
「嘘つくなよ! サボりだろ」
「ひどいな、神宮寺クン。俺がサボるような人間に見えるってのか」
「赤点補講マンなんだからサボるだろ」
「おい、言うなそれ」
神宮寺の腹を突き、応戦する。神宮寺もそれに乗っかって、俺の腹を突いた。
こちゃこちゃと不毛な争いをしていると、陽太に腕を引っ張られた。
「二人三脚、呼ばれてるよ」
「あっ! うん」
「まじか! 高尾君探さないと。染谷君、ありがとな」
神宮寺が片手を挙げて走り去っていった。陽太は、横目で神宮寺を見ながら、背中に向かって「うん」と呟いた。
「……疲れたー。うわ、染谷」
「は? 染谷、まじでやるんだ。イーダクンと」
元々陽太のグループにいたクラスメイトが、競技を終えたようで、テントに帰ってきた。陽太に聞こえるように、わざと声を大きくして話している。
「うん、勝つよ」
陽太が真っ直ぐな声で言った。
「一緒にやろうって、言ってもらったから」
陽太は、俺の腕を引っ張ると、待機所まで強引に連れていかれた。
待機所では、すでに他のペアは集まっており、到着してすぐに名前を確認された。神宮寺と高尾はと言うと、すでに足を紐で固定して二人で三脚の状態になっていた。俺達よりも出番は後のはずなのに。高尾は神宮寺のやる気に振り回されて大変そうだ。
待機列に入ると、トラックより外側に女子生徒が多く集まっていた。きっと陽太目当てだろう。
徐々に順番が近づいてきて、心臓がドクドクと跳ねる。そろそろか、と思い、紐を準備して右足に巻き付けた。その時、周囲の会話が耳に入った。
「染谷が走るところに何かして、あいつ転ばせね?」
「いいね。ちょうど端だし」
「え、俺ペットボトル持ってる」
「足掛けるとかよくね」
「足はバレたらまずいだろ。ペットボトルは手が滑りましたーで行けるし」
ほとんどが女子の声援で途切れていた。しかし、内容はかなり危険なことだったと推測される。
陽太は聞こえていたのだろうか。
一度結んだ紐をほどいて立ち上がった。
「陽太、場所変えよう」
「は? 何で」
陽太は怪訝な顔で俺を見た。おそらく、さっきのは聞こえていなかったのだろう。
「いや、コースがさ! 外側だと膨らむだろ。体力ある俺が外側行った方が早くなるかなって」
必死に理由を考えて、言い訳をした。陽太は依然として疑うような目でこちらを見てきたが、「それなら、まあ」と場所を移動した。
紐で足を縛り、前の組がスタートしたのを確認して進む。気が付いたら、もう次が俺達の番だ。緊張して呼吸が浅くなる。転んでしまうかもしれない。
陽太と肩を組み、体が密着する。もう夏なのに。暑いはずなのに。陽太の高めの体温が、落ち着く。
「位置について」の合図で線のすぐ前へ着き、「よーい」の合図で俺は右足を、陽太は左足を下げる。
バンッ。ピストルの発砲音が空気を振動させた。レーンに並ぶ選手達は一斉にスタートし、皆「一、二」や「ハイ、ハイ」などそれぞれの合図を口に突き進む。
一、二。視線を地面から正面へスライドさせる。運動場のグラウンドはまっさらで、障害物が何もない。はずだった。スタートから50メートルほどのカーブ手前の直線。突如として、空のペットボトルが転がってきた。
やられた。
ペットボトルに気づいたのか、陽太は俺の肩を掴んで内側へ寄せる。しかし、その努力も虚しく、好調なペースを保っていたために、ブレーキをかけきれなかった。俺の足はペットボトルを撫で、制御できない左足は地面に着くことなく、全身は地面に打ち付けた。
全身を打った衝撃と、恥ずかしさで頭がクラクラする。キーンと耳鳴りが鳴った。陽太が何か叫んでいるが、何も聞こえない。
起き上がろうとして、手に力を入れると、全身の痛みを実感し始めた。
あぁ、もう無理だ。きっと、血も出ている。
「めいくん、ゴールするよ」
視界が地面から遠くなったと思ったら、全身が宙に浮いていた。そして、ひっくり返されて、いつの間にか空を見ていた。
「めいくん、おれの首に手を回して」
陽太の言う通り、震える腕を押えて首に回す。陽太の上半身と体が密着して、持ち上げられた。
「お、お姫様だっこ!?」
陽太が歯を食いしばっている。足元からザッ、ザッ、と地面をける音がするたび、風が頬を撫でた。体の痛みも忘れてしまうくらい、陽太にすべてを委ねた。
走るスピードが緩まり、周りの歓声が耳に入ってきた。あぁ、走り終わったんだ。
「陽太……」
陽太は俺を抱えたまま、審判の元へ歩いていく。
「あの、二人でゴールしたんで、ちゃんとゴールした判定入りますよね?」
陽太が強気に言うと、審判が戸惑った表情を浮かべて
