「位置について、よーい、ドン!」
教師の合図で子ども達が走り出す。白い線の後ろに並ぶ子どもは「がんばれー」と口々に応援しながら列を詰める。
走り終えて、元の列に戻ろうと歩いていると、再び合図が聞こえ、次の走者が走り出していた。その中で真っ直ぐに前を見て、ゴールを目掛けて風を切る男の子がいた。その子が横を通った瞬間風が舞い、乾いた砂と共に俺の足先を撫でる。クラス、いや、学年で1番の速さかもしれない。
「リレーの選手はこっちに来てくださーい」
赤いジャージを着た学年主任の招集する声のする方へ歩いていく。この小学校の運動会では、4年生以上の選抜メンバーで行われるクラス対抗リレーが花形種目である。
「4年生」と書かれた白色のパネルを持った教師の前に並ぶ。隣の5年生や6年生は、去年の経験からか、クラスごとに真っ直ぐな一列を形成して待機している。比べて俺たちはどうだろうか。キョロキョロと周囲を見渡して息を吸った。
「「みんなで列になろうよ」」
俺の声と同時に、違う誰かの声が呼びかけた。
声のする方を見ると、さっきの50メートル走で一番早い子だった。よく見ると、4年生にしては背が高く、大人びた顔つきをしている。
「50メートル走、何秒だった?」
興奮気味に聞く俺に怪訝な顔を向けて、「ふいっ」と背中を向けた。
周りの生徒たちが列を形成しようとして動いていることに気づき、小走りで列の一番後ろに付く。
「6.7」
「え?」
列に付いた瞬間、隣の生徒が発言した。それに驚いて横を見ると、さっきの子だった。数秒して、「質問に答えてくれたのか」と理解して時間差で驚く。
「6.7!? 俺より0.5秒も早い!」
「当たり前だろ!? 俺はフォワードなんだぜ! サッカーは、短距離が重要って言うだろ?」
鼻息を荒げて見つめる俺を見て、得意げに鼻を鳴らす。
「サッカー、俺もフォワードやってる!」
「まじで? クラブどこ? 何て名前?」
「葛飾中央SC! 飯田明太!」
「え、俺亀有! 伊勢島快晴!」
予想だにしなかった共通点が判明し、お互いに早口で喋る。
「伊勢島君! 何組?」
「伊勢島でいいよ! 俺2組! 明太は1組?」
「そう!」
次から次へと話題が移り変わり、話に花が咲き始める。
「オホン、オホン!」
教師の咳払いがいつになく響いた。
二人は同時に口を噤み、目を合わせた。
「あなたたち。さっきまではとてもよかったのに!」
頭を抱えて、大げさに項垂れる教師に肩身が狭くなる。そんな俺たちを見て、「ふふっ」と笑った後
「二人とも、アンカーなんだから頼むよ?」
と冗談めかして言った。
「「はい!」」
俺たちは同時に敬礼した。それがなんだか可笑しくて、顔を見合わせて笑い合った。
「……29、30。では、これで期末テスト終了です。お疲れ様でした」
その一声に、教室中のクラスメイトが一斉に息を吐き出した。試験監督の教師が退出する前には、生徒たちは動き出し、口々にテストの感想を言い合った。
「問3はアだよな」、「いや、イだね」などと自分の記入した答えを言い合って一喜一憂している。感想なんて言い合っても結果は変わらないのに。
「お疲れ明太君! 俺、大問5がまじで不安なんだよね。答え分かった?」
「え、全然わからなかった」
「まじか」
かく言う俺もその一人なのだが。いや、神宮寺のせいで「そうさせられている」と言った方が正しいのか。
「俺大問3までに全てを賭けてる」
ただ、俺はテストなどというものにそこまでこだわりはない。
「え、それ赤点回避できるの?」
「できない」
「だよね。めっちゃ馬鹿じゃん」
テストとは、補講の前触れである。予習、と言う方が正しいだろう。
「すごいね。馬鹿の発想だ」
口に出しているつもりはなかったのだが、口に出てしまっていたのだろう。神宮寺が呆れてもはや褒め始めている。
「良いんだよ。どうせ夏休みに遊びに行くような友達もいないし」
「俺がいるじゃん!」
神宮寺が大げさに腕を広げて見せるが、一瞥してペンを仕舞った。
