ふと横に目を向けると、道端に捨てられたがらくたが目に入った。いつからそこに在っただろう。誰にも知れれることなく朽ちていく運命なのだろうか。ならば最後は少しでもと傘を手向けた。
花柄の傘はすこしは鮮やかに彩ってくれるだろうか。きっと私もこのがらくたと似ている。まだ使えるのに新しく使い勝手のいいものが好まれる世界では役に立てない。
代わりならいくらでもあるというけれど、このがらくたたちもそうだったのだろうか。同じ柄、同じ色でもそこに思い出一つなかったのだろうか。他人が思いはせても分からない。それでも、そこに何か温かい感情が残っていると信じていたかった。そうでないと自分の存在も信じられなくなってしまう。
いい気分転換になったかは分からないが、少しは息をすることが楽になった。そろそろ帰ろうと、ぼやけた景色に背を向けると私の帰り道は無くなっていた。行き止まりではない。道は続いていたが、それは私が歩いてきた道ではないからおかしい。
振り返り戻ろうにも、これまた景色が無くなっている。前も後ろも見知らぬ木々に囲まれ、次第に顔を出し始めた太陽も見失った。暗闇に飲み込まれたというのに不思議と怖くないのは、私は一人ではなかったから。
目の前には私が追ってきた烏がいた。私の行く道を指し示すように、少し進んでこちらを振り返る。動かない私を催促するように鳴き空へ羽ばたくと、木々が道を作るように両脇にはけていった。
目的地も見えずどこに向かうのかさえ分からない道だが、進むほかないようだ。空ではあの烏が仲間と共に飛んでいた。
私をここまで連れてきたのだから、最後まで案内してもらいたいものなのだ。烏に言っても仕方がない。別に誘われたわけではない。勝手に付いて来ただけなのだから、烏に責任は無い。悪戯に巻き込まれた気分だ。実際遊ばれているのかもしれない。空ではこっちの気も知らずゆらりと飛んでいる姿が見えた。
とりあえず前であるだろう道を進むしかない。振り返ると道は木々に覆われている。恐らくあちらが後ろで、私は迷っていないと思うことにした。自分の足音だけが聞こえる空間は意外と悪くない。
草や砂を蹴る音が大きく聞こえる。時折吹く風は木々を揺らし背中を押すように流れていく。最初こそ心細かったものの次第に慣れてきたのか、いつもと同じ歩幅で歩けるようになっていた。
車の音も、知らない音楽も人の声も何一つ聞こえない。薄暗い中ではいつにもまして聴覚が敏感になっているはずなのに、耳障りな音を遮断する必要はないほどに静かだった。
気のせいかもしれないが、霧が深くなっているように思える。自分が歩いている方向が本当に前なのか、また不安になってきた。どれだけ歩いても景色は変わらず、まるで同じ場所をぐるぐると回っているよう。
思い切って木が生い茂る横道にそれてみようと思うも、なんだか睨みつけるようになびく木々を見て諦めた。
遠くで烏の鳴き声が聞こえてくる。少しばかり不安になるも、見知った生き物がいたことに少しほっとし勇気を貰った。彼らは絶えず、私の少し前を飛んでいる。ただの気まぐれに飛んでいるのだと思っていたが、私の進む道の少し先を飛んでいる。
いまだに道案内をしてくれているということなのだろうか。もしそうだとするなら、もう少し近くで案内して欲しいものだ。そんなこと言っても聞いてくれないだろう。彼らは飛ぶための翼があるのだ。こんな地面を歩く必要などない。
あんな風に飛ぶことが出来たならどんな気持ちだろうか。空には空の苦難があるのかもしれないが、息の詰まりそうなこの地から抜け出せた景色はきっとここよりはましだろう。手を伸ばすも遠く及ばぬと悟り、この手は居場所を失った。
この手はいつも何かをつかみ損ねている。私が気付くのが遅すぎるのだろう。気付いたとしても、ためらうから間に合わない。そんなことを繰り返すうちに、手を伸ばす意味を見失っていた。唯一掴むことが出来るのは、目に見えない空気だけ。
