ベンチから少し歩いたところだった。
俺は、隣をすれ違った人を見て、思わず声を漏らした。
「あっ」
声に反応して、その人がこちらを見る。
目が合うと、自然と挨拶が口から出た。
「おはようございます」
「……おはよう」
海里さんは驚いたように立ち止まる。
まさかこんなところで会うと、思ってもみなかった。
海里さんの視線が、俺のTシャツに向く。
「海の家の……」
「あっ、そうです」
Tシャツには、宣伝も兼ねて前後とも店名が載っている。
「買い出し?それ重そうだね」
海里さんが飲み物が入った袋を指差す。
「買い出しです。ちょっと重いですね」
「手伝うよ」
「え、いや、大丈夫ですよ」
「目的地が一緒だから、気にしないで」
そう言うと、海里さんは俺の手から、重そうな袋をひょいと取った。
あまりにも自然な流れだったので、俺はポカンとしてしまった。
すぐにハッとして、慌てて海里さんのあとを追いかける。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
海里さんは俺の隣を歩きながら、重そうな袋を軽々と持っている。
本来なら、海里さんのほうが足も長いし、歩く速さだって俺よりずっと速いはずだ。
少し前までは、ほんのわずかに先を歩いていた。
それなのに、気づけば俺に合わせるように歩く速さを緩めてくれている。
さりげない優しさに胸の奥がふっと温かくなった。
それにしても、なんで一人でいるんだろう。
「あの」
「ん?」
「悠人さんと翔さんは?」
てっきり、二人と一緒に来るものだと思っていた。
悠人さんも翔さんも海の家に行くと言っていたから。
「二人はもう先に行ってるよ。俺はトイレ行ってたからさ。二人と知り合いなの?」
「えっ……」
海里さんの言葉に、思わず足を止める。
すると、海里さんも同じように立ち止まった。
「どうしたの?」
その反応に、嫌な予感がした。
だって、昨日は海里さんも一緒にいた。
悠人さんや翔さんと一緒に、俺と話をしていた。
それなのに、「二人《《と》》知り合いなの?」なんて聞かれると、まるで海里さんは違うみたいに聞こえる。
なんなら、俺が一番話していたのは海里さんだった。
どうして今さら、そんなことを聞くんだろう。
「……昨日、会って」
「へー、そうなんだね」
まるで他人事のように話す海里さん。
その姿を見て、胸の奥がざわついた。
「俺は昼過ぎから合流したんだよね。その前に知り合ったの?」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。
……どうやら、俺のことを覚えていないみたいだ。
俺は昔から人見知りで、初対面はもちろん、何度か会ったことのある人とも、なかなかうまく話せない。
聞かれたことに「うん」とか「はい」と答えるだけで、会話が途切れてしまうことも多い。
そんな俺が、初対面だった海里さんとは、驚くほど自然に話すことができた。
昨日の時間は、俺にとって忘れられないものだった。
連絡先を交換したことも、今朝、海里さんからメッセージが届いて、やり取りをしたことも嬉しかった。
普段、あまり人と連絡を取らない俺にとって、誰かとこうして連絡を取り合うことは、少し特別なことだった。
今日また海里さんに会えることも、楽しみにしていた。
だからこそ、俺のことを覚えていないと分かったことが、思っていた以上にショックだった。
きっと海里さんにとっては、知り合った人と連絡を取り合うことなんて、特別なことではないのだろう。
そう考えると、会えることを楽しみにしていた自分が、なんだか恥ずかしくなった。
胸の奥に、静かな寂しさが残る。
そんな気持ちを抱えたまま歩いていると、隣の海里さんに声を掛けられた。
「ねえ」
「はい」
「伊吹ちゃんって知ってる?」
「……えっ」
「伊吹ちゃんっていう女の子」
予想もしていなかった言葉に、何を言われたのか一瞬分からなかった。
女の子?
頭の中で、その言葉を繰り返す。
意味を理解した瞬間、思わず勢いよく海里さんを見る。
「海の家でアルバイトしてるって聞いたんだけど」
「女の子……」
海の家でアルバイトをしている、伊吹って名前の女の子なんていたか?
……いないよな。
そもそも、伊吹なんて名前の人は俺くらいだ。
だとしたら、やっぱり海里さんが言っているのは、俺のこと……だよな。
久しぶりに、性別を間違えられたのかもしれない。
昔は、女の子と間違えられることもあった。
でも、身長が伸び始めてからは、そう間違えられることもほとんどなくなっていた。
そう思ったところで、ふと疑問が浮かんだ。
今の海里さんも、俺を男だと認識している。
だったら、どうして昨日の俺を女の子だと思ったんだ?
