「お~い。島原~。すまんが職員室までノート運んでくれ~」
「あ、はーい」
授業の終わりを告げるチャイムと共に颯爽と出ていったはずの担任が、戻ってきたかと思えば何やら用事を言いつけられた。
チラリと黒板に視線を走らせ、日直の名前が書かれたところを見る。
……そこには僕、こと島原北斗《ほくと》の名前は書いてなかった。
……書いてないんだけどなぁ。
返事をしてしまったものはしょうがない。
僕はため息を吐きながら、教卓の上に次々と重ねられていくクラスメートのノートを手に取った。
「島ちゃん、また保坂っちに雑用押し付けられてんの?」
ノートの山の上に自分のノートを重ねながらクラスメイトの葛西君が問いかけてくるけど、代わってくれる気はないみたいだ。
……日直君の友達だったよね?
「たぶん、頼みやすい顔してんだろうね、僕」
ため息交じりに呟いてみても、相手は半笑いを返すだけだ。
え? 同意ってこと?
どうやら助けは期待できないらしい。
まぁ、職員室遠いもんな。
ついでに三十人分のノートはそれなりに重いもんな。
やらなくて済むならやりたくないよなぁ~。
正直僕もやりたくないんだけどなぁ~。
ま、しょうがない。
「っと……」
少しだけ動きの悪い左手ではノートを支えきれなかったらしい。
ぐらりと揺れるノートたちをなんとか胸元に倒してバランスを取る。
左手は添えるだけにしてなんとかノートを支えながら、僕は教室を後にした。
開かれた廊下の窓からふわりと吹きつける風はずいぶんと暑い。
まだ五月の連休も終わったばかりだっていうのに、夏の気配がずいぶんと濃厚だ。
春なんてものは暦の上か、枕草子の中にしか存在しなくなる日も近いかもしれない。
そんな詮無いことを考えてながら歩いていれば、遠い職員室もあっという間にたどり着いた。
「せんせー。保坂先生ー。ノート……」
「なんですって?! 彼が?! そ、それは……、え? えぇ、えぇ……。はい……。えぇ。状況がわかりましたらまた……。えぇ。えぇはい。よろしくお願いいたします」
驚いたように椅子から立ち上がって受話器に向かって大声を出す保坂先生に、職員室中の視線が集まる。
だけど、そんなことは微塵も気にならないのか、保坂先生は深刻な表情で会話を続け、短い挨拶と共に受話器を置いた。
そして、ふぅと長く息を吐きながら、椅子に腰を落とした。
「……保坂先生、ノートを持ってきました」
保坂先生の様子も気になるが、ノートを支える僕の手も限界が近い。
何やら手で目元を覆ってシリアスな空気を出してる保坂先生には申し訳ないが、遠慮なく声をかけた。
「ん……? あ、あぁ、島原か……。すまん、ここに……」
保坂先生の手がバサバサと手荒く書類を纏め、机の上に空白地帯ができる。
そこにノートを置きながら、聞いてもいいものかと思いつつ口を開いた。
「先生……? 何かあったんですか?」
僅かな好奇心と、いつになく落ち込んだ様子の先生が気になって問いかければ、指の隙間からちらりと覗いた保坂先生の目が僕を見た。
「あー……。うん。島原なら面白おかしく吹聴するタイプじゃないか……。あのな、来週から教育実習が始まるだろ?」
だろ? と言われて今朝の記憶を思い出す。
そう言えば、朝の連絡事項にそんな話があったような?