どれほど歩いたかもう分からない。ずっと歩き続けていたようにも思えるし、まだあまり時間が経っていないようにも思える。私はずっとこのままなのだろうかという不安がよぎったころ、少し先に道が開けたような場所が見えてきた。
ようやくたどり着くと思ったのもつかの間。私はいったいどこに向かっているのかまだ知らない。
おそらくこのまま進めばたどり着くのは間違いなさそうだ。いつの間にか辺りは霧が晴れていた。それでも明るくならない視界に、もう夜になっていたことを知らされる。遠くに見える建物は、明かり一つついていなかった。
立ち止まり、何も考えずに足を進めていた自分に問いたい。私はここがどこだと思い進んでいたのだろうかと。帰り道の無い道に烏の案内。私が生きる世界ではないことは間違いない。だとするならば、この先に繋がる場所はここではないところ。それがどこなのかはどうでもいい。息の詰まるような空気から抜け出せるのなら。
とはいえ知らぬ場所に行くのには勇気がいる。入学式の前日に押し寄せる緊張感といい勝負だ。今更考えたところで引き返す選択肢など最初からありはしないのだが、やはり未知との遭遇で考えこんでしまう。
悪い癖なのは分かっている。行動に移す前にその先を考えさらにその先を考える。そしてずっと先を考え続けた結果、この場に根が生えたように動けなくなるのだ。考えれば考えるほど悪い方へたどり着いてしまう。無鉄砲で行動するのも考え物だが、考えすぎて動けなくなるよりはましだろう。
もたもたしていると、雨が降り始めた。それはまるで私をあの場所へ誘い込むよう。何かの罠なのかもしれない。それとも烏のからのお誘いか。どちらにせよ私はその先に行く。そこから、誰かが私の名前を呼んでいるような気がしてしかたなかった。
私の目的地は恐らくこの屋敷だ。大きな屋敷は立派な造りだったのだろう。今では朽ち果ててしまっているのが残念だ。恐らく何年も人が住んでいないのではないだろうか。家は人が棲まなければ家は駄目になると聞く。人気が無い屋敷は不気味に思えて仕方がない。
出来ればもう少し他の建物を探したいところだが、この屋敷のほかには無いのだろう。そもそもこの雨の中では、歩く気力がそがれるのは間違いない。雨に濡れた靴は水たまりに沈んでいきそうだ。
雨の日は嫌いではないが、これ以上濡れては風邪をひくだろう。どうせ人はいないのだ。雨宿りをさせてもらおう。近づき見上げるその屋敷は、はたから見る以上に廃れている。文字通り廃墟。雨漏りは覚悟をした方がよさそうだ。屋根がありますようにと願いながら、とりあえず呼び鈴を鳴らした。
誰もいないだろうが、礼儀を欠いた真似をすることは出来ない。誰も見ていないからなんて出来やしなかった。どこまで生真面目なんだか、自分でも鬱陶しくなる。こんな性格だから生きることさえ、上手くこなせないのだ。だが、この時ほどそんな性格で良かったと心から思ったのは初めてだ。
まさか烏に着いてきこんな場所に来るとは思わなかったが、悪くない気分だった。
思いのほか屋敷の内側は綺麗で、おとぎ話の世界に入り込んだよう。きょろきょろしていると、私の様子を確認するようにちらっと振り返った彼と目が合った。吸い込まれそうなほどに黒い目は、逸らすことが難しい。どこかで見たことのあるような眼差しは優しかった。
ふと細められる目は敵意が無いように思えた。数秒前までは知らぬ人。そんな簡単に人を信じてもいいのかとどこかで警鐘が鳴る。それでも、大丈夫と私の中で声がした。
ただ、前を歩く彼の後をついて行ってはいるがどこに向かっているのだろう。そもそも当然のように歩いているが、私はこんなところまで入ってもいいものだろうか。もしかして、行きたい所はあるが離れない私に困って遠回りしているとか。