頭の中が混乱して、落ち着かない感覚だけが広がっていった。
そのとき、ふと――昨日のことを思い出した。
そういえば、海里さんはタオルを頭から被っていた。
薄くて風通しのよさそうなタオルだったから、俺の顔も普通に見えているものだと思っていた。
でも、もしかしたら、思っていたほど透けていなかったのかもしれない。
それなら、俺の顔がはっきり見えていなかったとしても不思議じゃない。
杏奈は女の子にしては声が低いほうで、俺は男にしては声が高いほうだ。
しかも、俺は「ちゃん」付けで呼ばれていた。
……もしかして、それで勘違いしたのか?
そう考えてみる。
けれど、やっぱり腑に落ちない。
そんなことだけで、女の子だと思うものなのか。
考えれば考えるほど、よく分からなくなってくる。
結局答えは出なくて、俺は首を傾げた。
海里さんは、まだ不思議そうに俺を見ている。
このままでは話が進まない気がして、俺は自分から口を開いた。
「あの……」
「ん?」
「俺、伊吹です」
「え?」
「みんなからはいぶちゃんかいぶって呼ばれてます」
「……ほんとに、伊吹ちゃん?」
「はい」
海里さんは、驚いたように俺の顔を見つめた。
何度か瞬きをする。
それから、少し間を置いて口を開いた。
「男?」
「そうですけど……」
海里さんが、さらに目を見開いた。
さっきよりも明らかに大きな驚きだった。
しばらく何かを確かめるように俺の顔を見つめてから、海里さんは小さく呟いた。
「……ごめん、女の子だと勘違いしてた」
その表情には、どこか戸惑いが浮かんでいる。
それを見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
……なんで、そんな顔するんだ。
まるで、俺が男だったことを残念に思っているような気がした。
その瞬間、心の奥にしまっていた昔の記憶が、ふいに蘇った。
親戚が集まった日のことだ。
俺は自分の部屋で寝ていて、ふと目を覚ました。
喉が渇いて、水を飲もうと部屋を出る。
リビングへ向かい、ドアを開けようとした、そのときだった。
「愛理ちゃん、かわいいわね」
「そうなの。一番可愛くて仕方がないわ」
「女の子が欲しいって、ずっと言ってたものね」
中から聞こえてきた声に、俺はドアを開ける手を止めた。
「そうなの。伊吹が男の子だと分かったときは、ちょっとがっかりしてたんだよね」
母さんの声だった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
俺は音を立てないように、そっと自分の部屋へ戻った。
母さんが女の子を欲しがっていたなんて、このとき初めて知った。
もちろん、母さんが俺を大切に思ってくれていることは分かっている。
それでも、あの話を聞いてから、自分が生まれたときのことが気になるようになった。
あるとき、ふと思い立って昔の写真を見返した。
俺が生まれた直後に撮った家族写真。
そこには、俺を抱きながら笑っている母さんが写っていた。
ちゃんと嬉しそうに笑っている。
でも、涙は流していなかった。
一方、愛理が生まれたときの写真には、涙を流しながら愛理を抱いている母さんが写っていた。
同じように子どもを抱いているのに、その表情が違って見えた。
その写真を見たとき、俺は思った。
……俺が生まれたときより、愛理が生まれたときのほうが、ずっと嬉しかったんだって。
そう感じてしまったことが、寂しかった。
それからだろうか。
女の子と間違えられることが嫌になったのは。
「俺、男なんだけど」
間違えられるたび、そんなふうに強く言い返すようになった。
ただ、当時は、それがどうしてこんなに嫌なのか、自分でも分かっていなかった。
男なのに、女の子扱いされることが嫌なんだ。
ずっと、そう思っていた。
でも、今になって考えてみれば、それだけじゃなかったのかもしれない。
男だと分かって、相手に残念そうな顔をされること。
それが、怖かったのかもしれない。
――伊吹が男の子だと分かったときは、ちょっとがっかりしてたんだよね。
母さんにとっては、何気ない一言だったのだろう。
でも、その言葉は、俺が思っていた以上に心に引っかかってたんだ。
だから、女の子と間違えられるたびに、知らないうちにあの日のことを思い出していたのかもしれない。
だから、あんなに嫌だったのか……。
今になって、ようやく分かった。
胸の奥に小さく疼く痛みを、俺はそっと押し込めた。
これ以上考えても、仕方がない。
そう自分に言い聞かせて、俺は海里さんと並んで歩き出した。
何を話せばいいのか分からず、口を開くことができない。
海里さんも何か話そうとしているようだったけれど、結局、言葉を口にすることはなかった。
まあ、海の家まではそう遠くない。
