その日、伊吹は普段と変わらず繁華街のゲーセンの近くのカフェで男と会った。たわいない雑談をしていても特に楽しくはない。会話が弾まない。何かが物足りない。
一時間半ほど伊吹は相手の男と雑談をしながらつまらないと感じていた。しかし、男は伊吹に対して『かわいい』とは言ってこなかった。その点だけは気に入った。今までの相手は必ず伊吹をかわいいと言って怒らせてきている。しかし、伊吹にとってその一点は重要だ。
「伊吹くんさ、よかったらまた会わない? 気が合う感じするしさー。どうかな」
「いいよ。タナカさん、いつだったら都合いい?」
二度目の約束をなんとなくでした。
「じゃ、今度の土曜は? 映画とか見に行かない? どういうの好き?」
今日は水曜で、週末の土曜を指定されると伊吹は頷いた。
「タナカさんのおすすめがいいな」
伊吹は笑っていたと思う。なのにどこか空々しい。会話がつまらない相手と次の約束をしている自分が不思議だった。しかし、この男は年上でゲイで伊吹の求めている条件を満たしている。断る理由もなかった。
胸のあたりがもやもやして気持ち悪い。
帰り際に「駅まで送るよ」と言われ、伊吹は断った。
「ちょっと、寄るとこあるんで大丈夫です」
「そう? 遅いから帰り気を付けてね」
変にこちらの内情を探らないあっさりした男だった。伊吹は男と別れた後、深いため息をついて要のバイト先へと足を向けた。行くと約束している。人と会った後に要のバイト先に行くのは半ば伊吹の習慣のようになっているが、今日は来るかと訊かれて行くと答えた。どうしてか要のバイト先に向かう伊吹の足取りは軽くなった。さっきまでの気持ち悪いもやもやが消えている。
途中でコンビニに寄ってペットボトルの茶を三本買っていく。伊吹の分と要の分と店長の分。コンビニの袋を下げて伊吹は閉店間際のラーメン屋の戸をくぐった。
「店長ー、差し入れっす」
「おう、坊主。毎回律儀なこって」
気難しそうな顔のまま店長は伊吹が差し出したペットボトルを受け取ると厨房の奥へと戻っていった。店内に客は一組しか残っていない。
「伊吹、もうちょっと待ってろ」
閉店の掃除をしながら要が声をかけてきた。伊吹はカウンターに座り、頬杖をついてなんとなく見るものがないから要の仕事姿を見ていた。てきぱきと掃除を済ませていく。手際がいい。
最後の客が会計をして出ていくとテーブルを片付け、洗い物を済ませ「着替えてくる」と一言言って要はバックヤードに消えた。数分後に戻ってきた要は制服姿に戻っている。夜の二十二時過ぎ。私服の伊吹とまだ制服の要。その差に伊吹はいつもほんの少しのギャップを感じる。
「お疲れ、武藤」
「おー、サンキュ」
伊吹がペットボトルを差し出すと要は人懐っこそうに笑って受け取った。笑うと人懐っこく見える。笑う時まで目つきを悪くしているなどというのは恐らく、相当器用な芸当だ。また伊吹の脳裏にハスキー犬の姿が浮かぶ。どうして要を見ているとハスキー犬を連想するのかは、まだわからない。
「今日は愚痴、言わねえじゃん。珍しいな」
「あー……でも、なんかつまんなかった」
「伊吹って注文多いんじゃね?」
くつくつと笑って要は揶揄う。
「そんなことねーよ。高望みしてるつもりねーし」
頬を膨らませて伊吹が言い返す。その後、しばらく沈黙があった。伊吹は首を傾げる。何か要の機嫌を損ねるような返事をした覚えはない。この沈黙の意味を考えるが、伊吹に心当たりはなかった。ちらりと要を見ると何やら真剣な目をしている。
「なあ、伊吹。変なこと聞いていいか?」
切り出され、伊吹は「変なこと?」とおうむ返しに訊いた。
