授業が終わって休み時間になると、しばらくの間は校舎の中が騒がしくなる。生徒たちの話し声で賑やかになる校舎は、どこか楽しそうにも見える。
わたしはトイレに行くために教室を出て、その帰りだった。前から歩いてくる見知った顔を見て、わたしは彼に微笑みかけた。
「二場さん、こんにちは」
「こんにちは、三田くん」
穏やかな挨拶に心が癒される気がする。瀧本くんもこれくらい落ち着いていたら良いのに。ああ、どうしてわたしは瀧本くんと比べてしまったのだろうか。このところ、あのキスのせいで瀧本くんに意識が引っ張られがちになっている。
三田くんは王子様だ。柔らかな物腰、落ち着いた雰囲気、端正な顔、どこを取っても王子様と言うに相応しい人だ。前に同じクラスだったから、わたしもある程度の面識はある。瀧本くんと同じようにファンクラブがあって、彼はいつも女の子に囲まれている印象があるのだけれど、今日は誰も取り巻きがいなかった。まあ、そういう日もあるのだろう。わたしは気にしないことにした。
ただすれ違っただけかと思い、わたしは三田くんの横を通り過ぎようとする。
「あ、二場さん」
「ん? なに?」
三田くんに呼び止められて、わたしは足を止めた。何か用事でもあったのだろうか。
「二場さん、今度どこかに遊びに行かない?」
「え?」
直球とも言える誘いに、わたしはすぐに反応できなかった。内容を理解するのに時間がかかったのだ。
どこかに遊びに行くって、それは、デートということ?
「ああ、いや、駅前とかなんだけど。放課後に、ちょっと寄り道するくらいで」
わたしが答えなかったからか、三田くんが補足する。
帰り道に買い食いをしようということだろうか。それくらいなら、別に。
と思ったのだが、わたしはファンクラブに睨まれると水をかけられるという話を思い出した。三田くんのファンクラブはそういう人種ではないのかもしれないけれど、その気がないのに三田くんと出かけるのは良くない。わたしはファンクラブに入っているわけでもなければ、三田くんのことを好きなわけでもない。
「ああ、駅前、ね」
断ろうと思って、わたしは言葉を探す。何と答えたら三田くんを傷つけずに済むだろうか。考えておくといったら、余計な期待を抱かせてしまうだろうか。ここは、最初からはっきりと断っておくほうが良いのではないだろうか。でも、何て言ったらいいの?
わたしが言い淀んでいるのを見て、三田くんが察してくれたら良いのに。そうしたら、わたしから口に出して断らなくても良いのに。
「おいしいクレープのお店とかあるらしいんだけど、どう?」
三田くんは察してくれない。いや、察していて、わたしが断れないとわかっているのかもしれない。自分の意見を押し通すと悠夏に言ったばかりなのに、わたしはもう流されようとしている。こんな状態だから、瀧本くんも断れないのだ。
どうしよう。ファンクラブの子に悪いから? それで、三田くんは傷つかないだろうか。わたしは嫌じゃないけれどね、というところまで伝わるだろうか。
「そうなんだ。クレープ」
わたしの口から出ていくのはその場繋ぎの言葉だけ。そうじゃない、わたしは、ちゃんと断らなきゃいけないのに。
言おう。言わなきゃ。でも、どうやって。
言葉を求めて喘ぐわたしの目に映ったのは、向こうからやってくる瀧本くんだった。三田くんと話していることにも構わず、軽やかに手を振ってくる。わたしにはその姿が救世主にも思えた。
わたしの視線が瀧本くんに移ったのを見て、三田くんも瀧本くんを見た。会話が途切れる。
瀧本くんは三田くんを気にする様子もなく、わたしに一直線に近寄ってきた。
「詩織、教科書貸して」
「え?」
「数学の教科書。次使うんだよ、貸して」
ただ目が合っただけかと思ったら、わたしにちゃんとした用事があったようだ。瀧本くんは足を止めることもなく、わたしの手を掴んでぐいぐいと教室へ引っ張っていく。
「え、ちょっと、待ってよ」
「次なんだって。教科書忘れたらうるせえだろ、貸してくれよ」
「わ、わかったから。三田くん、またね」
「あ、ああ、うん」
突然のことに三田くんも付いていけていないようだった。呆然とした様子でわたしを見送ってくれる。遊びのお誘いはうやむやになったまま、宙に浮かんでいる。
わたしは瀧本くんに引きずられるままに自分の教室の前まで戻ってきた。そこで瀧本くんはぱっとわたしの手を離す。わたしの手首はまだ彼の手の温かさを覚えている。
「数学だぞ、よろしくな」
「はいはい。ちょっと待ってて、取ってくるから」