「明太君って冷たいね。冷めてる! 冷笑してる! 馬鹿なくせに!」
「お前悪口言いすぎだろ」
ペン1本と消しゴムが1個入れられた細いペンケースで神宮寺の頭を叩く。
財布とパスケースだけが収められているポシェットを肩に掛け、ペンケースを仕舞う。
「え、何そのオシャレバッグ」
「オシャレ? か、どうかはわからないけど。いつものやつだと邪魔だから」
「えぇー……。全然勉強する気ないんだ」
「悪あがきとかダサいだろ」
「赤点のほうがダサいけどね」
口うるさい神宮寺から逃げようと席を立つ。教室から出ようと動き始めた瞬間、「ガタッ」と斜め前で椅子を揺らす音が鳴った。
陽太だ。
「おい、染谷」
高尾の声が耳に届いていないのか、立ち止まる素振りも見せず教室から出ていった。
陽太は先日の諍いの後から全く学校に来なくなった。今は期末試験の期間なので顔を見せているが、それまでは家に行っても出てこないほどだった。心配だな。そう思うのは偽善だろうか。
「おい、明太君? 何帰ろうとしてるんだ?」
陽太の後に続いて帰ろうと再び歩みを進めると、神宮寺の鋭い声が背筋を凍らせた。
太陽の光で事足りるのに、教室は縦に長いLEDライトが灯されていて、いやに目の前の黒板を主張させている。その黒板には、デカデカと「体育祭 種目決め」と文字が書かれている。
体育祭。それはこの高校で毎年行われる行事である。商業科と工業科と普通科の三つ巴で戦うのだ。期末試験が明けて、夏休み前最後のイベント。学科対抗ということもあって生徒たちは自然と気合も入る。
「えーと、学科対抗リレーなんだけど、クラスで100メートルのタイムが速い人が1人選出されます。このクラスで一番速い人は……」
実行委員が重苦しく口を開いた。
「飯田……君……」
教室の隅の机から黒板を睨んでいた俺に、一斉に視線が集まる。
これだから嫌なのだ。
不本意ながら、昔から運動は抜きん出て得意であった。それは今も変わらずだが、こういった場面で必ず空気を乱してしまう。
リレーという花形競技。昨年は、体力テストで手を抜いていた。しかし、今年は神宮寺に焚きつけられて、つい本気を出してしまったのだ。握力とハンドボール投げ以外の種目で1位に躍り出て、悦に浸っていたのも束の間。体育祭の存在を思い出して眠れなくなったのはその時からだ。
何はともあれ、俺は体育祭には参加しない。これが唯一の解決策だろう。
「あの……」
恐る恐る手を挙げ、辞退を宣言しようとした。その時だった。
「てかさー、染谷に女装やらせね?」
「あー、あり。でも来ないっしょ、あいつ」
「来なかったら罰ゲームでいいだろ」
クラスメイトが、陽太を「仮装競走」に選出しようと企む声が聞こえた。仮装競走は毎年イロモノ枠として有名で、進んで参加するムードメーカーもいれば、無理矢理参加させられて微妙な空気になる者もいる。
陽太はあの日からクラスメイトとの折り合いが悪くなり、孤立していた。いや、もっと前から思うところがあったのだろう。孤立するだけならまだしも、陽太は完全に陥れられようとしている。
俺は、挙げた手をぎゅっと握って立ち上がった。そして黒板の前まで歩いていき、白いチョークを手に取った。
クラスメイトが全員、俺の挙動に注目している。周囲の人にまで届いているのではないか、というくらい暴れる鼓動。そして微かに震える手を抑えながら、目の前の板に白い線を引いた。
二人三脚:染谷陽太、飯田明太
「あ、あの。リレーは、俺がアンカー勝ち取るんで」
すぐ横にいた実行委員は目を見開いて俺を見つめていた。そして、手元の出場リストに急いで書き込みをする。
さっきまでの騒音が嘘だったかのように、教室が静まり返る。俺は深呼吸をして振り返った。
「優勝……するんで」
まるで自信のない、小さな声で宣言をする。数多の視線が自分自身に集まっていることに実感を帯び始め、体中から汗が噴き出した。
教室は、未だ沈黙を保っている。その沈黙を破るように、一つ、拍手の音が鳴り響いた。
