花岡百合人は、学校の中庭で黙々と絵筆を走らせていた。
――やっぱり、ゼラニウムは可愛いよなあ。
花壇を見つめて一人、頷く。そこでは、真っ赤なスーパーゼラニウムが日光を浴びて咲き誇っていた。色彩は華やかだが、どこか可憐なこの花は、校庭の良いアクセントになっている。学校だけでなく、個人の庭にも合いそうだった。
――どんな庭? いやそれより、どんな住宅?
想像を巡らせる。思いつくのは、こぢんまりした洋風の家だ。壁面は白色で、小さめの窓がある。その前に広がる緑豊かな庭に、この赤いゼラニウムが咲き乱れるのだ。
――そういう家に住んでるのって、きっと素敵なカップルだよなあ。
百合人の想像は、果てしなく広がり始めた。美男美女がその庭に佇む光景が、自然に浮かんでくる。そして男性の方の顔は、いつしかある人物に変わっていた。
クラスメートの南原樹だ。同じ高校二年生にして、すでに大学生といっても通るほどの大人びた美貌を持ち、モデルにスカウトされたこともあるとか。その上成績は優秀でスポーツは万能、実家は大病院ときている。まさに完全無欠、といったところだ。当然ながら告白する女子は後を絶たないが、皆撃沈とのことである。
――よっぽど理想が高いのかな……?
想像しかけて、百合人は止め止めとかぶりを振った。男の自分がそこに加わる余地なんて、無いからだ。百合人は、昔から同性が好きだ。南原は百合人の憧れで、授業中に彼の姿を盗み見るのが、密かな楽しみなのである……。
「手、止まってるぞ?」
「ぎゃっ」
不意にかけられた声に、百合人は思わず飛び上がりそうになった。見回りの美術教師に見つかっただろうか、そう思いながら振り返って、百合人はまた叫びそうになった。そこにいたのは、今まさに思い描いていた南原だったのである。
「悪い、驚かせたかな? でもそれ、そのままじゃヤバくね?」
南原が、百合人の手にあるパレットを指さす。確かに、絵の具はほぼ乾きかけていた。長い間物思いにふけっていたからだろう。
「どうしたんだよ? 真剣に、一点見つめちゃってさ」
南原は、クスクス笑いながら百合人の隣に腰かけた。
「あ……、うん。ちょっと、ぼーっとしてて……。てか、南原はどうしてここに?」
南原のことを考えていたなんて、悟られるわけにはいかない。百合人は、あわてて彼に話題を振った。この芸術の授業の時間、彼は音楽専攻のはずだが。
「だるいからフケてきた。適当に歌ってりゃ済むかなってなめてたけど、案外煩わしくてさ」
南原は、肩をすくめた。音楽を専攻するのは、女子が多い。格好のチャンスとばかりに、競って接近しているのだろう、と百合人は想像した。
――意外な展開だけど、南原と話せて嬉しい……。
舞い上がる百合人の心中など知る由もない南原は、ひょいと絵をのぞきこんできた。
「やっぱ上手いよな、花岡って。さすが美術部」
「いや、それほどでも……」
南原が、自分の部活を覚えていてくれた。それだけのことに、心が弾む。
「お世辞じゃないぜ。特にこの花……、ええと、何ていう名前だっけ」
南原が、百合人の描いたゼラニウムを指さす。秀才の彼が、こんな有名な花の名前を知らないなんて。小首をかしげる様子は何だか微笑ましくて、百合人はますます体温が上昇するのを感じた。
「ゼラニウムだよ。僕、この花大好きなんだ。子供の頃ギリシャに住んでたんだけど、よく咲いてたから懐かしくて」
へえ、と南原は目を輝かせた。
「住んでたって、何、親の仕事の関係とか?」
「うん。うちの父親、転勤族で。小学校までは海外転勤も多かったから、何カ国か住んだんだ」
「何それ。羨ましいんだけど」
白い歯を見せて、南原が笑う。その笑顔に見とれていた百合人だったが、甘い思いは次の瞬間吹き飛んだ。突如、とげとげしい声が降ってきたのだ。
