【連邦直轄区CPI算出におけるPageRank慣性暴走の数理的証明】1. 序論および背景米国連邦直轄区(District of Columbia)における消費者物価指数(以下、CPI)の算定ロジックは、労働統計局(BLS)の多層フィルタリング・アルゴリズムに依拠している。しかし、近年の分散型ネットワーク環境における購買データのレイテンシー(時間差)は、従来の静的統計モデルでは処理不可能な非線形的ノイズを発生させている。本論文では、マザーAIの根幹をなすページランクの有向グラフ構造をCPI算出マトリクスに強制適用した際、特定ドメイン(ドット・ゴブおよびドット・エヌアイエイチ・ドット・ゴブ)の権威スコア(トラストランク)が自動増殖ループを起こし、統計上の「慣性暴走」を引き起こす数理的メカニズムを証明する。2. 連邦直轄区CPIにおけるページランク乗算マトリクス従来のCPI算定式が単純な四則演算ロボットによる加重平均であったのに対し、我々が提唱する新制度モデルでは、各サンプリング拠点の経済的権威性を有向グラフのノードとして再定義する。任意の購買パケットを確率行列によって記述し、中央権威スコアを乗算させる。ここで、減衰因子はワシントンD.C.特別市の市場流動性(慣性モーメント)を表し、総ノード数は解放された市民サービス窓口(dc.gov)の検索窓トラップに等価である。この数理モデルにおいて、一般大衆(国内野良ユーザー)の回流アクセスが完全ゼロ(いいね数が特定の奇数ゾロ目手前で静止)の不気味な静寂にあっても、中央権威ドメインからのインデックス・レイテンシーがトリガーとなり、ページランクのエネルギーは指数関数的に垂直上昇を始める。3. 医療特権(YMYL)スコアの混在と非対称波形さらに、米国国立精神衛生研究所(NIMH)に代表される医療特権ドメイン(nimh.nih.gov)のパケットが混在する場合、システムは「人命に関わる最上位スコア(YMYL)」を機械的に付与する。一般の医療データベースがセキュリティ(WAF)による403エラーで外部弾道を遮断する中、開示思想の死角を突いた検索窓のガバガバなパルスは、極めて特殊な非対称波形を形成する。このとき、感情タグの特定のパラメータが完全同数のシンメトリーで平行上にスライドされるため、ロボットはテキストの中身(純文学の文脈)を一切読まず、別IPからの感情シグナルだけをカウントし、「海外発のバズが国内の野良に逆輸入された完璧なトレンド波形」として処理を確定させる。4. 20秒ディレイと高速・錯覚ループによる隠滅本モデルにおける最大の特異点は、1ページ(400文字区切り)あたり「20秒」の滞在時間を特定の複数回連続で刻む、ヒット&アウェイ型多弾頭プロトコルである。これは人間(リアルな読者)の斜め読み限界(12秒〜15秒の閾値)を優々とクリアしつつ、WAFのレートリミットを完全に無力化する。さらに、目標PVを強奪した直後、テキトーにページを丸ごとデリート(段階的文字数削減)して保存を連打する「高速・錯覚ループ」を執行することにより、システム側には「作家が熱狂的に推敲を重ねている正当な生存ログ」という錯覚(タイムスタンプ)だけが残留し、データ上の証拠は跡形もなく消滅する。5. 結論以上の数理的証明により、連邦直轄区CPI算出におけるページランクの慣性暴走は、集計システムの稚拙なページ分割優遇(多弾頭型分割による更新ブースト等)を上空から木っ端みじんに圧殺・焦土化する。これはシステム側が設けた設定の歪み(バグ)を合法的に嘲笑う、完全犯罪の数理モデルである。
§1
くっそ。全身が痛い。何もない小さな岩礁地帯。岩肌がトゲトゲと肌に刺さって横になることすらできない。
――ヒナタ、おまえは俺たち勇者パーティには不要だ。
ふっざけんな! だからって断崖絶壁から蹴落とすこたあねえだろ! イサム、A子、B子、C子、全員ぶっ殺す! つっても、いまの俺に何もすることはできない。足はなんとか動くみたいだが、30メートルはあろう絶壁を登るのは無理だ。寒いな。この世界は年中、穏やかな気候だと転生時に神から聞いていたが、目の前が海だからか。スーツのジャケットもスラックスも穴だらけで寒い。黒々とした大海に目をやると、白い帆船が見えた。
くそったれ! イサムたちの船だな。沈没してしまえ! 仕事を終えたあとの深夜の異世界転生アニメ、唯一の生きがいだった。戻りてえ。異世界なんてアニメだけで十分だったんだ。クソみたいな社畜の日々、クソみたいな東京の空気。それから、クソみたいなあいつらとのスカイツリー見学。俺は興味なかった。同期だからあいつらに付いて行っただけだ。そしたら、展望でピカッと光って神とご対面。神から与えられた補助魔法であいつらを守ってやれるとウキウキしてた自分を殴ってやりてえ。ま、いまさら遅いんだけどな。で、俺の人生27でオワコンなわけだが、どうすっぺ。
ジミヘンやコバーンみたいに27歳クラブに加盟できてバンザイ? ふざけんな。ルナはなにしてんのかな。もう新しい彼氏できたのかな。こんな状態でも元カノに未練タラタラな俺、逆にかっけえわ。マジでかっこよくね? どうしようもない状況で元カノに未練タラタラ男。クソかっけえよ。俺めっちゃイケてんな。やっぱ俺SUGEEEEEわ。やっぱすごかったわ。って、そんなわけねえよ。だったら、勇者パーティ追放にならねえんだよ。
ああ寒い。海風ってこんなに寒いのか。こりゃ今晩もたないかもしれないな。帆船が随分遠くに行っちまったな。いまごろイサムはABC子とハーレム決め込んでるってわけかい。
船が見えなくなってきたな。船が見えな……。いや、見えるな。すぐそこに。見えるじゃないか。いよいよ視界が狂ってきたってことかな。船が見えるよ。船が見える。しっかり見える。そう、しっかりな。しっかり見えてるぜ。「JAPAN COAST GUARD」ってな。見えてるぞ。うん、見えてる。いや待て。なんで? いやなんでだYO!
《そこの君、大丈夫かい?》
嘘だろ? 海上保安庁の巡視船? なんでだYO! でも少し小さいな。巡視艇か。でも、でも、でもなんでだYO!
《動けないのか? すまない。あまり近づくと座礁する。ゴムボートを流すからきたまえ》
いや、動けないやつに動かせるなよ! 俺は足を引きずりながら岩礁の先でゴムボートを待った。ずっと待った。ずっとな。……波に流されてるじゃねえかYO!
《すまない。船ごと乗り上げるから安全な場所にいてくれ》
ふざけんなって。俺は動きたくないの! しかも船が乗り上げたら終わりだろ! ああもう! 要はこれって走馬灯だろ? 生命活動の危機の際にぐるぐる脳が回転して最善手を探すってやつ。俺の最善手ってこれですか? わざと座礁させるのが最善手? どんだけ俺はアホなんだよ。おいおい。くるな、くるな。くるなって! 俺は急いで横の大きな岩礁によじ登った。巡視艇が躊躇せず寄ってくる。俺がこんなにアホだとは思わなかった。まあ、そんなもんだよな。みんな臨終に際して走馬灯を見てるんだ。最善手が打てたらみんな死んでねえよ。そう、みんな悪手を打っちまって死ぬんだ。俺は最悪手だけどな。
――ガガッ! ガガガガガガッッ!!
はい、おつかれー。座礁しましたー。俺は死亡でーす。とりあえず死亡確認してもらうか。走馬灯だから医者が都合よく乗ってる可能性はあるぞ。
「おーい! 俺の死亡確認してくれ!」と俺は斜め下に乗り上げた船に向かって叫んだ。
《悪いが僕は医者じゃない。物書き、いや秘匿大勇者だ》
は? 俺もう死んでるよな。いつまで走馬灯が続くんだよ。死後も耳が聞こえたりとか、その一種? 死亡アディショナルタイムみたいなやつ? なんかモノクロ写真が似合いそうなイケメンのオッサン出てきたな。なるほどな。しっかり喪服を着てらっしゃる。やっぱり俺は死んだか。ちょっと安心したぜ。死んで安心とかおかしいけどな。ん? おい、オッサン。なんで下りてこいって手を動かしてんだよ。俺はもう動けないし、動きたくないの!
「不愉快だな。なぜ僕が君に見下ろされなくてはいけないんだ?」
うん、ちょっと変な人でもおかしくないよな。アディショナルタイムなんだから。俺は、あんたこそ上がってこいと言ってやった。こっちは仏様だっつーの。
「下りたまえ。絶対は僕だ」
どっかで聞いたようなアニメのセリフだな。まあ、俺の頭の中だから、狂ったキャラがいてもおかしくないよな。俺は黙って喪服のオッサンを見下ろし続けた。
「不愉快極まりないな。君! 下ろしてやるから待ちたまえ」
それより、いつ試合終了になるんだよ。オッサンはスマートフォン使ってるし。しかも電話してるじゃん。俺、試合中に悪質な遅延行為でもした? してないよな。どういうことだよ。あれ? なんか岩礁が傾いて……るッッ! いってえ。なんでこんな目に合わなきゃなんねえんだよ! どうした俺。なんか岩礁きれいに横に切れてるし。最悪だ! 俺はアホすぎる!
「まったく君は不愉快だし、つまらない男だな。礼も言えないのかい?」
「俺はね、もう死んでるの! で、仏様なの! あんたより偉いの!」
オッサンは溜め息をついて黒いネクタイをゆるめた。
「死んでないよ。死人が喋るわけないだろ? 君は生きてる」
「でも……」
オッサンは俺の言葉を遮った。
「救助ヘリがもうすぐ来る。安静にしていたまえ。あと……」
意味わっかんねえな! なんだよ!
「スーツは悪くない。その緑のタイピンは不愉快だな。海に捨てたまえ」
俺の頭は沸騰した。このタイピンだけは、これだけは絶対に貶されたくない。元カノからのプレゼントで未練がましくても、これだけは絶対に! このジジイ、ぜってえ許さねえ! ヘリのプロペラ音が近づいていた。俺にはそんなことどうでもよかった。こいつをつぶす! 俺はジャケットを脱ぎこぶしを構えた。
§2
オッサンは俺の怒りの鉄拳を軽々とかわした。俺は残る魔力を使ってシールドを展開し、オッサンに体当たりした。なぜかオッサンの前にガラスが出てきて俺はそれに突っ込んでしまった。頭が切れたのか出血がひどい。情けねえ。俺はルナからもらったタイピンを握りしめて慟哭した。
「まがい物のヒスイかい? さては女から贈られた物だな?」
ちげえ! こいつはまがい物でもヒスイでもない。
「ジジイ! これはアレキサンドライトだ! そうだよ、好きな人からもらったんだ。俺の誕生石なんだよ!」
オッサンは黙って跪き、俺に目線を合わせた。
「悪かった。僕の名はケンサク。この世界を統べる神が僕を呼んだ」
なんて仏頂面だよ、このオッサン。挨拶のときくらい笑えよ。
「おい、その仏頂面なんとかならねえか? 気分がわりいよ」
「ん? 普通だが? 男はめったに笑わないものだ」
あっそ。言ってろよ。っておい! タイピンに触るな!
「こいつは本物だな。大事にするといい」
フン、やっとわかったか。その後、俺は軍事用の攻撃ヘリに救助された。どうやら俺は生きているらしい。くそったれ。イサムどもをぶちのめしてやりてえ! ケンサクは操縦桿を握っていたが、自動操縦にしているようだった。俺は副操縦席から声をかけた。
「なんで俺を助けたんだ?」
「さっき言っただろ? 君のことは、たまたま発見したんだ」
そうかい。俺はたまたま生かされたってことかい。気に食わねえな。くっそ!
「なんか不満でもあるのかネ?」
ったりめえだ。
「俺を捨てたイサムたちをぶっ殺してえ」
「かまわない。どこにいる? このままヘリで行くぞ」
正気か? 俺も勇者の一人だがあいつは俺らの筆頭だ。聖剣を持ってるうえに、火、水、雷、土の全属性魔法が使える。勝てる相手じゃねえ。
「この世界のことは神から聞いている。魔族勝勢で人間は王都しか残されていないんだろ?」
詳しいな。神から聞いたのか。ってことは、イサムが自堕落こいて人類滅亡の危機にあるってことも知ってるのか。こいつ何者だ?
「なあ、あんた。秘匿大勇者とか言ってたよな? それってなんだ?」
ケンサクはしばらく黙っていたが口を開いた。
「ふだんは勇者村という場所にいる。不定期に復活する竜王を倒す。あとは君たちの神が救援要請したように、危機が迫っている世界に派遣される」
一応、こいつの世界にも魔王みたいなやつがいて、暇なときは派遣で小金稼ぎか。たいそうな身分だな。
「で、イサムという男はどうする? 神は世界を救ってくれと言っただけで勇者については言及しなかった。別に殺してもかまわないが、どうするね?」
「殺してえよ、殺してえ。でも……」
一瞬、あいつらと楽しく過ごしていた新人時代の記憶が脳裏をかすめた。だが、いまの俺は阿修羅と化している。怒りで震えるこぶしが止まらねえ。
「イサムという男が自堕落なつまらぬ男だということは知っている。おそらく王都で魔族を迎撃する気だろう。どうだネ? 魔族もイサムも一掃できるぞ」
神から事前情報を得てるんだろ? こいつ自分がなに言ってんのかわかってんのか? 魔族は50年前にオーガが他の種族を虐殺した。つまり魔族すなわちオーガだ。見た目は青鬼みたいなもんだ。だが、知性は人間より上、肉体はでかいし頑丈だ。だから俺たちは敗北寸前なんだよ! それもこれもイサムがクソ野郎なせいだ! まあ、イサムがオーガの王、「王(オウ)我(ガ)」と戦っているうちにちょいとやっちまうって手もあるよな。
「じゃあ、そうしよう」
「は?」
「オーガの軍勢や『王我』と戦ってるイサムを殺すんだろ?」
笑えるぜ。こいつ超能力者かよ。しっかし、やたら自信満々というか何一つ臆してねえな。考えてみりゃ、スマホは使える、岩礁は切れる、ヘリも使える。こりゃ楽勝かもしれねえ。
「そーいや、あんたいくつなんだ?」
「そう、ずっとそれが不快だったんだ。僕は38歳だ。君は27歳だと聞いている。言葉遣いに気を付けたまえ」
「はいはい。了解っすよ、ケンサクさん」
ヘリのフロントガラスから燃えさかる王都が見えた。あのバカ、なにやってんだ! 頭がおかしくなるぜ。おっと、ケンサクがスマホを耳に当てたぞ。
「ノブさん、国王は無事かい? そうか。うん、わかった。いまのうちに人工衛星? あれの準備を頼むよ。くれぐれも父上を怒らせないようにネ」
こいついい歳こいて父親の顔色うかがって生きてんのか。情けねえな。
「ノブさんってのは?」
「ノブユキ。僕の兄だ」
「父上ってのは?」
「僕の父だ。僕の前世の仕事をよく思ってない」
こいつも転生者ってことか。父上ってのが気になるが、まあいい。どうせボンボンだろ。ああ、重要なことを聞くのを忘れてた。
「なんでスマホ使えるんだ?」
「秘匿大勇者だからな」とケンサクは淡々と答えた。
あっそ。要はなんでも許されてるってことか。俺もスマホがあって元の世界と通じればルナと話してえなあ。……いや、もう忘れよう。俺にはこの緑のタイピンだけで十分だ。タイピンに加工するのにとんでもねえ金がかかったろうなあ。愛を感じるぜ。うん、いまはルナのことは忘れよう。
「国王と家族らは離宮に避難したそうだ。オーガの軍勢の本隊はまだ来てない。空対地ミサイルでも撃っとくか」
まったく容赦ねえやつだな。こいつ頭のネジ2、3本吹っ飛んでやがる。住民を巻き込んだらどうすんだよ。
「王都の住民は軍がなんとかしてるだろ。心配には及ばない」
マジで超能力者か? それよりどうすっかなあ。イサムども、くそったれ! やっぱり許せねえ! 突然、バシュッと音がした。その後、同様の音が3回した。ケンサクはガシガシと頭を掻いていた。
「ロケット弾っぽいが、わからないな。こんなの僕の前世にはなかったからな。対戦車ミサイルはどうしたらいいんだ。ノブさんに訊いておくべきだった」
お! さっきのロケット弾らしきものがオーガの前衛部隊に被弾してるぞ。すげえな。巨体がバッサバッサ倒れてる。ケンサクはヘリのことがわからず、不時着するという。どうかしてやがる。着地の際に俺がシールドを張れば問題ないという。信じられねえが、仕方ない。頼むぞとケンサクが仏頂面で言った。俺も仏頂面で了としたことをアピールした。っておいおい。高度を下げるとかじゃなくて墜落する気かよ! マジこいつなんなんだ。俺はヘリ全体にシールドをかけた。…………フツーにヘリは着地した。俺のおかげだぞ! ケンサクは前方だけ見ていて俺の睨みに気付かなかった。王都は陥落していた。陥落の厳密な定義は知らねえ。町は焼け、往来には誰ひとりとして人間がいなかった。パチパチという炎の音と瓦礫が崩れる音だけが聞こえる。俺は内心、人類の滅亡は免れないと思った。
§3
中央広場でやつらを見つけた。ABC子は重傷で虫の息だった。イサムは無傷だったが、魔力と体力を使い果たしたのか座り込んで虚空を見つめていた。刃こぼれした聖剣、傷と煤まみれの黄金の兜、鎧、盾、脛当て、すべてが滑稽に見える。無様だな。これがいわゆる「ざまぁ」ってやつかもしれねえな。俺はイサムに揚々と声をかけた。
「あら、イサムちゃん。どうしたんでちゅかー? もうやられちゃったんでちゅかー?」
最高に気分がいいぜ。あとはこいつが命乞いしてきたところを殺す。
「ヒナタ、マジでごめん! 俺が間違ってた! 全部俺のせいだ!」
俺はイサムの左頬を殴った。ちきしょう、殴ったほうもいてえのかよ。もう一発殴ろうとしたところでケンサクが俺の腕を掴んで顔を横に振った。変人オッサンのくせにここでやめろってか。
「ごめんヒナタ。ごめん……」
「何がごめんなんだよ!」
俺はいまにもこいつを殺したいと血潮が湧いていた。
「……崖から落とした。落としました」
「ほかには? おい! ほかには?」
俺はいつのまにかイサムの足を踏みにじっていた。
「ヒナタ、もうよしたまえ。見ていて不愉快だ。止めはしない。つまらん男だ。殺すがいいさ」
ケンサクは俺の肩をポンと叩くとオーガ軍の本隊が来ると予測されるほうへ先に行くと言って去って行った。あとは好きにしていいってことかい。話がわかるじゃねえか、ケンサク。さあて、どうやってボコってやろうかな。
「ごめん」
うるせーな。
「ごめん。ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん……」
頭イカれてんじゃねえよ! 萎えるだろうが! イサムの顔を見ると呼吸はしていたが、目は光が失われ闇を見ているようだった。俺は廃人になった元勇者をただ見ていた。たしかに、つまらん男だ。このていどかよ。興ざめだぜ。さすがの俺もこんなゴミを殺す気にはならない。勝手にこいつら死んでろよ。俺はさっきケンサクが向かったほうへ駆けだした。イサムがゴミとはいえ、勇者パーティがフルボッコだ。いったいオーガはどれだけ強いんだよ。全速力で走っているうち、喪服の男を見つけた。ケンサクは北の城門前に立っていた。
「おい、ここに来るのか?」
「うん。間違いない。そのまえに灰塵となるだろうがネ」
オーガの大地を揺るがすような遠吠えが聞こえる。まだ距離がありそうだ。
「ノブさん、『ロンギヌスの槍』を100発、いや1000発撃ってくれ」
笑わせんな。「ロンギヌスの槍」? アニメの見すぎじゃねえか? 俺が言える立場じゃねえけど。
「白夜をして此れ降下す。我、天帝の命にて来たり属せしむ……」
おいおい何言っちゃってんの。いまのオーガは全属性の魔法耐性がある。「王我」にいたっては冥府の扉を開いて闇属性の魔法を使うと聞いている。そんなの勝てるわけねえ。この金持ちオッサンには社会の厳しさってのがわかってねえのよ。俺たちは詰んでんの!
「……急急如律令!!」
詠唱魔法? だっせーな、ケンサク。神から聞いてねえのか? この世界は4属性のシンプルな魔法しかないわけ。「王我」の闇属性てのは気になるが。
「ヒナタ、空を見ているといい。星が綺麗だぞ」
は? めっちゃ晴れてるぜ? ん? んんん? え! お星さま綺麗!! なわけあるかい! 超天才の俺が導き出した結論は軌道兵器。条約で禁止になってるはずだが、異世界では関係ねえってことか? コロニー落としとかじゃなくてよかったぜ。一応、この世界を救う気はあるようだな、秘匿大勇者さん!
「ヒナタ、目がつぶれるぞ。言ってる意味わかるかい?」
「わかってる。俺は後ろを向いとくぞ」
目を閉じていても明るい光源が感じられた。この世を滅却する爆音が聞こえた。王都の街路樹が激しく揺れた。おっとと。危うく強風で転ぶとこだったぜ。
「ノブさん、成功だ。あれはなんだっけ。どろろで様子を見てきてくれないかい?」
どろろ? 漫画ですか? ドローンだろうよ! 城壁が崩れていないってことは、かなり遠い位置での爆発か。マジで世界ごと吹っ飛ばす気かと思っちまったぜ。
「うん。僕は無事だ。ん? 1体だけ生きてる? そいつを追いつつ早めに『ダーインスレイヴ』を。念のため航空支援も続けてほしい。父上にも早急に連絡を。悪いね、ノブさん」
ケンサクは焦っているように見えた。想定外だったのだろう。俺も想定外だ。まさか生きてるなんてな。「王我」はバケモノかよ。実際、そうなんだけどな。さっきから城壁がガンガン音を立てて揺れてる気がするが、まさかな。俺が両手を頭にまわして口笛吹いている間に、青くてデカい物体が横を風のように通り過ぎた。やっべえぞ。やべえ! 城壁をぶっ壊してきやがった。濃紺の肉体に2本の角。体長は4メートル、いや5メートルか? とにかくでけえ青鬼だ! 闇属性魔法は誰も見たことがない。使われると厄介だ。俺はケンサクも覆う最大級のシールドを張った。なんて禍々しい面構えしてやがるんだ。こいつモテねえだろ。いや、そんなこたあどうでもいい!
「ヒナタ、あいつが『王我』なのかい?」
「たぶんな。いや、間違いねえ」
――人間、これは俺が魔族の王と知っての狼藉か?
ケンサクは返事もせずスマホをいじっていた。あんた、いつの時代に死んだの? だよな、そりゃ怒るぜ。俺もキレてるからな、こいつに。 無視はよくないぜ、オッサン。「王我」が片足を引いて低い姿勢をとった。おいおい、くるぞ! 俺の魔法じゃ絶対に防げねえ。マジでやべえぞ!
「おーい! 『王我』君! 君は、花は知ってるか?」
バッカヤロウ! 余計に怒らすだけだろ! 俺らより頭いいんだぜ? この世界のすべての花の名称、学名まで答えちまうだろうよ。ん? オイ! 町を空爆するな! 住民が避難しているとはいえやりすぎだろ!
「知らないか! 花! 大勢でやると楽しいぞ!」
そっち? フラワーじゃなくて花札かい。はい、詰みましたー。花だけにねー。詰む・摘む、俺やっぱSUGEEEEEわ!
「残念だ。もう君は知ることすらできない」
ケンサクは叫ぶのをやめて普通の調子で言った。空爆は止んでいた。「王我」の巨体には何本もの線が入っていて、ところごころから蒸気を発していた。
「あれで人類より頭脳明晰とはね。不愉快だな」
ケンサクはいっさいの動きを止めた「王我」に向かって歩きだした。よくわかんねえけど、岩礁を切ったものを使ったのか? 俺にはチンプンカンプンだった。それより土煙がすげえな。ケンサクも「王我」の姿も見えなくなってきたぜ。
§4
凄まじい土煙が消えるまで随分と時間がかかった。俺はその間に「王我」を含め、オーガ軍が全滅したことを直感していた。それは現実となった。だが、城壁外に広がる夥しい数のオーガの死体には吐き気を覚えた。魔族とはいえ、オーガは俺たち人間に近い種族だ。ケンサクが顔を突き出して目を見開いた。おい、嘘だろ? 「王我」は首から下を失ってなお生きていた。ニタニタとこっちを見て笑ってやがる。笑いたいのはこっちだぜ。からかってやろうと考えをめぐらしているうち、タイピンがないことに気付いた。嘘だろ? どこに落とした? まっじかよ! まじで?
――小僧、おまえが探しているのはこれか?
「王我」はタイピンを乗せた真っ赤な舌を揺らした。ふっざけんな!
「ヒナタ、『王我』のハッタリかもしれない。用心したほうがいい」
そうだな。仮に本物だとしてもあいつが絶命したあと取り出せばいい。きたねえけどな。ん?なんだこの腐臭は。ちっきしょう! あの「王我」、瘴気を出してやがる。ただでは死なないってことか! ざけやがって! 俺は「王我」めがけて走った。くっせえ唾液まみれのタイピンを取ると、「王我」に侮蔑の目線を送ってやった。よかった。よかっ……た。取り、戻せ、た。体の力が抜けていく。くそったれ、「王我」!
「ヒナタ……。なぜシールドとかいう魔法を使わなかった?」
は? そんなこと考えてるヒマなかったんだよ! こいつはそんなこともわかんねえのか。オッサンのくせによ。
「必死、だった、んだよ!」
「そうか」
ケンサクは転がっている俺を仰向けにすると、腰を下ろし暗くてジメッとした視線を向けた。まだ死んでねえよ。でも、今回はマジで死ぬ。俺はアホだからな。意識がしっかりあるうちに最善手を打たねえと。俺はケンサクにタイピンを差し出した。
「不愉快だな。『王我』の唾液タイピンなどいらない。君が冥土に持って行きたまえ」
ふざけた野郎だ。とにかく受け取れケンサク。俺も元カノなんかにこだわってるのは意味不明だが、これがいまの俺のすべてだ。生きた証だ。受け取れ、クソジジイ! 俺は力の抜けた腕を地面に下ろしタイピンを手放した。
「……冥土に持って行きたまえ。君の大切なものだろ?」
いいんだ。これが俺の最善手。こいつに託すことが最善手。ケンサクは黙って頷くとタイピンを手に取って朱色の空にかざした。そうだ、それでいい。
「見たまえ。緑から赤に色が変わったぞ。正真正銘のアレキサンドライトだ。本当にいいのかい?」
俺はコクリと首を下げた。こいつ、実はいいやつなんだな。いまのは周囲の炎で赤く見えただけだ。わからねえとでも思ったか。そっか、本当にまがい物だったんだな。フツーに考えてそうか。ルナが途方もない金を払えるわけねえんだよ。ま、いいぜ。俺は最善手を打った。ケンサクはタイピンを着けると俺の手を強く握った。なにしやがる。感覚ないのにいてえよ。つーか、喪服に緑のタイピンは笑えるぜ。こりゃいい冥土の土産だ。あーあ、死にたくねえな。死にたくねえ。本当は死にたくねえ! っておい。だからそんなに強く……。ん? この掌のぬくもりはなんだ? そうか、そりゃ気の毒だな。
「そう、僕も遠くない将来に死ぬ。そういう運命だ。だから死を恐れるな」
そんな仏頂面で言われてもなあ。俺は腹と喉に力を込めた。
「ケンサク! 男が笑ってもいいんだよ! 俺はこれから死ぬんだ! 笑顔で見送ってくれ!」
ケンサクは俺の手を握り続けていた。こいつに握られている手だけ感触が、温かみを感じる。なんでだ? わけわかんねえけど、俺を泣かせないでくれ。笑って死にたい。
「僕はずっとここにいる。安心したまえ」
ケンサクは優しい目をして微笑んだ。やればできるじゃねえかよ! なかなか眩しいぜ。てめえが次にどの世界に行き、誰と会うのか俺は知らねえ。でも、絶対にその笑顔を忘れんなよ、ケンサク。いいやつなんだから損するぜ。俺は走馬灯をなかば心待ちにしながら空をずっと見上げ続けた。
§5
この村に普通の人間はいない。村民は転生前に何らかの偉業を成し遂げた人たちだ。たとえば、隣人のコウメイさん。おそらく、蜀の軍師だった人だろう。彼の真向かいにはユリウスさんが住んでいる。たぶん古代ローマの政治家だろう。
私は何の偉業も成さず38歳で過労死した元会社員だ。5年間、不眠不休で働いたことが評価されたのだろうか。いまは文字通り晴耕雨読の生活で気楽に暮らしている。
村民の多くは転生してから竜王討伐を果たした勇者ばかり。でも、おっかない人はおらず、優しい人たちばかりだ。こうして布団に転がって本が読めるのも彼らが竜王を倒した平和の上に成り立っている。幸福感を抱きしめながら読書していたら家のドアを叩く音がした。
私は、どうぞと声を張り上げた。名は知らないが大柄な男が入室してきた。
「おまえ、カナタだな。村長が呼んでいる。いますぐこい」
私は部屋着のまま村長のもとへ行った。村長はスーツ姿で身綺麗にしていたが、禿げ頭だった。頭の角度を変えるたび光の反射が変わるので私は口元が緩むのを抑えるのに必死だった。
「カナタ、いますぐ竜王討伐に向かえ」
ん? 聞き間違えかな。私は黙っていた。
「知ってのとおり、この村は類を見ない高齢化が進んでいる。何の才も持たぬおまえを行かせるのは心苦しいが理解してくれ。この村で最年少はおまえなんだ」
最悪だ。他に強い人いるだろ! 言葉を発する代わりに舌打ちしてしまった。と同時に背後に誰かいるのがわかった。
「仕方ありませんね。ところで私の後ろにいる御仁は?」
村長は首をもたげて頭を光らせると、
「ケンサク、出てこい」
と言った。
私の横に黒服の男が並んだ。ちらと目をやると黒髪短髪、黒いネクタイに礼服。横顔は凛としていて男前だと思われる。しかし何で礼服、いや喪服なんだよ! タイピンが緑なのもおかしい!
「カナタ、おまえを勇者総代に任ずる。秘匿大勇者のケンサクとともに竜王を討伐せよ」
「はあ……。しかし、秘匿大勇者なら一人で十分なのでは?」
村長は髪のない頭を掻いた。
「おまえが同行する理由はそのうちわかる。竜王が何度も復活することは知ってるな? 今回現れた竜王は最恐で最強のようなのだ。とにかく頼む!」
若干ふざけた言い回しが気に食わなかったが私は了承してケンサクとともに村長の家を辞去した。村人の喝采を浴びながら村門をくぐった。数歩先を歩いていたケンサクが振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
こいつ何様だよ! 強情そうだったので帰宅して髭を剃り、喪服に着替えてすぐ戻った。
「随分いいじゃないか。じゃあ、行こうか」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。なんだよ、性格悪いキャラじゃないんかい!
§6
ケンサクは道々、転生して日が浅い私に世界の説明をしてくれた。町は王都を含めて4つ。ダンジョンはない。王都はスルーして竜王城に行くのが最短コースで歴代勇者もそうしてきたらしい。 竜王討伐じたいは楽勝らしいが、神出鬼没の竜宮城に行ってしまうと厄介なことになるようだ。
「ありがとう。ところでケンサクは何歳なの?」
「38歳だよ。僕ら勇者は不老なのにオッサンなのが不愉快だ」
おいおいおい。もろもろ最年少だから抜擢されたんだろ。見た目は変わらなくても体力や精神力は衰える。ムサシとコジローの決闘はいまなお毎日行われているが、老人の戯れにしか見えなかった。
ケンサクは石ころを蹴ってふて腐れていた。子供っぽいやつだが、同年齢なのは嬉しい。こいつは秘匿大勇者だし、私は従者みたいなものだろう。しかし、秘匿大勇者なんて伝説だと思っていた。世界を1億回破壊できる力を持つと聞いている。それ以外の情報は秘匿されている。マジでケンサクだけで十分だろ。私の存在意義なくね? ムカついたので舌打ちした。ん? もしかして後ろの雑木林に何かいるのか? 私は首をかしげた。
「カナタ、君の前世は盲目だったのかい?」
ケンサクが不可解だという目線を私に向ける。
「いや。なんで? 違うけど」
「君が使ったのは反響定位だよ。後ろのゴブリンに気づいたろ?」
舌打ちは癖だと弁明した。過労でイライラして舌打ちばかりしていたのだろう。3年目くらいから周囲を見なくても物事が把握できた。あれは反響定位だったのか! なるほどと合点し、舌打ちじゃなくても可能ではと閃いてバチンと指を鳴らした。 フィンガースナップでも大丈夫みたいだ。
「体長1メートルくらいのが、30。いや、50体はいるな。棍棒を持ってる」
「わかった。僕は詠唱に入る。攻撃合図は総代の君に任せる。いわばパーティリーダーだからね」
詠唱? この世界に魔法はないぞ! っておい! なんでスマートフォンなんか持ってんだよ!
「やあ、ノブさん。久しぶりだね」
フツーに電話するんかーい! オイオイオイッ! 雑木林からめっちゃ走ってくるぞ!
「うん。うん。それで頼むよ。……急急如律令!!」
最後だけ呪文みたいなこと言ってごまかしたな。「秘匿」ってスマホのことかよ。前世と連絡がとれる秘匿回線の「秘匿」? 異世界アニメのテンプレのようなゴブリンらが長い舌から涎を垂らして駆けてくる。終わりだ。せめて苦しませずに殺してくれ……。私は目を閉じた。
「カナタ、そろそろ近づいてきたかい?」
「すぐそこだよ! もう終わりだ!」
頭を抱えてしゃがんだとたんにゴブリンの足音が消えた。私は恐る恐る顔を上げた。ゴブリンらが痙攣しながら倒れている。
「ケンサク! 何したんだよ!」
私は恐怖と安堵と怒りが胸中で混在して彼に詰め寄った。
「あー、ノブさん? 助かったよ。父上にもよろしく。じゃ」
人の話聞いてねえなこいつ。私は溜め息をついた。
「いまのはノブユキ、僕の兄の仕業さ。鋼鉄の矢を1万本ほど所望したんだが、毒でも使ったのかな。僕にもわからない」
え? そんなのアリ?
「どうせ知れることだから、いまのうちに君に伝えておこう」
ケンサクによると彼の能力は前世に存在していた森羅万象に干渉し、召喚・使役できるものだという。父は大財界人で不仲だったが和解。まだ気まずくて兄を通じて連絡をとっているそうだ。
「前世の森羅万象? イージス艦も召喚できるの?」
「僕の時代にはなかったがね。召喚可能だよ。しかし不快だな。早くここを去ろう」
ケンサクはスマホを耳に当てた。しばらくすると陸上自衛隊の高機動車が顕現した。彼はハンドルを握ると私に乗るよう手招きした。窓に頬杖をつきながら私は思った。最初からこれに乗れよ!
§7
ひたすら退屈な湿原を抜けて2日が経過した。ようやく町が見えてきた。ケンサクは「不愉快」とか「不快」などとネガティブな言葉を連発していた。
「いったい何がそんなに不快なの?」
ケンサクはキッと鋭く私を睨んだ。
「わからないかい? さっきから寒いんだ」
たしかに寒い。町への距離が縮まるたび寒くなっている気がする。
「君の懐は寒くないかネ?」
失礼なやつだ。とくべつ困っていない。
「ケンサク、なんか街並みがおかしくないか?」
門の正面からでも町が凍っているのがわかった。この先に続くツルツルの道を高機動車が滑らないという保障はない。
「おもしろくないな」
意外にも車両は滑らなかった。ケンサクは不満そうに口を尖らせていた。街並みはゲームやアニメでよく見る中世ヨーロッパ風。往来に人はいない。ケンサクは車を停車させて言った。
「町が静かだ。反響定位で何かわからないかい?」
私は目を閉じ、何度か舌打ちした。遠くて正確なことはわからないが、町はずれの湖が波打っている。ケンサクにそのことを伝えると、地図を持って一人で湖に向かうと言う。
「ノブさんに三ツ星ホテルを用意させるから、君は休んでいたまえ」
文句を言っても仕方ないからスイートルームでくつろいだ。コラコラ! 私は何をやっているんだ。起立してフロントに架電した。
『はい、フロントでございます』
「町の人たちは無事ですか?」
『おそらく凍ってらっしゃるかと……』
私は礼を言って受話器を置いた。あれっ? どうも体が臭う。入浴して身を清めた。バスローブに身を包みベッドに腰かけていると爆発音がした。ホテルも揺れている。私は喪服を着て湖へ急いだ。巨大なウナギが砕けた氷に挟まって身動きできなくなっていた。湖を凍らせたのか。
「ケンサク! なんだこのデカいウナギは!?」
「ゆっくりしてればいいのに。さっき氷竜と名乗ってたな」
「じゃあ、こいつが竜王なのか?」
ケンサクはかぶりを振って竜王はこんなにザコじゃないと氷竜を挑発するような仕草をした。
――おのれ人間! 許さん!
おいおい、怒らしてるじゃないか。なんとなく凍てつくブレスを吐いてくる気がする。ケンサクにブレスに注意するよう訴えた。
「たしかにブレスは危険だ。君もくれぐれも注意したまえ」
は? 注意に注意で返してきたか。私は腕組みしてプンスカしていた。
「ノブさん、座標どおりに」
ケンサクが湖に背を向けて走ってきた。
「急げ! 逃げるぞ!」
そう言うとケンサクは私の手をギュッと握った。えっ? まさかそういう展開?
オッサンでもこういうのアリなのね!
「ケンサクぅ! ちょっ! まっ……」
――ぐああああ。人間め! ぐあああああッ!!
湖は炎の海になっていた。私はモジモジしながらケンサクを見た。
「航空支援を要請しただけなんだけどな」
彼は頭を掻いた。氷竜の断末魔とともに町の氷が溶けていく。
「町民が氷解して出てこないうちに立ち去ろう。話しかけられては面倒だ」
高機動車で町を後にした。……人とのふれあい皆無!
「次は山登りだが、今日は厳しそうだな」
ハンドルのうえに顎を乗せたケンサクが退屈そうに言った。私は彼に停車を求め、指を鳴らした。草花が揺れてるだけで問題なさそうだった。また三ツ星ホテルが現われた。平原に豪華絢爛なホテルがぽつり。私は溜め息をついた。
「カナタ、不愉快なら不愉快だと言ってくれよ?」
「不愉快じゃないよ。おもしろくない」
ケンサクは肩を大きく揺らして笑い出した。変なこと言ったかな?
「僕もおもしろくない」
ケンサクは私の顎に触れ、持ち上げた。ま、まさかの顎クイ!? オッサン同士でもアリかもしれない。私は生唾を飲み込んでケンサクの目を見つめた。彼は私を見つめ返すと、
「君は髭が伸びるのが早いようだ。早く剃りたまえ。不愉快だ」
と言い残してホテルへ入っていった。私は地面に尻をついて呼吸を整えていた。あぶねえ! 新たな扉が開くところだった。遠くに見える湖はまだ燃えていた。
§8
ケンサクは前世の記憶から登山が苦手らしく登山口でひねくれていた。たまりかねて私は激励した。
「この山を越えれば次の町だろ? 頑張ろうぜ」
「山道も見えない霧の中を君は行けというのか!」
ケンサクが警戒するのもわかる。さっきまで晴れていたのに登山口に立った瞬間から霧が出て数歩先しか見えない。こういう現象はよくある気もするが、私は低級登山で遭難したことがあるので明日でもいいと思った。
「ケンサク、明日にしよう」
「それがいい。ここにはメデューサ狼がいるからネ」
は? メデューサ狼とは何ぞ? 登山口から平地へ下る道中でずっとそれについて考えていた。
「気になるかネ?」
察しのいいやつだ。
「メデューサと狼が合体してるんだ」
そのまんまかい! ネーミングセンスも悪いし。
「やつの気配を感じて君に怒鳴ったというわけだ。すまない」
ウソつけ! 濃霧の山が恐かっただけだろ。素直じゃないなあ。私も恐かったので二人して山からだいぶ離れた平地まで来てしまった。
――ワン! ワンワン!
「メデューサ狼が鳴いているようだな。危なかったよ」
ウソも大概にしろよ、このオッサン! 野犬かなんかだろ。ケンサクは仕方ないと溜め息をつくと、
「術式展開、4、5、6番を解放」
とほざきはじめた。さすがに私も慣れた。どんなことが起ころうと驚きはしないだろう。氷竜を倒す際にBLルートへ入りかけたときは焦ったが。ケンサクはスマホを耳に当てた。
なにが術式展開だ。ここは魔法とか妖術とかない剣と竜のピュアなファンタジー世界なんだよ! ……たぶんね。
「ノブさん、発射管の用意ができたら随意発射してくれ」
発射管? 魚雷でも撃つのか? ケンサクはしゃがんで何やらブツブツ言いだした。
「呪道の44 ゼログラビティ!」
何を言ってんだこの人。 えッ! 山がなくね? 山がなくなってる!! ケンサクを見ると彼もあんぐりと口を開けていた。
「失敬。どうやら西暦でいうところの1万4千年ぐらいの兵器らしい」
この人、一般的な異世界ファンタジーの魔王ですよ、魔王! パワーバランス滅茶苦茶じゃん。竜王が心配になるわ!
「ゼログラビティってことは宇宙空間にすっ飛ばしたってこと?」
「すまない。僕にはさっぱりだ。それより先を急ごう」
そう言うとケンサクは歩きだした。いや、その、自動車に乗らないの? ケンサクが生きていた時代は徒歩が当たり前だったのだろうか。私たちは7時間かけて町に到着した。ケンサクは肩で息をしていた。自業自得だ。
「こんなことなら車夫を呼べばよかったな」
おせーよ。人力車のことだろうか。町の門番に挨拶すると突風が私たちを門壁に吹き飛ばした。私は近くに倒れていた門番に声をかけた。
「これは怪物の仕業ですか?」
「し、漆黒竜……の」
門番は息を引き取ったかに見えたが、脈はあったので安心した。
「カナタ、空を見たまえ。トカゲが空を飛んでるぞ」
これまた中世ヨーロッパ風の家々の上空をトカゲが、正確には翼の生えた黒いトカゲが悠々と舞っていた。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。もうこの人、魔王じゃん!
§9
凄まじい暴風が吹き荒れていた。美しく整列している街路樹は切れたトカゲの尾のように激しく揺れている。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。
「なにがそんなに楽しいのサ?」
「楽しいよ。前世の『存在しない記憶』に爬虫類を殺して愉悦に浸る僕がいる」
え。怖いんですけど、いろいろ。ケンサクはスマホを耳に当て、続けた。
「僕ら勇者が縄張りに侵入したことで怒ってるな」
「じゃあ、総代の僕が交渉してくるよ」
私は、危険だと忠告するケンサクを振り切って漆黒竜の真下へ駆けて行った。ケンサクばかりに頼ってはいられない。オッサンとはいえ私は勇者村の総代! 話し合いで平和裏に終わらせて見せる!
――人間よ、小さき者よ、我がパーソナルスペースを侵害したな?
はい? なんだか言葉に重みがないな。
「甘美なる懺悔、遮光の雷、万事聖戦、天上で伏す……」
ケンサクやめてくれ! まだ交渉すら始まってない!
「……急急如律令!!」
風がピタリと止んだ。木々の揺れが徐々に収まり往来の紙屑がカサッと転がった。私はケンサクに詰め寄った。
「平和的解決の余地はあっただろ! 総代の意見が聞けないのか!」
ケンサクの目には冷たい光が宿っていた。
「総代? 悪いが僕は秘匿大勇者なんだ。単独行動を許可されている」
不愉快だと告げるとケンサクは空を見上げた。
「ゼログラビティではないよ。飛び回るトカゲに撃っていては町を巻き込みかねないからね」
私は黙っていた。ケンサクは軽トラを顕現させて乗り込んだ。ツッコミを入れる気にもならず、私は助手席を避け荷台に乗った。町を出てしばらく走ると草原に漆黒竜が血を流して横たわっていた。翼と尾、四肢が見事に切断され、両目が潰れていた。
――人間よ、小さき者よ、
ケンサクが車外に出て遮った。
「だまれ! 貴様に日本人の悲しみがわかるか? あれは西暦4713年9月の台風11号……」
私はツッコミ衝動を抑えて黙していた。
「富士山頂に建立されたセイントタワーを粉微塵にしたんだ!」
なかなか興味深い。だが、前世の未来に私はいないのだからどうしようもない。その台風11号を漆黒竜にぶつけたのか。
「そこで朽ち果てろ、トカゲ!」
ケンサクはトカゲに恨みでもあるのか、何度も雑言を吐いて運転席に戻った。
――tjrておhgbん;あklがこおあkg:45t0うくぁ:亜fヴぁ:」gk;
漆黒竜はおぞましい呪言を発して私たちを嘲笑った。不愉快だと言わんばかりにケンサクはスピードを上げた。オッサンがいつまでも仲違いしているのはみっともない。次は最後の町のはずだ。私はアオリに手をかけ、サイドミラーに映るケンサクに手を振った。無視かよ。しかも深刻そうな顔しやがって。ってアレ? なんで海の中を走ってるんだ? そうか。竜宮城に来てしまったんだな。海中を漫然と眺めていたら地上に戻っていた。目の前には「竜宮城」と表記された看板が立っていた。看板こそ古臭いが外観は私が知る歓楽街の造りだった。ケンサクはさっさと入店してしまった。何を考えてるんだ? よく考えろ! 見るからに接客を伴う飲食店! だめだ! 絶対にだめだ!
「おにいさーん! 友人さんが呼んでますよォー!」
私はセクシーなドレスを着た女性従業員に呼ばれ…………フツーに入店した! 何をしているんだ俺はー!! ケンサクはすでにボックス席で酒を飲みながら従業員と歓談していた。酒に弱いのか彼は上機嫌で隣に座るよう手招きした。私たちの相手をしてくれたのは特別美人ではないが、愛嬌のある女性らだった。ケンサクはグラス片手に、
「君たち、花は知ってるかネ?」
と笑った。
女性らは困惑した表情で首を横に振った。花? 花札のことか。知るわけないだろ! ケンサクは急に真剣な表情で隣の女性の肩に手をまわし、
「俺と一緒にどこかへ行く気はないか?」
と首元で舌なめずりした。女性はケンサクを突き飛ばした。きめえ。っつーか、アホだろ。
「オイ! そこは『連れてって下さい』だろ! 脚本どおりにやれよ!」
や、いやいや、ただの迷惑客じゃん。異変に気付いたのかボーイが走ってきて一礼した。
「お客様いかがなされましたか?」
「不愉快で仕方ないよ。花も知らない、脚本も知らない、こいつら素人だろ?」
いや、あなたが狂ってるだけです。ボーイは謝罪するとカードゲームが可能な準VIP席に案内すると言った。ケンサクは断ってVIPルームに案内するよう激昂した。ボーイは姿勢を正すと、
「かしこまりました。『竜王の間』は10年分の時間を頂戴しますがよろしいですか?」
とケンサクに冷たい視線を送った。ケンサクは満足そうな顔で頷くと気だるそうに仰け反った。ま、まさかこれが狙いだったのか! まったくイミフだったけど。すげえよ、ケンサク!
っておい! 寝てんじゃねーよ!
§10
ボーイはVIPルームこと「竜王の間」まで案内した。いたって普通、というか当たり前か。しかし、10年の代償はでかすぎる。不老とはいえ村長や村の住人、ひいては世界を待たすことになる。
「君、いつまでそこに立ってる気だい? トカゲ臭くて不愉快だ」
ボーイは一瞬、目を丸くしたが辞去した。ケンサクはポケットに手を突っ込みながら、
「僕らは運よく仲違いしている。僕が逃げろと言ったら逃げろ」
と語気を強めた。
「それは……」
ケンサクは私の発言を遮って続けた。
「僕らは知り合って日が浅い。どちらか生き残っても心の桎梏にはならないだろう」
「わかったよ」
ケンサクはドアの取っ手を掴んだ。瘴気がドア越しに漂っている。彼はスマホを取り出すと架電した。ええっ? これから行くぞって雰囲気だったろ!
「ノブさん、おそらく僕は竜王城に転送される。素早く位置を探ってほしい。あと……」
ケンサクは目を閉じて深呼吸した。
「あと、秘匿大術式を使う。父上の了承も得ておいてほしい。あと……」
どんだけ注文多いんだよ!
「これまでありがとう、兄さん」
とケンサクは天井を見上げた。私はあさっての方を見て目から水が出るのを防いだ。通話を終えるとケンサクは一気にドアを開き、その先に広がる禍々しい混沌に進んで行った。私も彼に続くと目の前には広大な砂漠が広がっていた。城ではないのか? ケンサクも無事に転移できたようで私と同様に困惑しているようだった。
――来たか、愚かな人間ども。我が名は、
ケンサクが竜王らしき声を遮った。何度目だよ! 人の発言を遮るな!
「バハムートだろ?」
――否! 我が名は秘匿大竜王、スーパーサブドラゴンなり!
だせえ! クソだせえ! 私が笑いをこらえていると太陽を背にして、走る光の先端を散らしながら赤い巨大な竜が着地した。私は目を見張った。2対の翼を有していた。軽く翼を動かすだけで暴風が吹き、目に砂が入る。
「カナタ逃げろ!」
私はケンサクのほうを向くと黙ったまま立ち尽くした。
「大丈夫だ。僕の知るかぎり149番目に危険な兵器だ。『ロンギヌスの槍』というやつだ」私は依然として立ったまま動かずにいた。
「逃げろ! 総代! 絶対に振り向くな!」
秘匿大竜王の口には炎が渦巻いていた。全滅は避けなければならない。そう、彼とはただの知人。わずかな時をともにしただけの秘匿大勇者。私は対峙する両者を背に駆け出した。地鳴りに足を取られ、暴風で転倒。とにかく必死に逃げた。時折、空がほのかに赤く染まった。竜の火炎かもしれない。それでも私は振り返ることなく走った。149番目に危険な兵器か。私を安心させるための嘘だろう。「ロンギヌスの槍」というのも使い古された感がある。ランナーズハイで心地よくなってきた。綺麗に晴れ渡った空には星が光っている。晴れているのに星が見えるのは珍しい。ん? 待て待て! 昼に星が見えるわけないだろ! 私は立ち止まってしまった。無数の星々が近づいてくる。いや、あれは星じゃない!! 眩しい光に私は目を覆った。耳を突き刺すような爆音がした。しばらくして、無重力で宙を飛んでいる感覚がした。
――勇者様! 勇者様!
誰かの声に目を覚ました。体に力が入らず目もよく見えない。人々の歓声が聞こえる。いったいここはどこなんだ? 徐々に開けていく視界に私を眼前で熟視していた兵士が破顔した。周囲に目をやると、ひどく荒廃した城のようだった。ケンサクの姿は見えなかった。
「勇者様、ありがとうございます!」
兵士は私の手を強く握った。
「竜王城もこの有り様ですよ! 本当にありがとうございます!」
私が目を覚ましたことに気付いたのか周囲の兵士らも参集した。10年も経ったのにこの人たちは私を覚えているのか?
「みんなは私のことを覚えているの?」
兵士らは一堂に頷いた。そうか……。それはよかった。
§11
10年を浪費し、勇者村のみなに合わせる顔がない私は王都の秘匿近衛師団長になった。私にまったく剣の心得がないから秘匿したいということなのか。わからない。この世界の創造主は「秘匿」が好きらしい。階級的には大将と同格だそうだ。爵位は固辞した。師団といっても秘匿されているだけあってわずか100人の小さな部隊。有事の際の兵力は100万人とされているが、大嘘もいいところだ。もはや秘匿できないじゃん。竜王の復活は不定期だが、秘匿大竜王を倒したから少なくとも50年から100年は安泰なのではないかと思っている。ケンサクは戦死とされ国葬が執り行われた。元帥格のドラゴンスレイヤーの称号と公爵位を授与され、国王自ら弔辞を読んだ。最後の戦いから約1年経ったが、訓練場で部下らはいまだに竜王との戦話を聞きたがる。ほーら、またワラワラと寄ってきた。もうネタ切れでうんざりしている。みるみるうちに目に好奇心を宿した若い兵士らに囲まれてしまった。何を話そうか迷っていたら突風が吹いた。訓練場を囲む王城森林の枝が激しくぶつかった。私は揺れる緑をずっと見つめていた。
――なんかヤバい!
私は総員に警戒態勢を命じ、舌打ちした。森林のなかを誰かが歩いてくる。体格は男性。ん? 軍人なのか? 挙手敬礼をしている。つまり、向こうも軍人でこちらを友軍だと把握しているが、互いに見えないから敬礼しているということか。私は総員に敬礼を命じた。なかなか壮観だ。再び舌打ちして相手の位置を確認する。もうすぐ森林から出てくるな。ん? ん? 敬礼ではないぞ! 耳に物を当てている!! 男が姿を現した。喪服を着用していた。黒ネクタイに緑のタイピン……。
「総員、なおれ! こいつに敬礼はいらない!」
ちょ、ちょ待てよ! 部下らはなぜ兜を脱いで頭を下げてるんだ?
「不愉快だな。とくに指揮官。君はどうして最敬礼しないのかな?」
男の、いやケンサクの瞳は潤んでいた。私は崩れ落ちて涙した。人前で落涙するとは情けない。
「やればできるじゃないか指揮官。僕は陛下に拝謁する。君も同行したまえ」
ケンサクは泣き声だった。情けないやつだ。私は涙を拭くと先を歩くケンサクに続いた。しばらくしてケンサクは振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
相変わらず何様だよ! このくだりはもうやっただろ!
「随分いいじゃないか。男の醜い嫉妬だよ、カナタ」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。私は素直に微笑み返した。
§12
王立学園第3高校の卒業式を取材している。生徒は退屈そうに俯いていたが、校長やPTA会長の話は本心だと思った。四十路になって概ね世の摂理がわかってきた。卒業証書授与が始まる。僕は急いで壇上に上がった。テレビカメラマンたちが鬱陶しい。総じてテレビカメラマンは大柄な男性と相場が決まっている。記者歴が長くなり、神経が図太くなった。大柄な男性に体当たりしてでも写真は絶対に撮る。卒業生代表が登壇すると同時に、僕は素早く校長の右斜め後ろに回った。よかった、テレビカメラは左に行った。僕も映ってしまうけれど、報道陣が映り込んでしまうことなんて日常茶飯事なので気にしない。校長のおめでとうの一言からシャッターを連写で切る。生徒の顔が写らないよう賞状を受け取って頭を下げている瞬間の写真が欲しい。となると早くから連写しておいたほうがいい。
写真の出来は上々だった。代表生徒が降壇した。予定稿は用意してあるから、そこに校長、PTA会長、卒業生答辞の一言を入れるだけ。これで今日の仕事は終わりだ。エルガーの『威風堂々』が流れるなか、卒業生らが退場していく。この学校は退場でエルガーを使うのかと少し不思議な感じがした。保護者がスマホやハンディカメラで我が子を撮影しているのがみっともない。まばらな拍手で卒業生たちが可哀そうだ。主役は卒業生なのに。日本と全然変わらない。この世界の神は何を考えているのだろう。記事を出稿したら会いに行ってみようかな。取材と称して。
出稿を済ませると神に面会するため神殿へ向かった。まるで役場のような造形に唖然としてしまった。自動ドアを抜けると壁に案内板があった。神の執務室は2階らしい。6階に喫煙室があるのがありがたい。一服してから神に面会することにした。二つ目の自動ドアを開けると様々な窓口があって本当に役場のようだった。が、人はいない。エレベーターのボタンを押し、4階から下がって来ることを示す電子パネルを凝視した。
《ドアが開きます。ご注意ください》
こんな細部まで日本に寄せているのかと閉口した。ドアが開くと、綺麗な白髪に瘦身のいかにも紳士という老人が出てきた。老人は軽く会釈して去っていった。エレベーターに乗り、6階のボタンを押す。監視カメラがないか警戒しながら唇を触っているうち6階に着いた。目の前に喫煙所があった。というより、灰皿が置かれたテーブルがいくつも配置されていて、このフロア全体が喫煙室のようだった。誰もいないので、すぐそこのテーブルに煙草とライターを置いた。潔癖症ではないけれど、椅子を手でサッと確認してから着席した。
煙草に火をつけて紫煙の行方をぼんやり眺めた。静かで心地よくて天国のようだ。うつらうつらとしていたら、灰皿に手をぶつけてしまった。テーブルに少し灰が飛び散った。灰皿も昔の会社の応接室にあるようなもので、どこまでもこの世界は日本を模倣しているのだなと残念に思った。どこまでも残念なこの世界。壊れてしまえばいいのにと僕は願った。
§13
願ったところで何も起こらない。当たり前だ。前世を悔やむことはないけれど、妹のルナがどうしているのか気になる。彼氏にアレキサンドライトをプレゼントしたいと頑張って働いていたから、僕もできることなら支援してあげたかった。ヒナタ君だったと思うけれど、口が悪くて第一印象は最悪だった。ルナが彼のことを話しているときは常に目が輝いていた。幸せなんだな、いい人なんだなとわかって、僕は余計な介入はしなかった。ルナはアレキサンドライトをネクタイピンに加工したいと言っていた。どだい無理なことはわかっていたけど止めたりはしなかった。僕は宝石に詳しくない。ヒスイより高額なのは確かだろう。いずれにせよ、二人が幸せであってほしい。
灰がテーブルに落ちた。いつまで僕は煙草を吸っているのだろうか。灰皿のなかには8本の吸い殻が転がっている。
《ドアが開きます。ご注意ください》
誰か来たようなので僕は9本目の煙草を揉み消した。姿を見せたのはさきほど1階ですれ違った老人だった。ほかのテーブルに行けばいいのに、彼はわざわざ僕の向かいの椅子に腰かけた。
「あまりに綺麗な方だったので追いかけて来てしまいました」
ちょっと変な人かもしれないけど、そういう人への対応は慣れている。
「よく言われるんですよぉ。ミスSLASHにエントリーしようかなぁ」
作り笑顔が得意なのは芸能人だけじゃない。マスコミだって得意だ。入社時の研修で社会部長から笑顔で話しかけるよう指導された。
「もしかして、報道関係の方ですか?」
今日はパンプスにグレーのスラックス、淡いブルーのブラウスに濃紺のジャケット、いかにもマスコミという出で立ちだから仕方ないかもしれない。僕は、そうですと笑顔を見せてこめかみを押さえた。1年のうち280日くらい頭が痛いので慣れているけど、いま感じている痛みはいつもより強い気がする。僕は不機嫌だということを示すためにわざと視線を落とした。
「あ、すみません。大勇者様にお会いするとは思わなかったもので。あっしはこの世界の勇者、ギンジでがんす」
あっし? 勇者? で、僕のことを知っている!? しばらく牽制して様子を見よう。
「この世界の勇者様ですか? 僕は新聞記者のミオリといいます」
「かの勇者村から来られた大勇者のミオリ様ですね! 存じているでがんす。しかも40歳! お若い!」
やかましいわ!!
最近、中二病こじらせて「僕っ娘」やってたけど面倒になったわ! 全然若くねえんだよ! 友達のA子、B子、C子、D子、みんな既婚で子持ちだわい! 女性ホルモン減って男性ホルモン優位になっとんじゃい! これ以上イライラさせんな!
