クソと太陽

 「げえ! 明太(めいた)くんが漏らした!」
途端に教室内に響く悲鳴、壊れそうなほどに勢いよく開かれる窓。
 齢10にして「ここが人生の墓場だ」と悟ったあの瞬間。俺は茶色く濁った塊を徐に取り出すと、思い切り空中にそれを放った。


 「ぶはぁっっ!」
あまりの苦しさに飛び起きる。強盗にでも首を絞められたんじゃないか、と疑ってしまうほどに締め付けられた感覚のする喉元に触れる。
 辺りを見回すと、何一つ変わりのない部屋と自分だけがいて、誰かに首を絞められているわけでも、強盗に忍び込まれているわけでもなかった。
 枕元で振動するスマホを手に取り、投げようと構える。腕を振り上げたところで理性が働いたのか、親指で「アラームを停止」の表記をタップし、静かに下ろした。
 ぼやけた頭で部屋を出て、洗顔をする。
 頭を持ち上げると、一重の目に小さめの鼻と口で構成された顔が鏡に映し出された。いつもは大人しめの黒く短い髪があちこちに飛び出て、個性を出そうとしてイメチェンを間違えた芸人のような頭になっている。
 部屋に戻り、制服に着替える。まだ朝と夕方は肌寒いので、長袖のシャツに腕を通し、学校指定のベストを着た。
 朝のルーティンワークは脳にインプットされているようで、無意識的に行うことができる。たとえ脳が拒絶していても、体は難なく遂行する。
 再び一階に降り、リビングへ向かった。
 「おはよう明太。今日もちゃんと起きてえらいね」
母親に声を掛けられた。その瞬間、朝起きてからずっと眉間に寄っていた皺が、アイロンでも掛けたかのように真っ直ぐに戻った。
 これもいつもの癖だ。朝のルーティンワークは玄関を出て、学校にたどり着くまで続く。俺はずっと、それがつらくて仕方ない。
 「今日もようちゃんから朝一緒に行こうって、お母さんのほうにもライン来たよ」
「うん」
「いつもありがとねーって言っといた」
「うん。ありがとう」
「明太もちゃんと返事しなさいね。ようちゃん困っちゃうでしょ」
「うん」
「もう。『うん』しか言わない」
「うん」
「お父さんと一緒だよ、それじゃ」
「うん」
「やぁね」
「うん」
 朝食を食べ終えると、傍に置いておいたグレーの四角いバックパックを手に取り、玄関へ向かった。靴を履き終えると、後ろに母親が立って、送り出そうとする。
 「気を付けてね」
ちらりと視線を向けると、明るい笑顔が目に入った。丸い目が、笑うことによって無くなって、えびすのような顔になる。
 俺も小さい頃はよく笑う子で、「お母さんに似て可愛い顔ね」なんて言われていた。
 しかし今では一切笑うことはなく、「お母さんに似てる」なんて言われることもなくなった。
 「いってきます」
母親に顔を向けることなく家を出る。俺にはここからが地獄だった。
 扉を開けると、目の前には俺より頭一つ分大きいサイズの男が立っていた。
「めいくん、おはよ」
ニコッと朝日よりもまぶしい笑顔を向けられる。最悪だ。俺は太陽とか、そういった類が嫌いなんだ。
 自然の明るいものほど嫌味なものはない。
 「めいくん、今日おれら日直だから、早く行こ」
「うん」
太陽が明るければ明るいほど、俺の影は暗くなる。
 俺は「明」太なんて名前だけど、こいつは「陽」太(ようた)だ。俺は人工的な光で、こいつは天然の光。隣でこいつが光れば光るほど、俺は自分が光っていると勘違いして、気づいた時には惨めでは済まないくらいの地獄に落ちている。
 「めいくん今日元気ない?」
陽太(ようた)がふわふわとした金色の髪を揺らして除く。プードルにそっくりなかわいい顔が歪んで、悲しそうな顔をする。
「うん」
 陽太は瞳を潤ませながら俺の手を握る。
「おれがいるから元気出して」
お前のせいだよ。喉まで出かけた言葉を飲み込んで、無視した。陽太は、俺の手を離すことなく握り続け、そのまま学校に到着してしまった。
 最も俺が避けたかった事案である。陽太と手を繋いでいる所なんて誰にも見られてはいけない。
 なぜなら
「ウワ! 陽太お前! ウンコハンドじゃねぇか」
俺が「ウンコマン」だからである。
