六月の東京はよく雨が降る。大学の図書館の窓際席で、篠崎悠真はレポートを書いていた。人と話すのは嫌いではない。ただ、積極的に関わりたいとも思わない。だから昼休みも、たいていここにいる。
その日も同じだった。窓を叩く雨音を聞きながら参考文献を読んでいると、向かいの椅子が引かれる音がした。
篠崎は顔を上げる。知らない男だった。黒い傘を持っている。少し長めの黒髪。整った顔立ちだが、どこか眠そうな目をしていた。
「ここ、空いてますか」
「……空いてます」
図書館なんだから聞く必要ないのに。そう思ったが、相手は律儀に確認した。
「ありがとうございます」
男は向かいに座った。それだけだった。話しかけてくるわけでも、スマートフォンをいじるわけでもない。本を開き、静かに読み始めた。ただそれだけ。
だから篠崎も気にしなかった。
翌週。また雨だった。そして同じ男が現れた。
「失礼します」
前回と同じ席。前回と同じ声。前回と同じ距離。
“偶然だ。きっと”
そう思った。
だが三回目の雨の日。
四回目の雨の日。
五回目の雨の日。
男は必ず現れた。晴れの日には来ない。雨の日だけ現れる。奇妙だった。
そして少しだけ気になった。
六回目の雨の日。男が席を立ったとき、一冊の文庫本が机に残された。忘れ物だった。
「すみません」
篠崎は立ち上がり、静かに声をかける。男は振り返った。
「あ」
その瞬間、初めて目が合った。思ったより近くにいたのだ。男は少し驚いたような顔をして、それから笑った。
「ありがとうございます」
「忘れてましたよ」
「よくあります」
そう言って本を受け取る。沈黙。そして会話は終わった。終わるはずだった。
「あの」
男が言う。
「毎回同じ席にいますよね」
先に気付いていたのは向こうだった。篠崎は少しだけ悔しくなる。
「あなたもです」
「ばれましたか」
「さすがに」
男は小さく笑った。笑うと雰囲気が柔らかくなる人だった。
「雨の日、好きなんです」
男は不意にそう言った。
「だからここに来ます」
「図書館に?」
「人が少ないので」
少し分かる気がした。雨の日の図書館は静かだ。外の音も、人の声も、どれも全部雨が吸い込んでしまう。そんな気がするのだ。
「篠崎です。篠崎悠真」
気付けば名乗っていた。男が目を丸くする。
「自己紹介です」
「分かります」
「名前を知らないと不便なので」
言い訳みたいだった。男はまた笑う。
「藤代です。藤代充」
そうして二人は名前を知った。ただそれだけだった。けれどそれから雨の日が少し楽しみになっていった。
雨が降る。
図書館へ行く。
窓際の席に座る。
しばらくすると藤代が来る。
他愛ない会話をする。
本の話。
授業の話。
好きな作家の話。
たったそれだけ。
なのに気付けば、篠崎は天気予報で雨の日を確認するようになっていた。
七月の終わり。梅雨が明けた。空は晴れたままになる。当然、藤代も来なくなった。連絡先は知らない。学部も知らない。名前しか知らない。それなのに図書館の向かい側の席が妙に広く感じた。
“……俺、こんなに寂しがり屋だったのか?”