「それでギンジさんは私に何のご用ですか?」
「伝えに来ただけでがんす。あと15分もすれば恐怖の大王が空から降臨するでがんす」
「そうなんですね」
荒唐無稽な話だけど、本当だとしたら願ったり叶ったりだ。私は嬉々として煙草を吸うと鼻から煙を噴射した。もう世界が終わるんだから女らしく振る舞う必要なんてない。そもそも私は風呂キャンセル界隈だし、世界が終わるなら入浴しなくていいから大歓迎! 頭痛は治まっていた。私は鼓動の高まりを感じながら世界の終焉を待った。
§14
世界の崩壊……。ということは、ABCD子もその家庭も消滅。あいつらが家庭の事情で断るからランチや飲みにも行けず私はやさぐれたんだよ! さーて、もう1本吸おうかな。ちょっと待って。もう15分くらい過ぎてない?
「あのう、ギンジさん。15分経ってません?」
「大王様は恒星移動戦艦に乗っておられるでがんす。全長1200㎞の大型艦ですから遅れてるでがんすよ」
ま、そういうこともあるか。死ぬ時くらい綺麗にしましょうか。唇がガサガサになるけど、リップティント塗りましょうかね。あと目尻をしっかりしておきたいからアイライナーを。
……どっちもないわ。なんだかんだで5分くらい経った気がする。まさか来ないってことないでしょうね。なんか外が騒がしいし、サイレン鳴ってる?
「いよいよでがんすな。我々の秘密結社『ワシの爪団』の悲願が成就するでがんす」
なーんだ。この人、裏切り者? ま、いいや。どうせ世界は終わるんだし。すごいサイレン音だな。聞いたこともない怖い音。
《あ、あ、マイクテスト、マイクテスト……》
なんなの? こんなときに! ギンジさんは恍惚として涙を流していた。
《未確認飛行物体の残骸が上空から降ってきます。王都のみなさんは屋内に避難してください。繰り返します……》
「ギンジさ、ん」
エッ? いない? 逃げた? めちゃくちゃ逃げ足速いな。老人とはいえさすが勇者。じゃなくて裏切りの勇者。突然、地鳴りがした。フロアが大きく揺れた。あーあ。世界が終わるどころか地獄の始まりですわ。報道合戦という地獄。もうサイアク。仕事だからとにかくやらなきゃ。すごく大きな物が落ちてる気がする。現場に行って写真だけでも撮らないと。一眼レフカメラは支局に置いてきちゃったし、スマホのカメラでもいいから、とにかく現場を押さえないと。私は急いでエレベーターに乗り1階へ降りた。ドアが開くと、黒髪短髪のイケメン、イケオジ? が立っていた。なぜに喪服? てゆーか、そのタイピン……。
「すみません。その緑のタイピンってどうされたんですか?」
「不愉快だな。目のつけ所はいいが、まずは自己紹介するのが礼儀ではないかね?」
しまった。ここに出入りしているってことは神殿の人かな。私は一礼して謝罪した。
「私はミオリといいます。そのタイピン素敵ですね」
「アレキサンドライトだからね。ほしいならあげるが、どうするね?」
ここは異世界。ルナとは関係ない。私は首を振った。
「失敬。僕はケンサクだ。君の報告は逐次届いていた。恐怖の大王を倒すのに役立ったよ」
んー。どういうこと? この人が恒星移動戦艦を落としたってこと?
「君はうちの村の大勇者だろ? ここの神に報告してくるからロビーで待っていたまえ」
ケンサクさんは軽く手を振ってエレベーターに乗った。同じ勇者村の人か。同郷といっていいのかわからないけど、少しホッとしている。私はロビーチェアに腰を下ろしケンサクさんを待った。
§15
10分ほどしてケンサクさんはロビーに足音を響かせた。彼は着席すると、
「この世界における君の武力介入が許可された。あくまで一時的な措置だが」
と言いながらスマホをいじっていた。
「そうなんですか」
大勇者は志願制で赴任地は選べない。日常生活を送りながら密偵として勇者村に情報を定期的に送信する義務がある。そのほかは自由だ。ただし、赴任世界の事象に武力介入することは許されていない。
「要は秘匿大勇者の僕と同格というわけだな。なにか質問はあるかネ?」
いやいや、あるに決まってるじゃん。秘匿大勇者!? 伝説だと思ってたけど本当にいるんだ。
「武力介入の執行対象は?」
「ワシの爪団だ。恐怖の大王崇拝者たちだ。まあ、大王の恒星移動戦艦は僕が落としたがネ」
よくわかんないけどすごい人だな。
「君の定期報告を受けているうち村長が議会で君の武力介入権と僕の派遣を専決処分した。この世界の神からの要請だし、緊急案件だからね。議会の採決を待つわけにはいかない」
困ったな。あんまり戦闘はしたくないんだけどな。ケンサクさんはずっとスマホをいじっていた。てゆうか、なんでこの人、喪服なんだろう。あんまり凝視しないようにしてるけど、誰も訊かないのかな。
「喪服のことかい? 生まれた子供がすぐに死んでしまってね。喪に服している間に勇者村にいたんだ。だから転生ではなくて厳密には異世界転移だな」
私は黙礼したまま二の句が継げなかった。すごくお気の毒だけど、人の心を読む能力の持ち主なのかな。なんだかすべて見透かされてる気がする。
「君の能力は村長から聞いている。僕がいなくても十分なくらいだ。好きにするといい。僕は裏方に徹する」
え。私が裏方でいいんですけど。私の能力は発動条件が特殊だからなー。
「あと、僕は38歳で君は40歳のようだが、同格とはいえ上官は僕だから口調に関しては目を瞑ってくれたまえ」
「……はい」
その情報いらねえわ! 年下かよ! ま、40にもなると年下とか年上とか言ってられないんだよなあ。恋愛なんて諦めてるからいいんだけどさ。
「では行こうか。やつらのアジトを一網打尽だ」
え。いまから? もう夕方なんですけど。ケンサクさんは立ち上がった。
「夕方から夜分に悪党は動く。そう思わんかネ?」
本当に人の心が読めるのかな。ちょっと怖いわ。私はスマホで誰かと電話しながら建物を出ていくケンサクさんに付いて行った。
§16
ケンサクさんはアジトの場所を知っているようだった。道々、彼は多くのことを話してくれた。友人が竜王討伐の功で王都の秘匿近衛師団長になったはいいが任期が長くて勇者村に戻れていないこと、ヒナタ君がこことは違う異世界で勇者だったこと、そして彼が息を引き取る直前にルナのタイピンを託されたこと。すべてを話してくれた。私は泣きたくなる気持ちを抑えて聞いていた。ケンサクさんは懐から緑のタイピンを取り出すと、
「これは君がもっているべきものだ」
と真剣な表情で言った。私は受け取りたい衝動をぐっとこらえた。
「それはヒナタ君がケンサクさんに託したものです。受け取れません」
ケンサクさんは前を向いたまま頷くと、ここがアジトだと指さした。ここって接待を伴う飲食店だよね? 怖いおにいさんとか絶対いるよぅ。
「では、お手並み拝見といこうか。僕は外で待機している」
店舗は金色を基調にシックなベージュが配分された大きな建物だった。入口の右手に若いイケメンの写真が並んでいる。ここってもしかして……。入口うえの大きな看板に思わず後退りした。「大往生」との文字がデカデカ横に並んでいる。大往生と大王城をかけた? ちょっと意味がわかりませんけど。突然、地面が揺れ出した。私はその場から離れて電信柱にしがみついた。え、えっ? なんで店舗が崩れてるの? 背後から足音がしたので振り向いた。ケンサクさんだった。
「裏方に徹するつもりだったが、すまない。前世の西暦でいうところの3429年に開発されたステルス戦闘機らしい。偵察でいいとノブさんに言ったんだが、本気でやってしまったようだね」
「ノブさん?」
「ノブユキ。僕の兄だ。スマホで前世と連絡できる」
はい? 秘匿大勇者の特権なのだろうか。崩れた建物から二人が這い出てきた。一人はギンジさんだった。もう一人はスキンヘッドの大男だった。ギンジさんは飛ぶように駆けて逃げていった。
「あ、ノブさん? 白髪の老人の両足を切っといてくれ。あと、コルトガバメントを頼むよ」
えええっ! ケンサクさん怖いんですけど。ケンサクさんは這い出た大男を蹴り倒した。そしてどこから出てきたのかわからない拳銃を男に向けた。男は地面に何度も頭を叩きつけて命乞いした。バーンと重い音が一回鳴った。
「外した。僕は拳銃を使ったことがなくてね。これしか知らないが、いかんせん大口径すぎる。君がこの男を始末してくれ」
大男の頭部には「京都の大王」とのタトゥーがあった。京都の大王じゃなくて恐怖の大王じゃろがい! 誤字脱字は新聞記者として致命的なミス! 会社の信頼を損ねる!
「おねえさん、すいません! 許してください!」
「は? 訂正記事を書いて、そのうえ始末書を書かされるこっちの身にもなってみろよ!」
つーか、なにが「おねえさん」だ。ふざけんな。私はスマホのカメラを起動し、シャッターボタンを押した。男は細切れの肉塊になって血の海を流した。
「それが君の『強制圧縮』って能力か。すごいな。ファインダー越しに見える対象物を任意に圧縮できるんだろ? それなら大王の恒 星移動戦艦もペシャンコじゃないか。僕の出る幕なんてやっぱりなかったな」
ケンサクさんは満足した様子で歩き出した。ギンジさんのもとに行くつもりだろう。前方から誰かが走って来る音が聞こえた。とても速い足音。ケンサクさんはスマホを耳に当てた。私はどんどん近づく足音の恐怖に身を震わせた。
§17
速い足音の主はすぐに姿を現した。ギンジさんだった。私が手を口に当てて驚いているうちにギンジさんがどんどん増えていく。ギンジさんたちは不敵な笑みを浮かべていた。
「これはこれは。ミオリ様と秘匿大勇者のケンサク様。あっしの足の修復と影分身に驚いてるでがんすね?」
ケンサクさんは一歩進み出た。
「不愉快だな。まずは名乗りたまえ。もうその必要はないがね」
空から青白い光で照射されたギンジさんだけが真っ二つに裂けて倒れた。ほかのギンジさんたちは消えていた。もしかして、さっきのステルス戦闘機? でもすぐに体が修復するんじゃない?
「こいつはこのままの姿で生き続けることになる。原理はわからない。ノブさんめ、自動操縦にして寝てるな」
ケンサクさんは拳銃で裂けたギンジさんを撃ったが外した。ギンジさんの半身はそれぞれ逃げようとしていた。
「あっしがダメでもキンジの兄貴がいるでがんす。兄貴、おもさげねえ」
再び青白い光に照らされた両半身はともに細切れになった。ケンサクさんは人の心がないのかな。
「僕には快・不快、愉快・不愉快しか感情がない。単細胞生物なんだ。そうプログラミングされている」
ケンサクさんはアンドロイドなの? でも、そうだという可能性も考慮して柔軟に対応しないと記者はやっていけない。
「おい! てめえら! よくもギンジをやってくれたな!」
後ろを振り向くと金髪リーゼントで特攻服を着た古き良き(?)時代を思わせる若者が立っていた。たぶんキンジって人だと思うけど、そこにいたら危ないよ?
「おい! そこのマブいねえちゃんよお!」
私はスマホを彼に向けるとカメラのシャッターボタンを連打した。
「は? あんた舐めてんの? 私のどこがねえちゃんなんだよ!」
「おい君、人の心はあるのかね? 若者が紙切れになってるぞ」
私は我に返った。ケンサクさんは私のスマホのカメラレンズを指で覆っていた。金色が混じった紙切れが隘路を吹き抜けるビル風に舞っていた。しまった。やりすぎた。まさかアンドロイドに制止されるとは。
「どろろが熱源反応を感知した。王都の丘陵庭園にいる。まさか生きていたとはね」
どろろ? ドローンのこと? それより生きていたっていうのは恐怖の大王のことだよね。ちょっと嬉しい気が……。だめだ。私は記者として大勇者として仕事をまっとうしないと。
「これで代用できるかい?」
ケンサクさんは一眼レフカメラを両手で差し出した。重い! てゆうか、これKANONの最新モデルじゃん。文句はないけど、バズーカ砲みたいな望遠レンズは……いらん! 広角レンズがよかったんだけどな。
「ノブさんはまだ寝ぼけているようだな。この先の王立公園に攻撃ヘリと車がある。君はどっちに乗りたいかね?」
「車です」
私は即答した。
「僕もだ。攻撃ヘリはこりごりだ。車にしよう」
私は乗り心地の悪い車に揺られながら考えていた。これって陸上自衛隊の高機動車だよね。
§18
ケンサクさんは、ながら運転をしていた。どうもスマホが気になるらしい。初対面のときから思ってたけど、この人はスマホ依存症なのかな。アンドロイドがそんなバグ起こさないと思うから人間だよね。
「丘陵庭園が見えてきたぞ。ここからカメラで何か見えないか? どろろ、ステルス戦闘機ともに沈黙している」
私はカメラで丘陵庭園を見た。ヤギが1匹こちらを見て佇んでいる。それをケンサクさんに話した。
「ここの神によるとそいつが恐怖の大王だ。メーメーしか言わないが独自の言語体系を持つ高度知的生命体だ」
ケンサクさんは溜め息をつくと、彼の愛用兵器の「ロンギヌスの槍」や「ダーインスレイヴ」はメンテナンス中で使えないと話した。私も少しはサブカルチャーの知識はある。たぶん凄まじい殺傷能力を有した兵器だよね。ケンサクさんは丘陵入口で高機動車を停めると、ここから歩こうと言った。彼はスマホの画面を見ながら丘を登って行った。かなりの依存症だな。
「いた。あのヤギを強制圧縮してくれ。手加減はいらない」
私はファインダーを覗いた。電灯で見えはするけど素早く動き回っている。角や体長からしてメスかな。取材でヤギのリード線を持たせてもらったことがあるけど、メスでもすごい力だった。そんなのいまは関係ない。あれは恐怖の大王。普通のヤギじゃない。私が討伐した竜王よりはるかに禍々しい気配を感じる。絶対に圧縮してみせる! と意気込んだもののまったく当たらない。
「参ったな。神によるとこいつは夜が明けると巨大な一角獣になるらしい」
それはやばいかも。アニメで見たベヒーモス? いやユニコーン?
「ノブさんは肝心なときに何してるんだ。ミオリ、僕がスマホを君に投げたら撃ちまくれ。僕を巻き込んでもらってかまわない。僕がやつを捕まえておく」
死んでもいいってわけ? やっぱりこの人、アンドロイドだわ。
――あらら? どうしたのかしら? 人間のお嬢さん。アタクシに手も足もでないようねえ?
どうして声が聞こえるんだろ。メーメー鳴くしか能がなかったんじゃなかったのかよ!
「お嬢さんじゃねえんだよ! このクソヤギ!」
私は怒りに任せて微かな光を頼りにファインダーに映るすべてを強制圧縮した。カメラ内臓ストロボは撮影時に光るだけだからアテにならない。それにこのカメラの連写速度に追いつかない。いうなれば曳光弾みたいなもの。
「全然、当たってないぞ! 僕を殺す気で撃て! ためらうな!」
ケンサクさんは大樹にもたれかかりながら、ヤギの角を引っ張っていた。彼のタイピンは赤く光っていた。ということは、懐にルナのタイピンが……。
「僕は問題ない! 君はタイピンが心配なんだろ!? 大丈夫だ!」
そう言うとケンサクさんはスマホを私に放り投げた。
《From 父上》
え、メール?
《着信履歴を見て驚いた。おまえの言い分は承知した。1万9100年6月19日をもって日本で運用開始になったイージスシステム「スポケーン」を発動する》
1万9100年? 西暦のことだよね。
「なにをぼやっとしている! 撃て!」
でも、撃ったらルナとヒナタ君のタイピンが……。
「何度も言わせるな! 早くしろ!」
ルナ、ヒナタ君ごめん! 私はいまを生きるから! 目の前で苦しんでいる人を見捨てられない! 唯一、確かに見えるのは赤く光るタイピン。私はそれをめがけてシャッターをひたすら連写で切った。
§19
赤の光が消えることはなかった。もう何連写したかわからない。ケンサクさんが無事だといいけど。
「おーい! 僕もタイピンも無事だ!」
ケンサクさんは凛凛とした顔で私にヤギの角を見せた。自分が握っていたから残ったらしい。意味がわからなかった。ケンサクさんは私からスマホを取ると、村長に任務完了を伝えると言って少し離れた場所に移ってスマホを耳に当てていた。
「君! 早く来ないか! 時間はわずかしかないぞ!」
ケンサクさんがこっちに走って来るので私も走った。
「なんですか?」
「いいから電話を」
私はケンサクさんからスマホを受け取り耳に当てた。
『もしもし? お姉ちゃん?』
「ルナ? ルナ?」
『1分だけしか話せないらしいから、言いたいこというね。お姉ちゃんが死んだのは私のせい。私がよそ見させたから。だから事故のことは気にしないで。ケンサクさんからヒナタが元気にしてるって聞いたよ。もし会ったらヨリを戻したいって言っといて。お姉ちゃんも元気でね。以上!』
ケンサクさんはずっとこちらを見ていたけど、私と視線が合うとそらした。
「私は元気だよ。ルナも元気でね! ヒナタ君には言っとくから!」
『うん、あとお父さんもお母さんも元気…………』
電話が切れた。目から水が出てきた。これは止まりそうもない。
「すまない。僕のスマホは通話無料プランじゃないんだ。ノブさんに強引に切ってもらった」
ケンサクさん、笑わせようとしてるのかな。よくわからないけど、ルナと話せてよかった。
「君はこれからどうする? 勇者村に帰還するか、それとも……」
「残ります! この世界も悪くないっていまは思います。あと私からも村長に報告しておきます。この世界に駐在する大勇者として!」
ケンサクさんは、うんと頷くとタイピンを私の手に握らせた。
「餞別だ。まがい物だが高価なものだ。お守りにしておきたまえ」
私は深々と頭を下げて包むようにしてタイピンを胸元に当てた。ケンサクさんはポケットに手を突っ込んでどこかを見ていた。たぶん、私が泣き止むのを待っているのだろう。ケンサクさんはたびたび私を見ては優しい目をして微笑んだ。なんだ、単細胞生物じゃないじゃん。アンドロイドでもない。もしかして秘匿されてることって優しさのことだろうか。それは隠すことなのかな。もしそうなら変なことだなと可笑しく思った。なかなかいい表情だから写真付きで報告を送ろうかな。
新聞には載せられないけど被写体として完璧な表情だ。私は水が流れ切った目でケンサクさんの視線の先を追った。黒い鳥たちが魚群のようにくるりと回って横切った。爽風が何度も吹いては頬をなでた。私たちは眼下に広がる王都の夜景をずっと眺めていた。
【真・転生編】
◇
義父は不義理を働いたとして私を糾弾すると咳き込んだ。私は父と並んで畳に額と両手を付いたまま身を固くしていた。恐怖をまぎらすために事前に飲んでいた酒が効いてきて意識が遠のきそうになる。
義父は浮気相手の女と別れること、妻を実家に戻し別居すること、定職に就くことを私に約束させると咳払いをしながら去った。私と父はゆっくりと頭を上げ、居間に誰もいないことを確認すると、仏壇に向かって一礼し、玄関を出る際に再び頭を下げた。
帰路の車内で父は何も話さなかった。私は四十路になってまで父と誰かに謝罪することになるとは思いもよらず、あまりの情けなさに涙を流した。
松江市内の中心地にある実家で父と過ごしていた時分はすべてがうまくいっていた。十五年前に妻と結婚し、同市美保関町に居を構えてから身辺が狂いだした。私の不労所得で妻も働く必要はなかったが、利発な性分で言うことを聞かなかった。近隣住民は私のことを不思議に思っているだろう。鳥取県境港市と美保関町の間を流れる境水道を縁側で眺めているところを何度も見られている。なかには回覧板を持って来るついでに私の仕事について訊いてくる者もいた。
車窓に頭を預けているうち、自宅に着いた。父は、じゃあな、と言って去った。すぐ家に入る気になれず、境水道沿いの小道を歩いた。水面は西日を受けて美しく光っていた。が、六月ということもあってか、べっとりとした風が頬を撫で気持ち悪かった。低い堤防にフナムシがたくさん張り付いていた。近づくと素早く逃げる。躍起になって踏み潰しているうち暗くなってきたので帰宅した。
重い足取りで居間の襖を開けた。妻は予想に反し、嬉々として里帰りの支度をしていた。自室から持ってきたと思しき洋服や化粧品が散乱している。私は合わせる顔がなく、隅で小さくなっていたが、とうとう我慢できなくなって冷蔵庫から瓶ビールを手に取ると一人で飲みだした。
「お父さん、怖かった?」
突然かけられた調子のよい声音に背筋が凍った。
生きた心地がしなかったと返すと、ビールを注ぐと言う。彼女の申し出を断って包丁で刺される自分を想像したら、自然とコップが傾いた。ほとんど泡だけのコップに十五年の歳月を感じた。新婚時代、妻はコップを冷凍庫にいくつも入れ、常時冷えたビールを飲ましてくれたものだった。コップの温度差が夫婦間のそれを暗示している気がした。
「ねえ」
包丁を手にしていたので、いよいよ刺されると覚悟した。力んだせいか屁が出た。
「アジの刺身でいいでしょ?」
彼女の表情は何の敵意もなく、いつも通りの穏やかな顔をしていた。私は声を発することができず、軽くうなずいた。妻が何を考えているのか計りかねたので、いまから死装束に着替えようと自室に向かった。喪服がいいと思ったが、箪笥を探っているうちに絹の白いパジャマを見つけた。袖を通し、階下に降りた。
テーブルにはアジの刺身と冷奴、すりおろした生姜の皿が置かれていた。最後の晩餐にはちょうどいいと思った。生姜を少し乗せて醤油をかけると一口で冷奴を食べた。うまかった。アジの刺身に箸を伸ばしたとき、妻の声がした。私は急いで三切れを生姜、醤油とともに口に入れた。うまかった。
妻がスリッパを脱ぎ、台所から居間に入ってきた。包丁は持っていなかった。
「あのー、幸一さん。急いで食べすぎ。てゆーか、なんでシルク? 醤油こぼしたらどうすんの?」
「これは、あれだわ。翔子の料理がうまかったから?」
私は狼狽して何が何だかわからなくなっていた。また屁が出た。さっきの放屁は聞こえていなかったのか、妻は哄笑した。笑い泣きの涙を拭うと、私が着ているパジャマの腹がやたら出ていることを執拗にイジった。
翌日は朝からよく晴れていた。出雲地方には「弁当忘れても傘忘れるな」という先人の言葉があるほど、天候が著しく不安定な地域だった。が、昨今の気候変動の影響なのか、ここ数年の降水量は激減していた。気温の上昇は全国と同様で、朝でもすでに暑かった。
妻は昨晩のうちに支度を済ませ、自室で大きないびきを響かせていた。彼女は十時に発つというので、暇潰しにフナムシの虐殺をすることにした。堤防には夜釣りをしたと思われる人が残した缶コーヒーが置かれていた。ここに参集する釣り人は総じてマナーが悪い。私が歩いているこの小道も道路なので本当は駐車してはいけないが、開けた場所に駐車し、平然と竿を垂らしている者は数知れない。最寄りの駐在所は、日中の応対はしてくれるが夜はさすがに寝ている。国土交通省にも赤色灯を載せた河川パトロールカーが配備されていて、この周辺を巡回しているが、取り締まっているところを見たことがない。
昼夜を問わず、違法駐車を発見すると通報したい衝動に駆られたが、妻の友人が泊まりで遊びに来た際に駐車するので見て見ぬふりをしていた。が、それも今日で終わりだ。逃げ惑うフナムシを殺しに殺し、家に戻った。
洗面所で歯磨きしている妻と目が合った。私は視線をそらすと縁側で胡坐をかいて、出雲富士こと大山を遠めに見た。全国各地にナントカ富士は点在するが、中国地方最高峰の大山こそが最も美しいと思っている。
「冬の大山は綺麗だよね。マジで富士山じゃん?」
心臓がどくんと跳ねたが、平静を保ちつつ、大きく何度もうなずいた。
妻はガラス戸を開け、立て付けの悪い網戸を正すと私の横に腰を下ろした。結婚当初は仲良くスイカの種を縁側から飛ばす競争をした。空海はニューヨークから大山まで種を飛ばした、地蔵が山頂でリンボーダンスしているなど、私のつまらない嘘に往時の妻はよく笑った。どこに包丁を忍ばせているのかわからないが、いまなら刺されてもかまわないと思った。
「幸一さんよぉ、昨日からビビッてない?」
妻の眼には冷たい光が宿っていたが、口元は緩んでいた。
私は床板に視線を落とし黙っていた。
「例の女って、サークルに勧誘するために会ってたんでしょ?」
私は誤ってかぶりを振りそうになったが、姿勢を正すと、
「うん。サークルではないけどね。意味のない真剣な遊び」
と言って、また視線を床板に戻した。
妻は私が勃起不全で不感症、自慰行為すらしないと半ば嘲笑するように叫んだ。隣人に聞こえてしまうと危惧しつつイライラした。が、いずれも真実で悪意あっての言い草でないことはわかっていたので黙して聞いていた。
一通り叫んだのち、彼女は悪戯っぽい表情を浮かべると、
「ま、絶対にあり得ないと思ってたけどねー。よっ、島根で一番枯れてる男、宇野幸一!」
と笑ってからかった。
さすがに上には上がいると反論しようとしたがやめた。妻は急に声量を落とすと、昨夜、義父から電話があったと明かした。彼女によると、明日から義父が役員をしている船会社で働けということだった。履歴書は必要なく、義父が独断で採用したものと容易に想像できた。義父はこの国で最も高貴な一族を乗せたことがある元船長で、その威光で彼には誰も逆らえないと聞く。もとより、慢性的な人員不足とその原因が船乗り特有のパワハラにあるのではないかと地元紙が報じていたのを覚えている。義父は威光を借りられるが、私はただのコネ入社だ。良くも悪くも他者からの色眼鏡が一番厄介だ。
私の不安をよそに妻は境港の実家に帰った。彼女は去り際に、境水道の対岸から見えるから大丈夫、と励ましてくれた。物理的距離は確かに近い。しかし、独身時代は父と暮らしていたので一人で家事をすべてやっていたのは学生時代の四年間だけだ。暑くなるとコバエが発生して自炊は面倒になる。スーパーやコンビニの弁当総菜コーナーで毎日頭を抱える自身の姿が眼に浮かんだ。なにより、洗濯が億劫だ。洗濯機を使用するまでは誰でもできる。が、干す作業が大儀だ。学生時分に干すのが面倒で洗濯をしなくなり、どうせ汚れて臭い服だからと入浴すらしなくなったことがあった。その反復になることが必定に感じ、いまさらながら家事は同居人と共同ですべきだと後悔した。
十五分後、先の後悔など忘れて私は境水道大橋を車で走っていた。タンカーをはじめ大型船舶が往来するので橋桁の位置は高い。境港はまったく山のない平野で橋の上から街の概観を一望できた。妻と何度も通ってはいたが、島根の県土のほとんどは山なので平野はいくら見ても飽きない。
スーパーの駐車場に着くと、身体障害者用の駐車スペースにいい加減な止め方をしている軽トラがあったので怒りが湧出してきたが、心中穏健が第一だと思い直し、視界に入れないよう店舗に入った。スーパーの総菜や弁当の値段がコンビニのそれと大して変わらないことに驚いたが、カツ丼と炭酸水を買って家路に就いた。
玄関の扉を開けると、式台の前に私の靴とサンダルしかなかったので、淋しくなった。上がり框に座ると動く気にならず、その場でカツ丼を食した。うまかったが、自分が食べている気がしなかった。身も心も枯れた中年男性が玄関で孤食している。第三者視点から言葉を胸裏で発しなければ淋しさの沼に私は沈んでしまいそうだった。
初出勤の朝は早かった。昨日の夕方に教育係の福本と名乗る男から連絡があった。六時に境港の本社前に来いとのことだったが、人の姿はない。道路を挟んで目の前にフェリー乗り場があり、私は興味本位で構内を散策した。が、広大な駐車場といくつかの係留杭があるだけで物珍しいものはなかった。境港側から私の起居する対岸を見ると広島県は尾道に似てなくもない。林芙美子と志賀直哉が尾道に住んでいたことがあるとネットで見た覚えがある。むろん、尾道のほうが美しいに違いない。が、文豪が同じような風景を見ていたと想像すると心が躍った。
「おい! おまえ宇野か?」
背後から突然呼ばれてびっくりした。振り向くと、やや小柄で細身の男が立っていた。年齢は四十半ばぐらいだろうか。頭髪が落ち武者のように禿げていてほぼ白髪だった。福本かどうか確認する隙もなく、男は車に乗り込むと、
「後ろに付いてこい」
と、ぶっきらぼうに言った。
私が乗車するなり、男はスピードを上げて美保関方面へ向かっていく。境水道大橋を渡り、美保関町に入ると、男はさらに加速した。「島根県」「松江市」の看板が一瞬で遠ざかった。二回右折してトンネルを抜けると日本海が見えた。男は「七類港貨物センター」と記されている標識の前で急ブレーキを踏むと駐車場に車を止めた。私がどこに駐車してよいか迷っていると、
「どこでもいいわ! 早く来いや!」
と声を荒らげた。
男は事務所に入るとタイムカードを切り、検温、アルコールチェックをして出勤表に書き込んだ。男のタイムカードを確認すると「福本」と書かれていた。
「それは俺の。まずタイムカード、検温、それからアルコールチェックな」
昨日の電話で、始業は六時四十分と言っていたが、彼のタイムカードを見る限り、始業前労働が常態化しているようだった。
「見ればわかると思うけど、早く来らんと船に間に合わん。こっち来い」
福本の後を追って荷捌き台に上がった。五人の労務員が三台の大型トラックに荷物を載せている。荷物が多すぎて何が置いてあるのかわからないが、新聞、雑誌、自転車、煙草は判別がついた。福本は、初日で全業務は覚えられないから今日は全員の動きを見ておけ、と指示してトラックの荷台に入って行った。
私が荷捌き台をウロウロしていると、邪魔だ、と誰かが言うので隅に移動した。学生時代に水道配管工のバイトをしたことがあったが、「見て覚えろ」という気風で私はまったく覚えられず叱責を食らってばかりだった。そこで学んだ教訓は「見て覚える」仕事は文字通り見て覚えるしかなく、誰もまともな新人教育ができないということだ。労務員の彼らには、いま何をすべきかさえわからない者の気持ちを察することはできないだろう。
荷捌き台にいたところで邪魔者扱いされ、怒られるのは自明なので事務所に戻った。おい! と叫ぶ声が聞こえたが、無視した。事務所内を眺めていたら、時刻表が壁に貼ってあった。九時に七類港を出港し、隠岐諸島の三港を巡り六時に帰港する船と隠岐諸島を巡ったのち境港に寄港して隠岐諸島に帰る船があるようだ。
事務所のなかを「見て覚える」のも仕事だと開き直って回転式のオフィスチェアーでくるくる回って遊んでいたら、大柄で太った男が入室してきた。男がチラチラ視線を送るので、私も見返した。頭髪の量が少し心もとないが三十歳前後ぐらいだと推察した。私が再度くるりと回転すると、男は急に破顔して、
「宇野さん! お久しぶりです! 藤江です!」
と、感極まったような眼で私を見た。
見覚えのない顔だったが、賢人なのか、と訊くと私の手を強く握ってうなずいた。彼は詳しい話はあとにして会社の作業服に着替えてほしいと手を合わせた。社名や名前を入れるらしく、私の作業服が届くのに二週間は待つ必要があるとのことだった。届くまで彼が予備を貸してくれると言う。サイズは大きかったが、彼を凌駕する肥満体のおかげでちょうどよかった。
藤江は、大声で返事だけしていればいいと言い残すと、荷捌き台に上がって行った。彼をよく観察していたら、軽量な物品をさも忙しそうに運んでいるだけに見えた。私はスヌースのポーションを歯茎の上に挟むと、捨て鉢に気勢を上げながら荷捌き台に上がり、藤江に倣って作業をこなした。
がむしゃらに物を運んでいるうちに、藤江が八時になったから乗り場に行きましょう、と声をかけてきた。ヘルメットを被った労務員らが三台のトラックに分乗して出発して行った。藤江は落ち着いた様子で、
「私たちはあれです」
と鮮魚が載っているという軽トラを指さした。
藤江がハンドルを握り、私は助手席に座った。彼は半年前に入社したが、まったく仕事が覚えられず、怒鳴られてばかりだと嘆いた。福本からは人格否定までされ、もう関わりたくないと弱音を吐いた。
「宇野さんみたいな坊ちゃんには務まりませんよ」
藤江は物憂げな眼をしながら前を向いていた。私は少し笑みを浮かべると、
「君だって、どうせ金持ちの坊ちゃんだろ」
と言って彼の横顔に視線を向けた。
乗り場には大中小のトラックや乗用車が待機していた。車両の誘導も労務員の仕事なのかと藤江に問うと、そうです、と答えた。鮮魚は最初に船に入れるらしく、藤江は軽トラを船尾の後ろで停め、サイドブレーキを引いた。彼は随分と憔悴しているようだったので、スヌースのポーションを二つ渡した。何かわからないという眼を向けたので、歯茎の上に挟んでニコチンを吸収する無煙煙草だと説明した。両側に挟むと効果抜群だと力説すると、それはいいですね、と眼を細めて微笑んだ。
「ランプドアが降りてきたら、船内に入ります。船の甲板員が合図します」
約一分後にランプドアが降りたが、誰もこちらに合図を送らない。待機していると、ランプドア付近で航海士か船長と談笑していた福本が、
「車も運転できねえのかよ! 入れや!」
と怒鳴った。
藤江の眼には憤怒の灯が宿っていたが、軽トラを停める位置と鮮魚を置く場所を丁寧に教えてくれた。鮮魚を運んでいる際に、怒られている甲板員がいた。新人なのだろう。パワハラどころではない、ただの雑言だった。二十歳ぐらいに見えたが、彼は近いうちに退職するだろうと思った。藤江はその若者を一瞥して、すぐに軽トラに乗り込んだ。
「で、軽トラは乗り場の隅に止めて荷台をホースで洗います。あとは車両の誘導だけです。福本さんが指示を出しますが、理解不能なら放っておいて問題ないです」
私はすべてが億劫になって黙っていた。
「つらいのは昼と夜の便ですよ。係船しないといけないですから」
軽トラの荷台を洗うと私たちは走ってランプドアの近くに陣取った。藤江によると新人は福本の近くで誘導することになっていると言う。
福本が四本指を立てた。藤江が軽自動車をランプドアまで誘導した。彼は戻って来ると、四本指は全長四メートルの車両という意味だと教えてくれた。五本指は全長五メートル。全長六メートル以上は福本が声を出して指示を出すらしいが、ぼそっと言うだけなので、聞き耳を立てる必要がある。また、大型トラックに至っては指さすだけなので、間違って誘導することが多いと話した。
藤江が教えてくれている間にも誘導は行われていて、福本はランプドアから走って自ら誘導していた。私は福本に対して、声を張れ、と怒鳴りたくて仕方なかった。
出港時の作業は易しいとのことで、福本の監督下で私と藤江で行った。係留杭からホーサーと呼ばれる係留綱を外すだけの仕事だ。が、ホーサーは重いので二人で行うことになっている。簡単ではあるが、船の上部にいる甲板員が手を挙げ、ホーサーがしっかり着水して緩んだ瞬間に海に放り投げないといけない。ずっとホーサーを持ったままだと船に引っ張られる危険性があるためらしい。
昼の便は境港に一時二十五分に到着する。それまでは、ほぼ休憩時間のようなものらしい。業者や一般人が搬入に来るが、ごく稀とのこと。労務員らは事務所内で歓談に耽っていた。私と藤江は彼らに気付かれない場所で情報交換した。藤江は私が弁解するまでもなく、浮気はなかったと同情を寄せた。そのうえで、自身の境遇について語った。不労所得で過ごす生活に飽きて社会に飛び出したところ、我が社という劣悪な企業に採用されてしまったとのことだった。近いうちに退職届を社長宛てに郵送するつもりだそうだ。「真剣な遊び」のほうは岡山県に二人候補者がいるらしく、空を見上げながら口角を上げていた。私はいまのところ見当もつかないと溜息をついて、ポーションを一つ口に入れた。
「宇野、おまえ境港が終わったら三時四十分に帰れ。初日だからな」
突如として現れた福本は仏頂面で言うと足早に去った。藤江は地面に視線を落とし、
「私は六時二十分までです。夜の係船をしなきゃ……」
と、うんざりした口調で呟き、九時間拘束か十二時間拘束しかないなんてブラックすぎる、と両手で顔を覆った。
私は思うままに所感を述べた。
「退職届だけどさ、二週間前に提出なんて遵守しなくていいじゃないか。そもそも、この会社は海事法に違反してるよ。随分前から」
「えっ?」
藤江は大きく眼を見開き甲高い声を上げた。
「家にいたら嫌でも汽笛が聞こえる。おそらく船長だろうけど、入港時の汽笛は聞いたことがない。出港の短音一回は右への針路転換だから問題ない。七類港も境港も右に旋回するじゃないか。だけど、その後の前進の汽笛は長音二回じゃないとだめだ。うちの会社は長音一回だけなんだよ」
藤江は再び顔を手で覆った。体が小刻みに震えていた。いつ怒りが噴出してもおかしくない。それはいまだと私は悟った。
「境港に寄る船で『便借』使います。明日からは無断欠勤します」
藤江の眼は不退転の決意を示すような鋭い光を宿していた。
彼によると、「便借」は社員らが自社の船で物品を輸送することだと言う。けっこうな頻度で使われ、郵便よりも早く着くことから本社も支社も書類などは「便借」を用いるのが普通だと言う。就業規則で定められた休憩時間に入ると、藤江は事務員に便箋と白封筒をもらい、公然と退職届を書いた。私を含め、誰も彼を止めようとしなかった。
一時十六分になった。境水道は凪いでいるが蒸し暑い。船影を見つけた藤江が、
「来ました! 来ました!」
と叫んだ。
やはり汽笛は鳴らなかった。境港というのはもっと広い港湾なのかと疑問に思った。少なくとも境水道大橋から先は海上保安庁や水産庁の船舶の母港で間違いなく港だ。だとすれば、やはり境水道大橋あたりから長音の汽笛を一回鳴らさないといけない。汽笛はかなり距離があっても聞こえるものなので、やはり鳴らしていないという結論が妥当だろう。
周囲に眼をやると、藤江と福本が船首のほうへ走っているのが見えた。私は藤江が「奥義」を披露するというので二人に同伴することにしていた。
係船作業も二人で行う。藤江によると、船はレットラインというホーサーを引き上げるための細い綱を陸に投げてくる。労務員は前衛、後衛に分かれて調子を合わせながらレットラインを引く。通常は技量が上の者が後衛を担う。そのうち、レットラインに結ばれたホーサーが水面から出てくる。レットラインとホーサーを一緒に係留杭にひっかけ、レットラインだけを抜く。が、レットラインの結び目をほどくのが難しいらしい。さらに二つ目の係留杭にホーサーをひっかけねばならず、船首の係船作業は体力をかなり奪われるようだ。
船が速度を落とし、ジリジリと岸壁に近づいて来る。境港に寄港する船長は操舵が下手らしく、あまり岸壁近くまで寄って来ないとも言っていた。轟音を立てながら船は四、五十メートル先まで近づいた。船上に眼を向けると甲板員が手を挙げた。ガコッと音がして、こけしのようなものが陸に落ちた。こけしはレットラインの先端部らしく、二人は職人技のように手繰り寄せていた。大きな影が近づいてきてホーサーが水中から姿を現した。二人は後ろ向きになってホーサーを陸に揚げると係留杭にひっかけた。藤江が息を切らしているのを見た福本が、
「レットラインは俺が取るから、おまえは二本目に行け!」
と指示した。
藤江は一人でレットラインを引き始めたが、数秒後には福本が加わった。二本目はすぐにホーサーが上がってきて二人はそれを係留杭にかけた。
「藤江、おまえ、そのレットラインほどいてみろ。練習だ。宇野も見とけ」
福本が無表情で言った。彼の呼吸はまったく乱れていないようだった。
「すみません! 結び目がきつくなってます!」
「どけ!」
福本はレットラインに触れると同時に魔法のように結び目をほどいた。
「藤江、おまえ、ちゃんと仕事しろや」
福本は鋭い眼光を藤江に向けたが、口調は呆れた様子だった。
「おまえら、車を誘導しとけ。それくらいできるだろ」
と言うと、船体の中腹にある底部タラップから入船して行った。
藤江は意気消沈して何も喋らなかったが、「奥義」が何かはわかった気がした。藤江はレットラインを引くとき右手だけで引いていた。左手はレットラインを離さないよう支えているだけ。後ろからだと一生懸命に引いているように見えるだろう。だが、あの福本が後衛だ。ほとんど引いていないことくらい見破ったに違いない。何も話さずランプドアのほうへ歩を進めていると、甲板員が、来い、と呼んだ。私たちは走った。
「死体入れるから、手伝え」
船内には霊柩車が停車していた。甲板員六人が棺を引っ張り出して支えていた。手をかける場所がなかったが、八人で慰安室に棺を置いた。甲板員の一人に塩を差し出されたが、無視した。船外に出ようとすると、私たちを呼んだ甲板員に止められた。
「俺がいない間に勝手なことするなよ! おまえら何してんだよ!」
この男の言っていることが理解できなかった。こいつが立ち会っていないと棺を入れられないのだろうか。不愉快だった。いますぐこいつを境水道に突き落とすか殴りたくなった。横に顔を向けると藤江の眼から光が消えていた。この勝手な男だけをただ見据えていた。動物的本能がまずいと知覚し、藤江の手を取った。藤江は絶叫した。それは会社の人間のみならず、世界を呪わんとする絶叫だった。
しばらくして本社の職員がやってきた。藤江は退職届を握りしめて呪詛の言葉を叫び続けていた。私は指さしで職員に退職届へ視線を向けさせると辞去した。……藤江は社長が隠岐支社に出張中だと勘違いしていたらしく、「便借」は必要なかった。藤江が騒いだことで出港が大幅に遅れたが会社都合退職にはならなかった。
藤江が退職届を提出した翌朝、私も本社に赴き、退職届を提出した。受付の女性に渡して去ろうとしたら、上の者を呼んできます、と言って駆けて行った。総務部長が対応してくれるとよいのだが、どうせ義父だろう。きつめのスヌースのパッケージを開け、ポーションを両歯茎に挟んだ。口の粘膜が肺より脳に近いせいか、すぐにクラクラしてきた。
応接室に通されると思っていたら、階段を降りてくる音がして義父が顔を見せた。
「おお、幸一くん。社長には渡しておいたわ。残念なことになってしまったけど、新天地で頑張ってな」
穏やかな口ぶりだったが、表情は鬼の形相で握った拳が震えていた。
「国交省から連絡があるかもしれないので、正直に話されたほうがいいですよ」
義父は、フンと鼻であしらうと、他の社員にわからないよう、私の足を強く踏みつけた。私は、腰を折り曲げて義父に名刺を渡した。
「『中国地方五賢人 次席 宇野幸一』? わからんな。新しい仕事かな?」
私は、かもしれませんね、と一礼して屋外に出た。ドラッグストアで炭酸水とビタミンB群、ビタミンC、亜鉛、カルシウムのサプリを購入して帰宅した。サプリを一気に炭酸水で胃に流し込むと、フナムシを狩りに堤防へ足を運んだ。実験したいことがあったので、紙巻き煙草とライターを持って出た。
到着してまもなく、地面を這っている個体を見つけたので、これを逃すまいと踏み潰した。平べったいので、完全に潰すことができなかったのか、脚をジタバタさせていた。煙草に火を付けると、先端をフナムシの背に押し当てた。熱いと叫んでいそうなもがき方だった。触角の存在を確認したが、一本は欠損していた。なかなか絶命しないので、煙草で裏返して腹を見た。ゴキブリの腹と似ていた。脚は短く七対あるように見えた。素早く移動できることに合点がいった。尾のような二本の部位が何のためにあるのかわかならかった。
またもがきだしたので、腹に煙草を押し付けるとおとなしくなった。もういちど表に返して、かすかに動く二本の尾をジッと見た。かつてダンゴムシが熱にどれだけ耐えられるか煙草で実験したが、これまたなかなか絶命しなかった。甲殻を有する虫は熱に強いのかもしれない。
家の門を抜け、離れの横を流れる細い水路をそっと覗くと小さなカニが隠れた。カニとヤモリは例年実験している。実験といってもエアガンで撃つだけの生命力測定だ。今年は踏み込んだことがしたかった。が、何も浮かんでこないので自室に戻った。布団を敷いて転がると、スマホを手にして映画アプリを開いた。枯れた私にはクリント・イーストウッドが描く独居頑固老人モノが心に響く。もう銃撃戦やラブロマンスは観たくない。単純に飽きたというか、お決まりの構成にうんざりしてしまった。それでも例外はあって、『ローマの休日』と『東京物語』は非常によかった。『カサブランカ』もよかった。もとより映像芸術には辟易していた。むろん、アニメを含む。かといって言語芸術は主体性が求められるため、読まないことには話が進まない。やることがないので、惰性でネットサーフィンをしていたら次第に瞼が閉じていった。
目を覚まして掛け時計を見ると一時十五分だった。私の統計では我が家のヤモリは夜の十一時から二時の間に出没する。マガジンにBB弾を詰めて本体に装填すると、離れに向かった。電気を付けるとカタッカタカタと音がした。ヤモリが動く音だ。が、どこにも姿はなく逃げてしまったようだった。そのかわり、流しにナメクジが三匹のろのろと這っていた。ナメクジは実験対象ではないので、蛇口をひねって流してしまった。
電気を消そうとスイッチに手を付けると、古い照明器具に蛾がぶつかっていた。我が家でよく見かける黒い蛾だ。しばらく観察していたら天井に張り付いた。蛾は羽を撃ち抜けば落ちるだろうと、さして狙いを定めず発射した。板張りの天井にバチンという音が鳴った。命中したらしく蛾は無軌道に旋回しながら地に落ちた。蛾の知識は皆無で触れたこともなかった。羽に白い模様があった。バタバタとうるさいので、素手で握りつぶした。バリバリと羽が砕けた。胴体はしっかりと丸みを帯びた感触があったが、羽に関してはあまりの脆さに驚かずにはいられなかった。流しで手洗いを済ませると、星を見たくなって門を出た。
北斗七星を明滅しながら西に移動する星が見えた。おそらく貨物機だろう。かすかにジェットエンジン音が聞こえる。たまに航空自衛隊の機体なのか大きな音を響かせながら何も見えないときがある。そもそも航空自衛隊の機体が島根半島上空を飛んでいるなんてことは聞いたことがない。北の方角を見ているはずなのに星が多すぎ、どれも明るいので北極星がわからない。東に視線を移すと明らかに眩しくひときわ大きな星が見えたが、北極星ではないし、月でもない。金星かもしれないが定かではない。とにかく雲一つないにも関わらず、月が見えない不思議な空だった。
ヤモリが戻っているかもしれないと思い、離れに行った。足音が聞こえたので、素早く電気を付けた。逃げるには最も遠い場所でじっとしていた。ヤモリの生命力は高く、頭に弾を受けても腹に受けても死ぬことはない。ぐったり動かなくなっても翌朝には消えている。殺傷能力の高いガスガンを使えば一撃で屠れるだろうが、死んでしまっては実験の意味がない。
ヤモリを仕留めるのには自信があったが、六発も撃ってしまった。弾丸が速くてどこに当たったか見当が付かなかったが、ほんの間のあとに腹を見せながら垂直に落ちた。降参したのか逃げる力がないのか、ヤモリは動かなかった。
今回の実験で初めてヤモリの足の指が前後とも五本だと知った。この個体は腹が薄紅の部分があって珍しいと思った。尾を突くとゆらゆら振るわせた。私は何を思ったのか、母屋からどんぶりを持って来ると、そこに小便をし、ヤモリをそっと入れた。かなり衰弱していたのか、小さな気泡を一つ残して沈んでいった。
時刻は三時半になろうとしていた。日の出まであと八十分。有閑人の生活も楽ではない。迷惑だろうと思ったが、藤江に架電した。三コールで繋がった。
「もしかして起きてた?」
『例の、あれ、あれですよ。「真剣な遊び」を断固遂行するために熟考していました』
藤江の声はしっかりしていて、いま起きたわけではなさそうだった。
「そっか」
私は実験という「真剣な遊び」をしていることは明かさなかった。
『七月になったら「筆頭」に会いませんか?』
「そうだね。候補者は見つからないし」
目がシバシバしてきたので目薬をさした。
『宇野さんが一人連れてくれば解決ですよ』
「そうねえ。まあ、七月に会おう」
藤江を時間潰しに利用したことを申し訳なく感じたが、まだ七十七分もあった。魔が差して妻の化粧部屋に入った。入室を固く禁じられていただけに背徳感が尋常ではなかった。化粧品や香水の臭いが混ざっていて思わず鼻をつまんだ。カーテンやクッションなどありとあらゆる物がピンクだった。見たこともない大きさのカラーボックスには、結婚してから事あるごとにプレゼントしていた高級ブランドのカバンや財布が綺麗に収納されていた。
化粧台に近づき、引き出しを開けると、デパコスが整列していた。おそらく新作ばかりだろう。私は独身時分にメンズメイクに凝っていたのを思い出し、プチプラがないか探した。どこにもない。妻のリッププランパーを顔面全体に塗りたくるのは愛情表現として歪んでいると感じて、スティックだけでも少し舐めようとしたが、気持ちを押し殺した。自分は枯れているというより、ただの変態なのだと自覚しながら自室へ引き返した。
スマホで『水の変態』を聴いていたら気分が落ち着いた。音楽も洋の東西を問わず最近の楽曲は合わなくなってきた。フジコ・ヘミングが弾く『別れの曲』が最も心に沁みる。布団に仰向けになり、二十回くらいリピート再生した。
時計は四時四十七分を指していた。エアガンと割箸を手にすると水路に向かった。カニは視野が広いのかすぐ逃げてしまうので、少し離れた位置から出現場所を目視した。ライターぐらいの大きさの黒いカニが遠出している。私は音を立てずゆっくりと近づいた。カニは動かない。一発目で勝負が決まるので、しっかり狙うと発砲した。甲羅に当たった。クリーンヒットだった。甲羅は平たく、命中したところがへこんでいた。動きが鈍ったところで二発目を撃った。また甲羅に当たり、カニは衝撃でひっくり返ると白い腹面を晒した。起き上がりそうだったので、至近距離から撃ち込んだ。薄紫に見える右の大きな挟がもげ、いよいよ動かなくなった。割箸で地上に置くと、私は脚を小石で潰した。あとは蟻が処分してくれる。
念のため、第二の出没地点に眼を凝らすと、水路から出ているカニがいた。さきほどのカニと異なるのは全体的に赤色だということだ。エアガンを使うまでもない。私は走って踏んだ。死骸を観察しようと足を上げたら生きていた。しかも、怒りを体現しているように挟を高く大きく広げ屹立していた。私は急いで踏み潰した。この実験では、その性格上、被検体へ敬意を払うのは後回しになってしまう。赤いカニは死後、生臭くなるので、割箸で掴むと水路にそっと置いた。
十分な満足感が得られたので、離れの流しで手を洗おうとしたら、ガサガサと音がする。発生源に近寄ると、空の一升瓶や瓶ビールを置いておくケースのなかを黒いカニが左右に動いていた。空き瓶を抜いてケースを外に持ち出すとカニを振り落とした。即時に踏み潰す。しゃがんで黒の肢体を観察した。甲羅に三日月の形をした淡黄線が入っていた。まだ動こうとするので、割箸で大きいほうの挟と脚を千切ろうとした。この個体だけなのか、存外、カニの挟と脚は頑丈なのかもしれない。割箸では切れないので、手元の小石で挟を削り取った。脚はすり潰すのがやっとで千切ることは叶わなかった。突起した眼の動きが気になったので小石でチョンチョンと突いて痛めつけた。残酷なことをしておいて言えた立場ではないが、私はカニを裏返して放置することは滅多にない。敬意を表してというと聞こえはいいが、被検体に選ばれた個体だ。割箸で日陰に移動させ、母屋に入った。
その後の時間を無為に過ごし、日付が変わる直前にヤモリを捕らえた私は、今度はバッテリー液を満たしたどんぶりに投げ込んだ。あまりにバタバタ抵抗するので、液中に割箸で沈めた。これぐらいにしとこうと三分ほどで割箸を置くと、頭だけ浮かべて必死に生きようとしていた。私が目を離した隙にヤモリは沈んでしまっていた。流しに死骸を捨てる際に、眼がドロッと溶けて全身がするりと排水口に吸い込まれた。トタン屋根がパラパラと散発的な音を立て始め、次第に大きな音になっていった。
七月になった。外は暑いようだが、私の関知するところではない。エアコンの効いた部屋で気ままにネットサーフィンしては惰眠を貪る毎日だ。出かけるのも億劫になって先月に購入したサプリだけ飲んでいる。好き勝手なことをしているので、ストレスが溜まらない。常に副交感神経が優位なのか、とにかく眠いのが悩みだ。煙草やコーヒーは眠気を誘発するだけなので控えている。起床後の目覚ましとして、コーヒーにポーションを浸して飲んだことがあったが、ニコチンとカフェインが摂取されたことで脳が眠い状態にあると錯覚したのか、よけいに眠くなった。ポーションを口に含んだまま寝てしまったこともある。それを最寄りの内科医に相談したら、あり得ることだ、と言っていた。
私は他者と話すと眠気が覚めるので、また藤江を利用しようと架電した。
『おはよう、ござい、ます』
いま目覚めたことが明白なほど、口調がたどたどしい。
「寝とったかね?」
『はい。もうすぐ正午ですね』
藤江は退職後、私と同様の生活をしていたらしく、昼夜逆転しているそうだ。七月になったら「筆頭」のもとへ行こうと話したことは覚えていて、段取りは自分が引き受けると言って電話を切った。布団に寝転ぶと天井から吊られたペンダントライトがカタカタと音を立て出した。タンカーだ。どれほど巨大なものだろうと足を踏み出そうとしたとき、退職した船会社の海事法違反を通報しないといけないと思い立った。正午になると官公庁は問答無用で休憩し、受話器を取らないと思ったので、急いで国交省の当該部局に架電した。
応対した担当者は優しい口調で話しやすそうだった。私が告発を済ませると情報を共有したいので待っていてほしいと言って通話を終えた。どうせ二週間ぐらい待たせる気だろ、と腹立ちまぎれに古びた化粧ポーチを開けるとリップティントを塗った。唇がカサカサするのが気になるが、手鏡を見たら血色がよく見えた。青髭が目立っていたので、おもむろに下地とコンシーラーを肌に擦り込んだ。鏡のなかには五歳は若返った自分が映っていた。スクールメイクの足元にも及ばないかもしれないが満足した。鏡を見ながら最も男前に見える角度を探っているうち、スマホの呼び出し音が鳴った。
ハンフリー・ボガートに成りきっていた私は、悠々とスマホを手にし、ボガートが煙草を持つ仕草を真似てスマホを握った。
「はい、宇野です」
電話に出て初めて気づいたが、私は誰もがするだろう指の配置でスマホを握っていただけだった。急に興ざめして何度も同じことを確認してしまった。
担当者によると、違法性は確認できなかったという。海事法のなかでも汽笛に関する事項は海上衝突予防法に記されているらしいが、そこには追い越しと針路転換の決まり事しか書いていないらしい。入港と前進の汽笛は条文に記載がなく、会社の方針や船長の自由裁量とのことだった。何か問題点や違法性はないかと食い下がったが、繰り返し説明を受けているうちに観念した。
担当者に礼を述べ「通話終了」をタップすると完全敗北とばかりに大の字に倒れた。悔しくて泣いた。そのうち、緊張が解けたのか夢を見た。その夢は私が藤江に向かって、
「なんでブログ書いてんだ?」
と言っただけだった。
このまま寝ると肌や唇に悪影響だと思ったので、洗面所で顔を洗い、次いで歯を磨いた。歯は去年まで最悪の状態で、十二万円をかけて治療を終えたが、たまに歯茎が痛む。医者や歯科衛生士から歯磨きの指導を受けたものの、それに従わず、ガシガシと力を入れて磨いているので、その影響だろう。うがいをした際に血が出ないと物足りない気持ちになる。
そういうときは痛むところの歯茎を執拗に磨くとけっこうな出血量になる。私の歯は補綴物だらけで神経は抜かれている。それでも何かを口に入れるとちゃんと咀嚼している感触がある。歯が綺麗なのはけっこうだが、ボロボロも悪くない。年季が入ったフォード・マスタングが無性に欲しくなった。
まさか「筆頭」との面会が昨日の今日になるとは思わなかった。「真剣な遊び」をする人たちはほとんど素性を明かさない。藤江は私についてよく知っているようだが、私は彼のことはそこまで詳しくない。同じ美保関町内に住んでいると知ったのも、ついさっきだ。迎えに来ると言っていたので門の前に立った。が、何か嫌だったので、庭の沓脱石の上に乗って外を窺った。定刻にやたらボディが錆びついた軽トラが門前の駐車場で停まった。金持ちなら、もっと上等な車に乗って来るはずなので、マナーの悪い運転手だろうと放っておいた。
五分が経過し、軽トラはクラクションを鳴らしだした。
「うちの土地だ! バカ野郎!」
さすがに頭に血が上って叫んだ。
―プップ、プププ、プップップ。
―プップ、プププ、プップップ。
「ふざけんな! 警察呼ぶぞ!」
妙にリズミカルな音を鳴らすので酔っ払いだと思った。軽トラに近づき、フロントガラスを見ると、藤江が乗っていた。怒りと呆れが胸裏で混在したまま助手席に乗り込むと余計なツッコミはせず、
「これで行く気なの?」
と訊いた。
「『筆頭』より高級車で行くわけにはいかないじゃないですか。でも、最低限、スポーツカーには乗って行きたい」
後輪駆動でツーシーターはスポーツカー。したがって、軽トラもスポーツカー。私とまったく同じ考え方だということが判明し不愉快になった。私は横の私有地に置いてある中型トラックに視線を向けた。
「あれもスポーツカーかもしれませんが、『筆頭』より大きな車で行くのは失礼です」
藤江はどうしても軽トラで行きたいようだった。私はそれらしいことを考え、
「寝台があるから、交代で運転できていいよ」
と、自分でも不気味だとわかるほど不自然な作り笑いを浮かべた。
藤江は、日南町なんてすぐそこですから、と言って発車させた。同町は鳥取県西部の最奥の自治体で南は広島、岡山の両県に接している。藤江によると所要時間は一時間二十分ほどらしい。私は、近いな、とうっかり本音を漏らしそうになったが、不服そうな表情をして黙っていた。寝ていてくださいと言うので、ポーションを口に投げ込むと目を閉じた。窓を全開にしているところを鑑みるに、エアコンがないモデルだろう。それよりもシートが倒せないのが苦痛だった。
境港市、米子市街地を抜けて国道一八〇号に入ると徐々に民家が少なくなってきた。田園地帯に点在する民家。田舎者には見飽きた光景だ。私は山陰の道路はほとんど通っている。このまま南へ行くと南部町に入る。さらに南が日南町だ。
「奥さんから便りはあるんですか?」
「ないに決まってるよ。すぐそこなんだから」
私は首をぐるりと回しながら左手の関節をポキポキ鳴らした。
「電話やLINEも?」
「とくに話すことないからね」
すでに独居が心地よくなっていたので、妻が発ったその日に泣いたことは伏せた。南部町の中心地に入り、ドラッグストアやスーパー、ホームセンターが見えてきた。藤江に運転の交代を提案したが、大丈夫、と言って欠伸をした。昼夜逆転していたら、いまは眠たかろうと彼の心中を察したが、我を張るのは想像できたので過ぎ行く街並みを眺めていた。
「私の夢はね、宇野さん」
やはり眠たくて会話しないとコックリ眠ってしまいそうなのだろうか。適当に応じることにした。
「幸せな家庭を築くことなんですよ。妻子と一緒に遊んだりして」
藤江は急に速度を落とすと、すみません、と詫びた。
「子どもは同意して決めたことだから気にしなくていいよ。現代社会で結婚は難易度が高いぜ?」
藤江は、うーん、と唸ったまま口を閉じた。私の結婚も運がよかっただけだ。子どもについては仕方なかった。妻は妊娠しづらい体質。私は三十五歳ごろから極端に性欲が減退し、精嚢はほとんど機能していない。生活全般に関わる種々の困難に備えて骨盤底筋は鍛えるようにしていたが、八ヶ月くらいサボっている。
コンクリート斜面の山道を抜けると稲穂の緑が燃えているのが見えてくる。またコンクリート斜面の山道になり、しばらく走ると緑が燃える。この風景の連続を走り、どこかで右折すると日南町だ。
「どこで右折するんだっけ?」
「あと橋を三回渡ったら右折です」
