足元は崩れ落ち、遠ざかる空に手を伸ばす。少しだけ惜しみながらも、翼が現れるのを待っていた。遠くに黒い翼が見えた時、風が吹きあがる。太陽に背を向けるその姿は大きくなる前に消えていた。
呼び鈴を鳴らすとすぐに、大きな扉が軋む音を立てながらひとりでに開いた。人は心底驚くと声も出ないし動くことも出来ないらしい。頭では一目散に逃げなければと警告しているのに体が言うことを聞かない。
そうこうしているうちに奥から人の影が近づいてくる。化物か魔物か。目を細めながら見るも、暗くてその姿は分からない。目の前に立った時、ようやくその姿が現れた。月明かりに照らされる姿は何とも美しい。ありきたりな表現ではあるが、この世の物とは思えない程だった。すらりとした姿はこの屋敷の主人とは思えない。
彼は私を見るなり微笑んで、招き入れるように肩を引く。
「あ、あの……」
「いらっしゃい。雨に降られたのでしょう。中へお入りなさい」
その言葉につられて私はその屋敷の中に入ってしまった。見知らぬ場所で見知らぬ人の家に上がるなど、いつもの私なら絶対にしない。けれど、歩き疲れ人気のない場所に居すぎたせいか、その姿に安心してしまったのだ。そして、真っ黒な瞳が少しだけ細められる。その仕草がなんだかとても懐かしく思えてしまった。
暗い廊下は彼が通ると、蝋燭に明かりが灯りその前を過ぎると勝手に消えた。暗闇に取り残されまいと、その背中を追うように屋敷へ足を踏み入れた。ひとりでに閉まる扉は鍵のかかる音がした。振り返り見ると、さっきまでいた場所はずいぶんと遠くに見えた。
いったいどうしてこんな場所にいるのだろう。布団の中で目覚めたのが遠い昔の様に思えてきた。これはいつもの悪い夢の続きなのだろうか。
悪夢に目覚めた日には、すこぶる気分が悪い。奈落に落ちてゆくのは夢だけで十分だ。叩きつけられたかのように痛む背中は寝返り一つ打っていない。
「いたた……」
腰をさすりながら重たい体を起き上がらせる。確か今日は仕事が休みだったはず。それなのに太陽が昇ると同時に目覚めてしまう。今月のノルマは達成した。その安堵は長くはもたず、間髪入れずに訪れる来月の数字に怯える。無意味な激励は私を追い詰めていく。金を稼ぐための手段だと割り切ってはいるが、どうも心は分かってくれないよう。
感じる違和感に目を瞑り三年が過ぎた。積もり続けるプレッシャーから逃げも隠れも出来ない毎日は楽ではない。それでも進むのは、止まることを許されていないから。
人相手に仕事をすることは思うようにいかないことばかりだ。無視され、理不尽な要求をされ身に覚えのない怒りをぶつけられる。けれど、それは私だけではないはず。どんなに楽しそうな人でも何かしらの不満を抱えながら今日も働いていると自分を納得させた。
転職サイトを開くのはもうお手の物。寝転びながら眩しい年収から目を逸らした。変化を楽しめる人はそう多くはないだろう。未知の世界に飛び込むよりも現状維持の方がいくらかいい。きっと今いるここが間違いなく安全なのだと、根拠のない回答が頭を回る。
私はいったい何がしたくてここに居るのか分からなくなった。生きるためにはお金がいる。でも、このまま生きていることが正しいのか分からない。私一人いなくなっても世界はなにひとつ変わらない。昨日と同じ様に日は昇り月が満ちる。
目の前に広がっていた空虚な世界を消したいのだが、自ら作り出した景色は脳裏に根付いて離れない。どれほど経っても力が入らない体に鞭を打って起き上がる。今日やるべきことを思い浮かべようとしても、見えるのは悪夢だけだった。
ソファーに横たわりながら見上げる空は灰色で、激しい雨をこの地に降らせている。そんな中、一羽の鳥が横切るのが見えた。雨に打たれながらも飛んでいるその姿を、どうしても追いたくなった。
祖父から譲り受けた宝箱に躓くと、懐かしい鈴の音が聞こえた。がらくたと言われても否定は出来ない。使い道は無いのだが、大切なもの。処分なんて出来るはずがない。使えずとも思い出は確かに宿っているのだから。
洗濯物の山から探ったゆるいワンピースをかぶり、身支度を適当に済ませ外に出る。どうせ傘を差していれば、誰の目にも入らない。私がどんな格好をしていようと構う人などいないはずだ。
