白黒の鍵盤に叩きつけるように指を落とす。
目を瞑ったままでも弾けるこの曲は、ピアニストの夢を諦められなかったときに弾き続けたものだ。
激しくも切ないこの曲は、僕にすべての感情を忘れさせてくれる。
だからあの時も弾いて、弾いて、弾いて。
叶わない夢にしがみつく僕に呆れた母親が、家のピアノを処分してしまうまで弾き続けたのだ。
そして今。
どうしようもない感情に突き動かされるがままにこの曲を弾く。
この忘れられた音楽室で、僕のピアノを愉しそうに聞いてくれたあの人は……もういない。
ユーレイさんが消えてから、季節が少しだけ移り変わった。
まだ夏の残滓で汗ばむ日もあるけど、ふわりと吹く風には確かに秋の気配が含まれていた。
最後の音を弾き終え、余韻が長く引き伸ばされる。
どこまでも続くように思えた音は、さらりと空気に溶けて消えた。
まるで……あの日のユーレイさんみたいに。
鍵盤に頭をあずけ、目の前の白に指を落とす。
ポーンと鳴った音はただ虚しいだけだ。
「……はぁ……。勉強しよ」
ピアノの前から離れ、テキストと筆記用具、ノートを広げた机へと向かう。
そのまま一心不乱に問題を解く。
現実から逃げ出すようにテキストへとのめり込む。
何も見ないように。何も聞かないように。
「……っ!」
差し掛かった問題は、ユーレイさんに解き方を教わったことのある問題の類題だった。
ユーレイさんの半透明の指が式を指し示す。
もう二度と訪れないその瞬間を思い出して浮かび上がる感情は、喪失。
ユーレイさんの成仏を素直に喜べない自分に嫌気がさす。
だけど……。
確かに僕はあの人に惹かれていたんだと思う。
事故に遭うまでずっとずっとピアノ一筋だった僕には、誰かを好きになった経験がない。
ピアノだけが好きで、ピアノに触れていられる時間が至福で、ピアノだけが僕のすべてだった。
だから事故でまともにピアノを弾けなくなった時、あれほどまでに絶望し、埋めることのできない喪失感に包まれたのだ。
「……そういえば、どうして僕、この高校に決めたんだっけ?」
ユーレイさんを思い出す問題を解くのを諦め、シャーペンから手を離す。
そして思い出すのは、この高校を選んだ経緯。
事故に遭うまで僕は音楽科のある高校に進学するつもりだった。
もちろん周囲もそのつもりで。なんなら推薦だって決まっていた。
だけど、唐突にその道は絶たれる。
ピアノを満足に弾けない人間を受け入れてくれるほど、その学校は甘くはなかった。
だからこそ、ギリギリの時期に進学する高校を選ぶことになったんだけど……。
もちろん音楽科のある高校の受験内容と、普通科の高校の受験内容は異なっていて。
別に勉強をサボっていたわけじゃないけど、ピアノの練習に時間をとられていたのも事実で。
平均的だった成績を何とかするために僕は図書館に通っていたのだ。
……家に居続けるには、僕をピアニストにしようとしていた母親との空気が居た堪れなさ過ぎたから。
「なんだっけ……? 確か図書館で……」
あの頃の僕は、同情じみた視線を向ける同じ中学の生徒に会いたくなくて、少し離れた図書館に通っていた。
当たり前だが知り合いに会うこともないその場所は、僕に心の安寧をもたらすとともに、少しだけ困ったこともあった。
問題に躓いた時に頼れる相手がいなかったのだ。
だから、わからない問題は後で教師に質問しようと残しておいて、他の問題をどんどん解き進めていくスタイルだったわけなんだけど……。
「……あぁ、そうだ。あの人が……この高校の生徒だったんだ……」
思い出すのは、一度だけ会った親切な高校生。
大学受験を控えてると言っていた彼もまた、図書館の自習室の常連だった。
夏休み中通っていれば、ある程度顔見知りもできるわけで。
もちろん私語厳禁の自習室で言葉を交わすことはなく、視線が合えば会釈だけする関係だった。
そんな関係が崩れたのは、僕にとってあまりの難問に匙を投げそうになった時だった。
