かわいいって言うな

 二三日、伊吹は考えた。
 考えたけれど答えは変わらなかった。果てしない恋人探しよりも要との仲を回復させる方が先だ。ラーメン一つ食べに行くのにも気まずいままでは伊吹も困る。
 学祭の準備で騒がしい教室の中で伊吹は一人遠巻きにされている要に近付いていくと、机にばん! と手を突いた。
「武藤」
 声が固くなっていた。そんなつもりはないのに最初の時のように喧嘩腰になってしまい、伊吹は自分で少し驚いた。
「なに、伊吹」
「どうして煮卵乗ってなかったんだよ」
 そもそものきっかけはいつもラーメンに乗っていた煮卵が乗っていなかったからだ。そこを言った伊吹に一瞬、クラスの視線が集まった気がした。視線が疑問の形をしている。伊吹は気にしないことにした。要は──一瞬、面食らったような顔をしてから、笑った。
 その瞬間、疑問の形をしていたクラスの視線が変化した。珍獣でも見たかのような控えめなどよめきが起きる。要が笑ったからだ、と伊吹は気付いた。けれど、それを言うより先に伊吹はなぜかほっとしていた。
「伊吹、ちょっと場所変えるぞ」
 立ち上がった要は伊吹の手を取って教室を大股で出ていった。普段と同じ顔に戻っている。
 廊下の階段を上って一番上。屋上に出る扉の前の踊り場で要は伊吹の手を離した。
「なっ……んで、手」
「なんとなく」
 そのことを気にした様子もなく、要は答えるが、伊吹の心臓はばくばくしていた。顔が赤くなっているかもしれない。相手は要で、伊吹は謝ろうとしていてそんなタイミングではない。
「んでさー、伊吹。お前、煮卵のこと根に持ってたの」
 タイルの床に座り込んで要は伊吹を見上げてきた。やっぱり少し笑っている。
「だって……お前、初めて店行った時から煮卵乗せてたじゃん」
「悪かったって。ガキみてーな当てつけしてすまんかったな」
「そうじゃなくて。俺が悪いんじゃん。二回も怒鳴った。……ごめん」
 要の隣の冷たい床に座り込んで伊吹はぼそりと言った。伊吹の頭にぽん、と要の手が乗る。
「別に怒ってねーよ」
 その声を聞いて伊吹は少しの間、黙った。今は怒っていないかもしれないが、あの時要は確かに怒っていた。原因は伊吹の行動にある。なにも説明していない。SNSで知り合った人と会う理由。キスの成り行き。
 ──学校では相手を作らない。だから、学校とは無関係のところで人と会っていたはずなのに。
「あのさ、武藤。俺が夜、人と会ってたのって……恋人探しなんだよね」
 ぽつりと伊吹はそのことを口に出した。
「会ってたのって、男ばっかだよな?」
「うん。俺、男が好きなの。ゲイ。──引いた?」
 要に確かめられて、伊吹は自嘲気味に笑った。そうなっても仕方ない。
 今までのようには戻れないかもしれないと伊吹はぼんやりと考える。クラスメイトがゲイだと知って普通にしていられる方が珍しいだろう。だから、伊吹は隠してきた。
「自分で、会いに行ってた」
 伊吹は要の言った『自己防衛ユルガバ』も自分の側に引き寄せた。確かに要の言うとおりだったかもしれないが、全て自業自得なのだから伊吹の責任だ。
「伊吹さー」
 盛大な溜息とともに、名前を呼ばれた。
「勝手なこと言うけど。俺、伊吹のこと、勝手に知ってると思ってたんだよなー。だから、引かないけど、そっちのがムカつく。あ。自己嫌悪な?」
「それは、俺が隠してたから」
 隠さずにストレートな感情を向けられて、伊吹の胸がずきりと痛んだ。背中に当たっている鉄の扉が冷たくて、隙間から冷たい風が吹き込んできていて指先の感覚が鈍くなる。
「言いにくいのはわかるけど。信用なかったかね」
 追い打ちで遠くを見た要が伊吹に訊いてきた。
「信用、とかじゃなくて……」
 そんな基準なら、初対面の男よりも要に分があるのは当然だ。それでも言えなかったのは、単純に自分が異端である自覚があったからだ。
「だって、引くじゃん。友達がゲイなんてさ。気持ち悪いじゃん」
 伊吹は学校で相手を探さないことの理由を精一杯言語化した。学校で相手を探さない理由は要に隠していた理由と一致する。嘘は一つもない。『信用』という問題ではなかった。
 沈黙が長かった。十一月の隙間風が寒い。先に口を開いたのは要だった。
「余計な口出して悪かったな。お前はお前で一生懸命してただけなのに」
「……うん」
 がしがしと頭をかきながら要は逆に謝ってきた。伊吹は頷いてから、ほっとする。
「引かないの」
「別に」
 要は短く答える。踊り場に座り込んでいる伊吹と要の間の空気が、ふと緩んだ。気まずさが消えて、夜閉店後のラーメン屋と同じ空気感になっている。緊張が緩んだ伊吹には安心感の方が大きくて、肩が要と触れていることに気付いていない。
 階段の下の方からは学祭の準備で賑やかな声がしている。ひとつだけ上の階。誰も使わない寒い屋上の前の扉。遠くに聞こえる賑やかさを聞きながら、伊吹は不思議な安堵を感じていた。