かわいいって言うな

 しばらく伊吹と要は無言で座り込んだままだった。伊吹の手はまだ掴まれたまま。校内放送で学祭の開会宣言が聞こえた。伊吹は少しだけほっとしている。さぼってしまったことになるが、ウィッグまで被って女装した姿を晒さなくて済んだことは助かった。
「伊吹」
 ふと、要が掴んだままの手を引いてきた。何かと思い、伊吹が顔を要の方へと向けると逆側の手が伊吹の顔に触れた。貸衣装のシャツの下に着た長袖のTシャツが伊吹の顔を擦る。
「なんだこれ。化粧って簡単に落ちねーんだな」
「なんか、メイク崩れしないようにとかって女子が言ってた」
 柔らかいコットンの生地に顔を擦られながら、伊吹は返事した。袖が汚れるのではないだろうかと思ったのは口にしなかった。要のTシャツからラーメンのダシの匂いがする。その匂いに伊吹は思わずほっとした。知っている匂いが要からする。
 伊吹が嫌だったメイクを要が拭ってくれた。
 ──痛くなかった。
「伊吹さー。なんで嫌って言わねーの。お前ってさ、そーゆーとこあるよな。女装もメイクもウィッグも」
 そう言いながら要は伊吹の手を放してウィッグを引っぺがした。言葉はまだ続く。
「ホテル連れ込まれそうになった時も、キスされた時も、お前はそれでよかったのか? 男に会いに行ってたのはお前がしたくてしてたのはわかるけどさ。んでも、知らん奴に会いに行っては毎回愚痴ってるし……お前が喧嘩っ早いのに嫌って言えないの、かわいいけど」
 続く言葉に伊吹は返事ができなかった。『かわいい』と言われることは心底嫌だったはずなのに、今の伊吹はどきりとして反論する言葉が咄嗟に出てこない。
 ホテルに連れ込まれそうになった時は嫌だと思っていた。キスの時は、嫌だと思う間もなかった。気付いたら、されていた。
 丁寧に要の袖でメイクを拭われ、最後に指先で唇のグロスを拭き取られた。要の親指が伊吹の唇に触れる。要に触れられることは嫌じゃない。話していても退屈にならない。楽しい。その時、伊吹はいつの間にか自分の中の基準が要になっていたことに気付いた。
 クラスメイト。学校では相手を作らない。
 伊吹の条件から最も遠い相手が知らない間に伊吹の想像する理想になっていた。ひとつだけ違うことは年上ではないこと。けれど、伊吹からしてみれば要は自分よりもずっとしっかりしている。──精神的に大人なのだろうと認めざるを得ない。
「伊吹さー……俺じゃダメなの?」
 要の言葉に伊吹の思考回路が一瞬にして止まった。凍り付いた。そんなことを言われるとは思っていなかった。顔が熱くなるのがわかる。赤くなっている。なのに伊吹は何も言えない。自分の中に相手の基準を要に重ねていたくせに、いざ要からそんなことを言われるとどう返していいのかわからない。
 伊吹が固まっていると、要の腕が伊吹を捕まえて緩く抱き寄せてきた。要の腕の中で伊吹の頬が胸に当たる。服越しに要の心臓の音がうるさくなっているのが聞こえた。要も冗談で言っているわけではないと、その音で伊吹は言葉の真偽を知らされる。しかし、伊吹の心臓も破裂しそうにうるさい。伊吹はなにか言おうとして口を開いたが言葉が出ない。
「伊吹」
 背中に回った手が伊吹の後ろ髪を引っ張り、顔を上げるように促されたかと思うと、頬に唇が触れた。キス。嫌じゃない。嬉しい。唇にキスされた時よりも、嬉しい。体が強張ってしまって、思うようにならない。ぎゅ、と伊吹は要の服を掴み返した。嫌ではないという意思表示のつもりだ。
「……かわいいって言うな」
 妙に喉が渇いてカサカサの声で伊吹は返事した。精一杯の強がり。何もかもが要に見透かされていると思うと悔しいから、素直になれないだけ。
 要は、ふは、と笑った。
「伊吹、かわいいー」
 少しも逃げない伊吹は要に抱きなおされて、もう一度頬にキスされた。伊吹の顔はまだ真っ赤だ。
「だから! 要、かわいいって言うの禁止!」
 伊吹が抗議すると、要の腕はさらに強くなり、伊吹は息ができなくなる。
「俺でいい?」
 耳元で確認されて、伊吹は声が出ないままこくこくと頷いた。