ゾウのおなかに一等星


 マンションの階段を駆け下りる。
 八階建ての三階って微妙だ。エレベーターを使うほどでもないけど、疲れた時は使いたい。そんな高さ。
 母親はヒールのある靴でもガンガン上る。一度、駅までポーカーフェイスのまま突っ走っているのを目撃した。
 親ながら、なかなか怖い姿だった。
 でもそれも全部、仕事と俺のためだ。感謝している。言葉にはできないけれど。

「いい加減、思春期を卒業しろ、バカ」

 元々表情を大きく動かさず、言葉も多くない母親と、素直になれない俺とでは会話が続かない。
 嫌いではない。ただ気まずい。
 小学生の頃、絵を描くことを反対されてからは特に。

 うちの母親はシングルマザーだ。俺は、どっかのくだらない芸術家気取りの男の子供。
 まだ若い頃、母親はそいつに尽くして尽くして尽くして……そして捨てられた。ってなことを、数回連れていかれた母親の実家で聞いた。
 なんてことを子供に聞かせてんだと思うかもしれねえけれど、ま、大人なんてそんなもん。平気で本人の目の前で噂話をする。噂どころか事実だし。
 そんで、無事、子供が絵を描くのを見て嫌な顔をする母親と、絵を描くのが好きな息子の間に溝ができたってわけだ。
 今は家では絵を描かない。たまにタブレットで練習するけれど、それは全部チョータの腕に綺麗な絵を描きたいから。それ以外には必要ない。
 
「わり一、わり一、遅れた!」

 公園の色が剥げたクマに乗って揺れていると、ものすごい勢いで走ってくるデカ男の姿。
 ドサッと音を立てて学校指定鞄を地面に置き、チョータが膝に手を当てて肩で息をする。
 
「おー、土下座して謝れ」
「おうおう、過去問渡さねえぞ」
「ちっ、しゃあねえな。心の広い俺に感謝しろ」
「しねえよ」

 あっついのによく走れるな。
 玉のように浮かぶ汗に、「そんなに爆走しなくても」と言うと「待たせたら悪いから」と返ってくる。
 まったく、過保護野郎。
 ぱたぱたと制服のシャツを仰ぐチョータ。デオドラントの香りが漂ってくる。

「あっちー、喉乾いた」
「コンビニ行く?」
「んあー、今月は金欠だしなぁ」

 すっからかんだと言うチョータに、俺はスマホを左右に振ってみせる。
 チョータはシャツを仰ぐのをやめて首を傾げた。
 にやりと勝ち誇った笑みを浮かべる。
 
「親から、『お世話になってる先輩に』って金もらった」
「うわっ、さすオーマ」
「ぷっ、なんだそれ」
「さすが、オータのママ」

 略しすぎだろ、馬鹿。
 頭いいのに、馬鹿だろ。

「んで、いくら?」
「一万」

 指を立てて教える。
 ぐわっとチョータの目が開いた。怖ええよ。
 でもこの反応は予想どおりだ。

「うえっ!? まじ?」
「まじ。好きなだけ好きなもんを食いたまえ」
「まじかー、うわー、どうしよ。高いアイスにしようかな。いや、安いのを二つか?」

 眉を寄せて本気で考えだすデカ男。そんなに真剣にアイスで悩むなよ。
 さっそく俺を置いてコンビニがある方へと歩き出した。
 慌ててクマの背から降りると、クマだけがみょんっと揺れる。

「俺、あれがいい。季節限定チョコミントクッキーサンド」
「うえ、出た。歯磨き粉好き」
「あの味が分からんのはガキだろ。ポッキンアイスでも食っとけ」
「あれは永遠に推せる」
「なにがだよ」

 いつも通りの馬鹿な話題で盛り上がりながら、古いマンションの一階にあるローカルコンビニにたどり着く。
 品数は多くないけれど、新作は常にそろってる。穴場のコンビニ。

「アッイッス。アッイッス」
「アイス以外も食えよ。メシ、まだだろ」
「飯はいつでも食える。アイスは食えん」
「どんな理論だ」

 常に金欠なこいつにとって優先順位はアイスらしい。まぁ、アイスじゃお腹は膨れないからな。
 チョータがアイスのコーナーにかじりついている間に、弁当やサンドイッチの棚を見る。お、ガパオライス。美味そう。

「チョータ、これ買え、これ。んで一口分けろ」
「んあ? あー、また変なもんを」

 俺が手にしたものを見てチョータが顔をしかめる。それを鼻で笑い飛ばして、ホットスナックコーナーに移動する。夏限定旨辛チキン……体に悪そうなオレンジ色の衣。美味そう。

「チョー」
「辛いのはやだ」
「くそ」

 名前を呼ぼうとした途中で、先手を打たれた。ホットスナックはコロッケでいいか。
 ドリンクコーナーでレモン炭酸水を指に引っかける。
 まだアイスで迷ってるチョータのところに行って、「どれ?」と尋ねる。
 無言で二つのアイスを指さされた。
 バキバキチョコの棒アイスと、小豆のもなか。結局高級なやつじゃなくて、スタンダードな味を選ぶところがチョータらしい。
 冒険して失敗するより、絶対に外さない味を選ぶんだ、こいつは。

