ゾウのおなかに一等星


 チョータの親は屑だ。
 俺の場合、父親がクズだっただけで、母親はまともでしっかりしててバリバリ働いている。
 生活や学校に必要な物も揃えてくれるし、お小遣いも必要と判断すれば出してくれる。
 でもチョータの両親は違った。

 チョータの母親は、チョータが五歳になるころに男を作って出て行った。チョータの父親のクズっぷりに呆れたのもあるだろうけれど、母親自身も頭の悪いクズだった。
 そっからチョータの父親はさらにクズ度を増して、子供に暴力を振るようなクソクズになった。

 俺がチョータと初めて会った日も、チョータは父親に根性焼きと言ってタバコの火を腕につけられていた。
 俺は俺で、あの日はちょっとばかり機嫌が悪かった。絵を描いているところを母親が見て嫌な顔をしたから。
 だからサインペンを握りしめて家を飛び出して、たった五分のところにある公園に駆け込んだ。
 秘密基地と呼んでいた、ゾウの形の大きな滑り台のお腹の中に潜って――そしてそこにチョータがいた。
 お互い涙にぬれた顔で、ぽかんと見つめ合った。
 一拍の沈黙の後、俺は言った。

「だれ?」
「かしもと、ともひろ。お前は?」
「よしいおうた、りょくしょうの五年」
「俺は、はらだいの六年」

 公園の向こうからは隣の原野台小学校だ。俺が通っていたのは緑戸小学校。通りで通学団でも見たことがない顔だと思った。
 自己紹介し合って、なんとなく場所を譲ってもらって並んで座ったゾウの腹の中。
 濡れた顔を相手に隠して拭う。もうばっちり見られてたけど。
 ちょっと気まずかった、でもその場を離れることができなかった。
 知らない相手。だけれど一人でいるのは嫌で、泣いている相手が気になって。
 ぐるぐると回転する頭の中、先に口を開いたのは俺だった。

「それ、痛い?」

 ちらりと見えたチョータの腕を指さす。赤いポツポツが暗い中でもしっかり見えた。
 ぐっとチョータが右腕を握りしめる。

「痛くねえ」

 それが強がりだと、ガキの俺にも分かった。でも眉を寄せて、潤んだ目でゾウの腹を睨むチョータにそれ以上は言えなかった。

「お前は?」
「え?」
「どうして……」

 言いよどむチョータ。「どうして泣いていたのか」なのか「どうしてここに来たのか」は分からないけれど、理由を求められて俺はサインペンを握りしめて答えた。

「絵を、描くと、母さんが困るけど、でも、止められなくて」

 宿題をしていてふと気が付くとノートの端に絵を描いている。猫とか、犬とか、テレビで見た鳥だとか、通学路で見た花とか。
 でもその日は、もっと大きな絵を描きたかった。もっと、自分の想像する世界を広げてみたかった。
 手に取ったのは油性ペン。家の中で見つけた一番大きな紙。今となっては、あれが母親の未練だったのだと分かる、一冊のスケッチブック。
 そこに俺は思いつく限りの絵を描いた。母親が、仕事から帰ってきたことに気づかないくらい夢中になって。
 母親の驚いた顔。それからぐにゃりと歪んだ顔。衝撃の理由はなんだったのか、今もまだ聞いて確かめてはいない。
 いつまでも自分が取っていた父親だった屑の痕跡? それを子供にぐちゃぐちゃにされたこと? あるいは、子供の中に確実に流れる屑の血?
 子供だった俺は、それが「絵を描いた自分への怒り」だと思った。だから母親から逃げた。

「絵が、好きなんだ?」
「うん」

 今よりももうちょっと素直だった俺は即答した。

「すげえなぁ。俺、くそ下手だもん」
「そうなの?」

 こくんと頷いて、チョータは「それ」と言って俺の握っていたペンを指さした。
「これ?」と首を傾げる。

「かして。なんか描いてやる」

 おずおずと差し出したそれをひったくるようにして手にして、チョータはきゅぽっと蓋を外した。
 それからいきなり俺の手の甲に何かを描きだした。

「え!? ちょ、やめ」
「あー、動くなよ。曲がっちまったじゃん」

 今思いかえして本当に失礼な奴だ。初対面の相手の手に油性ペンで絵を描くか?
 でもその強引さがあったから、今の俺たちに繋がったんだと思う。
 チョータはドン引きの俺に臆することなく、黒くてぐにゃぐにゃした生物を俺の手の甲に描いた。

「……ブタ?」
「なんでだよ。どう見たってウサギだろ。こっちが耳で、これが足」
「ブタの尻尾かと思った」

 足なのか。くりんって曲がってるブタの尻尾かと思った。
 唖然とする俺に、ぶすっとした顔でチョータが文句を言う。

「オータが動くから。それに皮膚の上って描きにくい」
「勝手に俺の手に描くからだろ。それに紙に描いても下手なのは変わらねえよ」
「だったらやってみろよ」

 ずいっと手が差し出された。ポツポツと赤い痕が残る腕を。
 チョータはその時すっかり忘れていたんだ。その腕に残った火傷のことを。
 何も考えず、利き腕を差し出した。

「分かった」

 俺はペンをチョータの手から奪い取って、その腕をつかんだ。
 どうせだったらでっかい絵を描いてやる。そんな気持ちだった。
 あの時のチョータの腕にあった火傷のあとは三つ。手首近くと、腕の真ん中と、二の腕のちょっと下。
 俺はそれがなんなのか分からなかった。でもチョータが隠したがっていたのは気づいてた。
 だったらいっそのこと――分からないようにすればいい。そう思った。

「え? おい、オータ」
「動くなって」

 二の腕の火傷近くにペンをあてて描きだす。
 一番星みたいに輝かせて、次の火傷の周りにはぎらつく爬虫類の目。
 ドラゴンが火を吹いている姿。手首付近の火傷はドラゴンの鍵爪と、握りしめる一等星。
 今思い出しても、傑作だった。
 絵が出来上がった時、チョータは手をかざして腕を見上げた。それから突如ゾウの腹の中から飛び出した。

「おい!」

 街灯の灯りの下にチョータはいた。
 呆然と、手を上にかざして。

「すげぇ」

 一言、呟いた。
 それからへらりと笑った。
 そして、泣いた。
 ぽろぽろと涙を流しながら、片手を空に向けたままで。
 何度も、何度も、「すげぇ」、「格好いい」って言いながら。
 俺はぐっとサインペンを握りしめた。

「ははっ、なんでお前まで泣いてんの」
「知らねえよ。うつったんだろ」
「うつるかよ、バーカ」
「んだよ、バーカ」

 いつの間にか俺も泣いていた。自分の絵を拒絶されるんじゃなくて、本心からの称賛をもらえたことが嬉しくて。
 出会った時と同じ、涙で頬を濡らした俺たち。でもその涙の意味はまったく違っていた。
 痛みが、喜びに変わった。
 それが、俺たちの始まりだった。