 当初のあだ名はもっと酷かった。「閉鎖ウンコマン」である。理由は、俺が漏らしたウンコを当時同じクラスだった「悪ガキ伊勢島(いせしま)」目掛けて投球したからである。正しくは投糞であるが、どうでもいい。
 とにかく、俺の投げたウンコが見事伊勢島に命中したせいで、伊勢島は丁寧に洗浄、消毒された後、検査に移された。
 他の生徒も同様に、何らかの感染症に感染していないかなどの検査が必要になったため、学級は自然と閉鎖状態に。
 さらに教室内の入念な消毒のため2日間の学級閉鎖が宣言された。学級閉鎖が起こってしまったことで、俺がウンコを漏らしてしまったことは学校中に瞬く間に広がり、俺は「5―2のウンコマン」として名を馳せた。
 閉鎖ウンコマンの状態で地元の中学に進学し、そのまま3年間伝説のウンコマンとして菌扱いされた。
 高校こそ地元を離れようと思ったが俺の頭はそれほど良くなかった。地元の下から2番目の商工高校へ進学した。同じ中学からの進学者は一クラス分はいた。もちろん幼馴染の陽太も同じ高校に進学し、今でも「仲良く」登校している。そう……仲良く。
 「ほい、ウンコアタック」
陽太は意地でも離さなかった俺の手を払い、目の前のクソガキ……もとい伊勢島いせしまに「ウンコハンド」を擦りつけた。俺は馬鹿だ。たった十数分手を繋いでいただけだったのに、仲が良いと勘違いしてしまった。
 仲が良いわけがないのだ、こんなクソ野郎と。糞野郎は俺だが。
 陽太は満面の笑みで俺の方を向き
「めいくんさ、今日のトイレ長かったけど手ェ洗った?」
と言った。後ろで伊勢島が小脇に抱えていたサッカーボールを投げ出し、「ゲェッ!!!」と声を出す。うるせぇな、ゲロガキ。
 俺は何事も無かったかのようにその場を去った。
 職員室に入ると、見慣れない顔の生徒が担任と話をしていた。話しかけるタイミングを掴めずにいる俺を、担任が手招きする。
「今日の日直は飯田(いいだ)と……染谷(そめや)も一緒か。……まあ、日誌とか、大変だったら一言でもいいから」
 担任は困った顔をして、表紙に「2-4」と黒いペンで書かれた日誌を手渡す。俺は隣にいた黒髪の長身の男子生徒に視線を向け、軽く頭を下げてから職員室を出る。
 「めいくんひどいなぁ。置いてかないでよ」
教室に入ると、わざとらしい声を出しながら陽太がこちらに向かってきた。
 追いかける素ぶりすらしなかったくせによく言う。朝日が教室に入り込み、陽太の顔に影が差す。能のように暗く、無の表情が浮かぶ。俺には、笑っているように見えた。


 「めいくん、今日はなんで人少ないの?」
久しぶりに「5-2」の教室に登校してきた陽太が、隔離された席にただ一人座る俺に話しかけてきた。
 陽太は生まれつき体が弱く、中世的な顔立ちという理由でいじめられがちなのもあって、1週間に一度ほどしか学校に来なかった。
 どちらかというと陽太をいじめる側だった俺は、陽太の問いに答えられずにいた。俺の最後の矜持だった。こいつにだけは知られてはいけない。そう思ったのも束の間、誰よりも被害を被ったはずなのに誰よりも復活が早かった伊勢島によってバラされた。
 「陽太知らねぇの!?」
「あっ!」
「めいがウンコ漏らして、ゴリラみたいにウンコ投げたから学級閉鎖になったんだぜ!?」
「ウンコ……?」
 陽太が首を傾げる。俺は陽太の耳に入れまいと必死に手を伸ばす。
「おい! 陽太、聞くな!」
「だからさ! こいつウンコマンなんだぜ! 陽太もさ、ウンコマンって呼んでやれよ!」
俺の伸ばした手が陽太の耳に届き切る前に、伊勢島が言い切る。俺の手は空しく空中に静止する。
 「ウンコマン?」
陽太は意味が理解できていないようで、反応が薄い。それもそうだ。あの「めいくん」がウンコなぞ漏らすはずがない。陽太はきっとそう思っているのだ。俺は自分が陽太の憧れの存在であると自負していた。
 だから、衝撃だった。陽太がニヤリと、薄気味悪い笑みを浮かべ
「へえ、そうなんだ。今日からよろしくね、ウンコマン」
と手を伸ばしてきたことが。
 「おい陽太! それじゃお前がウンコハンドになるぞ!」
「あ、それもそうか。じゃあウンコマン、よろしく」