「さすが。頼れるぅ」
「馬鹿にしてるの? 貸さないよ?」
「いや、貸してくれよ。マジで困ってんだよ俺」
わたしは教室に戻り、自分の席から数学の教科書を取ってくる。
なんでわたしが瀧本くんに教科書を貸さないといけないのだろうか。瀧本くんなら他にももっと友達がいそうなのに、わざわざわたしのところまで来る理由がわからない。
まあ、いいか。瀧本くんも困っているみたいだし、偶然とはいえ三田くんの話も遮ってくれたし、教科書を貸すくらいなら良いだろう。誰でもやっていることだ。こんなことでファンクラブに睨まれるのであれば、ただ会話しているだけでも怒られることだろう。
わたしが教科書を持っていくと、瀧本くんは優しく微笑んだ。
「助かる。これで今日はゆっくり寝られるな」
「寝るなら教科書要らないじゃん」
「教科書広げてなかったら睨まれるだろうが。うるせえんだよあいつ、大した授業じゃねえくせに」
「ちゃんと聞きなよ。瀧本くん、頭良いんだっけ?」
「良くはねえな。この見た目で成績良いと思うか?」
瀧本くんは自分の耳のピアスを指す。この前見たピアスとは違っているから、付け替えられるくらいの種類を持っているのだろう。
「まあ、そうだよね。頭良かったらギャップだよね」
「惚れる?」
瀧本くんは挑戦的な笑みを浮かべ、わたしにそう言ってきた。
俺に惚れたら負け。その言葉が思い出されて、わたしは恥ずかしさを掻き消すように瀧本くんの肩を教科書で叩いた。
「惚れない。いいから早く教室戻ったら?」
「そうかよ。女はギャップに弱いもんだろ?」
「びっくりはするけど惚れることはないかな。言っとくけど、出だし最悪なんだからね?」
「ちょっとキスしたくらいでそんなに怒るなよ」
わたしは瀧本くんの口を押さえようかと思った。こんなに周りに人がいる中で、そんな堂々とキスしたと言わないでほしい。ファンクラブの子が聞いていたらわたしの未来が危うい。
瀧本くんはわたしの手から教科書を奪い取る。
「そうそう、お前さ、ちゃんと嫌な時は嫌って言わないとだめだぞ」
「え?」
悠夏とまったく同じことを言われて、わたしは瀧本くんの目を見てしまった。
瀧本くんは少し困ったような表情を浮かべていた。
「あの男に話しかけられて困ってただろ。ナンパでもされたのか?」
「あの男って、三田くん?」
「名前は知らねえけど、さっき話してた奴だよ。お前が困ってたから来てやったんだぞ」
瀧本くんはわたしの教科書を丸めて、それでわたしの頭を軽く叩いた。
わたしが困っていたのを見て、助けに来てくれた? 無理やり三田くんから引き離したのもそのためだったってこと?
まさか。三田くんを都合良く利用しているだけだ。瀧本くんはわたしに教科書を借りに来ただけ。たまたま、そこに三田くんがいたというだけの話だ。瀧本くんはそれを利用して、わたしが瀧本くんに感謝するようにしているだけ。
でも、そんなに都合良く現れるだろうか。本当に、瀧本くんはわたしを助けようと思って来てくれたのではないのだろうか。
「詩織は可愛いんだから、男の振り方を覚えねえとな」
「覚えたら真っ先に瀧本くんを振ってあげる」
「無理だろ。その頃には、お前はもう俺に惚れてる」
瀧本くんは自信たっぷりにわたしに告げた。悔しいけれど、その顔はとても格好良かった。
「じゃ、放課後に教科書返しに来るから。教室で待ってろよ」
「え? 終わったらすぐ返しに来てよ」
「その後体育なんだよ、悪いな。お前が着替え中の教室に入ってこれるなら来いよ」
「い、行くわけないでしょ。じゃあいいよ、放課後で」
「さーんきゅ」
瀧本くんは来た時と同じようなゆっくりとした足取りで戻っていく。
わたしは、気づけば彼のブレザーの裾を掴んでいた。彼が振り返る。
「なんだよ。まだ話し足りねえって?」
「違うよ。別に、話したいわけじゃない」
「じゃあなんだよ。キスしてほしい?」
「ばっ、馬鹿なの? そんなんじゃない」
瀧本くんは案がなくなったのか、肩を竦めてわたしの先を促した。
わたしは瀧本くんの瞳を見ることができず、俯きながら言った。
「あ、ありがと。来てくれて」
瀧本くんは一瞬虚を突かれたような顔をした。しかし、すぐにやわらかい笑みに戻る。
「惚れた?」
「惚れないよ。そんなすぐに惚れるわけないでしょ」
「そうかよ。まあ、時間の問題だろうけどな」
「惚れない。いきなりキスしてくるような人に惚れるわけない」
「言ってろよ。後で恥かくのはお前だ」