到着が楽しみなのか、藤江は眼を輝かせていた。私は道路の横を流れる日野川と思しき一級河川をつまらなく思った。山陰の中山間地に行けば、どこも同じような景色になる。中国地方最長の江の川ですら、面白いと感じなかった。たいていの川の上流には自然が創り出した大岩があったり、水質が綺麗だったりと普通の人は心動かされる。が、私はそうではない。北海道なら満足できるかもしれない。大山にスイカの種が届くかどうか飛ばしてみたい。ささやかながら、くだらない妄想をしていると、
「着きましたよ」
と藤江が声を上げた。
車窓の外に眼を向けると、数寄屋門が見えた。私は思わず、
「なんちゅう豪邸だよ……」
と感嘆の溜め息をついた。
門を開けると左に二階建ての離れがあった。土蔵と言ってもいいかもしれない。武家の家柄なのだろうか。玄関扉を開けると、土間が広くて言葉を失った。式台なども我が家の何倍も長い。家主が姿を現さないので、使用人がいるのかと思った。とにかく部屋数が多くて広い。奈良の志賀直哉旧居のような印象を受けた。驚きのあまり勝手に探索していたが、藤江が手を横に向けて、
「ここから奥の部屋です」
と、小声で言った。
何部屋か通ると、木製の引き戸がある一室に突き当たった。藤江に眼をやるとうなずいた。私は引き戸に手をかけた。が、なかなか滑らない。力を込めるとガタッと動いた。力んだので屁が出た。室内は私のような建築素人でもわかった。ここは納戸だ。とはいえ、エアコンがあり、テーブル、ベッドがあり、普通の部屋だった。小便が漏れそうな様子でウズウズしていた藤江が、
「第三席、藤江、ただいま参上しました!」
と声を張り上げた。
私は藤江を愚かしく思い、やや侮蔑の眼で見ていたが、
「次席の宇野です。ただいま参上」
と細い声で名乗った。
「筆頭」は資料を見ながらノートパソコンに何か打ち込んでいたが、こちらを向くと、
「お、二人とも久しぶりやん」
と笑った。
声音は雄々しさに欠けて軽薄だったが、眼鏡をかけていること以外は矢沢永吉にそっくりだった。藤江は緊張を隠しきれておらず、変に恭しい態度をしていたが、私は「筆頭」を随分前から知っていた。門の表札を確認するのを失念していたが、玉木という姓だったはずだ。十年近く関係がなければ忘れる。かつて無職にも関わらず参加した青年会議所主催の異業種交流イベントで私とともに彼は浮いていた。
「まあ、座りぃや」
私は目礼してすぐ胡坐をかいたが、藤江は最敬礼ののち、足を揃えて体育座りした。
「宇野くんは、何か大変やったらしいなあ。でも、仕事を一日で辞めたらあかんで」
藤江は恐縮しきって何も話すことができないようだった。一廉の人物に違いないが、この男はただの研究者だ。というより、不労所得で生活している我々と同じ人種だ。私は洋書ばかりの本棚を横目に、
「七、八月のうちに三人揃えます。玉木さんのほうは研究どうです?」
と、いかにも興味津々を装って訊ねた。彼は嬉しそうに白い歯を見せて笑うと、
「関西の私大から何校かオファー来とるで。研究業績もかなり溜まったでな。どっか受かるんちゃう?」
大学教員の採否は、出来レースだとしても必ず公募で採用情報を発信する。玉木はすでに採用が決まっているような気がした。
「ここには飽きたでなあ。宇野くんと藤江くんとで競争して三人を早く集めた方を後継にしよか。できれば山口県民、岡山県民を選んでくれるとええなあ。広島県は藤江くんがおるしな」
藤江が広島出身だということも初耳だった。美保関の家は寓居なり別荘なのだろうか。玉木は静かに肩を揺らしながら、
「そんな気合い入れんと適当でええで。これまで五人おったことないしな。五人おらへんのかい、ってなったほうがおもろいやん」
と、眠そうに眼をこすると再びノートパソコンに向かった。バチバチとキーボードを叩く音がし始め、面会は終了したと思われた。私たちは背を向けた玉木に一礼すると足早に家から立ち去った。
玉木に三人迎え入れると意気込んだ手前、私には対象者がいなかった。その境遇は藤江にも該当し、彼は岡山県の二人を抱えているが一人足りない。三人を一人で集めるのは極めて困難で、もう少しで手が届きそうな藤江にも不可能だと思われた。昨日、帰りの車中で私と藤江は意思統一し、競争ではなく協同して三人を迎えること、二人を入れる藤江を次の「筆頭」とすることを取り決めた。彼は次席の私が継ぐべきだと訴えた。私は彼の肩に手を置き、席次は序列や階級、まして年功ではないと説いて納得させた。
退職してからセカンドカーを動かしていなかったので、少し遠出をしようと思った。トラックのバッテリーは強靭なので、数ケ月くらい放置してよさそうなものだった。が、寝台つきの中型トラックは当然、長距離運転を想定しているはずで、何もしなければバッテリーの不具合は絶対に避けることができないだろう。久方ぶりに座席に腰を下ろすと、視線が高く雲上人になったような気分になった。
クラッチを踏んでキーを回すと激しい揺れとエンジンの爆音に晒された。アイドリングしながら車体に異常がないか点検して回った。スポーツカーのつもりなので、平ボディの荷台には何も載せていない。中型とはいえ、全長八・五メートルのトラックは怪物だ。燃料タンクの容量は百リットル。燃費は荷がなければ一リットルあたり四か五キロは走る。馬力は二百を少し超えるくらいだったと思う。当たり前だが、普通のスポーツカーのほうが速い。そのハンデを覆すところに公道バトルの醍醐味がある。
エアコンをつけ、私室に戻ると着替えを大きなレジ袋に突っ込んだ。家中の施錠を済ませ、上がりにくいステップを踏み座席に乗った。大山が少し近くなった気がした。ひとまず、山口市を目指すことにした。理由は単純で、下関市は都会だからだ。玉木には悪いが、人口が多く、対象者を探しやすい広島、福山、岡山、倉敷の四市は絶対に行かない。スマホのナビによると、下道で四時間半(二七〇キロ)、高速道路だと三時間五十分(三百キロ)で到着するらしい。大した時間の差はないので、島根県を東西に横断しながら窓越しに日本海を楽しめる国道九号を走って目的地を目指すことにした。よし行くぞ、と勇み立ったものの、エンストして発車すらできない。試行錯誤しているうち、二速にギアを入れているつもりが四速に入っていたことに気付いた。私が下手なのか何度も練習してやっと自然に二速に入るようになった。
ホテル代ごときけちるな、ともう一人の私が誘惑してきた。つい誘いに乗りかけたが、これぞまさに有閑人の「真剣な遊び」だと自らを奮い立たせた。梅雨だというのに、カンカン照りの日々が続いていて、もう「出雲」という地名を変えるべきではないかと思ってしまう。日焼け止めの代替品として下地とファンデーションを顔、首、腕に塗り、十時過ぎにのろのろと出発した。
島根県の日本海は東部と西部でまったく異なる。東部は黒々として何一つ面白いところがない。西部は淡い青に波がキラキラ光り、見ていて飽きない。その境界は出雲大社が神迎え神事をする浜だと思っている。厳密には黒すぎず淡すぎずという塩梅で何とも形容しがたい。八百万の神が通るということで、あの一帯の海は特別なのかもしれない。その浜を過ぎてほどなく、大きな道の駅がある。私はそこで休憩を取ることにした。
寝台で横になると囲碁のスマホゲームをした。九路盤で相手のレベルは最低に設定したが、まったく歯が立たない。もちろん、私が先手だ。定石として見直されてきているらしい初手の天元打ちにこだわって何度も勝負しては圧倒されて負けている。運よく横に壁を作るような展開になると優勢だ。といっても、最後は半目勝ちの辛勝が多い。相手はコンピュータなので、私はこれからもかっこつけて初手からど真ん中に石を置き続けるだろう。
囲碁教室には子どもから大人まで幅広い年齢層が通っていると聞く。九路盤で相手してくれる人がいるとは思えないが、天元ばかり打っていれば嫌でも目立つだろう。そのうち、運営者や講師が声をかけてくるかもしれない。仲も深まれば賢人として誘うこともできる。
希望が湧いてきたので、出発することにした。調子に乗って排気ブレーキを作動させ、インパネにマークを表示させると、アクセルを踏んでは離してを繰り返した。プシュー、プシューと音がする。いい気分だ。リズミカルにクラクションを鳴らしていた藤江のことが思い出された。いまなら彼の気持ちがわかる気がする。
私は世界一大きな砂時計の横を通り過ぎながら、排気ブレーキのリズムに酔いしれた。が、そう間もないうちにトンネル前の広い場所で停車した。ハザードランプを点滅させると排気ブレーキを切った。というのも、囲碁教室に通うにしても都会のほうが数が多いと気付いたからだ。山口市に一つもないわけはないと信じたかったが、落ち着かないのでスマホで確認することにした。
通話履歴に一時間前から藤江が六回も架電してきていた。気になったので彼にかけなおした。一コールが鳴り終わる前に繋がった。
「出るの早いな。何かあったの?」
『新しい候補者が加入に同意しました! すぐ七類港に来てください!』
藤江の声は異常に上ずっていて、やや早口だった。一人で三人を見つけたのだなと安堵するとともに、私はそのまま山口市に行こうと思った。
「いま西におるのよ。大田。正確には大田市仁摩町。すぐには戻れん」
『そのほか重要案件あり。すぐ帰松されたし。次の「筆頭」は私です』
「そりゃそうだけど……」
一方的に電話を切られた。おかしな言葉の調子だったが、素直に帰ることにした。せっかくスポーツカーに乗っているのだから、この際、高速道路で引き返そうと思った。少し東に行くとインターチェンジがある。そこから乗れば、七類港まで一時間半で到着だ。時刻は二時を過ぎていた。LINEのメッセージで到着予定時刻を藤江に送信した。急に不愉快になり、県西部の海にも山口にも興味がなくなった。助手席のクーラーボックスからノンアルコールビールを取り出すと、ぐいっと半分ほど口に流し込み、発進した。
島根県の高速道路も熟知しているので、運転といっても単なる作業のようなものだ。法定速度を守って走っていたら、型式の古い軽自動車に煽られた。サイドミラーのなかでカニのように左右に移動している。いつもの私ならエンジンブレーキと排気ブレーキを併用してブレーキランプを点灯させず急に速度を落とすところだが、無心で走り続けた。
片道一車線ばかりの島根の高速道路を疾走してもすぐ前方の車両に追いついてしまうので意味がない。煽り運転家たちはそれを知っていてもなお、前方の車を煽る。枯れていない時分は、前が塞がってもなお煽り続ける彼らを煽ったり、ギアをニュートラルにして空吹かしをしたものだが、いつのころからか一切やらなくなった。もちろん、煽られると腹が立つ。どうにかして仕返しをしてやろうとも思う。たしか煽り運転は罰則が科せられるようになったと耳にしたが気のせいだろうか。追い越し車線が見えてきたので、左のウィンカーを点滅させながら後続車に譲った。
インターチェンジを「美保関方面」で降り、自動車専用道路を直進すると丁字路の信号機がある。そこを右折すれば七類港までは道なりに進むだけだ。ここまでくれば私の庭も同然で無灯火で走ることもできる。夜間のハイビームが推奨されているが、こんな単調な道でハイビームを用いるような視界の狭い運転者は免許を返納したほうがいい。
漫然運転から正気に戻ると、バス停の目の前で停車している車を見つけた。私はなぜか腹が立って横道に入って停車すると、その運転手に声をかけた。
「バス停の前は駐停車禁止なのはご存じですか?」
車に乗っていた五十歳ぐらいの男は窓を少し開け、
「なんですか? なに?」
と、やや驚いた様子で言った。
「すみませんが、十メートルほど進むか後退してください」
「え? なんで? バスが来るのは十五分後みたいだよ?」
男の眼に怒りの灯が宿り出したので、私も腹の虫がおさまらなくなった。
「じゃあね、運転手さん。警察官が来るのでここにいてください。あと写真を撮りますけど、道交法違反ですんでね。証拠を撮るので悪く思わんでください」
スマホのカメラにバス停と車を収めると「一一〇」が表示された画面を男に見せ、
「じゃあ、通報しますので」
と、人差し指をゆっくり画面に近づけていった。
男は無言で窓を閉めると急発進して走り去った。方向指示器を出さんかい、と独言してトラックに乗り込んだ。賢人はアンガーマネジメントも重要だと自分に言い聞かせながら、クラッチを踏み、シフトレバーを掴んで無作為にギアチェンジを繰り返した。腕が疲れてレバーの先端を上下にさすっているうち、笑いが込み上げてきた。徐々に運動の速さを上げていき、愉悦の絶叫を上げた。
アンガーマネジメントの思いがけぬ発見に喜んで運転しているうち、やたら速度の遅い軽自動車に追いついてしまった。シルバーマークがリアに貼ってあり、これは仕方ないと車間距離を取って私もゆっくり走った。が、どうも車体が右に寄りすぎで、たびたび黄色の実線をはみ出している。黄色実線は工事や障害物など、やむを得ず避ける場合を除いてはみ出してはいけない。さきほどから路上を遮るものはない。七類港はもう少し先だが、近づくにつれ、道幅はどんどん狭くなる。飲酒運転ではなさそうだが、いかんせん黄色実線を越えて走りすぎだ。狭いカーブで大型車が来ると危ない。私は見通しのよい直線になったところで窓から右腕を出し、左のほうへ振りながら、
「左へ寄れ! 左へ寄れ!」
と繰り返し叫んだ。
前方車両はハザードランプを点灯させながら減速し、左の路肩に停車した。私は「左へ寄れ!」が「左へどけ!」に聞こえたのだと思った。悪いことをしたなと反省してすぐ謝罪しようとしたが、トラックが大きすぎて停車するわけにはいかず、そのまま通り過ぎた。何となく気分が晴れないまま、二十五分遅れて七類港に着いた。
構内は道路の体裁をとっているが、たしか船会社か公的機関の私有地だった記憶があるので、ポイ捨て禁止看板の下に記されている連絡先に架電し、駐車許可を取った。フェリー乗り場のほうへ駆けていくと、男性二人の姿が遠くから見えた。一人がこちらに気付き、大きく手を振った。おそらく藤江だろう。私はしきりに頭を下げながら両者に近づいて行った。
遅刻した理由を話すと二人は理解を示してくれた。もう一人の男は定岡といって七類で農家をしているらしい。くたびれた作業服に麦わら帽子を被っていた。顔は日焼けし、齢は七十だというが、背筋も真っ直ぐで立派な体躯だった。
七類は美保関町で最も人口密度が高く人の多い大字だ。藤江と一緒に定岡の車に揺られながら、住宅と港だけの地域に農業を営む場所があるだろうかと疑った。車は住宅密集地を抜けると暗い雑木林のなかを百メートルほど進んだ。陽光が射したと思ったら、目の前に広大な土地があった。どうやら偽りではなかったらしい。西に田畑とビニールハウス、東に大きな日本家屋があった。北に獣道が続いていたが、この奥に人がいるとは思えなかった。
横に座っていた藤江が私の肩に肘をぶつけ、雑木林も定岡の私有地だと耳打ちした。とんでもない大地主だ。定岡に降車を促されると改めて広大な土地を眺めた。私は定岡に自己紹介し互いに挨拶すると、
「これは海水農業ですか?」
と訊いた。
定岡は豪快に笑いながら遠くを一見すると、
「山から掃いて捨てるほど水が出るけえなあ。そがな最先端農業やっとったら、いまごろワシ破産しとるけえ」
と言って肩を大きく揺らし続けた。
ツッコミどころのある独特な言い回しと語尾から島根県西部出身者だと確信したものの、それ以上の詮索は控えた。初対面でほんの一回、言葉を交えたに過ぎないが、雰囲気も颯爽な感じで賢人として列席するに十分値すると判断した。そのうえで、「意味のない真剣な遊び」を有しているか、もしくはそのようなものに興じることができるか問うた。定岡は、年配者らしく人生は全部遊びみたいなものだと笑うと、
「今日から宇野さんも友達だけえなあ。こがなふうに毎日楽しくテロテロ生きとるだけで十分だけえ」
と真面目な眼をして話した。自分を自然の一部として認め、あるがままに生きる。かといって主体性まで自然に任せてばかりというわけではない。概ねそんなことを言っているように私は受け止めた。定岡と話していると、良い意味で枯れ具合が加速していきそうだった。藤江との接点を訊くと、本人と話したほうがいいかもしれないと促された。
「うちで夕飯食って帰りんさいや。ワシが作っとくけえ。準備できたら呼ぶけえ」
頂戴する旨を述べ、礼を言うと藤江を探した。こんな開けた場所で迷子になるわけがないので全方位に視線を飛ばした。獣道の入口横に簡易テントぐらいの大きさをした小屋らしきものを見つけた。扉はなく、なかを覗くと藤江が見たこともない巨大な生命体と添い寝していた。ヤモリのような尾を揺らしている。豚かカバか犬、もしくはそれらの雑種だと思われた。ポーションを歯茎に挟むと見なかったことにして、そっと後ずさりした。
「宇野さんも一緒にどうです?」
動悸が激しくなった。これは罠だと思った。私が横になったところで、この巨大生命体の餌食にするつもりなのだろう。藤江は社長令息だと聞いていたが、生物学者という裏の顔があるのかもしれない。
「このさんの学名はなんていうの?」
「アメリカン・ピット・ブル・テリア」
淡々と藤江は答えた。動転している脳を鎮静させるため、ポーションをもう片方の歯茎に挟んだ。まったく確信が持てないが、実世界ですでに存在している生物だろう。スマホで検索すると画像付きで表示された。犬らしいが、かなり攻撃的なようだ。
「おとなしいですから、なかへどうぞ」
「噛みついてきたら容赦しないからな」
私はゆっくり犬に近づくと臨戦態勢のまま腰を下ろした。背をなでるとザラザラしていた。ネットの情報通り、かなり体毛が短い。正面に移動して顔を見た。口を金魚のようにカプカプ動かしている。歯茎か唇か判別できなかったが、ひだ状になっていて歯と一緒に横に飛び出ていた。大きな舌を垂らしているのはみっともないが、優しい眼をしていて、いわゆるブサカワという感じだった。おとなしいのは間違いなく、頭をガシガシ撫でてもピクリとも動かなかった。
「宇野さんに懐いていますね」
藤江が起き上がって胡坐をかいた。
「うん。もう心の友だよ。お互いオスの象徴を使うことなく死んでいくからね」
彼の笑いのツボではなかったのか、黙ったまま犬を撫でていた。そのうち口を開き、
「私も七類に住んでるんですよ」
と呟いた。
あそう、と流していたら、散歩中に犬がへばってしまい困っていたところを定岡に声をかけられたと話した。私は犬に関して無知で、大型犬の寿命が十歳ぐらいだということを藤江の口から初めて聞いた。彼の犬の名は「チャブ」というらしく十二歳の老犬だそうだ。最近はずっとぐったりしていて、いざ危篤というときにすぐ駆け付けられないので、原則的に自分の土地から離れない定岡に様子を見てもらっているという。カプカプと口を開閉するのは敵意がないという意思表示らしく、知らない人間に遭遇した際にとる行動のようだ。チャブは疲弊しているのか暑いのか、さらに舌を垂らした。
「ディープキスもせずに終わるのは悲しいな」
中年になると場の雰囲気などおかまいなしに下ネタを言うようになると聞いていたが、私がまさしくそうで、悪気はないのだが、無自覚に口が滑る。今回の失言は舌の短い妻を念頭に入れた言葉だった。それも心中で妄想していただけだ。なぜ実際に発してしまったのだろうと猛省した。藤江は何も聞いていないという様子でチャブを撫でていた。
「定岡さんが夕食を作ってくれるってさ。チャブは何を食うの?」
藤江はうつろな眼を上げると、
「芋。焼いた豚肉。小さく切って冷やして」
と独り言のように話し、薄茶の体毛をまた撫で始めた。
どうも空気感が好転しないので、藤江が親バカぶりを発揮しだすのを待った。さすがにいつ死ぬかわからない愛犬について話すのは無理だろうと思い始めたとたん、堰を切ったように藤江が喋り出した。チャブは同犬のなかでも小柄で体重は三十五キロくらい、自分と久しぶりに会うと顔を上下左右に振り回して歌うように鳴く、利口で放屁するときはスーッと静かに音を発する。
私の脳は最後の条のみ記憶した。芋と肉ばかり食べていたら、さぞかし臭い屁に違いない。子犬のときから撮り溜めていたという写真を強引に見せられているうちに定岡の呼ぶ声が聞こえた。
そうめんは好きだが、他者が麺をすする音が耐えられない。それは麺類一般に該当する。つゆやスープが食卓に飛び散り、不快極まりない。唯一の例外がジャージャー麺でとくに何も感じない。食前に混ぜるという行為があると具合がよいのかもしれない。思えば冷やし中華も不快ではない。私の箸が進まないのを見かねたのか定岡は、
「宇野さんは、そうめん好かんのだろうか」
と自身に問いかけるように言った。
「いえ、二人の豪快な食べっぷりに圧倒されまして」
皮肉を交えたつもりだったが、定岡は気にする素振りもなくズズッと麺をすすった。そうめんに混ぜるものが浮かばず、私は対抗手段として椀に大量に麺を入れて二人の分量を減らすという措置を講じた。さらに、定岡を離席させようと、我が家では山葵とネギではなく、生姜とミョウガを薬味に加えると主張した。ミョウガは入れないが、生姜は本当だ。定岡はいっそう不快な音を発すると、あっこにあるけえ、と冷蔵庫を指さした。私は箸を置くと、ごちそうさまでした、と合掌した。二度目の完全敗北だ。この程度の窮地を抜け出せなくて何が賢人だ、と自分の力量不足に不甲斐ない思いを抱いた。
―ズズッズッ。
―ズズーズッ。
二人の不快なセッションは十五分ほど続いた。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが立派な作曲家で心底よかった。さらにはマイルス・デイヴィス、コルトレーンが立派なジャズメンで本当によかった。即興で麺をすする音を入れられたら私は卒倒していただろう。うまかったと光に満ちた眼を交わす二人を見ていたら、わずかに心が安らいだ。次に三人で会食する際は境港の飲食店か私の自宅に招待しようと心に誓った。
何度も見送りを断ったにも関わらず、定岡と藤江はついてきた。藤江は往時の逞しさを想像させるようなチャブの疾走に引きずられていた。藤江は私のトラックを一見したことがあるので黙っていたが、定岡は静かな港に響くほど哄笑した。
「農業やっとるワシですら軽トラよ? せめて小型にせにゃ通れるところも通れんで」
そんなことは百も承知だったが、私は「はたらく自動車」が好きなのでどうしようもない。国交省の黄色いトラックとダブルキャブの消防車が欲しくて欲しくてたまらないが、誰にも言えずにいる。笑いながら定岡は、
「宇野さんはどこに住んどんさる?」
と訊いた。
私の住まいは七類からトンネルを抜けるだけの宇井という大字だったので、明かすのがためらわれた。が、そうめんを食べるくらいなら住所を教えた方がマシだと考え直し伝えた。二人は手を振りながら、それぞれ、
「酒も掃いて捨てるほどあるけえ、いつでも遊びに来んさいよー」「気を付けてくださいね。イノシシやタヌキが出ますから」
と、別れの言葉を口にした。
発進後、ブレーキを五回踏むと一気に加速させた。二人の姿がサイドミラーから消えると藤江の忠告どおり、獣の飛び出しに注意して速度を落とした。前方にチョロチョロと蛇行しながら動くウリ坊を見つけた。ガードレールの外に出て行ったのを確認するとアクセルを踏んだ。ガコッという音がした。逃がしたのに何でこうなるんだと憤懣やるかたない気持ちでハザードランプを点け、車を停めた。
何度も経験した私的データに基づくと、ガコッという衝突音はイノシシと相場が決まっている。イノシシは白黄が認識できず視力が悪いので逃避行動をしない傾向がある。もしかしたら、さっきのウリ坊だろう。だが、ウリ坊なら荷台より低いはずだ。まさかキャビンかと周囲を確認したが、問題なかった。荷台の下方を入念に見ていたら、オイルタンクなどを横に覆うサイドガードがへこんでいた。オイルタンクは無事だった。死体はなかったので、親イノシシがぶつかって走り去ったのだろう。
島根県全域に該当することだが、人が減って獣が山から下りてきている。県東部はサル、イノシシ、タヌキ、県西部はクマの目撃情報が毎日のように寄せられている。こんなニュースは仕入れたくもないが、ネットをやっていると強制的に見せられる。自宅はすぐそこなのに帰る気が失せてしまったので、コンビニ駐車場のトラックゾーンに車を止めると、何を考えるでもなく、へこんだサイドガードをずっと見つめていた。
無為徒食の生活に復帰したら、八月になっていた。相変わらずエアコンの効いた部屋でネットサーフィンをしていた。カニやヤモリを実験という名の「真剣な遊び」に巻き込むこともしなくなった。滅殺すると家の生態系が狂いかねないと思ったからだ。フナムシはとっくの昔に飽きていた。虫の鳴き声や花火といった風物詩とは無縁で、暮らしぶりに季節感はない。一つ例外があるとすれば、数日後から始まる甲子園だ。私が推している高校の都道府県は、京都、大阪、愛媛、大分の四府県で中国地方は一県もない。
藤江と定岡との交流も絶えて随分になる。彼らは「意味のない真剣な遊び」を続けているのだろうか。考えても仕方ないので、藤江に岡山県の候補者二人との面会を急ぐようメッセージを送信した。「意味のない」「真剣な」「遊び」などという言葉は考えだしたら思索の深淵に落ちそうだった。こういう胸中なり事象なりを私は柄谷行人現象と呼んでいる。彼の著書『日本近代文学の起源』が「日本」「近代」「文学」「起源」と個別に読めるのと同じ原理だ。
心中穏健の徹底が肝要だと思い、勃起不全の知人がやっていた骨盤底筋を鍛えるトレーニングをすることにした。彼は高速道路の写真集を枕元に置き、それを見ながら女性の秘部に陰茎を挿入する要領で行っていた。大橋ジャンクションのページを開いていたらしい。写真集を使用する理由がわからなかった。目的の違いかもしれない。私は第一に体幹の安定だ。ずっと寝ていて通常歩行が怪しくなってきた。第二に尿漏れ防止。四十歳にもなれば小便の切れが悪くなると聞いていたが、私はどうも具合が悪く、煎餅ほどの大きさが下着に滲むようになった。
さっそく、布団の適当な場所を秘部と仮定して腰を振ってみた。六十回を超えたあたりから太腿がプルプルと震えてきつくなった。オーバーワークはよくないので、すぐに切り上げた。予想以上に疲れたので横になった。メッセージに既読が付いていないかチェックすると、私が送信した一分後には返信が来ていた。段取りはすべて整えてあるようだ。目的地は岡山県新見市。この街は数年前、避暑のために妻と三週間ほど滞在したことがある。市街地が南北に伸び、東西は短い過疎地だ。出発は明朝で宿の予約も手配済み。藤江は預言者かなにか、未来透視ができるのか。どこかの国の非常勤エージェントかもしれない。もう考えることすら疲れるので、軽く十回ほど腰を振ってさっさと眠ってしまった。
昨日は寝て起きてを繰り返し、合計で十三時間くらい寝た。運動で疲れた影響もあるだろう。それぐらいの長い睡眠を確保しておいてよかった。今日もまた藤江の軽トラで新見に向かっているからだった。彼は下道を通ると主張したが、それでは日南町へ行く道と変わらない。国道一八〇号を途中で折れず、さらに南下すれば新見市だからだ。エアコンもない車で何度も同じ道は通りたくない。境港、米子の両市を通ることは避けられないが、後者のインターチェンジに乗ればただ走るだけで新見市に到着する。とはいえ、通った回数でいえば高速道路のほうがはるかに多かった。強く押し切って藤江を説得させた半面、彼も高速道路に飽きていることは明らかだった。
背面から見る大山は峻厳な山だ。いかにも霊山という様相を呈している。大山を過ぎると中国山地のなかをひたすら走る。景色は変わらない。山越えが終わると岡山県真庭市の街並みを望むことができるが、これも見飽きている。どこまで真庭なんだ、と広すぎる行政区画に憤りを感じ出すと「新見市」の看板とインターチェンジが見えてくる。所要時間の一時間半で交わした言葉はなく、藤江は当てつけのようにクチャクチャと咀嚼音を発してガムを噛んでいた。料金所のゲートを抜け、一般道に降りると藤江が右折したので声をかけた。
「そっちは日南のほうだぜ」
「待ち合わせは三時です。あと六時間も何するんです?」
藤江はガムを吐き出すと不満そうな眼をした。新見は井倉洞で知られており、JR新見駅には伯備線と姫新線が乗り入れている。鍾乳洞も鉄道も私は興味ないがブラブラしていたら六時間くらい平気で時間は過ぎるだろうと思った。市街地は南北に約八キロ、東西は二キロぐらいだろうか。典型的な盆地だ。北、中央、南の各エリアにショッピングモールや病院などがある。公立大学が立地しており、中山間地域にも関わらず若者の姿が目立つ。妻と三週間いた間、過疎地という印象は受けなかった。その土地に住まない他者視点だから好意的に感じたのかもしれない。私はダムが好きなので、千屋ダムに行こうと提案しようとしたが、それこそ日南方面にかなり走る必要がある。涼しいファミレスで粘ろうと思った。金だけはあるのだから。
「ファミレスで酒を飲もう。一人くらいだらしない奴がいたほうが先方も安心するよ」
私の提案は即否決された。まだ機嫌を害しているのだろうか。事前に聞いた候補者二人の略歴が珍奇だったので、私はいささか緊張していた。酔いたかったのは脳を麻痺させたかったからだ。両者とも本籍は島根県で団体職員らしいが、役員かその長だろう。一人は西ドイツ生まれ、もう一人はイラン生まれ。現在は新見在住の高等遊民だ。
「千屋温泉でも行こうか」
「最初からそのつもりでしたよ。そこで完結しますから」
藤江のプランがようやくわかった。二人との面会場所は千屋温泉。宿泊もできて食事もできる。少し離れた場所にアトラクションもある。よっぽど時間があれば「筆頭」を訪ねて戻ることもできる。周到な計画に舌を巻いた。国道一八〇号を二十五キロ北上し三十分で着く。てっきり市街地のビジネスホテルだと思っていたので、早く教えろ、と心中で憤ったが、温泉の楽しみがそれを勝った。道中は延々と緑が燃えていたが、つまらないとは思わなかった。同温泉は美肌効果を謳っていた。少なくとも、これから外見は枯れていると誰も言うまい、と車中でほくそ笑んだ。
目的地に到着後、すぐに湯に浸かった。数分浸かっては浴槽の外に出てまた数分浸かった。湯口の前にいる老人がなかなか出ないので根比べになった。彼もまた外見だけでも若返りたいという魂胆だろう。コンクラーベよりは早く決着がつくはずだ。
「自然に齢を重ねるということができんもんですかねえ」
隣で首までどっぷり浸かっていた藤江が天井を見上げた。一理あると思い、老人がなおも鎮座するようなら湯口はあきらめることにした。成分だけでも多く摂取しようと湯煙をスースー吸い込んだ。藤江は黙ったまま、ずっと天井を見上げていた。湯煙の吸入を続けていたら、藤江の近くで大きな気泡が弾けるのが見えた。
「藤江、見損なったぞ。ミスディレクションまで使いやがって」
「何か言いましたか?」
やましい行為はしていない表情だった。人間には認識不可能な事象は起こり得るものなので、それ以上の追及はしなかった。バシャッと音がして湯口の老人が立ち上がった。老人の周辺の湯煙が不思議と薄くなった。温泉で他者の陰茎を見ることはないが、その老人は仏塔と呼んだ方がふさわしい立派なものを備えていて、思わず凝視してしまった。彼に畏敬の念を抱いたが、一方で勃起の収拾がつかず仕方なく長く漬かっていたのかもしれないと想像した。私は仏塔の跡地に座ることはできかねて、藤江に一声かけると軽く湯を拭き、脱衣所の戸を開けた。
着替えを済ませロビーに出ると、有料のマッサージチェアが視界に入った。硬貨を入れると足先から頸部までブルブルと振動する。強弱の調整ができるようで、私は最も強い刺激を求めた。ほんの気休めだろうと思っていたが気持ちがいい。膨れた腹が揺れるのが恥ずかしかったが、すぐに終了してしまったので、もう一回起動させた。こういった普通の人たちが触れるものにほとんど接してこなかったので新鮮だった。ビジネスホテルで高額料金を払って受けた指圧マッサージより気持ちがいい。やがて私は来客の注目の的となったが、気にせず揺られていた。
しばらくすると、藤江が金髪と坊主の男を伴って現れた。私は硬貨を再投入した。金髪と坊主が進み出て挨拶した。金髪は上原、坊主は城島と名乗り、同級生だという。どちらか西ドイツ生まれで二人は顔つきも中年だったので私と年齢は同じくらいだろう。ともに小柄だが全身に脂肪が異常についていて、一見した限りでは平均身長だと言っても誰もが信じる体型だ。上原はアロハシャツに短パン、城島はピンクのTシャツに短パンだった。
私はすでに二人を好ましく思った。私自身もシワのひどい白のポロシャツに短パンだったからだ。それに、腐っても賢人の先輩との面会を控えているにも関わらず、堂々とラフな装いをしているのは自分に自信があるからに他ならない。脱衣所で背広に着替えて両者の後ろに立っている藤江がひどく凡庸な男に映った。
凡庸な男の説明など聞きたくなかったが、彼の話では二人は昨日から泊っていると言う。上原が自分の部屋で話をしないかと提案した。彼の部屋は大部屋らしく、私たち全員が入室できる。しかし、藤江と私はチェックイン前なので、宿泊者の部屋に入ることはできない。どうしたものかと悩んでいると、
「ワシがフロントに言って何とかしてもらっちゃるわ」
と城島が宿泊棟のほうへ歩いて行った。城島は並々ならぬ雰囲気を発していたので何とかしてしまうのではと思った。彼をよく知っているはずの上原に眼を向けると、
「楽勝っスよ。少なくとも俺は城島が何かでしくじった話を聞いたことないです」
と言って余裕のある振る舞いをしていた。
私は二人を頼もしく思った。これから長い付き合いになりそうだと早くも期待が胸中で膨らんでいた。心地よい振動が止まったので、マッサージチェアに硬貨を入れた。せめて千円札の差込口ぐらい作ってほしいと憤慨しているうちに城島が戻ってきた。
「だめでしたわ。いっそのこと、ワシらの施設に来ます?」
城島は毒づきながらロビーチェアに寝転んだ。上原は、しゃあない、と言って寝転んだ。私は藤江に顔を向けると城島の施設に行くべきかどうか眼で訴えた。藤江は薄く笑みを浮かべると、ゆっくり二回うなずいた。
新見市内の南東に位置する哲多町に城島の施設は所在していた。廃校になった小学校を地域の交流施設として再活用しているらしい。城島と上原の言動を観察していたら、二人はどうやら共同経営者のようだ。昼食は調理実習室で和牛のステーキを食べた。うまかった。同時に麺類でなかったことに胸をなでおろした。上原が夕食は流しそうめんかバーベキューか選べというので、迷うことなくバーベキューにした。藤江もバーベキューを選んだらしく心底安堵した。遊具はすべて撤去されていて、サッカーゴール一対が広い校庭にぽつねんと置かれていた。日陰から淋しい校庭を眺めていたら、
「子どもらのこと考えたら芝がいいけどなあ。高齢者のこと考えたら土がいいわ」
と城島がこめかみを掻きながら言った。
事態は簡単ではないらしく、子どもの安全を考慮すると芝、サッカーや野球を経験させるなら芝は不適と言う。高齢者はグランドゴルフが大好きらしく土で問題ないらしい。私は腕を組みながら、
「転んで怪我するのも、子どものうちに経験したほうがいいんじゃない?」
と、それらしくも無責任な言葉を発してその場を離れた。
校庭の外れには農園があった。上原がナス、キュウリ、トマトなど夏野菜の収穫に汗を流していた。これらの収穫物も地域の人らに与えたりするのだろうか。だとすれば、彼らは聖人だ。私は久しぶりに触る肥えた土の感覚に涙しそうになりながら、
「これ無料でしょ? 田舎の人は喜ぶね」
と言って手の平の土を落とした。上原は私に視線を向けると、
「いや、有料っスよ。校庭の使用代とか。善意ではやっちょるけど」
と淡白に返答し作業に戻った。
大金持ちが銭を徴収する理由がわからなかった。なかなかできる取り組みではないので、顕彰に値すると思った。金銭の徴収は何か理由あってのことだろう。藤江の姿が見えないので校舎に入った。彼がいそうな場所を探す。職員室や教室にはいないだろう。屋上と体育館も考えにくい。校長室はつまらない。移動が面倒なので、音楽室、視聴覚室、放送室に絞った。デブに歩かせんな、と怒りを抑えながら最有力とにらんだ放送室の扉を開けた。
「私の居場所がよくわかりましたね。褒めて差し上げましょう」
中途半端なキャラ変を無視して、なぜここにいるのか訊ねた。
藤江は、昔から校内放送を通して女子に愛を告白するのが憧れだったと話した。そういうのはアニメ、ドラマ、映画など映像芸術の創造物に過ぎない。小学校の放送委員会は掃除の時間に決まった音楽を流すだけだ。中学になると昼に音楽を交えた番組を放送する。高校では、番組制作とともに体育祭の実況や校内イベントの照明担当、そしてコンテスト参加がある。おそらく、小中高いずれも告白なんてする余地はない。
私はできるだけ藤江の意を汲んで彼の肩に手を置くと、
「幸せな家庭を築くことが夢って言ってたね。廃校になった小学校の放送室で何を言っても未来の伴侶には届かない。マッチングアプリでもやりなよ」
と言って、過去のことを振り返っても時間の無駄だと念を押した。が、年長であることを利用して偉そうに高説を垂れるのも嫌だったので、適当にはぐらかした。藤江はなぜか泣き出した。私もよく泣くので、彼が落ち着くまで傍にいようと思った。
翌朝の九時ごろ二人と別れた藤江と私は玉木に報告をするため、日南に寄った。二人は組織的でなく、友人ほどの関係性に留めるなら賢人として名を連ねてもいいと同意した。玉木は引退となるが、藤江が「筆頭」として跡を継ぐ。直接報告する必要はないが、帰路に寄り道する程度のことなので玉木の家がある路地に入った。
藤江が急に車から飛び出し駆けて行ったのでエンストした。どうやら玉木は転居したようだった。広大な更地に看板が立てられている。赤字で「売土地」と表記されているのが車内からでも見えた。玉木のことは何も知らないに等しいが、持ち家を潰してまで去ったことから、本当にこの地に飽きていたのだなと思った。
藤江は泣き崩れているように見えた。私は降車して電信柱に手を付くと腰を振るトレーニングを始めた。骨盤底筋を意識しながら力を込める。時と場所を問わずにできることをたったいま知った。知人はこういう応用が利くことを知らなかったのだろうか。だとすれば、少しは賢人として誇りを持っていいのかもしれない。徐々に太腿やふくらはぎにも効いてきて脳内物質が分泌されているのを感じた。しばしばサボっていたが、毎日やれば基礎代謝も上がり、ダイエットの下地は整えることができそうだ。
「じゃあ、行きましょう」
朗々とした声に振り返ると、さっぱりとした表情で藤江が立っていた。私はもうしばらく鍛えていたかったので、
「君の涙に彼も歓喜してる。枯れ果てるまで泣いてきなよ」
と言うと次いで、後継として玉木の残した意思を感じ取って来い、と心にもないことを強弁した。藤江は次第に無表情になり、
「時間の無駄なので帰りましょう。少なくとも宍道湖が枯渇するほどには泣いてやりましたよ」
と言ってエンジンをかけると国道一八〇号に合流する交差点を曲がり、北へ向かって走り出した。藤江の眼は泣き崩れた者のそれではなく、充血もしていなかったので、形式的に泣くふりをしたか、単に魔が差したかのどちらかと思われた。宍道湖が枯渇するという点についてはツッコミを入れても入れなくてもつまらないので黙っていた。
境水道大橋を渡り、いよいよ美保関に入ると、藤江はマッチングアプリ用の写真が撮りたいと言い出した。私は引き受ける旨を述べると、背景は日本海か境水道のどちらにするか訊いた。藤江は何度もかぶりを振って、
「そんなの愛犬と一緒に撮るに決まってるじゃないですか」
と、うんざりするほど長々とその理由を語った。
私は、定岡に頼みな、と断った。自宅近くの埠頭に降ろしてもらうと別れを告げて遠ざかる軽トラを見送った。ブレーキランプが数えきれないほど点滅した。そうじゃない、と苦笑しながら埠頭を散歩した。南中の太陽の陽射しが猛烈に暑い。クレーンを載せた大型作業船が二隻も係留されていて、釣り人の姿は見えなかった。堤防沿いの小道に足を運んだ。開けた場所に駐車し、竿が揺れるのをパラソル内の椅子から見ている男がいた。スマホのカメラを起動させると男に勢いよく詰め寄った。
「幸一くんじゃないか! 翔子が家で待っとるぞ!」
私は、そうですか、と言って眼前の高級ミニバンを見た。
「本当は、翔子から美保関に帰さんかったら縁を切ると言われちまったよ。ワシ、何か悪いこと言ったかいな?」
義父は真っ直ぐな眼をしていた。視線の先には大山があるように思われた。
「言ったかもしれんなあ。もともと短気だったけど、齢を重ねるたびに頑固になる。自分が悪くても謝れん」
私は深呼吸のような溜め息をついて、そうですか、と繰り返し、義父を見下ろして睨んだ。彼は一瞬、眼を合わせると視線を戻した。私は義父の車に手を当て、
「お義父さん、ここで駐車は……」
と言うとボンネットに両手を付き、腰を降りだした。やや前傾姿勢になるので電信柱でトレーニングするより効果が見込めそうだ。車のエンブレムが私の股間にいい塩梅で当たる。義父はあんぐりと口を開けて動けないでいる。まだ性欲旺盛だったころ、妻とテレホンセックスしたことを思い出し、彼女にすぐ来るようボイスメッセージを送った。妻はすぐに姿を見せたが、義父と同様の反応を見せた。脳内物質がどんどん分泌され、気分が高揚していくのがわかる。
「お義父さん、この車は身持ちがいいですねえ。鉄の女ですよ」
この事態を収拾したいのに、意図しない言葉が飛び出す。腰を振るのを止め、エンブレムから右のボディへと頬ずりしながら考える。息を整え、真剣な顔を作り、妻に私の意図を汲んでくれ、と視線を飛ばした。
「やっぱり家族はこういうミニバンですよねえ。孫がいたら、お義父さん大忙しですよ」
義父は情けなく口を開けたままだったが、あう、と返事のような声を出した。妻の姿が消えていたが、左ボディのほうから、
「お父さん! これじゃあ旅行も行けないよ! お母さんに怒ってもらうから!」
これが正答なのか不明だったが、最悪の事態は免れた。義父は娘に怒られたことによる心的外傷のせいか、あう、としか言えなくなっていた。妻に礼を言おうとしたら平手打ちを食らった。
「今度は車に浮気かと本気で思ったわ! 境港にお父さん送ってくるけん反省しとけ!」
怒鳴られて気分がいいのは、まだ脳内物質が分泌されているからだろうか。フナムシが可愛く見える。私は正気を取り戻そうとポーションを左右の歯茎に二つずつ挟んだ。
妻は何事もなかったかのように、あっけらかんとしていた。父からの郵便物があったと渡された。証券会社の封筒だった。封を開けると、株の生前贈与に関する書類だった。父が私の不義理をどう受け止めたかはわからない。いずれにしても父なりの謝罪ということだろう。もっとも、じゃあな、の一言に私は父の温かみを十分感じていた。
妻は夕食の支度を始めた。包丁の音はたまにするだけで、揚げ物を作っているようだった。私は猛省のすえ、今後一年間は生ビールを飲まないという誓文を妻に提出した。妻は確かに受け取りました、と受理した。「生ビール」という文言の抜け道についてはあえて触れないという態度だった。私はそれが怖くてノンアルコールビールを飲んて居間と縁側をウロウロしていた。せめてエアコンを付けて居間を冷やしておこうとスイッチを押した。設定温度を十九度に、風量を最強にした。これでよし、と満足すると妻が戸を開け、テーブルに配膳した。夏野菜の天ぷらだった。モロヘイヤが異常に多かったが、私の好物だと教えた記憶はなかった。
妻が向かいに腰を下ろした。我が家では、いただきますは言わない。黙して合掌するだけだ。なぜか妻がいただきます、と言ったので私も倣った。少しの間のあと、彼女が天ぷらに箸を付けた。続けて私も箸を付けた。モロヘイヤを勝手に食べるのが恐ろしかったので、ピーマン、ナス、サツマイモを食べた。
体が冷えたのか、妻はエアコンを切った。そして雪見障子を上げた。空気感が悪いから外の景色を見ようという考えだろうか。暗くて何も見えないが、ガラスが露出しただけで重い空気が変わり、私はモロヘイヤを口に入れた。妻は何も言わなかった。その後、モロヘイヤばかり食べていたが、何も言われなかった。うまかった。勇気を振り絞ってモロヘイヤが大量なのはどうしてなのか訊くと義父が持たせたと言う。今日はかなり迷惑をかけたので、私は正座すると頭を下げた。彼女はうなずき、
「二ケ月の間に何かあった? いい枯れ方になってる」
と、ようやく笑顔を見せた。
私は真っ暗な外を眺めながら黙考し、
「わからん。ただ無暗に走ってただけかな」
と頬杖をついて妻の顔を見た。
そっかあ、と言って妻は膳を持ち立ち上がった。プリッと小さな音がした。放屁かなと思ったが、服が畳に擦れた音だろう。私は台所へ行って余ったサツマイモを所望した。妻は食後の片付けで暑くなったのか頬が紅潮していたが、何も言わずに全部渡してくれた。サツマイモをノンアルコールビールで流し込んでいると、だんだん腹にガスが溜まってきた。私は居間の戸に向かって尻を突き出し、妻が入室してくるのを虎視眈々と待ち続けた。
◇
一
人間は物事の本質や真理を認識できるのだろうか。おそらく、できない。そんなことができるのであれば、仕事も恋愛もすべてうまくいくはずだ。非円滑的な職場の人間関係も夫婦喧嘩もない。浮気はすぐにばれる。恋心のすれ違いも何もかもなく、心ときめかせずとも意中の人と結ばれる。それは、とても味気ないように思える。先行き不透明な人生だからこそ、かえって楽しいのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。
煙草の煙をプカプカさせて遊んでいたら、濛々たる思索の渦に巻き込まれてしまった。先般、後頭部が痛くて仕方ないときがあった。もう何ともない。それ以降、頻度こそ多くないが、些事について考え込むようになった。長い人生においては、そういうこともあるだろうと抗不安薬を飲み、うつらうつらとしていたら電話が鳴った。
『瀬戸くーん、記事の出稿まだかなあ? いくら一面トップでも待ってられないよお?』
猫なで声で気持ち悪く催促する主は編集長だ。すぐ出稿すると伝えて受話器を置いた。ナンバーディスプレイのない固定電話だから、ひとたび呼び出し音が鳴るとすべてに対応しないといけない。鼻から荒く紫煙を吐き、パソコンのマウスを左右に動かした。画面が表示されると、すでにできあがっている記事に「(了)」と打ち込んで出稿した。
一息ついていたら、休憩室から後輩の熊岡が顔を出した。シワがひどいシャツで髪の毛がボサボサでも、それなりに様になっているのは男前のなせる業だろう。
「すみません、代わりに書いてもらって。少しビールを飲みすぎました」
「市長の定例会見だろ? 楽勝だよ。録音聴いて書いた。写真はどうする?」
熊岡はカメラからSDカードを抜くと、
「たまには変顔で出しましょうよ」
と妙にいやらしい目つきで私を見た。市長もまた男前だったので、急にいじわるな感情が込み上げてきた。
「よし、これでいこう。ほかにいい写真がなかったって言い張れ」
熊岡は写真を一瞥すると、哄笑しながら室内を歩き回った。被写体は、片目だけ少し開かれたゾンビのような顔をしていた。
「私たち支局から山奥の通信部に飛ばされますよ」
「今だって通信部みたいなもんだろ。たった二人なんだし」
言いながら、私はパソコンの電源を落とし、室内の電気を消した。社屋から出ると、熊岡が口元に盃を運ぶ仕草をしたので、付き合うことにした。歓楽街へ向けて歩いているうちスマホが鳴ったが無視した。まもなく、熊岡のスマホが鳴ったが、彼も私にならって無視した。明日の紙面が楽しみだとほくそ笑んで熊岡を見たら、彼も同じ表情をしていたので、二人で笑いこけた。
道中、熊岡はフランス哲学について熱く語っていた。熊岡とは同じ大学院からの付き合いで、かれこれ十三年になる。哲学思想の分野で博士号を取るのはかなり難しい。私は近代の日本思想史を研究していたが、諸外国の思想も関連するため学ばねばならず、早々に挫折した。学会にも何度か出席したが、若手研究者のハイレベルな発表がさっぱり理解できなかった。そして、考えるのをやめた。熊岡は優秀で、順調にいけばどこか大学のポストがあったかもしれなかったが、あるとき、
「自分は哲学史をやりたいわけじゃない。哲学をしたいんだ!」
と喝破して退学した。以来、市井の哲学者をやっている。
熊岡が熱弁している哲学者や思想家は私も知っていたが、読んだことはなかった。知っていることを何か言おうものなら、熊岡がその博覧強記を発揮して圧倒してきそうだったので、適当に相槌を打ってしのいだ。
一方的な哲学談義にうんざりしていたら、無料案内所の若者に手を引っ張られた。病的な痩せ方をした男性だったが、怪力だった。
「もしかして『薬剤師さん』ですか? 眠剤もらえます?」
突然のことに半歩後退りした。私は「薬剤師」じゃないと断った。しつこく迫られてきそうだったので、若者の出方を窺った。彼は一礼して、すんなり引き下がった。背後にいる熊岡が不安そうな顔をしているのが目に浮かんだが、振り返るとそこに熊岡はいなかった。通りの左右を見渡しても熊岡らしき姿は見えなかった。先にどこか入店したと思い、架電してみた。機械的な女性の音声が流れた。スマホの電源を切っているようだった。仕方がないので、最も懇意にしている店に入った。扉を開けるなり、若い男女が声をそろえて元気に挨拶した。気分の高揚を隠し切れず、俯きがちに店内を一見すると客は誰もいなかった。
「瀬戸さん、待ってましたよ! 今日は貸し切りですよ!」
酒に酔うと有名アーティストの名曲を卑猥に歌うボーイが犬のような愛くるしさで近寄ってきた。私は腰をくねらせながら、
「オーライ! それじゃあ、飛びっきりのやつを一発いくゼ!」
と絶叫すると、マイクを取ってボーイに渡した。卑猥な歌声が流れるなか、アヤカを探した。いつもドレスにカーディガンを羽織っているので、すぐにわかった。奥のボックス席でスマホをいじっていた。私はアヤカの隣で屈むと、スカートの中に手を入れ、下着を指でなぞった。
「ちょっと! 仕事中なんですけど」
彼女は鋭い目つきで私を睨むと、すぐスマホに視線を戻した。
「僕が触ることしかできないのは知ってるだろ? で、村田さんはどこ?」
「店長? 系列店のヘルプに入ってる。偉い人が来てるんだって」
アヤカにこっそり抗不安薬と三万円を渡し、
「センキュー! すぐ戻るゼ!」
と適当に叫んで店を出た。系列店に行こうと思ったが、アヤカが言った「偉い人」という言葉が気になった。何か含みがあるようで怖かった。無料案内所に戻った。先ほどの若者が出てきたので、さっきは連れがいたから渡せなかったと詫びた。睡眠導入剤を手渡すと、若者はサービステキーラだと言ってショットグラスを持ってきた。私はグラスを受け取ると、口を付けるふりをして素早くテキーラを床に撒いた。初めて見る若者だったが、先輩たちの指導がしっかりしているのだろう。サービスという文句に乗せられて何杯も煽ったりすると案内所の思うツボだ。テキーラに限らず、蒸留酒の酔いはすぐに顕在化しない。空白のシラフ状態を利用して系列店を案内し、入店させる。そのうち一気に酔いが回っていい気分になる。客は気が大きくなってシャンパンを開けたり、従業員にも飲ませたりする。ぼったくりではないが、なかなか巧妙な手口だ。情けないことに、ここでテキーラを飲んで店で大金を落とすという愚行を何年もやってきた。もうその手には乗らない。
「『薬剤師さん』、もう一杯いりますか?」
「そろそろ行くよ。あと、これからは瀬戸さんって呼んでな」
熊岡とはルームシェアしているから、無理にいま合流する必要はない。帰宅しようと歩を進めた瞬間、スマホが鳴った。熊岡からだと思ったら、県警からだった。住宅火災とのこと。県警の第一報は常に大雑把だ。そして、消防はすでに消火活動を始めている。市営墓地の北西三〇〇メートル付近の住宅街。とにかく行ってみないとわからなかった。
私は見慣れた行灯のタクシーを拾うと、支局に行き、自分の車に乗り込んだ。経験上、夜間の火災は激しく燃えていれば、うっすら雲がオレンジ色になる。もしくは、燻火でやや空が見えづらくなる。ただし、いずれも晴れの日に限った話だ。今日の空は今にも雨が降ってきそうな曇天だった。見つけるのは難しいかもしれないと思い、煙草に火を点けた。住宅街をゆっくり走っていると、人だかりが見えた。私は路肩に車を停め、ハザードランプを点灯させると、カメラに望遠レンズを装着して走り出した。腕章を巻きながら、
「報道です! 報道です!」
と大声で人だかりを掻き分け、規制線までたどり着くと、黒煙の発生源に目を向けた。暗くてよく見えないが、一戸建ての家屋が全焼しているようだった。規制線が張られていない溝に足を踏み入れ、現場に近づいて行った。消防関係者に気づかれないよう、身を隠しながらカメラのレンズを覗いた。やはり全焼だった。消防員らがせわしなく動く様子も見えた。シャッターを切った。まずまずの出来栄えだった。腕章を外し、カメラを民家の生垣に隠すと、スマホ片手にさらに現場へ近づいた。消防服を着た大柄な男性が行く手を阻んでいた。スマホのカメラを起動し、フラッシュをオフ、連射モードに設定すると、大柄な消防員の横を走り抜け、全焼した家屋の正面で写真を撮った。
「危険ですから下がってください!」
大柄な消防員が押し出すように肩を突いた。私はわざとペコペコ頭を下げながら、
「すみません。規制線がなかったので」
と弁解して足早にその場を去った。カメラを回収し、車に戻ってスマホの写真を確認した。こちらのほうが臨場感があった。
帰宅すると、熊岡がリビングでビールを飲みながら騒がしいテレビ番組を見ていた。熊岡はニュース番組を見るとバカになるという確固たる信念を持っていた。私もニュースは嫌いだった。冷蔵庫からビールを取り出し、熊岡の横に並んだ。床にはビールの空き缶があちこち散らばっていた。もしかしたら、熊岡は何も言わず先に帰ったのかと思ったが訊かなかった。
「もしかして火事ですか? 消防車と救急車、パトカーのサイレンも聞こえましたよ?」
熊岡はリモコンを膝でポンポン遊ぶとテレビを消した。
「うん。でも、出稿はしない。他紙がいなかった。あいつらがいい写真撮ってるよ」
天井を仰いで私は首の骨をポキポキと鳴らした。熊岡はテレビのリモコンをなおも膝で弄びながら、
「負けっぱなしですね。あいつら警察の無線でも傍受してるのかな」
と、どうでもよさそうな表情で言った。私もなんだか徒労に終わったことを悔やんでいたので、投げやりな口調になった。
「警察署や消防署の近くに住んでるんだろ。それに膨大な読者を抱えてる。情報提供があるんだろうよ。どうあがいても、うちに勝ち目はねえよ」
翌朝、地元有力紙に目を通した。惚れ惚れするような美しい炎上写真だった。現場に駆け付ける必要はなかった。私たちの会社はミニコミ紙同然なので、降版時間が異常に早い。私が現場に向かっているころにはすでに販売部が刷り終わった新聞を仕分けしていたに違いない。「三人の遺体発見」という小見出しだけを見て、放り投げた。今日は行政の行事も民間のイベントもなかった。熊岡もプレスリリースが何もないのを承知しているのか、部屋から出てこなかった。私はカバンから二週間先に開催されるイベントのチラシを取り出し、告知記事を書くことに決めた。リビングのソファーに座ると、抗不安薬をビールで胃に流し込んで、夢うつつの状態で午前九時になるのを待った。夢と現実の中を彷徨しながら、昨日の火災について思いをめぐらした。人の不幸を写真に撮って何になるのだろうか。身元や出火原因などそんなことを書いて何になるのだろうか。五分もたたず読者に忘れられるようなことを書いて何になるのだろうか。ニュースは嫌いだと改めて思った。時刻は午前十時になっていた。ガチャンという音がしたので、重たい目を上げると、熊岡が眠そうな表情で私が放り投げた新聞を見ていた。
「きれいですね」
「うむ。実にきれいだ。だが、不愉快だ」
熊岡は何も言わず、悠然と冷蔵庫からビールを取り出してタブを開けると、一気に飲み干した。そして、空き缶を手で握りつぶした。
「瀬戸さんも今日は在宅ワークですか?」
熊岡の目はどこかとろんとしていて、くすんだ光が宿っていた。私はもっとビールを飲みたかった。
「何もねえからな。告知記事を書くよ。熊岡はガソリン価格でも書いてくれ」
「病害虫発生予察を書こうと思ってたんですが……」
ふわふわした調子で話すので少しイライラした。
「じゃ、それ頼む。あんまり早く出稿するなよ。編集長がデスク作業で、てんてこ舞いの時間を狙え」
熊岡はもとよりそのつもりだとでも言いたそうに冷蔵庫からビールを二本持って自室に戻って行った。私もビールを取り出し、一口飲むとチラシを見てイベント主催者に架電した。担当者を呼び出し、チラシをそのまま紙上で掲載してもよいかと許可を求めた。担当者は声を弾ませ、ぜひ掲載してほしいと話した。通話後、私はコピー機でチラシをスキャンし、チラシに書いてあることをそのままパソコンに打ち込んだ。わずか二〇行だったが、チラシは大きく載るので紙面を埋めるには十分だった。
尿意を感じたのでトイレに入った。トイレットペーパーの芯と、丸めたティッシュが床に散在していた。芯を拾ってゴミ袋に入れてから用を足した。私は今年で三十八歳になる。勢いなく侘しい音を立てて流れていく小便を見て淋しくなった。気分を一転させようとティッシュも拾ってすべてゴミ袋に捨てた。自室で自慰行為をすればよかろうにと思いながら、その一つを手に取った。臭いを嗅いでみたが、精液の臭いではなかった。広げてみると血が少し混じった鼻水だった。
二
熊岡は複数の障害を抱えていた。いずれも脳機能上の問題なので私は気にしなかった。初対面のときも、やたら威勢のいい快男児くらいの認識だった。大学院ではよかったが、実社会では理解してもらえず、職を転々としていた。それを見かねた私が半年前に編集長と社長に頭を下げ、入社させた。
熊岡に不条理で理不尽な社会性を身につけさせることは、本当は嫌だった。いつまでも純粋な心で、このつまらない世界について考え続けてほしかった。とはいえ、彼の哲学に対する炎が消えているとは思えなかった。私は不条理かつ理不尽極まるこの社会をそのまま受け入れることで考えることをやめたが、賢明な熊岡のことだから、きっとそんな社会だからこそ、本質や真理を掴み取りたいと燃えているに違いなかった。そういう人間だと私は信じた。一緒に住んでいるのも、私が失った純粋さを熊岡が奇跡のように取り戻させてくれる気がしたからだ。
今日も何もない日だった。資料を見て、また在宅ワークで済ますこともできたが、緊急の記者会見の案内があっては困るから、市役所に向かった。熊岡は自室で思索に耽っているか寝ていると思ったので、声をかけなかった。
エレベーター前は夥しい人だまりで鬱陶しかった。階段を上って市政記者室の扉を開けた。テーブルを囲んで他紙の記者たちが談笑していた。若い男性記者の甲高い笑い声にムカムカした。現場の記者は二〇代が大半で総じて若い。私は馴れ合いのような記者室の雰囲気が嫌いだった。投げ込み棚にプレスリリースがないことを確認すると、自社デスクに目を向けた。痩身できれいな白髪の男性が座っていた。何も見なかったことにして記者室から出ようとしたら、呼び止められた。