「あ……はい」
と答えた。
明太を救護テントまで送り届けた後、陽太は自クラスのテントへ戻った。明太を抱えてゴールした陽太を称賛する者、陽太が帰ってきて喜ぶ者、陽太を歓迎するムードだった。しかし、そのムードを打ち消してしまうくらい、陽太は殺気立った顔をしていた。
あの事故は、仕組まれたものだった。陽太はそう思ったのだ。必ず犯人を血祭りにしなければならない。そう誓った。
まずは犯人捜しからだ。そう思ったのも束の間。思っていたよりもあっさりと、犯人たちは自首したのだ。
「あ、あの、染谷! ごめん、俺達、わざとじゃなかったんだ」
「あんなことになるとは思わなくて!」
わざとじゃなかった。あんなことになると思わなかった。
明太は両膝から血を流して、掌も擦り剝いていた。擦り傷だけではない。打撲もあった。もしかしたら捻挫、最悪骨折しているかもしれない。
よくそんなことが言える、と陽太は拳を握った。
「染谷君にもだけど、謝るなら明太君だろ」
神宮寺が陽太の肩を軽く叩いた。陽太はハッとして振り向く。
犯人達は縮こまった様子で「はい」とその場に立ち竦んだ。
「許すか許さないかは、明太君が決めるんだ。染谷君が勝手に復讐しても、明太君が悲しむんじゃない?」
神宮寺が優しく諭す。陽太は拳をゆっくりと開いた。
「おれは許さない。けど、神宮寺の言う通りだ」
犯人たちは、陽太の眼光に怯え、走り去った。
陽太は一息ついて、神宮寺の方へ振り向いた。まだ、あの時の謝罪をしていないことを思い出したのだ。
「あ、のさ。この前は……ごめん。いきなり、突っかかって」
神宮寺は少し考えた後
「……ああ! あれ? いや、俺こそごめん。でもさ、これも明太君に謝った方がいいんじゃない?」
と笑った。
「染谷君、明太君に掴みかかってたろ。あれは明太君に謝った方がいいな」
陽太は少し笑って
「そうする」
と答えた。
陽太は明太に会おうと救護テントへ向かった。しかし、中に明太の姿はなく、養護教諭も行き先は知らないと言う。きっとリレーのメンバーに報告しに行ったのだろう。
陽太はその場を後にした。
「はあ!? めい、お前どーしたんだよ!? その怪我!」
伊勢島が俺を見るなり大声を出した。あまりにもうるさい。鼓膜が破れるかと思った。
「うるさ、お前。さっき転んじゃって。でも行けますよ。ほら」
俺は足をプラプラと動かして見せた。
「いや、行けるったって」
「行けるって! ほら」
今度は全力で伊勢島の周りを走って見せたが、メンバーの疑念は晴らせない。
「いやー。飯田君。やる気があるのも分かるし、君が速いのも分かるんだけどね?」
先輩は顔を見合わせる。それもそのはず。両肘、両膝には包帯が巻かれ、掌にはガーゼが貼られている。重症も重症だ。捻挫や骨折をしなかったのは、不幸中の幸いか。
「心配って言うか、なんて言うか」
「俺いけますよ!」
1年の後輩が手を挙げた。
「いやいや、俺行けますって!」
後輩を制止して、前に出る。先輩と伊勢島は頭を抱えた。
「うーん……えぇー……?」
一向に出ない結論に苛立ちを覚えて、ゼッケンとバトンを奪う。
「やれます! てか俺、運動部じゃないんで、支障ないんで!」
「あー! もう!」
伊勢島がゼッケンとバトンを奪い返した。
「は!? おい!」
「いいか!?」
伊勢島の顔が限界まで近づく。
「俺が、一走目をやる! だから、お前がアンカーやれ!」
「……え?」
目を点にする俺に、伊勢島は続けた。
「スタートダッシュで、めちゃくちゃ差つけてやるから、お前がバトン受け取って1位でゴールしろ」
「……おう!」
「1位以外だったら絶交な」
「それは別にいいけど」
「は!? お前まじで」
「あはは! うそうそ! めっちゃ頑張る!」
伊勢島がゼッケンを着て、待機場所へ向かう。先輩達は心配そうな顔をしながらそれぞれの場所へ移動した。
『続いては、学科対抗リレー。選手の紹介をします。……』
会場内が盛り上がる。さすがは体育祭の花形だ。緊張のせいか、怪我の痛みのせいか、全身がピリピリと痺れた感覚がする。
選手紹介が終わり、第一走者がレーンに並んだ。飛び跳ねたり、体を揺らしたりして、緊張をほぐしている。
その光景に、会場が静まり返った。全員が注目している。自然と全身が震えた。
「位置について!」
一つ一つの動作の音が鮮明に聞こえる。
「よーい」
ザッ。選手たちはスタンディングスタートの体勢を取る。
パアンッ。
ピストルの音が静寂を裂いた。
一斉に選手たちがスタートする。堰を切ったように声援が溢れ、その声をエネルギーに、選手たちはどんどんスピードを上げていく。
