キスから始まる恋心

 長かった授業に終わりを告げる鐘が鳴る。教壇に立っている先生が授業の終了を宣言すると、生徒たちの中にも緩やかな空気が戻ってくる。

 わたしも伸びをして、凝り固まっている身体を解す。数学の授業は苦手だ。どうしても眠くなってしまう。先生の声がまた眠気を誘うような声なのだ。授業を聞かなくても解けてしまうから、いっそ眠ってしまうほうが楽なのではないかと思ってしまう。けれど、先生のことを思うと居眠りもできず、わたしは眠気に耐えていた。

 眠気覚ましに少し歩いてこよう。わたしは席を立ち、教室を出る。休み時間となって授業から解放された生徒たちで廊下が賑わっている。まだこの後も授業はあるけれど、束の間の休息を楽しんでいるのだろう。他のクラスの前で話し込んでいる生徒もいる。

 ふらっと歩いて自分の教室に戻るつもりだったのだが、途中でわたしは足を止めた。

 瀧本くんだ。瀧本くんが生活指導の先生と話している。先生は厳しい表情をしているが、瀧本くんは聞く耳を持っていない様子だった。おそらく制服をちゃんと着るように指導されているか、ピアスは校則違反だと言われているのだろう。瀧本くんも、学校にいる間くらいはピアスを外せば良いのに。

 わたしは巻き込まれたくなくて逃げようとしたら、先に瀧本くんがわたしに気づいてしまった。瀧本くんに目だけで呼ばれているような気がして、わたしは二人に近づく。

「だから、校則に従った服装をしろと言っているだろうが」

「誰にも迷惑かけてねえだろ。俺がピアスしてるからって誰に迷惑なんだよ」

「校則に従えと言っているんだ。校則ではピアスは禁止だろう」

「その校則がおかしいんじゃねえのか? 何のためにピアス禁止にしてんだよ」

 うわあ、巻き込まれたくない。声が聞こえるくらいの位置まで来たけれど、それ以上近寄ることを躊躇うような話題だった。生活指導の先生は強面で、普通の生徒からは恐れられているのだ。わたしもあまり得意ではない。

 どうしよう。瀧本くんはわたしに何を望んでいるのだろう。あの中に割って入れというなら無理だ。わたしは平和に暮らしていきたいし、そんな勇気はない。

 わたしがそっと先生の視界に入ると、先生もわたしに気づいた。瀧本くんはその隙を見逃さない。すっと身体を動かして、わたしの横まで来る。

「じゃ、ピアスの話はまた今度」

「あ、おい、瀧本! まだ話は終わっていないぞ!」

 瀧本くんは呼び止められてもまったく動じることもなく、わたしの腰を押してその場から立ち去っていく。わたしが振り返ると、生活指導の先生は顔から火を噴きそうな勢いだった。

「ね、ねえ、大丈夫なの? 先生すごく怒ってるよ」

「いいって。どうせいつも変わらねえ話なんだ。たまにはネタ変えてこいっての」

 追いかけてこないところを見ると、先生もどこか諦めているのかもしれない。何度言っても直そうとしない生徒の相手など大変だろう。

 瀧本くんはそのまま階段のほうへ向かい、後ろを見て先生が付いてきていないことを確認する。それから、脱力して階段に腰を下ろした。

「あーあ、面倒だった。何なんだよ、ピアスの何が悪いんだよ」

 ぼやく瀧本くんの隣にわたしも座る。瀧本くんの耳には今日もピアスが光っている。

「でも、校則で決まってるんだから、仕方なくない?」

「その校則を疑えって話なんだよ。ピアスで風紀が乱れるか? 女子の短いスカートのほうが風紀を乱すだろうが」

「だから、スカート丈も校則で決まってるよ」

「あ、そうなの? 女子も大変だな」

 瀧本くんはこの学校の校則をどれくらい知っているのだろうか。知っていて破っているのではなく、知らなくて破っている部分もありそうだった。

「ちなみに瀧本くん、茶髪も禁止だし、制服もちゃんと着ないといけないし、ピアスも禁止だって校則に書かれてるんだからね?」

「知ってるよ。全部生活指導の奴に言われてるからな」

「知ってても違反するの?」

「俺は俺の生きたいように生きるんだよ。迷惑かけなきゃそれでいいだろ? 俺の髪が茶色いからって詩織には何の迷惑もかからねえだろうが」

「まあ、ねえ」

 納得してしまう。大学に入ってしまえばみんな好きな色に染めるのだろうし、高校生だけ縛り付けるというのも変に思えてしまう。染めたい人からしたら、年齢に関係なく髪を染めたいだろう。瀧本くんの言う通り、誰かの迷惑になるわけでもない。

