かわいいって言うな

 その日を境に伊吹は夜、要のバイト先にラーメンを食べに行かなくなった。ラーメンを食べにいかないということはバイト終わりの要と店で駄弁ることもなくなったということだ。しかし、伊吹は相変わらず毎日のように繁華街で誰かと会っている。
 タナカからのメッセージは数日続いていたが、伊吹は全て未読無視した。悪い人ではなかったが、伊吹の気持ちが少しも動かなかった。そのまま関係を進めても、伊吹は満足しないだろうと判断したのだ。
 要のバイト先に行かなくなった伊吹は夕食を適当な店で食べていた。ファストフード、牛丼屋、定食屋。腹が満たされればなんでもよかった。どこで食べても美味しいと思わない。
 伊吹の中の満たされない気持ちが大きくなっている。
 食べ物が美味しくない。二度目に会った人とデートしたのに少しも楽しくなかった。キスもしたのに、鼓動が早くなることも、ふわふわとした気持ちになることもなかった。その後に会うようになった人に対しては、どこか値踏みするような目を向けてしまう。気持ちが少しも動かないと感じた相手とは、伊吹は早々に話を切り上げるようになった。
 いつの間にか、伊吹の中に基準ができてしまっている。
 話をしていて楽しいこと。遠慮しなくてもいいこと。勝手に心臓が早くなる瞬間があること。
 その基準は伊吹のどこから来たのかわからない。しかし、タナカからの連絡を無視して次の相手と会うようになってから、伊吹はその基準で相手を見ていた。
「すいませーん。ちょっと、友達から連絡入ったから今日はここで帰りますねー」
 今日も伊吹はカフェで雑談していた相手に適当な嘘をついて切り上げた。無駄に消費する時間が減った。効率的になった。よかったと思う。なのに、伊吹の心の中は空しい。
 伊吹は多少強引に一人でカフェを出ると、気付いたら要のバイト先の前に来ていた。戸に手を掛けそうになったところで慌てて引っ込める。時間は二十二時過ぎ。暖簾はとっくにしまわれていて、中の明かりがすりガラスから漏れている。
 すぐに引き返せばいいものを、伊吹はそこでしばらく足を止めてしまった。要とは喧嘩したままだ。二回とも伊吹が一方的に怒鳴っている。謝るなら伊吹の方だとわかっていても、下らない意地の方が勝ってしまってラーメンを食べにすら行っていないのに。
「おう、要。あの坊主最近来ねえな」
「あー……伊吹っすか。知らねえっすよ」
「下らん喧嘩なんてするもんじゃねえぞ。──おい、要。茶が切れた」
「……知らねえっすよ」
 ふと、店内から漏れてきた話し声に伊吹は手をぎゅっと握った。
 知らないと言われた。喧嘩なんてするもんじゃないと言われた。
 どちらも正しいと思う。伊吹が勝手に怒っていて、要には伊吹の心境などわかるはずがない。当の伊吹でさえ何に対して怒ったのかわかっていないのだ。
 ただ。
 今まで通りに要のバイト先で煮卵の乗ったラーメンを食べて、下らない話をしていた時間がこのままなくなってしまうのは寂しい。
 ──まるでせっかく懐いた犬に背を向けている気分だ。
 このまま伊吹が何もしなければこの場所は壊れてしまう。取り戻すことは簡単だ。恐らく、伊吹が一言謝ればいい。なのに、いまの伊吹にはラーメン屋の戸を開けられない。その一言を言う覚悟がないからだ。
 ひゅう、と十一月初めの風が吹く。夜風が冷たい。温かいものを食べていない体は妙に冷えている。