となりのなみだは夏のにおい

 梅雨の時期の電車内って、どこにいても息苦しいんだな。

 座っていても、立っていても、関係なしに湿気が全身にまとわりついてくる。雨と汗の混ざったにおい。濡れた傘から床へと滴る水。車両が揺れるたびに、どこからともなく聞こえる危なっかしい足音。それをここ数日、体感しているわけだけど、きっとこの日々はもうしばらく続くんだろうな。
 高校生になってから電車通学をはじめて二ヶ月半が過ぎた今もなお、左右の乗降口どちらかの扉が開けば押し流されてしまう。特に金曜日の二十時台は厄介で、飲み会帰りっぽいスーツ姿の社会人や私服姿の大学生らしき人、放課後を思い思いに過ごして帰る制服姿の同年代グループでごった返しだ。
 まさに、今がそれで、まったくもって息が詰まる。肩をすくめて身じろぎ、天井を仰げばそこにぶら下がっている車内広告は、県外にある某有名テーマパークのサマーイベント告知だ。

 中二のときの夏だっけ。
 拓真が「高校の卒業旅行はあのテーマパークに行こうぜ!」なんて突拍子もなく言いだして、高校生でもなければ中三にすらなってねぇのに「気が早過ぎんだろ」って、呆れつつも俺が言い返してやってさ。
 ……あのとき、岳も一緒に笑ってたよな。

『ご乗車、ありがとうございました。まもなく──』

 一時間に一本しか走らない普通電車に乗ってから各駅を次々と見送ること三十分。やっと、俺は自宅の最寄駅で下車した。人波に逆らうことなく進んで、改札機に定期券をかざして通り抜ける。

 駅舎の外のロータリーには車が列をなしていて、無数のライトがいまだに降り続く雨と水浸しのアスファルトを照らしていた。
 スクバのサイドポケットに定期券を滑り込ませたタイミングで、布地を掠めた指先にかすかな振動が伝わってくる。前面のファスナーポケットからスマホを出して、ロック画面に目を落とせば、拓真からのスタンプ通知が届いていた。

 俺も拓真も放課後はお互い別々のバイトをしている。俺は学校の近くにあるファミレス。一方、拓真はこの駅からあいつの家までの道すがらにあるコンビニ。だから、昼休み以降、俺は拓真と顔を合わせてない。お互いバイトが休みの日は中学時代と変わらずに一緒に下校してるけど、高校生になってわりとすぐにバイトをはじめて以来、だいたいいつもこんな感じだ。
 一向にロック画面が暗くならない。駅舎の出入り口付近を避けた軒下にとどまって、片手のなかにあるそれを眺めているあいだにも、拓真がひたすらスタンプを送りつけてくる。ここで開いたら、あいつ、たいてい電話かけてくるんだよな……。

 俺はマナーモードのスマホをスクバのポケットへと戻して、星も月も見えない夜空に向かって傘を広げた。軒下から一歩踏み出せば、ひっきりなしに雨粒が弾ける音が、なによりも俺の近くでする。

 ──「周。高校生になったら、──」

 なによりも、雨音だけを聞いていたかった。

    ◇

 駅から歩いて十五分弱。二階建て六戸アパートの一○二号室。唯一、オレンジ色の明りが灯されているそこに立って、俺はカメラ付きのインターフォンの前でずぶ濡れの傘を閉じる。雨水を吸った靴裏を鳴らして身を翻し、傘についた水滴をしっかりと振り落とす。ほどなくして、後ろから玄関扉の開錠音。
 肩越しに見ると、他の誰でもない母さんと目が合った。

「おかえりなさい、あまちゃん」
「ただいま」

 下瞼をふっくらさせて柔和に笑う母さんは、先月の母の日に、俺と父さんで選んでプレゼントした花柄のエプロンを身につけていた。
 傘をたたまないまま俺は家に入って、つい「めっちゃいいにおいすんね」って言葉をこぼしたら、先に玄関を上がった母さんに「ふふ、でしょう?」って得意げに返される。

 すこぶる機嫌がいいらしい。変わりなくっていいことだ。

「母さん。しばらく浴室乾燥、使っていい?」
「いいわよ〜。あ、そうだわ。あまちゃん、お風呂の栓とスイッチ、お願い。掃除は済ませてるの」
「わかった」

 俺は返事をしながら玄関扉の鍵を閉めて、スニーカーを片足ずつ脱ぐ。やや湿っている靴下も我慢しきれずその場で脱いで、来客用のスリッパを履いた。
 今は二十一時にさしかかっている頃だろう。真夜中を過ぎてまで浴室乾燥を使うのは、さすがに左右と上の部屋を借りてる住人に迷惑だ。乾かすのに時間がかかるスニーカーを洗うのは明日の朝以降にしよう。
 傘だけを携えて、俺は浴室へ足を向ける。

