「よ」
「よ」
暗くなり始めた公園のブランコに、明らかにサイズ感のおかしい男が座っている。
一回家に帰ったのか、オーバーサイズのTシャツにボタニカル柄のハーフパンツ、足元はビーサン。髪の毛はかろうじて黒だけれど、四方八方に跳ねている。まったくもってブランコが似合わない。
こんな奴が昼間の公園でブランコに陣取ってたら、小学生が泣いて逃げる。完全に通報案件だ。
「これ、追加で買ってきた」
「サンキュ。助かる」
差し出されたのは十色マーカーのセットと、今回使いたかった金色のマーカー。
受け取って、手にしていたトートバッグの中に突っ込む。
画材類は俺の家には置いておけないから、いつもはチョータのところに置いている。
ちなみに、チョータは朝大のあだ名。二人そろってチョータ・オータです。ハイッ! なんてお笑いの紹介じゃねえんだから。
「最近バイトで汗かくし、シャワーも増えるから落ちやすいんだわ。どうにかなんねえ?」
「こんなもん、二週間もてばいいって前から言ってんじゃん」
「えー、せっかくオータに綺麗に描いてもらってんのにさ、もったいないじゃぁん」
「可愛くないから」
唇を尖らせるチョータのデコをマーカーの先っちょでゴスッと突いて、首をくいっと後ろに振って移動するぞと促す。
ジャリジャリと砂を踏み鳴らしながらチョータが俺の後をついてくる。相変わらずデカイ。日本人高校生平均身長の俺が虚しくなる。
「あ、砂、入った」
「ビーさんで公園なんてくっから」
「スニーカー、暑くね?」
「……暑い」
「ほら」
カカカと笑うチョータと共にたどりついたのはさびれたスナック。
裏手に回って、勝手口から中に入る。
「ヨーコちゃーん、上借りるー」
店の中に向かって叫ぶと、どぎつい紫のアイシャドーを塗った昭和時代中期産まれの姉ちゃんがカウンターの中から振り返った。
「あんたら、茶は?」
「おごり?」
チョータが俺の後ろからひょっこり顔を出して尋ねる。
ヨーコちゃんは、鼻ではんっと笑って「ビールケース片すならね」と言う。労働で払えということだ。
毎度のことだから俺とチョータでビールケースを勝手口の外に出して、軽く手を洗ってから原価三十円くらいの水だし麦茶の入った茶渋がつきまくりのボトルを手にして二階に上がる。
店の中から「あんな若い子食ってんの、ヨーコちゃん」、「ああん!? 追い出すぞ」、「うわ、怖い怖い」とか馬鹿な会話が聞こえる。さすがにヨーコさんに迫られたら二人で全力で逃げるから。
「あっちー、外よりあちー」
トートバッグをじっとりと微妙に湿気った畳の上に落として、窓を開ける。
チョータがスイッチを入れた首振り扇風機が、カタカタという音を立てて回り始めた。温い風がかき回されてじっとりと肌を撫でていく。こりゃ、終わるまで気温は下がらないだろうな。
「はい、オータ」
「さんきゅ」
昭和のキャラが描かれたプラスチックのコップを渡される。薄くて味がギリギリついている麦茶だ。
一気飲みをするとさらに喉が渇いた気分になる。
ぷはっと息を吐いて、壁際に座ったチョータの前に俺も腰を下ろした。
「ほら、腕、出しな」
「ん」
持ってきたトートバッグを雑に漁って、アルコール除菌のウェッティを取り出す。
そしてそれで差し出されたチョータの右腕を丁寧に拭いていく。チョータが言う通り、二週間前に描いた洋画のワンシーンは全て消えていた。
代わりにチョータの腕に浮かび上がるのは、赤い点々とした丸い火傷の痕。北斗七星にも似た並びのそれらを、ゆっくりと優しく拭う。
「オータ、前髪、じゃまじゃない?」
「ああ、クリップがそこに……」
「ほら」
トートバッグの中に入っていると言う前に、チョータの手が伸びてきた。
すぐに俺の視界の半分を塞ぐ長く伸びた前髪がくっと上がって、手早くねじられて、パチッとおでこの上で止められる。
明るくなった視界に、にこにこと満面の笑みなチョータの顔が映る。
なんか、嫌な予感。
「おい、どっから持ってきた? ヘアクリップ」
「学校で女子にもらった」
「チョータ、クリップいらんだろ」
ツンツン髪のチョータがどうしてクリップを? 前髪が長すぎる俺にクリップをくれようとする女子なんて一人もいないというのに。決して僻みなんかではない。
「えー、なんか、髪留めってどんなのがいいかなぁって話を振ったら押し付けられた」
「けっ」
絶対その女子、チョータ狙いだろ。んで、チョータの腕に絵を描いていると思われる、彼女らしき存在に牽制でもしようとしたんだろうな。くっそキモイ。
おあいにく様、彼女でもなんでもねえ俺が使わせていただきますよ。ケーッだ!