そう言って陽太はカバンから自らの水筒を取り出すと、俺の頭に水筒の中身をぶちまけた。
 ぽたぽたと滴る水の音。水から香る麦茶の匂い。床と同化して、見えなくなる茶色。俺は実感した。陽太から嫌われていたことを。陽太のようなきれいな顔の同級生をいじめて、側に置いて優越感に浸っていたのが見透かされたような感覚がして、恥ずかしさが込み上げてきた。
 俺は教室を勢いよく飛び出して、トイレに駆け込んだ。伊勢島に
「ウンコマンがウンコするぞ!」
と煽り立てられたが、何も思わなかった。
 駆け込んだ先のトイレの、水垢で白く曇った鏡に映りこんだ、人をいじめることでしか律することのできない個性のない顔が、こちらを見ていた。
 化けの皮が剥がれたと思った。これが本当の俺。そして、平気で俺を菌扱いする陽太も、本当の陽太だったのだ。
 俺に「憧れ」だなんて言いつつ、本心はいつも俺にムカついてて、俺のことを馬鹿にしている。
 悔しさで握り込んだ手を開くことはなく、顔も、上げることはなく、ただ時間を過ごした。
 「ウンコ掃除」と言われて水を掛けられても、「大腸菌検査」と言われて服を脱がされても、拳を開くことはなかった。誰がおとなしくいじめられるかと思い、人を殴ったこともあった。
 伊勢島に関しては乳歯を二本折ってやった。
 それでも俺がウンコマンでいることには変わりないし、変わらなかった。今でもウンコマンとしてクラスの隅に追いやられている。


 「ねぇ、もう言ったら? 『ようちゃんにいじめられてる』って」
陽太は無邪気な笑顔で言った。
「頑固だね。プライドとかあるんだ? ウンコマンなくせに?」
 何も反応しない俺に痺れを切らしたのか、俺の席の前までズカズカと近寄ってきたかと思うと、バンッと机を殴りつけた。
 「おれが『ようちゃん』だから? おれなんかにいじめられてないって言いたいの。ふざけんな」
相手にしない。それが一番効果的だと知っている。
 俺自身もいじめっ子だったからだ。大抵は誰かの気を引きたくて誰かをいじめてしまうものなのだ。
 「スカしてんなよ。めいくんはさあ、俺にいじめられることでしか存在できないんだから。いい加減、認めなよ」
ウンコはスカせないけどな。
 という糞ジョークはさておき、頭部を強く抑え込まれた俺は、このまま頭蓋骨もろとも握り潰されてしまうのではないかという恐怖におびえていた。
 「いじめられることでしか存在できない」。それもその通りだと思った。
 陽太をいじめることで確立していたアイデンティティが壊されたその時、俺は何者でもない存在になることにおびえていた。
 だから、いじめられてよかった、とも思った。被害者でいれば、誰かからは関心が向けられる。
 俺は何も言わなかった。
「めいく――――」
「おはよー。染谷早くね? めずらしー」
 陽太が何かを言いかけたところで、教室のドアが開く音が響き、真っすぐなミルクティー色の髪をした男子生徒が入ってきた。
 制服のブレザーには「高尾(たかお)」と油性ペンで書かれたガムテープが貼られている。
 「染谷」と声を掛けられた拍子に俺の頭部から陽太の手が離れ、俺は一命を取り留めた。
 「なー、染谷聞いた? 今日転校生来るって」
「は? 聞いてない。つかどうでもいい」
「ガチ? おもろくね? 転校生だよ?」
「お前ギャルゲやりすぎだろ。どうせ適当な顔した男なんだから夢持たないほうがお前のためだよ」
「顔見たことあんの?」
「ねえっつってんだろ、話聞けよ」
 陽太が高尾と話している隙に、始業時間までトイレにいようとその場をすり抜けた。
「え、てかさ、イイダウンコくんと何話してたん? つまる話? ウンコだけに」
はずだった。高尾は俺の姿を視界に捉えると、陽太に話しかけた。
 俺はそのまま通り抜ければよかったものを、つい気になって立ち止まってしまった。
「……日直のこと」
ふい、と斜め下に視線を向け嘘を吐く。
「え? 今日どうしたん染谷。まじめすぎね?」
高尾と同様、陽太の言葉に拍子抜けしてしまった。
 日直の話?クラスでは「不真面目1軍集団の中心」で通ってるお前が?