迷惑をかけるまいと振り返るが、闇に隠された道はどうしても行く気にはならない。ためらいながらも、その後をついて行くと彼の足が止まった。
「さあ、着いたよ」
開かれた扉の向こうに広がっていたのは、見たことも無いような部屋が広がっていた。大きなテーブルには細かい装飾が施され、遠くから見ても分かる。絶対に高価なものだ。
見たところ、ここは食事をする場所だろう。どこからかいい香りが漂ってくる。思っていたのをはるかに飛び越える屋敷に、目の前にあるものを信じられなくなりそうだった。
椅子に座るよう促されるが、躊躇するのは当然。確かに椅子も高そうだということもあるが、私はどうしてここにいることを許されているのか教えてもらっていない。招待された訳ではないのに、私が来ることを予想していたような振る舞い。
もしかして、変なのは私の方かもしれないと思ってしまうほど。知らぬ間に招待状でも貰っていたのかもしれない。そうじゃなければ、ここにいることの説明がつかない。
「ゆっくりしていくといい」
その言葉が、私の不安全てをかき消していく。椅子に座るとすぐに食事が用意された。
「召し上がれ」
「いただきます」
ここまでしてもらって食べないというのは、逆に失礼になる。あまり食欲は無いのだが、一口食べてみる。美味しかった。飲み込んだスープは体の中から満たしてく。
食べ物に味を感じたのは久しぶりだった。空腹をしのぐためだけに食べ物を胃に入れていた。味わう前に飲み込み、口に入れては流し込む。
食べ物であれば何を選んでも同じ状態だった。何を食べたのかを覚えていなければ、いつ食べたのかも曖昧。食べることさえ忘れることもあった。
それなのに、こんなにしっかり味を感じる。暖かいスープは具の一つもないが、いろんな味がする。野菜をすりつぶしているのだろうか。口当たりのいいので、どんどん進む。これなら、あと三杯は食べられそうだ。というよりもっと食べたい。
皿を持ち上げ飲み干すと、くすりと笑う声が聞こえてきた。きっと行儀が悪かったのだろう。テーブルマナーなんてよく知らないが、さすがにこれはまずいことをした自覚はある。
彼は身なりや仕草からして育ちがいいに違いない。恐る恐る皿を下ろすと、口元に手を当てている彼と目が合った。
「口に合ったかな」
叱られると思っていたが、予想外の言葉にしどろもどろになっていた。いろんな言い訳を考えていただけに、叱られた方がいい返答を出来た気がする。
「もう一杯、頂いてもよろしいでしょうか」
ただ「はい」と答えればいいところを、おかわりを要求してしまった。他人の家に上がり込み、食事を与えてもらった挙句行儀に悪い行いをした。そのうえにまた厚かましい行動を重ねるなんて。
私はいったいどうしてしまったのだろうか。まるで心の声が引きずり出されてしまったように、思いは言葉になっていた。
「もちろんだ」
皿を持ち部屋を出る背中を何も言わずに見ていた。彼はいったい何者なのか。きっちりした服に身を包み、綺麗な立ち姿。どこか冷たく見えるが整った顔立ちに温度の無い声。人であるのは間違いないのだろうが、なんとも言えない雰囲気を漂わせている。
どことなく不気味な空気を纏うこの屋敷もまた謎だ。暖炉にシャンデリア。高そうなカーテンや家具は今までに見たことも無いようなものばかり。大正時代にタイムスリップしたようにも思えるが、恐らく違う。
彼は私の服装を見ても不思議に思った様子は無かった。だから、その選択肢は既に消えている。あと、考えられるのは二つ。これはただの夢。私が勝手に作り出した世界だということ。恐らくそれだろう。もう一つは現実味が無いからこれも消えたも同然。
夢の中ならいくらか気が楽だ。起きた時に覚えているにせよ、時間が経てば消えてなくなる。ならば、満喫してみよう。夢の中でも、こんなに立派な場所はなかなか作れるのもではない。
ピカピカに磨かれた燭台に自分の姿を映してみたり、触り心地のよさそうなカーテンの端に指先で触れてみたり。自分の家にある備え付けのカーテンとは違い重たい。