伊勢島が他の選手を突き放し、カーブへ差し掛かった。その足は波打ち、腕は風を切る。テイクオーバーゾーンに続く直線へ差し掛かり、さらに足を回転させてスピードを上げた。会場内は沸き立ち、空気が振動する。
その振動を肌で感じながら、バトンが二番手の先輩に渡った。第二走者が全員出走したのを確認し、レーンに入る。
あぁ。いよいよだ。傷の痛みも、今はもう感じなくなっている。ふぅ、と息を吐き、前を見る。
トラックの外側にいる陽太と目が合った。3年生のテントが揃う場所なのに、わざわざ見に来てくれたのか。陽太は案じるような顔つきで、こちらを見つめている。
大丈夫だよ。だって、足音が鮮明に聞こえている。後ろを振り向いて、第三走者の先輩を視界に捉えた。腕を後ろに出して構える。
太陽の光が、じりじりと肌を刺激する。しかし、怪我ほどの痛みじゃない。
この大きな光は、まるでスポットライトだ。俺がここにいて、俺であることを証明している。
先輩がテイクオーバーゾーンへ差し掛かり、右足、左足、と助走をつける。段々と距離が近づき、俺の手にバトンが触れた。瞬間、手に力を込めてバトンを握りしめた。そして、足をバネのように弾ませ、地面を蹴る。後ろとの距離は大体トラック半周分。
足を伸ばすたび、ピリッと皮膚の切れる感覚がする。しかしなりふり構わずに足を回転させた。がむしゃらに地面を蹴る。腹を打ったせいで、体勢がおかしくなっている気がするが、気にしない。すぐ後ろに気配を感じて、逃げるように腕を振った。
カーブを抜け、最後の直線に入り、ゴールテープだけを見つめる。歯を食いしばり、強く、ただ強く地面を蹴った。テープを切る直前で腕を開放し、胴体を前に突き出す。
テープに触れた感覚がして、スピードを落とした。足がもつれて、地面に倒れ込むと、自分の呼吸の音だけが聞こえてきた。
心臓の鼓動。地面を蹴る音。そして、歓声。
伊勢島が咆哮しながら駆け寄ってきた。
「1位! 1位、1位1位!!」
ぐいっと思い切り腕を引っ張られて、起き上がった。メンバーが、顔を真っ赤にしながら走って来る。
喜びの雄叫びや、観客の歓声、嗚咽などを耳にしながら、囲われる。頭を雑に撫でられたり、肩を組まれたり。悪い気はしないが、暑苦しいのでやめてほしい。
脱力して伊勢島にもたれ掛かると、腕を持たれ、脇腹を支えられた。伊勢島の肩を借りて、救護テントに向かう。
冷めぬ興奮を抑えられない生徒たちを後にして、静かな救護テントで治療してもらう。
「うっわ。グロ! 傷口開いてんだけど! キモ!」
散々な言われようだ。
「お前、そんなこと言うなら戻れよ」
「ごめんごめん。いや、まじですごいわ。めい」
伊勢島が、俺の向かい側のパイプ椅子に腰かける。
「やってくれると思ってた」
そう言って、伊勢島は拳を突き出した。
「ありがとう」
俺も拳を出して、グータッチをする。
「てかさあ。伊勢島がアンカー譲ってくれるとは思わなかった」
「あれは、戦略っていうか。まあ、俺はスプリンターだから? スタートダッシュの方が輝けるだろ」
「また言ってる」
「なんだと」
笑い合って、お互いを称賛していたはずが、伊勢島の表情が段々暗くなっていった。
「? どうしたんだよ? ウンコ?」
「それはお前だろ……って……あのさぁ」
伊勢島が下を向いて、顔を手で覆った。
「ずっと、ごめん」
「この前からなんだよ? そんな謝らなくていいだろ」
伊勢島の肩を掴んで揺らすと、ポツリ、ポツリと伊勢島が話し始めた。
「俺、めいがウンコ漏らした後から、ずっといじめてた。最低だよな。でも、めいが悪いから、償いだって思ってたんだよ」
「……償い……」
「学級閉鎖が明けたあの日、俺、めいのことからかったけど、ちょっと言い過ぎたって思ったんだよ。だって、わざとじゃないのは知ってるから。もちろんウンコ投げられて最悪だったけど」
「それは、本当にごめん」
「でも、俺も馬鹿にしすぎたから。そのあとさ、謝りに行こうと思ったんだ。だけどその時、陽太に『めいは伊勢島のこと、裏で馬鹿にしてる』って言われて」
「陽太に……? 俺、言ってない! そんなこと!」
立ち上がって、伊勢島の肩を強く掴んだ。
「分かってる! この前、やっとわかったんだ! でも俺、馬鹿だから! あの時の陽太の言葉、ずっと信じてて! 親友だと思ってたのに、裏切るのかよって……!」
「裏切ってなんか……」
「うん。裏切ってなかったんだよ。俺がずっと、騙されてた。だから、ごめん。……ずっと、ごめん」
伊勢島は鼻声になって、顔を上げなかった。