「でもさ、素行が悪いと親に連絡行くんじゃないの? 大丈夫なの?」

「まあ、もう何回か連絡行ったけどな。喧嘩になったって構わねえよ」

 瀧本くんは吐き捨てるように言った。その口調からだけで、瀧本くんが親のことをどう思っているのかがよくわかった。

「あんまり仲良くないんだ?」

「父親とな。あいつ、俺のことが気に食わねえんだよ。だから髪も染めてやって、ピアスも開けてやった。自分の息子が不良になっちまってショック受けてたよ。ざまあみろ」

「お母さんは何も言わないの?」

 瀧本くんの表情が曇る。深くため息を吐いて、頭を掻いた。

「母さんはもっとショック受けちまったな。すげえ心配してるよ。俺と父さんの喧嘩に巻き込まれて、可哀想だとは思う。母さんは何も悪くねえからな」

「お母さんのために素行を直そうとは思わないんだ」

「今更だろ。それに、直したら父さんに従ったように思われるからな。それは癪だ」

 瀧本くんとお父さんとの間の確執は深いようだ。何があったのかはわからないけれど、お父さんのことを話す瀧本くんは、わたしが見たことのないような顔をしていた。

 そんな理由があって瀧本くんが不良ぶっているとは知らなかった。もしかしたら、本当は瀧本くんは悪い人ではないのかもしれない。見た目が不良に見えるだけで、中身は優しくて他人想いの人なのかもしれない。

 ああ、でも、そんな人がいきなりキスしてこないか。やはりそんなことはない、瀧本くんはただの自由人だ。俺の生きたいように生きるんだって言っていたし。

「つまんねえ話しちまったな。忘れてくれ」

「無理だよ、聞いちゃったもん。瀧本くんも元から不良だったわけじゃないんだね」

「まあ、中学くらいから不良だったけどな」

「でも煙草吸ったりはしないよね。ほんと、見た目だけ崩してるって感じ」

「煙草吸ったら健康に悪いだろ。煙臭くなるし、いいことねえよ」

 瀧本くんの言い草が面白くて、わたしは思わず笑ってしまった。瀧本くんは不審そうな顔でわたしを見る。

「なんだよ。何がおかしいんだよ」

「だって、その見た目で煙草は健康に悪いとか言うから。似合わないなと思って」

「うるせえよ。煙草は好きじゃねえんだ」

 瀧本くんは拗ねたように言う。その様子が可愛く思えて、わたしはまた頬が緩んだ。瀧本くんの意外な表情を見られたように思う。

「詩織だって煙臭い男は嫌だろ」

「まあ、そうだね。わたしも煙草は好きじゃない」

「だろ? だから煙草なんて吸うもんじゃねえんだよ。女にも嫌われちまう」

「瀧本くん、女の子からどう見られるかとか気にしてるんだ?」

「女の子ってか、お前な」

 いきなりそんなことを言われて、わたしは固まってしまった。少しだけ理解するのに時間を要して、自分の中で噛み砕いてから顔が赤くなる。

 まったく、どうしてこの人は急にそんなことを言ってくるのかなあ。恥ずかしいとか、照れ臭いとか、そういう気持ちは瀧本くんの中に存在しないのだろうか。

「詩織に嫌われるようなことはしねえよ。さすがに嫌いな奴に惚れることはねえだろ」

「いきなりキスしたくせにそんなこと言う?」

「でも嫌われてねえだろ? じゃあキスしても大丈夫ってことだ」

 瀧本くんはわたしの顔を見て笑う。この前のキスの感覚を思い出してしまって、わたしは瀧本くんから顔を背けた。

「ここじゃキスはしねえよ。付き合ったらわかんねえけど」

 わたしがキスを警戒していると思ったのか、瀧本くんは笑いながら言った。ここでキスされそうになったら、いくらわたしでも断る。誰に見られているかわかったものではない。

 いや、違う。三回目はもうどこでも断るのだ。三回目はない。もう許さない。誰も見ていない場所だったとしても、付き合ってもいないのにキスするなんて良くない。これまでは瀧本くんのペースに乗せられてしまっていたけれど、これからは抵抗するのだ。うん。