雨の日が一番好きだ。小さな傘は一人だけの世界。他の誰の侵入を許すことのないその中は、ずいぶんと居心地がいいと思った。
外の空気を胸いっぱいに吸ったのはいつが最後だったか。久しぶりすぎて、新鮮な空気にむせた。雨の匂いを吸い込むも、なんだか違う。私の好きだった匂いは、もっと湿っていた。
不意に聞こえた烏の鳴き声に振り返ると、少し離れたところに居た。威嚇するわけでも、馬鹿にするわけでもなくただ立っている。なにか私に訴えかけているのだろうか。一向に動かない様子に違和感が増していく。雨露に煌めく黒い羽根は吸い込まれるような色だった。
見惚れていると烏がすぐそばに来ていた。よくある光景だ。烏なんてそこら中にいる。私に敵対心を抱いていないようで、近づいても動こうとしない。
じっと見る目は何かを伝えたそう。なんて思ったが、そんなことは無いだろう。ただの勘違いだ。来た道を引き返そうと烏に背を向けると、私を呼ぶように一声鳴いた。
烏は羽があるというのに飛ぶことはせず、ぴょんぴょんと先導する姿はなんだか愛らしく見えてきた。この烏はいったいどこへ向かっているのだろう。
烏が進む先に目を向けると坂が見えた。そう言えば、あの坂を上れば小高い丘があったはず。その先には何もない。そこへ行ってから引き返すとしよう。時間は余るほある。
大した運動ではないはずなのに、必要最低限しか動くことのない体にとっては激しい運動と変わりない。坂を上るとなればなおさら。息を切らしながら上ってはみたが、大して綺麗な景色ではなかった。住宅やらお店やらが所狭しと敷き詰められている。灰色の世界は色を失ったように見えるのに、変わらず息をしていることに戸惑った。
「空を飛ぶのは辛い?」
話し相手もいないので隣にちょこんと立っている烏に話しかけてみた。返事など来るはずもないのだが、答えを待つ。空は広いと思うのは地を歩くことしか出来ない人間の考えなのだろうか。
羽の生えた生き物にとっては空もまた狭い場所に思えるのかもしれない。知りたいけれど、言葉を返してはくれない。想像するしかないのだろう。
それにしても、私はなんと狭い場所にうずくまっていたのだろうか。家があるであろう場所に目を向けると、ごま粒のように小さい。あんなところに居れば息も詰まるのも当然だ。それなのに人々はよくあんなところで生きていけるものだと思う。
ここではないどこかへ行きたい。私にも翼があれば遠くへ行けるのに。この足では行けるところなんて限られる。きっと、逃げられることなどこれから先も無いのだろう。知ってはいたが失望せざるを得ない。
この世界は何とも生きずらい。生きていれば何かしらの競争が生まれる。それは悪いことではないことは知っている。競争があるからこそ新しいものが生まれる。それが無ければ、皆が怠惰な生活を送るだろう。
だが、知っているから出来るというわけではない。そのことを理解できても私には出来なかったのだ。いわば敗北者というやつだ。誰かにそう言われても、否定するつもりは無い。ちゃんと自覚はしている。生存競争の土俵から落っこちた私に戻る道も進む道もない。
どうしようもない人だと言われるだろうが、私はほっとしている。昔から競争は嫌いだった。競い合うのはいいとして、その結果をいつまでもいつまでも引きずりそれがすべてになることが嫌なのだ。
何にでも順位はある。テストでも営業成績でも。上位になりたくて努力をする。それほど人の原動力になるものは無いのではないかと思う。しかし、私には一番になる理由が見つからなかった。同級生よりもいい点数を取った。同僚よりも早く出世した。そこに価値を見出すことが出来なかったのだ。
どうでもいいことばかり。興味の無いものばかりに溢れているこの世界は退屈で、忙しなかった。要らぬ情報ばかり入り込んで、本当に知りたいことは知ることが出来ないし欲しいものは手に入らない。
そう多くは望んでいないはずなのに、どうしてだろう。私は得たものを見返すと、途端に空しくなった。
欺き蹴落とすことで幸せを手に入れられるのなら、私は何もいらない。そこで手に入れたものはきっと私を満たしてはくれないだろうから。何も求めない。ただ、この苦しみから逃れる方法を教えて欲しい。冷たい空気に吐き出したため息は少しだけ体を軽くしてくれた気がした。