小さく頷けば、保坂先生はもう一度辛そうに息を吐いた。
「来る予定だった学生がなぁ、昔俺が担任を持ったことのある生徒で楽しみにしてたんだが……。交通事故に遭ったらしくてな……」
その言葉に、どくりと胸が跳ねる。
嫌な記憶が蘇りそうになって、慌てて首を振る。
「外傷は酷くないらしいが、頭を強く打ったらしくてな……。意識が戻らないらしい」
再び目元を覆い隠した保坂先生。
言葉の端々に元生徒への心配が垣間見えて息苦しくなる。
そして……もう傷は目立たないはずなのに引きつるような痛みが走る左手。
僕は気付かれないように反対の手で左手を隠した。
「……はぁ……」
「それは……なんと言っていいか……」
せいぜい十七年くらいしか生きてた経験のない僕は、先生になんて言葉をかけていいかわからなかった。お大事にでもないし、大変ですねもなんか違うし。
そんな僕の戸惑いを見抜いたんだろう。
目元から手を外した先生が、僅かに微笑んだ。
「すまんな。少し取り乱した。……ノート、ありがとな」
「あ……いえ……」
内心はどうであれニコリと笑う保坂先生の様子にますますどうしていいかわからなくなる。
本当に……こういうのは苦手だ。
「あ……のっ!」
「ん? どした?」
なんとか絞り出した声は僅かに掠れていた。
「は、やく目が覚めるといいですね……っ!」
勢い込んだ僕のセリフに、保坂先生が僅かに目を丸くした。
それからくしゃりと微笑んで……。
「……そうだな。ありがとな、島原。お前もくれぐれも事故には気をつけろよ」
「あ……はい」
担任の言葉が左手に突き刺さる。
気を付けてたって……避けようがないこともあるんですよ。
なんて可愛げのないことを胸の中でだけ呟きながら、僕は職員室を後にしたのだった。
再び廊下を歩きながら窓から臨む校庭を見下ろす。
すでに部活が始まる時間になったのだろう。
野球部や陸上部の人たちがちらほらと出てきていた。
照り返す太陽の光が眩しかったわけでもないのに、なんとなく目を眇めてしまう。
それは熱心に打ち込むことのできるナニカを持ってる彼らがうらやましいからだろうか。
「……ちょっとだけ……」
教室に戻るべく進めていた足をいったん止め、そのまま踵を返す。
向かうのは、今は誰も使っていない第三音楽室。
夢破れた僕にとっての憩いの場だった。
少しだけ埃っぽい匂いのする音楽室の窓を開け放つ。
ふわりと吹き込む風はやっぱり暑いけど、どこか心地いい。
「さて……何を弾こうかな……」
使われなくなった音楽室に放置してあるグランドピアノの前に腰を下ろし、鍵盤を隠している蓋を持ち上げる。
埃避けの布も取り去れば、つるりとした光を放つ白と黒の鍵盤が僕を待ち構えていた。
何を弾こうかなんて考えながら鍵盤に指を滑らせる。
鍵盤から返ってくる反応がいつもと変わらなくて、どことなくほっとした。
「……元気が出る曲に……しようかな」
さっきの職員室でのことを思い出しながら、指を動かす。
奏でるのは明るいワルツ。
事故に遭ってしまったという人が少しでも早く元気になりますようにとの思いを込めて、鍵盤を叩いた。
最後の一小節……という段階で、左手が滑る。
軽やかなワルツは、不協和音の余韻だけを残して終演となった。
「……はぁ……」
鍵盤に置いたままの左手をぼんやりと眺める。
薬指の付け根から手首へと僅かに残る歪な線。
現代医療の賜物か、表向きには傷を負った本人にしかわからないソレ。
それでも確かに傷ついたことが、指の動きに現れていた。
日常生活を送る分にはそこまで支障はない。
重い物を持つときに気をつければいいだけだ。
でも……。
それでも……。
ピアノを弾き続けるには致命的だった。
「……次は……何にしよっかなぁ?」
ぎしりと椅子を傾けて、ひとりごとを呟く。
最近幽霊がでると噂になってるらしいこの場所を訪れる生徒はいない。
だから……油断していた。
「さっきみたいな曲、もっかい弾いてくれね?」
「えぇー? 同じ曲?」
「ん。じゃなかったらなんか元気でそーなヤツ」
「んー。じゃあこの曲……って誰?!」
慌てて声のしたほうに振り向く。
だってこの教室には僕以外誰もいなかったはずだ。
唯一の出入り口は僕から見える場所にあるし。
いくら弾くのに夢中だったとはいえ、さすがに人が出入りしたら気付くはずだ。
だから後ろから声が聞こえてくるはずなんて……。
「マジで誰?! って……ひぇぇぇぇぇ?!」
不法侵入者の姿を見止めた瞬間、僕は情けない声をあげて椅子から滑り落ちてしまったのだった。
「あ、はーい」
授業の終わりを告げるチャイムと共に颯爽と出ていったはずの担任が、戻ってきたかと思えば何やら用事を言いつけられた。
チラリと黒板に視線を走らせ、日直の名前が書かれたところを見る。
……そこには僕、こと島原北斗《ほくと》の名前は書いてなかった。
……書いてないんだけどなぁ。
返事をしてしまったものはしょうがない。
僕はため息を吐きながら、教卓の上に次々と重ねられていくクラスメートのノートを手に取った。
「島ちゃん、また保坂っちに雑用押し付けられてんの?」
ノートの山の上に自分のノートを重ねながらクラスメイトの葛西君が問いかけてくるけど、代わってくれる気はないみたいだ。
……日直君の友達だったよね?
