『今すぐ屋上に来い』
昼休みがもうすぐ終わる頃、瀧本くんからいきなり屋上に呼び出された。悠夏と食堂から帰る途中だったわたしは、教室ではなく屋上に行くことにする。
「ちょっと、屋上行ってくるね」
「そ。旦那がお呼び?」
「旦那じゃないし。よく瀧本くんってわかったね?」
「詩織の反応見ればわかるでしょー。ほらほら、早く行ってあげなよ」
悠夏に急かされるようにしながら、わたしは急ぎ足で屋上に向かう。何の用だろうか。どうしたのか聞いても、メッセージは既読にならない。瀧本くんは何をしているのだろうか。
人気のない階段を上がり、屋上へ向かう。こんな時間に屋上に来たことはない。瀧本くんはよく来ているのだろうか。それとも、意外とお昼を食べる生徒で賑わっているのだろうか。放課後は告白する生徒が使っていることがあるけれど、まさかお昼から告白するような子はいないだろう。
わたしは屋上へと続く重い扉を開ける。ぎいいと軋んだ音がして、外の空気が一気に吹き込んでくる。その風の強さに、わたしは目を細めてしまった。
瀧本くんがこちらに背を向けて立っていた。そして、その向かいには女子生徒。
わたしは慌てて扉を閉めた。壁に寄りかかったまま、ずるりと上半身が落ちていって、しゃがみ込んでしまう。
あれは、告白の現場ではないのか。瀧本くんはあの女子生徒に告白されていたのではないだろうか。すぐに扉を閉めてしまったからよく見えなかったけれど、雰囲気は間違いなくそうだ。わたしは愛の告白を邪魔してしまったのではないか。なんということをしてしまったのか。
でも、瀧本くんが呼んだのだ。ということは、瀧本くんは邪魔させるつもりでわたしを屋上に呼んだ? 最初から、わたしに扉を開けさせるのが狙いだった? 瀧本くんなら自分一人で断れるだろうに、どうしてわたしを呼んだのだろう。
どんな子だったのだろうか。一瞬だったから全然見えなかった。可愛い子だったのか、そうでもないのか、それすらわからない。ただ制服から女子だと判断しただけだ。
もし可愛い子だったとしたら、瀧本くんは付き合うのだろうか。わたしのことは飽きて、新しい可愛い子に移るのだろうか。それをわたしに伝えるために、わたしをここに呼んだのではないだろうか。お前との遊びは終わりだと、そう告げるために。
すぐ立ち去れば良いのに、わたしはその場から動けなかった。見てはいけないものを見た衝撃が大きかった。瀧本くんが女子に人気があることは知っていたのだから、告白されていたっておかしくない。むしろ、今までわたしが一度も遭遇していないほうがおかしいのだ。これだけ瀧本くんと一緒にいるのに。
帰ろう。瀧本くんには後で聞けば良い。どうしてわたしをここに呼んだのか知りたかった。
わたしが立ち上がると、後ろの扉が耳障りな音を立てながら開いた。瀧本くんだった。
「あ、た、瀧本くん」
「助かった。すげえ助かった。行くぞ」
「え? えぇ、なに、どういうこと?」
瀧本くんはわたしの手を取り、駆け足気味に階段を下りていく。まるで逃げているようだ。わたしも手を引かれるままに走る。
そのまま、瀧本くんはあまり人が来ない廊下まで走っていった。後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、瀧本くんはその場に座り込んだ。わたしがその隣に座ると、瀧本くんはわたしに頭を下げた。
「よく来てくれた。マジで。ありがと」
「あれ、告白されてたんだよね? 邪魔しちゃったんじゃないの?」
「違えよ、邪魔させたんだよ。どうせなら屋上までずかずか入ってくれればよかったんだ」
「そんなことできるわけないでしょ。邪魔させたって、どういうこと?」
瀧本くんは肩を竦めて、参ったと言わんばかりの態度を見せる。