瀧本くんは今度こそ自分の教室のほうへと戻っていく。わたしはその後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
わたしはトイレに行くために教室を出て、その帰りだった。前から歩いてくる見知った顔を見て、わたしは彼に微笑みかけた。
「二場さん、こんにちは」
「こんにちは、三田くん」
穏やかな挨拶に心が癒される気がする。瀧本くんもこれくらい落ち着いていたら良いのに。ああ、どうしてわたしは瀧本くんと比べてしまったのだろうか。このところ、あのキスのせいで瀧本くんに意識が引っ張られがちになっている。
三田くんは王子様だ。柔らかな物腰、落ち着いた雰囲気、端正な顔、どこを取っても王子様と言うに相応しい人だ。前に同じクラスだったから、わたしもある程度の面識はある。瀧本くんと同じようにファンクラブがあって、彼はいつも女の子に囲まれている印象があるのだけれど、今日は誰も取り巻きがいなかった。まあ、そういう日もあるのだろう。わたしは気にしないことにした。
ただすれ違っただけかと思い、わたしは三田くんの横を通り過ぎようとする。
「あ、二場さん」
「ん? なに?」
三田くんに呼び止められて、わたしは足を止めた。何か用事でもあったのだろうか。
「二場さん、今度どこかに遊びに行かない?」
「え?」
直球とも言える誘いに、わたしはすぐに反応できなかった。内容を理解するのに時間がかかったのだ。
どこかに遊びに行くって、それは、デートということ?
「ああ、いや、駅前とかなんだけど。放課後に、ちょっと寄り道するくらいで」
わたしが答えなかったからか、三田くんが補足する。
帰り道に買い食いをしようということだろうか。それくらいなら、別に。
と思ったのだが、わたしはファンクラブに睨まれると水をかけられるという話を思い出した。三田くんのファンクラブはそういう人種ではないのかもしれないけれど、その気がないのに三田くんと出かけるのは良くない。わたしはファンクラブに入っているわけでもなければ、三田くんのことを好きなわけでもない。
「ああ、駅前、ね」
断ろうと思って、わたしは言葉を探す。何と答えたら三田くんを傷つけずに済むだろうか。考えておくといったら、余計な期待を抱かせてしまうだろうか。ここは、最初からはっきりと断っておくほうが良いのではないだろうか。でも、何て言ったらいいの?
わたしが言い淀んでいるのを見て、三田くんが察してくれたら良いのに。そうしたら、わたしから口に出して断らなくても良いのに。
「おいしいクレープのお店とかあるらしいんだけど、どう?」
三田くんは察してくれない。いや、察していて、わたしが断れないとわかっているのかもしれない。自分の意見を押し通すと悠夏に言ったばかりなのに、わたしはもう流されようとしている。こんな状態だから、瀧本くんも断れないのだ。
どうしよう。ファンクラブの子に悪いから? それで、三田くんは傷つかないだろうか。わたしは嫌じゃないけれどね、というところまで伝わるだろうか。
「そうなんだ。クレープ」
わたしの口から出ていくのはその場繋ぎの言葉だけ。そうじゃない、わたしは、ちゃんと断らなきゃいけないのに。
言おう。言わなきゃ。でも、どうやって。
言葉を求めて喘ぐわたしの目に映ったのは、向こうからやってくる瀧本くんだった。三田くんと話していることにも構わず、軽やかに手を振ってくる。わたしにはその姿が救世主にも思えた。
わたしの視線が瀧本くんに移ったのを見て、三田くんも瀧本くんを見た。会話が途切れる。
瀧本くんは三田くんを気にする様子もなく、わたしに一直線に近寄ってきた。
「詩織、教科書貸して」
「え?」
「数学の教科書。次使うんだよ、貸して」
ただ目が合っただけかと思ったら、わたしにちゃんとした用事があったようだ。瀧本くんは足を止めることもなく、わたしの手を掴んでぐいぐいと教室へ引っ張っていく。
「え、ちょっと、待ってよ」
「次なんだって。教科書忘れたらうるせえだろ、貸してくれよ」
「わ、わかったから。三田くん、またね」
「あ、ああ、うん」
突然のことに三田くんも付いていけていないようだった。呆然とした様子でわたしを見送ってくれる。遊びのお誘いはうやむやになったまま、宙に浮かんでいる。
わたしは瀧本くんに引きずられるままに自分の教室の前まで戻ってきた。そこで瀧本くんはぱっとわたしの手を離す。わたしの手首はまだ彼の手の温かさを覚えている。
「数学だぞ、よろしくな」
「はいはい。ちょっと待ってて、取ってくるから」
「さすが。頼れるぅ」