「お前、しょっちゅう人と会ってるけどさ、それって金とかもらってるやつじゃねえよな?」
一応、確認の形式で訊かれている。否定が前提だ。だが──
「はぁ? 何言ってんの」
思わず伊吹は素っ頓狂な声を上げた。そんな風に見られているとは思わなかったのだ。だが、怒る気にはなれない。通常なら金のために人と会っていることを疑われれば怒るのが正しいはずだ。
「いや、金絡みじゃないならいいんだけどさ。俺の勘違いだし。でもさ──じゃ、伊吹って何のために毎日のように知らねえ人と会ってんの」
伊吹の行動しか知らない要にとっては自然な疑問だ。
毎日のようにSNSで知り合った誰かに会いに行き、毎回のように相手の愚痴を言う。目的がないならそんな不平しかないことをする意味がない。だが、伊吹には目的があった。年上の恋人がほしい。同性の。学校では相手を作る気がないから、出会いの場をSNSに移した。それだけだ。だが、要はそれを知らない。伊吹がゲイであることも知らない。──だから、何も理解しない。
「……お前には関係ないじゃん……」
低い声がぼそりと伊吹の口から出た。
「かわいくねーな。心配してんじゃん」
「うるさいっ!」
伊吹は声を上げ、手元のペットボトルを床に投げつけた。そのまま席を立って乱暴に戸を開けて店を出ていく。『何のために』恋人がほしいからだ。年上の男ならば、伊吹の甘えたいという密かな願望も受け入れられるかもしれないと思っていたからだ。しかし、要には言えない。伊吹がゲイであることを開示することになってしまう。イライラする。勘違いの心配など、要にしてほしくなかった。
──かわいくないと言われた。
かわいいと言われる度に怒っていたのに、かわいくないと言われると伊吹の胸のどこかが痛かった。
早足で駅まで向かう。いつもは要と一緒に帰っている道を早足で歩く。普段と同じ速さで歩くと何かが零れてしまいそうだった。
一時間半ほど伊吹は相手の男と雑談をしながらつまらないと感じていた。しかし、男は伊吹に対して『かわいい』とは言ってこなかった。その点だけは気に入った。今までの相手は必ず伊吹をかわいいと言って怒らせてきている。しかし、伊吹にとってその一点は重要だ。
「伊吹くんさ、よかったらまた会わない? 気が合う感じするしさー。どうかな」
「いいよ。タナカさん、いつだったら都合いい?」
二度目の約束をなんとなくでした。
「じゃ、今度の土曜は? 映画とか見に行かない? どういうの好き?」
今日は水曜で、週末の土曜を指定されると伊吹は頷いた。
「タナカさんのおすすめがいいな」
伊吹は笑っていたと思う。なのにどこか空々しい。会話がつまらない相手と次の約束をしている自分が不思議だった。しかし、この男は年上でゲイで伊吹の求めている条件を満たしている。断る理由もなかった。
胸のあたりがもやもやして気持ち悪い。
帰り際に「駅まで送るよ」と言われ、伊吹は断った。
「ちょっと、寄るとこあるんで大丈夫です」
「そう? 遅いから帰り気を付けてね」
変にこちらの内情を探らないあっさりした男だった。伊吹は男と別れた後、深いため息をついて要のバイト先へと足を向けた。行くと約束している。人と会った後に要のバイト先に行くのは半ば伊吹の習慣のようになっているが、今日は来るかと訊かれて行くと答えた。どうしてか要のバイト先に向かう伊吹の足取りは軽くなった。さっきまでの気持ち悪いもやもやが消えている。
途中でコンビニに寄ってペットボトルの茶を三本買っていく。伊吹の分と要の分と店長の分。コンビニの袋を下げて伊吹は閉店間際のラーメン屋の戸をくぐった。
「店長ー、差し入れっす」
