廊下の窓から入ってくる風が冷たくて、秋が深まってきたのを感じる。わたしはブレザーのジャケットを身に寄せ、ひんやりとした風から身を守る。
放課後の廊下は静かで、差し込む夕日に照らされて橙色に彩られている。それだけで、見慣れたはずの景色もどこか幻想的に見える。夕日のオレンジはその場の雰囲気を良くするひとつの要素だ。
わたしは自分の教室に忘れ物をしたため、取りに来たところだった。明日までの宿題となっているプリントだ。あれを持ち帰ってこなければ、明日慌てて学校で問題を解かなくてはならなくなる。それは厄介だった。わたしは図書館で本を読んでいたのだけれど、帰り際にプリントがないことに気づいたのだ。面倒でも教室まで取りに行くしかない。
もうみんなとっくに帰宅したか、部活動に行ったか、どちらかだろう。この時間に教室に残っている人はいない。わたしはそう思って不用意に教室の引き戸を開けた。
そして、中に人がいたことに気づき、硬直する。
瀧本くんだった。髪は明るい茶色に染めており、耳には銀色のピアスが光っている。気怠そうに制服を着崩し、いかにも素行が悪い生徒。しかしその独特の雰囲気から女子には人気があり、密かにファンクラブがあるそうだ。わたしもその存在くらいは耳にしたことがある。瀧本くんに話しかけられただけできゃあきゃあと騒ぐような人たちの集まりだ。瀧本くん自身もそういった女子をからかって遊んでいる節がある。
けれど、瀧本くんはわたしのクラスではない。どうしてこの教室にいるのだろう。瀧本くんは机に座って外をぼんやりと眺めていたようだった。わたしが扉を開けたことに気づくと、瀧本くんの切れ長の瞳がわたしを捉える。初めて目が合った気がする。
どうしよう。何も言わないのも不自然だよね。わたしは迷い、愛想笑いを浮かべて瀧本くんに声をかけた。
「ごめん。プリント取りに来ただけだから」
瀧本くんはわたしを品定めするように、下から上へと視線を動かす。
何だろうか。さっさとプリントを取って逃げれば良いのに、わたしはその場で固まってしまう。
「二場詩織、か。あんたでもいいか」
瀧本くんの低めの声がわたしの名前を呼ぶ。女子が騒ぐのも頷ける良い声だった。もっと見た目が近寄りやすかったら、わたしもこんなに警戒しなかったかもしれない。
早くプリントを取って逃げよう。瀧本くんに見つめられると緊張してしまう。
わたしは自分の机に行き、机の中に入っていたプリントを取り出す。瀧本くんはその様子をじっと眺めていた。観察されている気分だ。いったい何なのだろうか。
「詩織」
「え?」
いきなり下の名前で呼ばれて驚いてしまう。瀧本くんの距離感は最初からこんなにも近いのだろうか。男子に下の名前で呼ばれた経験がないわたしは、ただ名前を呼ばれただけなのになんだか恥ずかしくなってしまった。しかも、瀧本くんは良い声なのだ。不意打ちでなくてもわたしの心臓の鼓動は早くなったかもしれない。
プリントを手にしたまま固まっているわたしに、瀧本くんが近づいてくる。近くで見たことがなかったから知らなかったが、瀧本くんの顔は小さくて、とても整っていた。
瀧本くんはわたしに触れられそうな距離まで寄ってきて、間近でわたしを見る。彼はわたしよりも背が高くて、わたしは上目遣いで彼を見上げるようにしてしまう。見た目は怖いけれど、格好良いのは間違いなかった。
瀧本くんはいったい何がしたいのだろう。わたしをからかっているのだろうか。
「なんで俺がここにいるのかとか、聞かねえの」
「だ、誰かと待ち合わせじゃないの? 彼女?」
「彼女いないの俺。彼女欲しいんだよなぁ」
「ふぅん。瀧本くん、女子から人気あるのに。意外」
「誰とでも付き合うほど暇じゃねえんだよ。こう見えて一途なんだ」
それは意外だった。三人でも四人でも彼女がいそうな見た目なのに。
わたしはプリントを鞄にしまう。帰るアピールをしたつもりだったが、瀧本くんはわたしをじっと見つめたまま動かない。居心地が悪くて、わたしはつい会話を続けてしまう。