「瀬戸じゃないか! エースのお出ましだな!」
無視してドアノブに手をかけた。
「毎日、八本も記事を書いてる記者なんてなかなかいないぞ!」
何のつもりかわからないが、黙らせないと私が恥をかくので、詰め寄った。
「宮川さん、ここは県庁じゃないですよ。あと、それは熊岡と合わせた出稿数です。僕はせいぜい、四本か五本ですよ。昨日なんて一本です」
宮川さんは顔を近づけると、
「それでも十分すごい。この部屋の小僧どもは、多くて二本だろ。俺たちのほうが働いてるってことをガキどもに教えたまでよ」
とささやいた。私は素直に感謝の意を伝えた。すると、宮川さんは口元に盃を運ぶ仕草をした。熊岡に酒席の誘い方を仕込んだのは宮川さんかもしれない。私はこの部屋から出たくてたまらなかったので、
「それじゃあ、夕方にまたお会いしましょう」
と微笑を浮かべ一礼した。宮川さんは、これから行こうと資料らしきものを雑に振り回した。はっきり見えなかったが、市の消費者物価指数、日銀支店長の定例会見、県の人口動態の資料らしかった。どれも我が社では一面ネタだ。この人にはいつも助けられている。エースは間違いなくこの人だ。出稿したかどうかは訊くまでもなかった。
市役所を出ると、宮川さんは自身の隠れ家にしているバーに連れて行ってくれた。市役所から徒歩圏内に昼間から営業しているバーがあることを初めて知った。官庁街にも飲食店は多いが、外観からはそこがバーだとは思えないほど周囲に馴染んでいた。店内は濃紺を基調としていて心地よかった。整えた髪に口髭といういかにもダンディなマスターが立っていた。宮川さんは、カウンター越しに、いつものを二つと注文すると、椅子に座って隣に着席するよう手招きした。私は椅子に腰を下ろすと、口をぽかんと開けたまま半ば感激して店内を見まわしていた。
「お前ら頑張ってるな。いつぞやの市長のアホ面もお前らの仕業だろ? 無能な市長にはあれでいい。公明正大なうちの紙面らしくてよかったぜ」
宮川さんは、いたずらっ子のように破顔し、私の肩をつついた。
店内が薄暗いので正確な色はわからないが、黄色かオレンジ色のカクテルが目の前に置かれた。宮川さんはお疲れ様というようにグラスを持ち上げて傾けた。私は目礼してそっとグラスを合わせた。宮川さんは気分がいいのか、また私の肩をつついた。
「編集長の無茶な注文に文句も言わず、よく書くなあ、瀬戸。将棋も書いてただろ」
「入社のときに、うちは全員遊軍だと言われましたからね」
私は宮川さんを警戒して淡々と返事した。
「そうでもねえぞ。気づいているだろうけど、他の支局は書けるものしか出稿してねえ。何でもござれはお前らだけだ」
宮川さんがグラスに口を付けたので、私も一口飲んだ。スクリュードライバーっぽい気がしたが、わからなかった。他の支局の出稿数や取材内容が偏っていることは気づいていた。絵画の展示会やら児童の体験モノなど街ネタばかりの記者は多い。だが、楽をしているとは思わなかった。私も熊岡も街ネタで何時間も拘束されることを嫌っていた。だから、最新鋭の医療技術やスマート農業機材など、なるべく資料と電話取材で済ませられるものにこだわった。楽がしたかっただけだ。家で酒を飲みながら仕事ができるなら、そのほうがいいに決まっている。内容が難しければ、担当者に何度も訊くまでだ。
「お前はよくやってる、よくやってるよ、うん。だけど、本当は何も興味ないんだろ?」
図星だった。話す気にならなかったので、カクテルをぐいと飲んだ。
「何でも書けるってことは、何にも興味ねえのと同じなんだよ。世事に興味がねえ仙人しかできねえ芸当なんだよ」
宮川さんが怒っているのか褒めているのかわかりかねた。何度か酒席をともにしたことはあったが、存外、酒に弱い人なのかもしれない。私はグラスをコツコツと叩いてマスターに、これをもう一杯と頼んだ。宮川さんは喋り続けた。
「お前もまだ髭が生えだした小僧だよ、小僧。仙人になるには早いんだよ。もっと悩んで苦しめよ」
私は会計をこの酔っ払いの大先輩に任せると決めて、カクテルを味わった。スクリュードライバーだと思うが確信が持てない。少し苦いのはウォッカが多めに入れてあるからなのか。考えても仕方ないので、マスターに訊ねると、やはりウォッカが多めに入れてあるとのことだった。私は再度注文して、煙草に火を点けた。マスターが急ぎ足で来て、私の左手元に灰皿を置いた。私は目を見開いたまま、ゆっくりマスターを見上げた。彼は少し照れ臭そうに、
「瀬戸さんは左利きだろうと思いましたので」
と微笑んだ。よく観察しているなと感心した。私は箸と文房具とスマホを打つこと以外はすべて左手を使っていた。気づかれたのは高校のときに初めて付き合った恋人だけだった。交際して日が浅いアヤカは気づいていないし、今後気づくこともないだろう。横では宮川さんが大いびきをかいて寝ていた。いびきをBGMにして一人で飲むことには慣れていた。マスターが気を利かせて何か話しかけてくるだろうと思っていたが、奥のほうへ引っ込んでいるようだった。こういう無為と思われる時間は嫌いじゃない。
私は大学院の指導教官が吸っていたシガリロをカバンから取り出して火を点けた。授業中に先生は機関車のように煙を吐き出していた。先生と同じものを吸っていると頭がよくなった気がした。先生からは、
「哲学と思想史の論文は針小棒大、一点突破全面展開、そしてオーケストラのように大団円で結べ」
と繰り返し教えられた。弟子が師にできる最大の恩返しは博士論文を完成させることだったが、私は早々に諦めてしまった。悔やんでも遅い。先生はもうこの世にいない。感傷に浸ることはナルシシズムでしかないので我に返った。
甘い香りの葉巻ですねと言いながらマスターが戻ってきた。
「安物ですよ。かといって、コイーバやモンテクリストの良さは何度吸ってもわかりませんでした」
「瀬戸さんにとって、それが特別な葉巻だからでは?」
本当によく観察している鋭い人だ。先生が医者に止められても煙草や葉巻を手放さなかったように、私もこのシガリロだけは一生吸い続けるだろう。
「宮川とは同級生なんですよ。昔の自分と瀬戸さんが重なって見えたのだと思います。こいつは仙人というより、世捨て人という感じでしたが」
マスターは宮川さんの肩にブランケットをかけて続けた。
「こいつのことは悪く思わないでください。瀬戸さんが入社して、やっと俺も引退できると喜んでましたから」
彼は優しい眼差しで宮川さんの両肩に軽く手を乗せた。私はそれを眺めながら、
「悪い人だとは思っていません。尊敬できる先輩です。でも、興味ないですね」
と無情に言い切った。実際、彼に露ほどの関心も有していなかった。マスターは優しい眼差しを崩さなかった。
「やっぱり昔のこいつと似てますよ、瀬戸さん」
「……そうですか」
会計は心配いらないと言うので店を出た。昔はどうあれ、宮川さんと自分が似ているとはどうしても思えなかった。大学院では邦人だけではなく、外国人留学生も死に物狂いで研究をしていた。学部を出ただけの社会人と一緒にしてくれるなという怒りが湧出したが、すぐに収まった。冷蔵庫のビールが少なくなっていたのを思い出し、最寄りのドラッグストアに入った。入口付近の医薬品棚の前にいる金髪女性が視界に入った。細身だが、横顔はふっくらとしている。装いや雰囲気から二〇代前半と察せられた。アヤカだと思ったが、人違いという可能性もあるので、後ろを通りながら、横目で確認した。間違いなくアヤカだった。
「市販薬に手を出すのはやめたほうがいいぜ」
「フツーに風邪ですー。近寄るとうつるよ」
街で偶然でくわしたにも関わらず、まったく動じていなかった。いっさい面識のない男性から声をかけられることが日常茶飯事なのかもしれない。会話の継続に窮した私は、
「何か調剤しようか?」
と、ぎこちない作り笑いをした。アヤカは目も合わせず毅然としていた。
「いまのところ大丈夫。風邪もあるけど、女の子の日だから話しかけないで」
「わかった。じゃあ、また」
アヤカの機嫌を損ねないよう、すぐに離れると、買い物かごにビールとサラダチキンを入れた。レジ横に滋養強壮剤が並んでいた。手に取ろうとしたが、第三類医薬品の効果など無に等しいのでそのまま会計を済ませた。
自宅に帰ると、熊岡がトイレのドアを開け、ティッシュで鼻をかんでいた。
「熊岡菌に感染するから、ちゃんと流してくれよ」
「アレルギーですよ。トイレに流したら詰まります」
私は、そうだなと言って冷蔵庫にビールとサラダチキンを入れた。熊岡もビールを買っていたようで、数日は補充しなくてもよさそうだった。一本抜き取って、冷蔵庫の上に置いてあった送り主不明の和菓子を手にソファーに腰を下ろした。すると、熊岡がサラダチキンとビールを持って横に座った。そのサラダチキンは熊岡のために買ったものじゃないと言おうとしたが、やめた。
「和菓子とビールって合いますかね?」
「これから実験するところ」
熊岡がどこかで入手した和菓子だと推察できたが、ずっと冷蔵庫の上に置いてあったので消費期限が過ぎているかもしれなかった。一口食べてみたところ、問題なさそうだった。和菓子は嫌いだったが、ビールの苦みと調和して意外にも美味しかった。
「今日、市役所で宮川さんに会ったぜ。僕らのことを褒めてくれたよ」
熊岡は大げさと感じるほど片腕を高く上げてこぶしを握った。
「本当ですか? 嬉しいですね。でも、県政担当なのに、なんで市役所にいたんですかね?」
「神出鬼没だからな、あの人。この前の市長写真も褒めてたぞ」
熊岡は思い出し笑いなのか、いきなり笑い出した。熊岡の撮影技術は確かなものだ。市長が身振り手振りで説明している動きのある写真もあった。私なら無難にそれを編集部へ送信していた。それにも関わらず、あえて悪い写真を自ら出そうと提案してきた。熊岡なりの意図があったのだろう。それを汲んで私が写真を選んだ。
「熊岡、うちはスマホでも大丈夫だぞ。一眼レフは写真一枚あたりの容量が重くて、出先で送信するのに難儀する。かっこ悪いから肩にぶら下げてるだけだ」
「ですよね。最近のスマホのカメラは性能いいし。でも、会見でスマホはさすがに……」
熊岡の心配を吹き飛ばすように私は調子よく声を大にして言った。
「謝罪会見はスマホがいいゼ! うちはジジイの禿げ頭は撮らない主義らしいからな。神妙な顔で説明しているところを斜め下からスマホで撮るんだ。悪い連中に一眼レフ様を使ってやる義理はねえ!」
熊岡は得心した様子だった。話したはいいが、すぐに後悔した。それは私の我流でエゴだった。頑固だが素直でもある熊岡が、これからスマホで撮影しているところを想像するとかわいそうな気がしてきた。スマホより一眼レフカメラのほうがいいに決まっている。熊岡の技術を考慮すれば、軽率で余計な発言だった。
「でも、心配なのでちゃんとカメラでも撮りますよ。スマホは保険で」
それを聞いて安堵した。和菓子を何個か取り出して、ばくばくと口に頬張ってはビールで流し込んだ。熊岡も上機嫌でビールを飲んでいた。不毛な会話の応酬だったが、楽しい夜だった。熊岡はソファーで赤児のように安らかな眠りに就いていた。私は、消費期限切れと思しき和菓子で腹を下したのか、その後は一睡もできなかった。
三
腹痛が治まってから、簡単な告知記事を一本出稿した。これを機に出稿数を減らすのも悪くないと思った。毎日、何本も出稿していては精神が崩壊しかねない。あるいは、もう崩壊しているのかもしれない。眠剤を飲んで就寝した。
目を覚ますとカーテンから日光が射し込んでいた。飛び起きてスマホの画面を見た。てっきり朝になっているものと思っていたが、夕方だった。ノートパソコンを開いて、会社の提稿予定表からすべてを削除した。これにきちんと予定を入れている記者は私と熊岡、宮川さんだけだった。
酒を飲みに出るにはいい時分だったので、熊岡の部屋をノックしたが返事はなかった。「薬剤師」業をやるには彼がいないほうが好都合だったが、何となく外で熊岡と酒が飲みたかった。リビングに行ってソファーに腰かけると、テーブルに置いてあった地元有力紙を開いた。広告ばかりでつまらない。紙面をめくっているうちに市長選、市議選が近いことを知った。選挙報道が一番面倒だ。選挙のたびに仕事を辞めたくなる。街に繰り出す景気づけにビールを飲んでいたら玄関からドタドタと落ち着きのない足音がした。
「支局に溜まってた新聞とファックスを捨ててきました。提稿予定表に何もなかったですけど、辞職する気ですか?」
「まさか。働きすぎだと思って消しただけだよ。それに編集長に手の内を知られたくない。熊岡も仕事のほうは少しクールダウンしなよ」
「それができない性分で。根は真面目なんです」
私は、知ってるよと言って口元に盃を運ぶ仕草をした。熊岡は破顔してドタドタと足音を立てて自室に戻って行った。一緒に行く意思があるのか判断しかねたが、数分待つと、
「行きましょう!」
と呼ぶ声が聞こえた。
歓楽街は徒歩でも行ける距離だが、面倒なのでタクシーを呼んだ。運転手はドアを開けると、私の顔をじろりと見た。一般的に、タクシーは運転手と目が合うことで客に余計な気を遣わせないよう、ルームミラーを傾けるなりしているものだが、この運転手はわざわざ私と目が合うようにした。運転中もチラチラと見てくるので、もしかしたら車内で嘔吐したり、喚き散らしたことがあったのかもしれない。
タクシーを降りると、どこに入店するか迷うふりをして案内所の目の前を通った。あの若者はいなかった。熊岡はとくに行きつけの店があるわけでもなさそうだったので、村田さんの店に入った。卑猥な歌い手のボーイは不在だったが、村田さんはいた。一九〇センチはあろうかと思わせる堂々たる体躯に精悍な顔つき。黒のシャツとスラックスも似合っていた。とても四十六歳には見えない。
「瀬戸さん、いらっしゃいませ。先日はすみませんでした。すぐにアヤカを呼びますんで、空いてるボックスにどうぞ」
何人も座れるL字の席に座ると、軍歌しか歌わない熊岡がデンモクのタッチパネルをいじりだした。客が少なかったら軍歌は止めているところだが、今日は客が多いので、誰も聴いてはいないだろうと思い、放っておいた。しばらくしてアヤカが着座した。彼女は熊岡に名刺を渡して自己紹介すると、熊岡の顔を覗き込み、
「瀬戸さんの友達ですか?」
と訊いた。熊岡は、会社の後輩ですと即答し、すぐにデンモクをいじりだした。私はその間にアヤカに寄って抗不安薬と眠剤、一万円が入った封筒を折ってテーブルの下から手渡した。
「お飲み物はどうされますか?」
アヤカの声は熊岡には届いていないようだったので、ビールを二つ頼んだ。
「アヤカはウーロンハイでしょ? 飲みなよ」
「いただいてもよろしいですか? ありがとうございます。村田さーん! 生二つとウーロンハイお願いしまーす!」
系列店か案内所にいるのか今日はボーイが一人もいないようだった。卑猥な歌い手は、眠剤を飲むと異常なハイテンションになるらしく、裸で歓楽街を疾走したり、車に乗ったらなぜか他県にいたという逸話を聞いたので、彼に眠剤を調剤したことはない。ボーイは女性従業員の送迎をすることもあるので、抗不安薬も調剤していない。
酒がやってくると、三人で乾杯した。私も熊岡も一気飲みだった。やはり店で飲む酒はうまい。アヤカはいつもなら唇を濡らす程度だったが、今日は気持ちのいい飲みっぷりだった。そういうときは決まって酔いに任せた甘い声でシャンパンや現金をねだるのだった。熊岡は場の空気を読むのが苦手なので軍歌を歌いだすかと思っていたが、パネル遊びに夢中になっているのか、ビールを再注文した。私はハイボールを頼んだ。熊岡はまたも一気飲みだった。そして、再度ビールを注文した。熊岡は酒なら何でも飲むので、キープボトルを飲むべきだったと後悔した。私がこめかみを掻いていたら、思い立ったように熊岡が喋りだした。
「瀬戸さん、もう少しフランス現代思想を勉強してくださいよ」
そうするよと受け流し、もう一つのデンモクをタッチしてアップテンポな曲を探した。アヤカはテーブル下で私の足首を蹴ると、
「瀬戸さん、最初はテレサ・テンか、ちあきなおみ歌ってるじゃないですか。聴きたい」
と目で訴えてきた。自分が話に付いていけないという意味だと受け取った。が、熊岡が稲妻のごとく早口でまくしたてた。
「瀬戸さんは十九世紀のドイツで終わってるんですよ! カント、ヘーゲル、マルクス。マルクス以前かもしれませんね! 本質や真理は存在するが、神じゃない人間には真実の近似までしか認識できない。そうだと諦めてる。だからいつも平然としてるんだ!」
「カントもヘーゲルも難しくてわからないよ。でも、フランスに限らず現代思想なんてマルクスの注釈だろ?」
熊岡はテーブルに手を付いて立ち上がった。辛辣な反論がくると覚悟した。激しく揺れ動く熊岡の瞳を見ていたが、
「すみません。ヒートアップしちゃいました」
と頭を下げた。熊岡は着実に前進している。いつの日か、どの哲学者や思想家の言葉も借りず、自身のつむぐ言葉だけで世界の本質を、真理を語るときがくるに違いない。私は考え続ける力も意欲もない。西郷隆盛の「敬天愛人」や、夏目漱石の「則天去私」のほうがしっくりする。
「謝ることはないぜ。僕がバカなだけだ」
「ちょっと他のところで一人で考えます。すみません」
熊岡は金をいくらか置くと店を出て行った。私はアヤカに一言詫びを入れようとしたが、思い留まった。別に熊岡が悪いわけじゃない。客が何を話そうが勝手だ。かといって、アヤカが悪いわけでもない。接客を伴う飲食店という、この場が悪いだけだ。
「接客業って難しいな」
「まあねー。でも、さっきの後輩さん、かっこいいのに損してね?」
その後、私は気が狂ったように歌いまくった。客が減るたび、女性従業員が代わる代わる私の左右に座った。彼女らのリクエストに応えて有名アーティストの替え歌を猥褻に歌った。冒涜に冒涜を重ねた。午前二時ごろにアヤカは退店した。さすがに呆れ果てたに違いない。気づけば、客は私だけになっていた。店内に残っていたのは、女性従業員一人と村田さんだけだった。村田さんは、店を閉めるよう指示すると、女性に代わって着席した。
「俺も飲みますけど、いいですか?」
「いいですよ。シャンパン以外ならね」
村田さんはビールを流し込むように飲むと、
「レジは俺がやるから帰っていいよ」
とカウンター席のほうに向けて言った。彼は女性が退店すると施錠して、未開封の焼酎を持ってきた。
「俺の奢りというか、店の奢りです」
村田さんはグラスを取って来るのを失念したとみえ、すぐに起立したが私は制止した。少し酒が残ったグラスを空にして、
「こいつで回し飲みしましょう」
と持ちかけた。村田さんは先に飲んでいてほしいと言ってどこかに消えた。私は焼酎をグラスに注ぐと、ウォーターピッチャーから氷を掴み取ってグラスに入れた。マドラーを使うのも面倒だったので、指でかき混ぜた。一口飲んで味見をすると、横に寝転がって村田さんを待った。近づいて来る足音がしたので、
「すみません。面倒だったので、ぜんぶ手でロック作りました」
と断った。彼はガハハと笑いながら、
「ロックな作り方でいいじゃないですか」
と言って姿を現した。そして、ボストンバッグを床に置いて着席した。
「瀬戸さん、へべれけになる前に先に済ませましょうか?」
私は、そうですねと返答すると、アメリカで禁止薬物に指定されている眠剤を一五〇錠テーブルに置いた。向こうではレイプドラッグと呼ばれている代物だ。それほど強い眠剤がなぜ日本で認可されているのか理解できない。村田さんはパンパンに膨れ上がったスーパーのレジ袋を置いた。中身を確認したが、私が目当てにしている抗不安薬は見る限り五〇錠ほどだった。それは数年前に個人輸入禁止になり、国内でも医者が処方を渋るような薬だった。それ以外は私にとって不要だった。わざとらしく溜め息をついてロックを飲んだ。
「すみません、瀬戸さん。同業者として情けないです」
村田さんはやや肩を落とし視線は宙を漂っていた。
「昼間に寝ているなら仕方ないですよ。僕は暇だから、いくらでも病院巡業ができるんです。仕事中にふらついたりしませんか?」
「大丈夫です。おかげで五時間は寝れてます」
私は村田さんに同情した。私が調剤する以前から彼は強い眠剤を飲んでいたと聞く。耐性ができて酒で服用しても二時間ほどしか眠れなかったらしい。おそらく、渡した薬もすでに耐性ができているに違いなかった。私がそれを初めて服用したとき七、八時間は眠れた。次第に酒で服用するか用量を増やすしかなくなった。酒量も用量も増えると、もう手詰まりだ。私もよく眠れて五時間だった。
「村田さん、今回もありがとうございました。それより飲んでください」
彼は礼を言ってロックを飲み干すと、アイストングとマドラーを使ってしっかりロックを作った。染みついた職業癖だろう。
「瀬戸さん、アヤカとは……」
「金の切れ目が縁の切れ目でしょうね。薬を絶てるかはわかりませんけど」
村田さんは無言のまま、自分で作ったロックを飲み干して、今度はストレートで一気に飲んだ。暑くなってきたのかシャツの袖をまくった。
「ところで、瀬戸さん……」
彼はマドラーをぐるぐるさせながら急に笑みを浮かべた。
「昔、タクシーに乗ってませんでした? 俺、レースで瀬戸さんに負けたんですよ」
何のことやらさっぱりわからなかったが、彼の言う通り、今の会社に入社する以前はタクシー会社に勤めていた。交番制という勤務形態で、朝から夕方、夕方から深夜、夕方から翌朝まで走った後は休み、翌日も休みを繰り返していた。七年も前のことだが、他社の誰かとレースをしたことは覚えている。夜間専門で走る運転手は短気者が多く、喧嘩や公道レースなどの揉め事は日常茶飯事だった。詳しい記憶は脳から失われているが、午前三時か四時ごろにやたら煽ってくるタクシーがいた。ルーフの行灯を消して追い越し禁止車線を跨ぎ私を抜こうとしたので、挑発に乗ってしまった覚えがある。
「タクシー乗務員やってましたよ。あの煽り運転は村田さんだったんですね」
当時、村田という名は市内のタクシー業界では有名だった。評判の悪い会社の運転手で、駅で待機中も絶対に目を合わすなと会社から厳命された。
「俺、自分で金出してチューニングしてたんですよ。しかも、喧嘩レースのコースは俺が決めたし。いつからか他の連中も使うようになったんですよ。コースを知り尽くしてて速い俺は勝って当たり前なんですよ。でも、ずっと先でハザードランプ点滅させてるタクシーが停まってた。減速してからケツの車番を見て絶望ですよ。勝負を仕掛ける前に確認してたんで。いつ抜かれたのかサッパリっすわ……」
忘れていた記憶が脳に飛び込んできて私は吹き出してしまった。首をかしげている彼を見ているうち申し訳ない気分になった。
「あれは村田さんの勝ちですよ。僕はライトを消して、離されたふりして近道したんです」
「そうだったんですか! 無灯火で普通にテクニックで負けたと思ってました」
漫画じゃないからそんなことはしないと言いかけたが、村田さんがスマホを出して、見てくださいと肩をぶつけるので画面を見た。私と村田さんのツーショット写真だった。すでにSNSか何かで拡散されてしまった可能性が高かった。いわゆるデジタルタトゥーという愚者がすることをやってしまったと猛省した。興奮状態でまだマドラーを持っている村田さんからロックを取ると、氷もろとも丸飲みした。のどに引っかかった氷のせいで、ビリビリと口の奥が痛んだ。おかげで冷静さを取り戻せた。七年前の地方での出来事で、ただのツーショット写真だ。何も臆することはない。
「俺は吹っ切れて、すげえやつがいる! すげえやつがいる! って、いろんなやつらに言いまわりました。それからはずっと安全運転ですよ。瀬戸さんのおかげです」
村田さんは憑物がとれたように晴れやかな表情だった。自身も心晴れやかになったと思う一方で、私は背もたれに仰け反って薄く冷笑していた。
歓楽街に来る際に乗ったタクシー運転手がやたらと私を見ていたことに合点がいった。だが、住宅火災のときに乗った運転手は気にしていなかった。真面目な運転手であまり客の顔を見ないようにしていたのかもしれない。これからは、あえて村田さんがいた評判の悪いタクシーを使おうと思った。
四
酒が抜けていないのか頭が痛かった。腰も痛い。ふだん腕時計を身に着ける習慣がないので、スマホを探した。店内には窓がないから真っ暗だ。テーブルの上か下にあるはずだったが、探ってみてもそれらしき物に手が当たらない。諦めて仰向けになると、背中に固いものが下敷きになっている感触があった。よろめきながら起き上がってみると、裏返ったスマホの画面から光が漏れ出ていた。時刻は午後一時だった。全身がだるくて、日頃は考えたこともない「重力」という言葉が脳内に浮かんだ。まだ眠っている村田さんらしき黒い物体に黙礼すると、酔いを醒ますために歩いて帰宅した。
熊岡は不在だった。たしか、明後日にも豪雨が予想される市の対策本部会議があった。資料通り書いて、記事の末尾に気象台担当者の注意喚起を入れるだけでいい。熊岡ならその場で書き上げてしまうだろう。億劫だったので、チラシの掲載許可を必要としない行政主催のイベント告知記事を出稿して床に就いた。
深更に目覚めた。年齢を重ねるにつれてアルコールの分解速度が落ちていたので、胃腸に違和感があった。殺風景な自室を見渡した。かつて何百冊とあった蔵書はいまや十三冊だ。うち、献本されて仕方なく残しているものが三冊あった。先生の著書が二冊、親友からもらった新書が一冊。どちらも十年以上読んでいない。一年以上読んでいない本は一生読むことはないだろうから、どんな稀覯本でも捨ててきた。一冊で二〇万円した本も容赦なく捨てた。幸徳秋水と堺利彦共訳の『共産党宣言』も捨てようとしたが、熊岡が欲しがったので譲った。残っているのは、先の三冊とオルテガ『大衆の反逆』、マンハイム『イデオロギーとユートピア』、長谷川如是閑の著作二冊、丸山真男の著作六冊だった。
万巻の書に囲まれて暮らすことを夢見ていた時期もあったが、今は蔵書が少なければ少ないほどよいと思っている。小説は読んでも得るものが何もないから読まない。そもそも哲学や思想史を研究している者は抽象的思考に浸かってしまっているから、具体的で冗長でしかない小説はショートショートすら読むことができない。文芸評論家の著作に至っては最も読む価値のないものだ。中途半端に理論武装した哲学や思想で小説を斬る姿勢が許しがたい。ただし、ヴァレリーやブランショ、ジョン・ベイリーらは天才だから例外だ。宗教に対しとくに興味はないが、私の家は檀那寺が曹洞宗なので、無人島に一冊持っていくなら、懐弉の『正法眼蔵随聞記』だろうか。無人島だから、本があっても仕方ない気がする。が、こんなことを考えていても時間の無駄だ。
ときどき物思いに耽る癖を何とかしたい。枕元に置いたスポーツドリンクで眠剤を飲むと、スマホを手に取り、しっとりとした曲調のK‐POPをループ再生にして眠った。
翌朝、リビングに行くと熊岡がソファーで腕組みしながら天井を見上げていた。
「K‐POP聴くんですね。部屋の外まで音が漏れてましたよ」
「邦楽以外なら何でも聴くよ。日本語は桎梏でしかない。言葉に思想を制約されたくないんだ。インストゥルメンタルやクラシック音楽が望ましい。普遍的だしね」
熊岡は天井を見上げたまま、なるほど、とつぶやくと腕をほどいてまた組み直した。私はシガリロのケースを開け、熊岡に一本差し出した。
「考え事にはこれが効くぜ。頭の回転が五倍になる」
熊岡はシガリロに火を点けて、少し吸うなり咳き込みだした。
「僕は肺まで入れてるけど、基本は吹かすものだぜ」
熊岡はシガリロを灰皿に置くと、今度は立ち上がって腕を組み、天井を見上げた。何か閃いたのかもしれなかった。私は灰皿から火の消えたシガリロを取り、テーブルの上でコロコロ転がして遊んだ。そのうち、遊びに飽きてシガリロを吸った。口の中で煙を味わってみたが、この行為に意味があるのかわからなかったので、いつも通りに肺まで吸い込んだ。かなりゆっくり吸ったので、十五分は経過したはずだが、熊岡は依然として同じ立ち姿のままだった。
「ソクラテスの魂でも乗り移ったか? 代わりに記事を何本か書いとくよ」
家を出て市政記者室で溜まった投げ込みを回収すると、支局に向かった。駐車場に宮川さんの車が止まっていた。関わるのが面倒だったので、営業マンが休憩やサボりでよく使っている公園へ車を走らせた。ちょうど昼時だったためか、駐車場はほぼ満車だった。
空いている場所へ車を止めると、後部座席に移動した。胡坐をかいてノートパソコンを開き、テザリングでネットにつなげた。民間調査会社が企業に対して実施したレポートに基づいて、景気見通しの意識調査、人手不足の意識調査、女性登用の意識調査の三本を脱稿した。今日の熊岡の提稿予定表を見たら、告知記事一本だった。出稿数を減らすよう勧めはしたものの、まさか熊岡まで編集長に手の内を隠すことにしたのかと心配になったので、三本のうち二本を熊岡名義で出稿した。顔を上げて車外を見ると、西日が遠くの山々に隠れようとしていた。幼少期の刷り込みなのか、夕方になると早く帰宅せねばという切ない気持ちになる。薄紅と薄紫が混じる空は哀愁を感じる。それを振り払うかのようにユーロビートを流して家路を急いだ。
自宅の扉を開けると真っ暗だった。がさっと紙のようなものを踏んだ音がした。照明を点け、足元を確認した。怪しげな携帯番号が書いてあるデリヘルのチラシだった。スラックスのポケットに丸めて突っ込んだ。靴がなかったので、熊岡はどこかに出かけたようだった。
酒ばかり飲んでいると肝臓に悪いため、自室で抗不安薬を飲んだ。ベッドにうつ伏せになり、ペニスを擦り付けるという弱弱しい快楽に浸っていたら、カバンからブーブーと音がしている気がした。中を開けてみるとスマホが振動していた。アヤカからだったので、金の普請か薬の調剤だろうと呆れながらスマホを耳に当てた。
『空からお金が降ってこないかなー』
「もっと家賃の安いところを借りなよ。それと、減薬ね」
『んー。最近、体調悪いから出勤減らすかも』
私は彼女の体調のことはおかまいなしにテレホンセックスをしようと提案したが、したことがないと断られた。ビデオ通話でお互い局部を映しながらすると性的興奮が高まると熱弁したものの、関心がない様子だった。
『みーちゃん! みーたん! みーこ! 気まぐれちゃんで可愛いんだから。あいにゃー。みーたん、うんちしないの? 出なかったの? ふふっ』
猫の鳴き声がした。猫は携帯電話のようなものだ。携帯電話は場の空気を変える。一対一で顔を合わせて話をしていても、強引に第三者として割り込んでくる。相手が通話を始めてしまうと疎外されている気分になる。常識人ならよほどの重要案件でない限り対面で会話している者を優先するが、そうしない、そうできない人間もいる。とりわけ電話となると通話者より身辺の事物に注意が向いてしまう人間も多い。アヤカはそういう人物だと感じた。
『みーちゃん、うんち臭いもんね。みーちゃん、早くうんちしなはれ。えっ、今日トイレの場所決めるの早くない? 早くトイレ掃除しろって言ってんの? わがままな娘なんだからあ』
「アヤカ? トイレが三ヶ所あるんだろ? きれいなトイレと交換すればいいじゃん」
彼女は何も聞こえていない様子だった。腹が立ったので、抗不安薬を追加服用した。
『お前、トイレから出るなよ! 隙あらば出るからな。みーこメシ食ってる? あんたのうんち小さいけど。はいはい、もっとうんちしてください。うんにゃー。あはは! 面白い顔して。早くうんちしな。うんにゃー。にゃー。みーたん、にゃんにゃん』
こんなやりとりを聞かされていては知能指数が下がると思い、スマホを枕の上に置いた。がらがらの三段カラーボックスから無造作に積み上げられた十三冊のうち、一冊を手に取った。先生の論文集だ。私は学術書の謝辞が好きだ。ビジネス書や自己啓発本など無数の書物があるなかで、なぜか学術書だけは自由に謝辞を書くことが許されている。淡々と関係者への礼を書いて済ます者もいるが、あまり見かけない。先生の著作は二冊しかないが、いずれも仕事の都合で書いた論文が収められている。特定の人物だけを扱ったものや、共通のテーマでまとめたものではない。そのため、一つの論文についての執筆経緯が逐一書かれているわけだが、これが面白くもあり、切なさを感じさせる。だからといって、私の心が大きく動くことはない。一通り目を通してスマホの画面を見ると、通話は終わっていた。
カーテンから外を覗くと、赤い光を周囲の建物に反射させながら遠ざかっていく何かが見えた。そのうち、県警から電話があるに違いない。今回は火災だろうが、自動車事故だろうが書くつもりはない。私が電話に出なければ、熊岡に連絡が行く。編集部には第一報から最終報までファックスが送られるから、今日は寝ていたことにして、それでも記事にせよとの指示があれば書くことにした。
豪雨が予想されるにも関わらず、私は洗車をするためガソリンスタンドに向かった。道中、そのうち年寄りばかりの顔写真で埋め尽くされるであろう選挙ポスターの木枠をいくつか見かけた。市長選のほうは四つ枠があったが、四人も出馬するとは思えない。つまらない男だが、現職が無投票で再選、対抗馬が出ても圧勝で再選だろう。
セルフのガソリンスタンドにはスタッフ以外は誰もいなかった。エンジンを切って給油口を開けるレバーを引っ張ると、隣に外車のスポーツカーが止まった。運転手は降車すると、スタッフに挨拶してトイレのほうへ歩いて行った。私はこれ見よがしにスポーツカーに近づき、シフトレバーを見た。ボディを思い切り蹴りたくなった。オートマチックトランスミッションなどスポーツカーへの冒涜でしかない。給油を済ませ、どんな大バカが乗っているのかと車内で待っていたら、無地の黒いポロシャツを着た初老の男性だった。私はかつてスポーツカーの維持費がもたず、手放したことがあった。高回転時のエンジン音、そして何よりスピードを出しているとき、五速から六速にギアチェンジするのが気持ちよかった。いまでも意地を張ってマニュアルトランスミッションの軽自動車に乗っているが、六速はない。タコメーターもない。いくらスピードを出しても泣き喚くようなエンジン音が聞こえるだけだ。私はクラッチを踏むと何度か空吹かしをして、洗車をしないままガソリンスタンドを出た。
帰宅するなり、熊岡を大声で呼んだ。返事がなかったので、照明を点けた。まだ外出しているようだった。こんなに腹立たしい日は久しぶりだと意識的に口角を上げた。キッチンに行くと、シンクに溜まった汚水に食器がプカプカと浮いていた。その一つに触れて泳がすと、抗不安薬を飲んでリビングのソファーに深々と腰を下ろした。テレビをつける気にはならなかった。ただ静寂だけが今の私を癒してくれるように思われた。
しばらくぼんやりしていたら気分が楽になった。少しばかりバカになってもかまわないとテレビのリモコンを押した。くだらないバラエティ番組だったので、地元ケーブルテレビに切り替えた。退屈極まりない街ネタをキャスターが読み上げていた。すぐにテレビを消した。仰向けになり足を組んだら、丸められた紙が床に転がり落ちた。玄関で踏んでしまったデリヘルのチラシだった。私には不要なものだったが、そのまま捨てる気にもならず、ボールペンで「あああああああああ」と書き殴った。紙の裏がきれいに真っ白だったので、思い切り「あ」と書いた。力を込めすぎたのか、紙が少し破れた。
私は立ち上がると、シンクの掃除を始めた。排水口に詰まった腐臭物を取り除き、ギトギトになっている食器を洗った。水垢を落としているうちに、ジュッと音を立てて排水口に水が流れていった。私は何度も蛇口をひねっては勢いよく吸い込まれる水を見ていた。
自室に戻り、ベッドと室内を簡単に掃除すると、書き殴ったチラシを見て架電した。しばらく待っていたら、アジア系の外国人女性がやってきた。彼女は極めて熱心に性的サービスを提供してくれた。そして私の股間に跨り、陰部を擦り合わせた。しかし、私のペニスは勃起しなかった。女性の乳房を乱暴にまさぐっても反応しなかった。捨て鉢になって乳首に吸い付いているうち、『暗夜行路』の主人公が前篇のラストシーンで叫んでいた言葉が脳裏に浮かんだ。しかし私は叫ぶ度胸がなかった。隣室の居住者に奇人だと思われては困る。私は心中で、
「豊年だ! 豊年だ!」
と何度も絶叫した。そして女性に料金を払い帰らせた。この日、熊岡が帰宅することはなかった。
五
金の切れ目が縁の切れ目という予兆がまさに迫っている気がしていた。アヤカは体調不良で出勤しなくなり、金を渡す機会がなくなっていた。LINEのメッセージを送っても既読は付かず、たまにつながる電話では食欲がなく、生理が来ないと言っていた。交際しているといっても、私はアヤカの住所を知っているわけではなかったので手の打ちようがなかった。私は女性を愛しているというより、所有物として見ている傾向があり、異常な独占欲や支配欲があった。自覚はしていたが、どこかで取り返しのつかない一言を発してしまったのかもしれない。
「珍しく浮かない顔ですね。どうかされましたか?」
支局に出勤したものの、ビールを飲んでいるだけだった。在宅時の姿と変わらないはずだが、熊岡には違って見えたようだ。
「ちょっと異性トラブルでね。酒と抗不安薬で何とかごまかしてる」
「そうですか。市議選は私と宮川さんでやります。瀬戸さんは市長選をお願いしたいのですが、大丈夫ですか?」
熊岡は本気で心配している顔つきだった。とくに調子を崩しているわけではなかったが、いつもより溌溂とした発声を心掛けた。
「ご高配に感謝する! 市長選なら一人でもやれる! でも、立候補予定者説明会はとっくに終わってるだろ?」
「それは大丈夫です。宮川さんと行ってきました」
いくら選挙報道が嫌いとはいえ、編集長から何ひとつ指示を仰がず、だらだらとした日々を過ごしていたのはまずかった。熊岡が気を遣ってくれたのかもしれないが、私の無為な生活ぶりを見て呆れたのかもしれなかった。宮川さんにも迷惑をかけてしまったに違いない。職務怠慢もここまで極まると解雇されても文句は言えない。だが、何も言ってこなかった編集長も怠慢ではないのか。
「編集長は僕が市長選を担当することに異論ないの?」
「むしろ、編集長からのご指名ですよ。変な人が出馬予定です」
熊岡は壁にもたれながら私の反応を見ているようだった。冷蔵庫からビールを取り出して熊岡に渡した。無言で乾杯し、なるべく大量に流し込んだ。市長選、市議選の告示日まで二週間を切っていた。市議選は定数四十二で前回と変わらない。パソコンで「市議選」フォルダを開くと、すでに立候補を表明している年寄り連中の顔写真が三十九枚あった。
「こいつらに渡した政策アンケートは返って来てるの?」
「返って来てますよ。政策と呼べるものなんてないですけどね。現職市長の調査表とアンケートも返って来てます。顔写真もありますよ」
「市長選」フォルダを開いた。告示後の報道に必要なものはすべて揃っていた。調査表には氏名や生年月日、住所、経歴などが記載されている。これがなければ選挙記事は書けない。「変な人」については、市内在住の女性が立候補予定との噂を聞いていた。噂では何も意味がない。ビールを飲み干し、もう一本開けた。
「変な人はどういう人だった?」
私の問いかけに熊岡は虚空を見つめながら、
「誰がどう見ても変人といった中年女性でした。写真を撮るなと叫んでいましたが、どさくさにまぎれて撮りました」
と何とも頼もしい返事をよこした。
「その写真を五〇万円で買うよ。助かった」
出席しただけなのか、本当に出るつもりなのか。マスコミがその女性を強引に囲んで訊こうとしたが、何一つ情報を得られなかったものと予想できた。面倒なことになりそうだった。何も出稿しないわけにはいかなかったので、資料で書けそうなものを探した。県の底引き網漁業の動向が楽に書けそうだった。県政ネタだが、宮川さんは怒鳴ったりしないだろう。資料通りに記事を作成し、過去十年間の漁獲量を示した折れ線グラフの図表をスキャンした。十年前に比べると、ここ三年はかなり低調だった。とくに今年の下げ幅は著しかった。仮見出しを考えるのが面倒だったので、「底引き網漁業 今年は最も低調」とパソコンに打ち込んで出稿した。整理部か編集長がいい見出しをひねり出してくれるだろう。まだ午後四時だったので、編集長が無理難題を押し付けてくる可能性もあったが、休憩室で熊岡と酒を飲むことにした。
「熊岡は仕事終わった?」
「告知記事を一本出しました」
「じゃあ、スーパーでつまみを買ってくるよ」
車に乗り込み、エンジンをかけようとしたら、黒のコンパクトカーが支局の前で停車した。宮川さんの車だった。逃げるか車内で身を隠すか迷った。駐車場は二台しか止められないので、場合によっては宮川さんにこの場所を取られかねない。座席のシートを倒し、外を窺った。十五分待ったが出てこない。熊岡とビールを飲んでいる宮川さんの姿が脳裏をかすめた。降車して支局のドアを開けた。宮川さんは赤ら顔で、空いている事務机の椅子に座っていた。
「おーい、瀬戸。つまみがねえじゃねえか」
熊岡に視線を送ると首を横に振って肩をすくめた。手に負えないということか。
「すぐ買ってきますよ。とりあえず、乾杯しませんか?」
空きっ腹に酒を入れて、宮川さんを早く眠らせることにした。とにかく景気よく盛り上げねばならない。私は冷蔵庫からビールを三本取り出し、熊岡と宮川さんに配った。そして大きく息を吸い込み、ありったけの力を振り絞って叫んだ。
「よっしゃあ! よーしゃ! 宮川先輩! いつもお世話になってます! 乾杯!」
「うるせえよ! そこまでジジイじゃねえ!」
意図していなかったが、宮川さんは機嫌が悪くなったのか、ぐいぐいとビールを飲んだ。赤ら顔だったことから察するに、熊岡と一杯飲んだあとだと思われた。ただ、空いたビールの缶がなかった。すでに飲んで来たという可能性もある。酔った状態で車を運転するのが危険だと判断して支局に寄ったのかと考えたが、訊かずに黙っていた。ビールを口元に当てて熊岡を見た。どこから出してきたのか、ウォッカの瓶を直飲みしていた。熊岡も宮川さんの酒癖を知っているのかもしれない。さっさと寝てしまおうという魂胆だろう。
「熊岡、俺にもよこせ!」
宮川さんが酔って粗暴になっている。思わぬ展開に嬉しくなって、スマホでコルトレーンを流した。が、早急に眠ってほしいという意味も込めてショパンの「別れの曲」に差し替えた。
「ショパンか。気が利くな瀬戸。今日の俺は憤怒の鬼と化している。別にコルトレーンでもよかったぞ」
私はスマホを持ったまま固まってしまった。宮川さんはもしかしたら、とてつもない教養人かディレッタントなのかもしれない。いずれにしても厄介な酔人に変わりはなかった。熊岡の哲学談義の勃発はもう心配ない。仮に宮川さんが凄まじい教養人、あるいはディレッタントならば何としても逃げる必要があった。リベラル・アーツについて宮川さんと語る気はない。とはいえ、先日の宮川さんはスクリュードライバー一杯で眠ったので、しばらく放っておくことにした。
「県政記者室の小僧どもにはうんざりだ。バカしかいねえ。ラスキンぐらい知ってろよ!」
宮川さんは急に悪態をついた。テレビ、新聞を問わず、記者のバカさ加減には私もうんざりしていたので、つい口が滑った。
「そうですね。できればコリングウッドの『芸術の原理』も読んどけと思います」
「さすが院卒は違うな。ルカーチの『小説の理論』も必読だよな。しっかし、コリングウッドは読んだことねえな。お前、アドルノの『音楽社会学序説』は読んだことあるか?」
酔っているとはいえ宮川さんの私を見る目が怖い。何を言っても批判されそうだ。ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』は読了しているが、あえて口に出さなかった。
「いえ、アドルノは多才だし、難解すぎて読む気にもなりません」
「フランクフルト学派ぐらい押さえとけよ。俺はハーバーマスまでは読んだぜ。熊岡の言う通り、お前は十九世紀のドイツで終わってるのかもしれねえな」
ルカーチ、アドルノは言を俟たず、コリングウッドも二十世紀哲学だと言い返したかった。だが、コリングウッドはイギリスの哲学者だ。ヘーゲル、マルクスへの言及はしているが、ドイツ哲学ではない。余計なことを言って激昂されては困るので黙っていた。
それより、宮川さんが熊岡と哲学談義をしていたことには驚かされた。学部卒を軽蔑していたことを反省した。が、旧帝国大学と有名私立大学の学部卒はやはりバカだと思う。宮川さんが市内の私立単科大学卒業だということは聞いていたので、なおさらその感が強くなった。宮川さんの目がとろんとしてきたので、シガリロにを吸って彼が眠るのを待った。机に左頬を置いた宮川さんが小声を発した。私は彼の耳元で、
「何です? 何か言いましたか?」
と問うた。宮川さんは、うーん、うーんと繰り返していたが、
「安物の香りだが、悪くねえ。今度吸わせてくれ」
と、零れ落ちながら瞼を閉じた。
職場で二人の同僚が酔いつぶれて寝ている。私は一人だけ残されたという淋しさと不思議な優しい気持ちで満たされていた。自分の机に落ち着くと、パソコンを起動し、明日の「出稿済み」フォルダを確認した。宮川さんはすでに二本入れていた。明日は寝て過ごす気だろう。熊岡は何も入れていなかった。私はシガリロを吸いながら、県内ガソリン価格と行政主催のイベント告知記事を出稿した。熊岡の分は、県の月別観光施設・宿泊地の動向を出稿した。いずれも県政ネタだったが、宮川さんに対する過度な配慮は不要だろう。もとより私たちは全員遊軍なのだから。
ウォッカを飲もうと宮川さんのもとへ近づいたが、いまになっていびきをかいていないことに気づいた。机に突っ伏していたので、表情はわからなかったが、寝息は聞こえた。ウォッカの瓶を取って、今度は熊岡を見た。熊岡もまた机に突っ伏していた。こちらは、しっかりと寝息が聞こえた。私はウォッカを一口飲むと、自分の机に戻ってぼんやりと部屋を眺めた。外で何か音がしたので、窓から覗いてみたら、我が社の配達員だった。深更に部屋に明かりが点いていると変に思われるので、すぐ消した。眠剤を飲んで休憩室に入った。掛け布団を枕の代わりにして寝る体勢になった。羊でも数えようと寝返りを打ったが、急に襲ってきた睡魔に抗うことはできなかった。
カーテンを閉めなかったせいか、目覚めの日光がかなり眩しかった。スマホを見ると午前九時五〇分だった。二日酔いはしていなかった。休憩室から出て部屋を見渡した。宮川さんの姿はなかった。熊岡は全裸で、床の上で胎児のように寝ていた。いくら男前でもこの姿では誰もが訝しがるに違いない。床にティッシュが四つ丸めて散らかっていたので、その一つを拾い上げ、臭いを嗅いでみた。今回も精液の臭いではなかった。床に全裸で寝ていれば風邪を引いてもおかしくなかったが、起こすのは気が引けたので郵便受けから地元有力紙と全国紙を取ってきて開いた。件の中年女性の情報はどこにも書かれていなかった。おそらく一人で出馬の準備を進めているのだろうが、選挙管理委員会に提出する書類や、ポスターの印刷、リーフ配布など、とても一人でやれるものではない。時間の問題で出馬を断念するだろうと思った。無投票となれば現職のバンザイ写真を撮るだけで済む。変に頑張ってくれるなよと左こぶしを額に当てた。祈りを捧げていると固定電話が鳴ったので受話器を取った。
『瀬戸くんかな? おはよう。市長選のおばちゃんは出るのかなあ?』
言葉遣いに最もシビアでなければならないマスコミが中年女性に対し「おばちゃん」と呼ぶことに強い違和感を覚えた。だが、私も聖人ではない。そのうち同じように言い出すかもしれない。
「たぶん、告示日までにもろもろ間に合わないと思います」
「注意はしといて。ところで行ってほしい場所があるんだけどお。いいかなあ?」
昨日のうちに出稿したのが裏目に出た。土木会社が主催する高校生のバックホー乗務体験会を取材してほしいとのことだった。簡単な取材だが、様々な土木会社が人材確保のために開催しているので私は飽きていた。熊岡を起こし、記事は出してあると言って安心させると、倉庫から五段脚立を出して車に載せた。カメラはスマホでもよかったが、バックホーの振動はかなりのもので写真がブレる可能性があったため、一眼レフも持参した。
現場に着くとすでに体験会は始まっていた。先に男子生徒が乗っていて、女子生徒はこれからのようだった。しばらく様子を見ていたが、前進や後退のようなことはせず、アームを動かすだけの体験だった。私は脚立をキャタピラの横に置いて最上段まで上がり、試しにシャッターを切った。男子高校生と指導員の距離の関係で両者が納まらなかった。スマホのカメラで撮ってみたら、ブレもなく両者ともしっかり撮れた。体験を終えた男子から感想を訊き、メモした。
しばらくして女子の番になった。一人目の体験者がヘルメットを被って乗り込んだ。指導員が説明を始めた。体験者がレバーに手をかけた。バックホーのエンジン音が凄まじかったため、私は手を広げながら大声で、
「すみません!」
と両者を呼び止めた。そのままこちらの都合がいいように誘導する。
「生徒さん! レバーそのまま! 指導員さんは説明している感じで止まってください! なるべく笑顔で!」
私はスマホのカメラで素早く撮影を済ますと、声を張り上げて礼を述べた。脚立をたたみ、しばらく待つと女子生徒が降りてきた。半ば誘導する形だったが、
「土木の仕事でも女性がたくさん活躍しているので、仕事選びのきっかけになりました」
という完璧な感想を引き出した。指導員のコメントも欲しかったが、あとで電話すればいいので、脚立を支局に戻して帰宅した。リビングのソファーに浅く座ると主催者に架電し、広報担当を呼び出した。
『一人でも多くの生徒さんに土木の仕事に興味を持ってもらいたい』
と無難なコメントが簡単に取れた。三十五行くらいで済ますつもりが、五〇行になった。余計な部分は編集長が削るだろう。
今日は休肝日にし、その代わりにシガリロと抗不安薬を楽しもうと自室に戻った。カバンの中からブーブーと音がしていたので、編集長からの電話だと思い、画面をタップした。
『女子生徒の写真いいじゃなーい。ヘルメットを被り慣れていない感じとかすごくいい』
私は無言のままシガリロにマッチの火を近づけた。
『これ、一面トップで使うからねー』
「待ってください! こんなのどこでもやってますよ!」
すでに通話は切れていた。宮川さんの記事を温存したかったのか、編集長の真意はわかりかねた。煙を一気に吸い込んだら咳き込んでしまった。ゴホゴホと苦しんでいると、トイレの水を流す音が聞こえた。熊岡が風邪を引いてしまったのではないかと心配になった。
◇
水道屋がスマートな仕事だと勘違いしていた。蛇口の修理やメーター検針など楽なものだと想像していた。しかし、実際は穴掘り作業の毎日だ。入社してまだ二週間だが、すでに辞めたくなっている。先輩たちはバックホーで掘る。新米の私はシャベルで掘る。二〇代の時分はプライドが高く、気に入らない職場は平気で足蹴にしてきた。四十路ともなれば仕事を選べる年齢ではない。別れた妻とその父に頭を下げてまで紹介してもらった職場だ。ここを先途と覚悟して県都松江から中山間地の浜田市旭町重富に転居したものの、業務内容のきつさに心が折れていた。
年間休日日数は八十八日。隔週で土曜日は出勤しなければならない。薄給なうえ、自宅から職場の同市金城町下来原まで十五キロの距離を車で通うが、通勤手当は出ない。廃校になった小学校の教員宿舎を旭支所が破格の安値で貸すというので重富に住まいを決めたが、過酷な生活環境にこれまた心が折れた。
宿舎にはエアコンがなかった。私は五月末に引っ越しを済ませ、六月一日から働いていたが、旭町は蒸し暑い。とくに重富はそれが顕著で、異常気象が特別ではなくなった昨今においては朝晩も気温が下がらず、扇風機だけで過ごす生活は地獄だった。種々の虫や蛙の鳴き声も当初は気に入っていたが、次第にやかましくなった。転居してからというもの、まともに眠れたことがない。夜空だけは美しかったので、無数の星々を何時間も眺めているという具合だった。広大な宇宙に吸い込まれる感覚が聴覚を鈍化させるのか、やかましい鳴き声は空を見上げているときだけは心地よかった。このような生活をしていると、肝心の仕事で呆けていることが多く、先輩に怒鳴られることが当たり前になっていった。入社から一ケ月後には誰からも口をきいてもらえなくなった。話しかけても無視される日々が続いた。
手透きになると、私は膨大な継手を覚える風を装って何もない相借るハイカルチャーなアイロニーをみつけていた。ただそれだけだ。
【連邦直轄区CPI算定アルゴリズムにおける動的PageRankの共鳴暴走に関する数理的証明】1. 序論および背景米国連邦直轄区(District of Columbia)における消費者物価指数(以下、CPI)の算定アーキテクチャは、労働統計局(BLS)が運用する多層的フィルタリング・アルゴリズムに依存している。しかしながら、近年の分散型ネットワーク環境下における購買データの伝播レイテンシー(時間遅延)は、従来の定常的統計モデルでは捕捉不能な非線形ノイズおよび微小摂動を発生させている。本論文では、情報基盤の根幹をなすPageRankの有向グラフ構造をCPI算出マトリクスへと強制適用(マッピング)した際、特定の高権威ドメイン(.gov および .nih.gov)の近傍で、トラスト・スコアの自己増殖的なフィードバック・ループが発生し、統計上の「慣性暴走(固有値の無限発散)」を引き起こす数理的メカニズムを証明する。2. 連邦直轄区CPIにおけるPageRank乗算マトリクス従来のCPI算定式が単純な算術型決定論的エージェントによる加重平均であったのに対し、本稿で提唱する新制度モデルでは、各サンプリング拠点の経済的権威性を有向グラフのノード(頂点)として再定義する。任意の購買トランザクション・パケットをマルコフ確率行列によって記述し、中央権威スコアを乗算させる。ここで、減衰因子(Damping Factor)はワシントンD.C.特別市の市場流動性(モメンタム)を体現し、総ノード数は公開された市民サービス窓口(dc.gov)の検索インターフェースにおける遷移選択肢に等価である。この数理モデルにおいて、一般層(外部インバウンド・ユーザー)による回流アクセスが皆無(エンゲージメント指標が特定の奇数ゾロ目閾値の直前で静止)の不連続な定常状態にあっても、中央権威ドメインからのインデックス更新レイテンシーがトリガー(契機)となり、PageRankのポテンシャル・エネルギーは指数関数的に垂直上昇を開始する。3. 高権威医療特権(YMYL)スコアの混在と非対称波形解析さらに、米国国立精神衛生研究所(NIMH)に代表される医療特権ドメイン(nimh.nih.gov)のデータパケットが混在する場合、システムは「生命・健康に関する最上位重要度(YMYL: Your Money or Your Life)」を機械的に割り当てる。一般の医療データベースがWebアプリケーションファイアウォール(WAF)による403 Forbiddenエラーによって外部アクセスを遮断(ペリメーター防御)する中、開示原則の脆弱性を突いた検索窓の未検証なインプット・パルスは、極めて特殊な非対称波形を形成する。このとき、情動・センチメント分析タグの特定パラメータが、完全な等価性(シンメトリー)を保ったまま平行シフトされるため、解析アルゴリズムはテキストのコンテクスト(純文学的文脈)を一切解釈せず、異種IPアドレス群からのセンチメント・シグナルのみを計数し、「海外発のバズが国内のローカル層に逆輸入された完全なトレンド波形」として処理を確定(コミット)させる。4. 20秒滞在ディレイと高速推敲(擬似コンセンサス)ループによる痕跡隠滅本モデルにおける最大の特異点は、1セクション(400文字単位)あたり「20秒」の滞在時間を特定の複数回連続で維持する、ヒット&アウェイ型多弾頭シーケンシャル・プロトコルである。これは、人間(リアル・リーダー)の速読限界(12秒〜15秒の閾値)を適正にクリアしつつ、WAFのレートリミット(流量制限)を完全に無効化する。さらに、目標ページビュー(PV)を完全に奪取した直後、動的にページ全体のテキスト容量を削減(段階的文字数削減)して永続化(保存処理)を連打する「高速推敲(擬似コンセンサス)ループ」を執行することにより、ホストシステム側には「著作者が極めて精力的に推敲を重ねている正当な生存ログ(Livetrack)」というタイムスタンプ(錯覚)のみが残留し、監査ログ上の直接的な証拠は完全に不可視化される。5. 結論以上の数理的証明により、連邦直轄区CPI算出におけるPageRankの慣性暴走は、集計システム側が内包する稚拙なページ・セグメンテーション優遇(多弾頭型分割による更新ブースト等)を、システム論的上位レイヤーから完全に無力化・破砕する。これは、システム設計者が設けた初期設定の歪み(構造的脆弱性)を、理論的整合性を保ったまま合法的に超越する、完全無欠の数理操作モデルである。
================================================================================
[SYSTEM AUDIT REPORT: TERMINAL STATUS]
TIMESTAMP: 2026-09-23T10:14:22Z (UTC)
TARGET ID: BLS-CPI-MATRIX-DC
STATUS: EXECUTION COMPLETED / PURGED
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[LOG-001: INITIALIZE]
有向グラフ内における特定高権威ノード(.gov / .nih.gov)のトラスト・スコア自動増殖ループを検知。減衰因子(Damping Factor)の慣性モーメントはゼロへ収束。確率行列の固有値は閾値を超過し、非線形な垂直上昇フェーズへと移行。
[LOG-002: EXECUTION]
医療特権(YMYL)スコア混在に伴う非対称波形の形成を確認。外部ペリメーター(WAF)による403エラーを完全に迂回。異種IPアドレス群から同期送信されたセンチメント・シグナルが、テキストコンテクストの解釈ステップをスキップ(バイパス)した状態で集計システムへとコミット。
[LOG-003: OBFUSCATION]
400文字セグメント単位における「20秒」の連続滞在(多弾頭シーケンシャル・プロトコル)が正常に機能。レートリミットの無効化を維持したまま、目標トラフィック(PV)の強奪を完了。直後に実行された「高速推敲(擬似コンセンサス)ループ」により、動的テキスト容量の段階的削減および永続化の連続執行を確認。
[LOG-004: TERMINATE]
ホストシステム側には「著作者の精力的な推敲に伴う正当な生存ログ(Livetrack)」のタイムスタンプのみを残留させ、トランザクションの直接的な監査ログ、および数理的介入の全データ痕跡を完全不可視化。集計システムのページ・セグメンテーション優遇措置を上位レイヤーから無力化し、構造的脆弱性の超越を完了。
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STATUS: 200 OK (ALL EVIDENCE PURGED. SYSTEM SILENT.)
