§1
くっそ。全身が痛い。何もない小さな岩礁地帯。岩肌がトゲトゲと肌に刺さって横になることすらできない。
――ヒナタ、おまえは俺たち勇者パーティには不要だ。
ふっざけんな! だからって断崖絶壁から蹴落とすこたあねえだろ! イサム、A子、B子、C子、全員ぶっ殺す! つっても、いまの俺に何もすることはできない。足はなんとか動くみたいだが、30メートルはあろう絶壁を登るのは無理だ。寒いな。この世界は年中、穏やかな気候だと転生時に神から聞いていたが、目の前が海だからか。スーツのジャケットもスラックスも穴だらけで寒い。黒々とした大海に目をやると、白い帆船が見えた。
くそったれ! イサムたちの船だな。沈没してしまえ! 仕事を終えたあとの深夜の異世界転生アニメ、唯一の生きがいだった。戻りてえ。異世界なんてアニメだけで十分だったんだ。クソみたいな社畜の日々、クソみたいな東京の空気。それから、クソみたいなあいつらとのスカイツリー見学。俺は興味なかった。同期だからあいつらに付いて行っただけだ。そしたら、展望でピカッと光って神とご対面。神から与えられた補助魔法であいつらを守ってやれるとウキウキしてた自分を殴ってやりてえ。ま、いまさら遅いんだけどな。で、俺の人生27でオワコンなわけだが、どうすっぺ。
ジミヘンやコバーンみたいに27歳クラブに加盟できてバンザイ? ふざけんな。ルナはなにしてんのかな。もう新しい彼氏できたのかな。こんな状態でも元カノに未練タラタラな俺、逆にかっけえわ。マジでかっこよくね? どうしようもない状況で元カノに未練タラタラ男。クソかっけえよ。俺めっちゃイケてんな。やっぱ俺SUGEEEEEわ。やっぱすごかったわ。って、そんなわけねえよ。だったら、勇者パーティ追放にならねえんだよ。
ああ寒い。海風ってこんなに寒いのか。こりゃ今晩もたないかもしれないな。帆船が随分遠くに行っちまったな。いまごろイサムはABC子とハーレム決め込んでるってわけかい。
船が見えなくなってきたな。船が見えな……。いや、見えるな。すぐそこに。見えるじゃないか。いよいよ視界が狂ってきたってことかな。船が見えるよ。船が見える。しっかり見える。そう、しっかりな。しっかり見えてるぜ。「JAPAN COAST GUARD」ってな。見えてるぞ。うん、見えてる。いや待て。なんで? いやなんでだYO!
《そこの君、大丈夫かい?》
嘘だろ? 海上保安庁の巡視船? なんでだYO! でも少し小さいな。巡視艇か。でも、でも、でもなんでだYO!
《動けないのか? すまない。あまり近づくと座礁する。ゴムボートを流すからきたまえ》
いや、動けないやつに動かせるなよ! 俺は足を引きずりながら岩礁の先でゴムボートを待った。ずっと待った。ずっとな。……波に流されてるじゃねえかYO!
《すまない。船ごと乗り上げるから安全な場所にいてくれ》
ふざけんなって。俺は動きたくないの! しかも船が乗り上げたら終わりだろ! ああもう! 要はこれって走馬灯だろ? 生命活動の危機の際にぐるぐる脳が回転して最善手を探すってやつ。俺の最善手ってこれですか? わざと座礁させるのが最善手? どんだけ俺はアホなんだよ。おいおい。くるな、くるな。くるなって! 俺は急いで横の大きな岩礁によじ登った。巡視艇が躊躇せず寄ってくる。俺がこんなにアホだとは思わなかった。まあ、そんなもんだよな。みんな臨終に際して走馬灯を見てるんだ。最善手が打てたらみんな死んでねえよ。そう、みんな悪手を打っちまって死ぬんだ。俺は最悪手だけどな。
――ガガッ! ガガガガガガッッ!!
はい、おつかれー。座礁しましたー。俺は死亡でーす。とりあえず死亡確認してもらうか。走馬灯だから医者が都合よく乗ってる可能性はあるぞ。
「おーい! 俺の死亡確認してくれ!」と俺は斜め下に乗り上げた船に向かって叫んだ。
《悪いが僕は医者じゃない。物書き、いや秘匿大勇者だ》
は? 俺もう死んでるよな。いつまで走馬灯が続くんだよ。死後も耳が聞こえたりとか、その一種? 死亡アディショナルタイムみたいなやつ? なんかモノクロ写真が似合いそうなイケメンのオッサン出てきたな。なるほどな。しっかり喪服を着てらっしゃる。やっぱり俺は死んだか。ちょっと安心したぜ。死んで安心とかおかしいけどな。ん? おい、オッサン。なんで下りてこいって手を動かしてんだよ。俺はもう動けないし、動きたくないの!
「不愉快だな。なぜ僕が君に見下ろされなくてはいけないんだ?」
うん、ちょっと変な人でもおかしくないよな。アディショナルタイムなんだから。俺は、あんたこそ上がってこいと言ってやった。こっちは仏様だっつーの。
「下りたまえ。絶対は僕だ」
どっかで聞いたようなアニメのセリフだな。まあ、俺の頭の中だから、狂ったキャラがいてもおかしくないよな。俺は黙って喪服のオッサンを見下ろし続けた。
「不愉快極まりないな。君! 下ろしてやるから待ちたまえ」
それより、いつ試合終了になるんだよ。オッサンはスマートフォン使ってるし。しかも電話してるじゃん。俺、試合中に悪質な遅延行為でもした? してないよな。どういうことだよ。あれ? なんか岩礁が傾いて……るッッ! いってえ。なんでこんな目に合わなきゃなんねえんだよ! どうした俺。なんか岩礁きれいに横に切れてるし。最悪だ! 俺はアホすぎる!
「まったく君は不愉快だし、つまらない男だな。礼も言えないのかい?」
「俺はね、もう死んでるの! で、仏様なの! あんたより偉いの!」
オッサンは溜め息をついて黒いネクタイをゆるめた。
「死んでないよ。死人が喋るわけないだろ? 君は生きてる」
「でも……」
オッサンは俺の言葉を遮った。
「救助ヘリがもうすぐ来る。安静にしていたまえ。あと……」
意味わっかんねえな! なんだよ!
「スーツは悪くない。その緑のタイピンは不愉快だな。海に捨てたまえ」
俺の頭は沸騰した。このタイピンだけは、これだけは絶対に貶されたくない。元カノからのプレゼントで未練がましくても、これだけは絶対に! このジジイ、ぜってえ許さねえ! ヘリのプロペラ音が近づいていた。俺にはそんなことどうでもよかった。こいつをつぶす! 俺はジャケットを脱ぎこぶしを構えた。
§2
オッサンは俺の怒りの鉄拳を軽々とかわした。俺は残る魔力を使ってシールドを展開し、オッサンに体当たりした。なぜかオッサンの前にガラスが出てきて俺はそれに突っ込んでしまった。頭が切れたのか出血がひどい。情けねえ。俺はルナからもらったタイピンを握りしめて慟哭した。
「まがい物のヒスイかい? さては女から贈られた物だな?」
ちげえ! こいつはまがい物でもヒスイでもない。
「ジジイ! これはアレキサンドライトだ! そうだよ、好きな人からもらったんだ。俺の誕生石なんだよ!」
オッサンは黙って跪き、俺に目線を合わせた。
「悪かった。僕の名はケンサク。この世界を統べる神が僕を呼んだ」
なんて仏頂面だよ、このオッサン。挨拶のときくらい笑えよ。
「おい、その仏頂面なんとかならねえか? 気分がわりいよ」
「ん? 普通だが? 男はめったに笑わないものだ」
あっそ。言ってろよ。っておい! タイピンに触るな!
「こいつは本物だな。大事にするといい」
フン、やっとわかったか。その後、俺は軍事用の攻撃ヘリに救助された。どうやら俺は生きているらしい。くそったれ。イサムどもをぶちのめしてやりてえ! ケンサクは操縦桿を握っていたが、自動操縦にしているようだった。俺は副操縦席から声をかけた。
「なんで俺を助けたんだ?」
「さっき言っただろ? 君のことは、たまたま発見したんだ」
そうかい。俺はたまたま生かされたってことかい。気に食わねえな。くっそ!
「なんか不満でもあるのかネ?」
ったりめえだ。
「俺を捨てたイサムたちをぶっ殺してえ」
「かまわない。どこにいる? このままヘリで行くぞ」
正気か? 俺も勇者の一人だがあいつは俺らの筆頭だ。聖剣を持ってるうえに、火、水、雷、土の全属性魔法が使える。勝てる相手じゃねえ。
「この世界のことは神から聞いている。魔族勝勢で人間は王都しか残されていないんだろ?」
詳しいな。神から聞いたのか。ってことは、イサムが自堕落こいて人類滅亡の危機にあるってことも知ってるのか。こいつ何者だ?
「なあ、あんた。秘匿大勇者とか言ってたよな? それってなんだ?」
ケンサクはしばらく黙っていたが口を開いた。
「ふだんは勇者村という場所にいる。不定期に復活する竜王を倒す。あとは君たちの神が救援要請したように、危機が迫っている世界に派遣される」
一応、こいつの世界にも魔王みたいなやつがいて、暇なときは派遣で小金稼ぎか。たいそうな身分だな。
「で、イサムという男はどうする? 神は世界を救ってくれと言っただけで勇者については言及しなかった。別に殺してもかまわないが、どうするね?」
「殺してえよ、殺してえ。でも……」
一瞬、あいつらと楽しく過ごしていた新人時代の記憶が脳裏をかすめた。だが、いまの俺は阿修羅と化している。怒りで震えるこぶしが止まらねえ。
「イサムという男が自堕落なつまらぬ男だということは知っている。おそらく王都で魔族を迎撃する気だろう。どうだネ? 魔族もイサムも一掃できるぞ」
神から事前情報を得てるんだろ? こいつ自分がなに言ってんのかわかってんのか? 魔族は50年前にオーガが他の種族を虐殺した。つまり魔族すなわちオーガだ。見た目は青鬼みたいなもんだ。だが、知性は人間より上、肉体はでかいし頑丈だ。だから俺たちは敗北寸前なんだよ! それもこれもイサムがクソ野郎なせいだ! まあ、イサムがオーガの王、「王(オウ)我(ガ)」と戦っているうちにちょいとやっちまうって手もあるよな。
「じゃあ、そうしよう」
「は?」
「オーガの軍勢や『王我』と戦ってるイサムを殺すんだろ?」
笑えるぜ。こいつ超能力者かよ。しっかし、やたら自信満々というか何一つ臆してねえな。考えてみりゃ、スマホは使える、岩礁は切れる、ヘリも使える。こりゃ楽勝かもしれねえ。
「そーいや、あんたいくつなんだ?」
「そう、ずっとそれが不快だったんだ。僕は38歳だ。君は30歳だと聞いている。言葉遣いに気を付けたまえ」
「はいはい。了解っすよ、ケンサクさん」
ヘリのフロントガラスから燃えさかる王都が見えた。あのバカ、なにやってんだ! 頭がおかしくなるぜ。おっと、ケンサクがスマホを耳に当てたぞ。
「ノブさん、国王は無事かい? そうか。うん、わかった。いまのうちに人工衛星? あれの準備を頼むよ。くれぐれも父上を怒らせないようにネ」
こいついい歳こいて父親の顔色うかがって生きてんのか。情けねえな。
「ノブさんってのは?」
「ノブユキ。僕の兄だ」
「父上ってのは?」
「僕の父だ。僕の前世の仕事をよく思ってない」
こいつも転生者ってことか。父上ってのが気になるが、まあいい。どうせボンボンだろ。ああ、重要なことを聞くのを忘れてた。
「なんでスマホ使えるんだ?」
「秘匿大勇者だからな」とケンサクは淡々と答えた。
あっそ。要はなんでも許されてるってことか。俺もスマホがあって元の世界と通じればルナと話してえなあ。……いや、もう忘れよう。俺にはこの緑のタイピンだけで十分だ。タイピンに加工するのにとんでもねえ金がかかったろうなあ。愛を感じるぜ。うん、いまはルナのことは忘れよう。
「国王と家族らは離宮に避難したそうだ。オーガの軍勢の本隊はまだ来てない。空対地ミサイルでも撃っとくか」
まったく容赦ねえやつだな。こいつ頭のネジ2、3本吹っ飛んでやがる。住民を巻き込んだらどうすんだよ。
「王都の住民は軍がなんとかしてるだろ。心配には及ばない」
マジで超能力者か? それよりどうすっかなあ。イサムども、くそったれ! やっぱり許せねえ! 突然、バシュッと音がした。その後、同様の音が3回した。ケンサクはガシガシと頭を掻いていた。
「ロケット弾っぽいが、わからないな。こんなの僕の前世にはなかったからな。対戦車ミサイルはどうしたらいいんだ。ノブさんに訊いておくべきだった」
お! さっきのロケット弾らしきものがオーガの前衛部隊に被弾してるぞ。すげえな。巨体がバッサバッサ倒れてる。ケンサクはヘリのことがわからず、不時着するという。どうかしてやがる。着地の際に俺がシールドを張れば問題ないという。信じられねえが、仕方ない。頼むぞとケンサクが仏頂面で言った。俺も仏頂面で了としたことをアピールした。っておいおい。高度を下げるとかじゃなくて墜落する気かよ! マジこいつなんなんだ。俺はヘリ全体にシールドをかけた。…………フツーにヘリは着地した。俺のおかげだぞ! ケンサクは前方だけ見ていて俺の睨みに気付かなかった。王都は陥落していた。陥落の厳密な定義は知らねえ。町は焼け、往来には誰ひとりとして人間がいなかった。パチパチという炎の音と瓦礫が崩れる音だけが聞こえる。俺は内心、人類の滅亡は免れないと思った。
§3
中央広場でやつらを見つけた。ABC子は重傷で虫の息だった。イサムは無傷だったが、魔力と体力を使い果たしたのか座り込んで虚空を見つめていた。刃こぼれした聖剣、傷と煤まみれの黄金の兜、鎧、盾、脛当て、すべてが滑稽に見える。無様だな。これがいわゆる「ざまぁ」ってやつかもしれねえな。俺はイサムに揚々と声をかけた。
「あら、イサムちゃん。どうしたんでちゅかー? もうやられちゃったんでちゅかー?」
最高に気分がいいぜ。あとはこいつが命乞いしてきたところを殺す。
「ヒナタ、マジでごめん! 俺が間違ってた! 全部俺のせいだ!」
俺はイサムの左頬を殴った。ちきしょう、殴ったほうもいてえのかよ。もう一発殴ろうとしたところでケンサクが俺の腕を掴んで顔を横に振った。変人オッサンのくせにここでやめろってか。
「ごめんヒナタ。ごめん……」
「何がごめんなんだよ!」
俺はいまにもこいつを殺したいと血潮が湧いていた。
「……崖から落とした。落としました」
「ほかには? おい! ほかには?」
俺はいつのまにかイサムの足を踏みにじっていた。
「ヒナタ、もうよしたまえ。見ていて不愉快だ。止めはしない。つまらん男だ。殺すがいいさ」
ケンサクは俺の肩をポンと叩くとオーガ軍の本隊が来ると予測されるほうへ先に行くと言って去って行った。あとは好きにしていいってことかい。話がわかるじゃねえか、ケンサク。さあて、どうやってボコってやろうかな。
「ごめん」
うるせーな。
「ごめん。ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん……」
頭イカれてんじゃねえよ! 萎えるだろうが! イサムの顔を見ると呼吸はしていたが、目は光が失われ闇を見ているようだった。俺は廃人になった元勇者をただ見ていた。たしかに、つまらん男だ。このていどかよ。興ざめだぜ。さすがの俺もこんなゴミを殺す気にはならない。勝手にこいつら死んでろよ。俺はさっきケンサクが向かったほうへ駆けだした。イサムがゴミとはいえ、勇者パーティがフルボッコだ。いったいオーガはどれだけ強いんだよ。全速力で走っているうち、喪服の男を見つけた。ケンサクは北の城門前に立っていた。
「おい、ここに来るのか?」
「うん。間違いない。そのまえに灰塵となるだろうがネ」
オーガの大地を揺るがすような遠吠えが聞こえる。まだ距離がありそうだ。
「ノブさん、『ロンギヌスの槍』を100発、いや1000発撃ってくれ」
笑わせんな。「ロンギヌスの槍」? アニメの見すぎじゃねえか? 俺が言える立場じゃねえけど。
「白夜をして此れ降下す。我、天帝の命にて来たり属せしむ……」
おいおい何言っちゃってんの。いまのオーガは全属性の魔法耐性がある。「王我」にいたっては冥府の扉を開いて闇属性の魔法を使うと聞いている。そんなの勝てるわけねえ。この金持ちオッサンには社会の厳しさってのがわかってねえのよ。俺たちは詰んでんの!
「……急急如律令!!」
詠唱魔法? だっせーな、ケンサク。神から聞いてねえのか? この世界は4属性のシンプルな魔法しかないわけ。「王我」の闇属性てのは気になるが。
「ヒナタ、空を見ているといい。星が綺麗だぞ」
は? めっちゃ晴れてるぜ? ん? んんん? え! お星さま綺麗!! なわけあるかい! 超天才の俺が導き出した結論は軌道兵器。条約で禁止になってるはずだが、異世界では関係ねえってことか? コロニー落としとかじゃなくてよかったぜ。一応、この世界を救う気はあるようだな、秘匿大勇者さん!
「ヒナタ、目がつぶれるぞ。言ってる意味わかるかい?」
「わかってる。俺は後ろを向いとくぞ」
目を閉じていても明るい光源が感じられた。この世を滅却する爆音が聞こえた。王都の街路樹が激しく揺れた。おっとと。危うく強風で転ぶとこだったぜ。
「ノブさん、成功だ。あれはなんだっけ。どろろで様子を見てきてくれないかい?」
どろろ? 漫画ですか? ドローンだろうよ! 城壁が崩れていないってことは、かなり遠い位置での爆発か。マジで世界ごと吹っ飛ばす気かと思っちまったぜ。
「うん。僕は無事だ。ん? 1体だけ生きてる? そいつを追いつつ早めに『ダーインスレイヴ』を。念のため航空支援も続けてほしい。父上にも早急に連絡を。悪いね、ノブさん」
ケンサクは焦っているように見えた。想定外だったのだろう。俺も想定外だ。まさか生きてるなんてな。「王我」はバケモノかよ。実際、そうなんだけどな。さっきから城壁がガンガン音を立てて揺れてる気がするが、まさかな。俺が両手を頭にまわして口笛吹いている間に、青くてデカい物体が横を風のように通り過ぎた。やっべえぞ。やべえ! 城壁をぶっ壊してきやがった。濃紺の肉体に2本の角。体長は4メートル、いや5メートルか? とにかくでけえ青鬼だ! 闇属性魔法は誰も見たことがない。使われると厄介だ。俺はケンサクも覆う最大級のシールドを張った。なんて禍々しい面構えしてやがるんだ。こいつモテねえだろ。いや、そんなこたあどうでもいい!