「で、なんでここにいたの?」
「待ってたんだよ」
「やっぱり待ち合わせじゃん。誰? うちのクラスの人?」
「あんただよ。詩織」
「……えぇ?」
予想だにしない回答に、わたしは声が裏返ってしまった。
瀧本くんとわたしに接点はない。瀧本くんがわたしを認識していること自体が不思議だ。わたしは瀧本くんみたいに目立つ生徒ではないはずなのに、どうして彼はわたしのことを知っているのだろう。そして、どうしてわたしを待っていたのだろう。
戸惑いを隠せないわたしに、瀧本くんは静かに告げる。
「ゲームをしよう」
「ゲーム?」
「そ。簡単なゲーム」
瀧本くんはわたしの手を取った。ごつごつとした大きな手だった。わたしが瀧本くんの顔を見ると、瀧本くんは挑戦的な笑みを浮かべていた。
「詩織が俺に惚れたら詩織の負け」
「はぁ? いや、意味わかんないよ」
わたしが抗議の声を上げても、瀧本くんには届かない。その切れ長の黒瞳がわたしを捉えて離さない。
「そのままの意味だろ? 俺があの手この手でお前を惚れさせようとするから、お前は俺に惚れないようにすりゃいいんだ」
「そんなの、ゲームって言う? どうしたらわたしの勝ちなの?」
「俺に惚れなきゃいい。まあ無理だろうけど」
瀧本くんは自分に自信があるようだった。優しくわたしの手を握ってくるから、わたしは瀧本くんの手を振り払った。これもきっと作戦のうちなのだ。
「女子に人気がある人は自信満々でいいね。そんな簡単に好きになると思う?」
「ばーか。俺は勝てると思ってるから言ってんだ。お前は俺に惚れるよ、絶対にな」
「意味わかんない。勝手にしたら」
わたしは鞄を持つ手に力を込めて、その場を立ち去ろうとする。長く話すだけ無駄だ。俺様系男子だとは思っていたけれど、ここまで自分に自信がある人だとは知らなかった。そう簡単に女子が自分に惚れると思ったら大間違いだ。もしかしたらこうやって彼女を増やしているのかもしれない。嫌な男だ。
しかし瀧本くんはわたしの手を掴んで引き留めた。わたしが振り返ると、瀧本くんは不敵な笑みを浮かべていた。
「勝手にするよ。お前は気づいたら俺に惚れてる」
「あっそ。それは楽しみ」
「じゃあ、ゲーム開始だな」
「いいよ。絶対好きにならないから」
馬鹿げた話だ。付き合うのも馬鹿馬鹿しい。もしかしたら罰ゲームか何かでわたしを誑かすように言われているのかもしれない。そうでなければ、瀧本くんがわたしのような普通の女子に言い寄ってくるはずがない。
瀧本くんとわたしは住む世界が違うのだ。好きになるはずがない。彼女が欲しいだけならファンクラブの子を引っかけてくれば良いのに。
瀧本くんはわたしの手を握ったままだ。わたしが迷惑そうにその手を見ると、瀧本くんは笑った。
「いい顔。すげえ迷惑そう」
「迷惑だってわかってるなら離してくれる? 帰りたいんだけど」
「離すよ。ゲームは成立したしな」
しかし瀧本くんはわたしの手を離すどころか、ぐっと強くわたしを引き寄せた。突然のことにバランスを崩し、わたしは瀧本くんの腕の中に収まる。広い肩幅に、ほんのりと香る香水に、嫌でも意識が持っていかれる。
わたしが瀧本くんを見上げると、彼は少年のような無邪気な顔をしていた。
そのまま、彼の顔がそっと近づいてきて。
「……っ」
瀧本くんがわたしと唇を重ねた。優しく、やわらかいキスだった。
え? なに? どういうこと? 意味わかんないんだけど? なんでわたしキスされたの?
混乱を極めるわたしをよそに、瀧本くんはわたしを解放した。その顔に恥じらいはなく、それがかえってわたしの恥ずかしさを際立たせた。自分の頬が一気に赤く染まっていくのを感じる。
「じゃ。また明日」
瀧本くんはそう言って、わたしの額に口づけを落としてわたしの横を抜け、教室を立ち去ろうとする。
ようやく自分を取り戻したわたしは、今キスされたばかりの自分の唇に触れる。
キスされた。間違いなく。瀧本くんに?