「その割に英語できないよな、お前」
見上げた先には、もっとも苦手とする人物がいて、百合人はうんざりした。
――福井。
声の主は、クラスメートで、同じ美術部でもある福井だった。どうやら百合人のことが気に食わないらしく、何かにつけては突っかかってくるのだ。とはいえ、海外経験がある割に英語の成績が悪いのは事実である。言い返す言葉が見つからず、百合人はうつむいた。
「花岡がいたのは全部、英語以外が公用語の国だぞ?」
その時、南原のはっきりとした声が響いた。百合人は、思わず顔を上げた。南原は、鋭い眼差しで福井をにらみつけていた。
「それから、同じ語学でも、読み書きと聞く話すの能力は違うから。逆に、学校の英語ができた日本人でも、海外へ行ったら話せないって、常識だろ?」
――僕を、庇ってくれた……。
憧れの南原が助けてくれたことに、百合人は唖然とした。一方の福井は、一瞬ぐっとつまったものの、今度は南原の方を向き直った。
「じゃあお前もそのクチ? 学校の英語はできるけど、喋れない感じかよ?」
『あいにく、ペラペラだけどね。お前と違って』
間髪をいれず、南原が英語で返す。その発音は、ネイティブ並みだった。聴き取れたかどうかは不明だが、少なくとも勝ち目がないことは悟ったのだろう。福井が唇を噛む。そんな彼に向かって、南原はさらにこう言い放った。
「俺の母親は、語学が得意だから。遺伝かな」
瞬間、福井の顔がさあっと青ざめる。遺伝、というワードに反応したのは明らかだった。福井の父親は美大の教授なのだが、福井本人の画力はパッとしない。美大推薦も危ういらしく、彼が百合人に攻撃的なのは、きっとそのせいと思われた。
――さすがに、言い過ぎじゃ……。
百合人はハラハラしたが、幸いにも福井はそれ以上言い返すことなく、去って行った。
「ありがとう」
百合人は、南原に礼を述べた。
「でも僕、英語圏にも住んでたよ?」
「あんなの、ハッタリだし。あいつにはそれくらいでちょうどいいんだ」
南原は、にっこり笑った。
「また何か言われたら、俺に言えよな?」
「あ、うん……」
彼は、どうしてこんなに自分に優しいのだろう。百合人は、内心首をかしげた。
「でも僕、そんなに気にしてないから。あいつも美大受験のことでイラついて、僕に八つ当たりしてるだけだろうし」
「……そうかな」
南原が、ぼそりとつぶやく。百合人は思わず、え、と聞き返していた。
「いや、何でも……。そろそろ戻らないとヤバくね?」
時計を見ると、確かに授業時間が終わろうとしている。しかも、次は武道だ。百合人は、あわてて片付けを始めた。
――やっぱり、ゼラニウムは可愛いよなあ。
花壇を見つめて一人、頷く。そこでは、真っ赤なスーパーゼラニウムが日光を浴びて咲き誇っていた。色彩は華やかだが、どこか可憐なこの花は、校庭の良いアクセントになっている。学校だけでなく、個人の庭にも合いそうだった。
――どんな庭? いやそれより、どんな住宅?
想像を巡らせる。思いつくのは、こぢんまりした洋風の家だ。壁面は白色で、小さめの窓がある。その前に広がる緑豊かな庭に、この赤いゼラニウムが咲き乱れるのだ。
――そういう家に住んでるのって、きっと素敵なカップルだよなあ。
百合人の想像は、果てしなく広がり始めた。美男美女がその庭に佇む光景が、自然に浮かんでくる。そして男性の方の顔は、いつしかある人物に変わっていた。
クラスメートの南原樹だ。同じ高校二年生にして、すでに大学生といっても通るほどの大人びた美貌を持ち、モデルにスカウトされたこともあるとか。その上成績は優秀でスポーツは万能、実家は大病院ときている。まさに完全無欠、といったところだ。当然ながら告白する女子は後を絶たないが、皆撃沈とのことである。
――よっぽど理想が高いのかな……?