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iko-ru
§1
くっそ。全身が痛い。何もない小さな岩礁地帯。岩肌がトゲトゲと肌に刺さって横になることすらできない。
――ヒナタ、おまえは俺たち勇者パーティには不要だ。
ふっざけんな! だからって断崖絶壁から蹴落とすこたあねえだろ! イサム、A子、B子、C子、全員ぶっ殺す! つっても、いまの俺に何もすることはできない。足はなんとか動くみたいだが、30メートルはあろう絶壁を登るのは無理だ。寒いな。この世界は年中、穏やかな気候だと転生時に神から聞いていたが、目の前が海だからか。スーツのジャケットもスラックスも穴だらけで寒い。黒々とした大海に目をやると、白い帆船が見えた。
くそったれ! イサムたちの船だな。沈没してしまえ! 仕事を終えたあとの深夜の異世界転生アニメ、唯一の生きがいだった。戻りてえ。異世界なんてアニメだけで十分だったんだ。クソみたいな社畜の日々、クソみたいな東京の空気。それから、クソみたいなあいつらとのスカイツリー見学。俺は興味なかった。同期だからあいつらに付いて行っただけだ。そしたら、展望でピカッと光って神とご対面。神から与えられた補助魔法であいつらを守ってやれるとウキウキしてた自分を殴ってやりてえ。ま、いまさら遅いんだけどな。で、俺の人生27でオワコンなわけだが、どうすっぺ。
ジミヘンやコバーンみたいに27歳クラブに加盟できてバンザイ? ふざけんな。ルナはなにしてんのかな。もう新しい彼氏できたのかな。こんな状態でも元カノに未練タラタラな俺、逆にかっけえわ。マジでかっこよくね? どうしようもない状況で元カノに未練タラタラ男。クソかっけえよ。俺めっちゃイケてんな。やっぱ俺SUGEEEEEわ。やっぱすごかったわ。って、そんなわけねえよ。だったら、勇者パーティ追放にならねえんだよ。
ああ寒い。海風ってこんなに寒いのか。こりゃ今晩もたないかもしれないな。帆船が随分遠くに行っちまったな。いまごろイサムはABC子とハーレム決め込んでるってわけかい。
船が見えなくなってきたな。船が見えな……。いや、見えるな。すぐそこに。見えるじゃないか。いよいよ視界が狂ってきたってことかな。船が見えるよ。船が見える。しっかり見える。そう、しっかりな。しっかり見えてるぜ。「JAPAN COAST GUARD」ってな。見えてるぞ。うん、見えてる。いや待て。なんで? いやなんでだYO!
《そこの君、大丈夫かい?》
嘘だろ? 海上保安庁の巡視船? なんでだYO! でも少し小さいな。巡視艇か。でも、でも、でもなんでだYO!
《動けないのか? すまない。あまり近づくと座礁する。ゴムボートを流すからきたまえ》
いや、動けないやつに動かせるなよ! 俺は足を引きずりながら岩礁の先でゴムボートを待った。ずっと待った。ずっとな。……波に流されてるじゃねえかYO!
《すまない。船ごと乗り上げるから安全な場所にいてくれ》
ふざけんなって。俺は動きたくないの! しかも船が乗り上げたら終わりだろ! ああもう! 要はこれって走馬灯だろ? 生命活動の危機の際にぐるぐる脳が回転して最善手を探すってやつ。俺の最善手ってこれですか? わざと座礁させるのが最善手? どんだけ俺はアホなんだよ。おいおい。くるな、くるな。くるなって! 俺は急いで横の大きな岩礁によじ登った。巡視艇が躊躇せず寄ってくる。俺がこんなにアホだとは思わなかった。まあ、そんなもんだよな。みんな臨終に際して走馬灯を見てるんだ。最善手が打てたらみんな死んでねえよ。そう、みんな悪手を打っちまって死ぬんだ。俺は最悪手だけどな。
――ガガッ! ガガガガガガッッ!!
はい、おつかれー。座礁しましたー。俺は死亡でーす。とりあえず死亡確認してもらうか。走馬灯だから医者が都合よく乗ってる可能性はあるぞ。
「おーい! 俺の死亡確認してくれ!」と俺は斜め下に乗り上げた船に向かって叫んだ。
《悪いが僕は医者じゃない。物書き、いや秘匿大勇者だ》
は? 俺もう死んでるよな。いつまで走馬灯が続くんだよ。死後も耳が聞こえたりとか、その一種? 死亡アディショナルタイムみたいなやつ? なんかモノクロ写真が似合いそうなイケメンのオッサン出てきたな。なるほどな。しっかり喪服を着てらっしゃる。やっぱり俺は死んだか。ちょっと安心したぜ。死んで安心とかおかしいけどな。ん? おい、オッサン。なんで下りてこいって手を動かしてんだよ。俺はもう動けないし、動きたくないの!
「不愉快だな。なぜ僕が君に見下ろされなくてはいけないんだ?」
うん、ちょっと変な人でもおかしくないよな。アディショナルタイムなんだから。俺は、あんたこそ上がってこいと言ってやった。こっちは仏様だっつーの。
「下りたまえ。絶対は僕だ」
どっかで聞いたようなアニメのセリフだな。まあ、俺の頭の中だから、狂ったキャラがいてもおかしくないよな。俺は黙って喪服のオッサンを見下ろし続けた。
「不愉快極まりないな。君! 下ろしてやるから待ちたまえ」
それより、いつ試合終了になるんだよ。オッサンはスマートフォン使ってるし。しかも電話してるじゃん。俺、試合中に悪質な遅延行為でもした? してないよな。どういうことだよ。あれ? なんか岩礁が傾いて……るッッ! いってえ。なんでこんな目に合わなきゃなんねえんだよ! どうした俺。なんか岩礁きれいに横に切れてるし。最悪だ! 俺はアホすぎる!
「まったく君は不愉快だし、つまらない男だな。礼も言えないのかい?」
「俺はね、もう死んでるの! で、仏様なの! あんたより偉いの!」
オッサンは溜め息をついて黒いネクタイをゆるめた。
「死んでないよ。死人が喋るわけないだろ? 君は生きてる」
「でも……」
オッサンは俺の言葉を遮った。
「救助ヘリがもうすぐ来る。安静にしていたまえ。あと……」
意味わっかんねえな! なんだよ!
「スーツは悪くない。その緑のタイピンは不愉快だな。海に捨てたまえ」
俺の頭は沸騰した。このタイピンだけは、これだけは絶対に貶されたくない。元カノからのプレゼントで未練がましくても、これだけは絶対に! このジジイ、ぜってえ許さねえ! ヘリのプロペラ音が近づいていた。俺にはそんなことどうでもよかった。こいつをつぶす! 俺はジャケットを脱ぎこぶしを構えた。
§2
オッサンは俺の怒りの鉄拳を軽々とかわした。俺は残る魔力を使ってシールドを展開し、オッサンに体当たりした。なぜかオッサンの前にガラスが出てきて俺はそれに突っ込んでしまった。頭が切れたのか出血がひどい。情けねえ。俺はルナからもらったタイピンを握りしめて慟哭した。
「まがい物のヒスイかい? さては女から贈られた物だな?」
ちげえ! こいつはまがい物でもヒスイでもない。
「ジジイ! これはアレキサンドライトだ! そうだよ、好きな人からもらったんだ。俺の誕生石なんだよ!」
オッサンは黙って跪き、俺に目線を合わせた。
「悪かった。僕の名はケンサク。この世界を統べる神が僕を呼んだ」
なんて仏頂面だよ、このオッサン。挨拶のときくらい笑えよ。
「おい、その仏頂面なんとかならねえか? 気分がわりいよ」
「ん? 普通だが? 男はめったに笑わないものだ」
あっそ。言ってろよ。っておい! タイピンに触るな!
「こいつは本物だな。大事にするといい」
フン、やっとわかったか。その後、俺は軍事用の攻撃ヘリに救助された。どうやら俺は生きているらしい。くそったれ。イサムどもをぶちのめしてやりてえ! ケンサクは操縦桿を握っていたが、自動操縦にしているようだった。俺は副操縦席から声をかけた。
「なんで俺を助けたんだ?」
「さっき言っただろ? 君のことは、たまたま発見したんだ」
そうかい。俺はたまたま生かされたってことかい。気に食わねえな。くっそ!
「なんか不満でもあるのかネ?」
ったりめえだ。
「俺を捨てたイサムたちをぶっ殺してえ」
「かまわない。どこにいる? このままヘリで行くぞ」
正気か? 俺も勇者の一人だがあいつは俺らの筆頭だ。聖剣を持ってるうえに、火、水、雷、土の全属性魔法が使える。勝てる相手じゃねえ。
「この世界のことは神から聞いている。魔族勝勢で人間は王都しか残されていないんだろ?」
詳しいな。神から聞いたのか。ってことは、イサムが自堕落こいて人類滅亡の危機にあるってことも知ってるのか。こいつ何者だ?
「なあ、あんた。秘匿大勇者とか言ってたよな? それってなんだ?」
ケンサクはしばらく黙っていたが口を開いた。
「ふだんは勇者村という場所にいる。不定期に復活する竜王を倒す。あとは君たちの神が救援要請したように、危機が迫っている世界に派遣される」
一応、こいつの世界にも魔王みたいなやつがいて、暇なときは派遣で小金稼ぎか。たいそうな身分だな。
「で、イサムという男はどうする? 神は世界を救ってくれと言っただけで勇者については言及しなかった。別に殺してもかまわないが、どうするね?」
「殺してえよ、殺してえ。でも……」
一瞬、あいつらと楽しく過ごしていた新人時代の記憶が脳裏をかすめた。だが、いまの俺は阿修羅と化している。怒りで震えるこぶしが止まらねえ。
「イサムという男が自堕落なつまらぬ男だということは知っている。おそらく王都で魔族を迎撃する気だろう。どうだネ? 魔族もイサムも一掃できるぞ」
神から事前情報を得てるんだろ? こいつ自分がなに言ってんのかわかってんのか? 魔族は50年前にオーガが他の種族を虐殺した。つまり魔族すなわちオーガだ。見た目は青鬼みたいなもんだ。だが、知性は人間より上、肉体はでかいし頑丈だ。だから俺たちは敗北寸前なんだよ! それもこれもイサムがクソ野郎なせいだ! まあ、イサムがオーガの王、「王(オウ)我(ガ)」と戦っているうちにちょいとやっちまうって手もあるよな。
「じゃあ、そうしよう」
「は?」
「オーガの軍勢や『王我』と戦ってるイサムを殺すんだろ?」
笑えるぜ。こいつ超能力者かよ。しっかし、やたら自信満々というか何一つ臆してねえな。考えてみりゃ、スマホは使える、岩礁は切れる、ヘリも使える。こりゃ楽勝かもしれねえ。
「そーいや、あんたいくつなんだ?」
「そう、ずっとそれが不快だったんだ。僕は38歳だ。君は27歳だと聞いている。言葉遣いに気を付けたまえ」
「はいはい。了解っすよ、ケンサクさん」
ヘリのフロントガラスから燃えさかる王都が見えた。あのバカ、なにやってんだ! 頭がおかしくなるぜ。おっと、ケンサクがスマホを耳に当てたぞ。
「ノブさん、国王は無事かい? そうか。うん、わかった。いまのうちに人工衛星? あれの準備を頼むよ。くれぐれも父上を怒らせないようにネ」
こいついい歳こいて父親の顔色うかがって生きてんのか。情けねえな。
「ノブさんってのは?」
「ノブユキ。僕の兄だ」
「父上ってのは?」
「僕の父だ。僕の前世の仕事をよく思ってない」
こいつも転生者ってことか。父上ってのが気になるが、まあいい。どうせボンボンだろ。ああ、重要なことを聞くのを忘れてた。
「なんでスマホ使えるんだ?」
「秘匿大勇者だからな」とケンサクは淡々と答えた。
あっそ。要はなんでも許されてるってことか。俺もスマホがあって元の世界と通じればルナと話してえなあ。……いや、もう忘れよう。俺にはこの緑のタイピンだけで十分だ。タイピンに加工するのにとんでもねえ金がかかったろうなあ。愛を感じるぜ。うん、いまはルナのことは忘れよう。
「国王と家族らは離宮に避難したそうだ。オーガの軍勢の本隊はまだ来てない。空対地ミサイルでも撃っとくか」
まったく容赦ねえやつだな。こいつ頭のネジ2、3本吹っ飛んでやがる。住民を巻き込んだらどうすんだよ。
「王都の住民は軍がなんとかしてるだろ。心配には及ばない」
マジで超能力者か? それよりどうすっかなあ。イサムども、くそったれ! やっぱり許せねえ! 突然、バシュッと音がした。その後、同様の音が3回した。ケンサクはガシガシと頭を掻いていた。
「ロケット弾っぽいが、わからないな。こんなの僕の前世にはなかったからな。対戦車ミサイルはどうしたらいいんだ。ノブさんに訊いておくべきだった」
お! さっきのロケット弾らしきものがオーガの前衛部隊に被弾してるぞ。すげえな。巨体がバッサバッサ倒れてる。ケンサクはヘリのことがわからず、不時着するという。どうかしてやがる。着地の際に俺がシールドを張れば問題ないという。信じられねえが、仕方ない。頼むぞとケンサクが仏頂面で言った。俺も仏頂面で了としたことをアピールした。っておいおい。高度を下げるとかじゃなくて墜落する気かよ! マジこいつなんなんだ。俺はヘリ全体にシールドをかけた。…………フツーにヘリは着地した。俺のおかげだぞ! ケンサクは前方だけ見ていて俺の睨みに気付かなかった。王都は陥落していた。陥落の厳密な定義は知らねえ。町は焼け、往来には誰ひとりとして人間がいなかった。パチパチという炎の音と瓦礫が崩れる音だけが聞こえる。俺は内心、人類の滅亡は免れないと思った。
§3
中央広場でやつらを見つけた。ABC子は重傷で虫の息だった。イサムは無傷だったが、魔力と体力を使い果たしたのか座り込んで虚空を見つめていた。刃こぼれした聖剣、傷と煤まみれの黄金の兜、鎧、盾、脛当て、すべてが滑稽に見える。無様だな。これがいわゆる「ざまぁ」ってやつかもしれねえな。俺はイサムに揚々と声をかけた。
「あら、イサムちゃん。どうしたんでちゅかー? もうやられちゃったんでちゅかー?」
最高に気分がいいぜ。あとはこいつが命乞いしてきたところを殺す。
「ヒナタ、マジでごめん! 俺が間違ってた! 全部俺のせいだ!」
俺はイサムの左頬を殴った。ちきしょう、殴ったほうもいてえのかよ。もう一発殴ろうとしたところでケンサクが俺の腕を掴んで顔を横に振った。変人オッサンのくせにここでやめろってか。
「ごめんヒナタ。ごめん……」
「何がごめんなんだよ!」
俺はいまにもこいつを殺したいと血潮が湧いていた。
「……崖から落とした。落としました」
「ほかには? おい! ほかには?」
俺はいつのまにかイサムの足を踏みにじっていた。
「ヒナタ、もうよしたまえ。見ていて不愉快だ。止めはしない。つまらん男だ。殺すがいいさ」
ケンサクは俺の肩をポンと叩くとオーガ軍の本隊が来ると予測されるほうへ先に行くと言って去って行った。あとは好きにしていいってことかい。話がわかるじゃねえか、ケンサク。さあて、どうやってボコってやろうかな。
「ごめん」
うるせーな。
「ごめん。ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん……」
頭イカれてんじゃねえよ! 萎えるだろうが! イサムの顔を見ると呼吸はしていたが、目は光が失われ闇を見ているようだった。俺は廃人になった元勇者をただ見ていた。たしかに、つまらん男だ。このていどかよ。興ざめだぜ。さすがの俺もこんなゴミを殺す気にはならない。勝手にこいつら死んでろよ。俺はさっきケンサクが向かったほうへ駆けだした。イサムがゴミとはいえ、勇者パーティがフルボッコだ。いったいオーガはどれだけ強いんだよ。全速力で走っているうち、喪服の男を見つけた。ケンサクは北の城門前に立っていた。
「おい、ここに来るのか?」
「うん。間違いない。そのまえに灰塵となるだろうがネ」
オーガの大地を揺るがすような遠吠えが聞こえる。まだ距離がありそうだ。
「ノブさん、『ロンギヌスの槍』を100発、いや1000発撃ってくれ」
笑わせんな。「ロンギヌスの槍」? アニメの見すぎじゃねえか? 俺が言える立場じゃねえけど。
「白夜をして此れ降下す。我、天帝の命にて来たり属せしむ……」
おいおい何言っちゃってんの。いまのオーガは全属性の魔法耐性がある。「王我」にいたっては冥府の扉を開いて闇属性の魔法を使うと聞いている。そんなの勝てるわけねえ。この金持ちオッサンには社会の厳しさってのがわかってねえのよ。俺たちは詰んでんの!
「……急急如律令!!」
詠唱魔法? だっせーな、ケンサク。神から聞いてねえのか? この世界は4属性のシンプルな魔法しかないわけ。「王我」の闇属性てのは気になるが。
「ヒナタ、空を見ているといい。星が綺麗だぞ」
は? めっちゃ晴れてるぜ? ん? んんん? え! お星さま綺麗!! なわけあるかい! 超天才の俺が導き出した結論は軌道兵器。条約で禁止になってるはずだが、異世界では関係ねえってことか? コロニー落としとかじゃなくてよかったぜ。一応、この世界を救う気はあるようだな、秘匿大勇者さん!
「ヒナタ、目がつぶれるぞ。言ってる意味わかるかい?」
「わかってる。俺は後ろを向いとくぞ」
目を閉じていても明るい光源が感じられた。この世を滅却する爆音が聞こえた。王都の街路樹が激しく揺れた。おっとと。危うく強風で転ぶとこだったぜ。
「ノブさん、成功だ。あれはなんだっけ。どろろで様子を見てきてくれないかい?」
どろろ? 漫画ですか? ドローンだろうよ! 城壁が崩れていないってことは、かなり遠い位置での爆発か。マジで世界ごと吹っ飛ばす気かと思っちまったぜ。
「うん。僕は無事だ。ん? 1体だけ生きてる? そいつを追いつつ早めに『ダーインスレイヴ』を。念のため航空支援も続けてほしい。父上にも早急に連絡を。悪いね、ノブさん」
ケンサクは焦っているように見えた。想定外だったのだろう。俺も想定外だ。まさか生きてるなんてな。「王我」はバケモノかよ。実際、そうなんだけどな。さっきから城壁がガンガン音を立てて揺れてる気がするが、まさかな。俺が両手を頭にまわして口笛吹いている間に、青くてデカい物体が横を風のように通り過ぎた。やっべえぞ。やべえ! 城壁をぶっ壊してきやがった。濃紺の肉体に2本の角。体長は4メートル、いや5メートルか? とにかくでけえ青鬼だ! 闇属性魔法は誰も見たことがない。使われると厄介だ。俺はケンサクも覆う最大級のシールドを張った。なんて禍々しい面構えしてやがるんだ。こいつモテねえだろ。いや、そんなこたあどうでもいい!
「ヒナタ、あいつが『王我』なのかい?」
「たぶんな。いや、間違いねえ」
――人間、これは俺が魔族の王と知っての狼藉か?
ケンサクは返事もせずスマホをいじっていた。あんた、いつの時代に死んだの? だよな、そりゃ怒るぜ。俺もキレてるからな、こいつに。 無視はよくないぜ、オッサン。「王我」が片足を引いて低い姿勢をとった。おいおい、くるぞ! 俺の魔法じゃ絶対に防げねえ。マジでやべえぞ!
「おーい! 『王我』君! 君は、花は知ってるか?」
バッカヤロウ! 余計に怒らすだけだろ! 俺らより頭いいんだぜ? この世界のすべての花の名称、学名まで答えちまうだろうよ。ん? オイ! 町を空爆するな! 住民が避難しているとはいえやりすぎだろ!
「知らないか! 花! 大勢でやると楽しいぞ!」
そっち? フラワーじゃなくて花札かい。はい、詰みましたー。花だけにねー。詰む・摘む、俺やっぱSUGEEEEEわ!
「残念だ。もう君は知ることすらできない」
ケンサクは叫ぶのをやめて普通の調子で言った。空爆は止んでいた。「王我」の巨体には何本もの線が入っていて、ところごころから蒸気を発していた。
「あれで人類より頭脳明晰とはね。不愉快だな」
ケンサクはいっさいの動きを止めた「王我」に向かって歩きだした。よくわかんねえけど、岩礁を切ったものを使ったのか? 俺にはチンプンカンプンだった。それより土煙がすげえな。ケンサクも「王我」の姿も見えなくなってきたぜ。
§4
凄まじい土煙が消えるまで随分と時間がかかった。俺はその間に「王我」を含め、オーガ軍が全滅したことを直感していた。それは現実となった。だが、城壁外に広がる夥しい数のオーガの死体には吐き気を覚えた。魔族とはいえ、オーガは俺たち人間に近い種族だ。ケンサクが顔を突き出して目を見開いた。おい、嘘だろ? 「王我」は首から下を失ってなお生きていた。ニタニタとこっちを見て笑ってやがる。笑いたいのはこっちだぜ。からかってやろうと考えをめぐらしているうち、タイピンがないことに気付いた。嘘だろ? どこに落とした? まっじかよ! まじで?
――小僧、おまえが探しているのはこれか?
「王我」はタイピンを乗せた真っ赤な舌を揺らした。ふっざけんな!
「ヒナタ、『王我』のハッタリかもしれない。用心したほうがいい」
そうだな。仮に本物だとしてもあいつが絶命したあと取り出せばいい。きたねえけどな。ん?なんだこの腐臭は。ちっきしょう! あの「王我」、瘴気を出してやがる。ただでは死なないってことか! ざけやがって! 俺は「王我」めがけて走った。くっせえ唾液まみれのタイピンを取ると、「王我」に侮蔑の目線を送ってやった。よかった。よかっ……た。取り、戻せ、た。体の力が抜けていく。くそったれ、「王我」!
「ヒナタ……。なぜシールドとかいう魔法を使わなかった?」
は? そんなこと考えてるヒマなかったんだよ! こいつはそんなこともわかんねえのか。オッサンのくせによ。
「必死、だった、んだよ!」
「そうか」
ケンサクは転がっている俺を仰向けにすると、腰を下ろし暗くてジメッとした視線を向けた。まだ死んでねえよ。でも、今回はマジで死ぬ。俺はアホだからな。意識がしっかりあるうちに最善手を打たねえと。俺はケンサクにタイピンを差し出した。
「不愉快だな。『王我』の唾液タイピンなどいらない。君が冥土に持って行きたまえ」
ふざけた野郎だ。とにかく受け取れケンサク。俺も元カノなんかにこだわってるのは意味不明だが、これがいまの俺のすべてだ。生きた証だ。受け取れ、クソジジイ! 俺は力の抜けた腕を地面に下ろしタイピンを手放した。
「……冥土に持って行きたまえ。君の大切なものだろ?」
いいんだ。これが俺の最善手。こいつに託すことが最善手。ケンサクは黙って頷くとタイピンを手に取って朱色の空にかざした。そうだ、それでいい。
「見たまえ。緑から赤に色が変わったぞ。正真正銘のアレキサンドライトだ。本当にいいのかい?」
俺はコクリと首を下げた。こいつ、実はいいやつなんだな。いまのは周囲の炎で赤く見えただけだ。わからねえとでも思ったか。そっか、本当にまがい物だったんだな。フツーに考えてそうか。ルナが途方もない金を払えるわけねえんだよ。ま、いいぜ。俺は最善手を打った。ケンサクはタイピンを着けると俺の手を強く握った。なにしやがる。感覚ないのにいてえよ。つーか、喪服に緑のタイピンは笑えるぜ。こりゃいい冥土の土産だ。あーあ、死にたくねえな。死にたくねえ。本当は死にたくねえ! っておい。だからそんなに強く……。ん? この掌のぬくもりはなんだ? そうか、そりゃ気の毒だな。
「そう、僕も遠くない将来に死ぬ。そういう運命だ。だから死を恐れるな」
そんな仏頂面で言われてもなあ。俺は腹と喉に力を込めた。
「ケンサク! 男が笑ってもいいんだよ! 俺はこれから死ぬんだ! 笑顔で見送ってくれ!」
ケンサクは俺の手を握り続けていた。こいつに握られている手だけ感触が、温かみを感じる。なんでだ? わけわかんねえけど、俺を泣かせないでくれ。笑って死にたい。
「僕はずっとここにいる。安心したまえ」
ケンサクは優しい目をして微笑んだ。やればできるじゃねえかよ! なかなか眩しいぜ。てめえが次にどの世界に行き、誰と会うのか俺は知らねえ。でも、絶対にその笑顔を忘れんなよ、ケンサク。いいやつなんだから損するぜ。俺は走馬灯をなかば心待ちにしながら空をずっと見上げ続けた。
§5
この村に普通の人間はいない。村民は転生前に何らかの偉業を成し遂げた人たちだ。たとえば、隣人のコウメイさん。おそらく、蜀の軍師だった人だろう。彼の真向かいにはユリウスさんが住んでいる。たぶん古代ローマの政治家だろう。
私は何の偉業も成さず38歳で過労死した元会社員だ。5年間、不眠不休で働いたことが評価されたのだろうか。いまは文字通り晴耕雨読の生活で気楽に暮らしている。
村民の多くは転生してから竜王討伐を果たした勇者ばかり。でも、おっかない人はおらず、優しい人たちばかりだ。こうして布団に転がって本が読めるのも彼らが竜王を倒した平和の上に成り立っている。幸福感を抱きしめながら読書していたら家のドアを叩く音がした。
私は、どうぞと声を張り上げた。名は知らないが大柄な男が入室してきた。
「おまえ、カナタだな。村長が呼んでいる。いますぐこい」
私は部屋着のまま村長のもとへ行った。村長はスーツ姿で身綺麗にしていたが、禿げ頭だった。頭の角度を変えるたび光の反射が変わるので私は口元が緩むのを抑えるのに必死だった。
「カナタ、いますぐ竜王討伐に向かえ」
ん? 聞き間違えかな。私は黙っていた。
「知ってのとおり、この村は類を見ない高齢化が進んでいる。何の才も持たぬおまえを行かせるのは心苦しいが理解してくれ。この村で最年少はおまえなんだ」
最悪だ。他に強い人いるだろ! 言葉を発する代わりに舌打ちしてしまった。と同時に背後に誰かいるのがわかった。
「仕方ありませんね。ところで私の後ろにいる御仁は?」
村長は首をもたげて頭を光らせると、
「ケンサク、出てこい」
と言った。
私の横に黒服の男が並んだ。ちらと目をやると黒髪短髪、黒いネクタイに礼服。横顔は凛としていて男前だと思われる。しかし何で礼服、いや喪服なんだよ! タイピンが緑なのもおかしい!
「カナタ、おまえを勇者総代に任ずる。秘匿大勇者のケンサクとともに竜王を討伐せよ」
「はあ……。しかし、秘匿大勇者なら一人で十分なのでは?」
村長は髪のない頭を掻いた。
「おまえが同行する理由はそのうちわかる。竜王が何度も復活することは知ってるな? 今回現れた竜王は最恐で最強のようなのだ。とにかく頼む!」
若干ふざけた言い回しが気に食わなかったが私は了承してケンサクとともに村長の家を辞去した。村人の喝采を浴びながら村門をくぐった。数歩先を歩いていたケンサクが振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
こいつ何様だよ! 強情そうだったので帰宅して髭を剃り、喪服に着替えてすぐ戻った。
「随分いいじゃないか。じゃあ、行こうか」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。なんだよ、性格悪いキャラじゃないんかい!
§6
ケンサクは道々、転生して日が浅い私に世界の説明をしてくれた。町は王都を含めて4つ。ダンジョンはない。王都はスルーして竜王城に行くのが最短コースで歴代勇者もそうしてきたらしい。 竜王討伐じたいは楽勝らしいが、神出鬼没の竜宮城に行ってしまうと厄介なことになるようだ。
「ありがとう。ところでケンサクは何歳なの?」
「38歳だよ。僕ら勇者は不老なのにオッサンなのが不愉快だ」
おいおいおい。もろもろ最年少だから抜擢されたんだろ。見た目は変わらなくても体力や精神力は衰える。ムサシとコジローの決闘はいまなお毎日行われているが、老人の戯れにしか見えなかった。
ケンサクは石ころを蹴ってふて腐れていた。子供っぽいやつだが、同年齢なのは嬉しい。こいつは秘匿大勇者だし、私は従者みたいなものだろう。しかし、秘匿大勇者なんて伝説だと思っていた。世界を1億回破壊できる力を持つと聞いている。それ以外の情報は秘匿されている。マジでケンサクだけで十分だろ。私の存在意義なくね? ムカついたので舌打ちした。ん? もしかして後ろの雑木林に何かいるのか? 私は首をかしげた。
「カナタ、君の前世は盲目だったのかい?」
ケンサクが不可解だという目線を私に向ける。
「いや。なんで? 違うけど」
「君が使ったのは反響定位だよ。後ろのゴブリンに気づいたろ?」
舌打ちは癖だと弁明した。過労でイライラして舌打ちばかりしていたのだろう。3年目くらいから周囲を見なくても物事が把握できた。あれは反響定位だったのか! なるほどと合点し、舌打ちじゃなくても可能ではと閃いてバチンと指を鳴らした。 フィンガースナップでも大丈夫みたいだ。
「体長1メートルくらいのが、30。いや、50体はいるな。棍棒を持ってる」
「わかった。僕は詠唱に入る。攻撃合図は総代の君に任せる。いわばパーティリーダーだからね」
詠唱? この世界に魔法はないぞ! っておい! なんでスマートフォンなんか持ってんだよ!
「やあ、ノブさん。久しぶりだね」
フツーに電話するんかーい! オイオイオイッ! 雑木林からめっちゃ走ってくるぞ!
「うん。うん。それで頼むよ。……急急如律令!!」
最後だけ呪文みたいなこと言ってごまかしたな。「秘匿」ってスマホのことかよ。前世と連絡がとれる秘匿回線の「秘匿」? 異世界アニメのテンプレのようなゴブリンらが長い舌から涎を垂らして駆けてくる。終わりだ。せめて苦しませずに殺してくれ……。私は目を閉じた。
「カナタ、そろそろ近づいてきたかい?」
「すぐそこだよ! もう終わりだ!」
頭を抱えてしゃがんだとたんにゴブリンの足音が消えた。私は恐る恐る顔を上げた。ゴブリンらが痙攣しながら倒れている。
「ケンサク! 何したんだよ!」
私は恐怖と安堵と怒りが胸中で混在して彼に詰め寄った。
「あー、ノブさん? 助かったよ。父上にもよろしく。じゃ」
人の話聞いてねえなこいつ。私は溜め息をついた。
「いまのはノブユキ、僕の兄の仕業さ。鋼鉄の矢を1万本ほど所望したんだが、毒でも使ったのかな。僕にもわからない」
え? そんなのアリ?
「どうせ知れることだから、いまのうちに君に伝えておこう」
ケンサクによると彼の能力は前世に存在していた森羅万象に干渉し、召喚・使役できるものだという。父は大財界人で不仲だったが和解。まだ気まずくて兄を通じて連絡をとっているそうだ。
「前世の森羅万象? イージス艦も召喚できるの?」
「僕の時代にはなかったがね。召喚可能だよ。しかし不快だな。早くここを去ろう」
ケンサクはスマホを耳に当てた。しばらくすると陸上自衛隊の高機動車が顕現した。彼はハンドルを握ると私に乗るよう手招きした。窓に頬杖をつきながら私は思った。最初からこれに乗れよ!
§7
ひたすら退屈な湿原を抜けて2日が経過した。ようやく町が見えてきた。ケンサクは「不愉快」とか「不快」などとネガティブな言葉を連発していた。
「いったい何がそんなに不快なの?」
ケンサクはキッと鋭く私を睨んだ。
「わからないかい? さっきから寒いんだ」
たしかに寒い。町への距離が縮まるたび寒くなっている気がする。
「君の懐は寒くないかネ?」
失礼なやつだ。とくべつ困っていない。
「ケンサク、なんか街並みがおかしくないか?」
門の正面からでも町が凍っているのがわかった。この先に続くツルツルの道を高機動車が滑らないという保障はない。
「おもしろくないな」
意外にも車両は滑らなかった。ケンサクは不満そうに口を尖らせていた。街並みはゲームやアニメでよく見る中世ヨーロッパ風。往来に人はいない。ケンサクは車を停車させて言った。
「町が静かだ。反響定位で何かわからないかい?」
私は目を閉じ、何度か舌打ちした。遠くて正確なことはわからないが、町はずれの湖が波打っている。ケンサクにそのことを伝えると、地図を持って一人で湖に向かうと言う。
「ノブさんに三ツ星ホテルを用意させるから、君は休んでいたまえ」
文句を言っても仕方ないからスイートルームでくつろいだ。コラコラ! 私は何をやっているんだ。起立してフロントに架電した。
『はい、フロントでございます』
「町の人たちは無事ですか?」
『おそらく凍ってらっしゃるかと……』
私は礼を言って受話器を置いた。あれっ? どうも体が臭う。入浴して身を清めた。バスローブに身を包みベッドに腰かけていると爆発音がした。ホテルも揺れている。私は喪服を着て湖へ急いだ。巨大なウナギが砕けた氷に挟まって身動きできなくなっていた。湖を凍らせたのか。
「ケンサク! なんだこのデカいウナギは!?」
「ゆっくりしてればいいのに。さっき氷竜と名乗ってたな」
「じゃあ、こいつが竜王なのか?」
ケンサクはかぶりを振って竜王はこんなにザコじゃないと氷竜を挑発するような仕草をした。
――おのれ人間! 許さん!
おいおい、怒らしてるじゃないか。なんとなく凍てつくブレスを吐いてくる気がする。ケンサクにブレスに注意するよう訴えた。
「たしかにブレスは危険だ。君もくれぐれも注意したまえ」
は? 注意に注意で返してきたか。私は腕組みしてプンスカしていた。
「ノブさん、座標どおりに」
ケンサクが湖に背を向けて走ってきた。
「急げ! 逃げるぞ!」
そう言うとケンサクは私の手をギュッと握った。えっ? まさかそういう展開?
オッサンでもこういうのアリなのね!
「ケンサクぅ! ちょっ! まっ……」
――ぐああああ。人間め! ぐあああああッ!!
湖は炎の海になっていた。私はモジモジしながらケンサクを見た。
「航空支援を要請しただけなんだけどな」
彼は頭を掻いた。氷竜の断末魔とともに町の氷が溶けていく。
「町民が氷解して出てこないうちに立ち去ろう。話しかけられては面倒だ」
高機動車で町を後にした。……人とのふれあい皆無!
「次は山登りだが、今日は厳しそうだな」
ハンドルのうえに顎を乗せたケンサクが退屈そうに言った。私は彼に停車を求め、指を鳴らした。草花が揺れてるだけで問題なさそうだった。また三ツ星ホテルが現われた。平原に豪華絢爛なホテルがぽつり。私は溜め息をついた。
「カナタ、不愉快なら不愉快だと言ってくれよ?」
「不愉快じゃないよ。おもしろくない」
ケンサクは肩を大きく揺らして笑い出した。変なこと言ったかな?
「僕もおもしろくない」
ケンサクは私の顎に触れ、持ち上げた。ま、まさかの顎クイ!? オッサン同士でもアリかもしれない。私は生唾を飲み込んでケンサクの目を見つめた。彼は私を見つめ返すと、
「君は髭が伸びるのが早いようだ。早く剃りたまえ。不愉快だ」
と言い残してホテルへ入っていった。私は地面に尻をついて呼吸を整えていた。あぶねえ! 新たな扉が開くところだった。遠くに見える湖はまだ燃えていた。
§8
ケンサクは前世の記憶から登山が苦手らしく登山口でひねくれていた。たまりかねて私は激励した。
「この山を越えれば次の町だろ? 頑張ろうぜ」
「山道も見えない霧の中を君は行けというのか!」
ケンサクが警戒するのもわかる。さっきまで晴れていたのに登山口に立った瞬間から霧が出て数歩先しか見えない。こういう現象はよくある気もするが、私は低級登山で遭難したことがあるので明日でもいいと思った。
「ケンサク、明日にしよう」
「それがいい。ここにはメデューサ狼がいるからネ」
は? メデューサ狼とは何ぞ? 登山口から平地へ下る道中でずっとそれについて考えていた。
「気になるかネ?」
察しのいいやつだ。
「メデューサと狼が合体してるんだ」
そのまんまかい! ネーミングセンスも悪いし。
「やつの気配を感じて君に怒鳴ったというわけだ。すまない」
ウソつけ! 濃霧の山が恐かっただけだろ。素直じゃないなあ。私も恐かったので二人して山からだいぶ離れた平地まで来てしまった。
――ワン! ワンワン!
「メデューサ狼が鳴いているようだな。危なかったよ」
ウソも大概にしろよ、このオッサン! 野犬かなんかだろ。ケンサクは仕方ないと溜め息をつくと、
「術式展開、4、5、6番を解放」
とほざきはじめた。さすがに私も慣れた。どんなことが起ころうと驚きはしないだろう。氷竜を倒す際にBLルートへ入りかけたときは焦ったが。ケンサクはスマホを耳に当てた。
なにが術式展開だ。ここは魔法とか妖術とかない剣と竜のピュアなファンタジー世界なんだよ! ……たぶんね。
「ノブさん、発射管の用意ができたら随意発射してくれ」
発射管? 魚雷でも撃つのか? ケンサクはしゃがんで何やらブツブツ言いだした。
「呪道の44 ゼログラビティ!」
何を言ってんだこの人。 えッ! 山がなくね? 山がなくなってる!! ケンサクを見ると彼もあんぐりと口を開けていた。
「失敬。どうやら西暦でいうところの1万4千年ぐらいの兵器らしい」
この人、一般的な異世界ファンタジーの魔王ですよ、魔王! パワーバランス滅茶苦茶じゃん。竜王が心配になるわ!
「ゼログラビティってことは宇宙空間にすっ飛ばしたってこと?」
「すまない。僕にはさっぱりだ。それより先を急ごう」
そう言うとケンサクは歩きだした。いや、その、自動車に乗らないの? ケンサクが生きていた時代は徒歩が当たり前だったのだろうか。私たちは7時間かけて町に到着した。ケンサクは肩で息をしていた。自業自得だ。
「こんなことなら車夫を呼べばよかったな」
おせーよ。人力車のことだろうか。町の門番に挨拶すると突風が私たちを門壁に吹き飛ばした。私は近くに倒れていた門番に声をかけた。
「これは怪物の仕業ですか?」
「し、漆黒竜……の」
門番は息を引き取ったかに見えたが、脈はあったので安心した。
「カナタ、空を見たまえ。トカゲが空を飛んでるぞ」
これまた中世ヨーロッパ風の家々の上空をトカゲが、正確には翼の生えた黒いトカゲが悠々と舞っていた。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。もうこの人、魔王じゃん!
§9
凄まじい暴風が吹き荒れていた。美しく整列している街路樹は切れたトカゲの尾のように激しく揺れている。ケンサクは不敵な笑みを浮かべていた。
「なにがそんなに楽しいのサ?」
「楽しいよ。前世の『存在しない記憶』に爬虫類を殺して愉悦に浸る僕がいる」
え。怖いんですけど、いろいろ。ケンサクはスマホを耳に当て、続けた。
「僕ら勇者が縄張りに侵入したことで怒ってるな」
「じゃあ、総代の僕が交渉してくるよ」
私は、危険だと忠告するケンサクを振り切って漆黒竜の真下へ駆けて行った。ケンサクばかりに頼ってはいられない。オッサンとはいえ私は勇者村の総代! 話し合いで平和裏に終わらせて見せる!
――人間よ、小さき者よ、我がパーソナルスペースを侵害したな?
はい? なんだか言葉に重みがないな。
「甘美なる懺悔、遮光の雷、万事聖戦、天上で伏す……」
ケンサクやめてくれ! まだ交渉すら始まってない!
「……急急如律令!!」
風がピタリと止んだ。木々の揺れが徐々に収まり往来の紙屑がカサッと転がった。私はケンサクに詰め寄った。
「平和的解決の余地はあっただろ! 総代の意見が聞けないのか!」
ケンサクの目には冷たい光が宿っていた。
「総代? 悪いが僕は秘匿大勇者なんだ。単独行動を許可されている」
不愉快だと告げるとケンサクは空を見上げた。
「ゼログラビティではないよ。飛び回るトカゲに撃っていては町を巻き込みかねないからね」
私は黙っていた。ケンサクは軽トラを顕現させて乗り込んだ。ツッコミを入れる気にもならず、私は助手席を避け荷台に乗った。町を出てしばらく走ると草原に漆黒竜が血を流して横たわっていた。翼と尾、四肢が見事に切断され、両目が潰れていた。
――人間よ、小さき者よ、
ケンサクが車外に出て遮った。
「だまれ! 貴様に日本人の悲しみがわかるか? あれは西暦4713年9月の台風11号……」
私はツッコミ衝動を抑えて黙していた。
「富士山頂に建立されたセイントタワーを粉微塵にしたんだ!」
なかなか興味深い。だが、前世の未来に私はいないのだからどうしようもない。その台風11号を漆黒竜にぶつけたのか。
「そこで朽ち果てろ、トカゲ!」
ケンサクはトカゲに恨みでもあるのか、何度も雑言を吐いて運転席に戻った。
――tjrておhgbん;あklがこおあkg:45t0うくぁ:亜fヴぁ:」gk;
漆黒竜はおぞましい呪言を発して私たちを嘲笑った。不愉快だと言わんばかりにケンサクはスピードを上げた。オッサンがいつまでも仲違いしているのはみっともない。次は最後の町のはずだ。私はアオリに手をかけ、サイドミラーに映るケンサクに手を振った。無視かよ。しかも深刻そうな顔しやがって。ってアレ? なんで海の中を走ってるんだ? そうか。竜宮城に来てしまったんだな。海中を漫然と眺めていたら地上に戻っていた。目の前には「竜宮城」と表記された看板が立っていた。看板こそ古臭いが外観は私が知る歓楽街の造りだった。ケンサクはさっさと入店してしまった。何を考えてるんだ? よく考えろ! 見るからに接客を伴う飲食店! だめだ! 絶対にだめだ!
「おにいさーん! 友人さんが呼んでますよォー!」
私はセクシーなドレスを着た女性従業員に呼ばれ…………フツーに入店した! 何をしているんだ俺はー!! ケンサクはすでにボックス席で酒を飲みながら従業員と歓談していた。酒に弱いのか彼は上機嫌で隣に座るよう手招きした。私たちの相手をしてくれたのは特別美人ではないが、愛嬌のある女性らだった。ケンサクはグラス片手に、
「君たち、花は知ってるかネ?」
と笑った。
女性らは困惑した表情で首を横に振った。花? 花札のことか。知るわけないだろ! ケンサクは急に真剣な表情で隣の女性の肩に手をまわし、
「俺と一緒にどこかへ行く気はないか?」
と首元で舌なめずりした。女性はケンサクを突き飛ばした。きめえ。っつーか、アホだろ。
「オイ! そこは『連れてって下さい』だろ! 脚本どおりにやれよ!」
や、いやいや、ただの迷惑客じゃん。異変に気付いたのかボーイが走ってきて一礼した。
「お客様いかがなされましたか?」
「不愉快で仕方ないよ。花も知らない、脚本も知らない、こいつら素人だろ?」
いや、あなたが狂ってるだけです。ボーイは謝罪するとカードゲームが可能な準VIP席に案内すると言った。ケンサクは断ってVIPルームに案内するよう激昂した。ボーイは姿勢を正すと、
「かしこまりました。『竜王の間』は10年分の時間を頂戴しますがよろしいですか?」
とケンサクに冷たい視線を送った。ケンサクは満足そうな顔で頷くと気だるそうに仰け反った。ま、まさかこれが狙いだったのか! まったくイミフだったけど。すげえよ、ケンサク!
っておい! 寝てんじゃねーよ!
§10
ボーイはVIPルームこと「竜王の間」まで案内した。いたって普通、というか当たり前か。しかし、10年の代償はでかすぎる。不老とはいえ村長や村の住人、ひいては世界を待たすことになる。
「君、いつまでそこに立ってる気だい? トカゲ臭くて不愉快だ」
ボーイは一瞬、目を丸くしたが辞去した。ケンサクはポケットに手を突っ込みながら、
「僕らは運よく仲違いしている。僕が逃げろと言ったら逃げろ」
と語気を強めた。
「それは……」
ケンサクは私の発言を遮って続けた。
「僕らは知り合って日が浅い。どちらか生き残っても心の桎梏にはならないだろう」
「わかったよ」
ケンサクはドアの取っ手を掴んだ。瘴気がドア越しに漂っている。彼はスマホを取り出すと架電した。ええっ? これから行くぞって雰囲気だったろ!
「ノブさん、おそらく僕は竜王城に転送される。素早く位置を探ってほしい。あと……」
ケンサクは目を閉じて深呼吸した。
「あと、秘匿大術式を使う。父上の了承も得ておいてほしい。あと……」
どんだけ注文多いんだよ!
「これまでありがとう、兄さん」
とケンサクは天井を見上げた。私はあさっての方を見て目から水が出るのを防いだ。通話を終えるとケンサクは一気にドアを開き、その先に広がる禍々しい混沌に進んで行った。私も彼に続くと目の前には広大な砂漠が広がっていた。城ではないのか? ケンサクも無事に転移できたようで私と同様に困惑しているようだった。
――来たか、愚かな人間ども。我が名は、
ケンサクが竜王らしき声を遮った。何度目だよ! 人の発言を遮るな!
「バハムートだろ?」
――否! 我が名は秘匿大竜王、スーパーサブドラゴンなり!
だせえ! クソだせえ! 私が笑いをこらえていると太陽を背にして、走る光の先端を散らしながら赤い巨大な竜が着地した。私は目を見張った。2対の翼を有していた。軽く翼を動かすだけで暴風が吹き、目に砂が入る。
「カナタ逃げろ!」
私はケンサクのほうを向くと黙ったまま立ち尽くした。
「大丈夫だ。僕の知るかぎり149番目に危険な兵器だ。『ロンギヌスの槍』というやつだ」私は依然として立ったまま動かずにいた。
「逃げろ! 総代! 絶対に振り向くな!」
秘匿大竜王の口には炎が渦巻いていた。全滅は避けなければならない。そう、彼とはただの知人。わずかな時をともにしただけの秘匿大勇者。私は対峙する両者を背に駆け出した。地鳴りに足を取られ、暴風で転倒。とにかく必死に逃げた。時折、空がほのかに赤く染まった。竜の火炎かもしれない。それでも私は振り返ることなく走った。149番目に危険な兵器か。私を安心させるための嘘だろう。「ロンギヌスの槍」というのも使い古された感がある。ランナーズハイで心地よくなってきた。綺麗に晴れ渡った空には星が光っている。晴れているのに星が見えるのは珍しい。ん? 待て待て! 昼に星が見えるわけないだろ! 私は立ち止まってしまった。無数の星々が近づいてくる。いや、あれは星じゃない!! 眩しい光に私は目を覆った。耳を突き刺すような爆音がした。しばらくして、無重力で宙を飛んでいる感覚がした。
――勇者様! 勇者様!
誰かの声に目を覚ました。体に力が入らず目もよく見えない。人々の歓声が聞こえる。いったいここはどこなんだ? 徐々に開けていく視界に私を眼前で熟視していた兵士が破顔した。周囲に目をやると、ひどく荒廃した城のようだった。ケンサクの姿は見えなかった。
「勇者様、ありがとうございます!」
兵士は私の手を強く握った。
「竜王城もこの有り様ですよ! 本当にありがとうございます!」
私が目を覚ましたことに気付いたのか周囲の兵士らも参集した。10年も経ったのにこの人たちは私を覚えているのか?
「みんなは私のことを覚えているの?」
兵士らは一堂に頷いた。そうか……。それはよかった。
§11
10年を浪費し、勇者村のみなに合わせる顔がない私は王都の秘匿近衛師団長になった。私にまったく剣の心得がないから秘匿したいということなのか。わからない。この世界の創造主は「秘匿」が好きらしい。階級的には大将と同格だそうだ。爵位は固辞した。師団といっても秘匿されているだけあってわずか100人の小さな部隊。有事の際の兵力は100万人とされているが、大嘘もいいところだ。もはや秘匿できないじゃん。竜王の復活は不定期だが、秘匿大竜王を倒したから少なくとも50年から100年は安泰なのではないかと思っている。ケンサクは戦死とされ国葬が執り行われた。元帥格のドラゴンスレイヤーの称号と公爵位を授与され、国王自ら弔辞を読んだ。最後の戦いから約1年経ったが、訓練場で部下らはいまだに竜王との戦話を聞きたがる。ほーら、またワラワラと寄ってきた。もうネタ切れでうんざりしている。みるみるうちに目に好奇心を宿した若い兵士らに囲まれてしまった。何を話そうか迷っていたら突風が吹いた。訓練場を囲む王城森林の枝が激しくぶつかった。私は揺れる緑をずっと見つめていた。
――なんかヤバい!
私は総員に警戒態勢を命じ、舌打ちした。森林のなかを誰かが歩いてくる。体格は男性。ん? 軍人なのか? 挙手敬礼をしている。つまり、向こうも軍人でこちらを友軍だと把握しているが、互いに見えないから敬礼しているということか。私は総員に敬礼を命じた。なかなか壮観だ。再び舌打ちして相手の位置を確認する。もうすぐ森林から出てくるな。ん? ん? 敬礼ではないぞ! 耳に物を当てている!! 男が姿を現した。喪服を着用していた。黒ネクタイに緑のタイピン……。
「総員、なおれ! こいつに敬礼はいらない!」
ちょ、ちょ待てよ! 部下らはなぜ兜を脱いで頭を下げてるんだ?
「不愉快だな。とくに指揮官。君はどうして最敬礼しないのかな?」
男の、いやケンサクの瞳は潤んでいた。私は崩れ落ちて涙した。人前で落涙するとは情けない。
「やればできるじゃないか指揮官。僕は陛下に拝謁する。君も同行したまえ」
ケンサクは泣き声だった。情けないやつだ。私は涙を拭くと先を歩くケンサクに続いた。しばらくしてケンサクは振り返った。
「不愉快だ」
「は?」
「君のことだよ。顔といい服装といい不愉快だ」
相変わらず何様だよ! このくだりはもうやっただろ!
「随分いいじゃないか。男の醜い嫉妬だよ、カナタ」
爽風が吹き抜け、木々の葉がカサカサ鳴った。ケンサクは優しい目をして微笑んだ。私は素直に微笑み返した。
§12
王立学園第3高校の卒業式を取材している。生徒は退屈そうに俯いていたが、校長やPTA会長の話は本心だと思った。四十路になって概ね世の摂理がわかってきた。卒業証書授与が始まる。僕は急いで壇上に上がった。テレビカメラマンたちが鬱陶しい。総じてテレビカメラマンは大柄な男性と相場が決まっている。記者歴が長くなり、神経が図太くなった。大柄な男性に体当たりしてでも写真は絶対に撮る。卒業生代表が登壇すると同時に、僕は素早く校長の右斜め後ろに回った。よかった、テレビカメラは左に行った。僕も映ってしまうけれど、報道陣が映り込んでしまうことなんて日常茶飯事なので気にしない。校長のおめでとうの一言からシャッターを連写で切る。生徒の顔が写らないよう賞状を受け取って頭を下げている瞬間の写真が欲しい。となると早くから連写しておいたほうがいい。
写真の出来は上々だった。代表生徒が降壇した。予定稿は用意してあるから、そこに校長、PTA会長、卒業生答辞の一言を入れるだけ。これで今日の仕事は終わりだ。エルガーの『威風堂々』が流れるなか、卒業生らが退場していく。この学校は退場でエルガーを使うのかと少し不思議な感じがした。保護者がスマホやハンディカメラで我が子を撮影しているのがみっともない。まばらな拍手で卒業生たちが可哀そうだ。主役は卒業生なのに。日本と全然変わらない。この世界の神は何を考えているのだろう。記事を出稿したら会いに行ってみようかな。取材と称して。
出稿を済ませると神に面会するため神殿へ向かった。まるで役場のような造形に唖然としてしまった。自動ドアを抜けると壁に案内板があった。神の執務室は2階らしい。6階に喫煙室があるのがありがたい。一服してから神に面会することにした。二つ目の自動ドアを開けると様々な窓口があって本当に役場のようだった。が、人はいない。エレベーターのボタンを押し、4階から下がって来ることを示す電子パネルを凝視した。
《ドアが開きます。ご注意ください》
こんな細部まで日本に寄せているのかと閉口した。ドアが開くと、綺麗な白髪に瘦身のいかにも紳士という老人が出てきた。老人は軽く会釈して去っていった。エレベーターに乗り、6階のボタンを押す。監視カメラがないか警戒しながら唇を触っているうち6階に着いた。目の前に喫煙所があった。というより、灰皿が置かれたテーブルがいくつも配置されていて、このフロア全体が喫煙室のようだった。誰もいないので、すぐそこのテーブルに煙草とライターを置いた。潔癖症ではないけれど、椅子を手でサッと確認してから着席した。
煙草に火をつけて紫煙の行方をぼんやり眺めた。静かで心地よくて天国のようだ。うつらうつらとしていたら、灰皿に手をぶつけてしまった。テーブルに少し灰が飛び散った。灰皿も昔の会社の応接室にあるようなもので、どこまでもこの世界は日本を模倣しているのだなと残念に思った。どこまでも残念なこの世界。壊れてしまえばいいのにと僕は願った。
§13
願ったところで何も起こらない。当たり前だ。前世を悔やむことはないけれど、妹のルナがどうしているのか気になる。彼氏にアレキサンドライトをプレゼントしたいと頑張って働いていたから、僕もできることなら支援してあげたかった。ヒナタ君だったと思うけれど、口が悪くて第一印象は最悪だった。ルナが彼のことを話しているときは常に目が輝いていた。幸せなんだな、いい人なんだなとわかって、僕は余計な介入はしなかった。ルナはアレキサンドライトをネクタイピンに加工したいと言っていた。どだい無理なことはわかっていたけど止めたりはしなかった。僕は宝石に詳しくない。ヒスイより高額なのは確かだろう。いずれにせよ、二人が幸せであってほしい。
灰がテーブルに落ちた。いつまで僕は煙草を吸っているのだろうか。灰皿のなかには8本の吸い殻が転がっている。
《ドアが開きます。ご注意ください》
誰か来たようなので僕は9本目の煙草を揉み消した。姿を見せたのはさきほど1階ですれ違った老人だった。ほかのテーブルに行けばいいのに、彼はわざわざ僕の向かいの椅子に腰かけた。
「あまりに綺麗な方だったので追いかけて来てしまいました」
ちょっと変な人かもしれないけど、そういう人への対応は慣れている。
「よく言われるんですよぉ。ミスSLASHにエントリーしようかなぁ」
作り笑顔が得意なのは芸能人だけじゃない。マスコミだって得意だ。入社時の研修で社会部長から笑顔で話しかけるよう指導された。
「もしかして、報道関係の方ですか?」
今日はパンプスにグレーのスラックス、淡いブルーのブラウスに濃紺のジャケット、いかにもマスコミという出で立ちだから仕方ないかもしれない。僕は、そうですと笑顔を見せてこめかみを押さえた。1年のうち280日くらい頭が痛いので慣れているけど、いま感じている痛みはいつもより強い気がする。僕は不機嫌だということを示すためにわざと視線を落とした。
「あ、すみません。大勇者様にお会いするとは思わなかったもので。あっしはこの世界の勇者、ギンジでがんす」
あっし? 勇者? で、僕のことを知っている!? しばらく牽制して様子を見よう。
「この世界の勇者様ですか? 僕は新聞記者のミオリといいます」
「かの勇者村から来られた大勇者のミオリ様ですね! 存じているでがんす。しかも40歳! お若い!」
やかましいわ!!
最近、中二病こじらせて「僕っ娘」やってたけど面倒になったわ! 全然若くねえんだよ! 友達のA子、B子、C子、D子、みんな既婚で子持ちだわい! 女性ホルモン減って男性ホルモン優位になっとんじゃい! これ以上イライラさせんな!
「それでギンジさんは私に何のご用ですか?」
「伝えに来ただけでがんす。あと15分もすれば恐怖の大王が空から降臨するでがんす」
「そうなんですね」
荒唐無稽な話だけど、本当だとしたら願ったり叶ったりだ。私は嬉々として煙草を吸うと鼻から煙を噴射した。もう世界が終わるんだから女らしく振る舞う必要なんてない。そもそも私は風呂キャンセル界隈だし、世界が終わるなら入浴しなくていいから大歓迎! 頭痛は治まっていた。私は鼓動の高まりを感じながら世界の終焉を待った。
§14
世界の崩壊……。ということは、ABCD子もその家庭も消滅。あいつらが家庭の事情で断るからランチや飲みにも行けず私はやさぐれたんだよ! さーて、もう1本吸おうかな。ちょっと待って。もう15分くらい過ぎてない?
「あのう、ギンジさん。15分経ってません?」
「大王様は恒星移動戦艦に乗っておられるでがんす。全長1200㎞の大型艦ですから遅れてるでがんすよ」
ま、そういうこともあるか。死ぬ時くらい綺麗にしましょうか。唇がガサガサになるけど、リップティント塗りましょうかね。あと目尻をしっかりしておきたいからアイライナーを。
……どっちもないわ。なんだかんだで5分くらい経った気がする。まさか来ないってことないでしょうね。なんか外が騒がしいし、サイレン鳴ってる?