「…あ! お前やっぱ転校生見たんだろ! ギャルか!? いや、お前みたいなのは清楚系がタイプだろ! はいどぅるるるチーン! 黒髪美少女!」
 三人の間に流れる沈黙を破るように高尾が狂いだした。陽太は気味の悪い物でも見るかのように、眉間に皺を寄せ、高尾から二歩下がる。
「あ、おっけおっけ! ちがうな! ちがうちがう!」
引かれていることを感じ取ったのか、高尾は慌てて訂正しようとする。
「めがねな! めがね付き黒髪美少女! 大事よな!」
全く感じ取ってはいなかった。
 高尾を見る陽太の目は冷え切っている。陽太の呆れた顔で逸らした視線と図らずも交わってしまった。反射で顔を逸らす。
 勢いに任せて腹を外側に向け、そのまま教室を飛び出す。次々と登校してきた生徒と逆の方向へズカズカと進んでいく。


 西棟3階のトイレ。俺の縄張りだ。
 学校生活が辛くてしょうがなかった一年の初夏、俺はこの場所を見つけた。
 俺の所属する商業科クラスが存在するのは東棟で、西棟は工業科が使用していたが、近年の工業科の生徒数の減少により、3階は使われていない。東棟と西棟は3階が中央連絡路でつながっているため、行き来はしやすい。
 しかし、西棟は工業科という未知の存在がいるテリトリーなので、東棟の生徒は基本足を踏み入れない。工業科の生徒もわざわざ3階の水が出づらいトイレを使わないので、西棟3階のトイレは神エリアなのだ。
 今日も誰も使用していないトイレの扉を開けた。
 「いいところに! ちょっとさ、助けてくれませんか!」
誰もいないはずのトイレには、黒髪の見慣れない顔の生徒がいて、切羽詰まった表情で助けを求められた。


 「いや! まーじ助かった! ありがとね、めぇた君?」
「……めいたです。というか俺、何もしてないんで」
黒髪の男が歩きながら合掌して感謝の言葉を述べる。
 「明太君! 覚えた! いい名前だね。あれ、俺の名前言ったけ? 俺、神宮寺照也(じんぐうじしょうや)ね! よろしく」
神宮寺が腰を曲げて、俺の顔を覗き込みながら手を出す。
「あ、うん、よろしく」
 握手するべきか迷っていると、神宮寺が自分の手を眺めてからすぐに引っ込めた。恥ずかしかったのか、顔が少しか赤くなっている。恥ずかしさをごまかすように、神宮寺が話し始める。
 「俺さ、今日転校してきたばっかなんだよね」
「え、あ、そうなんだ。工業科?」
「商業科」
「まじで? ずいぶん遠いトイレに来たね」
「落ち着くトイレ探してたらこんなところに……というか明太君は工業科?」
「俺も商業科」
「お! まじか! 友達第一号」
そう言って神宮寺が拳を俺に向ける。
 今度はグータッチなのか?と恐る恐る拳を返す。すぐに関節と関節が合わさる感覚がした。神宮寺は爽やかな笑顔で伸ばした腕を元に戻した。
 「てか明太君はトイレよかったの?」
「俺? あぁ、まあ、引っ込んだ」
元々排泄目的にあのトイレに行ったのではないが、体裁のために嘘を吐く。
「まじかぁ! ごめん! 俺が特大ウンコをしたばっかりに!」
 そう、この男はついさっき、自分の排出した大便が流れないことに焦って、必死の形相で俺に助けを求めたのだ。
 俺はあのトイレの常連だったため、詰まった時の流し方は心得ていた。そして、図らずもこの男に懐かれてしまった。
 これはどうするべきか。せめて同じクラスじゃなければ、俺はたった今できた友達を失わずに済むのだが。
 「神宮寺君って何組?」
意を決して尋ねた。
「2-4って言ってたかな。担任は日向先生。眼鏡の」
それを聞いた瞬間、神宮寺と会う前の記憶が蘇ってきた。
 「ああ! 職員室いた! そういえば!」
「え? あ、日直の人?」
なぜ忘れていたのだろうか。それに高尾も転校生の話を意気揚々としていた。自分にとってはそれどころではなかったということなのか。
 「うん。 日直の飯田」
「あはは、まじか。顔全然見てなかったからわかんなかったわ」