「キスは? じゃあ、他のことならするの?」

「お前さ、それ聞く? やってほしいわけ?」

「や、いい、やらなくていいから。ちょっと気になっただけ」

「そうかよ。俺はこういうことをしようと思った」

 瀧本くんの腕がわたしの肩に伸びてきて、そのままわたしを抱き寄せた。瀧本くんと肩が触れ合う。瀧本くんからふわりと香る匂いが鼻をくすぐる。

「や、やめてよ。やってほしいなんて言ってない」

「じゃあ逃げりゃいいのに。律儀に抱かれたまんまだから男がつけ上がるんだぞ」

 瀧本くんはすぐに手を離した。わたしは恥ずかしくなって瀧本くんを睨んだが、何の効果もない。まるで負け犬がひとりで騒いでいるだけみたいだ。

「詩織さ、俺以外の男に同じことされたらちゃんと断れよ。世の中、俺みたいな聖人君子ばかりじゃねえんだからさ」

「誰が聖人君子なの。そういう人はこんなことしないよ」

「ああ、まあ、確かにそうかもなぁ。もうキスもしちまったし、手ぇ出しちまったか、ははっ」

「笑い事じゃないんだからね。次やったら引っ叩いてやるから」

「できんの? 無理だろ。予行練習やってみるか?」

「やらない。ここ学校だよ? 他の人の目とか気にしなよ」

「他の奴の目を気にする人間がこんな恰好してると思うか?」

 瀧本くんは自分の長い茶髪を引っ張って示す。妙な説得力があった。そうだよね、他人の目が気になるような人がこんな目立つことするわけないよね。そういうところだけは羨ましく感じてしまう。

「ま、帰り道でいくらでもできるからな。今日一緒に帰るか?」

「わたしに触らないならいいよ」

「なんだその俺が毎回触ってるみたいな言い方」

「毎回触ってくるでしょ。肩抱いたり、キスしたり、今だって触ってきたじゃん」

「お前全部覚えてんのな。それはそれで嬉しいよ」

「喜ばないでよ。わたしは文句言ってるんだからね? やめてって言ってるの、これでも」

「詩織が本気で嫌がってるならやめる。でも、言うほど困ってねえだろ?」

 本気で嫌がっている。わたしはそう言おうとしたが、声にならなかった。どうして嫌だと言えないのか、わたしにはわからなかった。だから、断れない女だと思われるのだ。

 わたしは代わりに立ち上がった。無言のまま、視線だけで瀧本くんに訴える。わたしでさえわからないこの気持ちが、瀧本くんに通じるはずないのだけれど。

「見てるだけじゃ伝わらねえぞ。なんでも口に出さなきゃな」

「……教室帰る。瀧本くんも早く戻ったら」

「そうしますかねぇ。遅刻したらそれはそれでうるせえしな」

 瀧本くんも立ち上がり、まだ騒がしい廊下のほうへ戻っていく。わたしもその後に続く。

「じゃあな。また後で」

「後でって、今日もう会わないでしょ?」

「一緒に帰るんだろ? 教室で待ってろよ、迎えに行くから」

「い、いいよ、来なくて。わたしが瀧本くんの教室の前で待つから」

 まるで彼氏に迎えに来てもらう彼女のようだ。そんな恥ずかしいところをクラスメイトに見られたくない。わたしに聞こえないように噂話が広がるのは目に見えている。

 瀧本くんは少し首を傾げたが、やがて優しく笑った。

「詩織がそれでいいならいいけど。俺には違いがわかんねえわ」

「いいの。悠夏もいるし、クラスの子もいっぱいいるんだから。瀧本くんが来たってだけで目立つんだよ」

「そうか。じゃ、それで」

 瀧本くんは軽く手を振って去っていく。わたしは小さく息を吐いて、自分の教室に戻る。

 あれ? 気づいたら一緒に帰ることになっている。瀧本くんが迎えに来るとか言うから、そちらにばかり気を取られてしまっていたけれど、一緒に帰る約束そのものを断れば良かったのではないだろうか。通り道でもないし、付き合っているわけでもないのに、一緒に帰るというのはよく意味がわからない。どうして最初からそこに気がつかなかったのだろう。

 瀧本くんといるとペースを乱されてばかりだ。彼はいったいどういうつもりでわたしに近づいてきているのだろう。本当に、わたしのことが好きなのだろうか。

 わからない。わからない。瀧本くんの気持ちも、わたしの気持ちも。その辺に答えが落ちていたら良いのに。

 わたしは悩みを息とともに吐き出して、前を向いて歩き出す。切り替えよう。まだ授業は全部終わっていないのだ。授業に集中すればこの気持ちも忘れられるはずだ。

 けれど、その後の授業にわたしの気持ちが向くことはなく、ただぼんやりとしてしまった。