目を瞑ったままでも弾けるこの曲は、ピアニストの夢を諦められなかったときに弾き続けたものだ。
激しくも切ないこの曲は、僕にすべての感情を忘れさせてくれる。
だからあの時も弾いて、弾いて、弾いて。
叶わない夢にしがみつく僕に呆れた母親が、家のピアノを処分してしまうまで弾き続けたのだ。
そして今。
どうしようもない感情に突き動かされるがままにこの曲を弾く。
この忘れられた音楽室で、僕のピアノを愉しそうに聞いてくれたあの人は……もういない。
ユーレイさんが消えてから、季節が少しだけ移り変わった。
まだ夏の残滓で汗ばむ日もあるけど、ふわりと吹く風には確かに秋の気配が含まれていた。
最後の音を弾き終え、余韻が長く引き伸ばされる。
どこまでも続くように思えた音は、さらりと空気に溶けて消えた。
まるで……あの日のユーレイさんみたいに。
鍵盤に頭をあずけ、目の前の白に指を落とす。
ポーンと鳴った音はただ虚しいだけだ。
「……はぁ……。勉強しよ」
ピアノの前から離れ、テキストと筆記用具、ノートを広げた机へと向かう。
そのまま一心不乱に問題を解く。
現実から逃げ出すようにテキストへとのめり込む。
何も見ないように。何も聞かないように。
「……っ!」
差し掛かった問題は、ユーレイさんに解き方を教わったことのある問題の類題だった。
ユーレイさんの半透明の指が式を指し示す。
もう二度と訪れないその瞬間を思い出して浮かび上がる感情は、喪失。
ユーレイさんの成仏を素直に喜べない自分に嫌気がさす。
だけど……。
確かに僕はあの人に惹かれていたんだと思う。
事故に遭うまでずっとずっとピアノ一筋だった僕には、誰かを好きになった経験がない。
ピアノだけが好きで、ピアノに触れていられる時間が至福で、ピアノだけが僕のすべてだった。
だから事故でまともにピアノを弾けなくなった時、あれほどまでに絶望し、埋めることのできない喪失感に包まれたのだ。
「……そういえば、どうして僕、この高校に決めたんだっけ?」
ユーレイさんを思い出す問題を解くのを諦め、シャーペンから手を離す。
そして思い出すのは、この高校を選んだ経緯。
事故に遭うまで僕は音楽科のある高校に進学するつもりだった。
もちろん周囲もそのつもりで。なんなら推薦だって決まっていた。
だけど、唐突にその道は絶たれる。
ピアノを満足に弾けない人間を受け入れてくれるほど、その学校は甘くはなかった。
だからこそ、ギリギリの時期に進学する高校を選ぶことになったんだけど……。
もちろん音楽科のある高校の受験内容と、普通科の高校の受験内容は異なっていて。
別に勉強をサボっていたわけじゃないけど、ピアノの練習に時間をとられていたのも事実で。
平均的だった成績を何とかするために僕は図書館に通っていたのだ。
……家に居続けるには、僕をピアニストにしようとしていた母親との空気が居た堪れなさ過ぎたから。
「なんだっけ……? 確か図書館で……」
あの頃の僕は、同情じみた視線を向ける同じ中学の生徒に会いたくなくて、少し離れた図書館に通っていた。
当たり前だが知り合いに会うこともないその場所は、僕に心の安寧をもたらすとともに、少しだけ困ったこともあった。
問題に躓いた時に頼れる相手がいなかったのだ。
だから、わからない問題は後で教師に質問しようと残しておいて、他の問題をどんどん解き進めていくスタイルだったわけなんだけど……。
「……あぁ、そうだ。あの人が……この高校の生徒だったんだ……」
思い出すのは、一度だけ会った親切な高校生。
大学受験を控えてると言っていた彼もまた、図書館の自習室の常連だった。
夏休み中通っていれば、ある程度顔見知りもできるわけで。
もちろん私語厳禁の自習室で言葉を交わすことはなく、視線が合えば会釈だけする関係だった。
そんな関係が崩れたのは、僕にとってあまりの難問に匙を投げそうになった時だった。