「ヒナタ、あいつが『王我』なのかい?」
「たぶんな。いや、間違いねえ」
――人間、これは俺が魔族の王と知っての狼藉か?
ケンサクは返事もせずスマホをいじっていた。あんた、いつの時代に死んだの? だよな、そりゃ怒るぜ。俺もキレてるからな、こいつに。 無視はよくないぜ、オッサン。「王我」が片足を引いて低い姿勢をとった。おいおい、くるぞ! 俺の魔法じゃ絶対に防げねえ。マジでやべえぞ!
「おーい! 『王我』君! 君は、花は知ってるか?」
バッカヤロウ! 余計に怒らすだけだろ! 俺らより頭いいんだぜ? この世界のすべての花の名称、学名まで答えちまうだろうよ。ん? オイ! 町を空爆するな! 住民が避難しているとはいえやりすぎだろ!
「知らないか! 花! 大勢でやると楽しいぞ!」
そっち? フラワーじゃなくて花札かい。はい、詰みましたー。花だけにねー。詰む・摘む、俺やっぱSUGEEEEEわ!
「残念だ。もう君は知ることすらできない」
ケンサクは叫ぶのをやめて普通の調子で言った。空爆は止んでいた。「王我」の巨体には何本もの線が入っていて、ところごころから蒸気を発していた。
「あれで人類より頭脳明晰とはね。不愉快だな」
ケンサクはいっさいの動きを止めた「王我」に向かって歩きだした。よくわかんねえけど、岩礁を切ったものを使ったのか? 俺にはチンプンカンプンだった。それより土煙がすげえな。ケンサクも「王我」の姿も見えなくなってきたぜ。
§4
凄まじい土煙が消えるまで随分と時間がかかった。俺はその間に「王我」を含め、オーガ軍が全滅したことを直感していた。それは現実となった。だが、城壁外に広がる夥しい数のオーガの死体には吐き気を覚えた。魔族とはいえ、オーガは俺たち人間に近い種族だ。ケンサクが顔を突き出して目を見開いた。おい、嘘だろ? 「王我」は首から下を失ってなお生きていた。ニタニタとこっちを見て笑ってやがる。笑いたいのはこっちだぜ。からかってやろうと考えをめぐらしているうち、タイピンがないことに気付いた。嘘だろ? どこに落とした? まっじかよ! まじで?
――小僧、おまえが探しているのはこれか?
「王我」はタイピンを乗せた真っ赤な舌を揺らした。ふっざけんな!
「ヒナタ、『王我』のハッタリかもしれない。用心したほうがいい」
そうだな。仮に本物だとしてもあいつが絶命したあと取り出せばいい。きたねえけどな。ん?なんだこの腐臭は。ちっきしょう! あの「王我」、瘴気を出してやがる。ただでは死なないってことか! ざけやがって! 俺は「王我」めがけて走った。くっせえ唾液まみれのタイピンを取ると、「王我」に侮蔑の目線を送ってやった。よかった。よかっ……た。取り、戻せ、た。体の力が抜けていく。くそったれ、「王我」!
「ヒナタ……。なぜシールドとかいう魔法を使わなかった?」
は? そんなこと考えてるヒマなかったんだよ! こいつはそんなこともわかんねえのか。オッサンのくせによ。
「必死、だった、んだよ!」
「そうか」
ケンサクは転がっている俺を仰向けにすると、腰を下ろし暗くてジメッとした視線を向けた。まだ死んでねえよ。でも、今回はマジで死ぬ。俺はアホだからな。意識がしっかりあるうちに最善手を打たねえと。俺はケンサクにタイピンを差し出した。
「不愉快だな。『王我』の唾液タイピンなどいらない。君が冥土に持って行きたまえ」
ふざけた野郎だ。とにかく受け取れケンサク。俺も元カノなんかにこだわってるのは意味不明だが、これがいまの俺のすべてだ。生きた証だ。受け取れ、クソジジイ! 俺は力の抜けた腕を地面に下ろしタイピンを手放した。
「……冥土に持って行きたまえ。君の大切なものだろ?」
いいんだ。これが俺の最善手。こいつに託すことが最善手。ケンサクは黙って頷くとタイピンを手に取って朱色の空にかざした。そうだ、それでいい。
「見たまえ。緑から赤に色が変わったぞ。正真正銘のアレキサンドライトだ。本当にいいのかい?」
俺はコクリと首を下げた。こいつ、実はいいやつなんだな。いまのは周囲の炎で赤く見えただけだ。わからねえとでも思ったか。そっか、本当にまがい物だったんだな。フツーに考えてそうか。ルナが途方もない金を払えるわけねえんだよ。ま、いいぜ。俺は最善手を打った。ケンサクはタイピンを着けると俺の手を強く握った。なにしやがる。感覚ないのにいてえよ。つーか、喪服に緑のタイピンは笑えるぜ。こりゃいい冥土の土産だ。あーあ、死にたくねえな。死にたくねえ。本当は死にたくねえ! っておい。だからそんなに強く……。ん? この掌のぬくもりはなんだ? そうか、そりゃ気の毒だな。
「そう、僕も遠くない将来に死ぬ。そういう運命だ。だから死を恐れるな」
そんな仏頂面で言われてもなあ。俺は腹と喉に力を込めた。
「ケンサク! 男が笑ってもいいんだよ! 俺はこれから死ぬんだ! 笑顔で見送ってくれ!」
ケンサクは俺の手を握り続けていた。こいつに握られている手だけ感触が、温かみを感じる。なんでだ? わけわかんねえけど、俺を泣かせないでくれ。笑って死にたい。
「僕はずっとここにいる。安心したまえ」
ケンサクは優しい目をして微笑んだ。やればできるじゃねえかよ! なかなか眩しいぜ。てめえが次にどの世界に行き、誰と会うのか俺は知らねえ。でも、絶対にその笑顔を忘れんなよ、ケンサク。いいやつなんだから損するぜ。俺は走馬灯をなかば心待ちにしながら空をずっと見上げ続けた。
§5
この村に普通の人間はいない。村民は転生前に何らかの偉業を成し遂げた人たちだ。たとえば、隣人のコウメイさん。おそらく、蜀の軍師だった人だろう。彼の真向かいにはユリウスさんが住んでいる。たぶん古代ローマの政治家だろう。
私は何の偉業も成さず38歳で過労死した元会社員だ。5年間、不眠不休で働いたことが評価されたのだろうか。いまは文字通り晴耕雨読の生活で気楽に暮らしている。
村民の多くは転生してから竜王討伐を果たした勇者ばかり。でも、おっかない人はおらず、優しい人たちばかりだ。こうして布団に転がって本が読めるのも彼らが竜王を倒した平和の上に成り立っている。幸福感を抱きしめながら読書していたら家のドアを叩く音がした。
私は、どうぞと声を張り上げた。名は知らないが大柄な男が入室してきた。
「おまえ、カナタだな。村長が呼んでいる。いますぐこい」
私は部屋着のまま村長のもとへ行った。村長はスーツ姿で身綺麗にしていたが、禿げ頭だった。頭の角度を変えるたび光の反射が変わるので私は口元が緩むのを抑えるのに必死だった。
「カナタ、いますぐ竜王討伐に向かえ」
ん? 聞き間違えかな。私は黙っていた。
「知ってのとおり、この村は類を見ない高齢化が進んでいる。何の才も持たぬおまえを行かせるのは心苦しいが理解してくれ。この村で最年少はおまえなんだ」
最悪だ。他に強い人いるだろ! 言葉を発する代わりに舌打ちしてしまった。と同時に背後に誰かいるのがわかった。
「仕方ありませんね。ところで私の後ろにいる御仁は?」
村長は首をもたげて頭を光らせると、
「ケンサク、出てこい」
と言った。
私の横に黒服の男が並んだ。ちらと目をやると黒髪短髪、黒いネクタイに礼服。横顔は凛としていて男前だと思われる。しかし何で礼服、いや喪服なんだよ! タイピンが緑なのもおかしい!
「カナタ、おまえを勇者総代に任ずる。秘匿大勇者のケンサクとともに竜王を討伐せよ」
「はあ……。しかし、秘匿大勇者なら一人で十分なのでは?」
村長は髪のない頭を掻いた。
「おまえが同行する理由はそのうちわかる。竜王が何度も復活することは知ってるな? 今回現れた竜王は最恐で最強のようなのだ。とにかく頼む!」
若干ふざけた言い回しが気に食わなかったが私は了承してケンサクとともに村長の家を辞去した。村人の喝采を浴びながら村門をくぐった。数歩先を歩いていたケンサクが振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
こいつ何様だよ! 強情そうだったので帰宅して髭を剃り、喪服に着替えてすぐ戻った。
「随分いいじゃないか。じゃあ、行こうか」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。なんだよ、性格悪いキャラじゃないんかい!
§6
ケンサクは道々、転生して日が浅い私に世界の説明をしてくれた。町は王都を含めて4つ。ダンジョンはない。王都はスルーして竜王城に行くのが最短コースで歴代勇者もそうしてきたらしい。 竜王討伐じたいは楽勝らしいが、神出鬼没の竜宮城に行ってしまうと厄介なことになるようだ。
「ありがとう。ところでケンサクは何歳なの?」
「38歳だよ。僕ら勇者は不老なのにオッサンなのが不愉快だ」
おいおいおい。もろもろ最年少だから抜擢されたんだろ。見た目は変わらなくても体力や精神力は衰える。ムサシとコジローの決闘はいまなお毎日行われているが、老人の戯れにしか見えなかった。
ケンサクは石ころを蹴ってふて腐れていた。子供っぽいやつだが、同年齢なのは嬉しい。こいつは秘匿大勇者だし、私は従者みたいなものだろう。しかし、秘匿大勇者なんて伝説だと思っていた。世界を1億回破壊できる力を持つと聞いている。それ以外の情報は秘匿されている。マジでケンサクだけで十分だろ。私の存在意義なくね? ムカついたので舌打ちした。ん? もしかして後ろの雑木林に何かいるのか? 私は首をかしげた。
「カナタ、君の前世は盲目だったのかい?」
ケンサクが不可解だという目線を私に向ける。
「いや。なんで? 違うけど」
「君が使ったのは反響定位だよ。後ろのゴブリンに気づいたろ?」
舌打ちは癖だと弁明した。過労でイライラして舌打ちばかりしていたのだろう。3年目くらいから周囲を見なくても物事が把握できた。あれは反響定位だったのか! なるほどと合点し、舌打ちじゃなくても可能ではと閃いてバチンと指を鳴らした。 フィンガースナップでも大丈夫みたいだ。
「体長1メートルくらいのが、30。いや、50体はいるな。棍棒を持ってる」
「わかった。僕は詠唱に入る。攻撃合図は総代の君に任せる。いわばパーティリーダーだからね」
詠唱? この世界に魔法はないぞ! っておい! なんでスマートフォンなんか持ってんだよ!
「やあ、ノブさん。久しぶりだね」
フツーに電話するんかーい! オイオイオイッ! 雑木林からめっちゃ走ってくるぞ!
「うん。うん。それで頼むよ。……急急如律令!!」
最後だけ呪文みたいなこと言ってごまかしたな。「秘匿」ってスマホのことかよ。前世と連絡がとれる秘匿回線の「秘匿」? 異世界アニメのテンプレのようなゴブリンらが長い舌から涎を垂らして駆けてくる。終わりだ。せめて苦しませずに殺してくれ……。私は目を閉じた。
「カナタ、そろそろ近づいてきたかい?」
「すぐそこだよ! もう終わりだ!」
頭を抱えてしゃがんだとたんにゴブリンの足音が消えた。私は恐る恐る顔を上げた。ゴブリンらが痙攣しながら倒れている。
「ケンサク! 何したんだよ!」
私は恐怖と安堵と怒りが胸中で混在して彼に詰め寄った。
「あー、ノブさん? 助かったよ。父上にもよろしく。じゃ」
人の話聞いてねえなこいつ。私は溜め息をついた。
「いまのはノブユキ、僕の兄の仕業さ。鋼鉄の矢を1万本ほど所望したんだが、毒でも使ったのかな。僕にもわからない」
え? そんなのアリ?
「どうせ知れることだから、いまのうちに君に伝えておこう」
ケンサクによると彼の能力は前世に存在していた森羅万象に干渉し、召喚・使役できるものだという。父は大財界人で不仲だったが和解。まだ気まずくて兄を通じて連絡をとっているそうだ。
「前世の森羅万象? イージス艦も召喚できるの?」
「僕の時代にはなかったがね。召喚可能だよ。しかし不快だな。早くここを去ろう」
ケンサクはスマホを耳に当てた。しばらくすると陸上自衛隊の高機動車が顕現した。彼はハンドルを握ると私に乗るよう手招きした。窓に頬杖をつきながら私は思った。最初からこれに乗れよ!
§7
ひたすら退屈な湿原を抜けて2日が経過した。ようやく町が見えてきた。ケンサクは「不愉快」とか「不快」などとネガティブな言葉を連発していた。
「いったい何がそんなに不快なの?」
ケンサクはキッと鋭く私を睨んだ。
「わからないかい? さっきから寒いんだ」
たしかに寒い。町への距離が縮まるたび寒くなっている気がする。
「君の懐は寒くないかネ?」
失礼なやつだ。とくべつ困っていない。
「ケンサク、なんか街並みがおかしくないか?」
門の正面からでも町が凍っているのがわかった。この先に続くツルツルの道を高機動車が滑らないという保障はない。
「おもしろくないな」
意外にも車両は滑らなかった。ケンサクは不満そうに口を尖らせていた。街並みはゲームやアニメでよく見る中世ヨーロッパ風。往来に人はいない。ケンサクは車を停車させて言った。
「町が静かだ。反響定位で何かわからないかい?」
私は目を閉じ、何度か舌打ちした。遠くて正確なことはわからないが、町はずれの湖が波打っている。ケンサクにそのことを伝えると、地図を持って一人で湖に向かうと言う。
「ノブさんに三ツ星ホテルを用意させるから、君は休んでいたまえ」
文句を言っても仕方ないからスイートルームでくつろいだ。コラコラ! 私は何をやっているんだ。起立してフロントに架電した。
『はい、フロントでございます』
「町の人たちは無事ですか?」
『おそらく凍ってらっしゃるかと……』
私は礼を言って受話器を置いた。あれっ? どうも体が臭う。入浴して身を清めた。バスローブに身を包みベッドに腰かけていると爆発音がした。ホテルも揺れている。私は喪服を着て湖へ急いだ。巨大なウナギが砕けた氷に挟まって身動きできなくなっていた。湖を凍らせたのか。
「ケンサク! なんだこのデカいウナギは!?」
「ゆっくりしてればいいのに。さっき氷竜と名乗ってたな」
「じゃあ、こいつが竜王なのか?」
ケンサクはかぶりを振って竜王はこんなにザコじゃないと氷竜を挑発するような仕草をした。
――おのれ人間! 許さん!
おいおい、怒らしてるじゃないか。なんとなく凍てつくブレスを吐いてくる気がする。ケンサクにブレスに注意するよう訴えた。
「たしかにブレスは危険だ。君もくれぐれも注意したまえ」
は? 注意に注意で返してきたか。私は腕組みしてプンスカしていた。
「ノブさん、座標どおりに」
ケンサクが湖に背を向けて走ってきた。
「急げ! 逃げるぞ!」
そう言うとケンサクは私の手をギュッと握った。えっ? まさかそういう展開?
オッサンでもこういうのアリなのね!
「ケンサクぅ! ちょっ! まっ……」
――ぐああああ。人間め! ぐあああああッ!!
湖は炎の海になっていた。私はモジモジしながらケンサクを見た。
「航空支援を要請しただけなんだけどな」
彼は頭を掻いた。氷竜の断末魔とともに町の氷が溶けていく。
「町民が氷解して出てこないうちに立ち去ろう。話しかけられては面倒だ」
高機動車で町を後にした。……人とのふれあい皆無!
「次は山登りだが、今日は厳しそうだな」
ハンドルのうえに顎を乗せたケンサクが退屈そうに言った。私は彼に停車を求め、指を鳴らした。草花が揺れてるだけで問題なさそうだった。また三ツ星ホテルが現われた。平原に豪華絢爛なホテルがぽつり。私は溜め息をついた。
「カナタ、不愉快なら不愉快だと言ってくれよ?」
「不愉快じゃないよ。おもしろくない」
ケンサクは肩を大きく揺らして笑い出した。変なこと言ったかな?
「僕もおもしろくない」
ケンサクは私の顎に触れ、持ち上げた。ま、まさかの顎クイ!? オッサン同士でもアリかもしれない。私は生唾を飲み込んでケンサクの目を見つめた。彼は私を見つめ返すと、
「君は髭が伸びるのが早いようだ。早く剃りたまえ。不愉快だ」
と言い残してホテルへ入っていった。私は地面に尻をついて呼吸を整えていた。あぶねえ! 新たな扉が開くところだった。遠くに見える湖はまだ燃えていた。
§8
ケンサクは前世の記憶から登山が苦手らしく登山口でひねくれていた。たまりかねて私は激励した。
「この山を越えれば次の町だろ? 頑張ろうぜ」
「山道も見えない霧の中を君は行けというのか!」
ケンサクが警戒するのもわかる。さっきまで晴れていたのに登山口に立った瞬間から霧が出て数歩先しか見えない。こういう現象はよくある気もするが、私は低級登山で遭難したことがあるので明日でもいいと思った。
「ケンサク、明日にしよう」
「それがいい。ここにはメデューサ狼がいるからネ」
は? メデューサ狼とは何ぞ? 登山口から平地へ下る道中でずっとそれについて考えていた。
「気になるかネ?」
察しのいいやつだ。
「メデューサと狼が合体してるんだ」
そのまんまかい! ネーミングセンスも悪いし。
「やつの気配を感じて君に怒鳴ったというわけだ。すまない」
ウソつけ! 濃霧の山が恐かっただけだろ。素直じゃないなあ。私も恐かったので二人して山からだいぶ離れた平地まで来てしまった。
――ワン! ワンワン!