「ピンクのリボン付き髪留め、似合ってるよ?」
「うるせえ。金魚にフン描くぞ」
「あ、それはやめて」
ごめんごめんと笑いながら言うチョータを鼻で笑い飛ばし、畳の上に昨日描いておいたデッサンを置く。
手の甲から肘の少し上まで。鍛えられた筋肉の陰影も考慮に入れて、金魚二匹を並べたつもりだ。
「これで、いい?」
「ん」
俺に右腕を差し出し、左足の上に肘を立ててチョータは頷く。いつもの体勢。
サインペンでまずは下書きをする。チョータの皮膚に残る赤と白の混ざった火傷痕は、金魚の目や鱗の一部になる。
「ふっ、くすぐった」
「動くなって」
「マジ、これだけは慣れねぇ」
下書きのペンは細いし、だいたいの縁取りで優しく線を引くからか、いつもチョータはここで悶えるように体を動かす。もういい加減慣れろよ。
くふくふと頬を左ひじにくっつけて、くすぐったいのを我慢するチョータ。でっかい男が身悶える姿。まったくもって萌えねえぞ。
「今回は日本画風」
「影絵っぽいの?」
「んー、どっちかっていうと、浮世絵みたいな」
「ふーん」
違いが分かってんのか分かってないのか。俺が睨むと「オータの絵を見たら分かる」と言う。それなら、まぁ……いいか。
「オータ、中間テストの勉強してる?」
「ぼちぼち」
「過去問いる?」
「去年とは教科担任、違うだろ」
チョータは俺の一個上だ。かぶってる教師はいたかと顔をあげると、チョータはスマホを操作して去年の教師の名前を読み上げ始めた。
「あ、現代文と物理は一緒だわ」
「おけ。今度渡す」
「二週間後じゃ遅くね?」
「んー、じゃ、明後日はどう?」
「り」
「”了解しました。ありがとうございます。朝大様”は?」
下書きを終えて、サインペンを持ち変える。
チョータを見上げて、口角を思いっきり微笑みの形にしたままキュポンッと音を立てて油性ペンの蓋を開ける。
チョータがわずかに身を引いた。野生の勘が何か危険だと悟ったのだろう。
「あー、うん。お礼はいらない」
「そ?」
「おう」
俺は心が広いからなとか呟いている。だったら最初からそう言えばいいのだ。アホめ。
とはいえチョータはこんなナリして、意外に成績はいい。
本当はタトゥーもどきを腕に描いてなきゃ、もっと先生たちからの評価も上がるだろうに。でも、チョータはそれを嫌がるから。
俺もきっぱりと辞めるとはいえずに、高校に入ってもずるずると続けている。
俺が小学校五年、チョータが六年だったころから。
輪郭を大体書き終えたら、中に色を散らしていく。鱗の線はこの後足していく。
グラデーションの一部に、ところどころパターンの違う色を入れる。
「おお、綺麗」
「だろ」
バランスを見るために、チョータの手を握りぐるんと腕を回す。
軽く掴んだチョータの手に力が入って俺の指を握る。
ぴくりと止まりそうになった手を、無心で動かす。
チョータの手は、ごつい。引っ越しとかガススタとかの肉体労働バイトで鍛えてるから。
カフェとかやったら似合いそうなのに。ああ、でもこんな変なタトゥーもどきが入ってたら面接で落ちるか。多様性とか言われても、日本人にはやたら厳しいもんな。
「オータ」
「あん?」
一匹目の色付けが終わって、二匹目に入る。
湿度の高い部屋に、油性ペンの独特の匂いが混ざって頭がくらくらする。
茶を飲もうと顔を上げれば、チョータがやたら真面目な顔でこっちを見ていた。
「……なに」