呼び鈴を鳴らすとすぐに、大きな扉が軋む音を立てながらひとりでに開いた。人は心底驚くと声も出ないし動くことも出来ないらしい。頭では一目散に逃げなければと警告しているのに体が言うことを聞かない。
そうこうしているうちに奥から人の影が近づいてくる。化物か魔物か。目を細めながら見るも、暗くてその姿は分からない。目の前に立った時、ようやくその姿が現れた。月明かりに照らされる姿は何とも美しい。ありきたりな表現ではあるが、この世の物とは思えない程だった。すらりとした姿はこの屋敷の主人とは思えない。
彼は私を見るなり微笑んで、招き入れるように肩を引く。
「あ、あの……」
「いらっしゃい。雨に降られたのでしょう。中へお入りなさい」
その言葉につられて私はその屋敷の中に入ってしまった。見知らぬ場所で見知らぬ人の家に上がるなど、いつもの私なら絶対にしない。けれど、歩き疲れ人気のない場所に居すぎたせいか、その姿に安心してしまったのだ。そして、真っ黒な瞳が少しだけ細められる。その仕草がなんだかとても懐かしく思えてしまった。
暗い廊下は彼が通ると、蝋燭に明かりが灯りその前を過ぎると勝手に消えた。暗闇に取り残されまいと、その背中を追うように屋敷へ足を踏み入れた。ひとりでに閉まる扉は鍵のかかる音がした。振り返り見ると、さっきまでいた場所はずいぶんと遠くに見えた。
いったいどうしてこんな場所にいるのだろう。布団の中で目覚めたのが遠い昔の様に思えてきた。これはいつもの悪い夢の続きなのだろうか。
悪夢に目覚めた日には、すこぶる気分が悪い。奈落に落ちてゆくのは夢だけで十分だ。叩きつけられたかのように痛む背中は寝返り一つ打っていない。
「いたた……」
腰をさすりながら重たい体を起き上がらせる。確か今日は仕事が休みだったはず。それなのに太陽が昇ると同時に目覚めてしまう。今月のノルマは達成した。その安堵は長くはもたず、間髪入れずに訪れる来月の数字に怯える。無意味な激励は私を追い詰めていく。金を稼ぐための手段だと割り切ってはいるが、どうも心は分かってくれないよう。
感じる違和感に目を瞑り三年が過ぎた。積もり続けるプレッシャーから逃げも隠れも出来ない毎日は楽ではない。それでも進むのは、止まることを許されていないから。
人相手に仕事をすることは思うようにいかないことばかりだ。無視され、理不尽な要求をされ身に覚えのない怒りをぶつけられる。けれど、それは私だけではないはず。どんなに楽しそうな人でも何かしらの不満を抱えながら今日も働いていると自分を納得させた。
転職サイトを開くのはもうお手の物。寝転びながら眩しい年収から目を逸らした。変化を楽しめる人はそう多くはないだろう。未知の世界に飛び込むよりも現状維持の方がいくらかいい。きっと今いるここが間違いなく安全なのだと、根拠のない回答が頭を回る。
私はいったい何がしたくてここに居るのか分からなくなった。生きるためにはお金がいる。でも、このまま生きていることが正しいのか分からない。私一人いなくなっても世界はなにひとつ変わらない。昨日と同じ様に日は昇り月が満ちる。
目の前に広がっていた空虚な世界を消したいのだが、自ら作り出した景色は脳裏に根付いて離れない。どれほど経っても力が入らない体に鞭を打って起き上がる。今日やるべきことを思い浮かべようとしても、見えるのは悪夢だけだった。
ソファーに横たわりながら見上げる空は灰色で、激しい雨をこの地に降らせている。そんな中、一羽の鳥が横切るのが見えた。雨に打たれながらも飛んでいるその姿を、どうしても追いたくなった。
祖父から譲り受けた宝箱に躓くと、懐かしい鈴の音が聞こえた。がらくたと言われても否定は出来ない。使い道は無いのだが、大切なもの。処分なんて出来るはずがない。使えずとも思い出は確かに宿っているのだから。
洗濯物の山から探ったゆるいワンピースをかぶり、身支度を適当に済ませ外に出る。どうせ傘を差していれば、誰の目にも入らない。私がどんな格好をしていようと構う人などいないはずだ。
雨の日が一番好きだ。小さな傘は一人だけの世界。他の誰の侵入を許すことのないその中は、ずいぶんと居心地がいいと思った。