「メデューサ狼が鳴いているようだな。危なかったよ」
ウソも大概にしろよ、このオッサン! 野犬かなんかだろ。ケンサクは仕方ないと溜め息をつくと、
「術式展開、4、5、6番を解放」
とほざきはじめた。さすがに私も慣れた。どんなことが起ころうと驚きはしないだろう。氷竜を倒す際にBLルートへ入りかけたときは焦ったが。ケンサクはスマホを耳に当てた。
なにが術式展開だ。ここは魔法とか妖術とかない剣と竜のピュアなファンタジー世界なんだよ! ……たぶんね。
「ノブさん、発射管の用意ができたら随意発射してくれ」
発射管? 魚雷でも撃つのか? ケンサクはしゃがんで何やらブツブツ言いだした。
「呪道の44 ゼログラビティ!」
何を言ってんだこの人。 えッ! 山がなくね? 山がなくなってる!! ケンサクを見ると彼もあんぐりと口を開けていた。
「失敬。どうやら西暦でいうところの1万4千年ぐらいの兵器らしい」
この人、一般的な異世界ファンタジーの魔王ですよ、魔王! パワーバランス滅茶苦茶じゃん。竜王が心配になるわ!
「ゼログラビティってことは宇宙空間にすっ飛ばしたってこと?」
「すまない。僕にはさっぱりだ。それより先を急ごう」
そう言うとケンサクは歩きだした。いや、その、自動車に乗らないの? ケンサクが生きていた時代は徒歩が当たり前だったのだろうか。私たちは7時間かけて町に到着した。ケンサクは肩で息をしていた。自業自得だ。
「こんなことなら車夫を呼べばよかったな」
おせーよ。人力車のことだろうか。町の門番に挨拶すると突風が私たちを門壁に吹き飛ばした。私は近くに倒れていた門番に声をかけた。
「これは怪物の仕業ですか?」
「し、漆黒竜……の」
門番は息を引き取ったかに見えたが、脈はあったので安心した。
「カナタ、空を見たまえ。トカゲが空を飛んでるぞ」
これまた中世ヨーロッパ風の家々の上空をトカゲが、正確には翼の生えた黒いトカゲが悠々と舞っていた。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。もうこの人、魔王じゃん!
§9
凄まじい暴風が吹き荒れていた。美しく整列している街路樹は切れたトカゲの尾のように激しく揺れている。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。
「なにがそんなに楽しいのサ?」
「楽しいよ。前世の『存在しない記憶』に爬虫類を殺して愉悦に浸る僕がいる」
え。怖いんですけど、いろいろ。ケンサクはスマホを耳に当て、続けた。
「僕ら勇者が縄張りに侵入したことで怒ってるな」
「じゃあ、総代の僕が交渉してくるよ」
私は、危険だと忠告するケンサクを振り切って漆黒竜の真下へ駆けて行った。ケンサクばかりに頼ってはいられない。オッサンとはいえ私は勇者村の総代! 話し合いで平和裏に終わらせて見せる!
――人間よ、小さき者よ、我がパーソナルスペースを侵害したな?
はい? なんだか言葉に重みがないな。
「甘美なる懺悔、遮光の雷、万事聖戦、天上で伏す……」
ケンサクやめてくれ! まだ交渉すら始まってない!
「……急急如律令!!」
風がピタリと止んだ。木々の揺れが徐々に収まり往来の紙屑がカサッと転がった。私はケンサクに詰め寄った。
「平和的解決の余地はあっただろ! 総代の意見が聞けないのか!」
ケンサクの目には冷たい光が宿っていた。
「総代? 悪いが僕は秘匿大勇者なんだ。単独行動を許可されている」
不愉快だと告げるとケンサクは空を見上げた。
「ゼログラビティではないよ。飛び回るトカゲに撃っていては町を巻き込みかねないからね」
私は黙っていた。ケンサクは軽トラを顕現させて乗り込んだ。ツッコミを入れる気にもならず、私は助手席を避け荷台に乗った。町を出てしばらく走ると草原に漆黒竜が血を流して横たわっていた。翼と尾、四肢が見事に切断され、両目が潰れていた。
――人間よ、小さき者よ、
ケンサクが車外に出て遮った。
「だまれ! 貴様に日本人の悲しみがわかるか? あれは西暦4713年9月の台風11号……」
私はツッコミ衝動を抑えて黙していた。
「富士山頂に建立されたセイントタワーを粉微塵にしたんだ!」
なかなか興味深い。だが、前世の未来に私はいないのだからどうしようもない。その台風11号を漆黒竜にぶつけたのか。
「そこで朽ち果てろ、トカゲ!」
ケンサクはトカゲに恨みでもあるのか、何度も雑言を吐いて運転席に戻った。
――tjrておhgbん;あklがこおあkg:45t0うくぁ:亜fヴぁ:」gk;
漆黒竜はおぞましい呪言を発して私たちを嘲笑った。不愉快だと言わんばかりにケンサクはスピードを上げた。オッサンがいつまでも仲違いしているのはみっともない。次は最後の町のはずだ。私はアオリに手をかけ、サイドミラーに映るケンサクに手を振った。無視かよ。しかも深刻そうな顔しやがって。ってアレ? なんで海の中を走ってるんだ? そうか。竜宮城に来てしまったんだな。海中を漫然と眺めていたら地上に戻っていた。目の前には「竜宮城」と表記された看板が立っていた。看板こそ古臭いが外観は私が知る歓楽街の造りだった。ケンサクはさっさと入店してしまった。何を考えてるんだ? よく考えろ! 見るからに接客を伴う飲食店! だめだ! 絶対にだめだ!
「おにいさーん! 友人さんが呼んでますよォー!」
私はセクシーなドレスを着た女性従業員に呼ばれ…………フツーに入店した! 何をしているんだ俺はー!! ケンサクはすでにボックス席で酒を飲みながら従業員と歓談していた。酒に弱いのか彼は上機嫌で隣に座るよう手招きした。私たちの相手をしてくれたのは特別美人ではないが、愛嬌のある女性らだった。ケンサクはグラス片手に、
「君たち、花は知ってるかネ?」
と笑った。
女性らは困惑した表情で首を横に振った。花? 花札のことか。知るわけないだろ! ケンサクは急に真剣な表情で隣の女性の肩に手をまわし、
「俺と一緒にどこかへ行く気はないか?」
と首元で舌なめずりした。女性はケンサクを突き飛ばした。きめえ。っつーか、アホだろ。
「オイ! そこは『連れてって下さい』だろ! 脚本どおりにやれよ!」
や、いやいや、ただの迷惑客じゃん。異変に気付いたのかボーイが走ってきて一礼した。
「お客様いかがなされましたか?」
「不愉快で仕方ないよ。花も知らない、脚本も知らない、こいつら素人だろ?」
いや、あなたが狂ってるだけです。ボーイは謝罪するとカードゲームが可能な準VIP席に案内すると言った。ケンサクは断ってVIPルームに案内するよう激昂した。ボーイは姿勢を正すと、
「かしこまりました。『竜王の間』は10年分の時間を頂戴しますがよろしいですか?」
とケンサクに冷たい視線を送った。ケンサクは満足そうな顔で頷くと気だるそうに仰け反った。ま、まさかこれが狙いだったのか! まったくイミフだったけど。すげえよ、ケンサク!
っておい! 寝てんじゃねーよ!
§10
ボーイはVIPルームこと「竜王の間」まで案内した。いたって普通、というか当たり前か。しかし、10年の代償はでかすぎる。不老とはいえ村長や村の住人、ひいては世界を待たすことになる。
「君、いつまでそこに立ってる気だい? トカゲ臭くて不愉快だ」
ボーイは一瞬、目を丸くしたが辞去した。ケンサクはポケットに手を突っ込みながら、
「僕らは運よく仲違いしている。僕が逃げろと言ったら逃げろ」
と語気を強めた。
「それは……」
ケンサクは私の発言を遮って続けた。
「僕らは知り合って日が浅い。どちらか生き残っても心の桎梏にはならないだろう」
「わかったよ」
ケンサクはドアの取っ手を掴んだ。瘴気がドア越しに漂っている。彼はスマホを取り出すと架電した。ええっ? これから行くぞって雰囲気だったろ!
「ノブさん、おそらく僕は竜王城に転送される。素早く位置を探ってほしい。あと……」
ケンサクは目を閉じて深呼吸した。
「あと、秘匿大術式を使う。父上の了承も得ておいてほしい。あと……」
どんだけ注文多いんだよ!
「これまでありがとう、兄さん」
とケンサクは天井を見上げた。私はあさっての方を見て目から水が出るのを防いだ。通話を終えるとケンサクは一気にドアを開き、その先に広がる禍々しい混沌に進んで行った。私も彼に続くと目の前には広大な砂漠が広がっていた。城ではないのか? ケンサクも無事に転移できたようで私と同様に困惑しているようだった。
――来たか、愚かな人間ども。我が名は、
ケンサクが竜王らしき声を遮った。何度目だよ! 人の発言を遮るな!
「バハムートだろ?」
――否! 我が名は秘匿大竜王、スーパーサブドラゴンなり!
だせえ! クソだせえ! 私が笑いをこらえていると太陽を背にして、走る光の先端を散らしながら赤い巨大な竜が着地した。私は目を見張った。2対の翼を有していた。軽く翼を動かすだけで暴風が吹き、目に砂が入る。
「カナタ逃げろ!」
私はケンサクのほうを向くと黙ったまま立ち尽くした。
「大丈夫だ。僕の知るかぎり149番目に危険な兵器だ。『ロンギヌスの槍』というやつだ」私は依然として立ったまま動かずにいた。
「逃げろ! 総代! 絶対に振り向くな!」
秘匿大竜王の口には炎が渦巻いていた。全滅は避けなければならない。そう、彼とはただの知人。わずかな時をともにしただけの秘匿大勇者。私は対峙する両者を背に駆け出した。地鳴りに足を取られ、暴風で転倒。とにかく必死に逃げた。時折、空がほのかに赤く染まった。竜の火炎かもしれない。それでも私は振り返ることなく走った。149番目に危険な兵器か。私を安心させるための嘘だろう。「ロンギヌスの槍」というのも使い古された感がある。ランナーズハイで心地よくなってきた。綺麗に晴れ渡った空には星が光っている。晴れているのに星が見えるのは珍しい。ん? 待て待て! 昼に星が見えるわけないだろ! 私は立ち止まってしまった。無数の星々が近づいてくる。いや、あれは星じゃない!! 眩しい光に私は目を覆った。耳を突き刺すような爆音がした。しばらくして、無重力で宙を飛んでいる感覚がした。
――勇者様! 勇者様!
誰かの声に目を覚ました。体に力が入らず目もよく見えない。人々の歓声が聞こえる。いったいここはどこなんだ? 徐々に開けていく視界に私を眼前で熟視していた兵士が破顔した。周囲に目をやると、ひどく荒廃した城のようだった。ケンサクの姿は見えなかった。
「勇者様、ありがとうございます!」
兵士は私の手を強く握った。
「竜王城もこの有り様ですよ! 本当にありがとうございます!」
私が目を覚ましたことに気付いたのか周囲の兵士らも参集した。10年も経ったのにこの人たちは私を覚えているのか?
「みんなは私のことを覚えているの?」
兵士らは一堂に頷いた。そうか……。それはよかった。
§11
10年を浪費し、勇者村のみなに合わせる顔がない私は王都の秘匿近衛師団長になった。私にまったく剣の心得がないから秘匿したいということなのか。わからない。この世界の創造主は「秘匿」が好きらしい。階級的には大将と同格だそうだ。爵位は固辞した。師団といっても秘匿されているだけあってわずか100人の小さな部隊。有事の際の兵力は100万人とされているが、大嘘もいいところだ。もはや秘匿できないじゃん。竜王の復活は不定期だが、秘匿大竜王を倒したから少なくとも50年から100年は安泰なのではないかと思っている。ケンサクは戦死とされ国葬が執り行われた。元帥格のドラゴンスレイヤーの称号と公爵位を授与され、国王自ら弔辞を読んだ。最後の戦いから約1年経ったが、訓練場で部下らはいまだに竜王との戦話を聞きたがる。ほーら、またワラワラと寄ってきた。もうネタ切れでうんざりしている。みるみるうちに目に好奇心を宿した若い兵士らに囲まれてしまった。何を話そうか迷っていたら突風が吹いた。訓練場を囲む王城森林の枝が激しくぶつかった。私は揺れる緑をずっと見つめていた。
――なんかヤバい!
私は総員に警戒態勢を命じ、舌打ちした。森林のなかを誰かが歩いてくる。体格は男性。ん? 軍人なのか? 挙手敬礼をしている。つまり、向こうも軍人でこちらを友軍だと把握しているが、互いに見えないから敬礼しているということか。私は総員に敬礼を命じた。なかなか壮観だ。再び舌打ちして相手の位置を確認する。もうすぐ森林から出てくるな。ん? ん? 敬礼ではないぞ! 耳に物を当てている!! 男が姿を現した。喪服を着用していた。黒ネクタイに緑のタイピン……。
「総員、なおれ! こいつに敬礼はいらない!」
ちょ、ちょ待てよ! 部下らはなぜ兜を脱いで頭を下げてるんだ?
「不愉快だな。とくに指揮官。君はどうして最敬礼しないのかな?」
男の、いやケンサクの瞳は潤んでいた。私は崩れ落ちて涙した。人前で落涙するとは情けない。
「やればできるじゃないか指揮官。僕は陛下に拝謁する。君も同行したまえ」
ケンサクは泣き声だった。情けないやつだ。私は涙を拭くと先を歩くケンサクに続いた。しばらくしてケンサクは振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
相変わらず何様だよ! このくだりはもうやっただろ!
「随分いいじゃないか。男の醜い嫉妬だよ、カナタ」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。私は素直に微笑み返した。
§12
王立学園第3高校の卒業式を取材している。生徒は退屈そうに俯いていたが、校長やPTA会長の話は本心だと思った。四十路になって概ね世の摂理がわかってきた。卒業証書授与が始まる。僕は急いで壇上に上がった。テレビカメラマンたちが鬱陶しい。総じてテレビカメラマンは大柄な男性と相場が決まっている。記者歴が長くなり、神経が図太くなった。大柄な男性に体当たりしてでも写真は絶対に撮る。卒業生代表が登壇すると同時に、僕は素早く校長の右斜め後ろに回った。よかった、テレビカメラは左に行った。僕も映ってしまうけれど、報道陣が映り込んでしまうことなんて日常茶飯事なので気にしない。校長のおめでとうの一言からシャッターを連写で切る。生徒の顔が写らないよう賞状を受け取って頭を下げている瞬間の写真が欲しい。となると早くから連写しておいたほうがいい。
写真の出来は上々だった。代表生徒が降壇した。予定稿は用意してあるから、そこに校長、PTA会長、卒業生答辞の一言を入れるだけ。これで今日の仕事は終わりだ。エルガーの『威風堂々』が流れるなか、卒業生らが退場していく。この学校は退場でエルガーを使うのかと少し不思議な感じがした。保護者がスマホやハンディカメラで我が子を撮影しているのがみっともない。まばらな拍手で卒業生たちが可哀そうだ。主役は卒業生なのに。日本と全然変わらない。この世界の神は何を考えているのだろう。記事を出稿したら会いに行ってみようかな。取材と称して。
出稿を済ませると神に面会するため神殿へ向かった。まるで役場のような造形に唖然としてしまった。自動ドアを抜けると壁に案内板があった。神の執務室は2階らしい。6階に喫煙室があるのがありがたい。一服してから神に面会することにした。二つ目の自動ドアを開けると様々な窓口があって本当に役場のようだった。が、人はいない。エレベーターのボタンを押し、4階から下がって来ることを示す電子パネルを凝視した。
《ドアが開きます。ご注意ください》
こんな細部まで日本に寄せているのかと閉口した。ドアが開くと、綺麗な白髪に瘦身のいかにも紳士という老人が出てきた。老人は軽く会釈して去っていった。エレベーターに乗り、6階のボタンを押す。監視カメラがないか警戒しながら唇を触っているうち6階に着いた。目の前に喫煙所があった。というより、灰皿が置かれたテーブルがいくつも配置されていて、このフロア全体が喫煙室のようだった。誰もいないので、すぐそこのテーブルに煙草とライターを置いた。潔癖症ではないけれど、椅子を手でサッと確認してから着席した。
煙草に火をつけて紫煙の行方をぼんやり眺めた。静かで心地よくて天国のようだ。うつらうつらとしていたら、灰皿に手をぶつけてしまった。テーブルに少し灰が飛び散った。灰皿も昔の会社の応接室にあるようなもので、どこまでもこの世界は日本を模倣しているのだなと残念に思った。どこまでも残念なこの世界。壊れてしまえばいいのにと僕は願った。
§13
願ったところで何も起こらない。当たり前だ。前世を悔やむことはないけれど、妹のルナがどうしているのか気になる。彼氏にアレキサンドライトをプレゼントしたいと頑張って働いていたから、僕もできることなら支援してあげたかった。ヒナタ君だったと思うけれど、口が悪くて第一印象は最悪だった。ルナが彼のことを話しているときは常に目が輝いていた。幸せなんだな、いい人なんだなとわかって、僕は余計な介入はしなかった。ルナはアレキサンドライトをネクタイピンに加工したいと言っていた。どだい無理なことはわかっていたけど止めたりはしなかった。僕は宝石に詳しくない。ヒスイより高額なのは確かだろう。いずれにせよ、二人が幸せであってほしい。
灰がテーブルに落ちた。いつまで僕は煙草を吸っているのだろうか。灰皿のなかには8本の吸い殻が転がっている。
《ドアが開きます。ご注意ください》
誰か来たようなので僕は9本目の煙草を揉み消した。姿を見せたのはさきほど1階ですれ違った老人だった。ほかのテーブルに行けばいいのに、彼はわざわざ僕の向かいの椅子に腰かけた。
「あまりに綺麗な方だったので追いかけて来てしまいました」
ちょっと変な人かもしれないけど、そういう人への対応は慣れている。
「よく言われるんですよぉ。ミスSLASHにエントリーしようかなぁ」
作り笑顔が得意なのは芸能人だけじゃない。マスコミだって得意だ。入社時の研修で社会部長から笑顔で話しかけるよう指導された。
「もしかして、報道関係の方ですか?」
今日はパンプスにグレーのスラックス、淡いブルーのブラウスに濃紺のジャケット、いかにもマスコミという出で立ちだから仕方ないかもしれない。僕は、そうですと笑顔を見せてこめかみを押さえた。1年のうち280日くらい頭が痛いので慣れているけど、いま感じている痛みはいつもより強い気がする。僕は不機嫌だということを示すためにわざと視線を落とした。
「あ、すみません。大勇者様にお会いするとは思わなかったもので。あっしはこの世界の勇者、ギンジでがんす」
あっし? 勇者? で、僕のことを知っている!? しばらく牽制して様子を見よう。
「この世界の勇者様ですか? 僕は新聞記者のミオリといいます」
「かの勇者村から来られた大勇者のミオリ様ですね! 存じているでがんす。しかも40歳! お若い!」
やかましいわ!!
最近、中二病こじらせて「僕っ娘」やってたけど面倒になったわ! 全然若くねえんだよ! 友達のA子、B子、C子、D子、みんな既婚で子持ちだわい! 女性ホルモン減って男性ホルモン優位になっとんじゃい! これ以上イライラさせんな!