「四回も同じ奴から告白されてみろ、こっちも気が滅入ってくる。だから、詩織には悪いと思ったけど、俺には好きな女がいるんだって言って来てもらおうと思ったわけ」
「よ、四回。すごい愛だね」
「狂愛だよあんなもん。何回断っても、何て言っても諦めねえ。さすがに俺も自分一人じゃ断れねえんだと思った。悪かったな、急に呼び出して」
何度振られても諦めないというのはすごいと思うけれど、告白される側からしたら堪ったものではない。こちらにはその気がないのだ。何度告白されたって、関係が変わっていないのであれば結果が変わるはずもない。せめて、もっと距離を詰めるとか、もっと仲良くなってからにするとか、そういう作戦を立ててほしいところだ。
瀧本くんは深くため息を吐いて、がっくりと項垂れる。瀧本くんのこういうところを見るのは珍しい。明らかに疲れている。
「見てないけど、可愛い子だったの?」
「俺の好みじゃねえな。世間一般で言うと、どうだろうな、中の上くらいじゃねえの」
「それ、可愛いじゃん。中の上だったらいっそ付き合っちゃえばよかったのに」
わたしがそう言うと、瀧本くんがわたしを睨んだ。
「俺の好みじゃねえんだよ。だいたい、大して仲良くもねえのに四回も告白してくるようなやばい女と付き合えるか? 逆の立場で考えてみろよ」
「ああ、まぁ、怖いよね、四回も告白されたら」
「だろ? やるにしても勝率を上げてから来いってんだ。仲良くもねえのに来るんじゃねえ」
瀧本くんはため息混じりに言った。それから思い出したようにわたしのほうを向く。
「いっそ付き合っちゃえばとかよく言えるな。俺は詩織を狙ってんだって言ってんのに」
「それ、どこまで本気なの? 実は冗談で言ってるんじゃなくて?」
「冗談でキスまでするかよ。俺は本気なの。今は勝率を上げてる最中なんだよ」
わたしはその言い分に笑ってしまった。今はわたしとの距離を詰めている期間なのか。もうだいぶ詰まっているような気がしているけれど、これ以上詰めたら恋人になってしまうのではないだろうか。ああ、それが瀧本くんの狙いなのか。
瀧本くんはわたしの肩に寄りかかってきた。先程の女子生徒との戦いで疲弊してしまったのだろう。わたしは抵抗せず、そのままにして文句だけ言う。
「ねえ、重いんだけど」
「ちょっとだけいいだろ。心が荒んでんだよ、慰めてくれよ」
「瀧本くんでも心が荒むことがあるんだね。図太そうなのに」
「こう見えても硝子のハートかもしれないだろ。こういう時は優しくしてくれよ」
「硝子のハートの人がいきなりキスしてこないでしょ。バットで殴っても割れないよ」
口ではそう言いながら、わたしは瀧本くんに肩を貸してやる。じんわりと肩から温もりが伝わってくる。
わたし、何してるんだろう。早く教室に戻らないと授業が始まっちゃうのに。
それでも立ち上がる気になれなかった。瀧本くんが心配だったのだろうか。それとも、何か別の理由があったのだろうか。わたし自身も気がついていない、別の理由が。
瀧本くんの手がわたしの手を握る。わたしがぴくりと反応しても、瀧本くんは動かない。手を繋がれた瞬間、わたしは自分がとんでもないことをしているのではないかという気になってきた。手を繋いで、肩に寄りかかられて、これってもう彼女じゃん。わたしはどうしてこの状況を平然と受け入れていたのだろう。
「詩織」
「ん、な、なに?」
瀧本くんに名前を呼ばれてどきりとする。弱っているように見えるからか、いつもより瀧本くんが小さく見える。どうしても放っておけないような気分になる。
「このまま授業サボろうって言ったら、どうする?」
瀧本くんは力のない声でわたしに問うた。
それはだめだ。体調が悪いわけでもないのに、授業を欠席するわけにはいかない。わたしにはそんな経験はない。どれだけ眠たくてもちゃんと起きて出席してきたのだ。
「だめ。ちゃんと教室帰ろう。教室で寝ればいいじゃん」