なぜ私はこんなものを創造できたのだろう。こんな高そうなもの、見たことなんて無いはずなのに。人は知らぬものを想像することなんて出来るのだろうか。
もしかすると、つけっぱなしのテレビの中で見たのかもしれない。どこかの国のお城特集があった気がする。
恐る恐るカーテンを開けると、月に照らされた雫が輝く景色が広がっていた。二階から眺めているにしては見晴らしがいい。そんなに多くの階段を上ったようには思えないのだが。
緊張していたせいであまり思えていなかったのかもしれない。第一、ここに来るまで何をしていたのか思い出せない。
記憶が飛ぶのは今に始まったことではない。毎日のように起こることなので、今更焦りはしない。その方がいいのだ。覚えていたいことなんて特になかった人生だ。日々の嫌なことが蓄積していくくらいなら、美しいものでさえ忘れていく方が良かった。
きっと、今日のことも忘れるのだろう。現実さえも消えていく私では、夢など跡形もなく消えていく。それでも、少しだけ長く覚えて置けるように雨が降り止まぬ景色を眺めていた。
大きな足音が近づき、私は静かに席に戻った。他人の家であまりうろうろするのは失礼だろう。非常識な人だと思われるのはごめんだ。再び私の前に置かれた皿には先ほどよりも少しだけ多く注がれたスープ。
それは彼からの歓迎のように思えた。都合のいい解釈だとは思うが、添えられたパンにその他の意味は思い当たらない。
こんがり焼かれた香りはお腹の龍を呼び起こす。私が食べている間、その男は自分の食事に手を付けず私を眺めているよう。その視線が気になり時折顔を上げるとばっちり目が合う。それでも逸らすどころか見続けるあたり観察でもしているのだろうと思った。なかなか居心地悪い感じがするものの、空腹には勝てずそのまま最後まで頬張った。
「部屋に案内しよう」
促されるまま立ち上がると眩暈がした。お腹がいっぱいになったころを見計らったように眠気が襲ってきたようだ。
ああ、夢が覚めてしまう。またあの場所へ戻るのか。今見たすべてのことはいつかきっと忘れてしまう。だからせめて少しだけ覚えていられるようにと、頭に焼き付けた。目の前の全てが暗闇に溶けていく合間に、暗く優しい目が覗いていた。
頭の中で何度も声が響いた。何を言っているのか誰の声なのかも分からない。ただ、呼ばれているような声に目を覚ました。こわばった体を伸ばしまた布団の中に納まる。どうも動く気にならない。
いつもの様に寝起きはだるくて仕方がない。気持ちのいい朝なんて迎えられたことなんてあっただろうか。
まあ、朝なんてそんなものだろう。一日が始まってしまったことに絶望するだけ。太陽はこれから来る得体のしれない恐怖の始まりの合図だ。
だから、カーテンは閉め切ったまま。外から漏れ出る明かりでさえ嫌なのに、全身に浴びるなどできやしない。
そういや昨日も夢を見た。思い出すように記憶を辿っていく。暗い道を抜け、大きな屋敷を見つけた。そこには知らぬ人がいて料理を与えてくれた。面白味も何もない夢だが、多くのことを思い出せる。
いつもなら写真で残したように途切れ途切れにしか思い出せないのに、今日はビデオでも撮ったかのよう。そう思えるのは、私が見ている景色のせいだ。
「よく眠れたかい?」
覚えのある声は昨日聞いた。上からのぞき込む顔も覚えている。
「夢じゃない?」
返事もせず、心の声がこぼれていた。
「夢というのは少々違うな」
「じゃあ、ここはいったい何なんですか?」
「どこでもいいじゃないか。ただ、君がいる場所だ」
確かにどこでもいいのかもしれない。あの場所ではないどこかならきっと昨日よりはましだ。
「食事を持ってきたよ」
ベッドのわきのテーブルに置かれた朝食は温かそうで、今すぐにでも平らげたい気分だったが軋む体を伸ばすのが先だろう。広々としたベッドは、再び私を眠りに誘う。その誘惑を断れず、私はまた目を閉じた。