「それでギンジさんは私に何のご用ですか?」
「伝えに来ただけでがんす。あと15分もすれば恐怖の大王が空から降臨するでがんす」
「そうなんですね」
荒唐無稽な話だけど、本当だとしたら願ったり叶ったりだ。私は嬉々として煙草を吸うと鼻から煙を噴射した。もう世界が終わるんだから女らしく振る舞う必要なんてない。そもそも私は風呂キャンセル界隈だし、世界が終わるなら入浴しなくていいから大歓迎! 頭痛は治まっていた。私は鼓動の高まりを感じながら世界の終焉を待った。
§14
世界の崩壊……。ということは、ABCD子もその家庭も消滅。あいつらが家庭の事情で断るからランチや飲みにも行けず私はやさぐれたんだよ! さーて、もう1本吸おうかな。ちょっと待って。もう15分くらい過ぎてない?
「あのう、ギンジさん。15分経ってません?」
「大王様は恒星移動戦艦に乗っておられるでがんす。全長1200㎞の大型艦ですから遅れてるでがんすよ」
ま、そういうこともあるか。死ぬ時くらい綺麗にしましょうか。唇がガサガサになるけど、リップティント塗りましょうかね。あと目尻をしっかりしておきたいからアイライナーを。
……どっちもないわ。なんだかんだで5分くらい経った気がする。まさか来ないってことないでしょうね。なんか外が騒がしいし、サイレン鳴ってる?
「いよいよでがんすな。我々の秘密結社『ワシの爪団』の悲願が成就するでがんす」
なーんだ。この人、裏切り者? ま、いいや。どうせ世界は終わるんだし。すごいサイレン音だな。聞いたこともない怖い音。
《あ、あ、マイクテスト、マイクテスト……》
なんなの? こんなときに! ギンジさんは恍惚として涙を流していた。
《未確認飛行物体の残骸が上空から降ってきます。王都のみなさんは屋内に避難してください。繰り返します……》
「ギンジさ、ん」
エッ? いない? 逃げた? めちゃくちゃ逃げ足速いな。老人とはいえさすが勇者。じゃなくて裏切りの勇者。突然、地鳴りがした。フロアが大きく揺れた。あーあ。世界が終わるどころか地獄の始まりですわ。報道合戦という地獄。もうサイアク。仕事だからとにかくやらなきゃ。すごく大きな物が落ちてる気がする。現場に行って写真だけでも撮らないと。一眼レフカメラは支局に置いてきちゃったし、スマホのカメラでもいいから、とにかく現場を押さえないと。私は急いでエレベーターに乗り1階へ降りた。ドアが開くと、黒髪短髪のイケメン、イケオジ? が立っていた。なぜに喪服? てゆーか、そのタイピン……。
「すみません。その緑のタイピンってどうされたんですか?」
「不愉快だな。目のつけ所はいいが、まずは自己紹介するのが礼儀ではないかね?」
しまった。ここに出入りしているってことは神殿の人かな。私は一礼して謝罪した。
「私はミオリといいます。そのタイピン素敵ですね」
「アレキサンドライトだからね。ほしいならあげるが、どうするね?」
ここは異世界。ルナとは関係ない。私は首を振った。
「失敬。僕はケンサクだ。君の報告は逐次届いていた。恐怖の大王を倒すのに役立ったよ」
んー。どういうこと? この人が恒星移動戦艦を落としたってこと?
「君はうちの村の大勇者だろ? ここの神に報告してくるからロビーで待っていたまえ」
ケンサクさんは軽く手を振ってエレベーターに乗った。同じ勇者村の人か。同郷といっていいのかわからないけど、少しホッとしている。私はロビーチェアに腰を下ろしケンサクさんを待った。
§15
10分ほどしてケンサクさんはロビーに足音を響かせた。彼は着席すると、
「この世界における君の武力介入が許可された。あくまで一時的な措置だが」
と言いながらスマホをいじっていた。
「そうなんですか」
大勇者は志願制で赴任地は選べない。日常生活を送りながら密偵として勇者村に情報を定期的に送信する義務がある。そのほかは自由だ。ただし、赴任世界の事象に武力介入することは許されていない。
「要は秘匿大勇者の僕と同格というわけだな。なにか質問はあるかネ?」
いやいや、あるに決まってるじゃん。秘匿大勇者!? 伝説だと思ってたけど本当にいるんだ。
「武力介入の執行対象は?」
「ワシの爪団だ。恐怖の大王崇拝者たちだ。まあ、大王の恒星移動戦艦は僕が落としたがネ」
よくわかんないけどすごい人だな。
「君の定期報告を受けているうち村長が議会で君の武力介入権と僕の派遣を専決処分した。この世界の神からの要請だし、緊急案件だからね。議会の採決を待つわけにはいかない」
困ったな。あんまり戦闘はしたくないんだけどな。ケンサクさんはずっとスマホをいじっていた。てゆうか、なんでこの人、喪服なんだろう。あんまり凝視しないようにしてるけど、誰も訊かないのかな。
「喪服のことかい? 生まれた子供がすぐに死んでしまってね。喪に服している間に勇者村にいたんだ。だから転生ではなくて厳密には異世界転移だな」
私は黙礼したまま二の句が継げなかった。すごくお気の毒だけど、人の心を読む能力の持ち主なのかな。なんだかすべて見透かされてる気がする。
「君の能力は村長から聞いている。僕がいなくても十分なくらいだ。好きにするといい。僕は裏方に徹する」
え。私が裏方でいいんですけど。私の能力は発動条件が特殊だからなー。
「あと、僕は38歳で君は40歳のようだが、同格とはいえ上官は僕だから口調に関しては目を瞑ってくれたまえ」
「……はい」
その情報いらねえわ! 年下かよ! ま、40にもなると年下とか年上とか言ってられないんだよなあ。恋愛なんて諦めてるからいいんだけどさ。
「では行こうか。やつらのアジトを一網打尽だ」
え。いまから? もう夕方なんですけど。ケンサクさんは立ち上がった。
「夕方から夜分に悪党は動く。そう思わんかネ?」
本当に人の心が読めるのかな。ちょっと怖いわ。私はスマホで誰かと電話しながら建物を出ていくケンサクさんに付いて行った。
§16
ケンサクさんはアジトの場所を知っているようだった。道々、彼は多くのことを話してくれた。友人が竜王討伐の功で王都の秘匿近衛師団長になったはいいが任期が長くて勇者村に戻れていないこと、ヒナタ君がこことは違う異世界で勇者だったこと、そして彼が息を引き取る直前にルナのタイピンを託されたこと。すべてを話してくれた。私は泣きたくなる気持ちを抑えて聞いていた。ケンサクさんは懐から緑のタイピンを取り出すと、
「これは君がもっているべきものだ」
と真剣な表情で言った。私は受け取りたい衝動をぐっとこらえた。
「それはヒナタ君がケンサクさんに託したものです。受け取れません」
ケンサクさんは前を向いたまま頷くと、ここがアジトだと指さした。ここって接待を伴う飲食店だよね? 怖いおにいさんとか絶対いるよぅ。
「では、お手並み拝見といこうか。僕は外で待機している」
店舗は金色を基調にシックなベージュが配分された大きな建物だった。入口の右手に若いイケメンの写真が並んでいる。ここってもしかして……。入口うえの大きな看板に思わず後退りした。「大往生」との文字がデカデカ横に並んでいる。大往生と大王城をかけた? ちょっと意味がわかりませんけど。突然、地面が揺れ出した。私はその場から離れて電信柱にしがみついた。え、えっ? なんで店舗が崩れてるの? 背後から足音がしたので振り向いた。ケンサクさんだった。
「裏方に徹するつもりだったが、すまない。前世の西暦でいうところの3429年に開発されたステルス戦闘機らしい。偵察でいいとノブさんに言ったんだが、本気でやってしまったようだね」
「ノブさん?」
「ノブユキ。僕の兄だ。スマホで前世と連絡できる」
はい? 秘匿大勇者の特権なのだろうか。崩れた建物から二人が這い出てきた。一人はギンジさんだった。もう一人はスキンヘッドの大男だった。ギンジさんは飛ぶように駆けて逃げていった。
「あ、ノブさん? 白髪の老人の両足を切っといてくれ。あと、コルトガバメントを頼むよ」
えええっ! ケンサクさん怖いんですけど。ケンサクさんは這い出た大男を蹴り倒した。そしてどこから出てきたのかわからない拳銃を男に向けた。男は地面に何度も頭を叩きつけて命乞いした。バーンと重い音が一回鳴った。
「外した。僕は拳銃を使ったことがなくてね。これしか知らないが、いかんせん大口径すぎる。君がこの男を始末してくれ」
大男の頭部には「京都の大王」とのタトゥーがあった。京都の大王じゃなくて恐怖の大王じゃろがい! 誤字脱字は新聞記者として致命的なミス! 会社の信頼を損ねる!
「おねえさん、すいません! 許してください!」
「は? 訂正記事を書いて、そのうえ始末書を書かされるこっちの身にもなってみろよ!」
つーか、なにが「おねえさん」だ。ふざけんな。私はスマホのカメラを起動し、シャッターボタンを押した。男は細切れの肉塊になって血の海を流した。
「それが君の『強制圧縮』って能力か。すごいな。ファインダー越しに見える対象物を任意に圧縮できるんだろ? それなら大王の恒星移動戦艦もペシャンコじゃないか。僕の出る幕なんてやっぱりなかったな」
ケンサクさんは満足した様子で歩き出した。ギンジさんのもとに行くつもりだろう。前方から誰かが走って来る音が聞こえた。とても速い足音。ケンサクさんはスマホを耳に当てた。私はどんどん近づく足音の恐怖に身を震わせた。
§17
速い足音の主はすぐに姿を現した。ギンジさんだった。私が手を口に当てて驚いているうちにギンジさんがどんどん増えていく。ギンジさんたちは不敵な笑みを浮かべていた。
「これはこれは。ミオリ様と秘匿大勇者のケンサク様。あっしの足の修復と影分身に驚いてるでがんすね?」
ケンサクさんは一歩進み出た。
「不愉快だな。まずは名乗りたまえ。もうその必要はないがね」
空から青白い光で照射されたギンジさんだけが真っ二つに裂けて倒れた。ほかのギンジさんたちは消えていた。もしかして、さっきのステルス戦闘機? でもすぐに体が修復するんじゃない?
「こいつはこのままの姿で生き続けることになる。原理はわからない。ノブさんめ、自動操縦にして寝てるな」
ケンサクさんは拳銃で裂けたギンジさんを撃ったが外した。ギンジさんの半身はそれぞれ逃げようとしていた。
「あっしがダメでもキンジの兄貴がいるでがんす。兄貴、おもさげねえ」
再び青白い光に照らされた両半身はともに細切れになった。ケンサクさんは人の心がないのかな。
「僕には快・不快、愉快・不愉快しか感情がない。単細胞生物なんだ。そうプログラミングされている」
ケンサクさんはアンドロイドなの? でも、そうだという可能性も考慮して柔軟に対応しないと記者はやっていけない。
「おい! てめえら! よくもギンジをやってくれたな!」
後ろを振り向くと金髪リーゼントで特攻服を着た古き良き(?)時代を思わせる若者が立っていた。たぶんキンジって人だと思うけど、そこにいたら危ないよ?
「おい! そこのマブいねえちゃんよお!」
私はスマホを彼に向けるとカメラのシャッターボタンを連打した。
「は? あんた舐めてんの? 私のどこがねえちゃんなんだよ!」
「おい君、人の心はあるのかね? 若者が紙切れになってるぞ」
私は我に返った。ケンサクさんは私のスマホのカメラレンズを指で覆っていた。金色が混じった紙切れが隘路を吹き抜けるビル風に舞っていた。しまった。やりすぎた。まさかアンドロイドに制止されるとは。
「どろろが熱源反応を感知した。王都の丘陵庭園にいる。まさか生きていたとはね」
どろろ? ドローンのこと? それより生きていたっていうのは恐怖の大王のことだよね。ちょっと嬉しい気が……。だめだ。私は記者として大勇者として仕事をまっとうしないと。
「これで代用できるかい?」
ケンサクさんは一眼レフカメラを両手で差し出した。重い! てゆうか、これKANONの最新モデルじゃん。文句はないけど、バズーカ砲みたいな望遠レンズは……いらん! 広角レンズがよかったんだけどな。
「ノブさんはまだ寝ぼけているようだな。この先の王立公園に攻撃ヘリと車がある。君はどっちに乗りたいかね?」
「車です」
私は即答した。
「僕もだ。攻撃ヘリはこりごりだ。車にしよう」
私は乗り心地の悪い車に揺られながら考えていた。これって陸上自衛隊の高機動車だよね。
§18
ケンサクさんは、ながら運転をしていた。どうもスマホが気になるらしい。初対面のときから思ってたけど、この人はスマホ依存症なのかな。アンドロイドがそんなバグ起こさないと思うから人間だよね。
「丘陵庭園が見えてきたぞ。ここからカメラで何か見えないか? どろろ、ステルス戦闘機ともに沈黙している」
私はカメラで丘陵庭園を見た。ヤギが1匹こちらを見て佇んでいる。それをケンサクさんに話した。
「ここの神によるとそいつが恐怖の大王だ。メーメーしか言わないが独自の言語体系を持つ高度知的生命体だ」
ケンサクさんは溜め息をつくと、彼の愛用兵器の「ロンギヌスの槍」や「ダーインスレイヴ」はメンテナンス中で使えないと話した。私も少しはサブカルチャーの知識はある。たぶん凄まじい殺傷能力を有した兵器だよね。ケンサクさんは丘陵入口で高機動車を停めると、ここから歩こうと言った。彼はスマホの画面を見ながら丘を登って行った。かなりの依存症だな。
「いた。あのヤギを強制圧縮してくれ。手加減はいらない」
私はファインダーを覗いた。電灯で見えはするけど素早く動き回っている。角や体長からしてメスかな。取材でヤギのリード線を持たせてもらったことがあるけど、メスでもすごい力だった。そんなのいまは関係ない。あれは恐怖の大王。普通のヤギじゃない。私が討伐した竜王よりはるかに禍々しい気配を感じる。絶対に圧縮してみせる! と意気込んだもののまったく当たらない。
「参ったな。神によるとこいつは夜が明けると巨大な一角獣になるらしい」
それはやばいかも。アニメで見たベヒーモス? いやユニコーン?
「ノブさんは肝心なときに何してるんだ。ミオリ、僕がスマホを君に投げたら撃ちまくれ。僕を巻き込んでもらってかまわない。僕がやつを捕まえておく」
死んでもいいってわけ? やっぱりこの人、アンドロイドだわ。
――あらら? どうしたのかしら? 人間のお嬢さん。アタクシに手も足もでないようねえ?
どうして声が聞こえるんだろ。メーメー鳴くしか能がなかったんじゃなかったのかよ!
「お嬢さんじゃねえんだよ! このクソヤギ!」
私は怒りに任せて微かな光を頼りにファインダーに映るすべてを強制圧縮した。カメラ内臓ストロボは撮影時に光るだけだからアテにならない。それにこのカメラの連写速度に追いつかない。いうなれば曳光弾みたいなもの。
「全然、当たってないぞ! 僕を殺す気で撃て! ためらうな!」
ケンサクさんは大樹にもたれかかりながら、ヤギの角を引っ張っていた。彼のタイピンは赤く光っていた。ということは、懐にルナのタイピンが……。
「僕は問題ない! 君はタイピンが心配なんだろ!? 大丈夫だ!」
そう言うとケンサクさんはスマホを私に放り投げた。
《From 父上》
え、メール?
《着信履歴を見て驚いた。おまえの言い分は承知した。1万9100年6月19日をもって日本で運用開始になったイージスシステム「スポケーン」を発動する》
1万9100年? 西暦のことだよね。
「なにをぼやっとしている! 撃て!」
でも、撃ったらルナとヒナタ君のタイピンが……。
「何度も言わせるな! 早くしろ!」
ルナ、ヒナタ君ごめん! 私はいまを生きるから! 目の前で苦しんでいる人を見捨てられない! 唯一、確かに見えるのは赤く光るタイピン。私はそれをめがけてシャッターをひたすら連写で切った。
§19
赤の光が消えることはなかった。もう何連写したかわからない。ケンサクさんが無事だといいけど。
「おーい! 僕もタイピンも無事だ!」
ケンサクさんは凛凛とした顔で私にヤギの角を見せた。自分が握っていたから残ったらしい。意味がわからなかった。ケンサクさんは私からスマホを取ると、村長に任務完了を伝えると言って少し離れた場所に移ってスマホを耳に当てていた。
「君! 早く来ないか! 時間はわずかしかないぞ!」
ケンサクさんがこっちに走って来るので私も走った。
「なんですか?」
「いいから電話を」
私はケンサクさんからスマホを受け取り耳に当てた。
『もしもし? お姉ちゃん?』
「ルナ? ルナ?」
『1分だけしか話せないらしいから、言いたいこというね。お姉ちゃんが死んだのは私のせい。私がよそ見させたから。だから事故のことは気にしないで。ケンサクさんからヒナタが元気にしてるって聞いたよ。もし会ったらヨリを戻したいって言っといて。お姉ちゃんも元気でね。以上!』
ケンサクさんはずっとこちらを見ていたけど、私と視線が合うとそらした。
「私は元気だよ。ルナも元気でね! ヒナタ君には言っとくから!」
『うん、あとお父さんもお母さんも元気…………』
電話が切れた。目から水が出てきた。これは止まりそうもない。
「すまない。僕のスマホは通話無料プランじゃないんだ。ノブさんに強引に切ってもらった」
ケンサクさん、笑わせようとしてるのかな。よくわからないけど、ルナと話せてよかった。
「君はこれからどうする? 勇者村に帰還するか、それとも……」
「残ります! この世界も悪くないっていまは思います。あと私からも村長に報告しておきます。この世界に駐在する大勇者として!」
ケンサクさんは、うんと頷くとタイピンを私の手に握らせた。
「餞別だ。まがい物だが高価なものだ。お守りにしておきたまえ」
私は深々と頭を下げて包むようにしてタイピンを胸元に当てた。ケンサクさんはポケットに手を突っ込んでどこかを見ていた。たぶん、私が泣き止むのを待っているのだろう。ケンサクさんはたびたび私を見ては優しい目をして微笑んだ。なんだ、単細胞生物じゃないじゃん。アンドロイドでもない。もしかして秘匿されてることって優しさのことだろうか。それは隠すことなのかな。もしそうなら変なことだなと可笑しく思った。なかなかいい表情だから写真付きで報告を送ろうかな。新聞には載せられないけど被写体として完璧な表情だ。私は水が流れ切った目でケンサクさんの視線の先を追った。黒い鳥たちが魚群のようにくるりと回って横切った。爽風が何度も吹いては頬をなでた。私たちは眼下に広がる王都の夜景をずっと眺めていた。(了)
くっそ。全身が痛い。何もない小さな岩礁地帯。岩肌がトゲトゲと肌に刺さって横になることすらできない。
――ヒナタ、おまえは俺たち勇者パーティには不要だ。
ふっざけんな! だからって断崖絶壁から蹴落とすこたあねえだろ! イサム、A子、B子、C子、全員ぶっ殺す! つっても、いまの俺に何もすることはできない。足はなんとか動くみたいだが、30メートルはあろう絶壁を登るのは無理だ。寒いな。この世界は年中、穏やかな気候だと転生時に神から聞いていたが、目の前が海だからか。スーツのジャケットもスラックスも穴だらけで寒い。黒々とした大海に目をやると、白い帆船が見えた。
くそったれ! イサムたちの船だな。沈没してしまえ! 仕事を終えたあとの深夜の異世界転生アニメ、唯一の生きがいだった。戻りてえ。異世界なんてアニメだけで十分だったんだ。クソみたいな社畜の日々、クソみたいな東京の空気。それから、クソみたいなあいつらとのスカイツリー見学。俺は興味なかった。同期だからあいつらに付いて行っただけだ。そしたら、展望でピカッと光って神とご対面。神から与えられた補助魔法であいつらを守ってやれるとウキウキしてた自分を殴ってやりてえ。ま、いまさら遅いんだけどな。で、俺の人生27でオワコンなわけだが、どうすっぺ。
ジミヘンやコバーンみたいに27歳クラブに加盟できてバンザイ? ふざけんな。ルナはなにしてんのかな。もう新しい彼氏できたのかな。こんな状態でも元カノに未練タラタラな俺、逆にかっけえわ。マジでかっこよくね? どうしようもない状況で元カノに未練タラタラ男。クソかっけえよ。俺めっちゃイケてんな。やっぱ俺SUGEEEEEわ。やっぱすごかったわ。って、そんなわけねえよ。だったら、勇者パーティ追放にならねえんだよ。
ああ寒い。海風ってこんなに寒いのか。こりゃ今晩もたないかもしれないな。帆船が随分遠くに行っちまったな。いまごろイサムはABC子とハーレム決め込んでるってわけかい。
船が見えなくなってきたな。船が見えな……。いや、見えるな。すぐそこに。見えるじゃないか。いよいよ視界が狂ってきたってことかな。船が見えるよ。船が見える。しっかり見える。そう、しっかりな。しっかり見えてるぜ。「JAPAN COAST GUARD」ってな。見えてるぞ。うん、見えてる。いや待て。なんで? いやなんでだYO!