「いよいよでがんすな。我々の秘密結社『ワシの爪団』の悲願が成就するでがんす」
なーんだ。この人、裏切り者? ま、いいや。どうせ世界は終わるんだし。すごいサイレン音だな。聞いたこともない怖い音。
《あ、あ、マイクテスト、マイクテスト……》
なんなの? こんなときに! ギンジさんは恍惚として涙を流していた。
《未確認飛行物体の残骸が上空から降ってきます。王都のみなさんは屋内に避難してください。繰り返します……》
「ギンジさ、ん」
エッ? いない? 逃げた? めちゃくちゃ逃げ足速いな。老人とはいえさすが勇者。じゃなくて裏切りの勇者。突然、地鳴りがした。フロアが大きく揺れた。あーあ。世界が終わるどころか地獄の始まりですわ。報道合戦という地獄。もうサイアク。仕事だからとにかくやらなきゃ。すごく大きな物が落ちてる気がする。現場に行って写真だけでも撮らないと。一眼レフカメラは支局に置いてきちゃったし、スマホのカメラでもいいから、とにかく現場を押さえないと。私は急いでエレベーターに乗り1階へ降りた。ドアが開くと、黒髪短髪のイケメン、イケオジ? が立っていた。なぜに喪服? てゆーか、そのタイピン……。
「すみません。その緑のタイピンってどうされたんですか?」
「不愉快だな。目のつけ所はいいが、まずは自己紹介するのが礼儀ではないかね?」
しまった。ここに出入りしているってことは神殿の人かな。私は一礼して謝罪した。
「私はミオリといいます。そのタイピン素敵ですね」
「アレキサンドライトだからね。ほしいならあげるが、どうするね?」
ここは異世界。ルナとは関係ない。私は首を振った。
「失敬。僕はケンサクだ。君の報告は逐次届いていた。恐怖の大王を倒すのに役立ったよ」
んー。どういうこと? この人が恒星移動戦艦を落としたってこと?
「君はうちの村の大勇者だろ? ここの神に報告してくるからロビーで待っていたまえ」
ケンサクさんは軽く手を振ってエレベーターに乗った。同じ勇者村の人か。同郷といっていいのかわからないけど、少しホッとしている。私はロビーチェアに腰を下ろしケンサクさんを待った。
§15
10分ほどしてケンサクさんはロビーに足音を響かせた。彼は着席すると、
「この世界における君の武力介入が許可された。あくまで一時的な措置だが」
と言いながらスマホをいじっていた。
「そうなんですか」
大勇者は志願制で赴任地は選べない。日常生活を送りながら密偵として勇者村に情報を定期的に送信する義務がある。そのほかは自由だ。ただし、赴任世界の事象に武力介入することは許されていない。
「要は秘匿大勇者の僕と同格というわけだな。なにか質問はあるかネ?」
いやいや、あるに決まってるじゃん。秘匿大勇者!? 伝説だと思ってたけど本当にいるんだ。
「武力介入の執行対象は?」
「ワシの爪団だ。恐怖の大王崇拝者たちだ。まあ、大王の恒星移動戦艦は僕が落としたがネ」
よくわかんないけどすごい人だな。
「君の定期報告を受けているうち村長が議会で君の武力介入権と僕の派遣を専決処分した。この世界の神からの要請だし、緊急案件だからね。議会の採決を待つわけにはいかない」
困ったな。あんまり戦闘はしたくないんだけどな。ケンサクさんはずっとスマホをいじっていた。てゆうか、なんでこの人、喪服なんだろう。あんまり凝視しないようにしてるけど、誰も訊かないのかな。
「喪服のことかい? 生まれた子供がすぐに死んでしまってね。喪に服している間に勇者村にいたんだ。だから転生ではなくて厳密には異世界転移だな」
私は黙礼したまま二の句が継げなかった。すごくお気の毒だけど、人の心を読む能力の持ち主なのかな。なんだかすべて見透かされてる気がする。
「君の能力は村長から聞いている。僕がいなくても十分なくらいだ。好きにするといい。僕は裏方に徹する」
え。私が裏方でいいんですけど。私の能力は発動条件が特殊だからなー。
「あと、僕は38歳で君は40歳のようだが、同格とはいえ上官は僕だから口調に関しては目を瞑ってくれたまえ」
「……はい」
その情報いらねえわ! 年下かよ! ま、40にもなると年下とか年上とか言ってられないんだよなあ。恋愛なんて諦めてるからいいんだけどさ。
「では行こうか。やつらのアジトを一網打尽だ」
え。いまから? もう夕方なんですけど。ケンサクさんは立ち上がった。
「夕方から夜分に悪党は動く。そう思わんかネ?」
本当に人の心が読めるのかな。ちょっと怖いわ。私はスマホで誰かと電話しながら建物を出ていくケンサクさんに付いて行った。
§16
ケンサクさんはアジトの場所を知っているようだった。道々、彼は多くのことを話してくれた。友人が竜王討伐の功で王都の秘匿近衛師団長になったはいいが任期が長くて勇者村に戻れていないこと、ヒナタ君がこことは違う異世界で勇者だったこと、そして彼が息を引き取る直前にルナのタイピンを託されたこと。すべてを話してくれた。私は泣きたくなる気持ちを抑えて聞いていた。ケンサクさんは懐から緑のタイピンを取り出すと、
「これは君がもっているべきものだ」
と真剣な表情で言った。私は受け取りたい衝動をぐっとこらえた。
「それはヒナタ君がケンサクさんに託したものです。受け取れません」
ケンサクさんは前を向いたまま頷くと、ここがアジトだと指さした。ここって接待を伴う飲食店だよね? 怖いおにいさんとか絶対いるよぅ。
「では、お手並み拝見といこうか。僕は外で待機している」
店舗は金色を基調にシックなベージュが配分された大きな建物だった。入口の右手に若いイケメンの写真が並んでいる。ここってもしかして……。入口うえの大きな看板に思わず後退りした。「大往生」との文字がデカデカ横に並んでいる。大往生と大王城をかけた? ちょっと意味がわかりませんけど。突然、地面が揺れ出した。私はその場から離れて電信柱にしがみついた。え、えっ? なんで店舗が崩れてるの? 背後から足音がしたので振り向いた。ケンサクさんだった。
「裏方に徹するつもりだったが、すまない。前世の西暦でいうところの3429年に開発されたステルス戦闘機らしい。偵察でいいとノブさんに言ったんだが、本気でやってしまったようだね」
「ノブさん?」
「ノブユキ。僕の兄だ。スマホで前世と連絡できる」
はい? 秘匿大勇者の特権なのだろうか。崩れた建物から二人が這い出てきた。一人はギンジさんだった。もう一人はスキンヘッドの大男だった。ギンジさんは飛ぶように駆けて逃げていった。
「あ、ノブさん? 白髪の老人の両足を切っといてくれ。あと、コルトガバメントを頼むよ」
えええっ! ケンサクさん怖いんですけど。ケンサクさんは這い出た大男を蹴り倒した。そしてどこから出てきたのかわからない拳銃を男に向けた。男は地面に何度も頭を叩きつけて命乞いした。バーンと重い音が一回鳴った。
「外した。僕は拳銃を使ったことがなくてね。これしか知らないが、いかんせん大口径すぎる。君がこの男を始末してくれ」
大男の頭部には「京都の大王」とのタトゥーがあった。京都の大王じゃなくて恐怖の大王じゃろがい! 誤字脱字は新聞記者として致命的なミス! 会社の信頼を損ねる!
「おねえさん、すいません! 許してください!」
「は? 訂正記事を書いて、そのうえ始末書を書かされるこっちの身にもなってみろよ!」
つーか、なにが「おねえさん」だ。ふざけんな。私はスマホのカメラを起動し、シャッターボタンを押した。男は細切れの肉塊になって血の海を流した。
「それが君の『強制圧縮』って能力か。すごいな。ファインダー越しに見える対象物を任意に圧縮できるんだろ? それなら大王の恒 星移動戦艦もペシャンコじゃないか。僕の出る幕なんてやっぱりなかったな」
ケンサクさんは満足した様子で歩き出した。ギンジさんのもとに行くつもりだろう。前方から誰かが走って来る音が聞こえた。とても速い足音。ケンサクさんはスマホを耳に当てた。私はどんどん近づく足音の恐怖に身を震わせた。
§17
速い足音の主はすぐに姿を現した。ギンジさんだった。私が手を口に当てて驚いているうちにギンジさんがどんどん増えていく。ギンジさんたちは不敵な笑みを浮かべていた。
「これはこれは。ミオリ様と秘匿大勇者のケンサク様。あっしの足の修復と影分身に驚いてるでがんすね?」
ケンサクさんは一歩進み出た。
「不愉快だな。まずは名乗りたまえ。もうその必要はないがね」
空から青白い光で照射されたギンジさんだけが真っ二つに裂けて倒れた。ほかのギンジさんたちは消えていた。もしかして、さっきのステルス戦闘機? でもすぐに体が修復するんじゃない?
「こいつはこのままの姿で生き続けることになる。原理はわからない。ノブさんめ、自動操縦にして寝てるな」
ケンサクさんは拳銃で裂けたギンジさんを撃ったが外した。ギンジさんの半身はそれぞれ逃げようとしていた。
「あっしがダメでもキンジの兄貴がいるでがんす。兄貴、おもさげねえ」
再び青白い光に照らされた両半身はともに細切れになった。ケンサクさんは人の心がないのかな。
「僕には快・不快、愉快・不愉快しか感情がない。単細胞生物なんだ。そうプログラミングされている」
ケンサクさんはアンドロイドなの? でも、そうだという可能性も考慮して柔軟に対応しないと記者はやっていけない。
「おい! てめえら! よくもギンジをやってくれたな!」
後ろを振り向くと金髪リーゼントで特攻服を着た古き良き(?)時代を思わせる若者が立っていた。たぶんキンジって人だと思うけど、そこにいたら危ないよ?
「おい! そこのマブいねえちゃんよお!」
私はスマホを彼に向けるとカメラのシャッターボタンを連打した。
「は? あんた舐めてんの? 私のどこがねえちゃんなんだよ!」
「おい君、人の心はあるのかね? 若者が紙切れになってるぞ」
私は我に返った。ケンサクさんは私のスマホのカメラレンズを指で覆っていた。金色が混じった紙切れが隘路を吹き抜けるビル風に舞っていた。しまった。やりすぎた。まさかアンドロイドに制止されるとは。
「どろろが熱源反応を感知した。王都の丘陵庭園にいる。まさか生きていたとはね」
どろろ? ドローンのこと? それより生きていたっていうのは恐怖の大王のことだよね。ちょっと嬉しい気が……。だめだ。私は記者として大勇者として仕事をまっとうしないと。
「これで代用できるかい?」
ケンサクさんは一眼レフカメラを両手で差し出した。重い! てゆうか、これKANONの最新モデルじゃん。文句はないけど、バズーカ砲みたいな望遠レンズは……いらん! 広角レンズがよかったんだけどな。
「ノブさんはまだ寝ぼけているようだな。この先の王立公園に攻撃ヘリと車がある。君はどっちに乗りたいかね?」
「車です」
私は即答した。
「僕もだ。攻撃ヘリはこりごりだ。車にしよう」
私は乗り心地の悪い車に揺られながら考えていた。これって陸上自衛隊の高機動車だよね。
§18
ケンサクさんは、ながら運転をしていた。どうもスマホが気になるらしい。初対面のときから思ってたけど、この人はスマホ依存症なのかな。アンドロイドがそんなバグ起こさないと思うから人間だよね。
「丘陵庭園が見えてきたぞ。ここからカメラで何か見えないか? どろろ、ステルス戦闘機ともに沈黙している」
私はカメラで丘陵庭園を見た。ヤギが1匹こちらを見て佇んでいる。それをケンサクさんに話した。
「ここの神によるとそいつが恐怖の大王だ。メーメーしか言わないが独自の言語体系を持つ高度知的生命体だ」
ケンサクさんは溜め息をつくと、彼の愛用兵器の「ロンギヌスの槍」や「ダーインスレイヴ」はメンテナンス中で使えないと話した。私も少しはサブカルチャーの知識はある。たぶん凄まじい殺傷能力を有した兵器だよね。ケンサクさんは丘陵入口で高機動車を停めると、ここから歩こうと言った。彼はスマホの画面を見ながら丘を登って行った。かなりの依存症だな。
「いた。あのヤギを強制圧縮してくれ。手加減はいらない」
私はファインダーを覗いた。電灯で見えはするけど素早く動き回っている。角や体長からしてメスかな。取材でヤギのリード線を持たせてもらったことがあるけど、メスでもすごい力だった。そんなのいまは関係ない。あれは恐怖の大王。普通のヤギじゃない。私が討伐した竜王よりはるかに禍々しい気配を感じる。絶対に圧縮してみせる! と意気込んだもののまったく当たらない。
「参ったな。神によるとこいつは夜が明けると巨大な一角獣になるらしい」
それはやばいかも。アニメで見たベヒーモス? いやユニコーン?
「ノブさんは肝心なときに何してるんだ。ミオリ、僕がスマホを君に投げたら撃ちまくれ。僕を巻き込んでもらってかまわない。僕がやつを捕まえておく」
死んでもいいってわけ? やっぱりこの人、アンドロイドだわ。
――あらら? どうしたのかしら? 人間のお嬢さん。アタクシに手も足もでないようねえ?
どうして声が聞こえるんだろ。メーメー鳴くしか能がなかったんじゃなかったのかよ!
「お嬢さんじゃねえんだよ! このクソヤギ!」
私は怒りに任せて微かな光を頼りにファインダーに映るすべてを強制圧縮した。カメラ内臓ストロボは撮影時に光るだけだからアテにならない。それにこのカメラの連写速度に追いつかない。いうなれば曳光弾みたいなもの。
「全然、当たってないぞ! 僕を殺す気で撃て! ためらうな!」
ケンサクさんは大樹にもたれかかりながら、ヤギの角を引っ張っていた。彼のタイピンは赤く光っていた。ということは、懐にルナのタイピンが……。
「僕は問題ない! 君はタイピンが心配なんだろ!? 大丈夫だ!」
そう言うとケンサクさんはスマホを私に放り投げた。
《From 父上》
え、メール?
《着信履歴を見て驚いた。おまえの言い分は承知した。1万9100年6月19日をもって日本で運用開始になったイージスシステム「スポケーン」を発動する》
1万9100年? 西暦のことだよね。
「なにをぼやっとしている! 撃て!」
でも、撃ったらルナとヒナタ君のタイピンが……。
「何度も言わせるな! 早くしろ!」
ルナ、ヒナタ君ごめん! 私はいまを生きるから! 目の前で苦しんでいる人を見捨てられない! 唯一、確かに見えるのは赤く光るタイピン。私はそれをめがけてシャッターをひたすら連写で切った。
§19
赤の光が消えることはなかった。もう何連写したかわからない。ケンサクさんが無事だといいけど。
「おーい! 僕もタイピンも無事だ!」
ケンサクさんは凛凛とした顔で私にヤギの角を見せた。自分が握っていたから残ったらしい。意味がわからなかった。ケンサクさんは私からスマホを取ると、村長に任務完了を伝えると言って少し離れた場所に移ってスマホを耳に当てていた。
「君! 早く来ないか! 時間はわずかしかないぞ!」
ケンサクさんがこっちに走って来るので私も走った。
「なんですか?」
「いいから電話を」
私はケンサクさんからスマホを受け取り耳に当てた。
『もしもし? お姉ちゃん?』
「ルナ? ルナ?」
『1分だけしか話せないらしいから、言いたいこというね。お姉ちゃんが死んだのは私のせい。私がよそ見させたから。だから事故のことは気にしないで。ケンサクさんからヒナタが元気にしてるって聞いたよ。もし会ったらヨリを戻したいって言っといて。お姉ちゃんも元気でね。以上!』
ケンサクさんはずっとこちらを見ていたけど、私と視線が合うとそらした。
「私は元気だよ。ルナも元気でね! ヒナタ君には言っとくから!」
『うん、あとお父さんもお母さんも元気…………』
電話が切れた。目から水が出てきた。これは止まりそうもない。
「すまない。僕のスマホは通話無料プランじゃないんだ。ノブさんに強引に切ってもらった」
ケンサクさん、笑わせようとしてるのかな。よくわからないけど、ルナと話せてよかった。
「君はこれからどうする? 勇者村に帰還するか、それとも……」
「残ります! この世界も悪くないっていまは思います。あと私からも村長に報告しておきます。この世界に駐在する大勇者として!」
ケンサクさんは、うんと頷くとタイピンを私の手に握らせた。
「餞別だ。まがい物だが高価なものだ。お守りにしておきたまえ」
私は深々と頭を下げて包むようにしてタイピンを胸元に当てた。ケンサクさんはポケットに手を突っ込んでどこかを見ていた。たぶん、私が泣き止むのを待っているのだろう。ケンサクさんはたびたび私を見ては優しい目をして微笑んだ。なんだ、単細胞生物じゃないじゃん。アンドロイドでもない。もしかして秘匿されてることって優しさのことだろうか。それは隠すことなのかな。もしそうなら変なことだなと可笑しく思った。なかなかいい表情だから写真付きで報告を送ろうかな。
新聞には載せられないけど被写体として完璧な表情だ。私は水が流れ切った目でケンサクさんの視線の先を追った。黒い鳥たちが魚群のようにくるりと回って横切った。爽風が何度も吹いては頬をなでた。私たちは眼下に広がる王都の夜景をずっと眺めていた。
【真・転生編】
◇
義父は不義理を働いたとして私を糾弾すると咳き込んだ。私は父と並んで畳に額と両手を付いたまま身を固くしていた。恐怖をまぎらすために事前に飲んでいた酒が効いてきて意識が遠のきそうになる。
義父は浮気相手の女と別れること、妻を実家に戻し別居すること、定職に就くことを私に約束させると咳払いをしながら去った。私と父はゆっくりと頭を上げ、居間に誰もいないことを確認すると、仏壇に向かって一礼し、玄関を出る際に再び頭を下げた。
帰路の車内で父は何も話さなかった。私は四十路になってまで父と誰かに謝罪することになるとは思いもよらず、あまりの情けなさに涙を流した。
松江市内の中心地にある実家で父と過ごしていた時分はすべてがうまくいっていた。十五年前に妻と結婚し、同市美保関町に居を構えてから身辺が狂いだした。私の不労所得で妻も働く必要はなかったが、利発な性分で言うことを聞かなかった。近隣住民は私のことを不思議に思っているだろう。鳥取県境港市と美保関町の間を流れる境水道を縁側で眺めているところを何度も見られている。なかには回覧板を持って来るついでに私の仕事について訊いてくる者もいた。
車窓に頭を預けているうち、自宅に着いた。父は、じゃあな、と言って去った。すぐ家に入る気になれず、境水道沿いの小道を歩いた。水面は西日を受けて美しく光っていた。が、六月ということもあってか、べっとりとした風が頬を撫で気持ち悪かった。低い堤防にフナムシがたくさん張り付いていた。近づくと素早く逃げる。躍起になって踏み潰しているうち暗くなってきたので帰宅した。
重い足取りで居間の襖を開けた。妻は予想に反し、嬉々として里帰りの支度をしていた。自室から持ってきたと思しき洋服や化粧品が散乱している。私は合わせる顔がなく、隅で小さくなっていたが、とうとう我慢できなくなって冷蔵庫から瓶ビールを手に取ると一人で飲みだした。
「お父さん、怖かった?」
突然かけられた調子のよい声音に背筋が凍った。
生きた心地がしなかったと返すと、ビールを注ぐと言う。彼女の申し出を断って包丁で刺される自分を想像したら、自然とコップが傾いた。ほとんど泡だけのコップに十五年の歳月を感じた。新婚時代、妻はコップを冷凍庫にいくつも入れ、常時冷えたビールを飲ましてくれたものだった。コップの温度差が夫婦間のそれを暗示している気がした。
「ねえ」
包丁を手にしていたので、いよいよ刺されると覚悟した。力んだせいか屁が出た。
「アジの刺身でいいでしょ?」
彼女の表情は何の敵意もなく、いつも通りの穏やかな顔をしていた。私は声を発することができず、軽くうなずいた。妻が何を考えているのか計りかねたので、いまから死装束に着替えようと自室に向かった。喪服がいいと思ったが、箪笥を探っているうちに絹の白いパジャマを見つけた。袖を通し、階下に降りた。
テーブルにはアジの刺身と冷奴、すりおろした生姜の皿が置かれていた。最後の晩餐にはちょうどいいと思った。生姜を少し乗せて醤油をかけると一口で冷奴を食べた。うまかった。アジの刺身に箸を伸ばしたとき、妻の声がした。私は急いで三切れを生姜、醤油とともに口に入れた。うまかった。
妻がスリッパを脱ぎ、台所から居間に入ってきた。包丁は持っていなかった。
「あのー、幸一さん。急いで食べすぎ。てゆーか、なんでシルク? 醤油こぼしたらどうすんの?」
「これは、あれだわ。翔子の料理がうまかったから?」
私は狼狽して何が何だかわからなくなっていた。また屁が出た。さっきの放屁は聞こえていなかったのか、妻は哄笑した。笑い泣きの涙を拭うと、私が着ているパジャマの腹がやたら出ていることを執拗にイジった。
翌日は朝からよく晴れていた。出雲地方には「弁当忘れても傘忘れるな」という先人の言葉があるほど、天候が著しく不安定な地域だった。が、昨今の気候変動の影響なのか、ここ数年の降水量は激減していた。気温の上昇は全国と同様で、朝でもすでに暑かった。
妻は昨晩のうちに支度を済ませ、自室で大きないびきを響かせていた。彼女は十時に発つというので、暇潰しにフナムシの虐殺をすることにした。堤防には夜釣りをしたと思われる人が残した缶コーヒーが置かれていた。ここに参集する釣り人は総じてマナーが悪い。私が歩いているこの小道も道路なので本当は駐車してはいけないが、開けた場所に駐車し、平然と竿を垂らしている者は数知れない。最寄りの駐在所は、日中の応対はしてくれるが夜はさすがに寝ている。国土交通省にも赤色灯を載せた河川パトロールカーが配備されていて、この周辺を巡回しているが、取り締まっているところを見たことがない。
昼夜を問わず、違法駐車を発見すると通報したい衝動に駆られたが、妻の友人が泊まりで遊びに来た際に駐車するので見て見ぬふりをしていた。が、それも今日で終わりだ。逃げ惑うフナムシを殺しに殺し、家に戻った。
洗面所で歯磨きしている妻と目が合った。私は視線をそらすと縁側で胡坐をかいて、出雲富士こと大山を遠めに見た。全国各地にナントカ富士は点在するが、中国地方最高峰の大山こそが最も美しいと思っている。
「冬の大山は綺麗だよね。マジで富士山じゃん?」
心臓がどくんと跳ねたが、平静を保ちつつ、大きく何度もうなずいた。
妻はガラス戸を開け、立て付けの悪い網戸を正すと私の横に腰を下ろした。結婚当初は仲良くスイカの種を縁側から飛ばす競争をした。空海はニューヨークから大山まで種を飛ばした、地蔵が山頂でリンボーダンスしているなど、私のつまらない嘘に往時の妻はよく笑った。どこに包丁を忍ばせているのかわからないが、いまなら刺されてもかまわないと思った。
「幸一さんよぉ、昨日からビビッてない?」
妻の眼には冷たい光が宿っていたが、口元は緩んでいた。
私は床板に視線を落とし黙っていた。
「例の女って、サークルに勧誘するために会ってたんでしょ?」
私は誤ってかぶりを振りそうになったが、姿勢を正すと、
「うん。サークルではないけどね。意味のない真剣な遊び」
と言って、また視線を床板に戻した。
妻は私が勃起不全で不感症、自慰行為すらしないと半ば嘲笑するように叫んだ。隣人に聞こえてしまうと危惧しつつイライラした。が、いずれも真実で悪意あっての言い草でないことはわかっていたので黙して聞いていた。
一通り叫んだのち、彼女は悪戯っぽい表情を浮かべると、
「ま、絶対にあり得ないと思ってたけどねー。よっ、島根で一番枯れてる男、宇野幸一!」
と笑ってからかった。
さすがに上には上がいると反論しようとしたがやめた。妻は急に声量を落とすと、昨夜、義父から電話があったと明かした。彼女によると、明日から義父が役員をしている船会社で働けということだった。履歴書は必要なく、義父が独断で採用したものと容易に想像できた。義父はこの国で最も高貴な一族を乗せたことがある元船長で、その威光で彼には誰も逆らえないと聞く。もとより、慢性的な人員不足とその原因が船乗り特有のパワハラにあるのではないかと地元紙が報じていたのを覚えている。義父は威光を借りられるが、私はただのコネ入社だ。良くも悪くも他者からの色眼鏡が一番厄介だ。
私の不安をよそに妻は境港の実家に帰った。彼女は去り際に、境水道の対岸から見えるから大丈夫、と励ましてくれた。物理的距離は確かに近い。しかし、独身時代は父と暮らしていたので一人で家事をすべてやっていたのは学生時代の四年間だけだ。暑くなるとコバエが発生して自炊は面倒になる。スーパーやコンビニの弁当総菜コーナーで毎日頭を抱える自身の姿が眼に浮かんだ。なにより、洗濯が億劫だ。洗濯機を使用するまでは誰でもできる。が、干す作業が大儀だ。学生時分に干すのが面倒で洗濯をしなくなり、どうせ汚れて臭い服だからと入浴すらしなくなったことがあった。その反復になることが必定に感じ、いまさらながら家事は同居人と共同ですべきだと後悔した。
十五分後、先の後悔など忘れて私は境水道大橋を車で走っていた。タンカーをはじめ大型船舶が往来するので橋桁の位置は高い。境港はまったく山のない平野で橋の上から街の概観を一望できた。妻と何度も通ってはいたが、島根の県土のほとんどは山なので平野はいくら見ても飽きない。
スーパーの駐車場に着くと、身体障害者用の駐車スペースにいい加減な止め方をしている軽トラがあったので怒りが湧出してきたが、心中穏健が第一だと思い直し、視界に入れないよう店舗に入った。スーパーの総菜や弁当の値段がコンビニのそれと大して変わらないことに驚いたが、カツ丼と炭酸水を買って家路に就いた。
玄関の扉を開けると、式台の前に私の靴とサンダルしかなかったので、淋しくなった。上がり框に座ると動く気にならず、その場でカツ丼を食した。うまかったが、自分が食べている気がしなかった。身も心も枯れた中年男性が玄関で孤食している。第三者視点から言葉を胸裏で発しなければ淋しさの沼に私は沈んでしまいそうだった。
初出勤の朝は早かった。昨日の夕方に教育係の福本と名乗る男から連絡があった。六時に境港の本社前に来いとのことだったが、人の姿はない。道路を挟んで目の前にフェリー乗り場があり、私は興味本位で構内を散策した。が、広大な駐車場といくつかの係留杭があるだけで物珍しいものはなかった。境港側から私の起居する対岸を見ると広島県は尾道に似てなくもない。林芙美子と志賀直哉が尾道に住んでいたことがあるとネットで見た覚えがある。むろん、尾道のほうが美しいに違いない。が、文豪が同じような風景を見ていたと想像すると心が躍った。
「おい! おまえ宇野か?」
背後から突然呼ばれてびっくりした。振り向くと、やや小柄で細身の男が立っていた。年齢は四十半ばぐらいだろうか。頭髪が落ち武者のように禿げていてほぼ白髪だった。福本かどうか確認する隙もなく、男は車に乗り込むと、
「後ろに付いてこい」
と、ぶっきらぼうに言った。
私が乗車するなり、男はスピードを上げて美保関方面へ向かっていく。境水道大橋を渡り、美保関町に入ると、男はさらに加速した。「島根県」「松江市」の看板が一瞬で遠ざかった。二回右折してトンネルを抜けると日本海が見えた。男は「七類港貨物センター」と記されている標識の前で急ブレーキを踏むと駐車場に車を止めた。私がどこに駐車してよいか迷っていると、
「どこでもいいわ! 早く来いや!」
と声を荒らげた。
男は事務所に入るとタイムカードを切り、検温、アルコールチェックをして出勤表に書き込んだ。男のタイムカードを確認すると「福本」と書かれていた。
「それは俺の。まずタイムカード、検温、それからアルコールチェックな」
昨日の電話で、始業は六時四十分と言っていたが、彼のタイムカードを見る限り、始業前労働が常態化しているようだった。
「見ればわかると思うけど、早く来らんと船に間に合わん。こっち来い」
福本の後を追って荷捌き台に上がった。五人の労務員が三台の大型トラックに荷物を載せている。荷物が多すぎて何が置いてあるのかわからないが、新聞、雑誌、自転車、煙草は判別がついた。福本は、初日で全業務は覚えられないから今日は全員の動きを見ておけ、と指示してトラックの荷台に入って行った。
私が荷捌き台をウロウロしていると、邪魔だ、と誰かが言うので隅に移動した。学生時代に水道配管工のバイトをしたことがあったが、「見て覚えろ」という気風で私はまったく覚えられず叱責を食らってばかりだった。そこで学んだ教訓は「見て覚える」仕事は文字通り見て覚えるしかなく、誰もまともな新人教育ができないということだ。労務員の彼らには、いま何をすべきかさえわからない者の気持ちを察することはできないだろう。
荷捌き台にいたところで邪魔者扱いされ、怒られるのは自明なので事務所に戻った。おい! と叫ぶ声が聞こえたが、無視した。事務所内を眺めていたら、時刻表が壁に貼ってあった。九時に七類港を出港し、隠岐諸島の三港を巡り六時に帰港する船と隠岐諸島を巡ったのち境港に寄港して隠岐諸島に帰る船があるようだ。
事務所のなかを「見て覚える」のも仕事だと開き直って回転式のオフィスチェアーでくるくる回って遊んでいたら、大柄で太った男が入室してきた。男がチラチラ視線を送るので、私も見返した。頭髪の量が少し心もとないが三十歳前後ぐらいだと推察した。私が再度くるりと回転すると、男は急に破顔して、
「宇野さん! お久しぶりです! 藤江です!」
と、感極まったような眼で私を見た。
見覚えのない顔だったが、賢人なのか、と訊くと私の手を強く握ってうなずいた。彼は詳しい話はあとにして会社の作業服に着替えてほしいと手を合わせた。社名や名前を入れるらしく、私の作業服が届くのに二週間は待つ必要があるとのことだった。届くまで彼が予備を貸してくれると言う。サイズは大きかったが、彼を凌駕する肥満体のおかげでちょうどよかった。
藤江は、大声で返事だけしていればいいと言い残すと、荷捌き台に上がって行った。彼をよく観察していたら、軽量な物品をさも忙しそうに運んでいるだけに見えた。私はスヌースのポーションを歯茎の上に挟むと、捨て鉢に気勢を上げながら荷捌き台に上がり、藤江に倣って作業をこなした。
がむしゃらに物を運んでいるうちに、藤江が八時になったから乗り場に行きましょう、と声をかけてきた。ヘルメットを被った労務員らが三台のトラックに分乗して出発して行った。藤江は落ち着いた様子で、
「私たちはあれです」
と鮮魚が載っているという軽トラを指さした。
藤江がハンドルを握り、私は助手席に座った。彼は半年前に入社したが、まったく仕事が覚えられず、怒鳴られてばかりだと嘆いた。福本からは人格否定までされ、もう関わりたくないと弱音を吐いた。
「宇野さんみたいな坊ちゃんには務まりませんよ」
藤江は物憂げな眼をしながら前を向いていた。私は少し笑みを浮かべると、
「君だって、どうせ金持ちの坊ちゃんだろ」
と言って彼の横顔に視線を向けた。
乗り場には大中小のトラックや乗用車が待機していた。車両の誘導も労務員の仕事なのかと藤江に問うと、そうです、と答えた。鮮魚は最初に船に入れるらしく、藤江は軽トラを船尾の後ろで停め、サイドブレーキを引いた。彼は随分と憔悴しているようだったので、スヌースのポーションを二つ渡した。何かわからないという眼を向けたので、歯茎の上に挟んでニコチンを吸収する無煙煙草だと説明した。両側に挟むと効果抜群だと力説すると、それはいいですね、と眼を細めて微笑んだ。
「ランプドアが降りてきたら、船内に入ります。船の甲板員が合図します」
約一分後にランプドアが降りたが、誰もこちらに合図を送らない。待機していると、ランプドア付近で航海士か船長と談笑していた福本が、
「車も運転できねえのかよ! 入れや!」
と怒鳴った。
藤江の眼には憤怒の灯が宿っていたが、軽トラを停める位置と鮮魚を置く場所を丁寧に教えてくれた。鮮魚を運んでいる際に、怒られている甲板員がいた。新人なのだろう。パワハラどころではない、ただの雑言だった。二十歳ぐらいに見えたが、彼は近いうちに退職するだろうと思った。藤江はその若者を一瞥して、すぐに軽トラに乗り込んだ。
「で、軽トラは乗り場の隅に止めて荷台をホースで洗います。あとは車両の誘導だけです。福本さんが指示を出しますが、理解不能なら放っておいて問題ないです」
私はすべてが億劫になって黙っていた。
「つらいのは昼と夜の便ですよ。係船しないといけないですから」
軽トラの荷台を洗うと私たちは走ってランプドアの近くに陣取った。藤江によると新人は福本の近くで誘導することになっていると言う。
福本が四本指を立てた。藤江が軽自動車をランプドアまで誘導した。彼は戻って来ると、四本指は全長四メートルの車両という意味だと教えてくれた。五本指は全長五メートル。全長六メートル以上は福本が声を出して指示を出すらしいが、ぼそっと言うだけなので、聞き耳を立てる必要がある。また、大型トラックに至っては指さすだけなので、間違って誘導することが多いと話した。
藤江が教えてくれている間にも誘導は行われていて、福本はランプドアから走って自ら誘導していた。私は福本に対して、声を張れ、と怒鳴りたくて仕方なかった。
出港時の作業は易しいとのことで、福本の監督下で私と藤江で行った。係留杭からホーサーと呼ばれる係留綱を外すだけの仕事だ。が、ホーサーは重いので二人で行うことになっている。簡単ではあるが、船の上部にいる甲板員が手を挙げ、ホーサーがしっかり着水して緩んだ瞬間に海に放り投げないといけない。ずっとホーサーを持ったままだと船に引っ張られる危険性があるためらしい。
昼の便は境港に一時二十五分に到着する。それまでは、ほぼ休憩時間のようなものらしい。業者や一般人が搬入に来るが、ごく稀とのこと。労務員らは事務所内で歓談に耽っていた。私と藤江は彼らに気付かれない場所で情報交換した。藤江は私が弁解するまでもなく、浮気はなかったと同情を寄せた。そのうえで、自身の境遇について語った。不労所得で過ごす生活に飽きて社会に飛び出したところ、我が社という劣悪な企業に採用されてしまったとのことだった。近いうちに退職届を社長宛てに郵送するつもりだそうだ。「真剣な遊び」のほうは岡山県に二人候補者がいるらしく、空を見上げながら口角を上げていた。私はいまのところ見当もつかないと溜息をついて、ポーションを一つ口に入れた。
「宇野、おまえ境港が終わったら三時四十分に帰れ。初日だからな」
突如として現れた福本は仏頂面で言うと足早に去った。藤江は地面に視線を落とし、
「私は六時二十分までです。夜の係船をしなきゃ……」
と、うんざりした口調で呟き、九時間拘束か十二時間拘束しかないなんてブラックすぎる、と両手で顔を覆った。
私は思うままに所感を述べた。
「退職届だけどさ、二週間前に提出なんて遵守しなくていいじゃないか。そもそも、この会社は海事法に違反してるよ。随分前から」
「えっ?」
藤江は大きく眼を見開き甲高い声を上げた。
「家にいたら嫌でも汽笛が聞こえる。おそらく船長だろうけど、入港時の汽笛は聞いたことがない。出港の短音一回は右への針路転換だから問題ない。七類港も境港も右に旋回するじゃないか。だけど、その後の前進の汽笛は長音二回じゃないとだめだ。うちの会社は長音一回だけなんだよ」
藤江は再び顔を手で覆った。体が小刻みに震えていた。いつ怒りが噴出してもおかしくない。それはいまだと私は悟った。
「境港に寄る船で『便借』使います。明日からは無断欠勤します」
藤江の眼は不退転の決意を示すような鋭い光を宿していた。
彼によると、「便借」は社員らが自社の船で物品を輸送することだと言う。けっこうな頻度で使われ、郵便よりも早く着くことから本社も支社も書類などは「便借」を用いるのが普通だと言う。就業規則で定められた休憩時間に入ると、藤江は事務員に便箋と白封筒をもらい、公然と退職届を書いた。私を含め、誰も彼を止めようとしなかった。
一時十六分になった。境水道は凪いでいるが蒸し暑い。船影を見つけた藤江が、
「来ました! 来ました!」
と叫んだ。
やはり汽笛は鳴らなかった。境港というのはもっと広い港湾なのかと疑問に思った。少なくとも境水道大橋から先は海上保安庁や水産庁の船舶の母港で間違いなく港だ。だとすれば、やはり境水道大橋あたりから長音の汽笛を一回鳴らさないといけない。汽笛はかなり距離があっても聞こえるものなので、やはり鳴らしていないという結論が妥当だろう。
周囲に眼をやると、藤江と福本が船首のほうへ走っているのが見えた。私は藤江が「奥義」を披露するというので二人に同伴することにしていた。
係船作業も二人で行う。藤江によると、船はレットラインというホーサーを引き上げるための細い綱を陸に投げてくる。労務員は前衛、後衛に分かれて調子を合わせながらレットラインを引く。通常は技量が上の者が後衛を担う。そのうち、レットラインに結ばれたホーサーが水面から出てくる。レットラインとホーサーを一緒に係留杭にひっかけ、レットラインだけを抜く。が、レットラインの結び目をほどくのが難しいらしい。さらに二つ目の係留杭にホーサーをひっかけねばならず、船首の係船作業は体力をかなり奪われるようだ。
船が速度を落とし、ジリジリと岸壁に近づいて来る。境港に寄港する船長は操舵が下手らしく、あまり岸壁近くまで寄って来ないとも言っていた。轟音を立てながら船は四、五十メートル先まで近づいた。船上に眼を向けると甲板員が手を挙げた。ガコッと音がして、こけしのようなものが陸に落ちた。こけしはレットラインの先端部らしく、二人は職人技のように手繰り寄せていた。大きな影が近づいてきてホーサーが水中から姿を現した。二人は後ろ向きになってホーサーを陸に揚げると係留杭にひっかけた。藤江が息を切らしているのを見た福本が、
「レットラインは俺が取るから、おまえは二本目に行け!」
と指示した。
藤江は一人でレットラインを引き始めたが、数秒後には福本が加わった。二本目はすぐにホーサーが上がってきて二人はそれを係留杭にかけた。
「藤江、おまえ、そのレットラインほどいてみろ。練習だ。宇野も見とけ」
福本が無表情で言った。彼の呼吸はまったく乱れていないようだった。
「すみません! 結び目がきつくなってます!」
「どけ!」
福本はレットラインに触れると同時に魔法のように結び目をほどいた。
「藤江、おまえ、ちゃんと仕事しろや」
福本は鋭い眼光を藤江に向けたが、口調は呆れた様子だった。
「おまえら、車を誘導しとけ。それくらいできるだろ」
と言うと、船体の中腹にある底部タラップから入船して行った。
藤江は意気消沈して何も喋らなかったが、「奥義」が何かはわかった気がした。藤江はレットラインを引くとき右手だけで引いていた。左手はレットラインを離さないよう支えているだけ。後ろからだと一生懸命に引いているように見えるだろう。だが、あの福本が後衛だ。ほとんど引いていないことくらい見破ったに違いない。何も話さずランプドアのほうへ歩を進めていると、甲板員が、来い、と呼んだ。私たちは走った。
「死体入れるから、手伝え」
船内には霊柩車が停車していた。甲板員六人が棺を引っ張り出して支えていた。手をかける場所がなかったが、八人で慰安室に棺を置いた。甲板員の一人に塩を差し出されたが、無視した。船外に出ようとすると、私たちを呼んだ甲板員に止められた。
「俺がいない間に勝手なことするなよ! おまえら何してんだよ!」
この男の言っていることが理解できなかった。こいつが立ち会っていないと棺を入れられないのだろうか。不愉快だった。いますぐこいつを境水道に突き落とすか殴りたくなった。横に顔を向けると藤江の眼から光が消えていた。この勝手な男だけをただ見据えていた。動物的本能がまずいと知覚し、藤江の手を取った。藤江は絶叫した。それは会社の人間のみならず、世界を呪わんとする絶叫だった。
しばらくして本社の職員がやってきた。藤江は退職届を握りしめて呪詛の言葉を叫び続けていた。私は指さしで職員に退職届へ視線を向けさせると辞去した。……藤江は社長が隠岐支社に出張中だと勘違いしていたらしく、「便借」は必要なかった。藤江が騒いだことで出港が大幅に遅れたが会社都合退職にはならなかった。
藤江が退職届を提出した翌朝、私も本社に赴き、退職届を提出した。受付の女性に渡して去ろうとしたら、上の者を呼んできます、と言って駆けて行った。総務部長が対応してくれるとよいのだが、どうせ義父だろう。きつめのスヌースのパッケージを開け、ポーションを両歯茎に挟んだ。口の粘膜が肺より脳に近いせいか、すぐにクラクラしてきた。
応接室に通されると思っていたら、階段を降りてくる音がして義父が顔を見せた。
「おお、幸一くん。社長には渡しておいたわ。残念なことになってしまったけど、新天地で頑張ってな」
穏やかな口ぶりだったが、表情は鬼の形相で握った拳が震えていた。
「国交省から連絡があるかもしれないので、正直に話されたほうがいいですよ」
義父は、フンと鼻であしらうと、他の社員にわからないよう、私の足を強く踏みつけた。私は、腰を折り曲げて義父に名刺を渡した。
「『中国地方五賢人 次席 宇野幸一』? わからんな。新しい仕事かな?」
私は、かもしれませんね、と一礼して屋外に出た。ドラッグストアで炭酸水とビタミンB群、ビタミンC、亜鉛、カルシウムのサプリを購入して帰宅した。サプリを一気に炭酸水で胃に流し込むと、フナムシを狩りに堤防へ足を運んだ。実験したいことがあったので、紙巻き煙草とライターを持って出た。
到着してまもなく、地面を這っている個体を見つけたので、これを逃すまいと踏み潰した。平べったいので、完全に潰すことができなかったのか、脚をジタバタさせていた。煙草に火を付けると、先端をフナムシの背に押し当てた。熱いと叫んでいそうなもがき方だった。触角の存在を確認したが、一本は欠損していた。なかなか絶命しないので、煙草で裏返して腹を見た。ゴキブリの腹と似ていた。脚は短く七対あるように見えた。素早く移動できることに合点がいった。尾のような二本の部位が何のためにあるのかわかならかった。
またもがきだしたので、腹に煙草を押し付けるとおとなしくなった。もういちど表に返して、かすかに動く二本の尾をジッと見た。かつてダンゴムシが熱にどれだけ耐えられるか煙草で実験したが、これまたなかなか絶命しなかった。甲殻を有する虫は熱に強いのかもしれない。
家の門を抜け、離れの横を流れる細い水路をそっと覗くと小さなカニが隠れた。カニとヤモリは例年実験している。実験といってもエアガンで撃つだけの生命力測定だ。今年は踏み込んだことがしたかった。が、何も浮かんでこないので自室に戻った。布団を敷いて転がると、スマホを手にして映画アプリを開いた。枯れた私にはクリント・イーストウッドが描く独居頑固老人モノが心に響く。もう銃撃戦やラブロマンスは観たくない。単純に飽きたというか、お決まりの構成にうんざりしてしまった。それでも例外はあって、『ローマの休日』と『東京物語』は非常によかった。『カサブランカ』もよかった。もとより映像芸術には辟易していた。むろん、アニメを含む。かといって言語芸術は主体性が求められるため、読まないことには話が進まない。やることがないので、惰性でネットサーフィンをしていたら次第に瞼が閉じていった。
目を覚まして掛け時計を見ると一時十五分だった。私の統計では我が家のヤモリは夜の十一時から二時の間に出没する。マガジンにBB弾を詰めて本体に装填すると、離れに向かった。電気を付けるとカタッカタカタと音がした。ヤモリが動く音だ。が、どこにも姿はなく逃げてしまったようだった。そのかわり、流しにナメクジが三匹のろのろと這っていた。ナメクジは実験対象ではないので、蛇口をひねって流してしまった。
電気を消そうとスイッチに手を付けると、古い照明器具に蛾がぶつかっていた。我が家でよく見かける黒い蛾だ。しばらく観察していたら天井に張り付いた。蛾は羽を撃ち抜けば落ちるだろうと、さして狙いを定めず発射した。板張りの天井にバチンという音が鳴った。命中したらしく蛾は無軌道に旋回しながら地に落ちた。蛾の知識は皆無で触れたこともなかった。羽に白い模様があった。バタバタとうるさいので、素手で握りつぶした。バリバリと羽が砕けた。胴体はしっかりと丸みを帯びた感触があったが、羽に関してはあまりの脆さに驚かずにはいられなかった。流しで手洗いを済ませると、星を見たくなって門を出た。
北斗七星を明滅しながら西に移動する星が見えた。おそらく貨物機だろう。かすかにジェットエンジン音が聞こえる。たまに航空自衛隊の機体なのか大きな音を響かせながら何も見えないときがある。そもそも航空自衛隊の機体が島根半島上空を飛んでいるなんてことは聞いたことがない。北の方角を見ているはずなのに星が多すぎ、どれも明るいので北極星がわからない。東に視線を移すと明らかに眩しくひときわ大きな星が見えたが、北極星ではないし、月でもない。金星かもしれないが定かではない。とにかく雲一つないにも関わらず、月が見えない不思議な空だった。
ヤモリが戻っているかもしれないと思い、離れに行った。足音が聞こえたので、素早く電気を付けた。逃げるには最も遠い場所でじっとしていた。ヤモリの生命力は高く、頭に弾を受けても腹に受けても死ぬことはない。ぐったり動かなくなっても翌朝には消えている。殺傷能力の高いガスガンを使えば一撃で屠れるだろうが、死んでしまっては実験の意味がない。
ヤモリを仕留めるのには自信があったが、六発も撃ってしまった。弾丸が速くてどこに当たったか見当が付かなかったが、ほんの間のあとに腹を見せながら垂直に落ちた。降参したのか逃げる力がないのか、ヤモリは動かなかった。
今回の実験で初めてヤモリの足の指が前後とも五本だと知った。この個体は腹が薄紅の部分があって珍しいと思った。尾を突くとゆらゆら振るわせた。私は何を思ったのか、母屋からどんぶりを持って来ると、そこに小便をし、ヤモリをそっと入れた。かなり衰弱していたのか、小さな気泡を一つ残して沈んでいった。
時刻は三時半になろうとしていた。日の出まであと八十分。有閑人の生活も楽ではない。迷惑だろうと思ったが、藤江に架電した。三コールで繋がった。
「もしかして起きてた?」
『例の、あれ、あれですよ。「真剣な遊び」を断固遂行するために熟考していました』
藤江の声はしっかりしていて、いま起きたわけではなさそうだった。
「そっか」
私は実験という「真剣な遊び」をしていることは明かさなかった。
『七月になったら「筆頭」に会いませんか?』
「そうだね。候補者は見つからないし」
目がシバシバしてきたので目薬をさした。
『宇野さんが一人連れてくれば解決ですよ』
「そうねえ。まあ、七月に会おう」
藤江を時間潰しに利用したことを申し訳なく感じたが、まだ七十七分もあった。魔が差して妻の化粧部屋に入った。入室を固く禁じられていただけに背徳感が尋常ではなかった。化粧品や香水の臭いが混ざっていて思わず鼻をつまんだ。カーテンやクッションなどありとあらゆる物がピンクだった。見たこともない大きさのカラーボックスには、結婚してから事あるごとにプレゼントしていた高級ブランドのカバンや財布が綺麗に収納されていた。
化粧台に近づき、引き出しを開けると、デパコスが整列していた。おそらく新作ばかりだろう。私は独身時分にメンズメイクに凝っていたのを思い出し、プチプラがないか探した。どこにもない。妻のリッププランパーを顔面全体に塗りたくるのは愛情表現として歪んでいると感じて、スティックだけでも少し舐めようとしたが、気持ちを押し殺した。自分は枯れているというより、ただの変態なのだと自覚しながら自室へ引き返した。
スマホで『水の変態』を聴いていたら気分が落ち着いた。音楽も洋の東西を問わず最近の楽曲は合わなくなってきた。フジコ・ヘミングが弾く『別れの曲』が最も心に沁みる。布団に仰向けになり、二十回くらいリピート再生した。
時計は四時四十七分を指していた。エアガンと割箸を手にすると水路に向かった。カニは視野が広いのかすぐ逃げてしまうので、少し離れた位置から出現場所を目視した。ライターぐらいの大きさの黒いカニが遠出している。私は音を立てずゆっくりと近づいた。カニは動かない。一発目で勝負が決まるので、しっかり狙うと発砲した。甲羅に当たった。クリーンヒットだった。甲羅は平たく、命中したところがへこんでいた。動きが鈍ったところで二発目を撃った。また甲羅に当たり、カニは衝撃でひっくり返ると白い腹面を晒した。起き上がりそうだったので、至近距離から撃ち込んだ。薄紫に見える右の大きな挟がもげ、いよいよ動かなくなった。割箸で地上に置くと、私は脚を小石で潰した。あとは蟻が処分してくれる。
念のため、第二の出没地点に眼を凝らすと、水路から出ているカニがいた。さきほどのカニと異なるのは全体的に赤色だということだ。エアガンを使うまでもない。私は走って踏んだ。死骸を観察しようと足を上げたら生きていた。しかも、怒りを体現しているように挟を高く大きく広げ屹立していた。私は急いで踏み潰した。この実験では、その性格上、被検体へ敬意を払うのは後回しになってしまう。赤いカニは死後、生臭くなるので、割箸で掴むと水路にそっと置いた。
十分な満足感が得られたので、離れの流しで手を洗おうとしたら、ガサガサと音がする。発生源に近寄ると、空の一升瓶や瓶ビールを置いておくケースのなかを黒いカニが左右に動いていた。空き瓶を抜いてケースを外に持ち出すとカニを振り落とした。即時に踏み潰す。しゃがんで黒の肢体を観察した。甲羅に三日月の形をした淡黄線が入っていた。まだ動こうとするので、割箸で大きいほうの挟と脚を千切ろうとした。この個体だけなのか、存外、カニの挟と脚は頑丈なのかもしれない。割箸では切れないので、手元の小石で挟を削り取った。脚はすり潰すのがやっとで千切ることは叶わなかった。突起した眼の動きが気になったので小石でチョンチョンと突いて痛めつけた。残酷なことをしておいて言えた立場ではないが、私はカニを裏返して放置することは滅多にない。敬意を表してというと聞こえはいいが、被検体に選ばれた個体だ。割箸で日陰に移動させ、母屋に入った。
その後の時間を無為に過ごし、日付が変わる直前にヤモリを捕らえた私は、今度はバッテリー液を満たしたどんぶりに投げ込んだ。あまりにバタバタ抵抗するので、液中に割箸で沈めた。これぐらいにしとこうと三分ほどで割箸を置くと、頭だけ浮かべて必死に生きようとしていた。私が目を離した隙にヤモリは沈んでしまっていた。流しに死骸を捨てる際に、眼がドロッと溶けて全身がするりと排水口に吸い込まれた。トタン屋根がパラパラと散発的な音を立て始め、次第に大きな音になっていった。
七月になった。外は暑いようだが、私の関知するところではない。エアコンの効いた部屋で気ままにネットサーフィンしては惰眠を貪る毎日だ。出かけるのも億劫になって先月に購入したサプリだけ飲んでいる。好き勝手なことをしているので、ストレスが溜まらない。常に副交感神経が優位なのか、とにかく眠いのが悩みだ。煙草やコーヒーは眠気を誘発するだけなので控えている。起床後の目覚ましとして、コーヒーにポーションを浸して飲んだことがあったが、ニコチンとカフェインが摂取されたことで脳が眠い状態にあると錯覚したのか、よけいに眠くなった。ポーションを口に含んだまま寝てしまったこともある。それを最寄りの内科医に相談したら、あり得ることだ、と言っていた。
私は他者と話すと眠気が覚めるので、また藤江を利用しようと架電した。
『おはよう、ござい、ます』
いま目覚めたことが明白なほど、口調がたどたどしい。
「寝とったかね?」
『はい。もうすぐ正午ですね』
藤江は退職後、私と同様の生活をしていたらしく、昼夜逆転しているそうだ。七月になったら「筆頭」のもとへ行こうと話したことは覚えていて、段取りは自分が引き受けると言って電話を切った。布団に寝転ぶと天井から吊られたペンダントライトがカタカタと音を立て出した。タンカーだ。どれほど巨大なものだろうと足を踏み出そうとしたとき、退職した船会社の海事法違反を通報しないといけないと思い立った。正午になると官公庁は問答無用で休憩し、受話器を取らないと思ったので、急いで国交省の当該部局に架電した。
応対した担当者は優しい口調で話しやすそうだった。私が告発を済ませると情報を共有したいので待っていてほしいと言って通話を終えた。どうせ二週間ぐらい待たせる気だろ、と腹立ちまぎれに古びた化粧ポーチを開けるとリップティントを塗った。唇がカサカサするのが気になるが、手鏡を見たら血色がよく見えた。青髭が目立っていたので、おもむろに下地とコンシーラーを肌に擦り込んだ。鏡のなかには五歳は若返った自分が映っていた。スクールメイクの足元にも及ばないかもしれないが満足した。鏡を見ながら最も男前に見える角度を探っているうち、スマホの呼び出し音が鳴った。
ハンフリー・ボガートに成りきっていた私は、悠々とスマホを手にし、ボガートが煙草を持つ仕草を真似てスマホを握った。
「はい、宇野です」
電話に出て初めて気づいたが、私は誰もがするだろう指の配置でスマホを握っていただけだった。急に興ざめして何度も同じことを確認してしまった。
担当者によると、違法性は確認できなかったという。海事法のなかでも汽笛に関する事項は海上衝突予防法に記されているらしいが、そこには追い越しと針路転換の決まり事しか書いていないらしい。入港と前進の汽笛は条文に記載がなく、会社の方針や船長の自由裁量とのことだった。何か問題点や違法性はないかと食い下がったが、繰り返し説明を受けているうちに観念した。
担当者に礼を述べ「通話終了」をタップすると完全敗北とばかりに大の字に倒れた。悔しくて泣いた。そのうち、緊張が解けたのか夢を見た。その夢は私が藤江に向かって、
「なんでブログ書いてんだ?」
と言っただけだった。
このまま寝ると肌や唇に悪影響だと思ったので、洗面所で顔を洗い、次いで歯を磨いた。歯は去年まで最悪の状態で、十二万円をかけて治療を終えたが、たまに歯茎が痛む。医者や歯科衛生士から歯磨きの指導を受けたものの、それに従わず、ガシガシと力を入れて磨いているので、その影響だろう。うがいをした際に血が出ないと物足りない気持ちになる。
そういうときは痛むところの歯茎を執拗に磨くとけっこうな出血量になる。私の歯は補綴物だらけで神経は抜かれている。それでも何かを口に入れるとちゃんと咀嚼している感触がある。歯が綺麗なのはけっこうだが、ボロボロも悪くない。年季が入ったフォード・マスタングが無性に欲しくなった。
まさか「筆頭」との面会が昨日の今日になるとは思わなかった。「真剣な遊び」をする人たちはほとんど素性を明かさない。藤江は私についてよく知っているようだが、私は彼のことはそこまで詳しくない。同じ美保関町内に住んでいると知ったのも、ついさっきだ。迎えに来ると言っていたので門の前に立った。が、何か嫌だったので、庭の沓脱石の上に乗って外を窺った。定刻にやたらボディが錆びついた軽トラが門前の駐車場で停まった。金持ちなら、もっと上等な車に乗って来るはずなので、マナーの悪い運転手だろうと放っておいた。
五分が経過し、軽トラはクラクションを鳴らしだした。
「うちの土地だ! バカ野郎!」
さすがに頭に血が上って叫んだ。
―プップ、プププ、プップップ。
―プップ、プププ、プップップ。
「ふざけんな! 警察呼ぶぞ!」
妙にリズミカルな音を鳴らすので酔っ払いだと思った。軽トラに近づき、フロントガラスを見ると、藤江が乗っていた。怒りと呆れが胸裏で混在したまま助手席に乗り込むと余計なツッコミはせず、
「これで行く気なの?」
と訊いた。
「『筆頭』より高級車で行くわけにはいかないじゃないですか。でも、最低限、スポーツカーには乗って行きたい」
後輪駆動でツーシーターはスポーツカー。したがって、軽トラもスポーツカー。私とまったく同じ考え方だということが判明し不愉快になった。私は横の私有地に置いてある中型トラックに視線を向けた。
「あれもスポーツカーかもしれませんが、『筆頭』より大きな車で行くのは失礼です」
藤江はどうしても軽トラで行きたいようだった。私はそれらしいことを考え、
「寝台があるから、交代で運転できていいよ」
と、自分でも不気味だとわかるほど不自然な作り笑いを浮かべた。
藤江は、日南町なんてすぐそこですから、と言って発車させた。同町は鳥取県西部の最奥の自治体で南は広島、岡山の両県に接している。藤江によると所要時間は一時間二十分ほどらしい。私は、近いな、とうっかり本音を漏らしそうになったが、不服そうな表情をして黙っていた。寝ていてくださいと言うので、ポーションを口に投げ込むと目を閉じた。窓を全開にしているところを鑑みるに、エアコンがないモデルだろう。それよりもシートが倒せないのが苦痛だった。
境港市、米子市街地を抜けて国道一八〇号に入ると徐々に民家が少なくなってきた。田園地帯に点在する民家。田舎者には見飽きた光景だ。私は山陰の道路はほとんど通っている。このまま南へ行くと南部町に入る。さらに南が日南町だ。
「奥さんから便りはあるんですか?」
「ないに決まってるよ。すぐそこなんだから」
私は首をぐるりと回しながら左手の関節をポキポキ鳴らした。
「電話やLINEも?」
「とくに話すことないからね」
すでに独居が心地よくなっていたので、妻が発ったその日に泣いたことは伏せた。南部町の中心地に入り、ドラッグストアやスーパー、ホームセンターが見えてきた。藤江に運転の交代を提案したが、大丈夫、と言って欠伸をした。昼夜逆転していたら、いまは眠たかろうと彼の心中を察したが、我を張るのは想像できたので過ぎ行く街並みを眺めていた。
「私の夢はね、宇野さん」
やはり眠たくて会話しないとコックリ眠ってしまいそうなのだろうか。適当に応じることにした。
「幸せな家庭を築くことなんですよ。妻子と一緒に遊んだりして」
藤江は急に速度を落とすと、すみません、と詫びた。
「子どもは同意して決めたことだから気にしなくていいよ。現代社会で結婚は難易度が高いぜ?」
藤江は、うーん、と唸ったまま口を閉じた。私の結婚も運がよかっただけだ。子どもについては仕方なかった。妻は妊娠しづらい体質。私は三十五歳ごろから極端に性欲が減退し、精嚢はほとんど機能していない。生活全般に関わる種々の困難に備えて骨盤底筋は鍛えるようにしていたが、八ヶ月くらいサボっている。
コンクリート斜面の山道を抜けると稲穂の緑が燃えているのが見えてくる。またコンクリート斜面の山道になり、しばらく走ると緑が燃える。この風景の連続を走り、どこかで右折すると日南町だ。
「どこで右折するんだっけ?」
「あと橋を三回渡ったら右折です」
到着が楽しみなのか、藤江は眼を輝かせていた。私は道路の横を流れる日野川と思しき一級河川をつまらなく思った。山陰の中山間地に行けば、どこも同じような景色になる。中国地方最長の江の川ですら、面白いと感じなかった。たいていの川の上流には自然が創り出した大岩があったり、水質が綺麗だったりと普通の人は心動かされる。が、私はそうではない。北海道なら満足できるかもしれない。大山にスイカの種が届くかどうか飛ばしてみたい。ささやかながら、くだらない妄想をしていると、
「着きましたよ」
と藤江が声を上げた。
車窓の外に眼を向けると、数寄屋門が見えた。私は思わず、
「なんちゅう豪邸だよ……」
と感嘆の溜め息をついた。