外の空気を胸いっぱいに吸ったのはいつが最後だったか。久しぶりすぎて、新鮮な空気にむせた。雨の匂いを吸い込むも、なんだか違う。私の好きだった匂いは、もっと湿っていた。
不意に聞こえた烏の鳴き声に振り返ると、少し離れたところに居た。威嚇するわけでも、馬鹿にするわけでもなくただ立っている。なにか私に訴えかけているのだろうか。一向に動かない様子に違和感が増していく。雨露に煌めく黒い羽根は吸い込まれるような色だった。
見惚れていると烏がすぐそばに来ていた。よくある光景だ。烏なんてそこら中にいる。私に敵対心を抱いていないようで、近づいても動こうとしない。
じっと見る目は何かを伝えたそう。なんて思ったが、そんなことは無いだろう。ただの勘違いだ。来た道を引き返そうと烏に背を向けると、私を呼ぶように一声鳴いた。
烏は羽があるというのに飛ぶことはせず、ぴょんぴょんと先導する姿はなんだか愛らしく見えてきた。この烏はいったいどこへ向かっているのだろう。
烏が進む先に目を向けると坂が見えた。そう言えば、あの坂を上れば小高い丘があったはず。その先には何もない。そこへ行ってから引き返すとしよう。時間は余るほある。
大した運動ではないはずなのに、必要最低限しか動くことのない体にとっては激しい運動と変わりない。坂を上るとなればなおさら。息を切らしながら上ってはみたが、大して綺麗な景色ではなかった。住宅やらお店やらが所狭しと敷き詰められている。灰色の世界は色を失ったように見えるのに、変わらず息をしていることに戸惑った。
「空を飛ぶのは辛い?」
話し相手もいないので隣にちょこんと立っている烏に話しかけてみた。返事など来るはずもないのだが、答えを待つ。空は広いと思うのは地を歩くことしか出来ない人間の考えなのだろうか。
羽の生えた生き物にとっては空もまた狭い場所に思えるのかもしれない。知りたいけれど、言葉を返してはくれない。想像するしかないのだろう。
それにしても、私はなんと狭い場所にうずくまっていたのだろうか。家があるであろう場所に目を向けると、ごま粒のように小さい。あんなところに居れば息も詰まるのも当然だ。それなのに人々はよくあんなところで生きていけるものだと思う。
ここではないどこかへ行きたい。私にも翼があれば遠くへ行けるのに。この足では行けるところなんて限られる。きっと、逃げられることなどこれから先も無いのだろう。知ってはいたが失望せざるを得ない。
この世界は何とも生きずらい。生きていれば何かしらの競争が生まれる。それは悪いことではないことは知っている。競争があるからこそ新しいものが生まれる。それが無ければ、皆が怠惰な生活を送るだろう。
だが、知っているから出来るというわけではない。そのことを理解できても私には出来なかったのだ。いわば敗北者というやつだ。誰かにそう言われても、否定するつもりは無い。ちゃんと自覚はしている。生存競争の土俵から落っこちた私に戻る道も進む道もない。
どうしようもない人だと言われるだろうが、私はほっとしている。昔から競争は嫌いだった。競い合うのはいいとして、その結果をいつまでもいつまでも引きずりそれがすべてになることが嫌なのだ。
何にでも順位はある。テストでも営業成績でも。上位になりたくて努力をする。それほど人の原動力になるものは無いのではないかと思う。しかし、私には一番になる理由が見つからなかった。同級生よりもいい点数を取った。同僚よりも早く出世した。そこに価値を見出すことが出来なかったのだ。
どうでもいいことばかり。興味の無いものばかりに溢れているこの世界は退屈で、忙しなかった。要らぬ情報ばかり入り込んで、本当に知りたいことは知ることが出来ないし欲しいものは手に入らない。
そう多くは望んでいないはずなのに、どうしてだろう。私は得たものを見返すと、途端に空しくなった。
欺き蹴落とすことで幸せを手に入れられるのなら、私は何もいらない。そこで手に入れたものはきっと私を満たしてはくれないだろうから。何も求めない。ただ、この苦しみから逃れる方法を教えて欲しい。冷たい空気に吐き出したため息は少しだけ体を軽くしてくれた気がした。