「やる気出ねえよ。いいだろ、詩織の次のコマ何か知らねえけど」
「だめだってば。ほら、立って」
わたしが立ち上がるように促しても、瀧本くんは従う気配がない。だらりとわたしに寄りかかり、わたしが立ち上がるのも妨げようとしてくる。
「サボらないの。保健室行く?」
「行かねえよ、仮病だってバレるだろ。あーあ、詩織は真面目だなぁ。残念」
瀧本くんはふわりと立ち上がり、わたしも手を引いて立たせた。肩から重みがなくなった分、繋がれたままの手に意識が注がれる。これを振り解けないのがわたしの弱さなのだ。
そのまま帰るのかと思ったら、瀧本くんは動き出そうとしない。立ったまま、廊下の壁に寄りかかってしまう。
「行こうよ。遅刻しちゃうよ?」
「最後の抵抗をしたい。詩織、本当にサボる気はねえのか」
「ない。行くよ」
わたしがばっさりと切り捨てると、瀧本くんは肩を落とした。
「お前さあ、ここは高校生らしくサボろうって言うところじゃねえの?」
「普通の高校生は授業をサボったりしないの。ぶつぶつ言ってないで教室帰るよ。ほら、この手も離して」
繋がれたままの手をぶんぶんと振る。けれど、瀧本くんは解こうとしない。不満げな顔をしながら、わたしの手を握ったまま離さない。
そして、瀧本くんがわたしの手を強く引いて、抱き寄せる。わたしの身体は簡単に瀧本くんの腕の中に入ってしまう。
「詩織」
耳元で瀧本くんの低い声がする。わたしの心音が瀧本くんにも聞こえていそうな気がする。
「お願い。一緒にサボろう。二人でここにいよう」
悪魔の囁きが脳に流し込まれる。甘美な誘いが頭の中で反響する。
わたしは懸命にその声を振り払って、瀧本くんを見上げた。瀧本くんは笑っていた。
「だ、だめだから。サボるのはよくない。ほら、早く行くの」
「なんだよ、これでもだめかよ。わかった、わかりましたよ」
瀧本くんはようやく諦めてくれたようだ。承諾するようなことを言って、わたしをぎゅっと抱き締める。言っていることとやっていることが違うじゃないか。
わたしが文句を言おうとしたら、瀧本くんのやわらかい笑顔がすぐ近くにあって、わたしは何も言えなくなる。自分の心臓の音がうるさいくらいに響いている。呼吸が苦しいくらいに、胸がどくんどくんと騒いでいる。
瀧本くんがそっと顔を近づけてくる。わたしは、顎を上げた。
唇が触れ合う。甘い刺激がわたしの脳を占領する。もう、何も考えられなくなる。瀧本くんの腕がわたしを引き寄せ、キスがさらに深くなる。
頭がおかしくなるくらい長く唇を合わせていた。やっと離れた頃には、わたしはぼんやりと瀧本くんを見上げることしかできなかった。頭の中は今の優しいキスでいっぱいだった。
「なんだよ。二回目が欲しい?」
瀧本くんのからかうような言葉にも反応できなかった。わたしがじっと見つめていたからか、瀧本くんはふっと笑って、またわたしの唇を塞いだ。それはきっと、初めてわたしから求めたキスだった。
ゆっくりと唇が離れていく。瀧本くんは微笑み、わたしの身体を離した。
「さ、教室帰るか。キスもしてもらったのにサボるわけにはいかねえよな」
瀧本くんがゆっくりと歩き出す。わたしは無言のまま、その隣を歩く。
どうして、わたしは今キスを求めてしまったのだろう。
どうして、わたしは今こんなにも満たされているのだろう。
どうして、わたしは今教室に帰りたくないのだろう。
その答えには蓋をした。見なかったことにした。わたしだって、その答えが何なのかは気づいていた。ただ、認めたくなかったのだ。
自分の教室がある廊下まで戻ってくる。喧騒の中に帰ってくると、ようやく日常に戻ってきたのだという実感が湧いてくる。そう、先程までは非日常だったのだ。非日常の高揚感で、何も考えられなくなっていたのだ。あんな、誰もいないところに二人でいたから。
本当に? 本当に、それだけ?