「たぶん、頼みやすい顔してんだろうね、僕」
ため息交じりに呟いてみても、相手は半笑いを返すだけだ。
え? 同意ってこと?
どうやら助けは期待できないらしい。
まぁ、職員室遠いもんな。
ついでに三十人分のノートはそれなりに重いもんな。
やらなくて済むならやりたくないよなぁ~。
正直僕もやりたくないんだけどなぁ~。
ま、しょうがない。
「っと……」
少しだけ動きの悪い左手ではノートを支えきれなかったらしい。
ぐらりと揺れるノートたちをなんとか胸元に倒してバランスを取る。
左手は添えるだけにしてなんとかノートを支えながら、僕は教室を後にした。
開かれた廊下の窓からふわりと吹きつける風はずいぶんと暑い。
まだ五月の連休も終わったばかりだっていうのに、夏の気配がずいぶんと濃厚だ。
春なんてものは暦の上か、枕草子の中にしか存在しなくなる日も近いかもしれない。
そんな詮無いことを考えてながら歩いていれば、遠い職員室もあっという間にたどり着いた。
「せんせー。保坂先生ー。ノート……」
「なんですって?! 彼が?! そ、それは……、え? えぇ、えぇ……。はい……。えぇ。状況がわかりましたらまた……。えぇ。えぇはい。よろしくお願いいたします」
驚いたように椅子から立ち上がって受話器に向かって大声を出す保坂先生に、職員室中の視線が集まる。
だけど、そんなことは微塵も気にならないのか、保坂先生は深刻な表情で会話を続け、短い挨拶と共に受話器を置いた。
そして、ふぅと長く息を吐きながら、椅子に腰を落とした。
「……保坂先生、ノートを持ってきました」
保坂先生の様子も気になるが、ノートを支える僕の手も限界が近い。
何やら手で目元を覆ってシリアスな空気を出してる保坂先生には申し訳ないが、遠慮なく声をかけた。
「ん……? あ、あぁ、島原か……。すまん、ここに……」
保坂先生の手がバサバサと手荒く書類を纏め、机の上に空白地帯ができる。
そこにノートを置きながら、聞いてもいいものかと思いつつ口を開いた。
「先生……? 何かあったんですか?」
僅かな好奇心と、いつになく落ち込んだ様子の先生が気になって問いかければ、指の隙間からちらりと覗いた保坂先生の目が僕を見た。
「あー……。うん。島原なら面白おかしく吹聴するタイプじゃないか……。あのな、来週から教育実習が始まるだろ?」
だろ? と言われて今朝の記憶を思い出す。
そう言えば、朝の連絡事項にそんな話があったような?