ジャリ。微かに音がして、顔を上げる。
「陽太……?」
物音の正体は、姿を現すことなく、「ザッ、ザッ」と音を立てて走り去った。
ミーンミンミンミン。ミーンミンミン。
蝉が騒がしい八月。俺と伊勢島は学校に来ていた。
「先生! 俺とめいのおかげで体育祭勝てたんだから、補講なしでよくないっすか!?」
伊勢島がシャープペンを投げ出して喚く。相変わらず、蝉のように、いや、蝉よりもうるさい。
そう。体育祭は商業科の赤組が優勝した。しかもリレーでの大逆転だ。そんな栄光を飾った俺達は……。
「テストで赤点と体育祭は別です。体が元気でも頭が馬鹿じゃ将来困りますよ?」
テストで赤点を取ったのだ。それも一つや二つじゃない。
ちなみに俺は4教科で、伊勢島は5教科だ。勉強面では俺の勝利である。
「そういえば、染谷君はどうしたんですか」
「陽太は……」
「はあ。困りますね。彼は頭が良いのに。出席日数が足りないんじゃ、どうしようもできないのに」
教師がため息をついた。
「あの、このまま陽太が来なかったら、どうなっちゃいます?」
「留年は確定でしょう。あとは染谷君がどうするか、ですね。彼は自主退学しそうですね」
手元のプリントが、グシャ、とよれる。
窓の外を眺めると、何もできない俺を笑うように、太陽が光り輝いていた。
「お、明太君おはよー」
神宮寺が手を振った。来ているクラスTシャツの袖は、限界まで捲られて、ほとんどタンクトップになっている。クラスTシャツは、クラスの女子たちが張り切ってデザイン作成したものだ。派手な蛍光ピンクの生地に、クラス全員の名前と、担任の顔が某ピューロランドのキャラクター風にアレンジされたものが印刷されている。
「よーっす。飯田君。染谷は?」
高尾が猫耳にアレンジされた赤いハチマキを頭につけている。
「チャイム鳴らしたんだけど出なかった。始まるまでに来てとは言ってあるけど」
「ふーん。そっかぁ。……てか飯田君、俺の頭見ながら喋るのやめてくんね?」
「あ、ごめん。自分でやったの?」
「そんなわけあるかよ! って言いたいとこだけど、自分でやった」
「あー……」
「憐れむときだけ顔見るのやめろよ」
脳天に手刀を入れられる。
高尾に付いていき、ハチマキを貰う。自分で片結びをしてつけてみるが、思ったよりハチマキが長いので、首に当たって気になってしまう。
「高尾ー? ハチマキやってー」
高尾の背中を、ハチマキで鞭のように叩く。「それが人にものを頼む態度か」とハチマキを引っ張られて怒られた。しかし高尾は優しいので、
「やってやるからここ座りなよ」
と目の前のブルーシートの敷かれた地面を叩いた。
「猫耳はやめろよ?」
「おっけー。猫耳は、しない」
「それ猫耳以外をやるだろ」
高尾とじゃれながらハチマキが巻かれるのを待っていると、女子たちがいそいそと準備をし始めた。さっきまではしゃぎながら、ヘアアレンジやクラスTシャツのアレンジをしていたのに、今やもう全員が職人の表情をしている。
「あっ!」
高尾の驚いた声がして、ふっと影が掛かった。近くまで来たその影は、ふんわりと馴染みのある柔軟剤の匂いがした。
「ようちゃん?」
陽太は何も言わず、俺の頭にハチマキを巻いた。くるり、と頭の間に布を通すときに陽太の指先が当たる。ぎゅっと首の付け根より少し上に力が掛かり、結び終わったのだと理解する。
「優勝、するんでしょ」
頭に温かい陽太の手が乗せられ、二、三回頭ごと揺すられた。
「あ、あの、染谷君!」
「染谷君、ハチマキ!」
「ミキが、アレンジしてあげるから! こっち来て!」
「染谷君!」
女子たちが一斉に陽太を囲い込んだ。
「えぇー……」
昨日まで、腫れもの扱いだったくせに。
「女子はやっぱ、イベントだとテンション高ぇなー。神宮寺とやり合った日から怖がってたくせに」
高尾が唇を尖らせて、不満を漏らす。他の男子たちもよく思っていないようで、「なんで染谷ばっかり?」と不満を口にしていた。
当の陽太は気にもしていない様子で、女子にやられっぱなしだった。コードレスのコテが、陽太のふわふわな髪に通されて、さらにふわふわにされている。高尾はやはり我慢ならない様子で、陽太の周りにいる女子を蹴散らし、猫耳アレンジしたハチマキを陽太に手渡していた。陽太は「なにこれ」と少し笑った。
ガガッとスピーカーから雑音が鳴る。
『只今より、開会式を行います。生徒の皆様は、トラック中央にお集まりください』
指示通りトラックの中央へ向かい、担任教師の前に列を形成した。並び順に指定はないので、自然と後ろへ並んでしまう。神宮寺はやる気があるので先頭へ走って向かっていた。高尾と肩を組んで。