「ち、ちょっと待って。今の、何?」
わたしが瀧本くんを呼び止めると、瀧本くんは嬉しそうに振り返った。まるでわたしの動揺を楽しんでいるかのようだった。
「何って、キスだろ。それ以外に何があんだよ」
「キスって、それは、わかるんだけど、どうして」
「言っただろ、詩織を惚れさせるって。お前が自分からキスしてきたらお前の負けだ」
瀧本くんはひらひらと手を振って教室を出ていってしまう。静かな教室にわたしだけが取り残される。わたしは立ったまま呆然としていた。
もう一度、自分の唇を撫でる。まだ瀧本くんがそこにいるような気がして、あの優しいキスを思い出してしまって、わたしはますます自分の顔が赤くなるのを自覚する。
わたしはとんでもないことに巻き込まれたのではないだろうか。瀧本くんっていきなりキスしてくるような人だったんだ。突然のことに驚いて、わたしは何もできなかった。
少しだけ時間が経つと、湧いてきたのは怒りだった。いきなりお前を惚れさせるとか意味のわからないことを抜かして、しかも女子の唇を平然と奪っていったのだ。わたしがまともに動けるなら顔を引っ叩いてやればよかった。ちょっと格好良いからって調子に乗るんじゃない。
帰ろう。早くここから立ち去ろう。ここにいるとあのキスを思い出してしまいそうになる。
わたしは鞄の持ち手を握り、足早に教室を出た。廊下のひんやりした風も、わたしの頬を冷ますのには時間がかかった。それくらい、わたしは動揺していたのだ。
だって、初めてのキスだったのに。まさかこんな形で奪われてしまうなんて。ああ、思い出したらまた腹が立ってきた。一発蹴ってやれば良かった。
それでも、その帰り道、わたしの頭の中は瀧本くんでいっぱいだった。それが彼の作戦なのではないかと思うと、余計にわたしを苛立たせた。
絶対に、絶対に、惚れないんだから。好きになるわけないんだから。わたしは夕日が映える空に固く誓った。
放課後の廊下は静かで、差し込む夕日に照らされて橙色に彩られている。それだけで、見慣れたはずの景色もどこか幻想的に見える。夕日のオレンジはその場の雰囲気を良くするひとつの要素だ。
わたしは自分の教室に忘れ物をしたため、取りに来たところだった。明日までの宿題となっているプリントだ。あれを持ち帰ってこなければ、明日慌てて学校で問題を解かなくてはならなくなる。それは厄介だった。わたしは図書館で本を読んでいたのだけれど、帰り際にプリントがないことに気づいたのだ。面倒でも教室まで取りに行くしかない。
もうみんなとっくに帰宅したか、部活動に行ったか、どちらかだろう。この時間に教室に残っている人はいない。わたしはそう思って不用意に教室の引き戸を開けた。
そして、中に人がいたことに気づき、硬直する。
瀧本くんだった。髪は明るい茶色に染めており、耳には銀色のピアスが光っている。気怠そうに制服を着崩し、いかにも素行が悪い生徒。しかしその独特の雰囲気から女子には人気があり、密かにファンクラブがあるそうだ。わたしもその存在くらいは耳にしたことがある。瀧本くんに話しかけられただけできゃあきゃあと騒ぐような人たちの集まりだ。瀧本くん自身もそういった女子をからかって遊んでいる節がある。
けれど、瀧本くんはわたしのクラスではない。どうしてこの教室にいるのだろう。瀧本くんは机に座って外をぼんやりと眺めていたようだった。わたしが扉を開けたことに気づくと、瀧本くんの切れ長の瞳がわたしを捉える。初めて目が合った気がする。
どうしよう。何も言わないのも不自然だよね。わたしは迷い、愛想笑いを浮かべて瀧本くんに声をかけた。
「ごめん。プリント取りに来ただけだから」
瀧本くんはわたしを品定めするように、下から上へと視線を動かす。
何だろうか。さっさとプリントを取って逃げれば良いのに、わたしはその場で固まってしまう。
「二場詩織、か。あんたでもいいか」