《そこの君、大丈夫かい?》
嘘だろ? 海上保安庁の巡視船? なんでだYO! でも少し小さいな。巡視艇か。でも、でも、でもなんでだYO!
《動けないのか? すまない。あまり近づくと座礁する。ゴムボートを流すからきたまえ》
いや、動けないやつに動かせるなよ! 俺は足を引きずりながら岩礁の先でゴムボートを待った。ずっと待った。ずっとな。……波に流されてるじゃねえかYO!
《すまない。船ごと乗り上げるから安全な場所にいてくれ》
ふざけんなって。俺は動きたくないの! しかも船が乗り上げたら終わりだろ! ああもう! 要はこれって走馬灯だろ? 生命活動の危機の際にぐるぐる脳が回転して最善手を探すってやつ。俺の最善手ってこれですか? わざと座礁させるのが最善手? どんだけ俺はアホなんだよ。おいおい。くるな、くるな。くるなって! 俺は急いで横の大きな岩礁によじ登った。巡視艇が躊躇せず寄ってくる。俺がこんなにアホだとは思わなかった。まあ、そんなもんだよな。みんな臨終に際して走馬灯を見てるんだ。最善手が打てたらみんな死んでねえよ。そう、みんな悪手を打っちまって死ぬんだ。俺は最悪手だけどな。
――ガガッ! ガガガガガガッッ!!
はい、おつかれー。座礁しましたー。俺は死亡でーす。とりあえず死亡確認してもらうか。走馬灯だから医者が都合よく乗ってる可能性はあるぞ。
「おーい! 俺の死亡確認してくれ!」と俺は斜め下に乗り上げた船に向かって叫んだ。
《悪いが僕は医者じゃない。物書き、いや秘匿大勇者だ》
は? 俺もう死んでるよな。いつまで走馬灯が続くんだよ。死後も耳が聞こえたりとか、その一種? 死亡アディショナルタイムみたいなやつ? なんかモノクロ写真が似合いそうなイケメンのオッサン出てきたな。なるほどな。しっかり喪服を着てらっしゃる。やっぱり俺は死んだか。ちょっと安心したぜ。死んで安心とかおかしいけどな。ん? おい、オッサン。なんで下りてこいって手を動かしてんだよ。俺はもう動けないし、動きたくないの!
「不愉快だな。なぜ僕が君に見下ろされなくてはいけないんだ?」
うん、ちょっと変な人でもおかしくないよな。アディショナルタイムなんだから。俺は、あんたこそ上がってこいと言ってやった。こっちは仏様だっつーの。
「下りたまえ。絶対は僕だ」
どっかで聞いたようなアニメのセリフだな。まあ、俺の頭の中だから、狂ったキャラがいてもおかしくないよな。俺は黙って喪服のオッサンを見下ろし続けた。
「不愉快極まりないな。君! 下ろしてやるから待ちたまえ」
それより、いつ試合終了になるんだよ。オッサンはスマートフォン使ってるし。しかも電話してるじゃん。俺、試合中に悪質な遅延行為でもした? してないよな。どういうことだよ。あれ? なんか岩礁が傾いて……るッッ! いってえ。なんでこんな目に合わなきゃなんねえんだよ! どうした俺。なんか岩礁きれいに横に切れてるし。最悪だ! 俺はアホすぎる!
「まったく君は不愉快だし、つまらない男だな。礼も言えないのかい?」
「俺はね、もう死んでるの! で、仏様なの! あんたより偉いの!」
オッサンは溜め息をついて黒いネクタイをゆるめた。
「死んでないよ。死人が喋るわけないだろ? 君は生きてる」
「でも……」
オッサンは俺の言葉を遮った。
「救助ヘリがもうすぐ来る。安静にしていたまえ。あと……」
意味わっかんねえな! なんだよ!
「スーツは悪くない。その緑のタイピンは不愉快だな。海に捨てたまえ」
俺の頭は沸騰した。このタイピンだけは、これだけは絶対に貶されたくない。元カノからのプレゼントで未練がましくても、これだけは絶対に! このジジイ、ぜってえ許さねえ! ヘリのプロペラ音が近づいていた。俺にはそんなことどうでもよかった。こいつをつぶす! 俺はジャケットを脱ぎこぶしを構えた。
§2
オッサンは俺の怒りの鉄拳を軽々とかわした。俺は残る魔力を使ってシールドを展開し、オッサンに体当たりした。なぜかオッサンの前にガラスが出てきて俺はそれに突っ込んでしまった。頭が切れたのか出血がひどい。情けねえ。俺はルナからもらったタイピンを握りしめて慟哭した。
「まがい物のヒスイかい? さては女から贈られた物だな?」
ちげえ! こいつはまがい物でもヒスイでもない。
「ジジイ! これはアレキサンドライトだ! そうだよ、好きな人からもらったんだ。俺の誕生石なんだよ!」
オッサンは黙って跪き、俺に目線を合わせた。
「悪かった。僕の名はケンサク。この世界を統べる神が僕を呼んだ」
なんて仏頂面だよ、このオッサン。挨拶のときくらい笑えよ。
「おい、その仏頂面なんとかならねえか? 気分がわりいよ」
「ん? 普通だが? 男はめったに笑わないものだ」
あっそ。言ってろよ。っておい! タイピンに触るな!
「こいつは本物だな。大事にするといい」
フン、やっとわかったか。その後、俺は軍事用の攻撃ヘリに救助された。どうやら俺は生きているらしい。くそったれ。イサムどもをぶちのめしてやりてえ! ケンサクは操縦桿を握っていたが、自動操縦にしているようだった。俺は副操縦席から声をかけた。
「なんで俺を助けたんだ?」
「さっき言っただろ? 君のことは、たまたま発見したんだ」
そうかい。俺はたまたま生かされたってことかい。気に食わねえな。くっそ!
「なんか不満でもあるのかネ?」
ったりめえだ。
「俺を捨てたイサムたちをぶっ殺してえ」
「かまわない。どこにいる? このままヘリで行くぞ」
正気か? 俺も勇者の一人だがあいつは俺らの筆頭だ。聖剣を持ってるうえに、火、水、雷、土の全属性魔法が使える。勝てる相手じゃねえ。
「この世界のことは神から聞いている。魔族勝勢で人間は王都しか残されていないんだろ?」
詳しいな。神から聞いたのか。ってことは、イサムが自堕落こいて人類滅亡の危機にあるってことも知ってるのか。こいつ何者だ?
「なあ、あんた。秘匿大勇者とか言ってたよな? それってなんだ?」
ケンサクはしばらく黙っていたが口を開いた。
「ふだんは勇者村という場所にいる。不定期に復活する竜王を倒す。あとは君たちの神が救援要請したように、危機が迫っている世界に派遣される」
一応、こいつの世界にも魔王みたいなやつがいて、暇なときは派遣で小金稼ぎか。たいそうな身分だな。
「で、イサムという男はどうする? 神は世界を救ってくれと言っただけで勇者については言及しなかった。別に殺してもかまわないが、どうするね?」
「殺してえよ、殺してえ。でも……」
一瞬、あいつらと楽しく過ごしていた新人時代の記憶が脳裏をかすめた。だが、いまの俺は阿修羅と化している。怒りで震えるこぶしが止まらねえ。
「イサムという男が自堕落なつまらぬ男だということは知っている。おそらく王都で魔族を迎撃する気だろう。どうだネ? 魔族もイサムも一掃できるぞ」
神から事前情報を得てるんだろ? こいつ自分がなに言ってんのかわかってんのか? 魔族は50年前にオーガが他の種族を虐殺した。つまり魔族すなわちオーガだ。見た目は青鬼みたいなもんだ。だが、知性は人間より上、肉体はでかいし頑丈だ。だから俺たちは敗北寸前なんだよ! それもこれもイサムがクソ野郎なせいだ! まあ、イサムがオーガの王、「王(オウ)我(ガ)」と戦っているうちにちょいとやっちまうって手もあるよな。
「じゃあ、そうしよう」
「は?」
「オーガの軍勢や『王我』と戦ってるイサムを殺すんだろ?」
笑えるぜ。こいつ超能力者かよ。しっかし、やたら自信満々というか何一つ臆してねえな。考えてみりゃ、スマホは使える、岩礁は切れる、ヘリも使える。こりゃ楽勝かもしれねえ。
「そーいや、あんたいくつなんだ?」
「そう、ずっとそれが不快だったんだ。僕は38歳だ。君は30歳だと聞いている。言葉遣いに気を付けたまえ」
「はいはい。了解っすよ、ケンサクさん」
ヘリのフロントガラスから燃えさかる王都が見えた。あのバカ、なにやってんだ! 頭がおかしくなるぜ。おっと、ケンサクがスマホを耳に当てたぞ。
「ノブさん、国王は無事かい? そうか。うん、わかった。いまのうちに人工衛星? あれの準備を頼むよ。くれぐれも父上を怒らせないようにネ」
こいついい歳こいて父親の顔色うかがって生きてんのか。情けねえな。
「ノブさんってのは?」
「ノブユキ。僕の兄だ」
「父上ってのは?」
「僕の父だ。僕の前世の仕事をよく思ってない」
こいつも転生者ってことか。父上ってのが気になるが、まあいい。どうせボンボンだろ。ああ、重要なことを聞くのを忘れてた。
「なんでスマホ使えるんだ?」
「秘匿大勇者だからな」とケンサクは淡々と答えた。
あっそ。要はなんでも許されてるってことか。俺もスマホがあって元の世界と通じればルナと話してえなあ。……いや、もう忘れよう。俺にはこの緑のタイピンだけで十分だ。タイピンに加工するのにとんでもねえ金がかかったろうなあ。愛を感じるぜ。うん、いまはルナのことは忘れよう。
「国王と家族らは離宮に避難したそうだ。オーガの軍勢の本隊はまだ来てない。空対地ミサイルでも撃っとくか」
まったく容赦ねえやつだな。こいつ頭のネジ2、3本吹っ飛んでやがる。住民を巻き込んだらどうすんだよ。
「王都の住民は軍がなんとかしてるだろ。心配には及ばない」
マジで超能力者か? それよりどうすっかなあ。イサムども、くそったれ! やっぱり許せねえ! 突然、バシュッと音がした。その後、同様の音が3回した。ケンサクはガシガシと頭を掻いていた。
「ロケット弾っぽいが、わからないな。こんなの僕の前世にはなかったからな。対戦車ミサイルはどうしたらいいんだ。ノブさんに訊いておくべきだった」
お! さっきのロケット弾らしきものがオーガの前衛部隊に被弾してるぞ。すげえな。巨体がバッサバッサ倒れてる。ケンサクはヘリのことがわからず、不時着するという。どうかしてやがる。着地の際に俺がシールドを張れば問題ないという。信じられねえが、仕方ない。頼むぞとケンサクが仏頂面で言った。俺も仏頂面で了としたことをアピールした。っておいおい。高度を下げるとかじゃなくて墜落する気かよ! マジこいつなんなんだ。俺はヘリ全体にシールドをかけた。…………フツーにヘリは着地した。俺のおかげだぞ! ケンサクは前方だけ見ていて俺の睨みに気付かなかった。王都は陥落していた。陥落の厳密な定義は知らねえ。町は焼け、往来には誰ひとりとして人間がいなかった。パチパチという炎の音と瓦礫が崩れる音だけが聞こえる。俺は内心、人類の滅亡は免れないと思った。
§3
中央広場でやつらを見つけた。ABC子は重傷で虫の息だった。イサムは無傷だったが、魔力と体力を使い果たしたのか座り込んで虚空を見つめていた。刃こぼれした聖剣、傷と煤まみれの黄金の兜、鎧、盾、脛当て、すべてが滑稽に見える。無様だな。これがいわゆる「ざまぁ」ってやつかもしれねえな。俺はイサムに揚々と声をかけた。
「あら、イサムちゃん。どうしたんでちゅかー? もうやられちゃったんでちゅかー?」
最高に気分がいいぜ。あとはこいつが命乞いしてきたところを殺す。
「ヒナタ、マジでごめん! 俺が間違ってた! 全部俺のせいだ!」
俺はイサムの左頬を殴った。ちきしょう、殴ったほうもいてえのかよ。もう一発殴ろうとしたところでケンサクが俺の腕を掴んで顔を横に振った。変人オッサンのくせにここでやめろってか。
「ごめんヒナタ。ごめん……」
「何がごめんなんだよ!」
俺はいまにもこいつを殺したいと血潮が湧いていた。
「……崖から落とした。落としました」
「ほかには? おい! ほかには?」
俺はいつのまにかイサムの足を踏みにじっていた。
「ヒナタ、もうよしたまえ。見ていて不愉快だ。止めはしない。つまらん男だ。殺すがいいさ」
ケンサクは俺の肩をポンと叩くとオーガ軍の本隊が来ると予測されるほうへ先に行くと言って去って行った。あとは好きにしていいってことかい。話がわかるじゃねえか、ケンサク。さあて、どうやってボコってやろうかな。
「ごめん」
うるせーな。
「ごめん。ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん……」
頭イカれてんじゃねえよ! 萎えるだろうが! イサムの顔を見ると呼吸はしていたが、目は光が失われ闇を見ているようだった。俺は廃人になった元勇者をただ見ていた。たしかに、つまらん男だ。このていどかよ。興ざめだぜ。さすがの俺もこんなゴミを殺す気にはならない。勝手にこいつら死んでろよ。俺はさっきケンサクが向かったほうへ駆けだした。イサムがゴミとはいえ、勇者パーティがフルボッコだ。いったいオーガはどれだけ強いんだよ。全速力で走っているうち、喪服の男を見つけた。ケンサクは北の城門前に立っていた。
「おい、ここに来るのか?」
「うん。間違いない。そのまえに灰塵となるだろうがネ」
オーガの大地を揺るがすような遠吠えが聞こえる。まだ距離がありそうだ。
「ノブさん、『ロンギヌスの槍』を100発、いや1000発撃ってくれ」
笑わせんな。「ロンギヌスの槍」? アニメの見すぎじゃねえか? 俺が言える立場じゃねえけど。
「白夜をして此れ降下す。我、天帝の命にて来たり属せしむ……」
おいおい何言っちゃってんの。いまのオーガは全属性の魔法耐性がある。「王我」にいたっては冥府の扉を開いて闇属性の魔法を使うと聞いている。そんなの勝てるわけねえ。この金持ちオッサンには社会の厳しさってのがわかってねえのよ。俺たちは詰んでんの!
「……急急如律令!!」
詠唱魔法? だっせーな、ケンサク。神から聞いてねえのか? この世界は4属性のシンプルな魔法しかないわけ。「王我」の闇属性てのは気になるが。
「ヒナタ、空を見ているといい。星が綺麗だぞ」
は? めっちゃ晴れてるぜ? ん? んんん? え! お星さま綺麗!! なわけあるかい! 超天才の俺が導き出した結論は軌道兵器。条約で禁止になってるはずだが、異世界では関係ねえってことか? コロニー落としとかじゃなくてよかったぜ。一応、この世界を救う気はあるようだな、秘匿大勇者さん!
「ヒナタ、目がつぶれるぞ。言ってる意味わかるかい?」
「わかってる。俺は後ろを向いとくぞ」
目を閉じていても明るい光源が感じられた。この世を滅却する爆音が聞こえた。王都の街路樹が激しく揺れた。おっとと。危うく強風で転ぶとこだったぜ。
「ノブさん、成功だ。あれはなんだっけ。どろろで様子を見てきてくれないかい?」
どろろ? 漫画ですか? ドローンだろうよ! 城壁が崩れていないってことは、かなり遠い位置での爆発か。マジで世界ごと吹っ飛ばす気かと思っちまったぜ。
「うん。僕は無事だ。ん? 1体だけ生きてる? そいつを追いつつ早めに『ダーインスレイヴ』を。念のため航空支援も続けてほしい。父上にも早急に連絡を。悪いね、ノブさん」
ケンサクは焦っているように見えた。想定外だったのだろう。俺も想定外だ。まさか生きてるなんてな。「王我」はバケモノかよ。実際、そうなんだけどな。さっきから城壁がガンガン音を立てて揺れてる気がするが、まさかな。俺が両手を頭にまわして口笛吹いている間に、青くてデカい物体が横を風のように通り過ぎた。やっべえぞ。やべえ! 城壁をぶっ壊してきやがった。濃紺の肉体に2本の角。体長は4メートル、いや5メートルか? とにかくでけえ青鬼だ! 闇属性魔法は誰も見たことがない。使われると厄介だ。俺はケンサクも覆う最大級のシールドを張った。なんて禍々しい面構えしてやがるんだ。こいつモテねえだろ。いや、そんなこたあどうでもいい!
