夏が終わったら逢いにきて 〜初めて恋した相手は幽霊でした〜

「あの日……はね、志望校について悩んでて……さ。悩み過ぎて勉強が手につかなくなるし、それに焦って空回りするしで、結構メンタルやられてたんだよ」

 少しだけ遠い目をする雄志さん。
 僕の手を握る相手の手から、僅かに力が抜けた。

「ほら、教育免許だけなら一般学部でもとれるじゃん。第一志望にしてた教育学部のある大学の判定が、その頃微妙でさ。一般学部に進学して、片手間に教育免許を取ろうかなって……。
 でも先生になりたいって夢は子どもの頃から大事にしてたからさ……。どうしよう、どうしようってドツボに嵌まってた……」

 こんな顔も頭もよい人でも、人生に悩むのか……。なんて失礼なことを考える。
 だって、あの教え方は本当に勉強のできる人にしかできないはずだ。
 問題集の答えと解説を丸暗記しただけじゃ、決してあんな丁寧な説明はできない。

「だからさ、気分転換っていうか、たまには変わったことでもしてみよっかなぁってほくちゃんに声掛けたんだよね。最初はそんな感じだったけど、俺が教えたことを素直に吸収してくほくちゃんに勉強を教えるのは楽しかったよ。
 だからこそ……君が俺のことを『先生に向いてる』って言ってくれた瞬間、腹が決まったんだ」

「ひぇ……」

 僕の何気ない一言が、この人の運命を決定づけてしまった気がして気が気でない。
 だけど悪意無くニコニコと笑う相手を見てると、よかったのかもって安堵の気持ちが沸き上がった。

「だからあの後、気合い入れ直して、勉強して……。そしたらちゃんと結果がついてきたって訳。受験が終わった後、ほくちゃんにお礼を言おうと思って何度かあの図書館に行ったんだけど……」

 そうなのか……。
 まぁ、あの図書館に行ったのは本当にイレギュラーだったから。
 雄志さんの大学受験が終わる頃には、僕はもう高校も決まっていて、怠惰に過ごしていた頃だろう。

「そ……れはすみません」

 僕のつたない謝罪に緩く首を振る雄志さん。

「最初は本当にお礼を言うだけのつもりだったんだ。だけどあの日ほくちゃんが向けてくれた笑顔が忘れられなくてさ……」

 照れたように笑う雄志さんに、僕は困惑を隠せない。

「だから……。幽霊だった俺に、同じような言葉をほくちゃんがかけてくれたことによって、俺は全てを思い出して身体に戻ることができたんだ」

「そう……なんですか……」

「そ。だからほくちゃんは凄いんだよ」

 そう言われても……と思うけど、ニコニコと笑う雄志さんに否定を返す気にはなれなかった。

「そういえばそもそもなんで第三音楽室に現れたんですか?」

 ついで、と言わんばかりだけど、少しだけ気になったことを口にする。
 あの時のユーレイさんの望みが図書室に隠した手紙だったら、そちらに現れるというのが筋じゃなかろうか。

 そんな僕の問いに、やっぱり照れたように笑う雄志さん。
 いやなんでその表情(かお)?

「いやあれは……なんつーか……。事故に遭って意識が落ちる寸前強く思ったんが、教育実習どうすんだよ?! だったんだよねぇ。
 だから幽体離脱してまであの学校にたどり着いたんだと思う」

「なるほど……?」

 まだ図書室じゃなくて第三音楽室に現れた理由はない。

「んで、ふらふら彷徨ってたらさ……。ピアノの音が聞こえたんだ」

 雄志さんの言葉に、僕の肩がピクリと跳ねる。
 そりゃ確かに僕は、僕自身が七不思議に数えられるほどにはピアノを弾いてたけど……。
 だけど使われなくなったとしても音楽室。そこまで外に音漏れしてるとは思えないんだけどな?

「誘われるように第三音楽室に行って……。そしたらピアノを弾いてるほくちゃんがいて……。綺麗だったなぁ……」

「へぇ……ん?」

 なんか最後、空耳?

「綺麗だったよ。ピアノを弾いてるほくちゃん。こう……さ、一心不乱に指を滑らしてて、この……」

 雄志さんの長い指が僕の黒髪を梳る。
 さらさらとした感触と同時に雄志さんの指の感触が地肌をなぞり、少しだけ心拍数が上がった。

「黒髪がさ、サラサラ揺れて……。窓からの光を受けてキラキラしてて……すっげぇ綺麗だった」

「そう……ですか……」

 さらり、さらり。
 僕の髪を撫でる雄志さんの手は止まらない。

「そんで何故か、ほくちゃんの弾いてた明るい曲が、俺を励ましてるようにも思えてさ……」

「んっ……」
 
 するりと落ちた指が、僕の耳たぶをなぞる。
 自分で触れてもなんともないのに、何故か雄志さんの指が僕の耳の形をなぞるだけでソワソワと落ち着かない。

「だから……気がついたら声掛けてたんだ」

 確かにあの日僕は、保坂先生から聞いた『事故に遭った教育実習生』が少しでも元気になればとピアノを弾いていた気がする。
 思いがけない形で本人に届いていたことに、驚きもありながら照れくささもある。

「そう……なんですね」

「そ。あん時のほくちゃん、かわいかったなぁ。幽霊でも見たような顔で怯えててさ」

「いや、本当に幽霊見てビビってたんですが?」

 元凶の言葉に、思わずジトリと睨んでしまう。
 誰もいなかったはずの教室で、ぷかぷか浮かぶ幽霊に声をかけられたら誰だってビビるだろう。

「ははっ。ごめんて。まさか自分が幽霊、つか、幽体離脱してるとはさすがにわかんなくって」

 耳の形をなぞっていた指が、頬の輪郭をなぞる。
 ぞわぞわとした感触が、何故か背中から腰へと流れていった。

「んでさ、あん時ホントに自分が誰か、なんでここに幽霊としているのかって何一つ思い出せなくてさ。でも……それでも俺が自分でいられたのは……間違いなくほくちゃんのおかげだよ」

 まぁ、得体のしれない幽霊の話を聞いちゃう当たり、お人好しだと思うけど。
 なんて余計な一言に、むっと唇を一文字に引き結んでしまう。

 それをもみほぐすように、頬を撫でてた指がフニフニと唇に触れる。