瀧本くんの低めの声がわたしの名前を呼ぶ。女子が騒ぐのも頷ける良い声だった。もっと見た目が近寄りやすかったら、わたしもこんなに警戒しなかったかもしれない。
早くプリントを取って逃げよう。瀧本くんに見つめられると緊張してしまう。
わたしは自分の机に行き、机の中に入っていたプリントを取り出す。瀧本くんはその様子をじっと眺めていた。観察されている気分だ。いったい何なのだろうか。
「詩織」
「え?」
いきなり下の名前で呼ばれて驚いてしまう。瀧本くんの距離感は最初からこんなにも近いのだろうか。男子に下の名前で呼ばれた経験がないわたしは、ただ名前を呼ばれただけなのになんだか恥ずかしくなってしまった。しかも、瀧本くんは良い声なのだ。不意打ちでなくてもわたしの心臓の鼓動は早くなったかもしれない。
プリントを手にしたまま固まっているわたしに、瀧本くんが近づいてくる。近くで見たことがなかったから知らなかったが、瀧本くんの顔は小さくて、とても整っていた。
瀧本くんはわたしに触れられそうな距離まで寄ってきて、間近でわたしを見る。彼はわたしよりも背が高くて、わたしは上目遣いで彼を見上げるようにしてしまう。見た目は怖いけれど、格好良いのは間違いなかった。
瀧本くんはいったい何がしたいのだろう。わたしをからかっているのだろうか。
「なんで俺がここにいるのかとか、聞かねえの」
「だ、誰かと待ち合わせじゃないの? 彼女?」
「彼女いないの俺。彼女欲しいんだよなぁ」
「ふぅん。瀧本くん、女子から人気あるのに。意外」
「誰とでも付き合うほど暇じゃねえんだよ。こう見えて一途なんだ」
それは意外だった。三人でも四人でも彼女がいそうな見た目なのに。
わたしはプリントを鞄にしまう。帰るアピールをしたつもりだったが、瀧本くんはわたしをじっと見つめたまま動かない。居心地が悪くて、わたしはつい会話を続けてしまう。
「で、なんでここにいたの?」
「待ってたんだよ」
「やっぱり待ち合わせじゃん。誰? うちのクラスの人?」
「あんただよ。詩織」
「……えぇ?」
予想だにしない回答に、わたしは声が裏返ってしまった。
瀧本くんとわたしに接点はない。瀧本くんがわたしを認識していること自体が不思議だ。わたしは瀧本くんみたいに目立つ生徒ではないはずなのに、どうして彼はわたしのことを知っているのだろう。そして、どうしてわたしを待っていたのだろう。
戸惑いを隠せないわたしに、瀧本くんは静かに告げる。
「ゲームをしよう」
「ゲーム?」
「そ。簡単なゲーム」
瀧本くんはわたしの手を取った。ごつごつとした大きな手だった。わたしが瀧本くんの顔を見ると、瀧本くんは挑戦的な笑みを浮かべていた。
「詩織が俺に惚れたら詩織の負け」
「はぁ? いや、意味わかんないよ」
わたしが抗議の声を上げても、瀧本くんには届かない。その切れ長の黒瞳がわたしを捉えて離さない。
「そのままの意味だろ? 俺があの手この手でお前を惚れさせようとするから、お前は俺に惚れないようにすりゃいいんだ」
「そんなの、ゲームって言う? どうしたらわたしの勝ちなの?」
「俺に惚れなきゃいい。まあ無理だろうけど」
瀧本くんは自分に自信があるようだった。優しくわたしの手を握ってくるから、わたしは瀧本くんの手を振り払った。これもきっと作戦のうちなのだ。
「女子に人気がある人は自信満々でいいね。そんな簡単に好きになると思う?」
「ばーか。俺は勝てると思ってるから言ってんだ。お前は俺に惚れるよ、絶対にな」
「意味わかんない。勝手にしたら」
わたしは鞄を持つ手に力を込めて、その場を立ち去ろうとする。長く話すだけ無駄だ。俺様系男子だとは思っていたけれど、ここまで自分に自信がある人だとは知らなかった。そう簡単に女子が自分に惚れると思ったら大間違いだ。もしかしたらこうやって彼女を増やしているのかもしれない。嫌な男だ。