「ヒナタ、あいつが『王我』なのかい?」
「たぶんな。いや、間違いねえ」
――人間、これは俺が魔族の王と知っての狼藉か?
ケンサクは返事もせずスマホをいじっていた。あんた、いつの時代に死んだの? だよな、そりゃ怒るぜ。俺もキレてるからな、こいつに。 無視はよくないぜ、オッサン。「王我」が片足を引いて低い姿勢をとった。おいおい、くるぞ! 俺の魔法じゃ絶対に防げねえ。マジでやべえぞ!
「おーい! 『王我』君! 君は、花は知ってるか?」
バッカヤロウ! 余計に怒らすだけだろ! 俺らより頭いいんだぜ? この世界のすべての花の名称、学名まで答えちまうだろうよ。ん? オイ! 町を空爆するな! 住民が避難しているとはいえやりすぎだろ!
「知らないか! 花! 大勢でやると楽しいぞ!」
そっち? フラワーじゃなくて花札かい。はい、詰みましたー。花だけにねー。詰む・摘む、俺やっぱSUGEEEEEわ!
「残念だ。もう君は知ることすらできない」
ケンサクは叫ぶのをやめて普通の調子で言った。空爆は止んでいた。「王我」の巨体には何本もの線が入っていて、ところごころから蒸気を発していた。
「あれで人類より頭脳明晰とはね。不愉快だな」
ケンサクはいっさいの動きを止めた「王我」に向かって歩きだした。よくわかんねえけど、岩礁を切ったものを使ったのか? 俺にはチンプンカンプンだった。それより土煙がすげえな。ケンサクも「王我」の姿も見えなくなってきたぜ。
§4
凄まじい土煙が消えるまで随分と時間がかかった。俺はその間に「王我」を含め、オーガ軍が全滅したことを直感していた。それは現実となった。だが、城壁外に広がる夥しい数のオーガの死体には吐き気を覚えた。魔族とはいえ、オーガは俺たち人間に近い種族だ。ケンサクが顔を突き出して目を見開いた。おい、嘘だろ? 「王我」は首から下を失ってなお生きていた。ニタニタとこっちを見て笑ってやがる。笑いたいのはこっちだぜ。からかってやろうと考えをめぐらしているうち、タイピンがないことに気付いた。嘘だろ? どこに落とした? まっじかよ! まじで?
――小僧、おまえが探しているのはこれか?
「王我」はタイピンを乗せた真っ赤な舌を揺らした。ふっざけんな!
「ヒナタ、『王我』のハッタリかもしれない。用心したほうがいい」
そうだな。仮に本物だとしてもあいつが絶命したあと取り出せばいい。きたねえけどな。ん?なんだこの腐臭は。ちっきしょう! あの「王我」、瘴気を出してやがる。ただでは死なないってことか! ざけやがって! 俺は「王我」めがけて走った。くっせえ唾液まみれのタイピンを取ると、「王我」に侮蔑の目線を送ってやった。よかった。よかっ……た。取り、戻せ、た。体の力が抜けていく。くそったれ、「王我」!
「ヒナタ……。なぜシールドとかいう魔法を使わなかった?」
は? そんなこと考えてるヒマなかったんだよ! こいつはそんなこともわかんねえのか。オッサンのくせによ。
「必死、だった、んだよ!」
「そうか」
ケンサクは転がっている俺を仰向けにすると、腰を下ろし暗くてジメッとした視線を向けた。まだ死んでねえよ。でも、今回はマジで死ぬ。俺はアホだからな。意識がしっかりあるうちに最善手を打たねえと。俺はケンサクにタイピンを差し出した。
「不愉快だな。『王我』の唾液タイピンなどいらない。君が冥土に持って行きたまえ」
ふざけた野郎だ。とにかく受け取れケンサク。俺も元カノなんかにこだわってるのは意味不明だが、これがいまの俺のすべてだ。生きた証だ。受け取れ、クソジジイ! 俺は力の抜けた腕を地面に下ろしタイピンを手放した。
「……冥土に持って行きたまえ。君の大切なものだろ?」
いいんだ。これが俺の最善手。こいつに託すことが最善手。ケンサクは黙って頷くとタイピンを手に取って朱色の空にかざした。そうだ、それでいい。
「見たまえ。緑から赤に色が変わったぞ。正真正銘のアレキサンドライトだ。本当にいいのかい?」
俺はコクリと首を下げた。こいつ、実はいいやつなんだな。いまのは周囲の炎で赤く見えただけだ。わからねえとでも思ったか。そっか、本当にまがい物だったんだな。フツーに考えてそうか。ルナが途方もない金を払えるわけねえんだよ。ま、いいぜ。俺は最善手を打った。ケンサクはタイピンを着けると俺の手を強く握った。なにしやがる。感覚ないのにいてえよ。つーか、喪服に緑のタイピンは笑えるぜ。こりゃいい冥土の土産だ。あーあ、死にたくねえな。死にたくねえ。本当は死にたくねえ! っておい。だからそんなに強く……。ん? この掌のぬくもりはなんだ? そうか、そりゃ気の毒だな。
「そう、僕も遠くない将来に死ぬ。そういう運命だ。だから死を恐れるな」
そんな仏頂面で言われてもなあ。俺は腹と喉に力を込めた。
「ケンサク! 男が笑ってもいいんだよ! 俺はこれから死ぬんだ! 笑顔で見送ってくれ!」
ケンサクは俺の手を握り続けていた。こいつに握られている手だけ感触が、温かみを感じる。なんでだ? わけわかんねえけど、俺を泣かせないでくれ。笑って死にたい。
「僕はずっとここにいる。安心したまえ」
ケンサクは優しい目をして微笑んだ。やればできるじゃねえかよ! なかなか眩しいぜ。てめえが次にどの世界に行き、誰と会うのか俺は知らねえ。でも、絶対にその笑顔を忘れんなよ、ケンサク。いいやつなんだから損するぜ。俺は走馬灯をなかば心待ちにしながら空をずっと見上げ続けた。
§5
この村に普通の人間はいない。村民は転生前に何らかの偉業を成し遂げた人たちだ。たとえば、隣人のコウメイさん。おそらく、蜀の軍師だった人だろう。彼の真向かいにはユリウスさんが住んでいる。たぶん古代ローマの政治家だろう。
私は何の偉業も成さず38歳で過労死した元会社員だ。5年間、不眠不休で働いたことが評価されたのだろうか。いまは文字通り晴耕雨読の生活で気楽に暮らしている。
村民の多くは転生してから竜王討伐を果たした勇者ばかり。でも、おっかない人はおらず、優しい人たちばかりだ。こうして布団に転がって本が読めるのも彼らが竜王を倒した平和の上に成り立っている。幸福感を抱きしめながら読書していたら家のドアを叩く音がした。
私は、どうぞと声を張り上げた。名は知らないが大柄な男が入室してきた。
「おまえ、カナタだな。村長が呼んでいる。いますぐこい」
私は部屋着のまま村長のもとへ行った。村長はスーツ姿で身綺麗にしていたが、禿げ頭だった。頭の角度を変えるたび光の反射が変わるので私は口元が緩むのを抑えるのに必死だった。
「カナタ、いますぐ竜王討伐に向かえ」
ん? 聞き間違えかな。私は黙っていた。
「知ってのとおり、この村は類を見ない高齢化が進んでいる。何の才も持たぬおまえを行かせるのは心苦しいが理解してくれ。この村で最年少はおまえなんだ」
最悪だ。他に強い人いるだろ! 言葉を発する代わりに舌打ちしてしまった。と同時に背後に誰かいるのがわかった。
「仕方ありませんね。ところで私の後ろにいる御仁は?」
村長は首をもたげて頭を光らせると、
「ケンサク、出てこい」
と言った。
私の横に黒服の男が並んだ。ちらと目をやると黒髪短髪、黒いネクタイに礼服。横顔は凛としていて男前だと思われる。しかし何で礼服、いや喪服なんだよ! タイピンが緑なのもおかしい!
「カナタ、おまえを勇者総代に任ずる。秘匿大勇者のケンサクとともに竜王を討伐せよ」
「はあ……。しかし、秘匿大勇者なら一人で十分なのでは?」
村長は髪のない頭を掻いた。
「おまえが同行する理由はそのうちわかる。竜王が何度も復活することは知ってるな? 今回現れた竜王は最恐で最強のようなのだ。とにかく頼む!」
若干ふざけた言い回しが気に食わなかったが私は了承してケンサクとともに村長の家を辞去した。村人の喝采を浴びながら村門をくぐった。数歩先を歩いていたケンサクが振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
こいつ何様だよ! 強情そうだったので帰宅して髭を剃り、喪服に着替えてすぐ戻った。
「随分いいじゃないか。じゃあ、行こうか」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。なんだよ、性格悪いキャラじゃないんかい!
§6
ケンサクは道々、転生して日が浅い私に世界の説明をしてくれた。町は王都を含めて4つ。ダンジョンはない。王都はスルーして竜王城に行くのが最短コースで歴代勇者もそうしてきたらしい。 竜王討伐じたいは楽勝らしいが、神出鬼没の竜宮城に行ってしまうと厄介なことになるようだ。
「ありがとう。ところでケンサクは何歳なの?」
「38歳だよ。僕ら勇者は不老なのにオッサンなのが不愉快だ」
おいおいおい。もろもろ最年少だから抜擢されたんだろ。見た目は変わらなくても体力や精神力は衰える。ムサシとコジローの決闘はいまなお毎日行われているが、老人の戯れにしか見えなかった。
ケンサクは石ころを蹴ってふて腐れていた。子供っぽいやつだが、同年齢なのは嬉しい。こいつは秘匿大勇者だし、私は従者みたいなものだろう。しかし、秘匿大勇者なんて伝説だと思っていた。世界を1億回破壊できる力を持つと聞いている。それ以外の情報は秘匿されている。マジでケンサクだけで十分だろ。私の存在意義なくね? ムカついたので舌打ちした。ん? もしかして後ろの雑木林に何かいるのか? 私は首をかしげた。
「カナタ、君の前世は盲目だったのかい?」
ケンサクが不可解だという目線を私に向ける。
「いや。なんで? 違うけど」
「君が使ったのは反響定位だよ。後ろのゴブリンに気づいたろ?」
舌打ちは癖だと弁明した。過労でイライラして舌打ちばかりしていたのだろう。3年目くらいから周囲を見なくても物事が把握できた。あれは反響定位だったのか! なるほどと合点し、舌打ちじゃなくても可能ではと閃いてバチンと指を鳴らした。 フィンガースナップでも大丈夫みたいだ。
「体長1メートルくらいのが、30。いや、50体はいるな。棍棒を持ってる」
「わかった。僕は詠唱に入る。攻撃合図は総代の君に任せる。いわばパーティリーダーだからね」
詠唱? この世界に魔法はないぞ! っておい! なんでスマートフォンなんか持ってんだよ!
「やあ、ノブさん。久しぶりだね」
フツーに電話するんかーい! オイオイオイッ! 雑木林からめっちゃ走ってくるぞ!
「うん。うん。それで頼むよ。……急急如律令!!」
最後だけ呪文みたいなこと言ってごまかしたな。「秘匿」ってスマホのことかよ。前世と連絡がとれる秘匿回線の「秘匿」? 異世界アニメのテンプレのようなゴブリンらが長い舌から涎を垂らして駆けてくる。終わりだ。せめて苦しませずに殺してくれ……。私は目を閉じた。
「カナタ、そろそろ近づいてきたかい?」
「すぐそこだよ! もう終わりだ!」
頭を抱えてしゃがんだとたんにゴブリンの足音が消えた。私は恐る恐る顔を上げた。ゴブリンらが痙攣しながら倒れている。
「ケンサク! 何したんだよ!」
私は恐怖と安堵と怒りが胸中で混在して彼に詰め寄った。
「あー、ノブさん? 助かったよ。父上にもよろしく。じゃ」
人の話聞いてねえなこいつ。私は溜め息をついた。
「いまのはノブユキ、僕の兄の仕業さ。鋼鉄の矢を1万本ほど所望したんだが、毒でも使ったのかな。僕にもわからない」
え? そんなのアリ?
「どうせ知れることだから、いまのうちに君に伝えておこう」
ケンサクによると彼の能力は前世に存在していた森羅万象に干渉し、召喚・使役できるものだという。父は大財界人で不仲だったが和解。まだ気まずくて兄を通じて連絡をとっているそうだ。
「前世の森羅万象? イージス艦も召喚できるの?」
「僕の時代にはなかったがね。召喚可能だよ。しかし不快だな。早くここを去ろう」
ケンサクはスマホを耳に当てた。しばらくすると陸上自衛隊の高機動車が顕現した。彼はハンドルを握ると私に乗るよう手招きした。窓に頬杖をつきながら私は思った。最初からこれに乗れよ!
§7
ひたすら退屈な湿原を抜けて2日が経過した。ようやく町が見えてきた。ケンサクは「不愉快」とか「不快」などとネガティブな言葉を連発していた。
「いったい何がそんなに不快なの?」
ケンサクはキッと鋭く私を睨んだ。
「わからないかい? さっきから寒いんだ」
たしかに寒い。町への距離が縮まるたび寒くなっている気がする。
「君の懐は寒くないかネ?」
失礼なやつだ。とくべつ困っていない。
「ケンサク、なんか街並みがおかしくないか?」
門の正面からでも町が凍っているのがわかった。この先に続くツルツルの道を高機動車が滑らないという保障はない。
「おもしろくないな」
意外にも車両は滑らなかった。ケンサクは不満そうに口を尖らせていた。街並みはゲームやアニメでよく見る中世ヨーロッパ風。往来に人はいない。ケンサクは車を停車させて言った。
「町が静かだ。反響定位で何かわからないかい?」
私は目を閉じ、何度か舌打ちした。遠くて正確なことはわからないが、町はずれの湖が波打っている。ケンサクにそのことを伝えると、地図を持って一人で湖に向かうと言う。
「ノブさんに三ツ星ホテルを用意させるから、君は休んでいたまえ」
文句を言っても仕方ないからスイートルームでくつろいだ。コラコラ! 私は何をやっているんだ。起立してフロントに架電した。
『はい、フロントでございます』
「町の人たちは無事ですか?」
『おそらく凍ってらっしゃるかと……』
私は礼を言って受話器を置いた。あれっ? どうも体が臭う。入浴して身を清めた。バスローブに身を包みベッドに腰かけていると爆発音がした。ホテルも揺れている。私は喪服を着て湖へ急いだ。巨大なウナギが砕けた氷に挟まって身動きできなくなっていた。湖を凍らせたのか。
「ケンサク! なんだこのデカいウナギは!?」
「ゆっくりしてればいいのに。さっき氷竜と名乗ってたな」
「じゃあ、こいつが竜王なのか?」
ケンサクはかぶりを振って竜王はこんなにザコじゃないと氷竜を挑発するような仕草をした。
――おのれ人間! 許さん!
おいおい、怒らしてるじゃないか。なんとなく凍てつくブレスを吐いてくる気がする。ケンサクにブレスに注意するよう訴えた。
「たしかにブレスは危険だ。君もくれぐれも注意したまえ」
は? 注意に注意で返してきたか。私は腕組みしてプンスカしていた。
「ノブさん、座標どおりに」
ケンサクが湖に背を向けて走ってきた。
「急げ! 逃げるぞ!」
そう言うとケンサクは私の手をギュッと握った。えっ? まさかそういう展開?
オッサンでもこういうのアリなのね!
「ケンサクぅ! ちょっ! まっ……」
――ぐああああ。人間め! ぐあああああッ!!
湖は炎の海になっていた。私はモジモジしながらケンサクを見た。
「航空支援を要請しただけなんだけどな」
彼は頭を掻いた。氷竜の断末魔とともに町の氷が溶けていく。
「町民が氷解して出てこないうちに立ち去ろう。話しかけられては面倒だ」
高機動車で町を後にした。……人とのふれあい皆無!
「次は山登りだが、今日は厳しそうだな」
ハンドルのうえに顎を乗せたケンサクが退屈そうに言った。私は彼に停車を求め、指を鳴らした。草花が揺れてるだけで問題なさそうだった。また三ツ星ホテルが現われた。平原に豪華絢爛なホテルがぽつり。私は溜め息をついた。
「カナタ、不愉快なら不愉快だと言ってくれよ?」
「不愉快じゃないよ。おもしろくない」
ケンサクは肩を大きく揺らして笑い出した。変なこと言ったかな?
「僕もおもしろくない」
ケンサクは私の顎に触れ、持ち上げた。ま、まさかの顎クイ!? オッサン同士でもアリかもしれない。私は生唾を飲み込んでケンサクの目を見つめた。彼は私を見つめ返すと、
「君は髭が伸びるのが早いようだ。早く剃りたまえ。不愉快だ」
と言い残してホテルへ入っていった。私は地面に尻をついて呼吸を整えていた。あぶねえ! 新たな扉が開くところだった。遠くに見える湖はまだ燃えていた。
§8
ケンサクは前世の記憶から登山が苦手らしく登山口でひねくれていた。たまりかねて私は激励した。
「この山を越えれば次の町だろ? 頑張ろうぜ」
「山道も見えない霧の中を君は行けというのか!」
ケンサクが警戒するのもわかる。さっきまで晴れていたのに登山口に立った瞬間から霧が出て数歩先しか見えない。こういう現象はよくある気もするが、私は低級登山で遭難したことがあるので明日でもいいと思った。
「ケンサク、明日にしよう」
「それがいい。ここにはメデューサ狼がいるからネ」
は? メデューサ狼とは何ぞ? 登山口から平地へ下る道中でずっとそれについて考えていた。
「気になるかネ?」
察しのいいやつだ。
「メデューサと狼が合体してるんだ」
そのまんまかい! ネーミングセンスも悪いし。
「やつの気配を感じて君に怒鳴ったというわけだ。すまない」
ウソつけ! 濃霧の山が恐かっただけだろ。素直じゃないなあ。私も恐かったので二人して山からだいぶ離れた平地まで来てしまった。
――ワン! ワンワン!
「メデューサ狼が鳴いているようだな。危なかったよ」
ウソも大概にしろよ、このオッサン! 野犬かなんかだろ。ケンサクは仕方ないと溜め息をつくと、
「術式展開、4、5、6番を解放」
とほざきはじめた。さすがに私も慣れた。どんなことが起ころうと驚きはしないだろう。氷竜を倒す際にBLルートへ入りかけたときは焦ったが。ケンサクはスマホを耳に当てた。
なにが術式展開だ。ここは魔法とか妖術とかない剣と竜のピュアなファンタジー世界なんだよ! ……たぶんね。
「ノブさん、発射管の用意ができたら随意発射してくれ」
発射管? 魚雷でも撃つのか? ケンサクはしゃがんで何やらブツブツ言いだした。
「呪道の44 ゼログラビティ!」
何を言ってんだこの人。 えッ! 山がなくね? 山がなくなってる!! ケンサクを見ると彼もあんぐりと口を開けていた。
「失敬。どうやら西暦でいうところの1万4千年ぐらいの兵器らしい」
この人、一般的な異世界ファンタジーの魔王ですよ、魔王! パワーバランス滅茶苦茶じゃん。竜王が心配になるわ!