「馬鹿にしてるの? 貸さないよ?」
「いや、貸してくれよ。マジで困ってんだよ俺」
わたしは教室に戻り、自分の席から数学の教科書を取ってくる。
なんでわたしが瀧本くんに教科書を貸さないといけないのだろうか。瀧本くんなら他にももっと友達がいそうなのに、わざわざわたしのところまで来る理由がわからない。
まあ、いいか。瀧本くんも困っているみたいだし、偶然とはいえ三田くんの話も遮ってくれたし、教科書を貸すくらいなら良いだろう。誰でもやっていることだ。こんなことでファンクラブに睨まれるのであれば、ただ会話しているだけでも怒られることだろう。
わたしが教科書を持っていくと、瀧本くんは優しく微笑んだ。
「助かる。これで今日はゆっくり寝られるな」
「寝るなら教科書要らないじゃん」
「教科書広げてなかったら睨まれるだろうが。うるせえんだよあいつ、大した授業じゃねえくせに」
「ちゃんと聞きなよ。瀧本くん、頭良いんだっけ?」
「良くはねえな。この見た目で成績良いと思うか?」
瀧本くんは自分の耳のピアスを指す。この前見たピアスとは違っているから、付け替えられるくらいの種類を持っているのだろう。
「まあ、そうだよね。頭良かったらギャップだよね」
「惚れる?」
瀧本くんは挑戦的な笑みを浮かべ、わたしにそう言ってきた。
俺に惚れたら負け。その言葉が思い出されて、わたしは恥ずかしさを掻き消すように瀧本くんの肩を教科書で叩いた。
「惚れない。いいから早く教室戻ったら?」
「そうかよ。女はギャップに弱いもんだろ?」
「びっくりはするけど惚れることはないかな。言っとくけど、出だし最悪なんだからね?」
「ちょっとキスしたくらいでそんなに怒るなよ」
わたしは瀧本くんの口を押さえようかと思った。こんなに周りに人がいる中で、そんな堂々とキスしたと言わないでほしい。ファンクラブの子が聞いていたらわたしの未来が危うい。
瀧本くんはわたしの手から教科書を奪い取る。
「そうそう、お前さ、ちゃんと嫌な時は嫌って言わないとだめだぞ」
「え?」
悠夏とまったく同じことを言われて、わたしは瀧本くんの目を見てしまった。
瀧本くんは少し困ったような表情を浮かべていた。
「あの男に話しかけられて困ってただろ。ナンパでもされたのか?」
「あの男って、三田くん?」
「名前は知らねえけど、さっき話してた奴だよ。お前が困ってたから来てやったんだぞ」
瀧本くんはわたしの教科書を丸めて、それでわたしの頭を軽く叩いた。
わたしが困っていたのを見て、助けに来てくれた? 無理やり三田くんから引き離したのもそのためだったってこと?
まさか。三田くんを都合良く利用しているだけだ。瀧本くんはわたしに教科書を借りに来ただけ。たまたま、そこに三田くんがいたというだけの話だ。瀧本くんはそれを利用して、わたしが瀧本くんに感謝するようにしているだけ。
でも、そんなに都合良く現れるだろうか。本当に、瀧本くんはわたしを助けようと思って来てくれたのではないのだろうか。
「詩織は可愛いんだから、男の振り方を覚えねえとな」
「覚えたら真っ先に瀧本くんを振ってあげる」
「無理だろ。その頃には、お前はもう俺に惚れてる」
瀧本くんは自信たっぷりにわたしに告げた。悔しいけれど、その顔はとても格好良かった。
「じゃ、放課後に教科書返しに来るから。教室で待ってろよ」
「え? 終わったらすぐ返しに来てよ」
「その後体育なんだよ、悪いな。お前が着替え中の教室に入ってこれるなら来いよ」
「い、行くわけないでしょ。じゃあいいよ、放課後で」
「さーんきゅ」
瀧本くんは来た時と同じようなゆっくりとした足取りで戻っていく。
わたしは、気づけば彼のブレザーの裾を掴んでいた。彼が振り返る。
「なんだよ。まだ話し足りねえって?」
「違うよ。別に、話したいわけじゃない」
「じゃあなんだよ。キスしてほしい?」
「ばっ、馬鹿なの? そんなんじゃない」
瀧本くんは案がなくなったのか、肩を竦めてわたしの先を促した。
わたしは瀧本くんの瞳を見ることができず、俯きながら言った。
「あ、ありがと。来てくれて」
瀧本くんは一瞬虚を突かれたような顔をした。しかし、すぐにやわらかい笑みに戻る。
「惚れた?」
「惚れないよ。そんなすぐに惚れるわけないでしょ」
「そうかよ。まあ、時間の問題だろうけどな」
「惚れない。いきなりキスしてくるような人に惚れるわけない」
「言ってろよ。後で恥かくのはお前だ」
瀧本くんは今度こそ自分の教室のほうへと戻っていく。わたしはその後ろ姿をぼんやりと眺めていた。