「じゃあな、詩織。ほんとにさっきは助かった」
「うん。じゃあ、またね」
ちくりと心を刺す棘の存在。それが何なのかも、わたしはもう知っている。見ないふりをしているだけ。認めないようにしているだけ。
自分の教室に帰ってくる。悠夏がわたしの顔を見て、微笑む。
「おかえり。なんかあったね?」
「別に。何もなかったよ」
「そ。まぁ、それならそんな可愛い顔で帰ってきちゃだめだよ、詩織」
悠夏に茶化されて、わたしは自分の顔を覆いたくなった。きっと、何があったのか悠夏は察しているのだ。そんなにわかりやすい顔をしてしまう自分が嫌になる。
授業の開始を知らせるチャイムが鳴る。先生が教室に入ってくる。
わたしは自分の席に着いて、授業を聞こうとした。けれど、わたしの意識はずっと自分の唇にあった。唇に触れると、つい先程の熱いキスが鮮明に思い出された。
認めない。わたしは、認めない。絶対に認めない。
わたしは、瀧本くんを好きになったわけじゃないんだ。
昼休みがもうすぐ終わる頃、瀧本くんからいきなり屋上に呼び出された。悠夏と食堂から帰る途中だったわたしは、教室ではなく屋上に行くことにする。
「ちょっと、屋上行ってくるね」
「そ。旦那がお呼び?」
「旦那じゃないし。よく瀧本くんってわかったね?」
「詩織の反応見ればわかるでしょー。ほらほら、早く行ってあげなよ」
悠夏に急かされるようにしながら、わたしは急ぎ足で屋上に向かう。何の用だろうか。どうしたのか聞いても、メッセージは既読にならない。瀧本くんは何をしているのだろうか。
人気のない階段を上がり、屋上へ向かう。こんな時間に屋上に来たことはない。瀧本くんはよく来ているのだろうか。それとも、意外とお昼を食べる生徒で賑わっているのだろうか。放課後は告白する生徒が使っていることがあるけれど、まさかお昼から告白するような子はいないだろう。
わたしは屋上へと続く重い扉を開ける。ぎいいと軋んだ音がして、外の空気が一気に吹き込んでくる。その風の強さに、わたしは目を細めてしまった。
瀧本くんがこちらに背を向けて立っていた。そして、その向かいには女子生徒。
わたしは慌てて扉を閉めた。壁に寄りかかったまま、ずるりと上半身が落ちていって、しゃがみ込んでしまう。
あれは、告白の現場ではないのか。瀧本くんはあの女子生徒に告白されていたのではないだろうか。すぐに扉を閉めてしまったからよく見えなかったけれど、雰囲気は間違いなくそうだ。わたしは愛の告白を邪魔してしまったのではないか。なんということをしてしまったのか。
でも、瀧本くんが呼んだのだ。ということは、瀧本くんは邪魔させるつもりでわたしを屋上に呼んだ? 最初から、わたしに扉を開けさせるのが狙いだった? 瀧本くんなら自分一人で断れるだろうに、どうしてわたしを呼んだのだろう。
どんな子だったのだろうか。一瞬だったから全然見えなかった。可愛い子だったのか、そうでもないのか、それすらわからない。ただ制服から女子だと判断しただけだ。
もし可愛い子だったとしたら、瀧本くんは付き合うのだろうか。わたしのことは飽きて、新しい可愛い子に移るのだろうか。それをわたしに伝えるために、わたしをここに呼んだのではないだろうか。お前との遊びは終わりだと、そう告げるために。
すぐ立ち去れば良いのに、わたしはその場から動けなかった。見てはいけないものを見た衝撃が大きかった。瀧本くんが女子に人気があることは知っていたのだから、告白されていたっておかしくない。むしろ、今までわたしが一度も遭遇していないほうがおかしいのだ。これだけ瀧本くんと一緒にいるのに。
帰ろう。瀧本くんには後で聞けば良い。どうしてわたしをここに呼んだのか知りたかった。
わたしが立ち上がると、後ろの扉が耳障りな音を立てながら開いた。瀧本くんだった。
「あ、た、瀧本くん」
「助かった。すげえ助かった。行くぞ」
「え? えぇ、なに、どういうこと?」
瀧本くんはわたしの手を取り、駆け足気味に階段を下りていく。まるで逃げているようだ。わたしも手を引かれるままに走る。
そのまま、瀧本くんはあまり人が来ない廊下まで走っていった。後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、瀧本くんはその場に座り込んだ。わたしがその隣に座ると、瀧本くんはわたしに頭を下げた。
「よく来てくれた。マジで。ありがと」
「あれ、告白されてたんだよね? 邪魔しちゃったんじゃないの?」