篠崎は明るく眩しい窓の外を見つめた。
八月。夏休み。ある日、突然夕立が降った。図書館の窓を激しく叩く雨。
篠崎は顔を上げる。そして思わず笑ってしまった。向かいの席に、見慣れた黒い傘が置かれていたのだ。
「久しぶりです」
藤代が言う。
「そうですね」
「雨ですね」
「そうですね」
二人とも少し笑う。まるで約束でもしていたみたいだった。沈黙が落ちる。けれど居心地は悪くない。窓の外では雨が降り続いている。藤代は本を閉じて言った。
「実は」
「はい」
「雨の日だけ来てたの、理由があるんです」
篠崎は顔を上げた。藤代は少しだけ困ったように笑う。
「晴れの日に来ると、話しかけたくなってしまうので」
一瞬、意味が分からなかった。藤代は続ける。
「雨の日なら偶然っぽいでしょう」
雨音だけが響く。篠崎は数秒考えてそれから小さく息を吐いた。
「遠回しですね」
「自覚はあります」
「じゃあ今は?」
「今は夏ですから」
藤代が言う。
「雨の日以外でも会いたいです」
窓の外で雷が鳴った。けれど篠崎の耳には、自分の心臓の音の方が大きく聞こえていた。
たぶんこの夏が終わっても。雨の日は、少し特別なままだ。
雨は一時間ほどで止んだ。図書館の窓には、まだ水滴が残っていた。けれど空はもう明るかった。夕立の名残だ。
「雨、止みましたね」
藤代が言う。
「ですね」
篠崎は答える。会話はそれだけだった。なのに妙に落ち着かない。さっきの言葉がまだ頭の中に残っている。
——雨の日以外でも会いたいです。
告白、と呼ぶには曖昧だった。けれど好意は隠していない。少なくとも友人としてだけ言う言葉ではない。
篠崎は本に視線を落とした。一行も頭に入らない。向かい側を見ると、藤代は平然と本を読んでいた。その横顔を見ていると、少し腹が立ってくる。
「藤代さん」
「はい」
「よくそんな普通の顔してられますね」
ページをめくる手が止まる。
「普通ですか」
「普通です」
「内心は結構緊張してますよ」
「見えません」
「よく言われます」
淡々とした返事。けれど耳だけ少し赤い。あ。この人もちゃんと照れることがあるんだ。
篠崎は少しだけ安心した。どうやら自分だけが動揺しているわけではないらしい。
「返事は急がなくていいです」
藤代が言う。
「そもそも返事を求めるつもりで言ったわけじゃないので」
「じゃあ何で言ったんですか」
「言わないと後悔しそうだったので」
静かな声だった。図書館に馴染むくらい小さい。けれど不思議とよく聞こえた。
「篠崎さん」
「はい」
「あなたといる時間が好きです」
まただこの人は。平然とそういうことを言う。
篠崎は視線を逸らした。窓の外を見る。濡れたアスファルト。雨上がりの匂い。行き交う学生たち。そのどれもが、今は妙に遠かった。
「ずるいですよ」
思わず口から出た。
「何がですか」
「そういうこと言うの」
「すみません」
「謝るなら言わないでください」
「それは無理です」
即答だった。篠崎は思わず笑ってしまう。藤代も少し笑う。
しばらくして、藤代が鞄を閉じた。
「帰りますか」
「そうですね」
二人で図書館を出る。外は湿った空気だった。駅へ向かう道を並んで歩く。夏休みのキャンパスは静かだ。蝉の声だけが響いている。
「篠崎さん」
「はい」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「何ですか」
「私は脈なしですか」
あまりにも直球で、篠崎は立ち止まりそうになる。
「普通そんな聞き方します?」
「回りくどいの苦手なんです」
「十分回りくどかったでしょう」
「雨の日だけ来てた件ですか」
「それです」
藤代が少し笑う。その顔を見ていると、何だか調子が狂う。真面目そうに見えるのに、時々妙なことをする。