「俺も」
 友達ってこんなにあたたかいのか。
 そんな感情が俺の中に流れる。友達という存在とは久しく縁が無かったためか、簡単に気持ちが傾いてしまう。神宮寺は本当に信用できるのか。そんな猜疑心はとっくに捨て去ってしまった。
 「ウンコマン、何してんの?」
聞き慣れた声で呼びかけられる。
 声の方向へ振り向くと、人をだまそうと善人の笑顔を貼り付けた、プードルそっくりの男が立っていた。
 ただ、プードルのような可愛さは一切なく、悪人そのものの顔をしている。終わった…そう思ったのも束の間
 「は!? バレた!?」
神宮寺が答えた。
「は? なにが?」
陽太はもちろん戸惑っている。
「俺がウンコしたこと……」
神宮寺がさらに恥ずかしそうに答える。
「たった今バレたよ」
俺は神宮寺に教えてあげた。
「ハッタリだったってことかよ……!」
神宮寺はなぜかキレている。
 睨みつけられている陽太は「阿保には付き合っていられない」というような呆れた顔をした。
 「お前が何なのか知らねえけど、ウンコマン同士お似合いだな」
「……あのさ、俺は君が誰か知らないんだけど、そういうのは小学生じゃないんだからやめたほうがいいんじゃない?」
ブチ切れていた割には正論で返す神宮寺。
 陽太は顔を真っ赤にする。
「うるさいな! おれのこと何も知らないくせに……!」
「は…? そりゃそうだろ。俺達、今日会ったばっかだぜ?」
神宮寺はまたも正論を返す。
 陽太の発言の意図がわからなかった。対峙する陽太は幼い子どものように顔を膨らませ、震えている。
 なんだかかわいいな、と思ってしまった。俺の後ろをちょこんとついてきていたあの頃を思い出す。
 いつからこうなってしまったのだろうか。
 「陽太、神宮寺君は関係ないからさ」
「は?」
俺は徐に口を開いた。陽太がこれ以上恥をかく姿を見ていられなかったし、何より、神宮寺に迷惑をかけたくなかった。
 「神宮寺君、ごめん。なんか変なことに巻き込んで。ウンコマンは俺だから、神宮寺君のことじゃないよ」
「変なことって……あのさ、変なのはこいつであって、明太君じゃないだろ? やめようぜ、自分のこと卑下するの」
神宮寺君は「良いやつ」だ。
 出会って数分もしない時間でそれがわかってしまうほどに。申し訳なさと、恥ずかしさが込み上げる。
 俺はこれ以上この場に居たくなくて、神宮寺の腕を引っ張り、そのまま歩き始める。
「めいくん」
陽太の横を通り過ぎた瞬間、名前を呼ばれる。
「?」
 神宮寺が引っ張られながら、俺と陽太の顔を交互に見る。
 どういった関係なのかわからないのだろう。俺達だってそうだ。どんな関係なのかわからない。


 「神宮寺照也です。神奈川のほうに住んでたんですけど、親の転勤でこっちに来ました。前の学校にも通えたんですけど、どうせなら東京の学校通いたかったんで転校してきました。この学校可愛い子多くて嬉しいです。仲良くしよーね」
 あの後、強引に神宮寺を職員室まで連れて行き、俺は教室へ戻った。
 陽太はどこへ行ったのか、教室には戻ってこなかった。
 そして朝のHR。神宮寺の持ち前の明るさとキリッとした顔立ちで、既にクラスの女子全員の心を鷲掴みにしている。
 自己紹介が終わると、案の定クラスの女子に囲まれて質問攻めにされていた。
 「女に囲まれていい気になりやがって」
神宮寺が女子に囲まれている状況に嫉妬する高尾が悪態をつく。いつもはその高尾の隣にいるはずの陽太が戻って来ておらず、男子グループは明らかに盛り下がっている。
 「てか染谷は?」
「知らね。朝はいたんだけどな」
「まじ染谷いねーと張り合えねえだろ」
クラスの中では基本空気な俺はただ傍観しているだけだった。
 神宮寺は出方を間違えた。でも俺は何も言わない。
 神宮寺はいいやつだが、仲良くなればなるほど、俺にも矛先が向いてきそうな気がするからだ。