「違えよ、邪魔させたんだよ。どうせなら屋上までずかずか入ってくれればよかったんだ」
「そんなことできるわけないでしょ。邪魔させたって、どういうこと?」
瀧本くんは肩を竦めて、参ったと言わんばかりの態度を見せる。
「四回も同じ奴から告白されてみろ、こっちも気が滅入ってくる。だから、詩織には悪いと思ったけど、俺には好きな女がいるんだって言って来てもらおうと思ったわけ」
「よ、四回。すごい愛だね」
「狂愛だよあんなもん。何回断っても、何て言っても諦めねえ。さすがに俺も自分一人じゃ断れねえんだと思った。悪かったな、急に呼び出して」
何度振られても諦めないというのはすごいと思うけれど、告白される側からしたら堪ったものではない。こちらにはその気がないのだ。何度告白されたって、関係が変わっていないのであれば結果が変わるはずもない。せめて、もっと距離を詰めるとか、もっと仲良くなってからにするとか、そういう作戦を立ててほしいところだ。
瀧本くんは深くため息を吐いて、がっくりと項垂れる。瀧本くんのこういうところを見るのは珍しい。明らかに疲れている。
「見てないけど、可愛い子だったの?」
「俺の好みじゃねえな。世間一般で言うと、どうだろうな、中の上くらいじゃねえの」
「それ、可愛いじゃん。中の上だったらいっそ付き合っちゃえばよかったのに」
わたしがそう言うと、瀧本くんがわたしを睨んだ。
「俺の好みじゃねえんだよ。だいたい、大して仲良くもねえのに四回も告白してくるようなやばい女と付き合えるか? 逆の立場で考えてみろよ」
「ああ、まぁ、怖いよね、四回も告白されたら」
「だろ? やるにしても勝率を上げてから来いってんだ。仲良くもねえのに来るんじゃねえ」
瀧本くんはため息混じりに言った。それから思い出したようにわたしのほうを向く。
「いっそ付き合っちゃえばとかよく言えるな。俺は詩織を狙ってんだって言ってんのに」
「それ、どこまで本気なの? 実は冗談で言ってるんじゃなくて?」
「冗談でキスまでするかよ。俺は本気なの。今は勝率を上げてる最中なんだよ」
わたしはその言い分に笑ってしまった。今はわたしとの距離を詰めている期間なのか。もうだいぶ詰まっているような気がしているけれど、これ以上詰めたら恋人になってしまうのではないだろうか。ああ、それが瀧本くんの狙いなのか。
瀧本くんはわたしの肩に寄りかかってきた。先程の女子生徒との戦いで疲弊してしまったのだろう。わたしは抵抗せず、そのままにして文句だけ言う。
「ねえ、重いんだけど」
「ちょっとだけいいだろ。心が荒んでんだよ、慰めてくれよ」
「瀧本くんでも心が荒むことがあるんだね。図太そうなのに」
「こう見えても硝子のハートかもしれないだろ。こういう時は優しくしてくれよ」
「硝子のハートの人がいきなりキスしてこないでしょ。バットで殴っても割れないよ」
口ではそう言いながら、わたしは瀧本くんに肩を貸してやる。じんわりと肩から温もりが伝わってくる。
わたし、何してるんだろう。早く教室に戻らないと授業が始まっちゃうのに。
それでも立ち上がる気になれなかった。瀧本くんが心配だったのだろうか。それとも、何か別の理由があったのだろうか。わたし自身も気がついていない、別の理由が。
瀧本くんの手がわたしの手を握る。わたしがぴくりと反応しても、瀧本くんは動かない。手を繋がれた瞬間、わたしは自分がとんでもないことをしているのではないかという気になってきた。手を繋いで、肩に寄りかかられて、これってもう彼女じゃん。わたしはどうしてこの状況を平然と受け入れていたのだろう。
「詩織」
「ん、な、なに?」
瀧本くんに名前を呼ばれてどきりとする。弱っているように見えるからか、いつもより瀧本くんが小さく見える。どうしても放っておけないような気分になる。
「このまま授業サボろうって言ったら、どうする?」
瀧本くんは力のない声でわたしに問うた。
それはだめだ。体調が悪いわけでもないのに、授業を欠席するわけにはいかない。わたしにはそんな経験はない。どれだけ眠たくてもちゃんと起きて出席してきたのだ。
「だめ。ちゃんと教室帰ろう。教室で寝ればいいじゃん」
「やる気出ねえよ。いいだろ、詩織の次のコマ何か知らねえけど」
「だめだってば。ほら、立って」
わたしが立ち上がるように促しても、瀧本くんは従う気配がない。だらりとわたしに寄りかかり、わたしが立ち上がるのも妨げようとしてくる。
「サボらないの。保健室行く?」