開会宣言などをボーッと聞いていると、いつの間にか隣に陽太がいた。髪の毛はクルクルとパーマがかかっていて、よりプードルみたいだ。くま耳にアレンジされたハチマキが、可愛らしさを演出している。
じっと見つめすぎたのか、陽太がこちらを一瞥して顔を赤くした。
「あ、ごめん。見過ぎた」
「いや……別にいいよ。見てても」
そっぽを向きながら言うのだから、説得力がない。やっぱり嫌なんじゃないか、と前を向き直した。
開会式が終わり、テントに戻る。プログラムを見ると、二人三脚は中盤なので、あと一時間くらいしたら招集がかかるだろう。テントにいても暇なので、こっそりと運動場の裏側へ行く。
この市民運動場には抜け道があり、フェンスとフェンスの間が人ひとり分ほど空いている場所があるのだ。1年の時も、この抜け道を使い、サボっていた。
例の如く抜け道から出て、目の前の昔からある駄菓子屋へ行く。
ガラガラ。昔ながらの曇りガラスの引き戸を開ける。
「ごめんくださーい」
ドスッドスッと音がして、ここの店主であるお婆さんが顔を出した。
「はいはーい。あら、お友達同士?」
「え?」
後ろを振り向くと、ふわふわ髪の幼馴染がそこにいた。
「ようちゃんもサボりかよ」
「……めいくんはいいの? 優勝目指すとか言ってたくせに」
痛い所を疲れてしまった。
「お、俺は競技で貢献するんだからいいんだよ。応援は神宮寺とかが適役だろ」
「……確かにね」
ソーダ味の棒アイスを2本購入し、ベンチに座る。一本を陽太に渡すと、隣に座って食べ始めた。
「おれこの味微妙」
「あー、知ってる。お前さ、舌肥えすぎだから」
陽太は昔から、アイスは「アイスクリーム」と表記のあるものしか食べない。なんて贅沢なやつなんだ。
2人だと、会話が全く続かない。だって、今までは陽太が勝手に喋ってたから。
投げ出すように伸ばした足に日の光が反射する。白いスニーカーを履いてきてしまったせいで、余計眩しい。
「あのさ……この前の……俺が、ようちゃんのこと、まだいじめられっ子って思ってるかっていう……」
「……うん」
羽化の早い蝉の鳴き声と、隣の運動場から高校生の声援が聞こえる。
「俺さ、わからないんだ」
「……何が?」
「陽太のこと」
「……ようちゃんって呼んでよ」
陽太の声が低くなる。
「俺の中で、学校いるときの陽太はいじめっ子だし。でも、昔みたいに接してくれるようちゃんは、いじめられっ子なのかもしれない」
ソーダのシロップが染み込んだ棒を、ただ見つめた。
「ただ、俺の中では、ようちゃんはずっと、可愛いようちゃんなんだ」
陽太の方へ向くと、陽太はじっと俺の顔を見つめていて、手に持っていたアイスがポタポタと液を垂らしている。
「あ」
垂れる液を下から掬い上げるように顔を近づけ、アイスに唇をつけた。
どうせ陽太は食べないだろう、と陽太の手に自分の手を重ねてアイスを食べた。
「な、何」
「勿体無いから」
陽太は俺がアイスを食べ終えるまで、その手から棒を離さなかった。日陰の下とは言え、蒸しかえるような暑さのせいか、陽太は耳まで赤くなっていた。
「あー! いた!! 明太君どこ行ってたんだよ!」
応援団でもないのに学ランを着た神宮寺が、怒りながら向かってきた。
「ちょっと野暮用で」
「嘘つくなよ! サボりだろ」
「ひどいな、神宮寺クン。俺がサボるような人間に見えるってのか」
「赤点補講マンなんだからサボるだろ」
「おい、言うなそれ」
神宮寺の腹を突き、応戦する。神宮寺もそれに乗っかって、俺の腹を突いた。
こちゃこちゃと不毛な争いをしていると、陽太に腕を引っ張られた。
「二人三脚、呼ばれてるよ」
「あっ! うん」
「まじか! 高尾君探さないと。染谷君、ありがとな」
神宮寺が片手を挙げて走り去っていった。陽太は、横目で神宮寺を見ながら、背中に向かって「うん」と呟いた。
「……疲れたー。うわ、染谷」
「は? 染谷、まじでやるんだ。イーダクンと」
元々陽太のグループにいたクラスメイトが、競技を終えたようで、テントに帰ってきた。陽太に聞こえるように、わざと声を大きくして話している。
「うん、勝つよ」
陽太が真っ直ぐな声で言った。
「一緒にやろうって、言ってもらったから」
陽太は、俺の腕を引っ張ると、待機所まで強引に連れていかれた。
待機所では、すでに他のペアは集まっており、到着してすぐに名前を確認された。神宮寺と高尾はと言うと、すでに足を紐で固定して二人で三脚の状態になっていた。俺達よりも出番は後のはずなのに。高尾は神宮寺のやる気に振り回されて大変そうだ。