「ゼログラビティってことは宇宙空間にすっ飛ばしたってこと?」
「すまない。僕にはさっぱりだ。それより先を急ごう」
そう言うとケンサクは歩きだした。いや、その、自動車に乗らないの? ケンサクが生きていた時代は徒歩が当たり前だったのだろうか。私たちは7時間かけて町に到着した。ケンサクは肩で息をしていた。自業自得だ。
「こんなことなら車夫を呼べばよかったな」
おせーよ。人力車のことだろうか。町の門番に挨拶すると突風が私たちを門壁に吹き飛ばした。私は近くに倒れていた門番に声をかけた。
「これは怪物の仕業ですか?」
「し、漆黒竜……の」
門番は息を引き取ったかに見えたが、脈はあったので安心した。
「カナタ、空を見たまえ。トカゲが空を飛んでるぞ」
これまた中世ヨーロッパ風の家々の上空をトカゲが、正確には翼の生えた黒いトカゲが悠々と舞っていた。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。もうこの人、魔王じゃん!
§9
凄まじい暴風が吹き荒れていた。美しく整列している街路樹は切れたトカゲの尾のように激しく揺れている。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。
「なにがそんなに楽しいのサ?」
「楽しいよ。前世の『存在しない記憶』に爬虫類を殺して愉悦に浸る僕がいる」
え。怖いんですけど、いろいろ。ケンサクはスマホを耳に当て、続けた。
「僕ら勇者が縄張りに侵入したことで怒ってるな」
「じゃあ、総代の僕が交渉してくるよ」
私は、危険だと忠告するケンサクを振り切って漆黒竜の真下へ駆けて行った。ケンサクばかりに頼ってはいられない。オッサンとはいえ私は勇者村の総代! 話し合いで平和裏に終わらせて見せる!
――人間よ、小さき者よ、我がパーソナルスペースを侵害したな?
はい? なんだか言葉に重みがないな。
「甘美なる懺悔、遮光の雷、万事聖戦、天上で伏す……」
ケンサクやめてくれ! まだ交渉すら始まってない!
「……急急如律令!!」
風がピタリと止んだ。木々の揺れが徐々に収まり往来の紙屑がカサッと転がった。私はケンサクに詰め寄った。
「平和的解決の余地はあっただろ! 総代の意見が聞けないのか!」
ケンサクの目には冷たい光が宿っていた。
「総代? 悪いが僕は秘匿大勇者なんだ。単独行動を許可されている」
不愉快だと告げるとケンサクは空を見上げた。
「ゼログラビティではないよ。飛び回るトカゲに撃っていては町を巻き込みかねないからね」
私は黙っていた。ケンサクは軽トラを顕現させて乗り込んだ。ツッコミを入れる気にもならず、私は助手席を避け荷台に乗った。町を出てしばらく走ると草原に漆黒竜が血を流して横たわっていた。翼と尾、四肢が見事に切断され、両目が潰れていた。
――人間よ、小さき者よ、
ケンサクが車外に出て遮った。
「だまれ! 貴様に日本人の悲しみがわかるか? あれは西暦4713年9月の台風11号……」
私はツッコミ衝動を抑えて黙していた。
「富士山頂に建立されたセイントタワーを粉微塵にしたんだ!」
なかなか興味深い。だが、前世の未来に私はいないのだからどうしようもない。その台風11号を漆黒竜にぶつけたのか。
「そこで朽ち果てろ、トカゲ!」
ケンサクはトカゲに恨みでもあるのか、何度も雑言を吐いて運転席に戻った。
――tjrておhgbん;あklがこおあkg:45t0うくぁ:亜fヴぁ:」gk;
漆黒竜はおぞましい呪言を発して私たちを嘲笑った。不愉快だと言わんばかりにケンサクはスピードを上げた。オッサンがいつまでも仲違いしているのはみっともない。次は最後の町のはずだ。私はアオリに手をかけ、サイドミラーに映るケンサクに手を振った。無視かよ。しかも深刻そうな顔しやがって。ってアレ? なんで海の中を走ってるんだ? そうか。竜宮城に来てしまったんだな。海中を漫然と眺めていたら地上に戻っていた。目の前には「竜宮城」と表記された看板が立っていた。看板こそ古臭いが外観は私が知る歓楽街の造りだった。ケンサクはさっさと入店してしまった。何を考えてるんだ? よく考えろ! 見るからに接客を伴う飲食店! だめだ! 絶対にだめだ!
「おにいさーん! 友人さんが呼んでますよォー!」
私はセクシーなドレスを着た女性従業員に呼ばれ…………フツーに入店した! 何をしているんだ俺はー!! ケンサクはすでにボックス席で酒を飲みながら従業員と歓談していた。酒に弱いのか彼は上機嫌で隣に座るよう手招きした。私たちの相手をしてくれたのは特別美人ではないが、愛嬌のある女性らだった。ケンサクはグラス片手に、
「君たち、花は知ってるかネ?」
と笑った。
女性らは困惑した表情で首を横に振った。花? 花札のことか。知るわけないだろ! ケンサクは急に真剣な表情で隣の女性の肩に手をまわし、
「俺と一緒にどこかへ行く気はないか?」
と首元で舌なめずりした。女性はケンサクを突き飛ばした。きめえ。っつーか、アホだろ。
「オイ! そこは『連れてって下さい』だろ! 脚本どおりにやれよ!」
や、いやいや、ただの迷惑客じゃん。異変に気付いたのかボーイが走ってきて一礼した。
「お客様いかがなされましたか?」
「不愉快で仕方ないよ。花も知らない、脚本も知らない、こいつら素人だろ?」
いや、あなたが狂ってるだけです。ボーイは謝罪するとカードゲームが可能な準VIP席に案内すると言った。ケンサクは断ってVIPルームに案内するよう激昂した。ボーイは姿勢を正すと、
「かしこまりました。『竜王の間』は10年分の時間を頂戴しますがよろしいですか?」
とケンサクに冷たい視線を送った。ケンサクは満足そうな顔で頷くと気だるそうに仰け反った。ま、まさかこれが狙いだったのか! まったくイミフだったけど。すげえよ、ケンサク!
っておい! 寝てんじゃねーよ!
§10
ボーイはVIPルームこと「竜王の間」まで案内した。いたって普通、というか当たり前か。しかし、10年の代償はでかすぎる。不老とはいえ村長や村の住人、ひいては世界を待たすことになる。
「君、いつまでそこに立ってる気だい? トカゲ臭くて不愉快だ」
ボーイは一瞬、目を丸くしたが辞去した。ケンサクはポケットに手を突っ込みながら、
「僕らは運よく仲違いしている。僕が逃げろと言ったら逃げろ」
と語気を強めた。
「それは……」
ケンサクは私の発言を遮って続けた。
「僕らは知り合って日が浅い。どちらか生き残っても心の桎梏にはならないだろう」
「わかったよ」
ケンサクはドアの取っ手を掴んだ。瘴気がドア越しに漂っている。彼はスマホを取り出すと架電した。ええっ? これから行くぞって雰囲気だったろ!
「ノブさん、おそらく僕は竜王城に転送される。素早く位置を探ってほしい。あと……」
ケンサクは目を閉じて深呼吸した。
「あと、秘匿大術式を使う。父上の了承も得ておいてほしい。あと……」
どんだけ注文多いんだよ!
「これまでありがとう、兄さん」
とケンサクは天井を見上げた。私はあさっての方を見て目から水が出るのを防いだ。通話を終えるとケンサクは一気にドアを開き、その先に広がる禍々しい混沌に進んで行った。私も彼に続くと目の前には広大な砂漠が広がっていた。城ではないのか? ケンサクも無事に転移できたようで私と同様に困惑しているようだった。
――来たか、愚かな人間ども。我が名は、
ケンサクが竜王らしき声を遮った。何度目だよ! 人の発言を遮るな!
「バハムートだろ?」
――否! 我が名は秘匿大竜王、スーパーサブドラゴンなり!
だせえ! クソだせえ! 私が笑いをこらえていると太陽を背にして、走る光の先端を散らしながら赤い巨大な竜が着地した。私は目を見張った。2対の翼を有していた。軽く翼を動かすだけで暴風が吹き、目に砂が入る。
「カナタ逃げろ!」
私はケンサクのほうを向くと黙ったまま立ち尽くした。
「大丈夫だ。僕の知るかぎり149番目に危険な兵器だ。『ロンギヌスの槍』というやつだ」私は依然として立ったまま動かずにいた。
「逃げろ! 総代! 絶対に振り向くな!」
秘匿大竜王の口には炎が渦巻いていた。全滅は避けなければならない。そう、彼とはただの知人。わずかな時をともにしただけの秘匿大勇者。私は対峙する両者を背に駆け出した。地鳴りに足を取られ、暴風で転倒。とにかく必死に逃げた。時折、空がほのかに赤く染まった。竜の火炎かもしれない。それでも私は振り返ることなく走った。149番目に危険な兵器か。私を安心させるための嘘だろう。「ロンギヌスの槍」というのも使い古された感がある。ランナーズハイで心地よくなってきた。綺麗に晴れ渡った空には星が光っている。晴れているのに星が見えるのは珍しい。ん? 待て待て! 昼に星が見えるわけないだろ! 私は立ち止まってしまった。無数の星々が近づいてくる。いや、あれは星じゃない!! 眩しい光に私は目を覆った。耳を突き刺すような爆音がした。しばらくして、無重力で宙を飛んでいる感覚がした。
――勇者様! 勇者様!
誰かの声に目を覚ました。体に力が入らず目もよく見えない。人々の歓声が聞こえる。いったいここはどこなんだ? 徐々に開けていく視界に私を眼前で熟視していた兵士が破顔した。周囲に目をやると、ひどく荒廃した城のようだった。ケンサクの姿は見えなかった。
「勇者様、ありがとうございます!」
兵士は私の手を強く握った。
「竜王城もこの有り様ですよ! 本当にありがとうございます!」
私が目を覚ましたことに気付いたのか周囲の兵士らも参集した。10年も経ったのにこの人たちは私を覚えているのか?
「みんなは私のことを覚えているの?」
兵士らは一堂に頷いた。そうか……。それはよかった。
§11
10年を浪費し、勇者村のみなに合わせる顔がない私は王都の秘匿近衛師団長になった。私にまったく剣の心得がないから秘匿したいということなのか。わからない。この世界の創造主は「秘匿」が好きらしい。階級的には大将と同格だそうだ。爵位は固辞した。師団といっても秘匿されているだけあってわずか100人の小さな部隊。有事の際の兵力は100万人とされているが、大嘘もいいところだ。もはや秘匿できないじゃん。竜王の復活は不定期だが、秘匿大竜王を倒したから少なくとも50年から100年は安泰なのではないかと思っている。ケンサクは戦死とされ国葬が執り行われた。元帥格のドラゴンスレイヤーの称号と公爵位を授与され、国王自ら弔辞を読んだ。最後の戦いから約1年経ったが、訓練場で部下らはいまだに竜王との戦話を聞きたがる。ほーら、またワラワラと寄ってきた。もうネタ切れでうんざりしている。みるみるうちに目に好奇心を宿した若い兵士らに囲まれてしまった。何を話そうか迷っていたら突風が吹いた。訓練場を囲む王城森林の枝が激しくぶつかった。私は揺れる緑をずっと見つめていた。
――なんかヤバい!
私は総員に警戒態勢を命じ、舌打ちした。森林のなかを誰かが歩いてくる。体格は男性。ん? 軍人なのか? 挙手敬礼をしている。つまり、向こうも軍人でこちらを友軍だと把握しているが、互いに見えないから敬礼しているということか。私は総員に敬礼を命じた。なかなか壮観だ。再び舌打ちして相手の位置を確認する。もうすぐ森林から出てくるな。ん? ん? 敬礼ではないぞ! 耳に物を当てている!! 男が姿を現した。喪服を着用していた。黒ネクタイに緑のタイピン……。
「総員、なおれ! こいつに敬礼はいらない!」
ちょ、ちょ待てよ! 部下らはなぜ兜を脱いで頭を下げてるんだ?
「不愉快だな。とくに指揮官。君はどうして最敬礼しないのかな?」
男の、いやケンサクの瞳は潤んでいた。私は崩れ落ちて涙した。人前で落涙するとは情けない。
「やればできるじゃないか指揮官。僕は陛下に拝謁する。君も同行したまえ」
ケンサクは泣き声だった。情けないやつだ。私は涙を拭くと先を歩くケンサクに続いた。しばらくしてケンサクは振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
相変わらず何様だよ! このくだりはもうやっただろ!
「随分いいじゃないか。男の醜い嫉妬だよ、カナタ」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。私は素直に微笑み返した。
§12
王立学園第3高校の卒業式を取材している。生徒は退屈そうに俯いていたが、校長やPTA会長の話は本心だと思った。四十路になって概ね世の摂理がわかってきた。卒業証書授与が始まる。僕は急いで壇上に上がった。テレビカメラマンたちが鬱陶しい。総じてテレビカメラマンは大柄な男性と相場が決まっている。記者歴が長くなり、神経が図太くなった。大柄な男性に体当たりしてでも写真は絶対に撮る。卒業生代表が登壇すると同時に、僕は素早く校長の右斜め後ろに回った。よかった、テレビカメラは左に行った。僕も映ってしまうけれど、報道陣が映り込んでしまうことなんて日常茶飯事なので気にしない。校長のおめでとうの一言からシャッターを連写で切る。生徒の顔が写らないよう賞状を受け取って頭を下げている瞬間の写真が欲しい。となると早くから連写しておいたほうがいい。
写真の出来は上々だった。代表生徒が降壇した。予定稿は用意してあるから、そこに校長、PTA会長、卒業生答辞の一言を入れるだけ。これで今日の仕事は終わりだ。エルガーの『威風堂々』が流れるなか、卒業生らが退場していく。この学校は退場でエルガーを使うのかと少し不思議な感じがした。保護者がスマホやハンディカメラで我が子を撮影しているのがみっともない。まばらな拍手で卒業生たちが可哀そうだ。主役は卒業生なのに。日本と全然変わらない。この世界の神は何を考えているのだろう。記事を出稿したら会いに行ってみようかな。取材と称して。
出稿を済ませると神に面会するため神殿へ向かった。まるで役場のような造形に唖然としてしまった。自動ドアを抜けると壁に案内板があった。神の執務室は2階らしい。6階に喫煙室があるのがありがたい。一服してから神に面会することにした。二つ目の自動ドアを開けると様々な窓口があって本当に役場のようだった。が、人はいない。エレベーターのボタンを押し、4階から下がって来ることを示す電子パネルを凝視した。
《ドアが開きます。ご注意ください》
こんな細部まで日本に寄せているのかと閉口した。ドアが開くと、綺麗な白髪に瘦身のいかにも紳士という老人が出てきた。老人は軽く会釈して去っていった。エレベーターに乗り、6階のボタンを押す。監視カメラがないか警戒しながら唇を触っているうち6階に着いた。目の前に喫煙所があった。というより、灰皿が置かれたテーブルがいくつも配置されていて、このフロア全体が喫煙室のようだった。誰もいないので、すぐそこのテーブルに煙草とライターを置いた。潔癖症ではないけれど、椅子を手でサッと確認してから着席した。
煙草に火をつけて紫煙の行方をぼんやり眺めた。静かで心地よくて天国のようだ。うつらうつらとしていたら、灰皿に手をぶつけてしまった。テーブルに少し灰が飛び散った。灰皿も昔の会社の応接室にあるようなもので、どこまでもこの世界は日本を模倣しているのだなと残念に思った。どこまでも残念なこの世界。壊れてしまえばいいのにと僕は願った。
§13
願ったところで何も起こらない。当たり前だ。前世を悔やむことはないけれど、妹のルナがどうしているのか気になる。彼氏にアレキサンドライトをプレゼントしたいと頑張って働いていたから、僕もできることなら支援してあげたかった。ヒナタ君だったと思うけれど、口が悪くて第一印象は最悪だった。ルナが彼のことを話しているときは常に目が輝いていた。幸せなんだな、いい人なんだなとわかって、僕は余計な介入はしなかった。ルナはアレキサンドライトをネクタイピンに加工したいと言っていた。どだい無理なことはわかっていたけど止めたりはしなかった。僕は宝石に詳しくない。ヒスイより高額なのは確かだろう。いずれにせよ、二人が幸せであってほしい。
灰がテーブルに落ちた。いつまで僕は煙草を吸っているのだろうか。灰皿のなかには8本の吸い殻が転がっている。
《ドアが開きます。ご注意ください》
誰か来たようなので僕は9本目の煙草を揉み消した。姿を見せたのはさきほど1階ですれ違った老人だった。ほかのテーブルに行けばいいのに、彼はわざわざ僕の向かいの椅子に腰かけた。
「あまりに綺麗な方だったので追いかけて来てしまいました」
ちょっと変な人かもしれないけど、そういう人への対応は慣れている。
「よく言われるんですよぉ。ミスSLASHにエントリーしようかなぁ」
作り笑顔が得意なのは芸能人だけじゃない。マスコミだって得意だ。入社時の研修で社会部長から笑顔で話しかけるよう指導された。
「もしかして、報道関係の方ですか?」
今日はパンプスにグレーのスラックス、淡いブルーのブラウスに濃紺のジャケット、いかにもマスコミという出で立ちだから仕方ないかもしれない。僕は、そうですと笑顔を見せてこめかみを押さえた。1年のうち280日くらい頭が痛いので慣れているけど、いま感じている痛みはいつもより強い気がする。僕は不機嫌だということを示すためにわざと視線を落とした。
「あ、すみません。大勇者様にお会いするとは思わなかったもので。あっしはこの世界の勇者、ギンジでがんす」
あっし? 勇者? で、僕のことを知っている!? しばらく牽制して様子を見よう。
「この世界の勇者様ですか? 僕は新聞記者のミオリといいます」
「かの勇者村から来られた大勇者のミオリ様ですね! 存じているでがんす。しかも40歳! お若い!」
やかましいわ!!
最近、中二病こじらせて「僕っ娘」やってたけど面倒になったわ! 全然若くねえんだよ! 友達のA子、B子、C子、D子、みんな既婚で子持ちだわい! 女性ホルモン減って男性ホルモン優位になっとんじゃい! これ以上イライラさせんな!