「行かねえよ、仮病だってバレるだろ。あーあ、詩織は真面目だなぁ。残念」
瀧本くんはふわりと立ち上がり、わたしも手を引いて立たせた。肩から重みがなくなった分、繋がれたままの手に意識が注がれる。これを振り解けないのがわたしの弱さなのだ。
そのまま帰るのかと思ったら、瀧本くんは動き出そうとしない。立ったまま、廊下の壁に寄りかかってしまう。
「行こうよ。遅刻しちゃうよ?」
「最後の抵抗をしたい。詩織、本当にサボる気はねえのか」
「ない。行くよ」
わたしがばっさりと切り捨てると、瀧本くんは肩を落とした。
「お前さあ、ここは高校生らしくサボろうって言うところじゃねえの?」
「普通の高校生は授業をサボったりしないの。ぶつぶつ言ってないで教室帰るよ。ほら、この手も離して」
繋がれたままの手をぶんぶんと振る。けれど、瀧本くんは解こうとしない。不満げな顔をしながら、わたしの手を握ったまま離さない。
そして、瀧本くんがわたしの手を強く引いて、抱き寄せる。わたしの身体は簡単に瀧本くんの腕の中に入ってしまう。
「詩織」
耳元で瀧本くんの低い声がする。わたしの心音が瀧本くんにも聞こえていそうな気がする。
「お願い。一緒にサボろう。二人でここにいよう」
悪魔の囁きが脳に流し込まれる。甘美な誘いが頭の中で反響する。
わたしは懸命にその声を振り払って、瀧本くんを見上げた。瀧本くんは笑っていた。
「だ、だめだから。サボるのはよくない。ほら、早く行くの」
「なんだよ、これでもだめかよ。わかった、わかりましたよ」
瀧本くんはようやく諦めてくれたようだ。承諾するようなことを言って、わたしをぎゅっと抱き締める。言っていることとやっていることが違うじゃないか。
わたしが文句を言おうとしたら、瀧本くんのやわらかい笑顔がすぐ近くにあって、わたしは何も言えなくなる。自分の心臓の音がうるさいくらいに響いている。呼吸が苦しいくらいに、胸がどくんどくんと騒いでいる。
瀧本くんがそっと顔を近づけてくる。わたしは、顎を上げた。
唇が触れ合う。甘い刺激がわたしの脳を占領する。もう、何も考えられなくなる。瀧本くんの腕がわたしを引き寄せ、キスがさらに深くなる。
頭がおかしくなるくらい長く唇を合わせていた。やっと離れた頃には、わたしはぼんやりと瀧本くんを見上げることしかできなかった。頭の中は今の優しいキスでいっぱいだった。
「なんだよ。二回目が欲しい?」
瀧本くんのからかうような言葉にも反応できなかった。わたしがじっと見つめていたからか、瀧本くんはふっと笑って、またわたしの唇を塞いだ。それはきっと、初めてわたしから求めたキスだった。
ゆっくりと唇が離れていく。瀧本くんは微笑み、わたしの身体を離した。
「さ、教室帰るか。キスもしてもらったのにサボるわけにはいかねえよな」
瀧本くんがゆっくりと歩き出す。わたしは無言のまま、その隣を歩く。
どうして、わたしは今キスを求めてしまったのだろう。
どうして、わたしは今こんなにも満たされているのだろう。
どうして、わたしは今教室に帰りたくないのだろう。
その答えには蓋をした。見なかったことにした。わたしだって、その答えが何なのかは気づいていた。ただ、認めたくなかったのだ。
自分の教室がある廊下まで戻ってくる。喧騒の中に帰ってくると、ようやく日常に戻ってきたのだという実感が湧いてくる。そう、先程までは非日常だったのだ。非日常の高揚感で、何も考えられなくなっていたのだ。あんな、誰もいないところに二人でいたから。
本当に? 本当に、それだけ?
「じゃあな、詩織。ほんとにさっきは助かった」
「うん。じゃあ、またね」
ちくりと心を刺す棘の存在。それが何なのかも、わたしはもう知っている。見ないふりをしているだけ。認めないようにしているだけ。
自分の教室に帰ってくる。悠夏がわたしの顔を見て、微笑む。
「おかえり。なんかあったね?」
「別に。何もなかったよ」
「そ。まぁ、それならそんな可愛い顔で帰ってきちゃだめだよ、詩織」
悠夏に茶化されて、わたしは自分の顔を覆いたくなった。きっと、何があったのか悠夏は察しているのだ。そんなにわかりやすい顔をしてしまう自分が嫌になる。
授業の開始を知らせるチャイムが鳴る。先生が教室に入ってくる。
わたしは自分の席に着いて、授業を聞こうとした。けれど、わたしの意識はずっと自分の唇にあった。唇に触れると、つい先程の熱いキスが鮮明に思い出された。
認めない。わたしは、認めない。絶対に認めない。
わたしは、瀧本くんを好きになったわけじゃないんだ。