 ……うーん、リビングのほうからごちそうの気配がする。期待値はそれなり。

 換気モードから乾燥に切り替えた浴室で傘を広げて、床に置く。タオルであらかた水気を拭き取って、小一時間、このまま放置だ。
 湯はりをはじめた浴槽にふたをして、俺は浴室を後にする。ランドリーバスケットへ靴下とタオルを放り入れ、洗面室で手を洗いつつ、どうしても堪えきれずに俺はため息をついた。泡まみれの手に落ちる生ぬるい流水が、排水溝に吸い込まれていく。正面の鏡に映る自分の顔は、見ないようにした。

 廊下に置き去りにしていたスクバの持ち手を掴んで……さてと、リビングへ行きますか。

 引き戸をスライドさせて開けると、まず、俺は左手のテレビがあるほうを見た。L字型のカウチソファに、いない。と、なると。俺は視線を右に流す。
 カウンターキッチンの奥に、なぜか母さんだけじゃなく父さんも立っていた。毎週金曜日のこの時間、父さんはソファに座って、ゆったり晩酌をしているはずなんだけどな。

「父さん、ただいま」
「おかえり、周。晩ごはん、できてるぞ」
「今日はパパが作ってくれたのよ」
「まじ? 久々じゃん。メニューなに」
「ビーフストロガノフとマカロニサラダ」
「やっば。最高」
「なんたって、今日は六月二十六日だからな」

 四人がけのダイニングテーブルの片側には背もたれ付きのチェアが二脚並ぶ。その対面は背もたれのないすっきりとしたベンチで、いつもどおりにそっちの真んなかに着くと、最初に運ばれてきたのはビーフストロガノフでもマカロニサラダでもなく。

「今年のあまちゃんのお誕生日ケーキは……じゃーん! ママお手製フルーツタルトです!」
「十六歳。おめでとう、周」

 苺にキウイにオレンジにブルーベリー……色とりどりのみずみずしい果実がふんだんに盛り付けられたホールタルトを前にして、俺は目をしばたたく。
 忘れていたわけじゃない。それでも、そうだった。今日は俺の誕生日だ。あまりにも、らしくない一日だったから、今の今まで十五歳の俺でいた。

 そっか。俺、十六歳なのか。

「ありがとう」

 じきにビーフストロガノフとマカロニサラダもテーブルに並べられて「腹が減ってるだろう。俺たちを待たなくていいから先に食べてな」って笑みをたたえる父さんが言う。キッチンに戻っていく父さんにもう一度お礼を伝えて、俺は遠慮なく箸を手にした。
 マヨネーズで和えたマカロニサラダには薄切りのきゅうりとリンゴが入っていて、ゆで卵のコクがありつつもさっぱりした味だ。うーん、めちゃうまい。父さん、料理の天才だわ。
 俺の傍らでバースデーソングを口ずさみながらタルトを三等分に切り分けて、小皿によそっていた母さんが「あ、そうそう。あまちゃん」って声をかけてきた。

「今年の葡萄も、あまちゃんは波多さんのお宅にだけでいい? 高校のお友だちで届けたい子は?」
「うん。拓真んちだけでいいよ」
「拓真くんの従兄弟の男の子は?」

 あ。

「今年もこっちへ来るの?」

 ……口元にまで近づけていた箸の先からマカロニがひとつ滑って、ビーフストロガノフの皿のなかに落ちてしまった。
 あっぶな。テーブルにじゃなくって、セーフ。

「んー、いや。今年は来れないらしいから、わざわざお盆の時期に合わせて届けなくていいのかも」
「あら、そうなの? 寂しいわね」

 とりあえず、箸の先に残っているマカロニを口に入れて、それから、ビーフストロガノフに浸かっているマカロニを箸でつまむ。
 うん。まぁ。これはこれで、悪くはない味だろうけどさ。なんか、なんだかな。

「少しずつ、大人になっていくってことだな」

 声をたどって視線を上げたら、父さんが俺の食器の向こうに料理を次々と並べていた。ちゃっかり、父さんの席の前にはワイングラスまで揃えちゃって……コルクが抜かれているボトル……確かビーフストロガノフって、本格的に作るとなるとワインを使うんだっけ?
 思わず「父さん、今日は風呂入んないの?」って訊いたら、父さんは朗らかに笑いながら「仕事から帰って、いちばんにシャワーを済ませたからな」なんて。
 ほんっと、ちゃっかりしてんなぁ。