ずるいなあ。
「……分かりません」
しばらく考えてから答えた。
「好きとか、そういうの」
「はい」
「でも」
言葉が詰まる。こんなことを言うのは少し恥ずかしい。けれど藤代は待っていた。急かさずに。
「雨の日、ちょっと楽しみでした」
藤代が目を見開く。
「毎回」
篠崎は続ける。
「来るかなって思ってました」
数秒。本当に数秒だけ、藤代は何も言わなかった。そして珍しく分かりやすく嬉しそうな顔をした。初めて見る表情だった。
“……うわぁ”
いつもの落ち着いた笑顔ではない。隠しきれていない笑顔。それを見た瞬間に篠崎の胸が少しだけ苦しくなる。
ああ。たぶんもう。答えは出始めているのだ。
駅前の信号が青になる。二人は再び歩き出した。今度は肩が少し近かった。触れてはいなかった。けれど以前より確かに近い。
その距離を、どちらも離そうとはしなかった。
その日も同じだった。窓を叩く雨音を聞きながら参考文献を読んでいると、向かいの椅子が引かれる音がした。
篠崎は顔を上げる。知らない男だった。黒い傘を持っている。少し長めの黒髪。整った顔立ちだが、どこか眠そうな目をしていた。
「ここ、空いてますか」
「……空いてます」
図書館なんだから聞く必要ないのに。そう思ったが、相手は律儀に確認した。
「ありがとうございます」
男は向かいに座った。それだけだった。話しかけてくるわけでも、スマートフォンをいじるわけでもない。本を開き、静かに読み始めた。ただそれだけ。
だから篠崎も気にしなかった。
翌週。また雨だった。そして同じ男が現れた。
「失礼します」
前回と同じ席。前回と同じ声。前回と同じ距離。
“偶然だ。きっと”
そう思った。
だが三回目の雨の日。
四回目の雨の日。
五回目の雨の日。
男は必ず現れた。晴れの日には来ない。雨の日だけ現れる。奇妙だった。
そして少しだけ気になった。
六回目の雨の日。男が席を立ったとき、一冊の文庫本が机に残された。忘れ物だった。
「すみません」
篠崎は立ち上がり、静かに声をかける。男は振り返った。
「あ」
その瞬間、初めて目が合った。思ったより近くにいたのだ。男は少し驚いたような顔をして、それから笑った。
「ありがとうございます」
「忘れてましたよ」
「よくあります」
そう言って本を受け取る。沈黙。そして会話は終わった。終わるはずだった。
「あの」
男が言う。
「毎回同じ席にいますよね」
先に気付いていたのは向こうだった。篠崎は少しだけ悔しくなる。
「あなたもです」
「ばれましたか」
「さすがに」
男は小さく笑った。笑うと雰囲気が柔らかくなる人だった。
「雨の日、好きなんです」
男は不意にそう言った。
「だからここに来ます」
「図書館に?」
「人が少ないので」
少し分かる気がした。雨の日の図書館は静かだ。外の音も、人の声も、どれも全部雨が吸い込んでしまう。そんな気がするのだ。
「篠崎です。篠崎悠真」
気付けば名乗っていた。男が目を丸くする。
「自己紹介です」
「分かります」
「名前を知らないと不便なので」
言い訳みたいだった。男はまた笑う。
「藤代です。藤代充」
そうして二人は名前を知った。ただそれだけだった。けれどそれから雨の日が少し楽しみになっていった。
雨が降る。
図書館へ行く。
窓際の席に座る。
しばらくすると藤代が来る。
他愛ない会話をする。
本の話。
授業の話。
好きな作家の話。
たったそれだけ。
なのに気付けば、篠崎は天気予報で雨の日を確認するようになっていた。
七月の終わり。梅雨が明けた。空は晴れたままになる。当然、藤代も来なくなった。連絡先は知らない。学部も知らない。名前しか知らない。それなのに図書館の向かい側の席が妙に広く感じた。
“……俺、こんなに寂しがり屋だったのか?”