花柄の傘はすこしは鮮やかに彩ってくれるだろうか。きっと私もこのがらくたと似ている。まだ使えるのに新しく使い勝手のいいものが好まれる世界では役に立てない。
代わりならいくらでもあるというけれど、このがらくたたちもそうだったのだろうか。同じ柄、同じ色でもそこに思い出一つなかったのだろうか。他人が思いはせても分からない。それでも、そこに何か温かい感情が残っていると信じていたかった。そうでないと自分の存在も信じられなくなってしまう。
いい気分転換になったかは分からないが、少しは息をすることが楽になった。そろそろ帰ろうと、ぼやけた景色に背を向けると私の帰り道は無くなっていた。行き止まりではない。道は続いていたが、それは私が歩いてきた道ではないからおかしい。
振り返り戻ろうにも、これまた景色が無くなっている。前も後ろも見知らぬ木々に囲まれ、次第に顔を出し始めた太陽も見失った。暗闇に飲み込まれたというのに不思議と怖くないのは、私は一人ではなかったから。
目の前には私が追ってきた烏がいた。私の行く道を指し示すように、少し進んでこちらを振り返る。動かない私を催促するように鳴き空へ羽ばたくと、木々が道を作るように両脇にはけていった。
目的地も見えずどこに向かうのかさえ分からない道だが、進むほかないようだ。空ではあの烏が仲間と共に飛んでいた。
私をここまで連れてきたのだから、最後まで案内してもらいたいものなのだ。烏に言っても仕方がない。別に誘われたわけではない。勝手に付いて来ただけなのだから、烏に責任は無い。悪戯に巻き込まれた気分だ。実際遊ばれているのかもしれない。空ではこっちの気も知らずゆらりと飛んでいる姿が見えた。
とりあえず前であるだろう道を進むしかない。振り返ると道は木々に覆われている。恐らくあちらが後ろで、私は迷っていないと思うことにした。自分の足音だけが聞こえる空間は意外と悪くない。
草や砂を蹴る音が大きく聞こえる。時折吹く風は木々を揺らし背中を押すように流れていく。最初こそ心細かったものの次第に慣れてきたのか、いつもと同じ歩幅で歩けるようになっていた。
車の音も、知らない音楽も人の声も何一つ聞こえない。薄暗い中ではいつにもまして聴覚が敏感になっているはずなのに、耳障りな音を遮断する必要はないほどに静かだった。
気のせいかもしれないが、霧が深くなっているように思える。自分が歩いている方向が本当に前なのか、また不安になってきた。どれだけ歩いても景色は変わらず、まるで同じ場所をぐるぐると回っているよう。
思い切って木が生い茂る横道にそれてみようと思うも、なんだか睨みつけるようになびく木々を見て諦めた。
遠くで烏の鳴き声が聞こえてくる。少しばかり不安になるも、見知った生き物がいたことに少しほっとし勇気を貰った。彼らは絶えず、私の少し前を飛んでいる。ただの気まぐれに飛んでいるのだと思っていたが、私の進む道の少し先を飛んでいる。
いまだに道案内をしてくれているということなのだろうか。もしそうだとするなら、もう少し近くで案内して欲しいものだ。そんなこと言っても聞いてくれないだろう。彼らは飛ぶための翼があるのだ。こんな地面を歩く必要などない。
あんな風に飛ぶことが出来たならどんな気持ちだろうか。空には空の苦難があるのかもしれないが、息の詰まりそうなこの地から抜け出せた景色はきっとここよりはましだろう。手を伸ばすも遠く及ばぬと悟り、この手は居場所を失った。
この手はいつも何かをつかみ損ねている。私が気付くのが遅すぎるのだろう。気付いたとしても、ためらうから間に合わない。そんなことを繰り返すうちに、手を伸ばす意味を見失っていた。唯一掴むことが出来るのは、目に見えない空気だけ。