想像しかけて、百合人は止め止めとかぶりを振った。男の自分がそこに加わる余地なんて、無いからだ。百合人は、昔から同性が好きだ。南原は百合人の憧れで、授業中に彼の姿を盗み見るのが、密かな楽しみなのである……。
「手、止まってるぞ?」
「ぎゃっ」
不意にかけられた声に、百合人は思わず飛び上がりそうになった。見回りの美術教師に見つかっただろうか、そう思いながら振り返って、百合人はまた叫びそうになった。そこにいたのは、今まさに思い描いていた南原だったのである。
「悪い、驚かせたかな? でもそれ、そのままじゃヤバくね?」
南原が、百合人の手にあるパレットを指さす。確かに、絵の具はほぼ乾きかけていた。長い間物思いにふけっていたからだろう。
「どうしたんだよ? 真剣に、一点見つめちゃってさ」
南原は、クスクス笑いながら百合人の隣に腰かけた。
「あ……、うん。ちょっと、ぼーっとしてて……。てか、南原はどうしてここに?」
南原のことを考えていたなんて、悟られるわけにはいかない。百合人は、あわてて彼に話題を振った。この芸術の授業の時間、彼は音楽専攻のはずだが。
「だるいからフケてきた。適当に歌ってりゃ済むかなってなめてたけど、案外煩わしくてさ」
南原は、肩をすくめた。音楽を専攻するのは、女子が多い。格好のチャンスとばかりに、競って接近しているのだろう、と百合人は想像した。
――意外な展開だけど、南原と話せて嬉しい……。
舞い上がる百合人の心中など知る由もない南原は、ひょいと絵をのぞきこんできた。
「やっぱ上手いよな、花岡って。さすが美術部」
「いや、それほどでも……」
南原が、自分の部活を覚えていてくれた。それだけのことに、心が弾む。
「お世辞じゃないぜ。特にこの花……、ええと、何ていう名前だっけ」
南原が、百合人の描いたゼラニウムを指さす。秀才の彼が、こんな有名な花の名前を知らないなんて。小首をかしげる様子は何だか微笑ましくて、百合人はますます体温が上昇するのを感じた。
「ゼラニウムだよ。僕、この花大好きなんだ。子供の頃ギリシャに住んでたんだけど、よく咲いてたから懐かしくて」
へえ、と南原は目を輝かせた。
「住んでたって、何、親の仕事の関係とか?」
「うん。うちの父親、転勤族で。小学校までは海外転勤も多かったから、何カ国か住んだんだ」
「何それ。羨ましいんだけど」
白い歯を見せて、南原が笑う。その笑顔に見とれていた百合人だったが、甘い思いは次の瞬間吹き飛んだ。突如、とげとげしい声が降ってきたのだ。
「その割に英語できないよな、お前」
見上げた先には、もっとも苦手とする人物がいて、百合人はうんざりした。
――福井。
声の主は、クラスメートで、同じ美術部でもある福井だった。どうやら百合人のことが気に食わないらしく、何かにつけては突っかかってくるのだ。とはいえ、海外経験がある割に英語の成績が悪いのは事実である。言い返す言葉が見つからず、百合人はうつむいた。
「花岡がいたのは全部、英語以外が公用語の国だぞ?」
その時、南原のはっきりとした声が響いた。百合人は、思わず顔を上げた。南原は、鋭い眼差しで福井をにらみつけていた。
「それから、同じ語学でも、読み書きと聞く話すの能力は違うから。逆に、学校の英語ができた日本人でも、海外へ行ったら話せないって、常識だろ?」
――僕を、庇ってくれた……。
憧れの南原が助けてくれたことに、百合人は唖然とした。一方の福井は、一瞬ぐっとつまったものの、今度は南原の方を向き直った。
「じゃあお前もそのクチ? 学校の英語はできるけど、喋れない感じかよ?」
『あいにく、ペラペラだけどね。お前と違って』
間髪をいれず、南原が英語で返す。その発音は、ネイティブ並みだった。聴き取れたかどうかは不明だが、少なくとも勝ち目がないことは悟ったのだろう。福井が唇を噛む。そんな彼に向かって、南原はさらにこう言い放った。
「俺の母親は、語学が得意だから。遺伝かな」
瞬間、福井の顔がさあっと青ざめる。遺伝、というワードに反応したのは明らかだった。福井の父親は美大の教授なのだが、福井本人の画力はパッとしない。美大推薦も危ういらしく、彼が百合人に攻撃的なのは、きっとそのせいと思われた。
――さすがに、言い過ぎじゃ……。
百合人はハラハラしたが、幸いにも福井はそれ以上言い返すことなく、去って行った。
「ありがとう」
百合人は、南原に礼を述べた。
「でも僕、英語圏にも住んでたよ?」
「あんなの、ハッタリだし。あいつにはそれくらいでちょうどいいんだ」
南原は、にっこり笑った。
「また何か言われたら、俺に言えよな?」
「あ、うん……」
彼は、どうしてこんなに自分に優しいのだろう。百合人は、内心首をかしげた。
「でも僕、そんなに気にしてないから。あいつも美大受験のことでイラついて、僕に八つ当たりしてるだけだろうし」
「……そうかな」
南原が、ぼそりとつぶやく。百合人は思わず、え、と聞き返していた。
「いや、何でも……。そろそろ戻らないとヤバくね?」
時計を見ると、確かに授業時間が終わろうとしている。しかも、次は武道だ。百合人は、あわてて片付けを始めた。