篠崎は明るく眩しい窓の外を見つめた。
八月。夏休み。ある日、突然夕立が降った。図書館の窓を激しく叩く雨。
篠崎は顔を上げる。そして思わず笑ってしまった。向かいの席に、見慣れた黒い傘が置かれていたのだ。
「久しぶりです」
藤代が言う。
「そうですね」
「雨ですね」
「そうですね」
二人とも少し笑う。まるで約束でもしていたみたいだった。沈黙が落ちる。けれど居心地は悪くない。窓の外では雨が降り続いている。藤代は本を閉じて言った。
「実は」
「はい」
「雨の日だけ来てたの、理由があるんです」
篠崎は顔を上げた。藤代は少しだけ困ったように笑う。
「晴れの日に来ると、話しかけたくなってしまうので」
一瞬、意味が分からなかった。藤代は続ける。
「雨の日なら偶然っぽいでしょう」
雨音だけが響く。篠崎は数秒考えてそれから小さく息を吐いた。
「遠回しですね」
「自覚はあります」
「じゃあ今は?」
「今は夏ですから」
藤代が言う。
「雨の日以外でも会いたいです」
窓の外で雷が鳴った。けれど篠崎の耳には、自分の心臓の音の方が大きく聞こえていた。
たぶんこの夏が終わっても。雨の日は、少し特別なままだ。
雨は一時間ほどで止んだ。図書館の窓には、まだ水滴が残っていた。けれど空はもう明るかった。夕立の名残だ。
「雨、止みましたね」
藤代が言う。
「ですね」
篠崎は答える。会話はそれだけだった。なのに妙に落ち着かない。さっきの言葉がまだ頭の中に残っている。
——雨の日以外でも会いたいです。
告白、と呼ぶには曖昧だった。けれど好意は隠していない。少なくとも友人としてだけ言う言葉ではない。
篠崎は本に視線を落とした。一行も頭に入らない。向かい側を見ると、藤代は平然と本を読んでいた。その横顔を見ていると、少し腹が立ってくる。
「藤代さん」
「はい」
「よくそんな普通の顔してられますね」
ページをめくる手が止まる。
「普通ですか」
「普通です」
「内心は結構緊張してますよ」
「見えません」
「よく言われます」
淡々とした返事。けれど耳だけ少し赤い。あ。この人もちゃんと照れることがあるんだ。
篠崎は少しだけ安心した。どうやら自分だけが動揺しているわけではないらしい。
「返事は急がなくていいです」
藤代が言う。
「そもそも返事を求めるつもりで言ったわけじゃないので」
「じゃあ何で言ったんですか」
「言わないと後悔しそうだったので」
静かな声だった。図書館に馴染むくらい小さい。けれど不思議とよく聞こえた。
「篠崎さん」
「はい」
「あなたといる時間が好きです」
まただこの人は。平然とそういうことを言う。
篠崎は視線を逸らした。窓の外を見る。濡れたアスファルト。雨上がりの匂い。行き交う学生たち。そのどれもが、今は妙に遠かった。
「ずるいですよ」
思わず口から出た。
「何がですか」
「そういうこと言うの」
「すみません」
「謝るなら言わないでください」
「それは無理です」
即答だった。篠崎は思わず笑ってしまう。藤代も少し笑う。
しばらくして、藤代が鞄を閉じた。
「帰りますか」
「そうですね」
二人で図書館を出る。外は湿った空気だった。駅へ向かう道を並んで歩く。夏休みのキャンパスは静かだ。蝉の声だけが響いている。
「篠崎さん」
「はい」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「何ですか」
「私は脈なしですか」
あまりにも直球で、篠崎は立ち止まりそうになる。
「普通そんな聞き方します?」
「回りくどいの苦手なんです」
「十分回りくどかったでしょう」
「雨の日だけ来てた件ですか」
「それです」
藤代が少し笑う。その顔を見ていると、何だか調子が狂う。真面目そうに見えるのに、時々妙なことをする。
ずるいなあ。
「……分かりません」
しばらく考えてから答えた。
「好きとか、そういうの」
「はい」
「でも」
言葉が詰まる。こんなことを言うのは少し恥ずかしい。けれど藤代は待っていた。急かさずに。
「雨の日、ちょっと楽しみでした」
藤代が目を見開く。
「毎回」
篠崎は続ける。
「来るかなって思ってました」
数秒。本当に数秒だけ、藤代は何も言わなかった。そして珍しく分かりやすく嬉しそうな顔をした。初めて見る表情だった。
“……うわぁ”
いつもの落ち着いた笑顔ではない。隠しきれていない笑顔。それを見た瞬間に篠崎の胸が少しだけ苦しくなる。
ああ。たぶんもう。答えは出始めているのだ。
駅前の信号が青になる。二人は再び歩き出した。今度は肩が少し近かった。触れてはいなかった。けれど以前より確かに近い。
その距離を、どちらも離そうとはしなかった。