小さく頷けば、保坂先生はもう一度辛そうに息を吐いた。
「来る予定だった学生がなぁ、昔俺が担任を持ったことのある生徒で楽しみにしてたんだが……。交通事故に遭ったらしくてな……」
その言葉に、どくりと胸が跳ねる。
嫌な記憶が蘇りそうになって、慌てて首を振る。
「外傷は酷くないらしいが、頭を強く打ったらしくてな……。意識が戻らないらしい」
再び目元を覆い隠した保坂先生。
言葉の端々に元生徒への心配が垣間見えて息苦しくなる。
そして……もう傷は目立たないはずなのに引きつるような痛みが走る左手。
僕は気付かれないように反対の手で左手を隠した。
「……はぁ……」
「それは……なんと言っていいか……」
せいぜい十七年くらいしか生きてた経験のない僕は、先生になんて言葉をかけていいかわからなかった。お大事にでもないし、大変ですねもなんか違うし。
そんな僕の戸惑いを見抜いたんだろう。
目元から手を外した先生が、僅かに微笑んだ。
「すまんな。少し取り乱した。……ノート、ありがとな」
「あ……いえ……」
内心はどうであれニコリと笑う保坂先生の様子にますますどうしていいかわからなくなる。
本当に……こういうのは苦手だ。
「あ……のっ!」
「ん? どした?」
なんとか絞り出した声は僅かに掠れていた。
「は、やく目が覚めるといいですね……っ!」
勢い込んだ僕のセリフに、保坂先生が僅かに目を丸くした。
それからくしゃりと微笑んで……。
「……そうだな。ありがとな、島原。お前もくれぐれも事故には気をつけろよ」
「あ……はい」
担任の言葉が左手に突き刺さる。
気を付けてたって……避けようがないこともあるんですよ。
なんて可愛げのないことを胸の中でだけ呟きながら、僕は職員室を後にしたのだった。
再び廊下を歩きながら窓から臨む校庭を見下ろす。
すでに部活が始まる時間になったのだろう。
野球部や陸上部の人たちがちらほらと出てきていた。
照り返す太陽の光が眩しかったわけでもないのに、なんとなく目を眇めてしまう。
それは熱心に打ち込むことのできるナニカを持ってる彼らがうらやましいからだろうか。
「……ちょっとだけ……」
教室に戻るべく進めていた足をいったん止め、そのまま踵を返す。
向かうのは、今は誰も使っていない第三音楽室。
夢破れた僕にとっての憩いの場だった。
少しだけ埃っぽい匂いのする音楽室の窓を開け放つ。
ふわりと吹き込む風はやっぱり暑いけど、どこか心地いい。
「さて……何を弾こうかな……」
使われなくなった音楽室に放置してあるグランドピアノの前に腰を下ろし、鍵盤を隠している蓋を持ち上げる。
埃避けの布も取り去れば、つるりとした光を放つ白と黒の鍵盤が僕を待ち構えていた。
何を弾こうかなんて考えながら鍵盤に指を滑らせる。
鍵盤から返ってくる反応がいつもと変わらなくて、どことなくほっとした。
「……元気が出る曲に……しようかな」
さっきの職員室でのことを思い出しながら、指を動かす。
奏でるのは明るいワルツ。
事故に遭ってしまったという人が少しでも早く元気になりますようにとの思いを込めて、鍵盤を叩いた。
最後の一小節……という段階で、左手が滑る。
軽やかなワルツは、不協和音の余韻だけを残して終演となった。
「……はぁ……」
鍵盤に置いたままの左手をぼんやりと眺める。
薬指の付け根から手首へと僅かに残る歪な線。
現代医療の賜物か、表向きには傷を負った本人にしかわからないソレ。
それでも確かに傷ついたことが、指の動きに現れていた。
日常生活を送る分にはそこまで支障はない。
重い物を持つときに気をつければいいだけだ。
でも……。
それでも……。
ピアノを弾き続けるには致命的だった。
「……次は……何にしよっかなぁ?」
ぎしりと椅子を傾けて、ひとりごとを呟く。
最近幽霊がでると噂になってるらしいこの場所を訪れる生徒はいない。
だから……油断していた。
「さっきみたいな曲、もっかい弾いてくれね?」
「えぇー? 同じ曲?」
「ん。じゃなかったらなんか元気でそーなヤツ」
「んー。じゃあこの曲……って誰?!」
慌てて声のしたほうに振り向く。
だってこの教室には僕以外誰もいなかったはずだ。
唯一の出入り口は僕から見える場所にあるし。
いくら弾くのに夢中だったとはいえ、さすがに人が出入りしたら気付くはずだ。
だから後ろから声が聞こえてくるはずなんて……。
「マジで誰?! って……ひぇぇぇぇぇ?!」
不法侵入者の姿を見止めた瞬間、僕は情けない声をあげて椅子から滑り落ちてしまったのだった。