どれほど歩いたかもう分からない。ずっと歩き続けていたようにも思えるし、まだあまり時間が経っていないようにも思える。私はずっとこのままなのだろうかという不安がよぎったころ、少し先に道が開けたような場所が見えてきた。
ようやくたどり着くと思ったのもつかの間。私はいったいどこに向かっているのかまだ知らない。
おそらくこのまま進めばたどり着くのは間違いなさそうだ。いつの間にか辺りは霧が晴れていた。それでも明るくならない視界に、もう夜になっていたことを知らされる。遠くに見える建物は、明かり一つついていなかった。
立ち止まり、何も考えずに足を進めていた自分に問いたい。私はここがどこだと思い進んでいたのだろうかと。帰り道の無い道に烏の案内。私が生きる世界ではないことは間違いない。だとするならば、この先に繋がる場所はここではないところ。それがどこなのかはどうでもいい。息の詰まるような空気から抜け出せるのなら。
とはいえ知らぬ場所に行くのには勇気がいる。入学式の前日に押し寄せる緊張感といい勝負だ。今更考えたところで引き返す選択肢など最初からありはしないのだが、やはり未知との遭遇で考えこんでしまう。
悪い癖なのは分かっている。行動に移す前にその先を考えさらにその先を考える。そしてずっと先を考え続けた結果、この場に根が生えたように動けなくなるのだ。考えれば考えるほど悪い方へたどり着いてしまう。無鉄砲で行動するのも考え物だが、考えすぎて動けなくなるよりはましだろう。
もたもたしていると、雨が降り始めた。それはまるで私をあの場所へ誘い込むよう。何かの罠なのかもしれない。それとも烏のからのお誘いか。どちらにせよ私はその先に行く。そこから、誰かが私の名前を呼んでいるような気がしてしかたなかった。
私の目的地は恐らくこの屋敷だ。大きな屋敷は立派な造りだったのだろう。今では朽ち果ててしまっているのが残念だ。恐らく何年も人が住んでいないのではないだろうか。家は人が棲まなければ家は駄目になると聞く。人気が無い屋敷は不気味に思えて仕方がない。
出来ればもう少し他の建物を探したいところだが、この屋敷のほかには無いのだろう。そもそもこの雨の中では、歩く気力がそがれるのは間違いない。雨に濡れた靴は水たまりに沈んでいきそうだ。
雨の日は嫌いではないが、これ以上濡れては風邪をひくだろう。どうせ人はいないのだ。雨宿りをさせてもらおう。近づき見上げるその屋敷は、はたから見る以上に廃れている。文字通り廃墟。雨漏りは覚悟をした方がよさそうだ。屋根がありますようにと願いながら、とりあえず呼び鈴を鳴らした。
誰もいないだろうが、礼儀を欠いた真似をすることは出来ない。誰も見ていないからなんて出来やしなかった。どこまで生真面目なんだか、自分でも鬱陶しくなる。こんな性格だから生きることさえ、上手くこなせないのだ。だが、この時ほどそんな性格で良かったと心から思ったのは初めてだ。
まさか烏に着いてきこんな場所に来るとは思わなかったが、悪くない気分だった。
思いのほか屋敷の内側は綺麗で、おとぎ話の世界に入り込んだよう。きょろきょろしていると、私の様子を確認するようにちらっと振り返った彼と目が合った。吸い込まれそうなほどに黒い目は、逸らすことが難しい。どこかで見たことのあるような眼差しは優しかった。
ふと細められる目は敵意が無いように思えた。数秒前までは知らぬ人。そんな簡単に人を信じてもいいのかとどこかで警鐘が鳴る。それでも、大丈夫と私の中で声がした。
ただ、前を歩く彼の後をついて行ってはいるがどこに向かっているのだろう。そもそも当然のように歩いているが、私はこんなところまで入ってもいいものだろうか。もしかして、行きたい所はあるが離れない私に困って遠回りしているとか。
迷惑をかけるまいと振り返るが、闇に隠された道はどうしても行く気にはならない。ためらいながらも、その後をついて行くと彼の足が止まった。
「さあ、着いたよ」