「よっ! スーパーマン! 頑張れよー!」
神宮寺の声だ。拍手の音は次第に、二つ、三つと増えていき、最終的にはクラスの全員が拍手していた。顔を見合わせながら、釣られて拍手する者、はやし立てるように大げさに拍手する者、冷やかしの声を上げる者。その反応一つ一つが、鮮明に見えた。
席に戻る途中で
「興が削がれたわ」
「染谷にお仕置きできねーじゃん」
とわざとらしく嫌味を言われたが、気にせず通り過ぎた。
神宮寺に「ありがとう」と感謝の言葉を言うと、溌剌とした笑顔で拳を出された。少し力を込めて、拳を重ねると、どこからともなく三つ目の拳が飛んできた。
「飯田君すげーな。全然こっち側じゃねーじゃん」
「高尾……君」
目が合うと、高尾はそっぽを向いて唇を尖らせた。
「飯田君に負けてらんないだろ! 染谷取られたんだから、俺らで負かしてやんなきゃまずいよなぁ!?」
「えっ? あ、俺!?」
神宮寺は高尾に肩を組まれ、強制的に「二人三脚」の種目にエントリーさせられる。黒板に名前を記入し終えた後、高尾がニッと俺に不敵な笑みを見せた。
ピンポーン。俺の家の反対側。見慣れた大きな黒いドアを前にして、チャイムを鳴らす。丸い電子錠が「ジーッ」と機械音を立てて回ると、中から一人の女性が出てきた。
「おばさん」
「あっ! めいくん。久しぶり! 最近毎日来てくれてるよね? ごめんね。中、上がっていいよ」
手招きをされて家の中へ入る。
おばさんは「暑かったでしょ」と麦茶と茶菓子を居間のテーブルに置いた。おばさんは流れるようにテーブルを挟んで俺の反対側に座る。
これは、まずいかも。と思ったのも後の祭り。
「あのねぇ、陽太、全然学校に行ってないでしょ? あの子、小学校からめいくんと一緒になって、ようやく普通になったと思ったのに。またこれ! あの子、何回ああやったら気が済むんだろう。ママを困らせたいの? めいくんも嫌だよね。あんな普通のこともできない子。めいくんは優しいし明るくていい子だからねー。陽太もめいくん見習ってってずっと言ってるのに。ねー?」
おばさんの愚痴は長い。
おばさんは昔から、引っ込み思案で友達もできず、泣いてばかりの陽太をよく思っていないらしい。「普通にして」と叱られる陽太をよく目撃した。
おばさんの言う「普通」とは何だろうか。俺のことを「いい子」と言うが、俺がいじめられている「普通じゃない子」と知ったら、俺はいい子じゃなくなるのだろうか。おばさんの愚痴を話半分に聞いていると、二階から足音が聞こえてきた。
「あ! 陽太! やっと降りてきた。ねえ、めいくん来てるよ」
「え? ……なんで」
階段を下りて、キッチンへ向かおうとする陽太と目が合った。陽太はその場に立ち止まって、視線を泳がせた。
上下グレーのスウェットに、寝て起きたままの髪型。いつもふわふわとしている髪の毛が、余計あちこちに飛んでいる。おばさんは、そんな陽太を見て
「あー、もう。恥ずかしいでしょ? めいくんにそんな姿見せないでよ」
と、手櫛で陽太の髪の毛を整える。
「あのさ、ようちゃん。今度、体育祭やるの知ってるよね」
肩に掛けていたポシェットから、四つ折りにしたチラシを取り出した。陽太はその内容を見て、眉間に皺を寄せる。
「二人三脚。ようちゃんと、俺で、出ることにしたから」
「え?」
「俺が立候補した。ごめん。でも、ようちゃんと一緒にやりたいと思ったから」
立候補したのは意地だった。でも、今の俺ならようちゃんと向き合えると思ったのだ。
「二人三脚、俺とようちゃんのどっちかが欠けたらダメなんだ。だからさ、二人でやろうよ。二人じゃなきゃ、できないんだよ」
「……おれだけだよ」
陽太が力なく笑った。
「おれだけ、めいくんがいないと何もできない」
この前と同じ表情をしているのに、ただ寂しそうな一人の男の子だと思った。陽太でも、ようちゃんでもなく。同い年の男の子だ。
「できるよ」
俺は拳を陽太に向けて突き出した。
陽太はその拳を払いのけて、階段を上がっていった。