横目で見ながら薄い麦茶を飲む。息を吸うと複雑な匂いをため込んだ空気が肺に流れる。
古いイグサ、スナックの客が吸う紙と電子タバコ、外から入ってくる飲み屋街独特の空気、油性ペン、自分のTシャツの柔軟剤、それとチョータの使うデオドラント。
「オータは、県外には出ねえの?」
「……無理。母子家庭だし」
「そっか」
コップを不安定な畳の上に置いて、またペンを取る。
並んだ火傷のあとは、鱗の模様の一部になる。そうやって隠したいものを微妙な飾りつけで覆う。
全て見せるのではない。でも完全に隠すわけではない。
俺たちの関係と同様に。
「チョータは……大学は?」
「無理」
「行けよ」
「無理だろ」
はっと鼻で笑うチョータ。諦観、失望、落胆、あるいは無気力。
だったら何のために勉強してんだ。その先がないなら、頑張る必要なんてないだろ。
ぐっとチョータの手を引く。
「うおっ!?」
「ちゃんと手を前に出せ」
「出してたわ」
出せよ。もっと。手を伸ばせよ。
もっと欲張りになれよ。お前は、こんなとこで終んなよ。
そんな臭い言葉は舌に乗る前に霧散する。
言葉の代わりに、赤い肌の周りにそっと鱗の縁取りを描くだけだ。
「お前の親父、この前見た」
「どこで?」
チョータの腕がピクリと振るえる。
俺は黒ペンで線の幅を広げていきながら、なるべく無感情に聞こえるように続けた。
「パチ屋の前。気を付けろよ」
ちらりとチョータを一瞥してまた視線を落とす。
「いまさら、殴られようが根性焼きが一つ増えようが、変わらねえよ」
「変わるだろ。デザインのバランスが」
「そこかよ」
「そこだろ。絶対に増やすなよ」
「……おう」
繋いだ指先に力がこもった。
俺か、チョータか。どっちのなのか。
分かんねえ。分からなくていい。
俺たちがギリギリで生きていけるのは、そうやってギリギリの線を見極めてきたからだ。
今までも、これからも。
最後の一塗りを終え、チョータの腕を左右に回転させて塗り残しや線が曲がってないことを確かめる。
「できた」
手を放して顔を上げる。
ぱたぱたと汗をかいて湿った手を振る。
チョータは黄味がかった灯りに右手を伸ばし、自分の腕を眺めて目を細めた。
「かっけーし、きれーだな。マジもんの墨みてえ」
「ホンモンはもっと色が落ち着いてるだろ」
こんなやたら金色や銀色は入ってないはずだ。
俺の台詞にチョータはにやりと口角を上げて、なぜか俺に向けて自慢げな顔をする。
「だったらホンモンよりすげーってことだな」
「またへんな奴らに絡まれんなよ」
「んー、まー、このあたりの奴らはほとんど知ってから大丈夫っしょ」
本当かよ。それはそれで大丈夫か、お前。
それは口にせずに、ペンのキャップをしっかり締めてケースに戻していく。
わずかな静寂すら許さないというように、馬鹿笑いが下のスナックから響いてくる。
「帰るか」
「おう」
チョータが麦茶とコップを手にして立ち上がり、足先でいい加減に扇風機を止める。
俺はトートバッグを拾い、防犯の意味の全くなさそうな窓を閉めて鍵をかける。
部屋の電気を消すと、薄暗闇のなか、階段だけがぽっかりと明るくなった。
急こう配の階段の前で、チョータが身をかがめる。背中の筋肉が盛り上がった。
描いてみたい。
何を?
チョータの体をなのか、それともその皮膚の上になのか。
ただ、チョータを見ているとそんな衝動に駆られる。
そこから目をそらすように、俺は階段の端に積もった埃を眺めがら一段ずつゆっくりと降りた。