開かれた扉の向こうに広がっていたのは、見たことも無いような部屋が広がっていた。大きなテーブルには細かい装飾が施され、遠くから見ても分かる。絶対に高価なものだ。
見たところ、ここは食事をする場所だろう。どこからかいい香りが漂ってくる。思っていたのをはるかに飛び越える屋敷に、目の前にあるものを信じられなくなりそうだった。
椅子に座るよう促されるが、躊躇するのは当然。確かに椅子も高そうだということもあるが、私はどうしてここにいることを許されているのか教えてもらっていない。招待された訳ではないのに、私が来ることを予想していたような振る舞い。
もしかして、変なのは私の方かもしれないと思ってしまうほど。知らぬ間に招待状でも貰っていたのかもしれない。そうじゃなければ、ここにいることの説明がつかない。
「ゆっくりしていくといい」
その言葉が、私の不安全てをかき消していく。椅子に座るとすぐに食事が用意された。
「召し上がれ」
「いただきます」
ここまでしてもらって食べないというのは、逆に失礼になる。あまり食欲は無いのだが、一口食べてみる。美味しかった。飲み込んだスープは体の中から満たしてく。
食べ物に味を感じたのは久しぶりだった。空腹をしのぐためだけに食べ物を胃に入れていた。味わう前に飲み込み、口に入れては流し込む。
食べ物であれば何を選んでも同じ状態だった。何を食べたのかを覚えていなければ、いつ食べたのかも曖昧。食べることさえ忘れることもあった。
それなのに、こんなにしっかり味を感じる。暖かいスープは具の一つもないが、いろんな味がする。野菜をすりつぶしているのだろうか。口当たりのいいので、どんどん進む。これなら、あと三杯は食べられそうだ。というよりもっと食べたい。
皿を持ち上げ飲み干すと、くすりと笑う声が聞こえてきた。きっと行儀が悪かったのだろう。テーブルマナーなんてよく知らないが、さすがにこれはまずいことをした自覚はある。
彼は身なりや仕草からして育ちがいいに違いない。恐る恐る皿を下ろすと、口元に手を当てている彼と目が合った。
「口に合ったかな」
叱られると思っていたが、予想外の言葉にしどろもどろになっていた。いろんな言い訳を考えていただけに、叱られた方がいい返答を出来た気がする。
「もう一杯、頂いてもよろしいでしょうか」
ただ「はい」と答えればいいところを、おかわりを要求してしまった。他人の家に上がり込み、食事を与えてもらった挙句行儀に悪い行いをした。そのうえにまた厚かましい行動を重ねるなんて。
私はいったいどうしてしまったのだろうか。まるで心の声が引きずり出されてしまったように、思いは言葉になっていた。
「もちろんだ」
皿を持ち部屋を出る背中を何も言わずに見ていた。彼はいったい何者なのか。きっちりした服に身を包み、綺麗な立ち姿。どこか冷たく見えるが整った顔立ちに温度の無い声。人であるのは間違いないのだろうが、なんとも言えない雰囲気を漂わせている。
どことなく不気味な空気を纏うこの屋敷もまた謎だ。暖炉にシャンデリア。高そうなカーテンや家具は今までに見たことも無いようなものばかり。大正時代にタイムスリップしたようにも思えるが、恐らく違う。
彼は私の服装を見ても不思議に思った様子は無かった。だから、その選択肢は既に消えている。あと、考えられるのは二つ。これはただの夢。私が勝手に作り出した世界だということ。恐らくそれだろう。もう一つは現実味が無いからこれも消えたも同然。
夢の中ならいくらか気が楽だ。起きた時に覚えているにせよ、時間が経てば消えてなくなる。ならば、満喫してみよう。夢の中でも、こんなに立派な場所はなかなか作れるのもではない。
ピカピカに磨かれた燭台に自分の姿を映してみたり、触り心地のよさそうなカーテンの端に指先で触れてみたり。自分の家にある備え付けのカーテンとは違い重たい。