「それでギンジさんは私に何のご用ですか?」
「伝えに来ただけでがんす。あと15分もすれば恐怖の大王が空から降臨するでがんす」
「そうなんですね」
荒唐無稽な話だけど、本当だとしたら願ったり叶ったりだ。私は嬉々として煙草を吸うと鼻から煙を噴射した。もう世界が終わるんだから女らしく振る舞う必要なんてない。そもそも私は風呂キャンセル界隈だし、世界が終わるなら入浴しなくていいから大歓迎! 頭痛は治まっていた。私は鼓動の高まりを感じながら世界の終焉を待った。
§14
世界の崩壊……。ということは、ABCD子もその家庭も消滅。あいつらが家庭の事情で断るからランチや飲みにも行けず私はやさぐれたんだよ! さーて、もう1本吸おうかな。ちょっと待って。もう15分くらい過ぎてない?
「あのう、ギンジさん。15分経ってません?」
「大王様は恒星移動戦艦に乗っておられるでがんす。全長1200㎞の大型艦ですから遅れてるでがんすよ」
ま、そういうこともあるか。死ぬ時くらい綺麗にしましょうか。唇がガサガサになるけど、リップティント塗りましょうかね。あと目尻をしっかりしておきたいからアイライナーを。
……どっちもないわ。なんだかんだで5分くらい経った気がする。まさか来ないってことないでしょうね。なんか外が騒がしいし、サイレン鳴ってる?
「いよいよでがんすな。我々の秘密結社『ワシの爪団』の悲願が成就するでがんす」
なーんだ。この人、裏切り者? ま、いいや。どうせ世界は終わるんだし。すごいサイレン音だな。聞いたこともない怖い音。
《あ、あ、マイクテスト、マイクテスト……》
なんなの? こんなときに! ギンジさんは恍惚として涙を流していた。
《未確認飛行物体の残骸が上空から降ってきます。王都のみなさんは屋内に避難してください。繰り返します……》
「ギンジさ、ん」
エッ? いない? 逃げた? めちゃくちゃ逃げ足速いな。老人とはいえさすが勇者。じゃなくて裏切りの勇者。突然、地鳴りがした。フロアが大きく揺れた。あーあ。世界が終わるどころか地獄の始まりですわ。報道合戦という地獄。もうサイアク。仕事だからとにかくやらなきゃ。すごく大きな物が落ちてる気がする。現場に行って写真だけでも撮らないと。一眼レフカメラは支局に置いてきちゃったし、スマホのカメラでもいいから、とにかく現場を押さえないと。私は急いでエレベーターに乗り1階へ降りた。ドアが開くと、黒髪短髪のイケメン、イケオジ? が立っていた。なぜに喪服? てゆーか、そのタイピン……。
「すみません。その緑のタイピンってどうされたんですか?」
「不愉快だな。目のつけ所はいいが、まずは自己紹介するのが礼儀ではないかね?」
しまった。ここに出入りしているってことは神殿の人かな。私は一礼して謝罪した。
「私はミオリといいます。そのタイピン素敵ですね」
「アレキサンドライトだからね。ほしいならあげるが、どうするね?」
ここは異世界。ルナとは関係ない。私は首を振った。
「失敬。僕はケンサクだ。君の報告は逐次届いていた。恐怖の大王を倒すのに役立ったよ」
んー。どういうこと? この人が恒星移動戦艦を落としたってこと?
「君はうちの村の大勇者だろ? ここの神に報告してくるからロビーで待っていたまえ」
ケンサクさんは軽く手を振ってエレベーターに乗った。同じ勇者村の人か。同郷といっていいのかわからないけど、少しホッとしている。私はロビーチェアに腰を下ろしケンサクさんを待った。
§15
10分ほどしてケンサクさんはロビーに足音を響かせた。彼は着席すると、
「この世界における君の武力介入が許可された。あくまで一時的な措置だが」
と言いながらスマホをいじっていた。
「そうなんですか」
大勇者は志願制で赴任地は選べない。日常生活を送りながら密偵として勇者村に情報を定期的に送信する義務がある。そのほかは自由だ。ただし、赴任世界の事象に武力介入することは許されていない。
「要は秘匿大勇者の僕と同格というわけだな。なにか質問はあるかネ?」
いやいや、あるに決まってるじゃん。秘匿大勇者!? 伝説だと思ってたけど本当にいるんだ。
「武力介入の執行対象は?」
「ワシの爪団だ。恐怖の大王崇拝者たちだ。まあ、大王の恒星移動戦艦は僕が落としたがネ」
よくわかんないけどすごい人だな。
「君の定期報告を受けているうち村長が議会で君の武力介入権と僕の派遣を専決処分した。この世界の神からの要請だし、緊急案件だからね。議会の採決を待つわけにはいかない」
困ったな。あんまり戦闘はしたくないんだけどな。ケンサクさんはずっとスマホをいじっていた。てゆうか、なんでこの人、喪服なんだろう。あんまり凝視しないようにしてるけど、誰も訊かないのかな。
「喪服のことかい? 生まれた子供がすぐに死んでしまってね。喪に服している間に勇者村にいたんだ。だから転生ではなくて厳密には異世界転移だな」
私は黙礼したまま二の句が継げなかった。すごくお気の毒だけど、人の心を読む能力の持ち主なのかな。なんだかすべて見透かされてる気がする。
「君の能力は村長から聞いている。僕がいなくても十分なくらいだ。好きにするといい。僕は裏方に徹する」
え。私が裏方でいいんですけど。私の能力は発動条件が特殊だからなー。
「あと、僕は38歳で君は40歳のようだが、同格とはいえ上官は僕だから口調に関しては目を瞑ってくれたまえ」
「……はい」
その情報いらねえわ! 年下かよ! ま、40にもなると年下とか年上とか言ってられないんだよなあ。恋愛なんて諦めてるからいいんだけどさ。
「では行こうか。やつらのアジトを一網打尽だ」
え。いまから? もう夕方なんですけど。ケンサクさんは立ち上がった。
「夕方から夜分に悪党は動く。そう思わんかネ?」
本当に人の心が読めるのかな。ちょっと怖いわ。私はスマホで誰かと電話しながら建物を出ていくケンサクさんに付いて行った。
§16
ケンサクさんはアジトの場所を知っているようだった。道々、彼は多くのことを話してくれた。友人が竜王討伐の功で王都の秘匿近衛師団長になったはいいが任期が長くて勇者村に戻れていないこと、ヒナタ君がこことは違う異世界で勇者だったこと、そして彼が息を引き取る直前にルナのタイピンを託されたこと。すべてを話してくれた。私は泣きたくなる気持ちを抑えて聞いていた。ケンサクさんは懐から緑のタイピンを取り出すと、
「これは君がもっているべきものだ」
と真剣な表情で言った。私は受け取りたい衝動をぐっとこらえた。
「それはヒナタ君がケンサクさんに託したものです。受け取れません」
ケンサクさんは前を向いたまま頷くと、ここがアジトだと指さした。ここって接待を伴う飲食店だよね? 怖いおにいさんとか絶対いるよぅ。
「では、お手並み拝見といこうか。僕は外で待機している」
店舗は金色を基調にシックなベージュが配分された大きな建物だった。入口の右手に若いイケメンの写真が並んでいる。ここってもしかして……。入口うえの大きな看板に思わず後退りした。「大往生」との文字がデカデカ横に並んでいる。大往生と大王城をかけた? ちょっと意味がわかりませんけど。突然、地面が揺れ出した。私はその場から離れて電信柱にしがみついた。え、えっ? なんで店舗が崩れてるの? 背後から足音がしたので振り向いた。ケンサクさんだった。
「裏方に徹するつもりだったが、すまない。前世の西暦でいうところの3429年に開発されたステルス戦闘機らしい。偵察でいいとノブさんに言ったんだが、本気でやってしまったようだね」
「ノブさん?」
「ノブユキ。僕の兄だ。スマホで前世と連絡できる」
はい? 秘匿大勇者の特権なのだろうか。崩れた建物から二人が這い出てきた。一人はギンジさんだった。もう一人はスキンヘッドの大男だった。ギンジさんは飛ぶように駆けて逃げていった。
「あ、ノブさん? 白髪の老人の両足を切っといてくれ。あと、コルトガバメントを頼むよ」
えええっ! ケンサクさん怖いんですけど。ケンサクさんは這い出た大男を蹴り倒した。そしてどこから出てきたのかわからない拳銃を男に向けた。男は地面に何度も頭を叩きつけて命乞いした。バーンと重い音が一回鳴った。
「外した。僕は拳銃を使ったことがなくてね。これしか知らないが、いかんせん大口径すぎる。君がこの男を始末してくれ」
大男の頭部には「京都の大王」とのタトゥーがあった。京都の大王じゃなくて恐怖の大王じゃろがい! 誤字脱字は新聞記者として致命的なミス! 会社の信頼を損ねる!
「おねえさん、すいません! 許してください!」
「は? 訂正記事を書いて、そのうえ始末書を書かされるこっちの身にもなってみろよ!」
つーか、なにが「おねえさん」だ。ふざけんな。私はスマホのカメラを起動し、シャッターボタンを押した。男は細切れの肉塊になって血の海を流した。
「それが君の『強制圧縮』って能力か。すごいな。ファインダー越しに見える対象物を任意に圧縮できるんだろ? それなら大王の恒星移動戦艦もペシャンコじゃないか。僕の出る幕なんてやっぱりなかったな」
ケンサクさんは満足した様子で歩き出した。ギンジさんのもとに行くつもりだろう。前方から誰かが走って来る音が聞こえた。とても速い足音。ケンサクさんはスマホを耳に当てた。私はどんどん近づく足音の恐怖に身を震わせた。
§17
速い足音の主はすぐに姿を現した。ギンジさんだった。私が手を口に当てて驚いているうちにギンジさんがどんどん増えていく。ギンジさんたちは不敵な笑みを浮かべていた。
「これはこれは。ミオリ様と秘匿大勇者のケンサク様。あっしの足の修復と影分身に驚いてるでがんすね?」
ケンサクさんは一歩進み出た。
「不愉快だな。まずは名乗りたまえ。もうその必要はないがね」
空から青白い光で照射されたギンジさんだけが真っ二つに裂けて倒れた。ほかのギンジさんたちは消えていた。もしかして、さっきのステルス戦闘機? でもすぐに体が修復するんじゃない?
「こいつはこのままの姿で生き続けることになる。原理はわからない。ノブさんめ、自動操縦にして寝てるな」
ケンサクさんは拳銃で裂けたギンジさんを撃ったが外した。ギンジさんの半身はそれぞれ逃げようとしていた。
「あっしがダメでもキンジの兄貴がいるでがんす。兄貴、おもさげねえ」
再び青白い光に照らされた両半身はともに細切れになった。ケンサクさんは人の心がないのかな。
「僕には快・不快、愉快・不愉快しか感情がない。単細胞生物なんだ。そうプログラミングされている」
ケンサクさんはアンドロイドなの? でも、そうだという可能性も考慮して柔軟に対応しないと記者はやっていけない。
「おい! てめえら! よくもギンジをやってくれたな!」
後ろを振り向くと金髪リーゼントで特攻服を着た古き良き(?)時代を思わせる若者が立っていた。たぶんキンジって人だと思うけど、そこにいたら危ないよ?
「おい! そこのマブいねえちゃんよお!」
私はスマホを彼に向けるとカメラのシャッターボタンを連打した。
「は? あんた舐めてんの? 私のどこがねえちゃんなんだよ!」
「おい君、人の心はあるのかね? 若者が紙切れになってるぞ」
私は我に返った。ケンサクさんは私のスマホのカメラレンズを指で覆っていた。金色が混じった紙切れが隘路を吹き抜けるビル風に舞っていた。しまった。やりすぎた。まさかアンドロイドに制止されるとは。
「どろろが熱源反応を感知した。王都の丘陵庭園にいる。まさか生きていたとはね」
どろろ? ドローンのこと? それより生きていたっていうのは恐怖の大王のことだよね。ちょっと嬉しい気が……。だめだ。私は記者として大勇者として仕事をまっとうしないと。
「これで代用できるかい?」
ケンサクさんは一眼レフカメラを両手で差し出した。重い! てゆうか、これKANONの最新モデルじゃん。文句はないけど、バズーカ砲みたいな望遠レンズは……いらん! 広角レンズがよかったんだけどな。
「ノブさんはまだ寝ぼけているようだな。この先の王立公園に攻撃ヘリと車がある。君はどっちに乗りたいかね?」
「車です」
私は即答した。
「僕もだ。攻撃ヘリはこりごりだ。車にしよう」
私は乗り心地の悪い車に揺られながら考えていた。これって陸上自衛隊の高機動車だよね。
§18
ケンサクさんは、ながら運転をしていた。どうもスマホが気になるらしい。初対面のときから思ってたけど、この人はスマホ依存症なのかな。アンドロイドがそんなバグ起こさないと思うから人間だよね。
「丘陵庭園が見えてきたぞ。ここからカメラで何か見えないか? どろろ、ステルス戦闘機ともに沈黙している」
私はカメラで丘陵庭園を見た。ヤギが1匹こちらを見て佇んでいる。それをケンサクさんに話した。
「ここの神によるとそいつが恐怖の大王だ。メーメーしか言わないが独自の言語体系を持つ高度知的生命体だ」
ケンサクさんは溜め息をつくと、彼の愛用兵器の「ロンギヌスの槍」や「ダーインスレイヴ」はメンテナンス中で使えないと話した。私も少しはサブカルチャーの知識はある。たぶん凄まじい殺傷能力を有した兵器だよね。ケンサクさんは丘陵入口で高機動車を停めると、ここから歩こうと言った。彼はスマホの画面を見ながら丘を登って行った。かなりの依存症だな。
「いた。あのヤギを強制圧縮してくれ。手加減はいらない」
私はファインダーを覗いた。電灯で見えはするけど素早く動き回っている。角や体長からしてメスかな。取材でヤギのリード線を持たせてもらったことがあるけど、メスでもすごい力だった。そんなのいまは関係ない。あれは恐怖の大王。普通のヤギじゃない。私が討伐した竜王よりはるかに禍々しい気配を感じる。絶対に圧縮してみせる! と意気込んだもののまったく当たらない。
「参ったな。神によるとこいつは夜が明けると巨大な一角獣になるらしい」
それはやばいかも。アニメで見たベヒーモス? いやユニコーン?
「ノブさんは肝心なときに何してるんだ。ミオリ、僕がスマホを君に投げたら撃ちまくれ。僕を巻き込んでもらってかまわない。僕がやつを捕まえておく」
死んでもいいってわけ? やっぱりこの人、アンドロイドだわ。
――あらら? どうしたのかしら? 人間のお嬢さん。アタクシに手も足もでないようねえ?
どうして声が聞こえるんだろ。メーメー鳴くしか能がなかったんじゃなかったのかよ!
「お嬢さんじゃねえんだよ! このクソヤギ!」
私は怒りに任せて微かな光を頼りにファインダーに映るすべてを強制圧縮した。カメラ内臓ストロボは撮影時に光るだけだからアテにならない。それにこのカメラの連写速度に追いつかない。いうなれば曳光弾みたいなもの。
「全然、当たってないぞ! 僕を殺す気で撃て! ためらうな!」
ケンサクさんは大樹にもたれかかりながら、ヤギの角を引っ張っていた。彼のタイピンは赤く光っていた。ということは、懐にルナのタイピンが……。
「僕は問題ない! 君はタイピンが心配なんだろ!? 大丈夫だ!」
そう言うとケンサクさんはスマホを私に放り投げた。
《From 父上》
え、メール?
《着信履歴を見て驚いた。おまえの言い分は承知した。1万9100年6月19日をもって日本で運用開始になったイージスシステム「スポケーン」を発動する》
1万9100年? 西暦のことだよね。
「なにをぼやっとしている! 撃て!」
でも、撃ったらルナとヒナタ君のタイピンが……。
「何度も言わせるな! 早くしろ!」
ルナ、ヒナタ君ごめん! 私はいまを生きるから! 目の前で苦しんでいる人を見捨てられない! 唯一、確かに見えるのは赤く光るタイピン。私はそれをめがけてシャッターをひたすら連写で切った。
§19
赤の光が消えることはなかった。もう何連写したかわからない。ケンサクさんが無事だといいけど。
「おーい! 僕もタイピンも無事だ!」
ケンサクさんは凛凛とした顔で私にヤギの角を見せた。自分が握っていたから残ったらしい。意味がわからなかった。ケンサクさんは私からスマホを取ると、村長に任務完了を伝えると言って少し離れた場所に移ってスマホを耳に当てていた。
「君! 早く来ないか! 時間はわずかしかないぞ!」
ケンサクさんがこっちに走って来るので私も走った。
「なんですか?」
「いいから電話を」
私はケンサクさんからスマホを受け取り耳に当てた。
『もしもし? お姉ちゃん?』
「ルナ? ルナ?」
『1分だけしか話せないらしいから、言いたいこというね。お姉ちゃんが死んだのは私のせい。私がよそ見させたから。だから事故のことは気にしないで。ケンサクさんからヒナタが元気にしてるって聞いたよ。もし会ったらヨリを戻したいって言っといて。お姉ちゃんも元気でね。以上!』
ケンサクさんはずっとこちらを見ていたけど、私と視線が合うとそらした。
「私は元気だよ。ルナも元気でね! ヒナタ君には言っとくから!」
『うん、あとお父さんもお母さんも元気…………』
電話が切れた。目から水が出てきた。これは止まりそうもない。
「すまない。僕のスマホは通話無料プランじゃないんだ。ノブさんに強引に切ってもらった」
ケンサクさん、笑わせようとしてるのかな。よくわからないけど、ルナと話せてよかった。
「君はこれからどうする? 勇者村に帰還するか、それとも……」
「残ります! この世界も悪くないっていまは思います。あと私からも村長に報告しておきます。この世界に駐在する大勇者として!」
ケンサクさんは、うんと頷くとタイピンを私の手に握らせた。
「餞別だ。まがい物だが高価なものだ。お守りにしておきたまえ」
私は深々と頭を下げて包むようにしてタイピンを胸元に当てた。ケンサクさんはポケットに手を突っ込んでどこかを見ていた。たぶん、私が泣き止むのを待っているのだろう。ケンサクさんはたびたび私を見ては優しい目をして微笑んだ。なんだ、単細胞生物じゃないじゃん。アンドロイドでもない。もしかして秘匿されてることって優しさのことだろうか。それは隠すことなのかな。もしそうなら変なことだなと可笑しく思った。なかなかいい表情だから写真付きで報告を送ろうかな。新聞には載せられないけど被写体として完璧な表情だ。私は水が流れ切った目でケンサクさんの視線の先を追った。黒い鳥たちが魚群のようにくるりと回って横切った。爽風が何度も吹いては頬をなでた。私たちは眼下に広がる王都の夜景をずっと眺めていた。(了)