無理に話さなくてもいいか。
そう思っているうちに、俺たちはそのまま海の家へ着いた。
俺は、隣をすれ違った人を見て、思わず声を漏らした。
「あっ」
声に反応して、その人がこちらを見る。
目が合うと、自然と挨拶が口から出た。
「おはようございます」
「……おはよう」
海里さんは驚いたように立ち止まる。
まさかこんなところで会うと、思ってもみなかった。
海里さんの視線が、俺のTシャツに向く。
「海の家の……」
「あっ、そうです」
Tシャツには、宣伝も兼ねて前後とも店名が載っている。
「買い出し?それ重そうだね」
海里さんが飲み物が入った袋を指差す。
「買い出しです。ちょっと重いですね」
「手伝うよ」
「え、いや、大丈夫ですよ」
「目的地が一緒だから、気にしないで」
そう言うと、海里さんは俺の手から、重そうな袋をひょいと取った。
あまりにも自然な流れだったので、俺はポカンとしてしまった。
すぐにハッとして、慌てて海里さんのあとを追いかける。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
海里さんは俺の隣を歩きながら、重そうな袋を軽々と持っている。
本来なら、海里さんのほうが足も長いし、歩く速さだって俺よりずっと速いはずだ。
少し前までは、ほんのわずかに先を歩いていた。
それなのに、気づけば俺に合わせるように歩く速さを緩めてくれている。
さりげない優しさに胸の奥がふっと温かくなった。
それにしても、なんで一人でいるんだろう。
「あの」
「ん?」
「悠人さんと翔さんは?」
てっきり、二人と一緒に来るものだと思っていた。
悠人さんも翔さんも海の家に行くと言っていたから。
「二人はもう先に行ってるよ。俺はトイレ行ってたからさ。二人と知り合いなの?」
「えっ……」
海里さんの言葉に、思わず足を止める。
すると、海里さんも同じように立ち止まった。
「どうしたの?」
その反応に、嫌な予感がした。
だって、昨日は海里さんも一緒にいた。
悠人さんや翔さんと一緒に、俺と話をしていた。
それなのに、「二人《《と》》知り合いなの?」なんて聞かれると、まるで海里さんは違うみたいに聞こえる。
なんなら、俺が一番話していたのは海里さんだった。
どうして今さら、そんなことを聞くんだろう。
「……昨日、会って」
「へー、そうなんだね」
まるで他人事のように話す海里さん。
その姿を見て、胸の奥がざわついた。
「俺は昼過ぎから合流したんだよね。その前に知り合ったの?」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。
……どうやら、俺のことを覚えていないみたいだ。
俺は昔から人見知りで、初対面はもちろん、何度か会ったことのある人とも、なかなかうまく話せない。
聞かれたことに「うん」とか「はい」と答えるだけで、会話が途切れてしまうことも多い。
そんな俺が、初対面だった海里さんとは、驚くほど自然に話すことができた。
昨日の時間は、俺にとって忘れられないものだった。
連絡先を交換したことも、今朝、海里さんからメッセージが届いて、やり取りをしたことも嬉しかった。
普段、あまり人と連絡を取らない俺にとって、誰かとこうして連絡を取り合うことは、少し特別なことだった。
今日また海里さんに会えることも、楽しみにしていた。
だからこそ、俺のことを覚えていないと分かったことが、思っていた以上にショックだった。
きっと海里さんにとっては、知り合った人と連絡を取り合うことなんて、特別なことではないのだろう。
そう考えると、会えることを楽しみにしていた自分が、なんだか恥ずかしくなった。
胸の奥に、静かな寂しさが残る。
そんな気持ちを抱えたまま歩いていると、隣の海里さんに声を掛けられた。
「ねえ」
「はい」
「伊吹ちゃんって知ってる?」
「……えっ」
「伊吹ちゃんっていう女の子」
予想もしていなかった言葉に、何を言われたのか一瞬分からなかった。
女の子?
頭の中で、その言葉を繰り返す。
意味を理解した瞬間、思わず勢いよく海里さんを見る。
「海の家でアルバイトしてるって聞いたんだけど」
「女の子……」
海の家でアルバイトをしている、伊吹って名前の女の子なんていたか?
……いないよな。
そもそも、伊吹なんて名前の人は俺くらいだ。
だとしたら、やっぱり海里さんが言っているのは、俺のこと……だよな。
久しぶりに、性別を間違えられたのかもしれない。
昔は、女の子と間違えられることもあった。
でも、身長が伸び始めてからは、そう間違えられることもほとんどなくなっていた。
そう思ったところで、ふと疑問が浮かんだ。
今の海里さんも、俺を男だと認識している。
だったら、どうして昨日の俺を女の子だと思ったんだ?
