かわいいって言うな

 夜十時。伊吹は不機嫌を隠そうともせずに要のバイト先に向かっていた。今日は約束していた男と会う前に要のバイト先のラーメン屋で夕食を済ませている。もうラーメン屋の閉店時間も過ぎており、用は食事ではない。伊吹の手にコンビニの袋が下がっている。袋の中にはペットボトルの茶が三本。
 がらりと乱暴にラーメン屋の戸を開けると伊吹は「ちわーっす」と馬鹿でかい声で言う。大声でも出さないと不機嫌が天元突破して泣きそうな気がしたのだ。
「おう、坊主。威勢いいな」
 珍しく店長が奥の厨房から出てきた。伊吹はコンビニ袋からペットボトルの茶を一本差し出す。
「お疲れ様っす。差し入れです」
「悪ィな。終電までに帰るんだぞ、クソガキ」
 相変わらず店長はぶっきらぼうで愛想がないが、閉店後の店で伊吹と要がだらだらとだべっていることを黙認してくれる。
 要は店の奥から着替えを終えて出てきたところだった。
「これ、差し入れ」
 伊吹が残り二本のペットボトルの入った袋を差し出す。受け取った要は一瞬だけ怪訝そうな顔をした。
「どーした、伊吹。機嫌悪ィな」
「今日会った奴もダメだったー」
 乱暴に椅子に座ると伊吹は袋からウーロン茶のボトルを取り出し、キャップを開けて一口飲む。そしてそのままカウンターに突っ伏した。
「なんだ。機嫌悪いのとはちょっと違うな」
 がたんと椅子を引いて要は隣に座ってくる。
「何にそんなにムカついたんだよ」
「なんかさー、俺毎回ダメになんの百パーかわいいって言われるからなんだけどさー……。男なのにかわいいって言われたって嬉しくないじゃんよ。っつか、腹立つだけじゃん?」
「まあ、それは確かに嬉しくはないけどな」
 要は伊吹が不機嫌な理由をよくわからないまま当たり障りのないフォローをしてくる。
 それでも伊吹は先日要にかわいいと言われた時には普段のように腹が立たなかったことを覚えている。要に対してだけ、伊吹は普段の反応が出ない原因がわからない。要にかわいいと言われた時にムカつくとは思わなかった。しかし、相変わらずほかの男からかわいいと言われると話は別だ。
「なんかさー男って見られてないみたいじゃん?」
 伊吹は突っ伏したままちらりと要を見た。
 ──要はない。伊吹がゲイであることを知らないし、学校の人間だ。だが、その前提条件がなければ?
 ふと伊吹はそんなことを考えた。普段は『もしも』を思いつきもしない伊吹が、そんなことを少しでも考えたのは疲れていたからだろう。今日会った男は妙に気疲れする男だった。合わないことはすぐに分かった。それでも無理に話を合わせて、笑顔を作ってかわいいと言われた。
 閉店後のラーメン屋の中に豚骨スープを仕込んでいる匂いが充満している。伊吹の隣に要の気配がある。着替えをしても要からはラーメン屋のスープの匂いが微かに染みついている。
 とろりと伊吹は目を伏せた。眠気に飲み込まれる。要が伊吹のぼやきをフォローしている声が聞こえるが、段々遠くなっていく。
「お前も難儀だなぁ」
「うるせぇよ店長」
 ぼんやりと店長と要が話している声が聞こえるが、伊吹には正しい意味を拾いきれない。しばらくして頭にぽんと手が乗ったような気がしたが、現実かどうかわからない。
 その場所が安心できるから居眠りができるということまで伊吹は気付かなかった。