教師の合図で子ども達が走り出す。白い線の後ろに並ぶ子どもは「がんばれー」と口々に応援しながら列を詰める。
走り終えて、元の列に戻ろうと歩いていると、再び合図が聞こえ、次の走者が走り出していた。その中で真っ直ぐに前を見て、ゴールを目掛けて風を切る男の子がいた。その子が横を通った瞬間風が舞い、乾いた砂と共に俺の足先を撫でる。クラス、いや、学年で1番の速さかもしれない。
「リレーの選手はこっちに来てくださーい」
赤いジャージを着た学年主任の招集する声のする方へ歩いていく。この小学校の運動会では、4年生以上の選抜メンバーで行われるクラス対抗リレーが花形種目である。
「4年生」と書かれた白色のパネルを持った教師の前に並ぶ。隣の5年生や6年生は、去年の経験からか、クラスごとに真っ直ぐな一列を形成して待機している。比べて俺たちはどうだろうか。キョロキョロと周囲を見渡して息を吸った。
「「みんなで列になろうよ」」
俺の声と同時に、違う誰かの声が呼びかけた。
声のする方を見ると、さっきの50メートル走で一番早い子だった。よく見ると、4年生にしては背が高く、大人びた顔つきをしている。
「50メートル走、何秒だった?」
興奮気味に聞く俺に怪訝な顔を向けて、「ふいっ」と背中を向けた。
周りの生徒たちが列を形成しようとして動いていることに気づき、小走りで列の一番後ろに付く。
「6.7」
「え?」
列に付いた瞬間、隣の生徒が発言した。それに驚いて横を見ると、さっきの子だった。数秒して、「質問に答えてくれたのか」と理解して時間差で驚く。
「6.7!? 俺より0.5秒も早い!」
「当たり前だろ!? 俺はフォワードなんだぜ! サッカーは、短距離が重要って言うだろ?」
鼻息を荒げて見つめる俺を見て、得意げに鼻を鳴らす。
「サッカー、俺もフォワードやってる!」
「まじで? クラブどこ? 何て名前?」
「葛飾中央SC! 飯田明太!」
「え、俺亀有! 伊勢島快晴!」
予想だにしなかった共通点が判明し、お互いに早口で喋る。
「伊勢島君! 何組?」
「伊勢島でいいよ! 俺2組! 明太は1組?」
「そう!」
次から次へと話題が移り変わり、話に花が咲き始める。
「オホン、オホン!」
教師の咳払いがいつになく響いた。
二人は同時に口を噤み、目を合わせた。
「あなたたち。さっきまではとてもよかったのに!」
頭を抱えて、大げさに項垂れる教師に肩身が狭くなる。そんな俺たちを見て、「ふふっ」と笑った後
「二人とも、アンカーなんだから頼むよ?」
と冗談めかして言った。
「「はい!」」
俺たちは同時に敬礼した。それがなんだか可笑しくて、顔を見合わせて笑い合った。
「……29、30。では、これで期末テスト終了です。お疲れ様でした」
その一声に、教室中のクラスメイトが一斉に息を吐き出した。試験監督の教師が退出する前には、生徒たちは動き出し、口々にテストの感想を言い合った。
「問3はアだよな」、「いや、イだね」などと自分の記入した答えを言い合って一喜一憂している。感想なんて言い合っても結果は変わらないのに。
「お疲れ明太君! 俺、大問5がまじで不安なんだよね。答え分かった?」
「え、全然わからなかった」
「まじか」
かく言う俺もその一人なのだが。いや、神宮寺のせいで「そうさせられている」と言った方が正しいのか。
「俺大問3までに全てを賭けてる」
ただ、俺はテストなどというものにそこまでこだわりはない。
「え、それ赤点回避できるの?」
「できない」
「だよね。めっちゃ馬鹿じゃん」
テストとは、補講の前触れである。予習、と言う方が正しいだろう。
「すごいね。馬鹿の発想だ」
口に出しているつもりはなかったのだが、口に出てしまっていたのだろう。神宮寺が呆れてもはや褒め始めている。
「良いんだよ。どうせ夏休みに遊びに行くような友達もいないし」
「俺がいるじゃん!」
神宮寺が大げさに腕を広げて見せるが、一瞥してペンを仕舞った。
