かわいいって言うな

「ちわーっす」
 普段と比べると覇気のない声で伊吹はラーメン屋の暖簾をくぐった。中からはいつも通りの威勢のいい声が返ってくる。ラストオーダー直前。伊吹は空いている店内のカウンターに座ると、オーダーを取りに来た要にぶっきらぼうに「いつもの」と注文した。
 ラーメンを待っている間に伊吹のスマホが一度震える。タナカからのメッセージで『今日は楽しかったよ。また遊ぼうね。帰り気を付けて』と入ってきたが、伊吹は返信しない。そのままカウンターにスマホを伏せ、カウンターに頬杖をついてぼんやりする。
 ──今日はいったい何だったのか。
 デートと言えそうな気もする。それらしいことをした。映画を見に行って、手を握られて、カフェで雑談をして、別れ際にキスをした。しかし、伊吹には何一つしっくりこない。それどころか伊吹は今日見た映画の内容を一ミリも覚えていなかった。そんなことよりもラーメン屋のスープの匂いと客の話し声が伊吹にはなぜか落ち着く。
「お待ちー」
 下を向いていた伊吹の頭の上から声がして、顔を上げると前にどんぶりが置かれた。要はまだ仕事中で伊吹には声をかけずに仕事に戻っていく。何かがどんぶりの上で物足りないと思った。その原因に伊吹はしばらく気付けなかったが、ふと煮卵がないことに思い当たった。いつも何も言わなくても乗っているトッピング。店長公認で要がいつも乗せている煮卵。
 ──ない。
 こないだ気まずくなったから? 怒ってる? 来たの、迷惑になったとか。
 ぱき、と割り箸を割りながら伊吹はぐるぐると考えた。ついさっきまでタナカのことにもやもやとした気持ちを抱えていたが、伊吹は一瞬で忘れた。代わりに要と気まずくなった数日前のやり取りを思い出しながら、何が駄目だったのかを数えだした。伊吹が悪かったと思うことはいくつか数えられる。少なくともペットボトルを床に投げつけて大声を上げたことは、伊吹が明確に悪い。
 煮卵の乗っていないラーメンは、おまけのトッピングがないだけでいつもと同じ味のはずなのに伊吹には妙に味気ない気がした。もそもそとラーメンを啜り、スープまで全部平らげると伊吹はカウンターに突っ伏した。
 何度か「ありがとうございましたー」という声が聞こえて、店内に客の話し声が消える。人が動く物音と要と同僚のバイトたちが喋ってる声がして店じまいの気配がする。それでも伊吹が帰されないのは、いつも伊吹と要が閉店後の店で喋っているのをこの店の人間は知っているからだ。
 伊吹は突っ伏したままでいた。要の気配がしたかと思うと、ごっ、と音がする勢いで頭の上にペットボトルを押し付けられた。
「伊吹、終わった」
 頭上から降ってきた要の声に、伊吹は手探りでペットボトルを受け取った。
「……お疲れ」
 伊吹が返事して頭を上げると、要はカウンターから出てきて隣に腰を下ろした。いつの間にか制服に着替えている。
「どーしたの、お前。今日変じゃん」
「んー……なんつーか、人と会ってきたんだけど」
「また? んで? 伊吹、だいたいキレてんじゃん。でもキレてるって感じでもねーよな」
 言い当てられて伊吹は口を噤んだ。それがかえって逆効果だった。
「なんかあったんだろ? 何あった?」
「いや。なんもない」
「じゃあなんだよ。お前、いつもと違うじゃん。変じゃん」
 詰め寄られて、伊吹は困る。要は伊吹を変だという。だが、伊吹はタナカにキスされてももやもやした気持ちになっただけでなにも気持ちが動かなかった。比較するなら今日、煮卵が乗っていなかったことの方がよっぽど伊吹を不機嫌にさせている。
「まさかまたホテルに連れ込まれそうになったわけじゃねえよな」
「それはない。……けど、キスは、された」
 大したことではないと思い、伊吹はそのことを要に言った。相手の性別は要も察しているだろうが、キス以上のことをしたわけでもなく伊吹も『された』としか感じていない。キスくらい別に減るものではない。
「はぁ!? キス!?」
 しかし、伊吹の思った以上の声で要は反応した。
「だっから、お前何やってんだよ。自己防衛マジでユルガバだな! 何知らねえ奴にそんなことさせてんだよ。一発くらい殴ってきたか?」
 まくしたてられて、伊吹の中で何かが千切れた。
「うっさいな! 要に関係ねーだろ!」
 伊吹は顔の方に伸ばされた手を払って怒鳴った。要の手がキスされた唇に触れそうになっていて、反射で伊吹の手が動いていた。
 視界に伊吹の言葉に固まった要が見える。しかし、伊吹はポケットから財布を出して千円札をカウンターに叩きつけると、ペットボトルをカウンターに置き去りにして店を早足で出ていった。イライラが限界だ。