待機列に入ると、トラックより外側に女子生徒が多く集まっていた。きっと陽太目当てだろう。
徐々に順番が近づいてきて、心臓がドクドクと跳ねる。そろそろか、と思い、紐を準備して右足に巻き付けた。その時、周囲の会話が耳に入った。
「染谷が走るところに何かして、あいつ転ばせね?」
「いいね。ちょうど端だし」
「え、俺ペットボトル持ってる」
「足掛けるとかよくね」
「足はバレたらまずいだろ。ペットボトルは手が滑りましたーで行けるし」
ほとんどが女子の声援で途切れていた。しかし、内容はかなり危険なことだったと推測される。
陽太は聞こえていたのだろうか。
一度結んだ紐をほどいて立ち上がった。
「陽太、場所変えよう」
「は? 何で」
陽太は怪訝な顔で俺を見た。おそらく、さっきのは聞こえていなかったのだろう。
「いや、コースがさ! 外側だと膨らむだろ。体力ある俺が外側行った方が早くなるかなって」
必死に理由を考えて、言い訳をした。陽太は依然として疑うような目でこちらを見てきたが、「それなら、まあ」と場所を移動した。
紐で足を縛り、前の組がスタートしたのを確認して進む。気が付いたら、もう次が俺達の番だ。緊張して呼吸が浅くなる。転んでしまうかもしれない。
陽太と肩を組み、体が密着する。もう夏なのに。暑いはずなのに。陽太の高めの体温が、落ち着く。
「位置について」の合図で線のすぐ前へ着き、「よーい」の合図で俺は右足を、陽太は左足を下げる。
バンッ。ピストルの発砲音が空気を振動させた。レーンに並ぶ選手達は一斉にスタートし、皆「一、二」や「ハイ、ハイ」などそれぞれの合図を口に突き進む。
一、二。視線を地面から正面へスライドさせる。運動場のグラウンドはまっさらで、障害物が何もない。はずだった。スタートから50メートルほどのカーブ手前の直線。突如として、空のペットボトルが転がってきた。
やられた。
ペットボトルに気づいたのか、陽太は俺の肩を掴んで内側へ寄せる。しかし、その努力も虚しく、好調なペースを保っていたために、ブレーキをかけきれなかった。俺の足はペットボトルを撫で、制御できない左足は地面に着くことなく、全身は地面に打ち付けた。
全身を打った衝撃と、恥ずかしさで頭がクラクラする。キーンと耳鳴りが鳴った。陽太が何か叫んでいるが、何も聞こえない。
起き上がろうとして、手に力を入れると、全身の痛みを実感し始めた。
あぁ、もう無理だ。きっと、血も出ている。
「めいくん、ゴールするよ」
視界が地面から遠くなったと思ったら、全身が宙に浮いていた。そして、ひっくり返されて、いつの間にか空を見ていた。
「めいくん、おれの首に手を回して」
陽太の言う通り、震える腕を押えて首に回す。陽太の上半身と体が密着して、持ち上げられた。
「お、お姫様だっこ!?」
陽太が歯を食いしばっている。足元からザッ、ザッ、と地面をける音がするたび、風が頬を撫でた。体の痛みも忘れてしまうくらい、陽太にすべてを委ねた。
走るスピードが緩まり、周りの歓声が耳に入ってきた。あぁ、走り終わったんだ。
「陽太……」
陽太は俺を抱えたまま、審判の元へ歩いていく。
「あの、二人でゴールしたんで、ちゃんとゴールした判定入りますよね?」
陽太が強気に言うと、審判が戸惑った表情を浮かべて
「あ……はい」
と答えた。
明太を救護テントまで送り届けた後、陽太は自クラスのテントへ戻った。明太を抱えてゴールした陽太を称賛する者、陽太が帰ってきて喜ぶ者、陽太を歓迎するムードだった。しかし、そのムードを打ち消してしまうくらい、陽太は殺気立った顔をしていた。
あの事故は、仕組まれたものだった。陽太はそう思ったのだ。必ず犯人を血祭りにしなければならない。そう誓った。
まずは犯人捜しからだ。そう思ったのも束の間。思っていたよりもあっさりと、犯人たちは自首したのだ。
「あ、あの、染谷! ごめん、俺達、わざとじゃなかったんだ」
「あんなことになるとは思わなくて!」
わざとじゃなかった。あんなことになると思わなかった。
明太は両膝から血を流して、掌も擦り剝いていた。擦り傷だけではない。打撲もあった。もしかしたら捻挫、最悪骨折しているかもしれない。
よくそんなことが言える、と陽太は拳を握った。
「染谷君にもだけど、謝るなら明太君だろ」
神宮寺が陽太の肩を軽く叩いた。陽太はハッとして振り向く。
犯人達は縮こまった様子で「はい」とその場に立ち竦んだ。
「許すか許さないかは、明太君が決めるんだ。染谷君が勝手に復讐しても、明太君が悲しむんじゃない?」
神宮寺が優しく諭す。陽太は拳をゆっくりと開いた。