門を開けると左に二階建ての離れがあった。土蔵と言ってもいいかもしれない。武家の家柄なのだろうか。玄関扉を開けると、土間が広くて言葉を失った。式台なども我が家の何倍も長い。家主が姿を現さないので、使用人がいるのかと思った。とにかく部屋数が多くて広い。奈良の志賀直哉旧居のような印象を受けた。驚きのあまり勝手に探索していたが、藤江が手を横に向けて、
「ここから奥の部屋です」
と、小声で言った。
何部屋か通ると、木製の引き戸がある一室に突き当たった。藤江に眼をやるとうなずいた。私は引き戸に手をかけた。が、なかなか滑らない。力を込めるとガタッと動いた。力んだので屁が出た。室内は私のような建築素人でもわかった。ここは納戸だ。とはいえ、エアコンがあり、テーブル、ベッドがあり、普通の部屋だった。小便が漏れそうな様子でウズウズしていた藤江が、
「第三席、藤江、ただいま参上しました!」
と声を張り上げた。
私は藤江を愚かしく思い、やや侮蔑の眼で見ていたが、
「次席の宇野です。ただいま参上」
と細い声で名乗った。
「筆頭」は資料を見ながらノートパソコンに何か打ち込んでいたが、こちらを向くと、
「お、二人とも久しぶりやん」
と笑った。
声音は雄々しさに欠けて軽薄だったが、眼鏡をかけていること以外は矢沢永吉にそっくりだった。藤江は緊張を隠しきれておらず、変に恭しい態度をしていたが、私は「筆頭」を随分前から知っていた。門の表札を確認するのを失念していたが、玉木という姓だったはずだ。十年近く関係がなければ忘れる。かつて無職にも関わらず参加した青年会議所主催の異業種交流イベントで私とともに彼は浮いていた。
「まあ、座りぃや」
私は目礼してすぐ胡坐をかいたが、藤江は最敬礼ののち、足を揃えて体育座りした。
「宇野くんは、何か大変やったらしいなあ。でも、仕事を一日で辞めたらあかんで」
藤江は恐縮しきって何も話すことができないようだった。一廉の人物に違いないが、この男はただの研究者だ。というより、不労所得で生活している我々と同じ人種だ。私は洋書ばかりの本棚を横目に、
「七、八月のうちに三人揃えます。玉木さんのほうは研究どうです?」
と、いかにも興味津々を装って訊ねた。彼は嬉しそうに白い歯を見せて笑うと、
「関西の私大から何校かオファー来とるで。研究業績もかなり溜まったでな。どっか受かるんちゃう?」
大学教員の採否は、出来レースだとしても必ず公募で採用情報を発信する。玉木はすでに採用が決まっているような気がした。
「ここには飽きたでなあ。宇野くんと藤江くんとで競争して三人を早く集めた方を後継にしよか。できれば山口県民、岡山県民を選んでくれるとええなあ。広島県は藤江くんがおるしな」
藤江が広島出身だということも初耳だった。美保関の家は寓居なり別荘なのだろうか。玉木は静かに肩を揺らしながら、
「そんな気合い入れんと適当でええで。これまで五人おったことないしな。五人おらへんのかい、ってなったほうがおもろいやん」
と、眠そうに眼をこすると再びノートパソコンに向かった。バチバチとキーボードを叩く音がし始め、面会は終了したと思われた。私たちは背を向けた玉木に一礼すると足早に家から立ち去った。
玉木に三人迎え入れると意気込んだ手前、私には対象者がいなかった。その境遇は藤江にも該当し、彼は岡山県の二人を抱えているが一人足りない。三人を一人で集めるのは極めて困難で、もう少しで手が届きそうな藤江にも不可能だと思われた。昨日、帰りの車中で私と藤江は意思統一し、競争ではなく協同して三人を迎えること、二人を入れる藤江を次の「筆頭」とすることを取り決めた。彼は次席の私が継ぐべきだと訴えた。私は彼の肩に手を置き、席次は序列や階級、まして年功ではないと説いて納得させた。
退職してからセカンドカーを動かしていなかったので、少し遠出をしようと思った。トラックのバッテリーは強靭なので、数ケ月くらい放置してよさそうなものだった。が、寝台つきの中型トラックは当然、長距離運転を想定しているはずで、何もしなければバッテリーの不具合は絶対に避けることができないだろう。久方ぶりに座席に腰を下ろすと、視線が高く雲上人になったような気分になった。
クラッチを踏んでキーを回すと激しい揺れとエンジンの爆音に晒された。アイドリングしながら車体に異常がないか点検して回った。スポーツカーのつもりなので、平ボディの荷台には何も載せていない。中型とはいえ、全長八・五メートルのトラックは怪物だ。燃料タンクの容量は百リットル。燃費は荷がなければ一リットルあたり四か五キロは走る。馬力は二百を少し超えるくらいだったと思う。当たり前だが、普通のスポーツカーのほうが速い。そのハンデを覆すところに公道バトルの醍醐味がある。
エアコンをつけ、私室に戻ると着替えを大きなレジ袋に突っ込んだ。家中の施錠を済ませ、上がりにくいステップを踏み座席に乗った。大山が少し近くなった気がした。ひとまず、山口市を目指すことにした。理由は単純で、下関市は都会だからだ。玉木には悪いが、人口が多く、対象者を探しやすい広島、福山、岡山、倉敷の四市は絶対に行かない。スマホのナビによると、下道で四時間半(二七〇キロ)、高速道路だと三時間五十分(三百キロ)で到着するらしい。大した時間の差はないので、島根県を東西に横断しながら窓越しに日本海を楽しめる国道九号を走って目的地を目指すことにした。よし行くぞ、と勇み立ったものの、エンストして発車すらできない。試行錯誤しているうち、二速にギアを入れているつもりが四速に入っていたことに気付いた。私が下手なのか何度も練習してやっと自然に二速に入るようになった。
ホテル代ごときけちるな、ともう一人の私が誘惑してきた。つい誘いに乗りかけたが、これぞまさに有閑人の「真剣な遊び」だと自らを奮い立たせた。梅雨だというのに、カンカン照りの日々が続いていて、もう「出雲」という地名を変えるべきではないかと思ってしまう。日焼け止めの代替品として下地とファンデーションを顔、首、腕に塗り、十時過ぎにのろのろと出発した。
島根県の日本海は東部と西部でまったく異なる。東部は黒々として何一つ面白いところがない。西部は淡い青に波がキラキラ光り、見ていて飽きない。その境界は出雲大社が神迎え神事をする浜だと思っている。厳密には黒すぎず淡すぎずという塩梅で何とも形容しがたい。八百万の神が通るということで、あの一帯の海は特別なのかもしれない。その浜を過ぎてほどなく、大きな道の駅がある。私はそこで休憩を取ることにした。
寝台で横になると囲碁のスマホゲームをした。九路盤で相手のレベルは最低に設定したが、まったく歯が立たない。もちろん、私が先手だ。定石として見直されてきているらしい初手の天元打ちにこだわって何度も勝負しては圧倒されて負けている。運よく横に壁を作るような展開になると優勢だ。といっても、最後は半目勝ちの辛勝が多い。相手はコンピュータなので、私はこれからもかっこつけて初手からど真ん中に石を置き続けるだろう。
囲碁教室には子どもから大人まで幅広い年齢層が通っていると聞く。九路盤で相手してくれる人がいるとは思えないが、天元ばかり打っていれば嫌でも目立つだろう。そのうち、運営者や講師が声をかけてくるかもしれない。仲も深まれば賢人として誘うこともできる。
希望が湧いてきたので、出発することにした。調子に乗って排気ブレーキを作動させ、インパネにマークを表示させると、アクセルを踏んでは離してを繰り返した。プシュー、プシューと音がする。いい気分だ。リズミカルにクラクションを鳴らしていた藤江のことが思い出された。いまなら彼の気持ちがわかる気がする。
私は世界一大きな砂時計の横を通り過ぎながら、排気ブレーキのリズムに酔いしれた。が、そう間もないうちにトンネル前の広い場所で停車した。ハザードランプを点滅させると排気ブレーキを切った。というのも、囲碁教室に通うにしても都会のほうが数が多いと気付いたからだ。山口市に一つもないわけはないと信じたかったが、落ち着かないのでスマホで確認することにした。
通話履歴に一時間前から藤江が六回も架電してきていた。気になったので彼にかけなおした。一コールが鳴り終わる前に繋がった。
「出るの早いな。何かあったの?」
『新しい候補者が加入に同意しました! すぐ七類港に来てください!』
藤江の声は異常に上ずっていて、やや早口だった。一人で三人を見つけたのだなと安堵するとともに、私はそのまま山口市に行こうと思った。
「いま西におるのよ。大田。正確には大田市仁摩町。すぐには戻れん」
『そのほか重要案件あり。すぐ帰松されたし。次の「筆頭」は私です』
「そりゃそうだけど……」
一方的に電話を切られた。おかしな言葉の調子だったが、素直に帰ることにした。せっかくスポーツカーに乗っているのだから、この際、高速道路で引き返そうと思った。少し東に行くとインターチェンジがある。そこから乗れば、七類港まで一時間半で到着だ。時刻は二時を過ぎていた。LINEのメッセージで到着予定時刻を藤江に送信した。急に不愉快になり、県西部の海にも山口にも興味がなくなった。助手席のクーラーボックスからノンアルコールビールを取り出すと、ぐいっと半分ほど口に流し込み、発進した。
島根県の高速道路も熟知しているので、運転といっても単なる作業のようなものだ。法定速度を守って走っていたら、型式の古い軽自動車に煽られた。サイドミラーのなかでカニのように左右に移動している。いつもの私ならエンジンブレーキと排気ブレーキを併用してブレーキランプを点灯させず急に速度を落とすところだが、無心で走り続けた。
片道一車線ばかりの島根の高速道路を疾走してもすぐ前方の車両に追いついてしまうので意味がない。煽り運転家たちはそれを知っていてもなお、前方の車を煽る。枯れていない時分は、前が塞がってもなお煽り続ける彼らを煽ったり、ギアをニュートラルにして空吹かしをしたものだが、いつのころからか一切やらなくなった。もちろん、煽られると腹が立つ。どうにかして仕返しをしてやろうとも思う。たしか煽り運転は罰則が科せられるようになったと耳にしたが気のせいだろうか。追い越し車線が見えてきたので、左のウィンカーを点滅させながら後続車に譲った。
インターチェンジを「美保関方面」で降り、自動車専用道路を直進すると丁字路の信号機がある。そこを右折すれば七類港までは道なりに進むだけだ。ここまでくれば私の庭も同然で無灯火で走ることもできる。夜間のハイビームが推奨されているが、こんな単調な道でハイビームを用いるような視界の狭い運転者は免許を返納したほうがいい。
漫然運転から正気に戻ると、バス停の目の前で停車している車を見つけた。私はなぜか腹が立って横道に入って停車すると、その運転手に声をかけた。
「バス停の前は駐停車禁止なのはご存じですか?」
車に乗っていた五十歳ぐらいの男は窓を少し開け、
「なんですか? なに?」
と、やや驚いた様子で言った。
「すみませんが、十メートルほど進むか後退してください」
「え? なんで? バスが来るのは十五分後みたいだよ?」
男の眼に怒りの灯が宿り出したので、私も腹の虫がおさまらなくなった。
「じゃあね、運転手さん。警察官が来るのでここにいてください。あと写真を撮りますけど、道交法違反ですんでね。証拠を撮るので悪く思わんでください」
スマホのカメラにバス停と車を収めると「一一〇」が表示された画面を男に見せ、
「じゃあ、通報しますので」
と、人差し指をゆっくり画面に近づけていった。
男は無言で窓を閉めると急発進して走り去った。方向指示器を出さんかい、と独言してトラックに乗り込んだ。賢人はアンガーマネジメントも重要だと自分に言い聞かせながら、クラッチを踏み、シフトレバーを掴んで無作為にギアチェンジを繰り返した。腕が疲れてレバーの先端を上下にさすっているうち、笑いが込み上げてきた。徐々に運動の速さを上げていき、愉悦の絶叫を上げた。
アンガーマネジメントの思いがけぬ発見に喜んで運転しているうち、やたら速度の遅い軽自動車に追いついてしまった。シルバーマークがリアに貼ってあり、これは仕方ないと車間距離を取って私もゆっくり走った。が、どうも車体が右に寄りすぎで、たびたび黄色の実線をはみ出している。黄色実線は工事や障害物など、やむを得ず避ける場合を除いてはみ出してはいけない。さきほどから路上を遮るものはない。七類港はもう少し先だが、近づくにつれ、道幅はどんどん狭くなる。飲酒運転ではなさそうだが、いかんせん黄色実線を越えて走りすぎだ。狭いカーブで大型車が来ると危ない。私は見通しのよい直線になったところで窓から右腕を出し、左のほうへ振りながら、
「左へ寄れ! 左へ寄れ!」
と繰り返し叫んだ。
前方車両はハザードランプを点灯させながら減速し、左の路肩に停車した。私は「左へ寄れ!」が「左へどけ!」に聞こえたのだと思った。悪いことをしたなと反省してすぐ謝罪しようとしたが、トラックが大きすぎて停車するわけにはいかず、そのまま通り過ぎた。何となく気分が晴れないまま、二十五分遅れて七類港に着いた。
構内は道路の体裁をとっているが、たしか船会社か公的機関の私有地だった記憶があるので、ポイ捨て禁止看板の下に記されている連絡先に架電し、駐車許可を取った。フェリー乗り場のほうへ駆けていくと、男性二人の姿が遠くから見えた。一人がこちらに気付き、大きく手を振った。おそらく藤江だろう。私はしきりに頭を下げながら両者に近づいて行った。
遅刻した理由を話すと二人は理解を示してくれた。もう一人の男は定岡といって七類で農家をしているらしい。くたびれた作業服に麦わら帽子を被っていた。顔は日焼けし、齢は七十だというが、背筋も真っ直ぐで立派な体躯だった。
七類は美保関町で最も人口密度が高く人の多い大字だ。藤江と一緒に定岡の車に揺られながら、住宅と港だけの地域に農業を営む場所があるだろうかと疑った。車は住宅密集地を抜けると暗い雑木林のなかを百メートルほど進んだ。陽光が射したと思ったら、目の前に広大な土地があった。どうやら偽りではなかったらしい。西に田畑とビニールハウス、東に大きな日本家屋があった。北に獣道が続いていたが、この奥に人がいるとは思えなかった。
横に座っていた藤江が私の肩に肘をぶつけ、雑木林も定岡の私有地だと耳打ちした。とんでもない大地主だ。定岡に降車を促されると改めて広大な土地を眺めた。私は定岡に自己紹介し互いに挨拶すると、
「これは海水農業ですか?」
と訊いた。
定岡は豪快に笑いながら遠くを一見すると、
「山から掃いて捨てるほど水が出るけえなあ。そがな最先端農業やっとったら、いまごろワシ破産しとるけえ」
と言って肩を大きく揺らし続けた。
ツッコミどころのある独特な言い回しと語尾から島根県西部出身者だと確信したものの、それ以上の詮索は控えた。初対面でほんの一回、言葉を交えたに過ぎないが、雰囲気も颯爽な感じで賢人として列席するに十分値すると判断した。そのうえで、「意味のない真剣な遊び」を有しているか、もしくはそのようなものに興じることができるか問うた。定岡は、年配者らしく人生は全部遊びみたいなものだと笑うと、
「今日から宇野さんも友達だけえなあ。こがなふうに毎日楽しくテロテロ生きとるだけで十分だけえ」
と真面目な眼をして話した。自分を自然の一部として認め、あるがままに生きる。かといって主体性まで自然に任せてばかりというわけではない。概ねそんなことを言っているように私は受け止めた。定岡と話していると、良い意味で枯れ具合が加速していきそうだった。藤江との接点を訊くと、本人と話したほうがいいかもしれないと促された。
「うちで夕飯食って帰りんさいや。ワシが作っとくけえ。準備できたら呼ぶけえ」
頂戴する旨を述べ、礼を言うと藤江を探した。こんな開けた場所で迷子になるわけがないので全方位に視線を飛ばした。獣道の入口横に簡易テントぐらいの大きさをした小屋らしきものを見つけた。扉はなく、なかを覗くと藤江が見たこともない巨大な生命体と添い寝していた。ヤモリのような尾を揺らしている。豚かカバか犬、もしくはそれらの雑種だと思われた。ポーションを歯茎に挟むと見なかったことにして、そっと後ずさりした。
「宇野さんも一緒にどうです?」
動悸が激しくなった。これは罠だと思った。私が横になったところで、この巨大生命体の餌食にするつもりなのだろう。藤江は社長令息だと聞いていたが、生物学者という裏の顔があるのかもしれない。
「このさんの学名はなんていうの?」
「アメリカン・ピット・ブル・テリア」
淡々と藤江は答えた。動転している脳を鎮静させるため、ポーションをもう片方の歯茎に挟んだ。まったく確信が持てないが、実世界ですでに存在している生物だろう。スマホで検索すると画像付きで表示された。犬らしいが、かなり攻撃的なようだ。
「おとなしいですから、なかへどうぞ」
「噛みついてきたら容赦しないからな」
私はゆっくり犬に近づくと臨戦態勢のまま腰を下ろした。背をなでるとザラザラしていた。ネットの情報通り、かなり体毛が短い。正面に移動して顔を見た。口を金魚のようにカプカプ動かしている。歯茎か唇か判別できなかったが、ひだ状になっていて歯と一緒に横に飛び出ていた。大きな舌を垂らしているのはみっともないが、優しい眼をしていて、いわゆるブサカワという感じだった。おとなしいのは間違いなく、頭をガシガシ撫でてもピクリとも動かなかった。
「宇野さんに懐いていますね」
藤江が起き上がって胡坐をかいた。
「うん。もう心の友だよ。お互いオスの象徴を使うことなく死んでいくからね」
彼の笑いのツボではなかったのか、黙ったまま犬を撫でていた。そのうち口を開き、
「私も七類に住んでるんですよ」
と呟いた。
あそう、と流していたら、散歩中に犬がへばってしまい困っていたところを定岡に声をかけられたと話した。私は犬に関して無知で、大型犬の寿命が十歳ぐらいだということを藤江の口から初めて聞いた。彼の犬の名は「チャブ」というらしく十二歳の老犬だそうだ。最近はずっとぐったりしていて、いざ危篤というときにすぐ駆け付けられないので、原則的に自分の土地から離れない定岡に様子を見てもらっているという。カプカプと口を開閉するのは敵意がないという意思表示らしく、知らない人間に遭遇した際にとる行動のようだ。チャブは疲弊しているのか暑いのか、さらに舌を垂らした。
「ディープキスもせずに終わるのは悲しいな」
中年になると場の雰囲気などおかまいなしに下ネタを言うようになると聞いていたが、私がまさしくそうで、悪気はないのだが、無自覚に口が滑る。今回の失言は舌の短い妻を念頭に入れた言葉だった。それも心中で妄想していただけだ。なぜ実際に発してしまったのだろうと猛省した。藤江は何も聞いていないという様子でチャブを撫でていた。
「定岡さんが夕食を作ってくれるってさ。チャブは何を食うの?」
藤江はうつろな眼を上げると、
「芋。焼いた豚肉。小さく切って冷やして」
と独り言のように話し、薄茶の体毛をまた撫で始めた。
どうも空気感が好転しないので、藤江が親バカぶりを発揮しだすのを待った。さすがにいつ死ぬかわからない愛犬について話すのは無理だろうと思い始めたとたん、堰を切ったように藤江が喋り出した。チャブは同犬のなかでも小柄で体重は三十五キロくらい、自分と久しぶりに会うと顔を上下左右に振り回して歌うように鳴く、利口で放屁するときはスーッと静かに音を発する。
私の脳は最後の条のみ記憶した。芋と肉ばかり食べていたら、さぞかし臭い屁に違いない。子犬のときから撮り溜めていたという写真を強引に見せられているうちに定岡の呼ぶ声が聞こえた。
そうめんは好きだが、他者が麺をすする音が耐えられない。それは麺類一般に該当する。つゆやスープが食卓に飛び散り、不快極まりない。唯一の例外がジャージャー麺でとくに何も感じない。食前に混ぜるという行為があると具合がよいのかもしれない。思えば冷やし中華も不快ではない。私の箸が進まないのを見かねたのか定岡は、
「宇野さんは、そうめん好かんのだろうか」
と自身に問いかけるように言った。
「いえ、二人の豪快な食べっぷりに圧倒されまして」
皮肉を交えたつもりだったが、定岡は気にする素振りもなくズズッと麺をすすった。そうめんに混ぜるものが浮かばず、私は対抗手段として椀に大量に麺を入れて二人の分量を減らすという措置を講じた。さらに、定岡を離席させようと、我が家では山葵とネギではなく、生姜とミョウガを薬味に加えると主張した。ミョウガは入れないが、生姜は本当だ。定岡はいっそう不快な音を発すると、あっこにあるけえ、と冷蔵庫を指さした。私は箸を置くと、ごちそうさまでした、と合掌した。二度目の完全敗北だ。この程度の窮地を抜け出せなくて何が賢人だ、と自分の力量不足に不甲斐ない思いを抱いた。
―ズズッズッ。
―ズズーズッ。
二人の不快なセッションは十五分ほど続いた。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが立派な作曲家で心底よかった。さらにはマイルス・デイヴィス、コルトレーンが立派なジャズメンで本当によかった。即興で麺をすする音を入れられたら私は卒倒していただろう。うまかったと光に満ちた眼を交わす二人を見ていたら、わずかに心が安らいだ。次に三人で会食する際は境港の飲食店か私の自宅に招待しようと心に誓った。
何度も見送りを断ったにも関わらず、定岡と藤江はついてきた。藤江は往時の逞しさを想像させるようなチャブの疾走に引きずられていた。藤江は私のトラックを一見したことがあるので黙っていたが、定岡は静かな港に響くほど哄笑した。
「農業やっとるワシですら軽トラよ? せめて小型にせにゃ通れるところも通れんで」
そんなことは百も承知だったが、私は「はたらく自動車」が好きなのでどうしようもない。国交省の黄色いトラックとダブルキャブの消防車が欲しくて欲しくてたまらないが、誰にも言えずにいる。笑いながら定岡は、
「宇野さんはどこに住んどんさる?」
と訊いた。
私の住まいは七類からトンネルを抜けるだけの宇井という大字だったので、明かすのがためらわれた。が、そうめんを食べるくらいなら住所を教えた方がマシだと考え直し伝えた。二人は手を振りながら、それぞれ、
「酒も掃いて捨てるほどあるけえ、いつでも遊びに来んさいよー」「気を付けてくださいね。イノシシやタヌキが出ますから」
と、別れの言葉を口にした。
発進後、ブレーキを五回踏むと一気に加速させた。二人の姿がサイドミラーから消えると藤江の忠告どおり、獣の飛び出しに注意して速度を落とした。前方にチョロチョロと蛇行しながら動くウリ坊を見つけた。ガードレールの外に出て行ったのを確認するとアクセルを踏んだ。ガコッという音がした。逃がしたのに何でこうなるんだと憤懣やるかたない気持ちでハザードランプを点け、車を停めた。
何度も経験した私的データに基づくと、ガコッという衝突音はイノシシと相場が決まっている。イノシシは白黄が認識できず視力が悪いので逃避行動をしない傾向がある。もしかしたら、さっきのウリ坊だろう。だが、ウリ坊なら荷台より低いはずだ。まさかキャビンかと周囲を確認したが、問題なかった。荷台の下方を入念に見ていたら、オイルタンクなどを横に覆うサイドガードがへこんでいた。オイルタンクは無事だった。死体はなかったので、親イノシシがぶつかって走り去ったのだろう。
島根県全域に該当することだが、人が減って獣が山から下りてきている。県東部はサル、イノシシ、タヌキ、県西部はクマの目撃情報が毎日のように寄せられている。こんなニュースは仕入れたくもないが、ネットをやっていると強制的に見せられる。自宅はすぐそこなのに帰る気が失せてしまったので、コンビニ駐車場のトラックゾーンに車を止めると、何を考えるでもなく、へこんだサイドガードをずっと見つめていた。
無為徒食の生活に復帰したら、八月になっていた。相変わらずエアコンの効いた部屋でネットサーフィンをしていた。カニやヤモリを実験という名の「真剣な遊び」に巻き込むこともしなくなった。滅殺すると家の生態系が狂いかねないと思ったからだ。フナムシはとっくの昔に飽きていた。虫の鳴き声や花火といった風物詩とは無縁で、暮らしぶりに季節感はない。一つ例外があるとすれば、数日後から始まる甲子園だ。私が推している高校の都道府県は、京都、大阪、愛媛、大分の四府県で中国地方は一県もない。
藤江と定岡との交流も絶えて随分になる。彼らは「意味のない真剣な遊び」を続けているのだろうか。考えても仕方ないので、藤江に岡山県の候補者二人との面会を急ぐようメッセージを送信した。「意味のない」「真剣な」「遊び」などという言葉は考えだしたら思索の深淵に落ちそうだった。こういう胸中なり事象なりを私は柄谷行人現象と呼んでいる。彼の著書『日本近代文学の起源』が「日本」「近代」「文学」「起源」と個別に読めるのと同じ原理だ。
心中穏健の徹底が肝要だと思い、勃起不全の知人がやっていた骨盤底筋を鍛えるトレーニングをすることにした。彼は高速道路の写真集を枕元に置き、それを見ながら女性の秘部に陰茎を挿入する要領で行っていた。大橋ジャンクションのページを開いていたらしい。写真集を使用する理由がわからなかった。目的の違いかもしれない。私は第一に体幹の安定だ。ずっと寝ていて通常歩行が怪しくなってきた。第二に尿漏れ防止。四十歳にもなれば小便の切れが悪くなると聞いていたが、私はどうも具合が悪く、煎餅ほどの大きさが下着に滲むようになった。
さっそく、布団の適当な場所を秘部と仮定して腰を振ってみた。六十回を超えたあたりから太腿がプルプルと震えてきつくなった。オーバーワークはよくないので、すぐに切り上げた。予想以上に疲れたので横になった。メッセージに既読が付いていないかチェックすると、私が送信した一分後には返信が来ていた。段取りはすべて整えてあるようだ。目的地は岡山県新見市。この街は数年前、避暑のために妻と三週間ほど滞在したことがある。市街地が南北に伸び、東西は短い過疎地だ。出発は明朝で宿の予約も手配済み。藤江は預言者かなにか、未来透視ができるのか。どこかの国の非常勤エージェントかもしれない。もう考えることすら疲れるので、軽く十回ほど腰を振ってさっさと眠ってしまった。
昨日は寝て起きてを繰り返し、合計で十三時間くらい寝た。運動で疲れた影響もあるだろう。それぐらいの長い睡眠を確保しておいてよかった。今日もまた藤江の軽トラで新見に向かっているからだった。彼は下道を通ると主張したが、それでは日南町へ行く道と変わらない。国道一八〇号を途中で折れず、さらに南下すれば新見市だからだ。エアコンもない車で何度も同じ道は通りたくない。境港、米子の両市を通ることは避けられないが、後者のインターチェンジに乗ればただ走るだけで新見市に到着する。とはいえ、通った回数でいえば高速道路のほうがはるかに多かった。強く押し切って藤江を説得させた半面、彼も高速道路に飽きていることは明らかだった。
背面から見る大山は峻厳な山だ。いかにも霊山という様相を呈している。大山を過ぎると中国山地のなかをひたすら走る。景色は変わらない。山越えが終わると岡山県真庭市の街並みを望むことができるが、これも見飽きている。どこまで真庭なんだ、と広すぎる行政区画に憤りを感じ出すと「新見市」の看板とインターチェンジが見えてくる。所要時間の一時間半で交わした言葉はなく、藤江は当てつけのようにクチャクチャと咀嚼音を発してガムを噛んでいた。料金所のゲートを抜け、一般道に降りると藤江が右折したので声をかけた。
「そっちは日南のほうだぜ」
「待ち合わせは三時です。あと六時間も何するんです?」
藤江はガムを吐き出すと不満そうな眼をした。新見は井倉洞で知られており、JR新見駅には伯備線と姫新線が乗り入れている。鍾乳洞も鉄道も私は興味ないがブラブラしていたら六時間くらい平気で時間は過ぎるだろうと思った。市街地は南北に約八キロ、東西は二キロぐらいだろうか。典型的な盆地だ。北、中央、南の各エリアにショッピングモールや病院などがある。公立大学が立地しており、中山間地域にも関わらず若者の姿が目立つ。妻と三週間いた間、過疎地という印象は受けなかった。その土地に住まない他者視点だから好意的に感じたのかもしれない。私はダムが好きなので、千屋ダムに行こうと提案しようとしたが、それこそ日南方面にかなり走る必要がある。涼しいファミレスで粘ろうと思った。金だけはあるのだから。
「ファミレスで酒を飲もう。一人くらいだらしない奴がいたほうが先方も安心するよ」
私の提案は即否決された。まだ機嫌を害しているのだろうか。事前に聞いた候補者二人の略歴が珍奇だったので、私はいささか緊張していた。酔いたかったのは脳を麻痺させたかったからだ。両者とも本籍は島根県で団体職員らしいが、役員かその長だろう。一人は西ドイツ生まれ、もう一人はイラン生まれ。現在は新見在住の高等遊民だ。
「千屋温泉でも行こうか」
「最初からそのつもりでしたよ。そこで完結しますから」
藤江のプランがようやくわかった。二人との面会場所は千屋温泉。宿泊もできて食事もできる。少し離れた場所にアトラクションもある。よっぽど時間があれば「筆頭」を訪ねて戻ることもできる。周到な計画に舌を巻いた。国道一八〇号を二十五キロ北上し三十分で着く。てっきり市街地のビジネスホテルだと思っていたので、早く教えろ、と心中で憤ったが、温泉の楽しみがそれを勝った。道中は延々と緑が燃えていたが、つまらないとは思わなかった。同温泉は美肌効果を謳っていた。少なくとも、これから外見は枯れていると誰も言うまい、と車中でほくそ笑んだ。
目的地に到着後、すぐに湯に浸かった。数分浸かっては浴槽の外に出てまた数分浸かった。湯口の前にいる老人がなかなか出ないので根比べになった。彼もまた外見だけでも若返りたいという魂胆だろう。コンクラーベよりは早く決着がつくはずだ。
「自然に齢を重ねるということができんもんですかねえ」
隣で首までどっぷり浸かっていた藤江が天井を見上げた。一理あると思い、老人がなおも鎮座するようなら湯口はあきらめることにした。成分だけでも多く摂取しようと湯煙をスースー吸い込んだ。藤江は黙ったまま、ずっと天井を見上げていた。湯煙の吸入を続けていたら、藤江の近くで大きな気泡が弾けるのが見えた。
「藤江、見損なったぞ。ミスディレクションまで使いやがって」
「何か言いましたか?」
やましい行為はしていない表情だった。人間には認識不可能な事象は起こり得るものなので、それ以上の追及はしなかった。バシャッと音がして湯口の老人が立ち上がった。老人の周辺の湯煙が不思議と薄くなった。温泉で他者の陰茎を見ることはないが、その老人は仏塔と呼んだ方がふさわしい立派なものを備えていて、思わず凝視してしまった。彼に畏敬の念を抱いたが、一方で勃起の収拾がつかず仕方なく長く漬かっていたのかもしれないと想像した。私は仏塔の跡地に座ることはできかねて、藤江に一声かけると軽く湯を拭き、脱衣所の戸を開けた。
着替えを済ませロビーに出ると、有料のマッサージチェアが視界に入った。硬貨を入れると足先から頸部までブルブルと振動する。強弱の調整ができるようで、私は最も強い刺激を求めた。ほんの気休めだろうと思っていたが気持ちがいい。膨れた腹が揺れるのが恥ずかしかったが、すぐに終了してしまったので、もう一回起動させた。こういった普通の人たちが触れるものにほとんど接してこなかったので新鮮だった。ビジネスホテルで高額料金を払って受けた指圧マッサージより気持ちがいい。やがて私は来客の注目の的となったが、気にせず揺られていた。
しばらくすると、藤江が金髪と坊主の男を伴って現れた。私は硬貨を再投入した。金髪と坊主が進み出て挨拶した。金髪は上原、坊主は城島と名乗り、同級生だという。どちらか西ドイツ生まれで二人は顔つきも中年だったので私と年齢は同じくらいだろう。ともに小柄だが全身に脂肪が異常についていて、一見した限りでは平均身長だと言っても誰もが信じる体型だ。上原はアロハシャツに短パン、城島はピンクのTシャツに短パンだった。
私はすでに二人を好ましく思った。私自身もシワのひどい白のポロシャツに短パンだったからだ。それに、腐っても賢人の先輩との面会を控えているにも関わらず、堂々とラフな装いをしているのは自分に自信があるからに他ならない。脱衣所で背広に着替えて両者の後ろに立っている藤江がひどく凡庸な男に映った。
凡庸な男の説明など聞きたくなかったが、彼の話では二人は昨日から泊っていると言う。上原が自分の部屋で話をしないかと提案した。彼の部屋は大部屋らしく、私たち全員が入室できる。しかし、藤江と私はチェックイン前なので、宿泊者の部屋に入ることはできない。どうしたものかと悩んでいると、
「ワシがフロントに言って何とかしてもらっちゃるわ」
と城島が宿泊棟のほうへ歩いて行った。城島は並々ならぬ雰囲気を発していたので何とかしてしまうのではと思った。彼をよく知っているはずの上原に眼を向けると、
「楽勝っスよ。少なくとも俺は城島が何かでしくじった話を聞いたことないです」
と言って余裕のある振る舞いをしていた。
私は二人を頼もしく思った。これから長い付き合いになりそうだと早くも期待が胸中で膨らんでいた。心地よい振動が止まったので、マッサージチェアに硬貨を入れた。せめて千円札の差込口ぐらい作ってほしいと憤慨しているうちに城島が戻ってきた。
「だめでしたわ。いっそのこと、ワシらの施設に来ます?」
城島は毒づきながらロビーチェアに寝転んだ。上原は、しゃあない、と言って寝転んだ。私は藤江に顔を向けると城島の施設に行くべきかどうか眼で訴えた。藤江は薄く笑みを浮かべると、ゆっくり二回うなずいた。
新見市内の南東に位置する哲多町に城島の施設は所在していた。廃校になった小学校を地域の交流施設として再活用しているらしい。城島と上原の言動を観察していたら、二人はどうやら共同経営者のようだ。昼食は調理実習室で和牛のステーキを食べた。うまかった。同時に麺類でなかったことに胸をなでおろした。上原が夕食は流しそうめんかバーベキューか選べというので、迷うことなくバーベキューにした。藤江もバーベキューを選んだらしく心底安堵した。遊具はすべて撤去されていて、サッカーゴール一対が広い校庭にぽつねんと置かれていた。日陰から淋しい校庭を眺めていたら、
「子どもらのこと考えたら芝がいいけどなあ。高齢者のこと考えたら土がいいわ」
と城島がこめかみを掻きながら言った。
事態は簡単ではないらしく、子どもの安全を考慮すると芝、サッカーや野球を経験させるなら芝は不適と言う。高齢者はグランドゴルフが大好きらしく土で問題ないらしい。私は腕を組みながら、
「転んで怪我するのも、子どものうちに経験したほうがいいんじゃない?」
と、それらしくも無責任な言葉を発してその場を離れた。
校庭の外れには農園があった。上原がナス、キュウリ、トマトなど夏野菜の収穫に汗を流していた。これらの収穫物も地域の人らに与えたりするのだろうか。だとすれば、彼らは聖人だ。私は久しぶりに触る肥えた土の感覚に涙しそうになりながら、
「これ無料でしょ? 田舎の人は喜ぶね」
と言って手の平の土を落とした。上原は私に視線を向けると、
「いや、有料っスよ。校庭の使用代とか。善意ではやっちょるけど」
と淡白に返答し作業に戻った。
大金持ちが銭を徴収する理由がわからなかった。なかなかできる取り組みではないので、顕彰に値すると思った。金銭の徴収は何か理由あってのことだろう。藤江の姿が見えないので校舎に入った。彼がいそうな場所を探す。職員室や教室にはいないだろう。屋上と体育館も考えにくい。校長室はつまらない。移動が面倒なので、音楽室、視聴覚室、放送室に絞った。デブに歩かせんな、と怒りを抑えながら最有力とにらんだ放送室の扉を開けた。
「私の居場所がよくわかりましたね。褒めて差し上げましょう」
中途半端なキャラ変を無視して、なぜここにいるのか訊ねた。
藤江は、昔から校内放送を通して女子に愛を告白するのが憧れだったと話した。そういうのはアニメ、ドラマ、映画など映像芸術の創造物に過ぎない。小学校の放送委員会は掃除の時間に決まった音楽を流すだけだ。中学になると昼に音楽を交えた番組を放送する。高校では、番組制作とともに体育祭の実況や校内イベントの照明担当、そしてコンテスト参加がある。おそらく、小中高いずれも告白なんてする余地はない。
私はできるだけ藤江の意を汲んで彼の肩に手を置くと、
「幸せな家庭を築くことが夢って言ってたね。廃校になった小学校の放送室で何を言っても未来の伴侶には届かない。マッチングアプリでもやりなよ」
と言って、過去のことを振り返っても時間の無駄だと念を押した。が、年長であることを利用して偉そうに高説を垂れるのも嫌だったので、適当にはぐらかした。藤江はなぜか泣き出した。私もよく泣くので、彼が落ち着くまで傍にいようと思った。
翌朝の九時ごろ二人と別れた藤江と私は玉木に報告をするため、日南に寄った。二人は組織的でなく、友人ほどの関係性に留めるなら賢人として名を連ねてもいいと同意した。玉木は引退となるが、藤江が「筆頭」として跡を継ぐ。直接報告する必要はないが、帰路に寄り道する程度のことなので玉木の家がある路地に入った。
藤江が急に車から飛び出し駆けて行ったのでエンストした。どうやら玉木は転居したようだった。広大な更地に看板が立てられている。赤字で「売土地」と表記されているのが車内からでも見えた。玉木のことは何も知らないに等しいが、持ち家を潰してまで去ったことから、本当にこの地に飽きていたのだなと思った。
藤江は泣き崩れているように見えた。私は降車して電信柱に手を付くと腰を振るトレーニングを始めた。骨盤底筋を意識しながら力を込める。時と場所を問わずにできることをたったいま知った。知人はこういう応用が利くことを知らなかったのだろうか。だとすれば、少しは賢人として誇りを持っていいのかもしれない。徐々に太腿やふくらはぎにも効いてきて脳内物質が分泌されているのを感じた。しばしばサボっていたが、毎日やれば基礎代謝も上がり、ダイエットの下地は整えることができそうだ。
「じゃあ、行きましょう」
朗々とした声に振り返ると、さっぱりとした表情で藤江が立っていた。私はもうしばらく鍛えていたかったので、
「君の涙に彼も歓喜してる。枯れ果てるまで泣いてきなよ」
と言うと次いで、後継として玉木の残した意思を感じ取って来い、と心にもないことを強弁した。藤江は次第に無表情になり、
「時間の無駄なので帰りましょう。少なくとも宍道湖が枯渇するほどには泣いてやりましたよ」
と言ってエンジンをかけると国道一八〇号に合流する交差点を曲がり、北へ向かって走り出した。藤江の眼は泣き崩れた者のそれではなく、充血もしていなかったので、形式的に泣くふりをしたか、単に魔が差したかのどちらかと思われた。宍道湖が枯渇するという点についてはツッコミを入れても入れなくてもつまらないので黙っていた。
境水道大橋を渡り、いよいよ美保関に入ると、藤江はマッチングアプリ用の写真が撮りたいと言い出した。私は引き受ける旨を述べると、背景は日本海か境水道のどちらにするか訊いた。藤江は何度もかぶりを振って、
「そんなの愛犬と一緒に撮るに決まってるじゃないですか」
と、うんざりするほど長々とその理由を語った。
私は、定岡に頼みな、と断った。自宅近くの埠頭に降ろしてもらうと別れを告げて遠ざかる軽トラを見送った。ブレーキランプが数えきれないほど点滅した。そうじゃない、と苦笑しながら埠頭を散歩した。南中の太陽の陽射しが猛烈に暑い。クレーンを載せた大型作業船が二隻も係留されていて、釣り人の姿は見えなかった。堤防沿いの小道に足を運んだ。開けた場所に駐車し、竿が揺れるのをパラソル内の椅子から見ている男がいた。スマホのカメラを起動させると男に勢いよく詰め寄った。
「幸一くんじゃないか! 翔子が家で待っとるぞ!」
私は、そうですか、と言って眼前の高級ミニバンを見た。
「本当は、翔子から美保関に帰さんかったら縁を切ると言われちまったよ。ワシ、何か悪いこと言ったかいな?」
義父は真っ直ぐな眼をしていた。視線の先には大山があるように思われた。
「言ったかもしれんなあ。もともと短気だったけど、齢を重ねるたびに頑固になる。自分が悪くても謝れん」
私は深呼吸のような溜め息をついて、そうですか、と繰り返し、義父を見下ろして睨んだ。彼は一瞬、眼を合わせると視線を戻した。私は義父の車に手を当て、
「お義父さん、ここで駐車は……」
と言うとボンネットに両手を付き、腰を降りだした。やや前傾姿勢になるので電信柱でトレーニングするより効果が見込めそうだ。車のエンブレムが私の股間にいい塩梅で当たる。義父はあんぐりと口を開けて動けないでいる。まだ性欲旺盛だったころ、妻とテレホンセックスしたことを思い出し、彼女にすぐ来るようボイスメッセージを送った。妻はすぐに姿を見せたが、義父と同様の反応を見せた。脳内物質がどんどん分泌され、気分が高揚していくのがわかる。
「お義父さん、この車は身持ちがいいですねえ。鉄の女ですよ」
この事態を収拾したいのに、意図しない言葉が飛び出す。腰を振るのを止め、エンブレムから右のボディへと頬ずりしながら考える。息を整え、真剣な顔を作り、妻に私の意図を汲んでくれ、と視線を飛ばした。
「やっぱり家族はこういうミニバンですよねえ。孫がいたら、お義父さん大忙しですよ」
義父は情けなく口を開けたままだったが、あう、と返事のような声を出した。妻の姿が消えていたが、左ボディのほうから、
「お父さん! これじゃあ旅行も行けないよ! お母さんに怒ってもらうから!」
これが正答なのか不明だったが、最悪の事態は免れた。義父は娘に怒られたことによる心的外傷のせいか、あう、としか言えなくなっていた。妻に礼を言おうとしたら平手打ちを食らった。
「今度は車に浮気かと本気で思ったわ! 境港にお父さん送ってくるけん反省しとけ!」
怒鳴られて気分がいいのは、まだ脳内物質が分泌されているからだろうか。フナムシが可愛く見える。私は正気を取り戻そうとポーションを左右の歯茎に二つずつ挟んだ。
妻は何事もなかったかのように、あっけらかんとしていた。父からの郵便物があったと渡された。証券会社の封筒だった。封を開けると、株の生前贈与に関する書類だった。父が私の不義理をどう受け止めたかはわからない。いずれにしても父なりの謝罪ということだろう。もっとも、じゃあな、の一言に私は父の温かみを十分感じていた。
妻は夕食の支度を始めた。包丁の音はたまにするだけで、揚げ物を作っているようだった。私は猛省のすえ、今後一年間は生ビールを飲まないという誓文を妻に提出した。妻は確かに受け取りました、と受理した。「生ビール」という文言の抜け道についてはあえて触れないという態度だった。私はそれが怖くてノンアルコールビールを飲んて居間と縁側をウロウロしていた。せめてエアコンを付けて居間を冷やしておこうとスイッチを押した。設定温度を十九度に、風量を最強にした。これでよし、と満足すると妻が戸を開け、テーブルに配膳した。夏野菜の天ぷらだった。モロヘイヤが異常に多かったが、私の好物だと教えた記憶はなかった。
妻が向かいに腰を下ろした。我が家では、いただきますは言わない。黙して合掌するだけだ。なぜか妻がいただきます、と言ったので私も倣った。少しの間のあと、彼女が天ぷらに箸を付けた。続けて私も箸を付けた。モロヘイヤを勝手に食べるのが恐ろしかったので、ピーマン、ナス、サツマイモを食べた。
体が冷えたのか、妻はエアコンを切った。そして雪見障子を上げた。空気感が悪いから外の景色を見ようという考えだろうか。暗くて何も見えないが、ガラスが露出しただけで重い空気が変わり、私はモロヘイヤを口に入れた。妻は何も言わなかった。その後、モロヘイヤばかり食べていたが、何も言われなかった。うまかった。勇気を振り絞ってモロヘイヤが大量なのはどうしてなのか訊くと義父が持たせたと言う。今日はかなり迷惑をかけたので、私は正座すると頭を下げた。彼女はうなずき、
「二ケ月の間に何かあった? いい枯れ方になってる」
と、ようやく笑顔を見せた。
私は真っ暗な外を眺めながら黙考し、
「わからん。ただ無暗に走ってただけかな」
と頬杖をついて妻の顔を見た。
そっかあ、と言って妻は膳を持ち立ち上がった。プリッと小さな音がした。放屁かなと思ったが、服が畳に擦れた音だろう。私は台所へ行って余ったサツマイモを所望した。妻は食後の片付けで暑くなったのか頬が紅潮していたが、何も言わずに全部渡してくれた。サツマイモをノンアルコールビールで流し込んでいると、だんだん腹にガスが溜まってきた。私は居間の戸に向かって尻を突き出し、妻が入室してくるのを虎視眈々と待ち続けた。
◇
一
人間は物事の本質や真理を認識できるのだろうか。おそらく、できない。そんなことができるのであれば、仕事も恋愛もすべてうまくいくはずだ。非円滑的な職場の人間関係も夫婦喧嘩もない。浮気はすぐにばれる。恋心のすれ違いも何もかもなく、心ときめかせずとも意中の人と結ばれる。それは、とても味気ないように思える。先行き不透明な人生だからこそ、かえって楽しいのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。
煙草の煙をプカプカさせて遊んでいたら、濛々たる思索の渦に巻き込まれてしまった。先般、後頭部が痛くて仕方ないときがあった。もう何ともない。それ以降、頻度こそ多くないが、些事について考え込むようになった。長い人生においては、そういうこともあるだろうと抗不安薬を飲み、うつらうつらとしていたら電話が鳴った。
『瀬戸くーん、記事の出稿まだかなあ? いくら一面トップでも待ってられないよお?』
猫なで声で気持ち悪く催促する主は編集長だ。すぐ出稿すると伝えて受話器を置いた。ナンバーディスプレイのない固定電話だから、ひとたび呼び出し音が鳴るとすべてに対応しないといけない。鼻から荒く紫煙を吐き、パソコンのマウスを左右に動かした。画面が表示されると、すでにできあがっている記事に「(了)」と打ち込んで出稿した。
一息ついていたら、休憩室から後輩の熊岡が顔を出した。シワがひどいシャツで髪の毛がボサボサでも、それなりに様になっているのは男前のなせる業だろう。
「すみません、代わりに書いてもらって。少しビールを飲みすぎました」
「市長の定例会見だろ? 楽勝だよ。録音聴いて書いた。写真はどうする?」
熊岡はカメラからSDカードを抜くと、
「たまには変顔で出しましょうよ」
と妙にいやらしい目つきで私を見た。市長もまた男前だったので、急にいじわるな感情が込み上げてきた。
「よし、これでいこう。ほかにいい写真がなかったって言い張れ」
熊岡は写真を一瞥すると、哄笑しながら室内を歩き回った。被写体は、片目だけ少し開かれたゾンビのような顔をしていた。
「私たち支局から山奥の通信部に飛ばされますよ」
「今だって通信部みたいなもんだろ。たった二人なんだし」
言いながら、私はパソコンの電源を落とし、室内の電気を消した。社屋から出ると、熊岡が口元に盃を運ぶ仕草をしたので、付き合うことにした。歓楽街へ向けて歩いているうちスマホが鳴ったが無視した。まもなく、熊岡のスマホが鳴ったが、彼も私にならって無視した。明日の紙面が楽しみだとほくそ笑んで熊岡を見たら、彼も同じ表情をしていたので、二人で笑いこけた。
道中、熊岡はフランス哲学について熱く語っていた。熊岡とは同じ大学院からの付き合いで、かれこれ十三年になる。哲学思想の分野で博士号を取るのはかなり難しい。私は近代の日本思想史を研究していたが、諸外国の思想も関連するため学ばねばならず、早々に挫折した。学会にも何度か出席したが、若手研究者のハイレベルな発表がさっぱり理解できなかった。そして、考えるのをやめた。熊岡は優秀で、順調にいけばどこか大学のポストがあったかもしれなかったが、あるとき、
「自分は哲学史をやりたいわけじゃない。哲学をしたいんだ!」
と喝破して退学した。以来、市井の哲学者をやっている。
熊岡が熱弁している哲学者や思想家は私も知っていたが、読んだことはなかった。知っていることを何か言おうものなら、熊岡がその博覧強記を発揮して圧倒してきそうだったので、適当に相槌を打ってしのいだ。
一方的な哲学談義にうんざりしていたら、無料案内所の若者に手を引っ張られた。病的な痩せ方をした男性だったが、怪力だった。
「もしかして『薬剤師さん』ですか? 眠剤もらえます?」
突然のことに半歩後退りした。私は「薬剤師」じゃないと断った。しつこく迫られてきそうだったので、若者の出方を窺った。彼は一礼して、すんなり引き下がった。背後にいる熊岡が不安そうな顔をしているのが目に浮かんだが、振り返るとそこに熊岡はいなかった。通りの左右を見渡しても熊岡らしき姿は見えなかった。先にどこか入店したと思い、架電してみた。機械的な女性の音声が流れた。スマホの電源を切っているようだった。仕方がないので、最も懇意にしている店に入った。扉を開けるなり、若い男女が声をそろえて元気に挨拶した。気分の高揚を隠し切れず、俯きがちに店内を一見すると客は誰もいなかった。
「瀬戸さん、待ってましたよ! 今日は貸し切りですよ!」
酒に酔うと有名アーティストの名曲を卑猥に歌うボーイが犬のような愛くるしさで近寄ってきた。私は腰をくねらせながら、
「オーライ! それじゃあ、飛びっきりのやつを一発いくゼ!」
と絶叫すると、マイクを取ってボーイに渡した。卑猥な歌声が流れるなか、アヤカを探した。いつもドレスにカーディガンを羽織っているので、すぐにわかった。奥のボックス席でスマホをいじっていた。私はアヤカの隣で屈むと、スカートの中に手を入れ、下着を指でなぞった。
「ちょっと! 仕事中なんですけど」
彼女は鋭い目つきで私を睨むと、すぐスマホに視線を戻した。
「僕が触ることしかできないのは知ってるだろ? で、村田さんはどこ?」
「店長? 系列店のヘルプに入ってる。偉い人が来てるんだって」
アヤカにこっそり抗不安薬と三万円を渡し、
「センキュー! すぐ戻るゼ!」
と適当に叫んで店を出た。系列店に行こうと思ったが、アヤカが言った「偉い人」という言葉が気になった。何か含みがあるようで怖かった。無料案内所に戻った。先ほどの若者が出てきたので、さっきは連れがいたから渡せなかったと詫びた。睡眠導入剤を手渡すと、若者はサービステキーラだと言ってショットグラスを持ってきた。私はグラスを受け取ると、口を付けるふりをして素早くテキーラを床に撒いた。初めて見る若者だったが、先輩たちの指導がしっかりしているのだろう。サービスという文句に乗せられて何杯も煽ったりすると案内所の思うツボだ。テキーラに限らず、蒸留酒の酔いはすぐに顕在化しない。空白のシラフ状態を利用して系列店を案内し、入店させる。そのうち一気に酔いが回っていい気分になる。客は気が大きくなってシャンパンを開けたり、従業員にも飲ませたりする。ぼったくりではないが、なかなか巧妙な手口だ。情けないことに、ここでテキーラを飲んで店で大金を落とすという愚行を何年もやってきた。もうその手には乗らない。
「『薬剤師さん』、もう一杯いりますか?」
「そろそろ行くよ。あと、これからは瀬戸さんって呼んでな」
熊岡とはルームシェアしているから、無理にいま合流する必要はない。帰宅しようと歩を進めた瞬間、スマホが鳴った。熊岡からだと思ったら、県警からだった。住宅火災とのこと。県警の第一報は常に大雑把だ。そして、消防はすでに消火活動を始めている。市営墓地の北西三〇〇メートル付近の住宅街。とにかく行ってみないとわからなかった。
私は見慣れた行灯のタクシーを拾うと、支局に行き、自分の車に乗り込んだ。経験上、夜間の火災は激しく燃えていれば、うっすら雲がオレンジ色になる。もしくは、燻火でやや空が見えづらくなる。ただし、いずれも晴れの日に限った話だ。今日の空は今にも雨が降ってきそうな曇天だった。見つけるのは難しいかもしれないと思い、煙草に火を点けた。住宅街をゆっくり走っていると、人だかりが見えた。私は路肩に車を停め、ハザードランプを点灯させると、カメラに望遠レンズを装着して走り出した。腕章を巻きながら、
「報道です! 報道です!」
と大声で人だかりを掻き分け、規制線までたどり着くと、黒煙の発生源に目を向けた。暗くてよく見えないが、一戸建ての家屋が全焼しているようだった。規制線が張られていない溝に足を踏み入れ、現場に近づいて行った。消防関係者に気づかれないよう、身を隠しながらカメラのレンズを覗いた。やはり全焼だった。消防員らがせわしなく動く様子も見えた。シャッターを切った。まずまずの出来栄えだった。腕章を外し、カメラを民家の生垣に隠すと、スマホ片手にさらに現場へ近づいた。消防服を着た大柄な男性が行く手を阻んでいた。スマホのカメラを起動し、フラッシュをオフ、連射モードに設定すると、大柄な消防員の横を走り抜け、全焼した家屋の正面で写真を撮った。
「危険ですから下がってください!」
大柄な消防員が押し出すように肩を突いた。私はわざとペコペコ頭を下げながら、
「すみません。規制線がなかったので」
と弁解して足早にその場を去った。カメラを回収し、車に戻ってスマホの写真を確認した。こちらのほうが臨場感があった。
帰宅すると、熊岡がリビングでビールを飲みながら騒がしいテレビ番組を見ていた。熊岡はニュース番組を見るとバカになるという確固たる信念を持っていた。私もニュースは嫌いだった。冷蔵庫からビールを取り出し、熊岡の横に並んだ。床にはビールの空き缶があちこち散らばっていた。もしかしたら、熊岡は何も言わず先に帰ったのかと思ったが訊かなかった。
「もしかして火事ですか? 消防車と救急車、パトカーのサイレンも聞こえましたよ?」
熊岡はリモコンを膝でポンポン遊ぶとテレビを消した。
「うん。でも、出稿はしない。他紙がいなかった。あいつらがいい写真撮ってるよ」
天井を仰いで私は首の骨をポキポキと鳴らした。熊岡はテレビのリモコンをなおも膝で弄びながら、
「負けっぱなしですね。あいつら警察の無線でも傍受してるのかな」
と、どうでもよさそうな表情で言った。私もなんだか徒労に終わったことを悔やんでいたので、投げやりな口調になった。
「警察署や消防署の近くに住んでるんだろ。それに膨大な読者を抱えてる。情報提供があるんだろうよ。どうあがいても、うちに勝ち目はねえよ」
翌朝、地元有力紙に目を通した。惚れ惚れするような美しい炎上写真だった。現場に駆け付ける必要はなかった。私たちの会社はミニコミ紙同然なので、降版時間が異常に早い。私が現場に向かっているころにはすでに販売部が刷り終わった新聞を仕分けしていたに違いない。「三人の遺体発見」という小見出しだけを見て、放り投げた。今日は行政の行事も民間のイベントもなかった。熊岡もプレスリリースが何もないのを承知しているのか、部屋から出てこなかった。私はカバンから二週間先に開催されるイベントのチラシを取り出し、告知記事を書くことに決めた。リビングのソファーに座ると、抗不安薬をビールで胃に流し込んで、夢うつつの状態で午前九時になるのを待った。夢と現実の中を彷徨しながら、昨日の火災について思いをめぐらした。人の不幸を写真に撮って何になるのだろうか。身元や出火原因などそんなことを書いて何になるのだろうか。五分もたたず読者に忘れられるようなことを書いて何になるのだろうか。ニュースは嫌いだと改めて思った。時刻は午前十時になっていた。ガチャンという音がしたので、重たい目を上げると、熊岡が眠そうな表情で私が放り投げた新聞を見ていた。
「きれいですね」
「うむ。実にきれいだ。だが、不愉快だ」
熊岡は何も言わず、悠然と冷蔵庫からビールを取り出してタブを開けると、一気に飲み干した。そして、空き缶を手で握りつぶした。
「瀬戸さんも今日は在宅ワークですか?」
熊岡の目はどこかとろんとしていて、くすんだ光が宿っていた。私はもっとビールを飲みたかった。
「何もねえからな。告知記事を書くよ。熊岡はガソリン価格でも書いてくれ」
「病害虫発生予察を書こうと思ってたんですが……」
ふわふわした調子で話すので少しイライラした。
「じゃ、それ頼む。あんまり早く出稿するなよ。編集長がデスク作業で、てんてこ舞いの時間を狙え」
熊岡はもとよりそのつもりだとでも言いたそうに冷蔵庫からビールを二本持って自室に戻って行った。私もビールを取り出し、一口飲むとチラシを見てイベント主催者に架電した。担当者を呼び出し、チラシをそのまま紙上で掲載してもよいかと許可を求めた。担当者は声を弾ませ、ぜひ掲載してほしいと話した。通話後、私はコピー機でチラシをスキャンし、チラシに書いてあることをそのままパソコンに打ち込んだ。わずか二〇行だったが、チラシは大きく載るので紙面を埋めるには十分だった。
尿意を感じたのでトイレに入った。トイレットペーパーの芯と、丸めたティッシュが床に散在していた。芯を拾ってゴミ袋に入れてから用を足した。私は今年で三十八歳になる。勢いなく侘しい音を立てて流れていく小便を見て淋しくなった。気分を一転させようとティッシュも拾ってすべてゴミ袋に捨てた。自室で自慰行為をすればよかろうにと思いながら、その一つを手に取った。臭いを嗅いでみたが、精液の臭いではなかった。広げてみると血が少し混じった鼻水だった。
二
熊岡は複数の障害を抱えていた。いずれも脳機能上の問題なので私は気にしなかった。初対面のときも、やたら威勢のいい快男児くらいの認識だった。大学院ではよかったが、実社会では理解してもらえず、職を転々としていた。それを見かねた私が半年前に編集長と社長に頭を下げ、入社させた。
熊岡に不条理で理不尽な社会性を身につけさせることは、本当は嫌だった。いつまでも純粋な心で、このつまらない世界について考え続けてほしかった。とはいえ、彼の哲学に対する炎が消えているとは思えなかった。私は不条理かつ理不尽極まるこの社会をそのまま受け入れることで考えることをやめたが、賢明な熊岡のことだから、きっとそんな社会だからこそ、本質や真理を掴み取りたいと燃えているに違いなかった。そういう人間だと私は信じた。一緒に住んでいるのも、私が失った純粋さを熊岡が奇跡のように取り戻させてくれる気がしたからだ。
今日も何もない日だった。資料を見て、また在宅ワークで済ますこともできたが、緊急の記者会見の案内があっては困るから、市役所に向かった。熊岡は自室で思索に耽っているか寝ていると思ったので、声をかけなかった。
エレベーター前は夥しい人だまりで鬱陶しかった。階段を上って市政記者室の扉を開けた。テーブルを囲んで他紙の記者たちが談笑していた。若い男性記者の甲高い笑い声にムカムカした。現場の記者は二〇代が大半で総じて若い。私は馴れ合いのような記者室の雰囲気が嫌いだった。投げ込み棚にプレスリリースがないことを確認すると、自社デスクに目を向けた。痩身できれいな白髪の男性が座っていた。何も見なかったことにして記者室から出ようとしたら、呼び止められた。
「瀬戸じゃないか! エースのお出ましだな!」
無視してドアノブに手をかけた。
「毎日、八本も記事を書いてる記者なんてなかなかいないぞ!」
何のつもりかわからないが、黙らせないと私が恥をかくので、詰め寄った。
「宮川さん、ここは県庁じゃないですよ。あと、それは熊岡と合わせた出稿数です。僕はせいぜい、四本か五本ですよ。昨日なんて一本です」