「明太君って冷たいね。冷めてる! 冷笑してる! 馬鹿なくせに!」
「お前悪口言いすぎだろ」
ペン1本と消しゴムが1個入れられた細いペンケースで神宮寺の頭を叩く。
財布とパスケースだけが収められているポシェットを肩に掛け、ペンケースを仕舞う。
「え、何そのオシャレバッグ」
「オシャレ? か、どうかはわからないけど。いつものやつだと邪魔だから」
「えぇー……。全然勉強する気ないんだ」
「悪あがきとかダサいだろ」
「赤点のほうがダサいけどね」
口うるさい神宮寺から逃げようと席を立つ。教室から出ようと動き始めた瞬間、「ガタッ」と斜め前で椅子を揺らす音が鳴った。
陽太だ。
「おい、染谷」
高尾の声が耳に届いていないのか、立ち止まる素振りも見せず教室から出ていった。
陽太は先日の諍いの後から全く学校に来なくなった。今は期末試験の期間なので顔を見せているが、それまでは家に行っても出てこないほどだった。心配だな。そう思うのは偽善だろうか。
「おい、明太君? 何帰ろうとしてるんだ?」
陽太の後に続いて帰ろうと再び歩みを進めると、神宮寺の鋭い声が背筋を凍らせた。
太陽の光で事足りるのに、教室は縦に長いLEDライトが灯されていて、いやに目の前の黒板を主張させている。その黒板には、デカデカと「体育祭 種目決め」と文字が書かれている。
体育祭。それはこの高校で毎年行われる行事である。商業科と工業科と普通科の三つ巴で戦うのだ。期末試験が明けて、夏休み前最後のイベント。学科対抗ということもあって生徒たちは自然と気合も入る。
「えーと、学科対抗リレーなんだけど、クラスで100メートルのタイムが速い人が1人選出されます。このクラスで一番速い人は……」
実行委員が重苦しく口を開いた。
「飯田……君……」
教室の隅の机から黒板を睨んでいた俺に、一斉に視線が集まる。
これだから嫌なのだ。
不本意ながら、昔から運動は抜きん出て得意であった。それは今も変わらずだが、こういった場面で必ず空気を乱してしまう。
リレーという花形競技。昨年は、体力テストで手を抜いていた。しかし、今年は神宮寺に焚きつけられて、つい本気を出してしまったのだ。握力とハンドボール投げ以外の種目で1位に躍り出て、悦に浸っていたのも束の間。体育祭の存在を思い出して眠れなくなったのはその時からだ。
何はともあれ、俺は体育祭には参加しない。これが唯一の解決策だろう。
「あの……」
恐る恐る手を挙げ、辞退を宣言しようとした。その時だった。
「てかさー、染谷に女装やらせね?」
「あー、あり。でも来ないっしょ、あいつ」
「来なかったら罰ゲームでいいだろ」
クラスメイトが、陽太を「仮装競走」に選出しようと企む声が聞こえた。仮装競走は毎年イロモノ枠として有名で、進んで参加するムードメーカーもいれば、無理矢理参加させられて微妙な空気になる者もいる。
陽太はあの日からクラスメイトとの折り合いが悪くなり、孤立していた。いや、もっと前から思うところがあったのだろう。孤立するだけならまだしも、陽太は完全に陥れられようとしている。
俺は、挙げた手をぎゅっと握って立ち上がった。そして黒板の前まで歩いていき、白いチョークを手に取った。
クラスメイトが全員、俺の挙動に注目している。周囲の人にまで届いているのではないか、というくらい暴れる鼓動。そして微かに震える手を抑えながら、目の前の板に白い線を引いた。
二人三脚:染谷陽太、飯田明太
「あ、あの。リレーは、俺がアンカー勝ち取るんで」
すぐ横にいた実行委員は目を見開いて俺を見つめていた。そして、手元の出場リストに急いで書き込みをする。
さっきまでの騒音が嘘だったかのように、教室が静まり返る。俺は深呼吸をして振り返った。
「優勝……するんで」
まるで自信のない、小さな声で宣言をする。数多の視線が自分自身に集まっていることに実感を帯び始め、体中から汗が噴き出した。
教室は、未だ沈黙を保っている。その沈黙を破るように、一つ、拍手の音が鳴り響いた。