 省かれ者という立ち位置を受け入れてしまえば、いじめられることもない。机の上に一限目の授業の準備をし、窓の外を眺める。
 結局この日は、陽太が戻ってくることはなかった。


 「明太君、昼めし食おーぜ」
制服は夏服へと変わり、転校生フィーバーも過ぎ去った頃、神宮寺はすっかりクラスに馴染んでいた。
「グウジ、そいつはいいんだよ」
「え、なんで? 明太君いつもひとりでさみしいだろ」
神宮寺は出方を間違えた。
 しかしそれ以上に性格がよく、気前も良いやつだった。今ではクラスの運動部系のやつらとあだ名で呼び合うほどの関係であり、こうして俺にも情けをかけてくれるほど余裕に満ち溢れている。
「いや、さみしいとかじゃなくて」
 周りの奴らは眉間にしわを寄せ、俺を睨む。事情を知っている者は勿論、知らない奴はなんとなく触れてはいけないものだと認識している。
 「あのさ、俺のこと無理やり昼飯に誘わなくていいよ。神宮寺君も嫌われたくないでしょ」
嫌味な言い方しかできないのは元の性格だ。神宮寺は悲しそうに眉を下げると
「明太君と一緒に食べたいから言ってるんだけど」
と付き合いたてのカップルのようなことを言ってきた。
 「一緒に食べる価値ないと思うけど」
「ある」
「神宮寺クン、ウンコマンと飯食うってマジ?」
突然、陽太が割って入ってきた。
「よ…染谷くん」
神宮寺は陽太を睨みつける。
「染谷君さ、みっともないからやめたほうがいいよ。そういうの」
二人の間に火花が飛び交う。
 陽太は無言を貫くものの、神宮寺を睨みつける目は鋭く、周りで見ていたクラスメイトは完全に怯えていた。
 これは、俺のせいなのか…?
 これ以上教室内の空気を悪くされるのもたまったものではないので、ここは穏便に済ませることにしよう。
「俺は一人がいいから。神宮寺君は友達と食べてきなよ」
 そう言ってカバンの中から弁当箱を取り出すと、目にも止まらぬ速さで教室から抜け出す。神宮寺が何かを言っていたが、無視した。そして行き着く先はただ一つ。西棟3階のトイレだ。
 「ふぅ。落ち着く…」
空気の全く良くないトイレの一番奥の個室で深呼吸をする。
 鼻腔を通る空気はお世辞にもいい匂いだとは言えない。むしろ臭い。けれど俺はこれが安心するのだ。人が寄り付かない匂いだから。
 今の季節によく合うミント色の弁当の包みを解く。
 コンコン。
 誰も来ないはずのトイレに人が来た。しかも俺のいる個室をノックしている。誰が来たのだろうか。
 俺は急いで弁当を包みなおし、後ろ手で持った。
「だ…誰ですか」
恐る恐るドアを開くと、ぎい…と音を立てる。ドアの前には、雨に濡れた後の犬のように、顔を歪ませた陽太が立っていた。
「めいくん、入れて」
「…うん」
 「めいくん、さっきはごめんね」
「うん」
「おれ以外の人と、仲良くしないでよ」
「うん」
「おれが、守ってあげるからね」
「うん」
陽太は、何を言っているのだろうか。
 もうずっと、陽太のことがわからない。
 俺をいじめ始めたあの日から、陽太は俺に二つの顔を見せるようになった。
 意図的なのか、頭の病気なのかはわからない。『ようちゃん』が出ているうちに、さっさと逆らってしまえばよかったものの、俺はそれができなかった。
 『ようちゃん』は、俺をいじめる前の陽太を思い出して、心地がよかったからだ。
 からかわれるとすぐ泣いて、突き放して押しのけても泣きながら後ろを付いてくるその姿は優越感そのものだった。
 陽太のことは嫌いだし、勿論『ようちゃん』のことも嫌いだ。それでも自分の沽券のために、突き放せないでいる。俺は大馬鹿者のクソ野郎だ。
 「ようちゃんさあ、俺がいないとほんとだめだよな」
俺の言葉に、陽太は笑った。
 プードルのようにふわふわと髪を揺らしながら、俺の首に腕を回す。
 体が密着すると、陽太の家の柔軟剤の匂いが鼻腔に広がる。気持ち悪い。それでいて、心地が良い。
 「そうだよ。おれ、めいくんがいないと何もできないんだよ」