しかし瀧本くんはわたしの手を掴んで引き留めた。わたしが振り返ると、瀧本くんは不敵な笑みを浮かべていた。
「勝手にするよ。お前は気づいたら俺に惚れてる」
「あっそ。それは楽しみ」
「じゃあ、ゲーム開始だな」
「いいよ。絶対好きにならないから」
馬鹿げた話だ。付き合うのも馬鹿馬鹿しい。もしかしたら罰ゲームか何かでわたしを誑かすように言われているのかもしれない。そうでなければ、瀧本くんがわたしのような普通の女子に言い寄ってくるはずがない。
瀧本くんとわたしは住む世界が違うのだ。好きになるはずがない。彼女が欲しいだけならファンクラブの子を引っかけてくれば良いのに。
瀧本くんはわたしの手を握ったままだ。わたしが迷惑そうにその手を見ると、瀧本くんは笑った。
「いい顔。すげえ迷惑そう」
「迷惑だってわかってるなら離してくれる? 帰りたいんだけど」
「離すよ。ゲームは成立したしな」
しかし瀧本くんはわたしの手を離すどころか、ぐっと強くわたしを引き寄せた。突然のことにバランスを崩し、わたしは瀧本くんの腕の中に収まる。広い肩幅に、ほんのりと香る香水に、嫌でも意識が持っていかれる。
わたしが瀧本くんを見上げると、彼は少年のような無邪気な顔をしていた。
そのまま、彼の顔がそっと近づいてきて。
「……っ」
瀧本くんがわたしと唇を重ねた。優しく、やわらかいキスだった。
え? なに? どういうこと? 意味わかんないんだけど? なんでわたしキスされたの?
混乱を極めるわたしをよそに、瀧本くんはわたしを解放した。その顔に恥じらいはなく、それがかえってわたしの恥ずかしさを際立たせた。自分の頬が一気に赤く染まっていくのを感じる。
「じゃ。また明日」
瀧本くんはそう言って、わたしの額に口づけを落としてわたしの横を抜け、教室を立ち去ろうとする。
ようやく自分を取り戻したわたしは、今キスされたばかりの自分の唇に触れる。
キスされた。間違いなく。瀧本くんに?
「ち、ちょっと待って。今の、何?」
わたしが瀧本くんを呼び止めると、瀧本くんは嬉しそうに振り返った。まるでわたしの動揺を楽しんでいるかのようだった。
「何って、キスだろ。それ以外に何があんだよ」
「キスって、それは、わかるんだけど、どうして」
「言っただろ、詩織を惚れさせるって。お前が自分からキスしてきたらお前の負けだ」
瀧本くんはひらひらと手を振って教室を出ていってしまう。静かな教室にわたしだけが取り残される。わたしは立ったまま呆然としていた。
もう一度、自分の唇を撫でる。まだ瀧本くんがそこにいるような気がして、あの優しいキスを思い出してしまって、わたしはますます自分の顔が赤くなるのを自覚する。
わたしはとんでもないことに巻き込まれたのではないだろうか。瀧本くんっていきなりキスしてくるような人だったんだ。突然のことに驚いて、わたしは何もできなかった。
少しだけ時間が経つと、湧いてきたのは怒りだった。いきなりお前を惚れさせるとか意味のわからないことを抜かして、しかも女子の唇を平然と奪っていったのだ。わたしがまともに動けるなら顔を引っ叩いてやればよかった。ちょっと格好良いからって調子に乗るんじゃない。
帰ろう。早くここから立ち去ろう。ここにいるとあのキスを思い出してしまいそうになる。
わたしは鞄の持ち手を握り、足早に教室を出た。廊下のひんやりした風も、わたしの頬を冷ますのには時間がかかった。それくらい、わたしは動揺していたのだ。
だって、初めてのキスだったのに。まさかこんな形で奪われてしまうなんて。ああ、思い出したらまた腹が立ってきた。一発蹴ってやれば良かった。
それでも、その帰り道、わたしの頭の中は瀧本くんでいっぱいだった。それが彼の作戦なのではないかと思うと、余計にわたしを苛立たせた。
絶対に、絶対に、惚れないんだから。好きになるわけないんだから。わたしは夕日が映える空に固く誓った。