「おれは許さない。けど、神宮寺の言う通りだ」
犯人たちは、陽太の眼光に怯え、走り去った。
陽太は一息ついて、神宮寺の方へ振り向いた。まだ、あの時の謝罪をしていないことを思い出したのだ。
「あ、のさ。この前は……ごめん。いきなり、突っかかって」
神宮寺は少し考えた後
「……ああ! あれ? いや、俺こそごめん。でもさ、これも明太君に謝った方がいいんじゃない?」
と笑った。
「染谷君、明太君に掴みかかってたろ。あれは明太君に謝った方がいいな」
陽太は少し笑って
「そうする」
と答えた。
陽太は明太に会おうと救護テントへ向かった。しかし、中に明太の姿はなく、養護教諭も行き先は知らないと言う。きっとリレーのメンバーに報告しに行ったのだろう。
陽太はその場を後にした。
「はあ!? めい、お前どーしたんだよ!? その怪我!」
伊勢島が俺を見るなり大声を出した。あまりにもうるさい。鼓膜が破れるかと思った。
「うるさ、お前。さっき転んじゃって。でも行けますよ。ほら」
俺は足をプラプラと動かして見せた。
「いや、行けるったって」
「行けるって! ほら」
今度は全力で伊勢島の周りを走って見せたが、メンバーの疑念は晴らせない。
「いやー。飯田君。やる気があるのも分かるし、君が速いのも分かるんだけどね?」
先輩は顔を見合わせる。それもそのはず。両肘、両膝には包帯が巻かれ、掌にはガーゼが貼られている。重症も重症だ。捻挫や骨折をしなかったのは、不幸中の幸いか。
「心配って言うか、なんて言うか」
「俺いけますよ!」
1年の後輩が手を挙げた。
「いやいや、俺行けますって!」
後輩を制止して、前に出る。先輩と伊勢島は頭を抱えた。
「うーん……えぇー……?」
一向に出ない結論に苛立ちを覚えて、ゼッケンとバトンを奪う。
「やれます! てか俺、運動部じゃないんで、支障ないんで!」
「あー! もう!」
伊勢島がゼッケンとバトンを奪い返した。
「は!? おい!」
「いいか!?」
伊勢島の顔が限界まで近づく。
「俺が、一走目をやる! だから、お前がアンカーやれ!」
「……え?」
目を点にする俺に、伊勢島は続けた。
「スタートダッシュで、めちゃくちゃ差つけてやるから、お前がバトン受け取って1位でゴールしろ」
「……おう!」
「1位以外だったら絶交な」
「それは別にいいけど」
「は!? お前まじで」
「あはは! うそうそ! めっちゃ頑張る!」
伊勢島がゼッケンを着て、待機場所へ向かう。先輩達は心配そうな顔をしながらそれぞれの場所へ移動した。
『続いては、学科対抗リレー。選手の紹介をします。……』
会場内が盛り上がる。さすがは体育祭の花形だ。緊張のせいか、怪我の痛みのせいか、全身がピリピリと痺れた感覚がする。
選手紹介が終わり、第一走者がレーンに並んだ。飛び跳ねたり、体を揺らしたりして、緊張をほぐしている。
その光景に、会場が静まり返った。全員が注目している。自然と全身が震えた。
「位置について!」
一つ一つの動作の音が鮮明に聞こえる。
「よーい」
ザッ。選手たちはスタンディングスタートの体勢を取る。
パアンッ。
ピストルの音が静寂を裂いた。
一斉に選手たちがスタートする。堰を切ったように声援が溢れ、その声をエネルギーに、選手たちはどんどんスピードを上げていく。
伊勢島が他の選手を突き放し、カーブへ差し掛かった。その足は波打ち、腕は風を切る。テイクオーバーゾーンに続く直線へ差し掛かり、さらに足を回転させてスピードを上げた。会場内は沸き立ち、空気が振動する。
その振動を肌で感じながら、バトンが二番手の先輩に渡った。第二走者が全員出走したのを確認し、レーンに入る。
あぁ。いよいよだ。傷の痛みも、今はもう感じなくなっている。ふぅ、と息を吐き、前を見る。
トラックの外側にいる陽太と目が合った。3年生のテントが揃う場所なのに、わざわざ見に来てくれたのか。陽太は案じるような顔つきで、こちらを見つめている。
大丈夫だよ。だって、足音が鮮明に聞こえている。後ろを振り向いて、第三走者の先輩を視界に捉えた。腕を後ろに出して構える。
太陽の光が、じりじりと肌を刺激する。しかし、怪我ほどの痛みじゃない。
この大きな光は、まるでスポットライトだ。俺がここにいて、俺であることを証明している。
先輩がテイクオーバーゾーンへ差し掛かり、右足、左足、と助走をつける。段々と距離が近づき、俺の手にバトンが触れた。瞬間、手に力を込めてバトンを握りしめた。そして、足をバネのように弾ませ、地面を蹴る。後ろとの距離は大体トラック半周分。