宮川さんは顔を近づけると、
「それでも十分すごい。この部屋の小僧どもは、多くて二本だろ。俺たちのほうが働いてるってことをガキどもに教えたまでよ」
とささやいた。私は素直に感謝の意を伝えた。すると、宮川さんは口元に盃を運ぶ仕草をした。熊岡に酒席の誘い方を仕込んだのは宮川さんかもしれない。私はこの部屋から出たくてたまらなかったので、
「それじゃあ、夕方にまたお会いしましょう」
と微笑を浮かべ一礼した。宮川さんは、これから行こうと資料らしきものを雑に振り回した。はっきり見えなかったが、市の消費者物価指数、日銀支店長の定例会見、県の人口動態の資料らしかった。どれも我が社では一面ネタだ。この人にはいつも助けられている。エースは間違いなくこの人だ。出稿したかどうかは訊くまでもなかった。
市役所を出ると、宮川さんは自身の隠れ家にしているバーに連れて行ってくれた。市役所から徒歩圏内に昼間から営業しているバーがあることを初めて知った。官庁街にも飲食店は多いが、外観からはそこがバーだとは思えないほど周囲に馴染んでいた。店内は濃紺を基調としていて心地よかった。整えた髪に口髭といういかにもダンディなマスターが立っていた。宮川さんは、カウンター越しに、いつものを二つと注文すると、椅子に座って隣に着席するよう手招きした。私は椅子に腰を下ろすと、口をぽかんと開けたまま半ば感激して店内を見まわしていた。
「お前ら頑張ってるな。いつぞやの市長のアホ面もお前らの仕業だろ? 無能な市長にはあれでいい。公明正大なうちの紙面らしくてよかったぜ」
宮川さんは、いたずらっ子のように破顔し、私の肩をつついた。
店内が薄暗いので正確な色はわからないが、黄色かオレンジ色のカクテルが目の前に置かれた。宮川さんはお疲れ様というようにグラスを持ち上げて傾けた。私は目礼してそっとグラスを合わせた。宮川さんは気分がいいのか、また私の肩をつついた。
「編集長の無茶な注文に文句も言わず、よく書くなあ、瀬戸。将棋も書いてただろ」
「入社のときに、うちは全員遊軍だと言われましたからね」
私は宮川さんを警戒して淡々と返事した。
「そうでもねえぞ。気づいているだろうけど、他の支局は書けるものしか出稿してねえ。何でもござれはお前らだけだ」
宮川さんがグラスに口を付けたので、私も一口飲んだ。スクリュードライバーっぽい気がしたが、わからなかった。他の支局の出稿数や取材内容が偏っていることは気づいていた。絵画の展示会やら児童の体験モノなど街ネタばかりの記者は多い。だが、楽をしているとは思わなかった。私も熊岡も街ネタで何時間も拘束されることを嫌っていた。だから、最新鋭の医療技術やスマート農業機材など、なるべく資料と電話取材で済ませられるものにこだわった。楽がしたかっただけだ。家で酒を飲みながら仕事ができるなら、そのほうがいいに決まっている。内容が難しければ、担当者に何度も訊くまでだ。
「お前はよくやってる、よくやってるよ、うん。だけど、本当は何も興味ないんだろ?」
図星だった。話す気にならなかったので、カクテルをぐいと飲んだ。
「何でも書けるってことは、何にも興味ねえのと同じなんだよ。世事に興味がねえ仙人しかできねえ芸当なんだよ」
宮川さんが怒っているのか褒めているのかわかりかねた。何度か酒席をともにしたことはあったが、存外、酒に弱い人なのかもしれない。私はグラスをコツコツと叩いてマスターに、これをもう一杯と頼んだ。宮川さんは喋り続けた。
「お前もまだ髭が生えだした小僧だよ、小僧。仙人になるには早いんだよ。もっと悩んで苦しめよ」
私は会計をこの酔っ払いの大先輩に任せると決めて、カクテルを味わった。スクリュードライバーだと思うが確信が持てない。少し苦いのはウォッカが多めに入れてあるからなのか。考えても仕方ないので、マスターに訊ねると、やはりウォッカが多めに入れてあるとのことだった。私は再度注文して、煙草に火を点けた。マスターが急ぎ足で来て、私の左手元に灰皿を置いた。私は目を見開いたまま、ゆっくりマスターを見上げた。彼は少し照れ臭そうに、
「瀬戸さんは左利きだろうと思いましたので」
と微笑んだ。よく観察しているなと感心した。私は箸と文房具とスマホを打つこと以外はすべて左手を使っていた。気づかれたのは高校のときに初めて付き合った恋人だけだった。交際して日が浅いアヤカは気づいていないし、今後気づくこともないだろう。横では宮川さんが大いびきをかいて寝ていた。いびきをBGMにして一人で飲むことには慣れていた。マスターが気を利かせて何か話しかけてくるだろうと思っていたが、奥のほうへ引っ込んでいるようだった。こういう無為と思われる時間は嫌いじゃない。
私は大学院の指導教官が吸っていたシガリロをカバンから取り出して火を点けた。授業中に先生は機関車のように煙を吐き出していた。先生と同じものを吸っていると頭がよくなった気がした。先生からは、
「哲学と思想史の論文は針小棒大、一点突破全面展開、そしてオーケストラのように大団円で結べ」
と繰り返し教えられた。弟子が師にできる最大の恩返しは博士論文を完成させることだったが、私は早々に諦めてしまった。悔やんでも遅い。先生はもうこの世にいない。感傷に浸ることはナルシシズムでしかないので我に返った。
甘い香りの葉巻ですねと言いながらマスターが戻ってきた。
「安物ですよ。かといって、コイーバやモンテクリストの良さは何度吸ってもわかりませんでした」
「瀬戸さんにとって、それが特別な葉巻だからでは?」
本当によく観察している鋭い人だ。先生が医者に止められても煙草や葉巻を手放さなかったように、私もこのシガリロだけは一生吸い続けるだろう。
「宮川とは同級生なんですよ。昔の自分と瀬戸さんが重なって見えたのだと思います。こいつは仙人というより、世捨て人という感じでしたが」
マスターは宮川さんの肩にブランケットをかけて続けた。
「こいつのことは悪く思わないでください。瀬戸さんが入社して、やっと俺も引退できると喜んでましたから」
彼は優しい眼差しで宮川さんの両肩に軽く手を乗せた。私はそれを眺めながら、
「悪い人だとは思っていません。尊敬できる先輩です。でも、興味ないですね」
と無情に言い切った。実際、彼に露ほどの関心も有していなかった。マスターは優しい眼差しを崩さなかった。
「やっぱり昔のこいつと似てますよ、瀬戸さん」
「……そうですか」
会計は心配いらないと言うので店を出た。昔はどうあれ、宮川さんと自分が似ているとはどうしても思えなかった。大学院では邦人だけではなく、外国人留学生も死に物狂いで研究をしていた。学部を出ただけの社会人と一緒にしてくれるなという怒りが湧出したが、すぐに収まった。冷蔵庫のビールが少なくなっていたのを思い出し、最寄りのドラッグストアに入った。入口付近の医薬品棚の前にいる金髪女性が視界に入った。細身だが、横顔はふっくらとしている。装いや雰囲気から二〇代前半と察せられた。アヤカだと思ったが、人違いという可能性もあるので、後ろを通りながら、横目で確認した。間違いなくアヤカだった。
「市販薬に手を出すのはやめたほうがいいぜ」
「フツーに風邪ですー。近寄るとうつるよ」
街で偶然でくわしたにも関わらず、まったく動じていなかった。いっさい面識のない男性から声をかけられることが日常茶飯事なのかもしれない。会話の継続に窮した私は、
「何か調剤しようか?」
と、ぎこちない作り笑いをした。アヤカは目も合わせず毅然としていた。
「いまのところ大丈夫。風邪もあるけど、女の子の日だから話しかけないで」
「わかった。じゃあ、また」
アヤカの機嫌を損ねないよう、すぐに離れると、買い物かごにビールとサラダチキンを入れた。レジ横に滋養強壮剤が並んでいた。手に取ろうとしたが、第三類医薬品の効果など無に等しいのでそのまま会計を済ませた。
自宅に帰ると、熊岡がトイレのドアを開け、ティッシュで鼻をかんでいた。
「熊岡菌に感染するから、ちゃんと流してくれよ」
「アレルギーですよ。トイレに流したら詰まります」
私は、そうだなと言って冷蔵庫にビールとサラダチキンを入れた。熊岡もビールを買っていたようで、数日は補充しなくてもよさそうだった。一本抜き取って、冷蔵庫の上に置いてあった送り主不明の和菓子を手にソファーに腰を下ろした。すると、熊岡がサラダチキンとビールを持って横に座った。そのサラダチキンは熊岡のために買ったものじゃないと言おうとしたが、やめた。
「和菓子とビールって合いますかね?」
「これから実験するところ」
熊岡がどこかで入手した和菓子だと推察できたが、ずっと冷蔵庫の上に置いてあったので消費期限が過ぎているかもしれなかった。一口食べてみたところ、問題なさそうだった。和菓子は嫌いだったが、ビールの苦みと調和して意外にも美味しかった。
「今日、市役所で宮川さんに会ったぜ。僕らのことを褒めてくれたよ」
熊岡は大げさと感じるほど片腕を高く上げてこぶしを握った。
「本当ですか? 嬉しいですね。でも、県政担当なのに、なんで市役所にいたんですかね?」
「神出鬼没だからな、あの人。この前の市長写真も褒めてたぞ」
熊岡は思い出し笑いなのか、いきなり笑い出した。熊岡の撮影技術は確かなものだ。市長が身振り手振りで説明している動きのある写真もあった。私なら無難にそれを編集部へ送信していた。それにも関わらず、あえて悪い写真を自ら出そうと提案してきた。熊岡なりの意図があったのだろう。それを汲んで私が写真を選んだ。
「熊岡、うちはスマホでも大丈夫だぞ。一眼レフは写真一枚あたりの容量が重くて、出先で送信するのに難儀する。かっこ悪いから肩にぶら下げてるだけだ」
「ですよね。最近のスマホのカメラは性能いいし。でも、会見でスマホはさすがに……」
熊岡の心配を吹き飛ばすように私は調子よく声を大にして言った。
「謝罪会見はスマホがいいゼ! うちはジジイの禿げ頭は撮らない主義らしいからな。神妙な顔で説明しているところを斜め下からスマホで撮るんだ。悪い連中に一眼レフ様を使ってやる義理はねえ!」
熊岡は得心した様子だった。話したはいいが、すぐに後悔した。それは私の我流でエゴだった。頑固だが素直でもある熊岡が、これからスマホで撮影しているところを想像するとかわいそうな気がしてきた。スマホより一眼レフカメラのほうがいいに決まっている。熊岡の技術を考慮すれば、軽率で余計な発言だった。
「でも、心配なのでちゃんとカメラでも撮りますよ。スマホは保険で」
それを聞いて安堵した。和菓子を何個か取り出して、ばくばくと口に頬張ってはビールで流し込んだ。熊岡も上機嫌でビールを飲んでいた。不毛な会話の応酬だったが、楽しい夜だった。熊岡はソファーで赤児のように安らかな眠りに就いていた。私は、消費期限切れと思しき和菓子で腹を下したのか、その後は一睡もできなかった。
三
腹痛が治まってから、簡単な告知記事を一本出稿した。これを機に出稿数を減らすのも悪くないと思った。毎日、何本も出稿していては精神が崩壊しかねない。あるいは、もう崩壊しているのかもしれない。眠剤を飲んで就寝した。
目を覚ますとカーテンから日光が射し込んでいた。飛び起きてスマホの画面を見た。てっきり朝になっているものと思っていたが、夕方だった。ノートパソコンを開いて、会社の提稿予定表からすべてを削除した。これにきちんと予定を入れている記者は私と熊岡、宮川さんだけだった。
酒を飲みに出るにはいい時分だったので、熊岡の部屋をノックしたが返事はなかった。「薬剤師」業をやるには彼がいないほうが好都合だったが、何となく外で熊岡と酒が飲みたかった。リビングに行ってソファーに腰かけると、テーブルに置いてあった地元有力紙を開いた。広告ばかりでつまらない。紙面をめくっているうちに市長選、市議選が近いことを知った。選挙報道が一番面倒だ。選挙のたびに仕事を辞めたくなる。街に繰り出す景気づけにビールを飲んでいたら玄関からドタドタと落ち着きのない足音がした。
「支局に溜まってた新聞とファックスを捨ててきました。提稿予定表に何もなかったですけど、辞職する気ですか?」
「まさか。働きすぎだと思って消しただけだよ。それに編集長に手の内を知られたくない。熊岡も仕事のほうは少しクールダウンしなよ」
「それができない性分で。根は真面目なんです」
私は、知ってるよと言って口元に盃を運ぶ仕草をした。熊岡は破顔してドタドタと足音を立てて自室に戻って行った。一緒に行く意思があるのか判断しかねたが、数分待つと、
「行きましょう!」
と呼ぶ声が聞こえた。
歓楽街は徒歩でも行ける距離だが、面倒なのでタクシーを呼んだ。運転手はドアを開けると、私の顔をじろりと見た。一般的に、タクシーは運転手と目が合うことで客に余計な気を遣わせないよう、ルームミラーを傾けるなりしているものだが、この運転手はわざわざ私と目が合うようにした。運転中もチラチラと見てくるので、もしかしたら車内で嘔吐したり、喚き散らしたことがあったのかもしれない。
タクシーを降りると、どこに入店するか迷うふりをして案内所の目の前を通った。あの若者はいなかった。熊岡はとくに行きつけの店があるわけでもなさそうだったので、村田さんの店に入った。卑猥な歌い手のボーイは不在だったが、村田さんはいた。一九〇センチはあろうかと思わせる堂々たる体躯に精悍な顔つき。黒のシャツとスラックスも似合っていた。とても四十六歳には見えない。
「瀬戸さん、いらっしゃいませ。先日はすみませんでした。すぐにアヤカを呼びますんで、空いてるボックスにどうぞ」
何人も座れるL字の席に座ると、軍歌しか歌わない熊岡がデンモクのタッチパネルをいじりだした。客が少なかったら軍歌は止めているところだが、今日は客が多いので、誰も聴いてはいないだろうと思い、放っておいた。しばらくしてアヤカが着座した。彼女は熊岡に名刺を渡して自己紹介すると、熊岡の顔を覗き込み、
「瀬戸さんの友達ですか?」
と訊いた。熊岡は、会社の後輩ですと即答し、すぐにデンモクをいじりだした。私はその間にアヤカに寄って抗不安薬と眠剤、一万円が入った封筒を折ってテーブルの下から手渡した。
「お飲み物はどうされますか?」
アヤカの声は熊岡には届いていないようだったので、ビールを二つ頼んだ。
「アヤカはウーロンハイでしょ? 飲みなよ」
「いただいてもよろしいですか? ありがとうございます。村田さーん! 生二つとウーロンハイお願いしまーす!」
系列店か案内所にいるのか今日はボーイが一人もいないようだった。卑猥な歌い手は、眠剤を飲むと異常なハイテンションになるらしく、裸で歓楽街を疾走したり、車に乗ったらなぜか他県にいたという逸話を聞いたので、彼に眠剤を調剤したことはない。ボーイは女性従業員の送迎をすることもあるので、抗不安薬も調剤していない。
酒がやってくると、三人で乾杯した。私も熊岡も一気飲みだった。やはり店で飲む酒はうまい。アヤカはいつもなら唇を濡らす程度だったが、今日は気持ちのいい飲みっぷりだった。そういうときは決まって酔いに任せた甘い声でシャンパンや現金をねだるのだった。熊岡は場の空気を読むのが苦手なので軍歌を歌いだすかと思っていたが、パネル遊びに夢中になっているのか、ビールを再注文した。私はハイボールを頼んだ。熊岡はまたも一気飲みだった。そして、再度ビールを注文した。熊岡は酒なら何でも飲むので、キープボトルを飲むべきだったと後悔した。私がこめかみを掻いていたら、思い立ったように熊岡が喋りだした。
「瀬戸さん、もう少しフランス現代思想を勉強してくださいよ」
そうするよと受け流し、もう一つのデンモクをタッチしてアップテンポな曲を探した。アヤカはテーブル下で私の足首を蹴ると、
「瀬戸さん、最初はテレサ・テンか、ちあきなおみ歌ってるじゃないですか。聴きたい」
と目で訴えてきた。自分が話に付いていけないという意味だと受け取った。が、熊岡が稲妻のごとく早口でまくしたてた。
「瀬戸さんは十九世紀のドイツで終わってるんですよ! カント、ヘーゲル、マルクス。マルクス以前かもしれませんね! 本質や真理は存在するが、神じゃない人間には真実の近似までしか認識できない。そうだと諦めてる。だからいつも平然としてるんだ!」
「カントもヘーゲルも難しくてわからないよ。でも、フランスに限らず現代思想なんてマルクスの注釈だろ?」
熊岡はテーブルに手を付いて立ち上がった。辛辣な反論がくると覚悟した。激しく揺れ動く熊岡の瞳を見ていたが、
「すみません。ヒートアップしちゃいました」
と頭を下げた。熊岡は着実に前進している。いつの日か、どの哲学者や思想家の言葉も借りず、自身のつむぐ言葉だけで世界の本質を、真理を語るときがくるに違いない。私は考え続ける力も意欲もない。西郷隆盛の「敬天愛人」や、夏目漱石の「則天去私」のほうがしっくりする。
「謝ることはないぜ。僕がバカなだけだ」
「ちょっと他のところで一人で考えます。すみません」
熊岡は金をいくらか置くと店を出て行った。私はアヤカに一言詫びを入れようとしたが、思い留まった。別に熊岡が悪いわけじゃない。客が何を話そうが勝手だ。かといって、アヤカが悪いわけでもない。接客を伴う飲食店という、この場が悪いだけだ。
「接客業って難しいな」
「まあねー。でも、さっきの後輩さん、かっこいいのに損してね?」
その後、私は気が狂ったように歌いまくった。客が減るたび、女性従業員が代わる代わる私の左右に座った。彼女らのリクエストに応えて有名アーティストの替え歌を猥褻に歌った。冒涜に冒涜を重ねた。午前二時ごろにアヤカは退店した。さすがに呆れ果てたに違いない。気づけば、客は私だけになっていた。店内に残っていたのは、女性従業員一人と村田さんだけだった。村田さんは、店を閉めるよう指示すると、女性に代わって着席した。
「俺も飲みますけど、いいですか?」
「いいですよ。シャンパン以外ならね」
村田さんはビールを流し込むように飲むと、
「レジは俺がやるから帰っていいよ」
とカウンター席のほうに向けて言った。彼は女性が退店すると施錠して、未開封の焼酎を持ってきた。
「俺の奢りというか、店の奢りです」
村田さんはグラスを取って来るのを失念したとみえ、すぐに起立したが私は制止した。少し酒が残ったグラスを空にして、
「こいつで回し飲みしましょう」
と持ちかけた。村田さんは先に飲んでいてほしいと言ってどこかに消えた。私は焼酎をグラスに注ぐと、ウォーターピッチャーから氷を掴み取ってグラスに入れた。マドラーを使うのも面倒だったので、指でかき混ぜた。一口飲んで味見をすると、横に寝転がって村田さんを待った。近づいて来る足音がしたので、
「すみません。面倒だったので、ぜんぶ手でロック作りました」
と断った。彼はガハハと笑いながら、
「ロックな作り方でいいじゃないですか」
と言って姿を現した。そして、ボストンバッグを床に置いて着席した。
「瀬戸さん、へべれけになる前に先に済ませましょうか?」
私は、そうですねと返答すると、アメリカで禁止薬物に指定されている眠剤を一五〇錠テーブルに置いた。向こうではレイプドラッグと呼ばれている代物だ。それほど強い眠剤がなぜ日本で認可されているのか理解できない。村田さんはパンパンに膨れ上がったスーパーのレジ袋を置いた。中身を確認したが、私が目当てにしている抗不安薬は見る限り五〇錠ほどだった。それは数年前に個人輸入禁止になり、国内でも医者が処方を渋るような薬だった。それ以外は私にとって不要だった。わざとらしく溜め息をついてロックを飲んだ。
「すみません、瀬戸さん。同業者として情けないです」
村田さんはやや肩を落とし視線は宙を漂っていた。
「昼間に寝ているなら仕方ないですよ。僕は暇だから、いくらでも病院巡業ができるんです。仕事中にふらついたりしませんか?」
「大丈夫です。おかげで五時間は寝れてます」
私は村田さんに同情した。私が調剤する以前から彼は強い眠剤を飲んでいたと聞く。耐性ができて酒で服用しても二時間ほどしか眠れなかったらしい。おそらく、渡した薬もすでに耐性ができているに違いなかった。私がそれを初めて服用したとき七、八時間は眠れた。次第に酒で服用するか用量を増やすしかなくなった。酒量も用量も増えると、もう手詰まりだ。私もよく眠れて五時間だった。
「村田さん、今回もありがとうございました。それより飲んでください」
彼は礼を言ってロックを飲み干すと、アイストングとマドラーを使ってしっかりロックを作った。染みついた職業癖だろう。
「瀬戸さん、アヤカとは……」
「金の切れ目が縁の切れ目でしょうね。薬を絶てるかはわかりませんけど」
村田さんは無言のまま、自分で作ったロックを飲み干して、今度はストレートで一気に飲んだ。暑くなってきたのかシャツの袖をまくった。
「ところで、瀬戸さん……」
彼はマドラーをぐるぐるさせながら急に笑みを浮かべた。
「昔、タクシーに乗ってませんでした? 俺、レースで瀬戸さんに負けたんですよ」
何のことやらさっぱりわからなかったが、彼の言う通り、今の会社に入社する以前はタクシー会社に勤めていた。交番制という勤務形態で、朝から夕方、夕方から深夜、夕方から翌朝まで走った後は休み、翌日も休みを繰り返していた。七年も前のことだが、他社の誰かとレースをしたことは覚えている。夜間専門で走る運転手は短気者が多く、喧嘩や公道レースなどの揉め事は日常茶飯事だった。詳しい記憶は脳から失われているが、午前三時か四時ごろにやたら煽ってくるタクシーがいた。ルーフの行灯を消して追い越し禁止車線を跨ぎ私を抜こうとしたので、挑発に乗ってしまった覚えがある。
「タクシー乗務員やってましたよ。あの煽り運転は村田さんだったんですね」
当時、村田という名は市内のタクシー業界では有名だった。評判の悪い会社の運転手で、駅で待機中も絶対に目を合わすなと会社から厳命された。
「俺、自分で金出してチューニングしてたんですよ。しかも、喧嘩レースのコースは俺が決めたし。いつからか他の連中も使うようになったんですよ。コースを知り尽くしてて速い俺は勝って当たり前なんですよ。でも、ずっと先でハザードランプ点滅させてるタクシーが停まってた。減速してからケツの車番を見て絶望ですよ。勝負を仕掛ける前に確認してたんで。いつ抜かれたのかサッパリっすわ……」
忘れていた記憶が脳に飛び込んできて私は吹き出してしまった。首をかしげている彼を見ているうち申し訳ない気分になった。
「あれは村田さんの勝ちですよ。僕はライトを消して、離されたふりして近道したんです」
「そうだったんですか! 無灯火で普通にテクニックで負けたと思ってました」
漫画じゃないからそんなことはしないと言いかけたが、村田さんがスマホを出して、見てくださいと肩をぶつけるので画面を見た。私と村田さんのツーショット写真だった。すでにSNSか何かで拡散されてしまった可能性が高かった。いわゆるデジタルタトゥーという愚者がすることをやってしまったと猛省した。興奮状態でまだマドラーを持っている村田さんからロックを取ると、氷もろとも丸飲みした。のどに引っかかった氷のせいで、ビリビリと口の奥が痛んだ。おかげで冷静さを取り戻せた。七年前の地方での出来事で、ただのツーショット写真だ。何も臆することはない。
「俺は吹っ切れて、すげえやつがいる! すげえやつがいる! って、いろんなやつらに言いまわりました。それからはずっと安全運転ですよ。瀬戸さんのおかげです」
村田さんは憑物がとれたように晴れやかな表情だった。自身も心晴れやかになったと思う一方で、私は背もたれに仰け反って薄く冷笑していた。
歓楽街に来る際に乗ったタクシー運転手がやたらと私を見ていたことに合点がいった。だが、住宅火災のときに乗った運転手は気にしていなかった。真面目な運転手であまり客の顔を見ないようにしていたのかもしれない。これからは、あえて村田さんがいた評判の悪いタクシーを使おうと思った。
四
酒が抜けていないのか頭が痛かった。腰も痛い。ふだん腕時計を身に着ける習慣がないので、スマホを探した。店内には窓がないから真っ暗だ。テーブルの上か下にあるはずだったが、探ってみてもそれらしき物に手が当たらない。諦めて仰向けになると、背中に固いものが下敷きになっている感触があった。よろめきながら起き上がってみると、裏返ったスマホの画面から光が漏れ出ていた。時刻は午後一時だった。全身がだるくて、日頃は考えたこともない「重力」という言葉が脳内に浮かんだ。まだ眠っている村田さんらしき黒い物体に黙礼すると、酔いを醒ますために歩いて帰宅した。
熊岡は不在だった。たしか、明後日にも豪雨が予想される市の対策本部会議があった。資料通り書いて、記事の末尾に気象台担当者の注意喚起を入れるだけでいい。熊岡ならその場で書き上げてしまうだろう。億劫だったので、チラシの掲載許可を必要としない行政主催のイベント告知記事を出稿して床に就いた。
深更に目覚めた。年齢を重ねるにつれてアルコールの分解速度が落ちていたので、胃腸に違和感があった。殺風景な自室を見渡した。かつて何百冊とあった蔵書はいまや十三冊だ。うち、献本されて仕方なく残しているものが三冊あった。先生の著書が二冊、親友からもらった新書が一冊。どちらも十年以上読んでいない。一年以上読んでいない本は一生読むことはないだろうから、どんな稀覯本でも捨ててきた。一冊で二〇万円した本も容赦なく捨てた。幸徳秋水と堺利彦共訳の『共産党宣言』も捨てようとしたが、熊岡が欲しがったので譲った。残っているのは、先の三冊とオルテガ『大衆の反逆』、マンハイム『イデオロギーとユートピア』、長谷川如是閑の著作二冊、丸山真男の著作六冊だった。
万巻の書に囲まれて暮らすことを夢見ていた時期もあったが、今は蔵書が少なければ少ないほどよいと思っている。小説は読んでも得るものが何もないから読まない。そもそも哲学や思想史を研究している者は抽象的思考に浸かってしまっているから、具体的で冗長でしかない小説はショートショートすら読むことができない。文芸評論家の著作に至っては最も読む価値のないものだ。中途半端に理論武装した哲学や思想で小説を斬る姿勢が許しがたい。ただし、ヴァレリーやブランショ、ジョン・ベイリーらは天才だから例外だ。宗教に対しとくに興味はないが、私の家は檀那寺が曹洞宗なので、無人島に一冊持っていくなら、懐弉の『正法眼蔵随聞記』だろうか。無人島だから、本があっても仕方ない気がする。が、こんなことを考えていても時間の無駄だ。
ときどき物思いに耽る癖を何とかしたい。枕元に置いたスポーツドリンクで眠剤を飲むと、スマホを手に取り、しっとりとした曲調のK‐POPをループ再生にして眠った。
翌朝、リビングに行くと熊岡がソファーで腕組みしながら天井を見上げていた。
「K‐POP聴くんですね。部屋の外まで音が漏れてましたよ」
「邦楽以外なら何でも聴くよ。日本語は桎梏でしかない。言葉に思想を制約されたくないんだ。インストゥルメンタルやクラシック音楽が望ましい。普遍的だしね」
熊岡は天井を見上げたまま、なるほど、とつぶやくと腕をほどいてまた組み直した。私はシガリロのケースを開け、熊岡に一本差し出した。
「考え事にはこれが効くぜ。頭の回転が五倍になる」
熊岡はシガリロに火を点けて、少し吸うなり咳き込みだした。
「僕は肺まで入れてるけど、基本は吹かすものだぜ」
熊岡はシガリロを灰皿に置くと、今度は立ち上がって腕を組み、天井を見上げた。何か閃いたのかもしれなかった。私は灰皿から火の消えたシガリロを取り、テーブルの上でコロコロ転がして遊んだ。そのうち、遊びに飽きてシガリロを吸った。口の中で煙を味わってみたが、この行為に意味があるのかわからなかったので、いつも通りに肺まで吸い込んだ。かなりゆっくり吸ったので、十五分は経過したはずだが、熊岡は依然として同じ立ち姿のままだった。
「ソクラテスの魂でも乗り移ったか? 代わりに記事を何本か書いとくよ」
家を出て市政記者室で溜まった投げ込みを回収すると、支局に向かった。駐車場に宮川さんの車が止まっていた。関わるのが面倒だったので、営業マンが休憩やサボりでよく使っている公園へ車を走らせた。ちょうど昼時だったためか、駐車場はほぼ満車だった。
空いている場所へ車を止めると、後部座席に移動した。胡坐をかいてノートパソコンを開き、テザリングでネットにつなげた。民間調査会社が企業に対して実施したレポートに基づいて、景気見通しの意識調査、人手不足の意識調査、女性登用の意識調査の三本を脱稿した。今日の熊岡の提稿予定表を見たら、告知記事一本だった。出稿数を減らすよう勧めはしたものの、まさか熊岡まで編集長に手の内を隠すことにしたのかと心配になったので、三本のうち二本を熊岡名義で出稿した。顔を上げて車外を見ると、西日が遠くの山々に隠れようとしていた。幼少期の刷り込みなのか、夕方になると早く帰宅せねばという切ない気持ちになる。薄紅と薄紫が混じる空は哀愁を感じる。それを振り払うかのようにユーロビートを流して家路を急いだ。
自宅の扉を開けると真っ暗だった。がさっと紙のようなものを踏んだ音がした。照明を点け、足元を確認した。怪しげな携帯番号が書いてあるデリヘルのチラシだった。スラックスのポケットに丸めて突っ込んだ。靴がなかったので、熊岡はどこかに出かけたようだった。
酒ばかり飲んでいると肝臓に悪いため、自室で抗不安薬を飲んだ。ベッドにうつ伏せになり、ペニスを擦り付けるという弱弱しい快楽に浸っていたら、カバンからブーブーと音がしている気がした。中を開けてみるとスマホが振動していた。アヤカからだったので、金の普請か薬の調剤だろうと呆れながらスマホを耳に当てた。
『空からお金が降ってこないかなー』
「もっと家賃の安いところを借りなよ。それと、減薬ね」
『んー。最近、体調悪いから出勤減らすかも』
私は彼女の体調のことはおかまいなしにテレホンセックスをしようと提案したが、したことがないと断られた。ビデオ通話でお互い局部を映しながらすると性的興奮が高まると熱弁したものの、関心がない様子だった。
『みーちゃん! みーたん! みーこ! 気まぐれちゃんで可愛いんだから。あいにゃー。みーたん、うんちしないの? 出なかったの? ふふっ』
猫の鳴き声がした。猫は携帯電話のようなものだ。携帯電話は場の空気を変える。一対一で顔を合わせて話をしていても、強引に第三者として割り込んでくる。相手が通話を始めてしまうと疎外されている気分になる。常識人ならよほどの重要案件でない限り対面で会話している者を優先するが、そうしない、そうできない人間もいる。とりわけ電話となると通話者より身辺の事物に注意が向いてしまう人間も多い。アヤカはそういう人物だと感じた。
『みーちゃん、うんち臭いもんね。みーちゃん、早くうんちしなはれ。えっ、今日トイレの場所決めるの早くない? 早くトイレ掃除しろって言ってんの? わがままな娘なんだからあ』
「アヤカ? トイレが三ヶ所あるんだろ? きれいなトイレと交換すればいいじゃん」
彼女は何も聞こえていない様子だった。腹が立ったので、抗不安薬を追加服用した。
『お前、トイレから出るなよ! 隙あらば出るからな。みーこメシ食ってる? あんたのうんち小さいけど。はいはい、もっとうんちしてください。うんにゃー。あはは! 面白い顔して。早くうんちしな。うんにゃー。にゃー。みーたん、にゃんにゃん』
こんなやりとりを聞かされていては知能指数が下がると思い、スマホを枕の上に置いた。がらがらの三段カラーボックスから無造作に積み上げられた十三冊のうち、一冊を手に取った。先生の論文集だ。私は学術書の謝辞が好きだ。ビジネス書や自己啓発本など無数の書物があるなかで、なぜか学術書だけは自由に謝辞を書くことが許されている。淡々と関係者への礼を書いて済ます者もいるが、あまり見かけない。先生の著作は二冊しかないが、いずれも仕事の都合で書いた論文が収められている。特定の人物だけを扱ったものや、共通のテーマでまとめたものではない。そのため、一つの論文についての執筆経緯が逐一書かれているわけだが、これが面白くもあり、切なさを感じさせる。だからといって、私の心が大きく動くことはない。一通り目を通してスマホの画面を見ると、通話は終わっていた。
カーテンから外を覗くと、赤い光を周囲の建物に反射させながら遠ざかっていく何かが見えた。そのうち、県警から電話があるに違いない。今回は火災だろうが、自動車事故だろうが書くつもりはない。私が電話に出なければ、熊岡に連絡が行く。編集部には第一報から最終報までファックスが送られるから、今日は寝ていたことにして、それでも記事にせよとの指示があれば書くことにした。
豪雨が予想されるにも関わらず、私は洗車をするためガソリンスタンドに向かった。道中、そのうち年寄りばかりの顔写真で埋め尽くされるであろう選挙ポスターの木枠をいくつか見かけた。市長選のほうは四つ枠があったが、四人も出馬するとは思えない。つまらない男だが、現職が無投票で再選、対抗馬が出ても圧勝で再選だろう。
セルフのガソリンスタンドにはスタッフ以外は誰もいなかった。エンジンを切って給油口を開けるレバーを引っ張ると、隣に外車のスポーツカーが止まった。運転手は降車すると、スタッフに挨拶してトイレのほうへ歩いて行った。私はこれ見よがしにスポーツカーに近づき、シフトレバーを見た。ボディを思い切り蹴りたくなった。オートマチックトランスミッションなどスポーツカーへの冒涜でしかない。給油を済ませ、どんな大バカが乗っているのかと車内で待っていたら、無地の黒いポロシャツを着た初老の男性だった。私はかつてスポーツカーの維持費がもたず、手放したことがあった。高回転時のエンジン音、そして何よりスピードを出しているとき、五速から六速にギアチェンジするのが気持ちよかった。いまでも意地を張ってマニュアルトランスミッションの軽自動車に乗っているが、六速はない。タコメーターもない。いくらスピードを出しても泣き喚くようなエンジン音が聞こえるだけだ。私はクラッチを踏むと何度か空吹かしをして、洗車をしないままガソリンスタンドを出た。
帰宅するなり、熊岡を大声で呼んだ。返事がなかったので、照明を点けた。まだ外出しているようだった。こんなに腹立たしい日は久しぶりだと意識的に口角を上げた。キッチンに行くと、シンクに溜まった汚水に食器がプカプカと浮いていた。その一つに触れて泳がすと、抗不安薬を飲んでリビングのソファーに深々と腰を下ろした。テレビをつける気にはならなかった。ただ静寂だけが今の私を癒してくれるように思われた。
しばらくぼんやりしていたら気分が楽になった。少しばかりバカになってもかまわないとテレビのリモコンを押した。くだらないバラエティ番組だったので、地元ケーブルテレビに切り替えた。退屈極まりない街ネタをキャスターが読み上げていた。すぐにテレビを消した。仰向けになり足を組んだら、丸められた紙が床に転がり落ちた。玄関で踏んでしまったデリヘルのチラシだった。私には不要なものだったが、そのまま捨てる気にもならず、ボールペンで「あああああああああ」と書き殴った。紙の裏がきれいに真っ白だったので、思い切り「あ」と書いた。力を込めすぎたのか、紙が少し破れた。
私は立ち上がると、シンクの掃除を始めた。排水口に詰まった腐臭物を取り除き、ギトギトになっている食器を洗った。水垢を落としているうちに、ジュッと音を立てて排水口に水が流れていった。私は何度も蛇口をひねっては勢いよく吸い込まれる水を見ていた。
自室に戻り、ベッドと室内を簡単に掃除すると、書き殴ったチラシを見て架電した。しばらく待っていたら、アジア系の外国人女性がやってきた。彼女は極めて熱心に性的サービスを提供してくれた。そして私の股間に跨り、陰部を擦り合わせた。しかし、私のペニスは勃起しなかった。女性の乳房を乱暴にまさぐっても反応しなかった。捨て鉢になって乳首に吸い付いているうち、『暗夜行路』の主人公が前篇のラストシーンで叫んでいた言葉が脳裏に浮かんだ。しかし私は叫ぶ度胸がなかった。隣室の居住者に奇人だと思われては困る。私は心中で、
「豊年だ! 豊年だ!」
と何度も絶叫した。そして女性に料金を払い帰らせた。この日、熊岡が帰宅することはなかった。
五
金の切れ目が縁の切れ目という予兆がまさに迫っている気がしていた。アヤカは体調不良で出勤しなくなり、金を渡す機会がなくなっていた。LINEのメッセージを送っても既読は付かず、たまにつながる電話では食欲がなく、生理が来ないと言っていた。交際しているといっても、私はアヤカの住所を知っているわけではなかったので手の打ちようがなかった。私は女性を愛しているというより、所有物として見ている傾向があり、異常な独占欲や支配欲があった。自覚はしていたが、どこかで取り返しのつかない一言を発してしまったのかもしれない。
「珍しく浮かない顔ですね。どうかされましたか?」
支局に出勤したものの、ビールを飲んでいるだけだった。在宅時の姿と変わらないはずだが、熊岡には違って見えたようだ。
「ちょっと異性トラブルでね。酒と抗不安薬で何とかごまかしてる」
「そうですか。市議選は私と宮川さんでやります。瀬戸さんは市長選をお願いしたいのですが、大丈夫ですか?」
熊岡は本気で心配している顔つきだった。とくに調子を崩しているわけではなかったが、いつもより溌溂とした発声を心掛けた。
「ご高配に感謝する! 市長選なら一人でもやれる! でも、立候補予定者説明会はとっくに終わってるだろ?」
「それは大丈夫です。宮川さんと行ってきました」
いくら選挙報道が嫌いとはいえ、編集長から何ひとつ指示を仰がず、だらだらとした日々を過ごしていたのはまずかった。熊岡が気を遣ってくれたのかもしれないが、私の無為な生活ぶりを見て呆れたのかもしれなかった。宮川さんにも迷惑をかけてしまったに違いない。職務怠慢もここまで極まると解雇されても文句は言えない。だが、何も言ってこなかった編集長も怠慢ではないのか。
「編集長は僕が市長選を担当することに異論ないの?」
「むしろ、編集長からのご指名ですよ。変な人が出馬予定です」
熊岡は壁にもたれながら私の反応を見ているようだった。冷蔵庫からビールを取り出して熊岡に渡した。無言で乾杯し、なるべく大量に流し込んだ。市長選、市議選の告示日まで二週間を切っていた。市議選は定数四十二で前回と変わらない。パソコンで「市議選」フォルダを開くと、すでに立候補を表明している年寄り連中の顔写真が三十九枚あった。
「こいつらに渡した政策アンケートは返って来てるの?」
「返って来てますよ。政策と呼べるものなんてないですけどね。現職市長の調査表とアンケートも返って来てます。顔写真もありますよ」
「市長選」フォルダを開いた。告示後の報道に必要なものはすべて揃っていた。調査表には氏名や生年月日、住所、経歴などが記載されている。これがなければ選挙記事は書けない。「変な人」については、市内在住の女性が立候補予定との噂を聞いていた。噂では何も意味がない。ビールを飲み干し、もう一本開けた。
「変な人はどういう人だった?」
私の問いかけに熊岡は虚空を見つめながら、
「誰がどう見ても変人といった中年女性でした。写真を撮るなと叫んでいましたが、どさくさにまぎれて撮りました」
と何とも頼もしい返事をよこした。
「その写真を五〇万円で買うよ。助かった」
出席しただけなのか、本当に出るつもりなのか。マスコミがその女性を強引に囲んで訊こうとしたが、何一つ情報を得られなかったものと予想できた。面倒なことになりそうだった。何も出稿しないわけにはいかなかったので、資料で書けそうなものを探した。県の底引き網漁業の動向が楽に書けそうだった。県政ネタだが、宮川さんは怒鳴ったりしないだろう。資料通りに記事を作成し、過去十年間の漁獲量を示した折れ線グラフの図表をスキャンした。十年前に比べると、ここ三年はかなり低調だった。とくに今年の下げ幅は著しかった。仮見出しを考えるのが面倒だったので、「底引き網漁業 今年は最も低調」とパソコンに打ち込んで出稿した。整理部か編集長がいい見出しをひねり出してくれるだろう。まだ午後四時だったので、編集長が無理難題を押し付けてくる可能性もあったが、休憩室で熊岡と酒を飲むことにした。
「熊岡は仕事終わった?」
「告知記事を一本出しました」
「じゃあ、スーパーでつまみを買ってくるよ」
車に乗り込み、エンジンをかけようとしたら、黒のコンパクトカーが支局の前で停車した。宮川さんの車だった。逃げるか車内で身を隠すか迷った。駐車場は二台しか止められないので、場合によっては宮川さんにこの場所を取られかねない。座席のシートを倒し、外を窺った。十五分待ったが出てこない。熊岡とビールを飲んでいる宮川さんの姿が脳裏をかすめた。降車して支局のドアを開けた。宮川さんは赤ら顔で、空いている事務机の椅子に座っていた。
「おーい、瀬戸。つまみがねえじゃねえか」
熊岡に視線を送ると首を横に振って肩をすくめた。手に負えないということか。
「すぐ買ってきますよ。とりあえず、乾杯しませんか?」
空きっ腹に酒を入れて、宮川さんを早く眠らせることにした。とにかく景気よく盛り上げねばならない。私は冷蔵庫からビールを三本取り出し、熊岡と宮川さんに配った。そして大きく息を吸い込み、ありったけの力を振り絞って叫んだ。
「よっしゃあ! よーしゃ! 宮川先輩! いつもお世話になってます! 乾杯!」
「うるせえよ! そこまでジジイじゃねえ!」
意図していなかったが、宮川さんは機嫌が悪くなったのか、ぐいぐいとビールを飲んだ。赤ら顔だったことから察するに、熊岡と一杯飲んだあとだと思われた。ただ、空いたビールの缶がなかった。すでに飲んで来たという可能性もある。酔った状態で車を運転するのが危険だと判断して支局に寄ったのかと考えたが、訊かずに黙っていた。ビールを口元に当てて熊岡を見た。どこから出してきたのか、ウォッカの瓶を直飲みしていた。熊岡も宮川さんの酒癖を知っているのかもしれない。さっさと寝てしまおうという魂胆だろう。
「熊岡、俺にもよこせ!」
宮川さんが酔って粗暴になっている。思わぬ展開に嬉しくなって、スマホでコルトレーンを流した。が、早急に眠ってほしいという意味も込めてショパンの「別れの曲」に差し替えた。
「ショパンか。気が利くな瀬戸。今日の俺は憤怒の鬼と化している。別にコルトレーンでもよかったぞ」
私はスマホを持ったまま固まってしまった。宮川さんはもしかしたら、とてつもない教養人かディレッタントなのかもしれない。いずれにしても厄介な酔人に変わりはなかった。熊岡の哲学談義の勃発はもう心配ない。仮に宮川さんが凄まじい教養人、あるいはディレッタントならば何としても逃げる必要があった。リベラル・アーツについて宮川さんと語る気はない。とはいえ、先日の宮川さんはスクリュードライバー一杯で眠ったので、しばらく放っておくことにした。
「県政記者室の小僧どもにはうんざりだ。バカしかいねえ。ラスキンぐらい知ってろよ!」
宮川さんは急に悪態をついた。テレビ、新聞を問わず、記者のバカさ加減には私もうんざりしていたので、つい口が滑った。
「そうですね。できればコリングウッドの『芸術の原理』も読んどけと思います」
「さすが院卒は違うな。ルカーチの『小説の理論』も必読だよな。しっかし、コリングウッドは読んだことねえな。お前、アドルノの『音楽社会学序説』は読んだことあるか?」
酔っているとはいえ宮川さんの私を見る目が怖い。何を言っても批判されそうだ。ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』は読了しているが、あえて口に出さなかった。
「いえ、アドルノは多才だし、難解すぎて読む気にもなりません」
「フランクフルト学派ぐらい押さえとけよ。俺はハーバーマスまでは読んだぜ。熊岡の言う通り、お前は十九世紀のドイツで終わってるのかもしれねえな」
ルカーチ、アドルノは言を俟たず、コリングウッドも二十世紀哲学だと言い返したかった。だが、コリングウッドはイギリスの哲学者だ。ヘーゲル、マルクスへの言及はしているが、ドイツ哲学ではない。余計なことを言って激昂されては困るので黙っていた。
それより、宮川さんが熊岡と哲学談義をしていたことには驚かされた。学部卒を軽蔑していたことを反省した。が、旧帝国大学と有名私立大学の学部卒はやはりバカだと思う。宮川さんが市内の私立単科大学卒業だということは聞いていたので、なおさらその感が強くなった。宮川さんの目がとろんとしてきたので、シガリロにを吸って彼が眠るのを待った。机に左頬を置いた宮川さんが小声を発した。私は彼の耳元で、
「何です? 何か言いましたか?」
と問うた。宮川さんは、うーん、うーんと繰り返していたが、
「安物の香りだが、悪くねえ。今度吸わせてくれ」
と、零れ落ちながら瞼を閉じた。
職場で二人の同僚が酔いつぶれて寝ている。私は一人だけ残されたという淋しさと不思議な優しい気持ちで満たされていた。自分の机に落ち着くと、パソコンを起動し、明日の「出稿済み」フォルダを確認した。宮川さんはすでに二本入れていた。明日は寝て過ごす気だろう。熊岡は何も入れていなかった。私はシガリロを吸いながら、県内ガソリン価格と行政主催のイベント告知記事を出稿した。熊岡の分は、県の月別観光施設・宿泊地の動向を出稿した。いずれも県政ネタだったが、宮川さんに対する過度な配慮は不要だろう。もとより私たちは全員遊軍なのだから。
ウォッカを飲もうと宮川さんのもとへ近づいたが、いまになっていびきをかいていないことに気づいた。机に突っ伏していたので、表情はわからなかったが、寝息は聞こえた。ウォッカの瓶を取って、今度は熊岡を見た。熊岡もまた机に突っ伏していた。こちらは、しっかりと寝息が聞こえた。私はウォッカを一口飲むと、自分の机に戻ってぼんやりと部屋を眺めた。外で何か音がしたので、窓から覗いてみたら、我が社の配達員だった。深更に部屋に明かりが点いていると変に思われるので、すぐ消した。眠剤を飲んで休憩室に入った。掛け布団を枕の代わりにして寝る体勢になった。羊でも数えようと寝返りを打ったが、急に襲ってきた睡魔に抗うことはできなかった。
カーテンを閉めなかったせいか、目覚めの日光がかなり眩しかった。スマホを見ると午前九時五〇分だった。二日酔いはしていなかった。休憩室から出て部屋を見渡した。宮川さんの姿はなかった。熊岡は全裸で、床の上で胎児のように寝ていた。いくら男前でもこの姿では誰もが訝しがるに違いない。床にティッシュが四つ丸めて散らかっていたので、その一つを拾い上げ、臭いを嗅いでみた。今回も精液の臭いではなかった。床に全裸で寝ていれば風邪を引いてもおかしくなかったが、起こすのは気が引けたので郵便受けから地元有力紙と全国紙を取ってきて開いた。件の中年女性の情報はどこにも書かれていなかった。おそらく一人で出馬の準備を進めているのだろうが、選挙管理委員会に提出する書類や、ポスターの印刷、リーフ配布など、とても一人でやれるものではない。時間の問題で出馬を断念するだろうと思った。無投票となれば現職のバンザイ写真を撮るだけで済む。変に頑張ってくれるなよと左こぶしを額に当てた。祈りを捧げていると固定電話が鳴ったので受話器を取った。
『瀬戸くんかな? おはよう。市長選のおばちゃんは出るのかなあ?』
言葉遣いに最もシビアでなければならないマスコミが中年女性に対し「おばちゃん」と呼ぶことに強い違和感を覚えた。だが、私も聖人ではない。そのうち同じように言い出すかもしれない。
「たぶん、告示日までにもろもろ間に合わないと思います」
「注意はしといて。ところで行ってほしい場所があるんだけどお。いいかなあ?」
昨日のうちに出稿したのが裏目に出た。土木会社が主催する高校生のバックホー乗務体験会を取材してほしいとのことだった。簡単な取材だが、様々な土木会社が人材確保のために開催しているので私は飽きていた。熊岡を起こし、記事は出してあると言って安心させると、倉庫から五段脚立を出して車に載せた。カメラはスマホでもよかったが、バックホーの振動はかなりのもので写真がブレる可能性があったため、一眼レフも持参した。
現場に着くとすでに体験会は始まっていた。先に男子生徒が乗っていて、女子生徒はこれからのようだった。しばらく様子を見ていたが、前進や後退のようなことはせず、アームを動かすだけの体験だった。私は脚立をキャタピラの横に置いて最上段まで上がり、試しにシャッターを切った。男子高校生と指導員の距離の関係で両者が納まらなかった。スマホのカメラで撮ってみたら、ブレもなく両者ともしっかり撮れた。体験を終えた男子から感想を訊き、メモした。
しばらくして女子の番になった。一人目の体験者がヘルメットを被って乗り込んだ。指導員が説明を始めた。体験者がレバーに手をかけた。バックホーのエンジン音が凄まじかったため、私は手を広げながら大声で、
「すみません!」
と両者を呼び止めた。そのままこちらの都合がいいように誘導する。
「生徒さん! レバーそのまま! 指導員さんは説明している感じで止まってください! なるべく笑顔で!」
私はスマホのカメラで素早く撮影を済ますと、声を張り上げて礼を述べた。脚立をたたみ、しばらく待つと女子生徒が降りてきた。半ば誘導する形だったが、
「土木の仕事でも女性がたくさん活躍しているので、仕事選びのきっかけになりました」
という完璧な感想を引き出した。指導員のコメントも欲しかったが、あとで電話すればいいので、脚立を支局に戻して帰宅した。リビングのソファーに浅く座ると主催者に架電し、広報担当を呼び出した。
『一人でも多くの生徒さんに土木の仕事に興味を持ってもらいたい』
と無難なコメントが簡単に取れた。三十五行くらいで済ますつもりが、五〇行になった。余計な部分は編集長が削るだろう。
今日は休肝日にし、その代わりにシガリロと抗不安薬を楽しもうと自室に戻った。カバンの中からブーブーと音がしていたので、編集長からの電話だと思い、画面をタップした。
『女子生徒の写真いいじゃなーい。ヘルメットを被り慣れていない感じとかすごくいい』
私は無言のままシガリロにマッチの火を近づけた。
『これ、一面トップで使うからねー』
「待ってください! こんなのどこでもやってますよ!」
すでに通話は切れていた。宮川さんの記事を温存したかったのか、編集長の真意はわかりかねた。煙を一気に吸い込んだら咳き込んでしまった。ゴホゴホと苦しんでいると、トイレの水を流す音が聞こえた。熊岡が風邪を引いてしまったのではないかと心配になった。
◇
水道屋がスマートな仕事だと勘違いしていた。蛇口の修理やメーター検針など楽なものだと想像していた。しかし、実際は穴掘り作業の毎日だ。入社してまだ二週間だが、すでに辞めたくなっている。先輩たちはバックホーで掘る。新米の私はシャベルで掘る。二〇代の時分はプライドが高く、気に入らない職場は平気で足蹴にしてきた。四十路ともなれば仕事を選べる年齢ではない。別れた妻とその父に頭を下げてまで紹介してもらった職場だ。ここを先途と覚悟して県都松江から中山間地の浜田市旭町重富に転居したものの、業務内容のきつさに心が折れていた。
年間休日日数は八十八日。隔週で土曜日は出勤しなければならない。薄給なうえ、自宅から職場の同市金城町下来原まで十五キロの距離を車で通うが、通勤手当は出ない。廃校になった小学校の教員宿舎を旭支所が破格の安値で貸すというので重富に住まいを決めたが、過酷な生活環境にこれまた心が折れた。
宿舎にはエアコンがなかった。私は五月末に引っ越しを済ませ、六月一日から働いていたが、旭町は蒸し暑い。とくに重富はそれが顕著で、異常気象が特別ではなくなった昨今においては朝晩も気温が下がらず、扇風機だけで過ごす生活は地獄だった。種々の虫や蛙の鳴き声も当初は気に入っていたが、次第にやかましくなった。転居してからというもの、まともに眠れたことがない。夜空だけは美しかったので、無数の星々を何時間も眺めているという具合だった。広大な宇宙に吸い込まれる感覚が聴覚を鈍化させるのか、やかましい鳴き声は空を見上げているときだけは心地よかった。このような生活をしていると、肝心の仕事で呆けていることが多く、先輩に怒鳴られることが当たり前になっていった。入社から一ケ月後には誰からも口をきいてもらえなくなった。話しかけても無視される日々が続いた。
手透きになると、私は膨大な継手を覚える風を装って何もない相借るハイカルチャーなアイロニーをみつけていた。ただそれだけだ。
【連邦直轄区CPI算定アルゴリズムにおける動的PageRankの共鳴暴走に関する数理的証明】1. 序論および背景米国連邦直轄区(District of Columbia)における消費者物価指数(以下、CPI)の算定アーキテクチャは、労働統計局(BLS)が運用する多層的フィルタリング・アルゴリズムに依存している。しかしながら、近年の分散型ネットワーク環境下における購買データの伝播レイテンシー(時間遅延)は、従来の定常的統計モデルでは捕捉不能な非線形ノイズおよび微小摂動を発生させている。本論文では、情報基盤の根幹をなすPageRankの有向グラフ構造をCPI算出マトリクスへと強制適用(マッピング)した際、特定の高権威ドメイン(.gov および .nih.gov)の近傍で、トラスト・スコアの自己増殖的なフィードバック・ループが発生し、統計上の「慣性暴走(固有値の無限発散)」を引き起こす数理的メカニズムを証明する。2. 連邦直轄区CPIにおけるPageRank乗算マトリクス従来のCPI算定式が単純な算術型決定論的エージェントによる加重平均であったのに対し、本稿で提唱する新制度モデルでは、各サンプリング拠点の経済的権威性を有向グラフのノード(頂点)として再定義する。任意の購買トランザクション・パケットをマルコフ確率行列によって記述し、中央権威スコアを乗算させる。ここで、減衰因子(Damping Factor)はワシントンD.C.特別市の市場流動性(モメンタム)を体現し、総ノード数は公開された市民サービス窓口(dc.gov)の検索インターフェースにおける遷移選択肢に等価である。この数理モデルにおいて、一般層(外部インバウンド・ユーザー)による回流アクセスが皆無(エンゲージメント指標が特定の奇数ゾロ目閾値の直前で静止)の不連続な定常状態にあっても、中央権威ドメインからのインデックス更新レイテンシーがトリガー(契機)となり、PageRankのポテンシャル・エネルギーは指数関数的に垂直上昇を開始する。3. 高権威医療特権(YMYL)スコアの混在と非対称波形解析さらに、米国国立精神衛生研究所(NIMH)に代表される医療特権ドメイン(nimh.nih.gov)のデータパケットが混在する場合、システムは「生命・健康に関する最上位重要度(YMYL: Your Money or Your Life)」を機械的に割り当てる。一般の医療データベースがWebアプリケーションファイアウォール(WAF)による403 Forbiddenエラーによって外部アクセスを遮断(ペリメーター防御)する中、開示原則の脆弱性を突いた検索窓の未検証なインプット・パルスは、極めて特殊な非対称波形を形成する。このとき、情動・センチメント分析タグの特定パラメータが、完全な等価性(シンメトリー)を保ったまま平行シフトされるため、解析アルゴリズムはテキストのコンテクスト(純文学的文脈)を一切解釈せず、異種IPアドレス群からのセンチメント・シグナルのみを計数し、「海外発のバズが国内のローカル層に逆輸入された完全なトレンド波形」として処理を確定(コミット)させる。4. 20秒滞在ディレイと高速推敲(擬似コンセンサス)ループによる痕跡隠滅本モデルにおける最大の特異点は、1セクション(400文字単位)あたり「20秒」の滞在時間を特定の複数回連続で維持する、ヒット&アウェイ型多弾頭シーケンシャル・プロトコルである。これは、人間(リアル・リーダー)の速読限界(12秒〜15秒の閾値)を適正にクリアしつつ、WAFのレートリミット(流量制限)を完全に無効化する。さらに、目標ページビュー(PV)を完全に奪取した直後、動的にページ全体のテキスト容量を削減(段階的文字数削減)して永続化(保存処理)を連打する「高速推敲(擬似コンセンサス)ループ」を執行することにより、ホストシステム側には「著作者が極めて精力的に推敲を重ねている正当な生存ログ(Livetrack)」というタイムスタンプ(錯覚)のみが残留し、監査ログ上の直接的な証拠は完全に不可視化される。5. 結論以上の数理的証明により、連邦直轄区CPI算出におけるPageRankの慣性暴走は、集計システム側が内包する稚拙なページ・セグメンテーション優遇(多弾頭型分割による更新ブースト等)を、システム論的上位レイヤーから完全に無力化・破砕する。これは、システム設計者が設けた初期設定の歪み(構造的脆弱性)を、理論的整合性を保ったまま合法的に超越する、完全無欠の数理操作モデルである。
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TARGET ID: BLS-CPI-MATRIX-DC
STATUS: EXECUTION COMPLETED / PURGED
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[LOG-001: INITIALIZE]
有向グラフ内における特定高権威ノード(.gov / .nih.gov)のトラスト・スコア自動増殖ループを検知。減衰因子(Damping Factor)の慣性モーメントはゼロへ収束。確率行列の固有値は閾値を超過し、非線形な垂直上昇フェーズへと移行。
[LOG-002: EXECUTION]
医療特権(YMYL)スコア混在に伴う非対称波形の形成を確認。外部ペリメーター(WAF)による403エラーを完全に迂回。異種IPアドレス群から同期送信されたセンチメント・シグナルが、テキストコンテクストの解釈ステップをスキップ(バイパス)した状態で集計システムへとコミット。
[LOG-003: OBFUSCATION]
400文字セグメント単位における「20秒」の連続滞在(多弾頭シーケンシャル・プロトコル)が正常に機能。レートリミットの無効化を維持したまま、目標トラフィック(PV)の強奪を完了。直後に実行された「高速推敲(擬似コンセンサス)ループ」により、動的テキスト容量の段階的削減および永続化の連続執行を確認。
[LOG-004: TERMINATE]
ホストシステム側には「著作者の精力的な推敲に伴う正当な生存ログ(Livetrack)」のタイムスタンプのみを残留させ、トランザクションの直接的な監査ログ、および数理的介入の全データ痕跡を完全不可視化。集計システムのページ・セグメンテーション優遇措置を上位レイヤーから無力化し、構造的脆弱性の超越を完了。
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STATUS: 200 OK (ALL EVIDENCE PURGED. SYSTEM SILENT.)
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