頭の中が混乱して、落ち着かない感覚だけが広がっていった。
そのとき、ふと――昨日のことを思い出した。
そういえば、海里さんはタオルを頭から被っていた。
薄くて風通しのよさそうなタオルだったから、俺の顔も普通に見えているものだと思っていた。
でも、もしかしたら、思っていたほど透けていなかったのかもしれない。
それなら、俺の顔がはっきり見えていなかったとしても不思議じゃない。
杏奈は女の子にしては声が低いほうで、俺は男にしては声が高いほうだ。
しかも、俺は「ちゃん」付けで呼ばれていた。
……もしかして、それで勘違いしたのか?
そう考えてみる。
けれど、やっぱり腑に落ちない。
そんなことだけで、女の子だと思うものなのか。
考えれば考えるほど、よく分からなくなってくる。
結局答えは出なくて、俺は首を傾げた。
海里さんは、まだ不思議そうに俺を見ている。
このままでは話が進まない気がして、俺は自分から口を開いた。
「あの……」
「ん?」
「俺、伊吹です」
「え?」
「みんなからはいぶちゃんかいぶって呼ばれてます」
「……ほんとに、伊吹ちゃん?」
「はい」
海里さんは、驚いたように俺の顔を見つめた。
何度か瞬きをする。
それから、少し間を置いて口を開いた。
「男?」
「そうですけど……」
海里さんが、さらに目を見開いた。
さっきよりも明らかに大きな驚きだった。
しばらく何かを確かめるように俺の顔を見つめてから、海里さんは小さく呟いた。
「……ごめん、女の子だと勘違いしてた」
その表情には、どこか戸惑いが浮かんでいる。
それを見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
……なんで、そんな顔するんだ。
まるで、俺が男だったことを残念に思っているような気がした。
その瞬間、心の奥にしまっていた昔の記憶が、ふいに蘇った。
親戚が集まった日のことだ。
俺は自分の部屋で寝ていて、ふと目を覚ました。
喉が渇いて、水を飲もうと部屋を出る。
リビングへ向かい、ドアを開けようとした、そのときだった。
「愛理ちゃん、かわいいわね」
「そうなの。一番可愛くて仕方がないわ」
「女の子が欲しいって、ずっと言ってたものね」
中から聞こえてきた声に、俺はドアを開ける手を止めた。
「そうなの。伊吹が男の子だと分かったときは、ちょっとがっかりしてたんだよね」
母さんの声だった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
俺は音を立てないように、そっと自分の部屋へ戻った。
母さんが女の子を欲しがっていたなんて、このとき初めて知った。
もちろん、母さんが俺を大切に思ってくれていることは分かっている。
それでも、あの話を聞いてから、自分が生まれたときのことが気になるようになった。
あるとき、ふと思い立って昔の写真を見返した。
俺が生まれた直後に撮った家族写真。
そこには、俺を抱きながら笑っている母さんが写っていた。
ちゃんと嬉しそうに笑っている。
でも、涙は流していなかった。
一方、愛理が生まれたときの写真には、涙を流しながら愛理を抱いている母さんが写っていた。
同じように子どもを抱いているのに、その表情が違って見えた。
その写真を見たとき、俺は思った。
……俺が生まれたときより、愛理が生まれたときのほうが、ずっと嬉しかったんだって。
そう感じてしまったことが、寂しかった。
それからだろうか。
女の子と間違えられることが嫌になったのは。
「俺、男なんだけど」
間違えられるたび、そんなふうに強く言い返すようになった。
ただ、当時は、それがどうしてこんなに嫌なのか、自分でも分かっていなかった。
男なのに、女の子扱いされることが嫌なんだ。
ずっと、そう思っていた。
でも、今になって考えてみれば、それだけじゃなかったのかもしれない。
男だと分かって、相手に残念そうな顔をされること。
それが、怖かったのかもしれない。
――伊吹が男の子だと分かったときは、ちょっとがっかりしてたんだよね。
母さんにとっては、何気ない一言だったのだろう。
でも、その言葉は、俺が思っていた以上に心に引っかかってたんだ。
だから、女の子と間違えられるたびに、知らないうちにあの日のことを思い出していたのかもしれない。
だから、あんなに嫌だったのか……。
今になって、ようやく分かった。
胸の奥に小さく疼く痛みを、俺はそっと押し込めた。
これ以上考えても、仕方がない。
そう自分に言い聞かせて、俺は海里さんと並んで歩き出した。
何を話せばいいのか分からず、口を開くことができない。
海里さんも何か話そうとしているようだったけれど、結局、言葉を口にすることはなかった。
まあ、海の家まではそう遠くない。
無理に話さなくてもいいか。
そう思っているうちに、俺たちはそのまま海の家へ着いた。