「おう、坊主。毎回律儀なこって」
気難しそうな顔のまま店長は伊吹が差し出したペットボトルを受け取ると厨房の奥へと戻っていった。店内に客は一組しか残っていない。
「伊吹、もうちょっと待ってろ」
閉店の掃除をしながら要が声をかけてきた。伊吹はカウンターに座り、頬杖をついてなんとなく見るものがないから要の仕事姿を見ていた。てきぱきと掃除を済ませていく。手際がいい。
最後の客が会計をして出ていくとテーブルを片付け、洗い物を済ませ「着替えてくる」と一言言って要はバックヤードに消えた。数分後に戻ってきた要は制服姿に戻っている。夜の二十二時過ぎ。私服の伊吹とまだ制服の要。その差に伊吹はいつもほんの少しのギャップを感じる。
「お疲れ、武藤」
「おー、サンキュ」
伊吹がペットボトルを差し出すと要は人懐っこそうに笑って受け取った。笑うと人懐っこく見える。笑う時まで目つきを悪くしているなどというのは恐らく、相当器用な芸当だ。また伊吹の脳裏にハスキー犬の姿が浮かぶ。どうして要を見ているとハスキー犬を連想するのかは、まだわからない。
「今日は愚痴、言わねえじゃん。珍しいな」
「あー……でも、なんかつまんなかった」
「伊吹って注文多いんじゃね?」
くつくつと笑って要は揶揄う。
「そんなことねーよ。高望みしてるつもりねーし」
頬を膨らませて伊吹が言い返す。その後、しばらく沈黙があった。伊吹は首を傾げる。何か要の機嫌を損ねるような返事をした覚えはない。この沈黙の意味を考えるが、伊吹に心当たりはなかった。ちらりと要を見ると何やら真剣な目をしている。
「なあ、伊吹。変なこと聞いていいか?」
切り出され、伊吹は「変なこと?」とおうむ返しに訊いた。
「お前、しょっちゅう人と会ってるけどさ、それって金とかもらってるやつじゃねえよな?」
一応、確認の形式で訊かれている。否定が前提だ。だが──
「はぁ? 何言ってんの」
思わず伊吹は素っ頓狂な声を上げた。そんな風に見られているとは思わなかったのだ。だが、怒る気にはなれない。通常なら金のために人と会っていることを疑われれば怒るのが正しいはずだ。
「いや、金絡みじゃないならいいんだけどさ。俺の勘違いだし。でもさ──じゃ、伊吹って何のために毎日のように知らねえ人と会ってんの」
伊吹の行動しか知らない要にとっては自然な疑問だ。
毎日のようにSNSで知り合った誰かに会いに行き、毎回のように相手の愚痴を言う。目的がないならそんな不平しかないことをする意味がない。だが、伊吹には目的があった。年上の恋人がほしい。同性の。学校では相手を作る気がないから、出会いの場をSNSに移した。それだけだ。だが、要はそれを知らない。伊吹がゲイであることも知らない。──だから、何も理解しない。
「……お前には関係ないじゃん……」
低い声がぼそりと伊吹の口から出た。
「かわいくねーな。心配してんじゃん」
「うるさいっ!」
伊吹は声を上げ、手元のペットボトルを床に投げつけた。そのまま席を立って乱暴に戸を開けて店を出ていく。『何のために』恋人がほしいからだ。年上の男ならば、伊吹の甘えたいという密かな願望も受け入れられるかもしれないと思っていたからだ。しかし、要には言えない。伊吹がゲイであることを開示することになってしまう。イライラする。勘違いの心配など、要にしてほしくなかった。
──かわいくないと言われた。
かわいいと言われる度に怒っていたのに、かわいくないと言われると伊吹の胸のどこかが痛かった。
早足で駅まで向かう。いつもは要と一緒に帰っている道を早足で歩く。普段と同じ速さで歩くと何かが零れてしまいそうだった。