なぜ私はこんなものを創造できたのだろう。こんな高そうなもの、見たことなんて無いはずなのに。人は知らぬものを想像することなんて出来るのだろうか。
もしかすると、つけっぱなしのテレビの中で見たのかもしれない。どこかの国のお城特集があった気がする。
恐る恐るカーテンを開けると、月に照らされた雫が輝く景色が広がっていた。二階から眺めているにしては見晴らしがいい。そんなに多くの階段を上ったようには思えないのだが。
緊張していたせいであまり思えていなかったのかもしれない。第一、ここに来るまで何をしていたのか思い出せない。
記憶が飛ぶのは今に始まったことではない。毎日のように起こることなので、今更焦りはしない。その方がいいのだ。覚えていたいことなんて特になかった人生だ。日々の嫌なことが蓄積していくくらいなら、美しいものでさえ忘れていく方が良かった。
きっと、今日のことも忘れるのだろう。現実さえも消えていく私では、夢など跡形もなく消えていく。それでも、少しだけ長く覚えて置けるように雨が降り止まぬ景色を眺めていた。
大きな足音が近づき、私は静かに席に戻った。他人の家であまりうろうろするのは失礼だろう。非常識な人だと思われるのはごめんだ。再び私の前に置かれた皿には先ほどよりも少しだけ多く注がれたスープ。
それは彼からの歓迎のように思えた。都合のいい解釈だとは思うが、添えられたパンにその他の意味は思い当たらない。
こんがり焼かれた香りはお腹の龍を呼び起こす。私が食べている間、その男は自分の食事に手を付けず私を眺めているよう。その視線が気になり時折顔を上げるとばっちり目が合う。それでも逸らすどころか見続けるあたり観察でもしているのだろうと思った。なかなか居心地悪い感じがするものの、空腹には勝てずそのまま最後まで頬張った。
「部屋に案内しよう」
促されるまま立ち上がると眩暈がした。お腹がいっぱいになったころを見計らったように眠気が襲ってきたようだ。
ああ、夢が覚めてしまう。またあの場所へ戻るのか。今見たすべてのことはいつかきっと忘れてしまう。だからせめて少しだけ覚えていられるようにと、頭に焼き付けた。目の前の全てが暗闇に溶けていく合間に、暗く優しい目が覗いていた。
頭の中で何度も声が響いた。何を言っているのか誰の声なのかも分からない。ただ、呼ばれているような声に目を覚ました。こわばった体を伸ばしまた布団の中に納まる。どうも動く気にならない。
いつもの様に寝起きはだるくて仕方がない。気持ちのいい朝なんて迎えられたことなんてあっただろうか。
まあ、朝なんてそんなものだろう。一日が始まってしまったことに絶望するだけ。太陽はこれから来る得体のしれない恐怖の始まりの合図だ。
だから、カーテンは閉め切ったまま。外から漏れ出る明かりでさえ嫌なのに、全身に浴びるなどできやしない。
そういや昨日も夢を見た。思い出すように記憶を辿っていく。暗い道を抜け、大きな屋敷を見つけた。そこには知らぬ人がいて料理を与えてくれた。面白味も何もない夢だが、多くのことを思い出せる。
いつもなら写真で残したように途切れ途切れにしか思い出せないのに、今日はビデオでも撮ったかのよう。そう思えるのは、私が見ている景色のせいだ。
「よく眠れたかい?」
覚えのある声は昨日聞いた。上からのぞき込む顔も覚えている。
「夢じゃない?」
返事もせず、心の声がこぼれていた。
「夢というのは少々違うな」
「じゃあ、ここはいったい何なんですか?」
「どこでもいいじゃないか。ただ、君がいる場所だ」
確かにどこでもいいのかもしれない。あの場所ではないどこかならきっと昨日よりはましだ。
「食事を持ってきたよ」
ベッドのわきのテーブルに置かれた朝食は温かそうで、今すぐにでも平らげたい気分だったが軋む体を伸ばすのが先だろう。広々としたベッドは、再び私を眠りに誘う。その誘惑を断れず、私はまた目を閉じた。