足を伸ばすたび、ピリッと皮膚の切れる感覚がする。しかしなりふり構わずに足を回転させた。がむしゃらに地面を蹴る。腹を打ったせいで、体勢がおかしくなっている気がするが、気にしない。すぐ後ろに気配を感じて、逃げるように腕を振った。
カーブを抜け、最後の直線に入り、ゴールテープだけを見つめる。歯を食いしばり、強く、ただ強く地面を蹴った。テープを切る直前で腕を開放し、胴体を前に突き出す。
テープに触れた感覚がして、スピードを落とした。足がもつれて、地面に倒れ込むと、自分の呼吸の音だけが聞こえてきた。
心臓の鼓動。地面を蹴る音。そして、歓声。
伊勢島が咆哮しながら駆け寄ってきた。
「1位! 1位、1位1位!!」
ぐいっと思い切り腕を引っ張られて、起き上がった。メンバーが、顔を真っ赤にしながら走って来る。
喜びの雄叫びや、観客の歓声、嗚咽などを耳にしながら、囲われる。頭を雑に撫でられたり、肩を組まれたり。悪い気はしないが、暑苦しいのでやめてほしい。
脱力して伊勢島にもたれ掛かると、腕を持たれ、脇腹を支えられた。伊勢島の肩を借りて、救護テントに向かう。
冷めぬ興奮を抑えられない生徒たちを後にして、静かな救護テントで治療してもらう。
「うっわ。グロ! 傷口開いてんだけど! キモ!」
散々な言われようだ。
「お前、そんなこと言うなら戻れよ」
「ごめんごめん。いや、まじですごいわ。めい」
伊勢島が、俺の向かい側のパイプ椅子に腰かける。
「やってくれると思ってた」
そう言って、伊勢島は拳を突き出した。
「ありがとう」
俺も拳を出して、グータッチをする。
「てかさあ。伊勢島がアンカー譲ってくれるとは思わなかった」
「あれは、戦略っていうか。まあ、俺はスプリンターだから? スタートダッシュの方が輝けるだろ」
「また言ってる」
「なんだと」
笑い合って、お互いを称賛していたはずが、伊勢島の表情が段々暗くなっていった。
「? どうしたんだよ? ウンコ?」
「それはお前だろ……って……あのさぁ」
伊勢島が下を向いて、顔を手で覆った。
「ずっと、ごめん」
「この前からなんだよ? そんな謝らなくていいだろ」
伊勢島の肩を掴んで揺らすと、ポツリ、ポツリと伊勢島が話し始めた。
「俺、めいがウンコ漏らした後から、ずっといじめてた。最低だよな。でも、めいが悪いから、償いだって思ってたんだよ」
「……償い……」
「学級閉鎖が明けたあの日、俺、めいのことからかったけど、ちょっと言い過ぎたって思ったんだよ。だって、わざとじゃないのは知ってるから。もちろんウンコ投げられて最悪だったけど」
「それは、本当にごめん」
「でも、俺も馬鹿にしすぎたから。そのあとさ、謝りに行こうと思ったんだ。だけどその時、陽太に『めいは伊勢島のこと、裏で馬鹿にしてる』って言われて」
「陽太に……? 俺、言ってない! そんなこと!」
立ち上がって、伊勢島の肩を強く掴んだ。
「分かってる! この前、やっとわかったんだ! でも俺、馬鹿だから! あの時の陽太の言葉、ずっと信じてて! 親友だと思ってたのに、裏切るのかよって……!」
「裏切ってなんか……」
「うん。裏切ってなかったんだよ。俺がずっと、騙されてた。だから、ごめん。……ずっと、ごめん」
伊勢島は鼻声になって、顔を上げなかった。
ジャリ。微かに音がして、顔を上げる。
「陽太……?」
物音の正体は、姿を現すことなく、「ザッ、ザッ」と音を立てて走り去った。
ミーンミンミンミン。ミーンミンミン。
蝉が騒がしい八月。俺と伊勢島は学校に来ていた。
「先生! 俺とめいのおかげで体育祭勝てたんだから、補講なしでよくないっすか!?」
伊勢島がシャープペンを投げ出して喚く。相変わらず、蝉のように、いや、蝉よりもうるさい。
そう。体育祭は商業科の赤組が優勝した。しかもリレーでの大逆転だ。そんな栄光を飾った俺達は……。
「テストで赤点と体育祭は別です。体が元気でも頭が馬鹿じゃ将来困りますよ?」
テストで赤点を取ったのだ。それも一つや二つじゃない。
ちなみに俺は4教科で、伊勢島は5教科だ。勉強面では俺の勝利である。
「そういえば、染谷君はどうしたんですか」
「陽太は……」
「はあ。困りますね。彼は頭が良いのに。出席日数が足りないんじゃ、どうしようもできないのに」
教師がため息をついた。
「あの、このまま陽太が来なかったら、どうなっちゃいます?」
「留年は確定でしょう。あとは染谷君がどうするか、ですね。彼は自主退学しそうですね」
手元のプリントが、グシャ、とよれる。
窓の外を眺めると、何もできない俺を笑うように、太陽が光り輝いていた。