「両方買えよ。一万あるんだぞ」
「ん……んー」

 まだ悩むんかよ。

「んじゃ、俺がもなかにする」
「チョコミントは?」
「また今度買いに来る」
「おー、やっさしー」

 満面の笑みを浮かべて、チョータは奥に手を突っ込んでチョコアイスともなかを手に取る。俺はガパオライスを取ってレジに置いた。

「イラッシャイマセー、ベントー、アッタメマスカー」
「温めで。あと、コロッケ二つ」
「ハイ。コロッケフタツー」

 どこかの国の兄ちゃんが、手際よくレジを打っていくのをぼおっと眺める。
 清算途中でチョータはアイス二つと炭酸水を手にいそいそと外に出て行った。俺は温めが済んだ弁当とコロッケを持ってそれに続く。

「うわ、あっち」

 くそ、温めすぎだろ、あの店員。

「あ、俺、袋ある」

 チョータはそう言ってごそごそと鞄を漁って、どこかのノベルティだろう変なキャラ付きのマイバッグを取り出して広げる。
 その中にガパオライスとコロッケ、手拭きと箸とスプーンをどさどさと入れた。
 
「あー、アイスー、うめ一」

 さっそくチョコアイスを袋から取り出して食い始めるチョータ。
 七時過ぎ、まだ暑い。
 俺も袋からモナカを取り出して、半分に割ってからかじりつく。
 公園へ戻る道を歩きながら食べるアイスは確かに美味い。

「ん、うめ」

 俺はクマの背に乗って、チョータが隣のウサギに乗る。ギッシギッシとうるさい。

「これ、過去問。一応、他のも持ってきた」
「ざっす」

 紙の束を受け取る。赤い文字で「92」とか「96」とか書かれてる。

「うわ、秀才」
「だろ」
「謙遜なしでマイナス」
「んだとー」

 笑いながら、アイスがたれないように気を付けつつテストをざっと見ていく。範囲は大体同じだ。

「助かる。お礼に夜飯をおごってやろう」

 そう言って手にしたままだったチョータのマイバッグを押し付ける。
 予想してたのか、チョータは目を細めて「受け取ってやろう」と言った。頭が高いぞ、このデカ男。
 モナカを半分食べて、残りを袋ごとチョータに渡して手を伸ばす。すぐに手にまだ十分冷たい炭酸のペットボトルを渡された。
 チョコアイスにかぶりついたまま目で「いる?」と尋ねられて、「いらねーよ、バカ」と答える。思う存分アイスを楽しめ。
 ペットボトルを開ける。プシッという音とわずかに漏れる炭酸。
 喉を鳴らして流し込むと、小豆とバニラの甘ったるさがレモンで消される。

「ふいい」

 チョータがアイスを楽しむ間、ギッシギッシとクマを揺らしながら数学の試験問題を眺めていく。
 筆圧が強い、少し右上がりのチョータの字が並ぶ。数字の八を描く時、一筆書きじゃなくて雪だるまを書くみたいに丸を上下に並べる癖。まだ直ってなかったのか。

「あ、小豆モナカもうめえ」
「おめでとう。な、これ、なんで減点されてんの?」

 正解に見える答えが丸ではなく、三角になっている。
 チョータはそこが記憶に残ってるのか、ケッと顔を歪めて「式を一個飛ばしたから」と答えた。つまり、答えはあってるのに手順を飛ばしたせいか。んな細かいことを。

「バンノだっけ?」
「おう、クソデブ」

 チョータのことを嫌ってる教師か。同じことをやっても俺は減点されなさそうだな。どうせなら同じようなことやって問い詰めてやろうか。

「オータ、コロッケ、食わんの?」
「俺、晩飯食ってきた」
「一気に二個も食えねえよ」
「明日に取っとけ」
「こういうのは出来立てがいいのに」

 ぶつくさ言いつつコロッケを一つ食べ、ガパオライスの蓋を開ける。独特なスパイスの香りが漂ってきた。
 
「ったく、また変なもんを」
「たまにはいいだろ、たまには」

 王道の定番食ばかりのチョータに、食べなれないもんを食わせるのが好きだ。なんだかんだで食べ物を無駄にしないし。
 んで、変な顔になるのが面白い。

「ん、まぁ、悪くねえか」
「だろ」
「でもチャーハンのほうが美味い」
「殺すぞ」

 秒で返した俺に、チョータがガパオライスを頬張りながら笑う。あーあー、イケメンは頬がパンパンでもイケメンですなぁ。
 過去問を流し見して、やっぱりチョータは頭がいいんだと感じる。こいつが、大学行けたらいいのに。
 手はある。本人がそれを望めば。
 親があほで、馬鹿で、クソ野郎でも、こいつは違う。そこを抜け出すためには、進学しないと。
 
「チョータ、お前、進学しろよ」
「無理」
「無理じゃねえだろ。奨学金とかある」
「調べた。でも親の同意がいるものばっかりだ」
「親がいないやつ用のもあるだろ」
「……俺は、さっさと自立したい。十八になって、もうちょっとまともな仕事に就けたら、金稼いであの家を出て」

 その先が続かない。
 家を出ることだけが、チョータの望みだから。
 小六の時、できたばかりの根性焼きの痕を押さえて泣いてた時から変わらない。
 だったら一回家を出て、そこから先を考えさせればいい。頭がいいチョータのことだ。時間ができてじっくり考えれば、どうするべきかをすぐ見つけるはず。

「分かった」
「あ?」

 頷いた俺に、チョータはぼんやりとした顔を上げた。湿気たツラしてんじゃねえよ、バーカ。

「あ、一口寄こせ、一口」

 全部食われそうになる寸前でチョータを止める。俺が選んだんだぞ。

「仕方がねぇな。優しい俺を敬え」
「へーへー、出資者を敬え」
「オーママだな」
「確かに」

 チョータの差し出すスプーンにかぶりつく。

「んー……チャーハンのが美味い」
「だろ!」

 チョータがドヤ顔をした。