「よっ! スーパーマン! 頑張れよー!」
神宮寺の声だ。拍手の音は次第に、二つ、三つと増えていき、最終的にはクラスの全員が拍手していた。顔を見合わせながら、釣られて拍手する者、はやし立てるように大げさに拍手する者、冷やかしの声を上げる者。その反応一つ一つが、鮮明に見えた。
席に戻る途中で
「興が削がれたわ」
「染谷にお仕置きできねーじゃん」
とわざとらしく嫌味を言われたが、気にせず通り過ぎた。
神宮寺に「ありがとう」と感謝の言葉を言うと、溌剌とした笑顔で拳を出された。少し力を込めて、拳を重ねると、どこからともなく三つ目の拳が飛んできた。
「飯田君すげーな。全然こっち側じゃねーじゃん」
「高尾……君」
目が合うと、高尾はそっぽを向いて唇を尖らせた。
「飯田君に負けてらんないだろ! 染谷取られたんだから、俺らで負かしてやんなきゃまずいよなぁ!?」
「えっ? あ、俺!?」
神宮寺は高尾に肩を組まれ、強制的に「二人三脚」の種目にエントリーさせられる。黒板に名前を記入し終えた後、高尾がニッと俺に不敵な笑みを見せた。
ピンポーン。俺の家の反対側。見慣れた大きな黒いドアを前にして、チャイムを鳴らす。丸い電子錠が「ジーッ」と機械音を立てて回ると、中から一人の女性が出てきた。
「おばさん」
「あっ! めいくん。久しぶり! 最近毎日来てくれてるよね? ごめんね。中、上がっていいよ」
手招きをされて家の中へ入る。
おばさんは「暑かったでしょ」と麦茶と茶菓子を居間のテーブルに置いた。おばさんは流れるようにテーブルを挟んで俺の反対側に座る。
これは、まずいかも。と思ったのも後の祭り。
「あのねぇ、陽太、全然学校に行ってないでしょ? あの子、小学校からめいくんと一緒になって、ようやく普通になったと思ったのに。またこれ! あの子、何回ああやったら気が済むんだろう。ママを困らせたいの? めいくんも嫌だよね。あんな普通のこともできない子。めいくんは優しいし明るくていい子だからねー。陽太もめいくん見習ってってずっと言ってるのに。ねー?」
おばさんの愚痴は長い。
おばさんは昔から、引っ込み思案で友達もできず、泣いてばかりの陽太をよく思っていないらしい。「普通にして」と叱られる陽太をよく目撃した。
おばさんの言う「普通」とは何だろうか。俺のことを「いい子」と言うが、俺がいじめられている「普通じゃない子」と知ったら、俺はいい子じゃなくなるのだろうか。おばさんの愚痴を話半分に聞いていると、二階から足音が聞こえてきた。
「あ! 陽太! やっと降りてきた。ねえ、めいくん来てるよ」
「え? ……なんで」
階段を下りて、キッチンへ向かおうとする陽太と目が合った。陽太はその場に立ち止まって、視線を泳がせた。
上下グレーのスウェットに、寝て起きたままの髪型。いつもふわふわとしている髪の毛が、余計あちこちに飛んでいる。おばさんは、そんな陽太を見て
「あー、もう。恥ずかしいでしょ? めいくんにそんな姿見せないでよ」
と、手櫛で陽太の髪の毛を整える。
「あのさ、ようちゃん。今度、体育祭やるの知ってるよね」
肩に掛けていたポシェットから、四つ折りにしたチラシを取り出した。陽太はその内容を見て、眉間に皺を寄せる。
「二人三脚。ようちゃんと、俺で、出ることにしたから」
「え?」
「俺が立候補した。ごめん。でも、ようちゃんと一緒にやりたいと思ったから」
立候補したのは意地だった。でも、今の俺ならようちゃんと向き合えると思ったのだ。
「二人三脚、俺とようちゃんのどっちかが欠けたらダメなんだ。だからさ、二人でやろうよ。二人じゃなきゃ、できないんだよ」
「……おれだけだよ」
陽太が力なく笑った。
「おれだけ、めいくんがいないと何もできない」
この前と同じ表情をしているのに、ただ寂しそうな一人の男の子だと思った。陽太でも、ようちゃんでもなく。同い年の男の子だ。
「できるよ」
俺は拳を陽太に向けて突き出した。
陽太はその拳を払いのけて、階段を上がっていった。
